象徴の印
真斗崎摩耶
アイデンティティ
第1話 『恐怖』
陽光が地平線に遮られる今日この頃、予定していた高級フレンチの約束を忘れて俺は赤い床の上で寝転がっていた。
柔らかさの欠片もない木製特有のゴツゴツとしたフローリングが、心なしかいつもよりも柔らかくなっている気がした。
こうしていると、先ほどまで自分の中に宿っていた恐怖心が徐々に消えてゆくことを肌で感じる。
母のヒステリックな声が響かないフローリング、父の怒りに駆られた暴力が向けられないフローリング。
父に従う必要がない、母に指示されることもない、両親に否定されることもない。
その数々の事実が、俺の心を再び恐怖で満たしてゆく。
そう、誰かに守られることもないんだ。
この赤い池に浸っていても、この池の外郭を担っていた肉の塊はすぐそこにあって、今まで俺を守ってくれていた存在はもういない。
なにより、事実だけ見れば俺は犯罪者だ。
治安維持に勤しむ兵士たちがこの惨状の報告書を記載するときに、どんな家庭だったかなんて細かいことまで書かないだろう。未だ犯罪率の多い”
「なるほど、狭楽の犯罪者たちはいつもこんなこと考えてんのか」
一つ一つの事件の価値が圧倒的に低い。
じゃあ、俺たちが何やっても変わらないよな?
そんな思想に染まりかけた俺自身が怖い。
まるで誰かに感情を支配されているようだ。
記憶の方にも異常がある。昨日の晩御飯が思い出せない。多分、この光景を見ていたら吐き気が込み上げてくるものを食べていたはずだ。肉?そんな高価なものを、高級フレンチの前日に食べていたのか?いや、有り得ないだろ。
まず第一、高級フレンチってどんな料理だ?
「わからねえことが多すぎる」
どうやって俺は、親父とお袋を殺した?
ぴちゃぴちゃとなる血液で彩ったフローリングの中で、俺は記憶の擦り合わせのために立ち上がった。
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「机は鉄製、フローリングに絨毯とソファー、窓の先を見れば、数々の高層ビルがあって最上階のために50階建ての高層マンションだとわかる。」
だが、実際は木製の机に質素なフローリング、窓の先を見れば田んぼばかりの田舎だった。
「なんだこの何一つ合っていない記憶は?」
机にある筈の離婚届までなくなっている。そもそも離婚届ってなんだ?結婚に近いことはわかるが、だとすると離縁の届け出か?貴族でも離縁先への挨拶くらいしかしねえと聞く。
じゃあ、離婚届ってのはどこに届け出るものなんだ?
「やべえ、さっぱりわかんねえ」
記憶喪失というにはあまりに複雑だ。
自分の戸籍、住所、なにもかもハッキリしねえ。
「クソッ!」
思わず両の手を木製の机に叩きつけた。返ってくる感触はなく、古かったのだろうそれは容易にへし折れた。
その光景は俺に歯軋りをさせるに足る最悪の気分を齎した。
「不確かな情報だけが湧いてきやがる。だが今は調べるしかねえんだ」
ここを見るに、木造の一軒家。キッチンには電子レンジは愚か、ガスコンロすらついていない。あるのは竈門と野外活動で見たような……なんだ?今野外活動つったか俺!?
「チッ!ダメだ。家のモン調べてると知らない知識がわんさか出てきやがる」
もう手っ取り早く記憶を擦り合わせるには、両親の死体、或いはその二人が使用していた部屋を見るしかねえ。
そうすれば、知らない知識の出所もわかるはずだ。そうだ……俺はちゃんと”
でなけれりゃあ、俺はこの国の名前すら知らなかっただろう。
狭楽、狭楽、狭楽……
口にすれば治安の悪さだけが目立つ耳障りの悪い国の名前が、今の俺にとって何よりの励ましとなっていた。
「ここ……だよな?」
それを見たとき、俺の心は絶望と恐怖でいっぱいになった。
「顔が……違う」
誰だこの男は?
男の方は、無精髭が生えた筋骨隆々という言葉が似合う赤髪の男だった。人の良い笑みを浮かべたまま、首と体が切り離されている。
女の方は、顔の原型がわからなくなるまで潰されていたが、頭部からフローリングに広がる長髪は記憶していた通りの黒だ。
あまりの衝撃的な事実に、突然体を揺るがすほどの目眩が襲った。咄嗟に机があったはずの場所に手を伸ばすも、既に壊れた机が俺の体を支えることは無理なことだ。宙を掴めるはずもなく、俺の体は再び赤い池に転がった。
「ブッ!……はあ、はあ」
仰向けになると安定しない呼吸と巻き起こる頭痛に悩まされ、貧血を疑い頭に手をやってみるが、乾きかけの血が顔に張り付くばかりで一向によくならない。
「誰なんだよ」
改めて、二つの肉塊に視界を向けて思考を巡らせる。
「男の方は確実に違う。考えられるのは母さんの浮気相手か?だが、ここまで凄惨な殺人を行うに足る動機が俺にあったか?少なくとも俺は父さんに微かな憎悪を抱いていたが、親子間での些細な感情だった。それに母さんのことはそこまで悪く思っていなかったはずだ」
もう一度深く思考する。
「確かに俺は父さんを殺した。正統なる防衛でな」
母さんがヒステリックに喚き散らした後、突然父さんの右頬に刻まれた”怒”の文字は今でもよく思い出せる。
キッチンに立っていた父さんは包丁を片手にフローリングまでやってきた。そのときには既に右頬に”怒”の文字が刻まれていて、いつの間にか包丁は炎を纏っていた。包丁に纏った炎は父さんの体に害を与えることはなかったが、母さんの体を袈裟懸けに斬り裂いた瞬間、包丁に宿った炎は母さんの遺体すら残さず燃やし尽くした。燃え上がるフローリングの中、その惨状を引き起こした父さんはというと、母さんがいたはずの場所を前に立ち尽くしていた。
「その隙を突いて俺は……父さんを」
あの瞬間しかなかった。もしも次が俺だったらと考えたら体が動かずにはいられなかった。
あの場で父親を説得しようとすらせずに殺しにかかった俺は息子失格か?……あんな状況だったら誰だって
「やめよう。起きたことをグチグチ言っても仕方がない……待てよ?」
俺は再びフローリングから起き上がり、また一つ矛盾した記憶を掘り起こす。
「俺は今、記憶の中で母さんの遺体が残らなかったと思い返した」
恐る恐る視線を母親……いや、女の遺体に向けると、そこには腹が出ていない、スタイルの良い遺体があった。
「つまり、母さんすらここにいないって訳か……マジで俺の知人がどこにもいねえ」
もっと早くに気づくべきだった。
頭を抱えたまま、俺は歩き出す。
(せめて自分自身の記憶は合っていてくれ。)
鏡に映る姿が、黒髪で鋭い目付きの碧眼が瞼の内側に埋め込まれた中性的な顔立ちの男であることを願いながら、洗面所に向かった。
……が
「だぁクソッ!洗面所もねえじゃねえか!」
この家の間取りに洗面室どころか浴室の文字すら入っていなかったのだ。
「背中ベトベトで気持ち悪りぃってのに」
最早カピカピに乾いて張り付いた血を感じ取った俺は陰鬱な思いを抱えて、フローリングに繋がっている玄関へ向かった。
(近所に公園くらいはあるだろう。そこの水道水を借りよう)
知るはずのない家の中を、やけに慣れた足取りで歩く足が酷く気持ち悪かった。
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