はちすばのにごりにしまぬこころもて

木月陽

はちすばのにごりにしまぬこころもて

 人間自分の名前を呼ばれると急激に意識が覚醒するものらしい。ぽわぽわとした音の連なりの中に「モリヤフユヒト」の文字列を脳が認識した途端、俺は微睡みの世界から無慈悲にぽいと弾き出された。


 はっきりして来た景色の輪郭がどぎつく眼球を刺激して、四方八方からの意味をなさないざわめきが潮騒のように耳を打つ。何となく綺麗な夢を見ていた気がしたのに惜しい事を。嗚呼、帰り来て見る浮世は何と無機質な。


「守谷冬人君。この文を書き下して」

「えっ……あっはい……」


 この文ってどの文だ。夢の国から帰国したばかりの人間にも前後の流れが判るように話して欲しい。いや悪いのは勝手に旅に出た俺なのだけれども。


「44ページ2行目、下から2文字目から」


 柔らかい風のような小さな音色が俺に天啓を告げた。窓の方からだが外からではない。窓際の席、俺の隣から吹いたそよ風だ。


「とっくに次の話に入ってるよ」


 くすり、と空気をさんざめかせ、光に透けてもなお黒い髪をはらりと肩から零す。


「蓮之出淤泥而不染、濯清漣而不妖蓮の淤泥より出でて染まらず、清漣に濯はれて妖ならず


 慌ててその口の動きに合わせて答えらしきものをもごもごと口にする。手は必死にノートと教科書をまさぐって目当てのページを探した。うるさい笑うな級友たちよ。誰だってたまにはやらかすだろうが。


「訳は?」


 どうにかこうにか間に合った。へたりと息を吐きながらその文章を声に出す。


「『蓮が水底の泥から咲き出てもその汚れに染まることなく、水面の清らかなさざ波に洗われて人にこびるところもなく、』」

「はい正解。蓮美さんサポートありがとう」


 教室のあちこちから失笑が漏れた。隣の席の助け船だけが何事もなかったような面持ちで黒板を見て、さらりと髪を耳に掛けてノートを取った。



 今は六限、教科は漢文。課題の文は『愛蓮説』。

 隣の席の女子生徒は、名を蓮美という。



 蓮美は俺の小学校の頃からの知り合いだ。狙った訳でもなく家が近く、狙った訳でもなく係が一緒で、狙った訳でもなく同じ中学に上がり(公立なので当たり前だが)、狙った訳でもなく高校まで同じで、現在狙った訳でもない同じクラスで狙った訳でもない隣席に落ち着いている。


 ――と男に語れば当分口を利いて貰えなくなるかむしろ仲良くしようやと擦り寄って来るか、その程度には蓮美は男子にモテる。ついでに言うと女子にもモテる。だが当人はそんな事は気にもしていないようで、さらさらと黒髪を揺らしながら特に誰の事も眼中に入れる事なく屋上か図書室のいずれかを目指して廊下を闊歩している。


 まさに「清漣に濯はれて妖ならず」、すなわち誰にも媚びる事が無い。


 実際蓮美は、よくもそう名付けられたもんだと感心するほど蓮らしい。


 うちの学校の漢文の授業では、扱う文章は事前に一読して書き下しと訳までやっておくのが宿題だ。授業中こそ午後の日溜まりに誘われるままあちらへ旅立ちかけたものの、俺も真面目にその予習はやっていた。


『愛蓮説』はその名の通り、蓮を愛する筆者の主張が連なる短い文章だ。曰く、蓮の茎は外が真っ直ぐ、中は空洞ですっと通り、誰かに掴まるための蔓も枝も持たず、香りは遠くまで漂い、遠くから眺める事は出来ても手を触れてすぐ近くに置く事は出来ない。そこが賢者めいていて素晴らしい、というわけだ。


