第2話 『堕落』

固まった鮮血を背負い、俺はドアノブに触れる。


鍵穴が存在しないドアがガチャっと開く音がした。


……俺がドアノブを回す前に


「ッ!!」


驚いて咄嗟に放った右ストレートが木製の扉を貫通し、


「うらァ!」

「ぼがァッ!」


今まさにドアを開けようとしていた主の頬に深く食い込み、有り余るパワーで殴り飛ばした。


「ドアを開けるならノックぐらいしやがれ。ビックリしたじゃねえか」


驚いたとはいえ、一徹は殴ったことを全く悪びれる様子がないまま、ドアを貫通した腕を抜きにかかる。


「こっちは一刻も早く自分の顔を確認したいってのによォ!」


ドアを貫通した腕がなかなか抜けず、遂には……


「抜けねえな。……よっと」


ドアを平行にして


「フン!」


納まるべき場所から解き放たれ、機能不全に陥ったドアを、彼は容赦なく膝蹴りで砕いた。


最早彼の積もり積もった怒りを止められる者は誰もいない。


「そんで、どちらさんだ? 生憎、俺は取り込み中だ。これから自分探しの旅に出る準備してるって最中に、誰が……なんの御用ですかッ!」


蹴り砕かれたドアの残骸を蹴り飛ばして、倒れているであろう人物に、尋問紛いの質問を乱暴に投げ掛けた。


だが……


「……居ねえ。どこだ?」


そこにドア越しに殴ったはずの人物は居なかった。外に出ると、雨でぬかるんだのだろう地面が鬱陶しいほど足に纏わりついてくる。


既に暗い屋外で目に付くのは田畑と井戸、暗くてよく見えないが、絵に描いたような田舎の村であることは容易にわかった。


静かな村にコオロギの鳴き声が鳴り響いた。その時


「やっぱ、市民ってのはクソだな!」

「ッ!?」


苛立ちが最大限に込められた怒号が、長閑な田舎の中を迸る雷のように響いた。


「守られるだけで何もしない」


弾けるようにその場を飛び退いた一徹は、背後に振り返った。


「俺たち兵士と違って、国に尽くすという高潔な精神も持たない」

「ッ!!」


しかし、確かにそこに居ると断言できるほどに、近かったはずの声の主は……そこに居なかった。


その代わりと言わんばかりに……一徹の視界を眩い光が埋め尽くした。


「ぐぉッ!」(しまった!視界が!)

「まずは、一発だ」


一徹は声の主を確かめるために可能な限り目を開けたが、視力が回復するには時間が足りなかった。


「歯ァ食い縛れや……クソ市民!」


そんな彼に突き出された拳を避けるなどできるはずもなく……


「ごォッ!」


その拳は、先刻喰らわされたパンチの腹いせと言わんばかりに、一徹の右頬を打ち抜いた。


辛うじて踏ん張ったが、相手の姿を見ようとした時、下手人は既に姿を消していた。


「痛ってぇな」


頬を抑える彼の前には、泥を被ったランプだけが残っていた。


(これで俺の視界を……!)


「チッ! ・・・・・・ラァ!」


湧き上がる苛立ちのままに、ランプを室内に蹴り飛ばす。


「ふぅ」


そうして怒りを発散した彼は一息吐いて、思考を巡らせる。


(これで癇癪持ちの自分とはおさらばだ。落ち着け、この状況は最悪死ぬ。奴は性質こそ違うが、父さんと同じ能力者。どんな原理でこんな事象を起こせるのかは知らねえが、奴の能力が万能じゃねえことぐらいはわかる。あのランプがその証明だ。奴は攻撃の瞬間、必ず姿を現す!)


冷静に分析する一方で、一徹の心中には疑問が渦巻いていた。


(なんでこんなにも冷静でいられる? 俺はただの一般人だったはずだろ? 父さんを殺しただけでここまで変われるもんなのか?仮にそうじゃなかったら俺はいったい……)


今も感じる頬の痛みも、本当に自分の感覚なのか、そんな疑惑が湧き上がり、彼の体が動きを止めた。


「案山子みてぇに突っ立ってなんのつもりだ? ……背中が、ガラ空きじゃねえかァ!」


その時、一徹の背中に鈍い痛みが走った。


「がァッ!」


(痛みはちゃんとあるんだ! この感覚は俺のもの。それこそが覆らない事実! ……のはずだ)


頭を振って動揺を振り払う一徹を尻目に、敵対者の声が暗闇の村の中でこだまする。


「冥土の土産に教えてやる。俺の名は、泥濘蓮ぬかりれん! 俺の象印の名は! 影を操る能力だ」


「なぜ能力を明かす?」


「俺は人に下に見られることが大嫌いだ。だから俺は圧倒的不利な状況の中を爽快に勝つことで、俺の存在が上であると証明する!」


泥濘蓮の声音は表情が見えなくともわかるほどに、活き活きとしていた。


「要はこの戦い、お前の存在を下と証明しない限り得は無え! お前は俺という存在をより昇華するために堕ちてくれや!」


「チッ! 五月蝿えよ。俺はお前の噛ませ犬か? 人を舐め腐りやがって……来いよ堕落。上に登ることを忘れたお前に泥を舐めさせてやるからよ!」


「吐いた唾呑み込むなよ? クソガキィ!」


(どこだ?)


室内に入った形跡も、ぬかるんだ地面の上で歩いた形跡もない。あるのは、表面が軽く削れた一部の地面のみ。


(これは恐らく、俺が殴り飛ばしたときにできた痕跡)


「知ってるか? 堕ちねえ奴ほど、堕ちた時は見応えがあるってもんだ」


(この泥濘みの上で痕跡を残さず移動することは不可能に近い。さっきからの攻撃といい、奴は影の中に潜伏できる可能性が高い)


ふと、近くの田畑に目を向ける。

麦が掻き分けられた跡は無く、表面が削れた地面の中を力強く飛び上がったような深い足跡もない。


(やるとすりゃあ……)


「希望がチラつく敗北ほど———」


空が朝焼けの光に染まってゆく。陽光がより影を明確に照らし始めたことで、一徹にとって望ましい状況が形成されていく。


(影が動いた瞬間)


「このチャンス、必ずモノにする」


心に宿った小さな決意、見え始めた希望によりそれは瞬く間に一徹を一人の戦士へと変えてゆく。


腰を落とすことで、どの方向から攻撃されても必ず反撃できる安定した体勢を作り、拳を固く握る。


1秒、5秒、或いは10秒か、このひと勝負が生死を分けることは互いの共通認識、故にあまりにも濃密な数秒が終わりを告げる時のことなどを考える余裕は・・・・・・少なくとも一徹にはあるはずもない。


ポチャンと水面が揺れ動くような音が聞こえた。

それは近辺にある井戸とは明らかに違う方角から鳴り響いた。


「喰らえ!」


背後に振り返ると共に握り拳を振り下ろす。その間、約1秒。単調な攻撃故に、今の彼が放てる最速の一撃。


それは


「ッ!! ・・・・・・痛ッ!」


地面を深く抉った。


「————人はより深く堕ちる」


そして、一徹の影の近く・・・・・・つまり、地面から浮上したその男は、痩せぎすの体躯を包む赤い軍服の胸ポケットからバタフライナイフを取り出し、一徹が放った拳に深く突き刺した。


「ぐああああ!」


「絶望になァ」


苦痛に悶える一徹の前で、泥濘蓮の表情は、こめかみに印字された堕落の文字と共に喜悦に歪んでいた。

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