第3話 『』

「ぐあああああ!」


村の中を劈く一徹の苦痛の叫び。やがて痛みを堪えるように響かせた強烈な歯軋りの音に紛れて、黒髪に白のメッシュが入った痩せぎすの軍人、泥濘蓮が影の存在しない地面から浮上した。


(クソッ! コイツ、影に干渉する能力じゃねえ!)


「どうだ? 希望という蜜でブレンドされた特大の絶望の味はァ?」


喜悦に歪んだ蓮の表情を流し目で見たのち、一徹は吐き捨てるように言葉を紡いだ。


「星一つもやれねえほどに最悪の一言だ。影を操るってのはハッタリだったか! ・・・・・・ぐぅ!」


(少し考えればわかることだろうが! 影を操るだけなら影に潜ることは出来ない。ファンタジーに囚われすぎたな、クソッ!)


一徹の右腕に突き刺さったバタフライナイフが大量の血液と共に抜かれていく。筆舌に尽くしがたい激痛を伴って、彼はたった一つの武器を手に入れた。


「星?」


その間、蓮は一徹が発した一言に首を傾げてしていた。


「こっちの話だ」


蓮の問いを一蹴したのち、左手に血塗れのナイフを握った。既に一徹の利き腕である右腕はまともに動きそうにない。

それは出血多量故ではなく


「そうか。さて———」


地面から伸びる泥が、固まった粘土のように右腕を固定しているためである。


「———尋問の時間だ」


こめかみに印字された堕落の文字が歪むことなく、真剣そのものの表情を向ける蓮に、一徹はこれまでの言動から組み立てた彼の印象と現在の彼とで猛烈な食い違いを感じていた。


「お前はなぜ実の父親を殺した?」


「直接死体を見てない癖に・・・・・・断定するのが早いんじゃねえの?」


「断定できる証拠がお前にあるからな」


「血か」


「いや、現場に残留していた"活象かっしょう"だ」


(活象?)


「知っての通り活象とは、人体に流れるエネルギーだ。それは"活象術かっしょうじゅつ"を意図的に扱える連中、"象師しょうし"が戦う上で必要不可欠なエネルギーであり、なにより———」


言葉を区切った蓮はおもむろに自身のこめかみ、つまり"堕落"と小さく印字された文字に触れた。


「"象印《しょういん》"使いが能力の使用をする際に必ず消費されるエネルギーでもある」


「ッ!!」


それを理解したとき、一徹は無意識のうちに足を一歩引いていた。必然的に右腕を包む土塊が奇怪な音を立てて彼を引き止める。


(有り得ねえ話だが、俺にもし・・・・・・奴の言う活象が宿っていたら)


「気づいてももう遅い。消費された活象はこの世界に残留する。そして、各々の活象には特徴として色が違うというものがある」


一歩踏み込み、焦げ茶色のオーラ・・・・・・蓮の活象が体を纏う。


(俺は自分を・・・・・・自分という存在を)


「中には性質そのものが違う活象も存在すると聞くが、お前がその例に分類していたとしても関係ない」


二歩踏み込み、蓮の活象が地面に伝播し、土が水のような柔軟性を持った。


(確立できるのか?)


「お前は不意打ちとはいえ、軍人を殴ったんだ・・・・・・油断する理由がない」


「来るな」


三歩踏み込み、一徹の足元が波のように蠢き、足を捕えた。


「くっ!」


「それに、これは仕事だ。さっきまでの遊びとはわけが違う」


「近づくんじゃねえ!」


四歩、五歩で足を止め、蓮は一徹の前に立つ。


「諦めろ」


「はあ・・・・・・はあ!」


その時には既に一徹は恐怖に呑まれていた。自分を信じることが出来なくなるということは、彼の中にある思考、彼が起こす行動、彼に宿っていた筈の信念を貫くことが出来なくなることが目に見えていた。


故に、浅葱馬一徹は恐怖する。


「まずい・・・・・・まずい・・・・・・」


自身を疑うことを。自分自身の人生を妥協することを恐怖する。


「随分と脆い精神力だな。そんなに怖いか? この俺が」


その瞬間、彼は怒りに呑まれた。


「誰が・・・・・・テメェなんかを———!」


「怖えヤツはみんなそう言うんだよ。お前のような信念の無えヤツが恐怖に抗うことなんて出来るわけねえだろ」


見逃すわけには行かなかった。自分自身の全てに疑惑を持ちながら、これまでの自分が確かに抱いていた自尊心までを否定された一徹に、この怒りを呑み込む術はなかった。


「うるッせぇ!」


四肢を完全に捕えられた一徹にできる唯一の攻撃手段、上体を下げるという一瞬の溜めを作って彼は、思考を捨てるように頭部を目の前の敵に打ちつけた。


「最後の抵抗は済んだか?」


「なにッ!?」


一徹渾身の一撃を、蓮はまるで微風を受けるような爽やかな表情で受け止めていた。

それどころか・・・・・・


「痛ッ!」


打ちつけた筈の頭部を引き離した一徹の額からは血が流れていた。


「活象無しに俺がやれると思ったか? 舐めるのも大概にしやがれよ、クソガキ」


傷一つない蓮の頭部は焦げ茶色の活象が覆っていた。


(活象が壁になったってことか!)


それは一徹が今放った頭突きが、固い壁にヘルメット無しで頭を打ちつける行為となんら変わらないことを示していた。


(ダメだ。活象っつぅエネルギーが無い俺に、コイツは倒せない!)


