第8話:誤解
まったく。あの少女に係わったおかげで遅刻は、確実じゃないか。いくら、急いで学校へ向かったとしても間に合わないだろう。だからと言って走る事をやめるわけには、いかない。とにかく、遅刻時間をなるべく短くする事をしなければならない。遅刻時間が長くなればなるほど、生活指導の先生に説教される時間が増えてしまうのだ。それだけは、なるべく避けなくてならない。
学校の校門が見えてきた所で俺は、腕時計を見た。約30分ほどの遅刻である。
「おい! 燐! お前も遅刻かよ?」
校門の前で、そう俺に声を掛けてくる奴が居た。愛想笑いを浮かべて、そいつは、俺の方へ近付いてきた。同級生で同じクラスの真田新と言う奴だ。こいつと俺は、友達でよく遊んだりするほど仲がいい奴だ。どう言う訳か、こいつは、よく遅刻をする。別に不良ってわけでもないし、いったて真面目な学生の一人だと思う。以前、よく遅刻する理由を聞いた事があったが彼は、何も語ってくれなかった。
「新……。ああ、ちょっとな。こんな時もあるだろう」
俺がそう言うと新は、訝しげな表情を向けた。ただ、その目の焦点は、俺の顔を飛び越えてその後ろを見ているようだった。
「なあ、燐。そりゃさ、遅刻する理由なんて色々だと思うけどさ。それは、……拙いだろう?」
「新!?……訳わかんねぇよ!」
俺がそう叫んで、新の意味不明な言葉に抗議する。その時、制服をクイクイと引っ張るような感覚に俺は、後ろに振り返った。
「……」
いや、なんと言うか……声が出なかったね。人は、極限の驚きを体験すると声が出ないものなんだと、この時初めて実感したのだ。
「まだ、答えを聞いて無いぞ!! 提供するのか? しないのか?」
俺の制服を掴んだまま、その少女は、そう言ってのけたのだ。
どこで間違えてしまったのだろうか。もう、引き返せないのだろうか。いや、本心は引き返したいのだ。だってさ、街中で出会ったちょっとおかしな美少女がおかしな事を言って俺を追いかけて来たんだ。そりゃさ、美少女に追いかけられるなんて、悪い気はしないさ。だが、それは、もっとまともな出会いで、もっとまともな会話が出来る奴に限る。
「いやいや、俺さぁ、燐の事、誤解してたよ! まさか、早朝から、そんな美女をナンパしてたなんて……そんな奴だったんだなぁ」
新は、そう言って俺の両肩を軽くパンパンと叩く。
「待て! 新、これは……その誤解だ!」
「誤解? そんな美少女をはべらして言ったって、説得力に欠けるよなぁ」
「うっ」
新は、あからさまに俺がそうだと決め付けてやがる。誤解を解くのは、大変そうだ。説得力がないもわかる。全ての元凶が俺の後ろで、呆けた顔を向けて存在しているからだ。
「新、俺今日は、授業休むわ! 担任によろしく言っておいてくれよ」
「おい! 燐!?」
俺は、少女の手を取って走り出した。新の声を聞きながら、俺は、そう言う行動を取ってしまったのだ。
「どこへ、行くんだ?」
「いいから、黙ってついて来い!」
走り出したものの……何処へ向かえばいいのだ。いや、もう走りだしたのだ。既に俺の心の中には、うっすらとその目的地を思い描いていたはずだ。思い出せ。こんな状況で一番……妥当な選択をしなければならない。一番……効率的で俺自身に被害が及ばない選択を。
そう、これは、自分の身に降りかかった厄介事だと思った。だがこの時は、まだ人生に岐路に立たされた厄介事だとは、微塵も思って居なかった。だから、俺は、この少女を誰かに押し付けてしまえば、それで解決する問題だとその時は、結論を出したのだ。俺は、少女を連れて自分の家に戻って来ていた。家の玄関先で「はあ……はあ……」と乱れた息を整える。少女は、あれだけ走ったと言うのに息の乱れさえ見せない。ただ、不思議そうに俺の顔を見ていた。俺は、少女の手を握ったまま玄関の扉を開き中へと進んだ。
「母さん?」
その一言の俺の叫びで、部屋の奥からそそくさとやって来る中年の女性。そう、この人が俺の母だ。中年であるが脂肪がない痩せ型のおばさん。誰が見ても俺の母は、そう写るだろう。
「燐!? どうしたの? あんた、まだ学校に行ってなかったの?」
母は、あくまで優しい口調でそう言った。
「いや、行くよ。一寸、母さんに頼みたい事があってさ」
「え? 何? 頼みたい事って?」
母は、少し驚いた様子で嬉しそうに言った。俺は、めったに母に頼みごとなんてしない。なるべく親に頼らないで生きていく事が俺のモットーだ。そんな俺が久しぶりに頼みごとをするのだから、母は、嬉しいのだろう。先程から、笑みが絶えない。俺の直ぐ後ろで控えていた少女は、少し怪訝な表情で母の姿を眺めていた。
「おい。この者は、何だ? 先程から、笑みを浮かべて気味が悪いぞ!」
よりによって俺の母を気味が悪いとぬかすその少女に少し怒りを覚えたがその感情を押し殺して俺は、静かに口を開いた。
「いいか? あれは、俺の母だ。お前は、ここで大人しくしていろ!」
俺は、そう言うと少女を母の前に連れて行き、母の右手と少女の右手を取りお互いのを握手させた。
「ちょっと! 燐? この子は、誰? 何?」
母は、突然の事で驚いた様子で俺と少女の姿を交互に見比べた。
「あは、悪い! 母さん、後は、頼んだ!」
