第5話 救いようがない 後半

「大地くん?」

香澄が大地の体を揺すり声をかけるが、男たちの方を見て茫然自失としたままの大地は反応しない。

両手で大地の顔を掴み、自身の方を向かせるがその目が写すものは決して自分ではなく、香澄はこのままでは消えてしまうと感じてしまうほどの恐怖に駆られ、思わず震える右手を振り上げる。


パシン


乾いた音が響くが、すぐ周りの喧騒にかき消される。

すぐ近くにいた人以外気づく事もなく、もちろん大声で騒ぐ男たちの耳にも入らない。

「大地くん! 帰るよ!」

さっきよりも大きな声で大地に呼びかけ力強く手を掴み引っ張る。

香澄に引きづられるような形で重い足を動かす大地。数歩歩いたところでピリッとした痛みが頬に走る。空いている左手で自身の左頬を触ると遅れてジンジンとした痛みがやってくる。

ふとさっき男たちの方を見ると橋本はすでに大地の方を見ておらず、へこへこしながら男の後ろについていく後ろ姿だけが見えた。

「大地くん、前見て前。今はそれだけでいいから」

香澄は振り返らないまま握る力を強める。その香澄の暖かな手の温度と少し熱を持った自身の頬に、いつの間にか熱を失っていた手がじんわり温かくなるのを感じる。

雨なんて降っていないのに左手につたる水滴に、怒りとも、もはや悲しみともわからなくなってしまったこのやり切れない感情も流れてくれないかと願った。


2人がみんなが待つ車の元に着くと、ほとんどは解散済みで若手と中堅の数名残って立ち話をしていた。香澄がうまく言ってくれたのか大地は挨拶もそこそこに三井家の車に乗り込んだ。

車の中ではすでに3姉弟が爆睡していて、その見慣れてきた穏やかな日常にやっと深く呼吸できた。




「おい、大地。ついたぞ起きろ」

聞き慣れた俊彦の声に意識が浮上する。車に乗ってすぐ気絶するように眠っていたらしく、車を降りたら三井家に到着していた。香澄と俊彦は眠ってしまっている子供達を家に運び入れ始め、大地も車の中に残っていた荷物をまとめ、それらを持って家に向かった。


中に入ると玄関には子供たちを布団に運び終えた俊彦が心配そうな顔で大地を待っていた。

俊彦の表情から先ほどのことを香澄から聞いたのだと読み取れ、少し気まづさを感じた大地は挨拶もそこそこに横を通り抜けようとした。しかしそれを俊彦の手が阻む。

俯いていた大地の頭の上から俊彦のため息と頭を掻くような音が聞こえてくる。

「お前さ、辛い時は頼れって言ってるだろ。これは俺やっておくから今日はもう寝ろ」

大地が持ってきた荷物を半ば強引に受け取り、肩を叩く俊彦。

「大丈夫だから」

そんな俊彦の言葉に、未だ心配をかけてしまっている自分が情けなくなる。そんな自分を振り切るように、大丈夫です俺もやりますと言おうと俊彦に持って行かれた荷物を持とうとするが俊彦はそんな大地を軽くいなす。

「明日も仕事だぞ、無理すんなって」

大きな手で大地の頭をガシガシと撫でる。

「また親方に休めって言われないためにも、今日は休んどけって。な?」

そういうと奥の部屋に向かってしまう。

大地は自身の拳を強く握り、その場で頭を下げるとまっすぐ自室に向かった。


翌日早朝、俊彦の車に乗り込みいつも通り仕事に向かう。

「お前昨日寝れなかっただろ」

まっすぐ前を見て話す俊彦の声は確信を持っており、何も返すことが出来ず俯いた大地はか細い声ですみませんというしか出来ない。

「いや、謝れってことじゃなくてさ。今日無理すんなよ?って言いたいだけだからさ」

運転中であり、その視線は大地を見てはいなかったがその声には心配が滲み出ていて、大地の「はい」という返事さえ音になっていたか怪しいほど声が震えていた。


結局その日は小さなミスを連発して親方に怒鳴られ散々な1日を過ごし、今日はもう下で作業してろと現場を1人離れ素材管理などをしていると俊彦からあるものを取ってほしいと頼まれ、それを持って俊彦のいる場所まで駆け上がる。