「まあ、意地でも活象を出したくないってんなら・・・・・・なにがなんでも出さざるを得ない状況にするまでだ」


動揺する一徹の前で、蓮は活象を拳に集中させて見せた。蓮の拳の活象は、先刻一徹の頭突きを受けた活象とは明らかに密度が違う。その証拠に焦げ茶色の光がより濃さを増していた。


「・・・・・・クソッ」


「活象無しで受けた場合、これで最後ということになるが、何か言い残したいことはあるか?」


これをまともに受ければ死ぬ。それでも活象を知覚することが出来ていない彼にこの一撃を防ぐことは不可能。


今の一徹はまさに、蛇に睨まれた蛙と同じ。


それでも一徹は口にする。


「蛙は嫌だな」


「・・・・・・フッ!」


その一言の意味を知らない蓮は、情報を話さないという意思表示と捉えて、真っ直ぐに拳を放った。狙うは上体の中央から僅か左、つまり一徹の心臓だ。


(だから、蛙には・・・・・・ならねえ!)


その位置に到達するまで一秒とかからない僅かな間に、一徹は口にした決意を曲げないために行動する。


「フンッ!」


迫り来る拳を上から頭突きすることで軌道を逸らす。


「なッ!?」


活象無しにそれを実現させた一徹に驚愕した蓮は拳の勢いを僅かに緩めてしまった。それは動揺でも、憐れみでもなく、可能性の知覚だった。


一徹が本当に活象を使えないのならば、この拳の意味が畜生に堕ちた者の弱い者イジメと同義となってしまう。その可能性を蓮は恐れたのだ。


「ぐあああああッ!」


しかし、拳は止められない。腹で受け止めた一徹の苦しみは計り知れないものとなった。


中途半端に加減された拳は一徹に生死の狭間を行き来させ、その肉体が発した防衛反応は瞬く間に、一徹を生者の世界に引き戻した。


「がッ! ・・・・・・ごッ!」


拘束された四肢の泥が破壊された瞬間、生き残った代償と言わんばかりに、一徹の身体はボールのように跳ね続け、井戸に激突した。


「痛え」


「今の感触は、活象・・・・・・だと?」


吹っ飛ばされた一徹は、自身の身体を受け止めた頑丈な井戸を杖代わりに立ち上がる。


「生きてるな・・・・・・俺」


「活象の色が見えない! 能力持ち・・・・・・ってことはお前、象印使いか!? それならあの人が殺された理由にも納得がいく!」


「おっとと!」


蓮が口にした推測の言葉は一徹に届いていない。彼は未だ重度の目眩を引き起こし、足元は濡れた土ばかりで落ち着かない。今は井戸を支えにしていなければ倒れてしまうほどの重傷者だ。


「我・・・・・・思う、故に我・・・・・・有り」


「なにを言ってやがる?」


途切れ途切れに呟いた名も知らぬ哲学者の名言は、曲がりそうになっていた一徹の信念を一本の線に変えてみせた。


(そうだ。心はここにある)


されど、その重傷者は欠けていた何かを井戸の中に見つけた瞬間、全てに納得した。


昨日降っていたであろう雨のおかげで貯められた水。そこに流れ出た血が一滴落ちたとき、想像とは少し違う顔を写した姿が歪みを見せても一徹の心に不安は微塵もなかった。


(自分で言うのもなんだが、男前が上がったな)


水に写されたそれは、本人が知らない裂傷の痕が右の口角から右耳にかけて続いていたが、今の一徹は、その変化を驚くほど前向きに解釈した。


「やると言ったらやる」


首をゴキリと鳴らした一徹は安定した足取りで振り返った。


「ッ!!」


鋭く放たれた碧眼の眼光は、見る者に燃えるような覚悟と凍てつくような寒気を覚えさせ、僅かに口角を上げて揺れた裂傷の痕は、それだけで歴戦の軍人に固唾を呑ませた。


「口に出した一言は飲み込まねえ。それが俺だった・・・・・・そして、これからもだ」


(活象が見えていないにも関わらず感じる! ヤツの身に何が起きた!?)


「泥濘蓮」


「ッ!!」


「一回は一回だ」


「なんの話をしている?」


極めて平静に努めようとする僅かに震えた声音が発せられたとき、彼は笑わなかった。ただ、震えた声を発した蓮とは対照的に淡々と言葉を呟いた。


「お前の腹をぶん殴る」


「は?」


上体を前に倒した一徹、呆然としている蓮。


「フッ!」


踏み込むと同時に、一徹の存在を確立させた背後の井戸が彼の初動の勢いに耐えきれずに、破壊された。


「ッ!!」


目の前で停止した存在は、先刻の軍人と同じように拳を構えていた。


(感じる! ヤツの活象を感じるぞ! 見えはしないが、さっきのヘタクソに練った俺の活象術を参考にしてることはわかる!)


「喰らえ!」


(おそらく活象を知覚したのは、俺に腹を殴られる瞬間、爆発的にコイツの活象が増えるとこを肌で感じた。象印が発現したのはそのときだろう。)


苦虫を噛み潰したような表情で分析する蓮、しかし彼には押し迫る不安とは逆に確固たる自信があった。


そしてその自信を裏打ちするように、放たれた拳を前に蓮は土を操作し、二人との間に一つの壁を作り出した。


(だが、この能力の武器は隠密性に特化して攻撃力に直接的な影響は無いだろう。それに、発現したての象印使いの力に打ち破れるほど、俺の壁は甘くな———)


ボコッ!

ピキッ!

ドゴォ!


「なッ!?」


しかし、驚愕の声を漏らしたのは蓮の方だった。三重に重ねられた衝撃音の末、一徹の拳は蓮が作り出した壁を貫くだけに留まらず、止まらない勢いそのままに蓮の腹部に拳を打ちつけた。


「がッは!」

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