 俺も、それは美しいことだろうなと思う。何とはなしに幼馴染みの顔を思い浮かべながら、胸のうちで頷いていた。


 それでも一つだけ、この文の筆者に言ってやりたいことがあった。




 終礼が終わって、帰宅部たちがわらわらと校門から散っていく。ぽんっ、ぼんっと傘を開く音が方々から響いて、梅雨明け間近の帰り道は雨だった。


 俺もまた、ぼんっ、と傘を開いて歩き出す。きらきらと雨の筋が降り注ぐ灰色の空をビニール傘越しに見上げた時、横でさらりと何かが揺れた。


「入れて」


 なんてこったい。わけもなくスキップしそうになって自制心で踏ん張った。

 すぐ横で蓮美が、にいと唇の端を吊り上げていた。


「傘は」

「忘れた!」


 昨日の夜までは記憶にあったんだけどねぇと言ってからから笑う。予報で降水確率百%だったのは承知だったそうな。


「まあ最悪誰かに入れてもらえば済むもの」

「そうかもしんねぇけど」

「そう思えば傘なんていくらでもある」

「発想」


 何というかかんというか。天上天下唯我独尊、なんか違うか。


 と言うわけでよろしくねと言いながら、彼女は平然と傘の庇護領域の右半分を占拠した。たまたま歩いていた上に傘があった、位の自然さですたすたと歩いて行く。慌てて右斜め前に傘を差し向けながら追いかけた。


 姿勢の良いすらりとした背が前を行き、歩みに合わせてさらりと揺れる髪から瑞々しい香気が零れて風に乗る。一メートルも遠くに居ないその姿は、しかしなぜか遠くにあるような気がして人の手が触れることを許さない。


 やっぱり蓮だ、と思う。

 そして同時に思う。

 しかしなあ、と。


 いつの間にか俺達の歩調は揃い、蓮美は俺のすぐ隣を歩いていた。はら、と流れた髪の間に、一瞬何かがきらりと光った。


 きらり。


 また、きらり。


「蓮美」

「ん?」

「ピアス穴開けたのか」

「へ、なんで」

「いや耳のところに」


 また光った。きらり。


 いや違う。


 耳だけではなかった。


 髪の上にはレース細工のように繊細に、半袖の腕にはブレスレットのように艶やかに、長い睫毛の先には化粧のように華やかに。


「あ」


 雨か!


 納得がいったように蓮美は手を打って、ぱんぱんと身体をはたく。細かい雫が飛び散って瞬き、大粒の雫がつうと白い首筋を伝った。


「うむ、これでよし」


 振り返り、へら、とか、ふわ、と言った感じの笑顔を俺に向ける。俺が何か言うより先に、蓮美は前を向いてまたすたすたと歩き出してしまった。


「あっ、おいもうちょっとゆっくり、」



 ――傘を傾けながら考える。


 茎の外は真っ直ぐ、中は空洞ですっと通り、誰かに掴まるための蔓も枝も持たず、香りは遠くまで漂い、遠くから眺める事は出来ても手を触れてすぐ近くに置く事は出来ない。


 それが蓮の美しさだという。


 それならどうして目の前に咲くこの「蓮」は、己の葉の上に乗った雨粒を真珠玉に変える魔術など使うのだろうか。


 すっとした姿勢で道を闊歩し、他人にしなだれかからず、遠くからでもはっと目を惹き、それでいて触れようとする者を遠ざけ、



 それなのにどうしようもなく人を捕らえて、離そうとしないのだ。



 小さい時から遊んでいた友達なので今さら見方を変えられないなんて、そんな話があるわけない。少なくとも俺には、全く当てはまらない。


 向こうはどうなのか、訊いてみたことはまだない。


 知りたいけれど。



「ありがとう」


 声でようやく、もう蓮美の家の前にいることに気が付いた。玄関の扉に手を掛けた蓮美が思い出したように、あ、そうだ、と言う。


「実は朝家を出てしばらくして、傘忘れたって気付いたんだけど」


 ちょっと上を向いて言葉を探してから、何でもないように言った。


「冬人の傘大きかったなーって思い出して、まあいいやって思ってそのまま学校行っちゃった」


 ばいばい。


 バタンと扉が閉まる。ぽかんとしてそれを見届けてから、俺は漫画のように傘を取り落として崩れ落ちた。




 古人曰く、蓮は華の君子なる者なりと。


 富で身を飾る貴人とは違うのだと。


 人をたぶらかす妖婦ではないのだと。




 

 ――嘘つけバーカ!










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