俺は、そう叫んでその場から、逃げ出した。そう、逃げ出したのだ。面倒な事は、全て母に押し付けて逃げ出した。これが俺の考えてた最も効率的でリスクの少ない解決法だった。母に任せておけば、何とかなるだろう。あんな訳わかんない少女だから、母は、直ぐに警察にでも連れて行くだろう。そうだ……それが一番の解決策だ。
俺は、今の現状が理解できなかった。どうして……こんな事になるんだ。こんなはずじゃ無かった。いまいち、この現実が信じられなかったし、受け入れがたいものがあった。
「どうして、お前が夕飯を食べているんだ?」
そう、俺が学校から帰って来ると、台所であの少女が夕飯を食べていたのだ。母さんは、この少女を警察に連れて行かなかったのか。
「燐、お帰りなさい。どうしたの? この子は、貴方が連れてきたんじゃないの」
流し台で食器を洗っていた母が振り返りそう言った。
「たしかに連れてきたのは、俺だけど。そう言つもりじゃなかったんだ!」
「じゃあ、どう言うつもりだったの?」
と、母は、困ったような顔をした。
「……」
「それより、燐の代わりに私がこの子の話を聞いてあげましたよ」
母は、少し拗ねたような表情で俺を見る。
「それで……母さんは、どうするつもりなんだ?」
「もう、決めました! 決めましたよ! この子は、記憶を無くして混乱してるみたいね。自分の名前さえ思い出せないそうよ。可哀想でしょ?」
どうやら、母は、少女の狂言をそう解釈したらしい。
「それでね。燐、この子をしばらく預かろうと思うの。預かるなんて変な言い方だけど、せめて記憶が戻るまでこの家に居てもらうつもりでいるの」
母は、そう言ってニッコリと微笑んだ。ああ……なんて事だろう。俺は、めまい似た感覚に陥った。こんな素性の知らない少女を暮らす事になるなんて……。しかもだ……わかわかんない電波系ときてる。俺は、母のこの性格を計算に入れる事を忘れていたらしい。よく考えてみると、母は、困っている人をほっておけないタイプの人間だった。今時珍しい、自ら不幸を背負い込むような性格なのだ。そうだった。この母のお人よしとも言える性格を計算に入れるのを忘れていたのだ。
「ああ、そうそう。燐! この子の名前……あすかって呼んであげてね。母さんが付けたのよ。名前が無いと不便でしょ?」
母は、とても嬉しそうにテーブルに料理を載せた食器を並べ始めた。テーブル一杯に手料理が並べ終わると
「燐! なにやってるの? 貴方も席に付きなさい。料理が冷めてしまうわ」
呆然と今までの日常が崩れていくさまを眺めていた俺に母は、そう急かす。その少女の前の席で静かに、黙々と食事をしてる父の方へ俺は、顔を向けた。
「父さんは、それでいいのか?」
「母さんが決めた事だ。母さんが良いと言うなら、異論は、ない」
父は、そう静かな口調で言った。父も相変らずだ。何時も父は、母の決めた事に異論を唱えない。つまり、母の言いなりである。尻にひかれると言った感じでは、ないが……母のやる事、なす事、概ね肯定的な態度なのだ。俺は、一度も父が母の意見に反対するを見た事がない。
「もう無駄だって! お兄ちゃん? 母さんが一度言い出したら、もう聞かないの解ってるよね?」
父の横の席で夕飯を食べてる妹の茜がそう言って笑みを浮かべた。2歳年下の妹。中学3年生の妹は、反抗期よろしく、物分りの良い親には、反抗したりしないが、この所やたらと兄である俺に反抗的だ。
「茜は、嬉しいかな。お姉ちゃん、欲しかったんだ」
「お前……こいつがどんな奴か解って言ってるのか?」
俺がアスカと母が名付けた少女を指差して言うと茜は、ムッとした表情を浮かべた。
「ひっどーい。お兄ちゃんこそ、あすかさんの事解ってないよ!」
茜は、そう言うとプイと横に顔をそらす。それが茜の機嫌が悪い時の癖みたいなもの。こうなったら、一週間ぐらい口を聞いてくれないのだ。そして、俺は、仕方なしにアスカの隣の席に座る。目の前に並べられた夕飯のコロッケを眺めて、俺は、ため息をついた。ふと、隣を見れば、アスカは、黙々と食事をしている。さっきの俺の騒ぎたてた事もそしらぬ顔で食事をつづけてるのだ。図々しさもここまでくれば、何だか腹が立ってきた。俺は、アスカの目の前にあるまだ手が着けられてないコロッケの皿をひょいと掴み取った。
「お前……アンドロイドだって言ってたよな? それが本当なら、食事の必要性は、何処にあるんだ?」
そう言うとアスカは、俺の方へ振り向き、ムッとした表情を浮かべた。
「それは、私のエネルギー元だ! 返せ!」
アスカは、俺の手からコロッケを取り戻そうと手を伸ばしてくる。それを、俺は、かわしながら、様子をみる。
「もう! お兄ちゃん! そんな事したら、あすかさんが可哀想じゃん! そんな事するなら、お兄ちゃんのコロッケ頂き!!」
茜は、俺の隙を突いて、俺の皿からコロッケを一つ奪い去った。
「うっ……俺のコロッケ……」
これは、拙い。これでは、俺の夕食は、全て茜の胃袋の中だ。近頃、茜は、育ち盛りだと言って良く食べるのだ。俺は、渋々コロッケの皿をアスカに返す事にした。
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