最終の章 小林芳夫、最後の事件

       1

「小林君が別世界の人間だって?おいおい、エスパー、超能力者の次は宇宙人、金星人だったっけ、その次は、別世界の人間かい?パラレルワールドか、石森章太郎の漫画にあったな。よく、次から次へと奇説を思いつくもんだ。やっぱり、SF小説の読み過ぎだよ君は……」

「うん、反省してる。彼の気分を害してしまったのは事実だし……」

「ええっ?小林君が怒ったのかい?そんな、SFの話に……」

「ううん、怒ったんじゃないの。あきれ返ったのかしら?何も言わずに、部屋を出ていったのよ。まだ、帰って来ていないみたいだし……」

「心配する事ないよ。彼は子供じゃないんだ。今は夏休みだし、事務所も暇だし、ひょっとしたら、彼女とデートかもしれないぞ。確か、彼の所属している同好会、サークルかな、犯罪学研究会ってやつは、会員二名、彼と、女の子ひとりだって言ってたよ。そんな変なサークルに、男女一人ずつなら、恋人同士、とまではいかなくても、ガールフレンドに決まっているさ」

「でも、その彼女の話、今までしたことある?どんな娘(こ)か訊いたことある?ううん、嫉妬しているんじゃないのよ。逆にそんな娘さんがいるなら、うれしくはないけど、安心できる……」

「安心、って、何を心配しているんだ?」

「彼、このまま、帰って来ないんじゃないかって……。彼の世界へ帰ってしまうんじゃあないかって……」

「おいおい、小林君が『かぐや姫』だって言うのかい?月へ帰ってしまう?空想もそこまで行くと、笑うしかないよ」

「女の勘よ。特に、愛する人に対しては、女は本能で感じるものなのよ。で、小林君はわたしの前から消える、それが運命(さだめ)、そう、女の勘が囁くのよ」

「はいはい、女の勘も外れたみたいだよ。ほら、彼の靴音が聞こえてくるだろう?」

「えっ?本当?」

「いや、今、窓から見えたんだよ。彼が道路を横切ってくるのが……。そんなに嬉しそうな顔をするかい?ああぁ、嫉妬で狂いそうだよ」

 棒網探偵社の事務所の中で、中年――三十代前半――の男女がひとりの少年の話題で盛り上がっている。その話題にされている少年は、胸に布袋を抱えて階段を上ってきているところである。

「ただいま。ああ、所長もお帰りでしたか」

「ダ、ダーリンお帰りなさい。心配していたのよ、帰りが遅いから……」

「帰りが遅い?まだ、六時前ですよ。午前じゃなく、午後ですけど……」

「遅いわよ。あなたが出て行って、もう、四時間よ。何の連絡もなく、行き先も告げずに、事件が勃発していたらどうするのよ。初動捜査に支障をきたすじゃないの。探偵として失格よ。探偵の心得、常に事件発生を想定すること、解った?」

 唖然としている小林君を所長の団戸礼次は苦笑いを浮かべて眺めていた。

(こんな、可愛い少年が宇宙人とか、月の住人とか、別世界から来たなんて、何を考えているんだろう、遼子は……、いつまでもお嬢さまなんだなぁ)と、心で呟きながら……。

       *

「ところで、何処へ行っていたんだい?それと、その袋は……?」

「あっ、はい、買い物に秋葉原まで行ってきました。こういうものを揃えるために……」

 そう言って、小林君は麻の袋の中身を一つ一つテーブルの上に並べ始めた。

「カメラかい?」

「ええ、アメリカさんが使用している、軍事用の赤外線付きカメラです。暗闇でも撮影できる。それと、自動シャッター機能、これも赤外線で、動くものに反応するそうです。おまけに、自動のストロボ装置、自動フィルム撒き上げ機能付き。これで、夜間の特定の場所を遠隔操作なしに撮影できます」