「三井さん、持ってきました」

俊彦はありがとよと言ってそれを受けとると大地の顔を見る。

「まあ、そういう日もあるからよ。帰ったらうまいもん作って待ってるって言ってたから。まあ、なんだもう少し頑張れ、な」

俊彦の不器用な励ましに、有り難さやら気恥ずかしさやらで目頭が熱くなる。

最近は精神的にも落ち着いてきたと思ってたのに、昨日の一件からまた不安定になってたみたいだと自覚し全力で涙を引っ込める。

「ありがとうございます。楽しみです」

そう言って今日の持ち場に戻ろうとした時、何もない足元につまずき特に安全策などしていない大地は組んである足場からそのまま地面に落ちていく。

その際、焦った俊彦の顔やその他の同僚たちの顔がいやにスローモーションで見え、伸ばされた手を掴もうとするも無常にも届かない。

「大地!!!」

同僚たちの声とは他に『バカお前何やってんだよ』という涼の声が聞こえた気がした。お前のほうがバカだろと心の中で思いながら、来たる衝撃に備えて目を固く閉じる。強かに背中から地面に全身を打ちつけ流石にこれはやばいかもしれないと思ったが、来るはずの痛みが来ない。大地が意外と平気なのかもしれないと上半身を起こしたところで俊彦をはじめみんなが大地のもとに駆け寄ってくる。そして皆一様に大丈夫かと尋ねてくる。

「なんか、痛くないんで大丈」

大丈夫ですと言おうとしたところで親方の怒声が響く。

「馬鹿野郎!起き上がるんじゃねえ!救急車呼んだか?いいか、お前は絶対動くんじゃねえぞ」

親方の今まで以上の怒気に思わず肩が震える。同僚たちをかきわけ親方は大地のもとに来ると、そっと大地の体を支えながら起き上がった上半身を横たえる。

手足を触り大地に感覚はあるかと尋ね、あると答えると指を目の前に出し何本に見えると聞いてくる。痛みも感じず、血も出てないことから大地は自分が起こしてしまった事故に気まずくなり、大したことではないですよとヘラヘラ笑ってしまう。

「いいからこれは何本に見える。答えろ山崎」

そんな大地を無視して親方は再度聞いてくる。3本ですと答えると絶対に動くなよと大地に言いつけ、俊彦にも話しかけ続けて絶対眠らせるなよと言い救急車の先導すると言って何人か引き連れその場を離れていく。

残された大地と俊彦、他数名の同僚たち。

「すみません、迷惑かけて」

そう声をかけると、俊彦が極力動かさないように手を握ってくる。

「ごめんな、俺が頼み事なんてしなきゃ」

俊彦の言葉を遮るように大地は務めて明るい声を出す。

「本当に全く痛くないし、足とかの感覚もあるんです。それに俺が勝手にすっ転んだだけなんで。むしろお騒がせしてすみません!」

そんな大地の意外に元気そうな様子に、その場の緊張が和らぐ。

お前頑丈すぎだろなんて笑いが起こり場が和み、救急車もいらないんじゃないか?なんて軽口を叩き合って少し経った頃、突如大地の口から血が吐き出される。

「あれ、なんであ?本当に痛ひとかないんでう」

みんながそんな大地を見て慌て出すのを見て、本人は落ち着かせようと笑って見せる。俊彦がバカ笑っていい状況じゃねえだろと大地の手を強く握る。遠くで救急車の音が聞こえ、親方のこっちですという声が聞こえる。近くでは俊彦が悲痛な顔で大地!大地!寝るな!と呼びかけている。

「らいひょうぶれすよ。あえ?」

自分の思っている言葉が出ないことににわかに焦りが生まれる。親方に状況説明を受けたのか、隊員隊は手早く大地を救急車に乗せる。親方の固い表情と隊員たちの緊迫したやり取りから、自分の置かれた状況が芳しくないことにようやっと気付いた大地は共に乗り込んだ俊彦を見てこれだけは伝えなければと自分につけられた呼吸器を外す。それを見て親方も俊彦も止めようとする。

「みふいさん、おやああ、ふいまへん、あいあとうほざいまう」

それだけ言うと救急隊員にマスクを奪われ、強制的につけられる。

ああ、まだ言いたいことあったのに。それにうまく話せなかったな。伝わったかな。そう思い、横を見ると泣きそうな俊彦の顔と、険しい顔の親方。2人は何かをずっと話しかけてくれているがそれが大地の耳に届くことはなく、目を開いているはずなのに大地の視界はだんだんと黒で塗りつぶされていった。


ああ、本当に迷惑しかかけてないな。悔しいな。恩返ししようと思ってこれからだったのに。

まだ死にたくないよ。

あの子らたちともいっぱい約束してたのに。

今日の香澄さんのご飯なんだったんだろ。美味しいやつって言ってたのに。


『お前はまだ、こっち来んなよ。早すぎんだろバカ』


うっせえバカ涼、元はと言えばお前がさ。と言ってやろうとしたのに口が重くて動かない。

真っ黒な世界で涼の後ろ姿みたいなものを追いかけるが、手を触れようとした瞬間涼が消え完全な暗闇に飲み込まれる。

そこで大地の意識は完全になくなった。

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