「つまり、これらの装置を、どこかに設置して、そこを通る何者かを自動的に撮影する、ってことが可能なのか?」

「流石、物知り、よく理解できました」

「ああ、スパイ小説に出てきた気がするが、そこまで、技術革新が進んでいるのかい?米軍使用って、最新機器だろう?秋葉原でそんなもんが売られているのか?」

「内緒のルートがあるんですよ。横須賀基地か、横田基地の技術者がこづかい欲しさに、試作品と称して売りに来たんだそうです。この前の褒賞金があったので、少々高い値段を吹っ掛けられたんですが、値切ってきました」

 この前の褒賞金とは、五年前の幼児誘拐事件の解明に対して、オーナーである、遼子女史から出されたもの、金額は五百万円だったが、小林君は五万円しか受け取っていない。その範囲で、これほどの機能付きのカメラ一式が手に入るのだろうか?どのくらい値切ったのか、訊きたい衝動を礼次は押えていた。

「それをどこに設置するの?」

 と、遼子が尋ねた。もう、小林君が別世界へ帰ってしまうという、妄想はどこかへ飛んで行ったらしい。

「最近、痴漢の被害が出ているという場所です。そうだ、この前の旧興園寺邸にも近い、吉祥寺の公園なんですが……」

「ああ、解った。あの公園ね。駅から近道にはなるけど、夜は照明が少なくて、木々も茂っているし、危険がいっぱいよ。特に夏場になると、浮浪者も増えるし、痴漢の被害も増えているみたいね」

「なるほど、痴漢対策か、おもしろいね、暇だし、やってみるか」

「でも、痴漢が何処で起きるか解らないわよ。公衆トイレ?ベンチの木陰?公園って、結構広いのよ」

「設置場所は、公園の裏の出入口です。犯罪者は人目に触れないように、逃走する。表の方は駅からの人がかなり遅くまで行き来します。目撃される可能性が高い。犯行後に向かうのは、必ず、裏の方の出入口になります」

「そうね、そのとおりだけど、それじゃあ、現行犯にならないわよ。犯罪行為の現場撮影じゃないから……」

「現行犯は最初から無理ですよ。ですから、犯罪が起こった後、撮影された写真から怪しい人物を特定し、そこから、犯人逮捕に結びつけるんです。言うなれば、目撃者をカメラにしてもらう、ってことですね」

「そうだよ、犯罪を犯したものが、悠々とは立ち去らない。かなりおかしい態度で写っているはずだし、夜間の短い時間帯なら、人通りは少ないはずだ。かなりの確率で犯人を指摘できる」

「でも、痴漢がそんなに頻繁に起きるかしらね?フィルム現像したら、酔っ払いか浮浪者しか写ってないんじゃないかしら?」

       *

 遼子のほぼ、予想どおりだった。第一日と、第二日とに設置したカメラに写っていたのは、一回目が五人、酔っ払いが三人、浮浪者が二人。翌日のものには六人、酔っ払い四人、浮浪者一人、そして、遼子の予想に反して、若い女性の姿が一人写っていた。

「ふうん、思っていたより、よく写っているわね。後ろ姿、斜め後ろもあるけど、正面向いているものが多いわ」

 と、何枚かのプリントされた白黒写真を手にしながら、遼子が感想を述べた。

「ええ、連写が可能なんです。最初、赤外線の探知機が働いて、シャッターが下りる。同時にフラッシュの光。その光に驚いて、誰もが、そっちを向く。そこでもう一枚、シャッターが落ちるんです」

「凄い、数秒の間に、二枚の写真が撮れるんだ。これ、大量に作って売りだしたら、大儲けできるぞ」

 と、金に縁がない、礼次が言った。

「でも、分解して、どういう原理か確かめたくても、元に戻せない可能性が高いし、同じ機械を作る技術も持ち合わせてはいませんよ」

「そうか、設計図がないんだから、種子島を作るようにはいかないか……」

「種子島?鹿児島県の?」

「あら、芳夫君、大学、いえ、高校で習わなかった?鉄砲伝来、火縄銃が日本に持ち込まれた場所が種子島よ。それで、火縄銃のことを『種子島』って、呼ぶのよ」

「ああ、地名じゃなく、鉄砲のことですか、いきなりだったもので……」

「日本人は、新たなものを作るのは、西洋には負けるが、模倣すること、そして改良することは、古代から得意な民族さ。兵器も精密機械も、いや、女性の化粧だって、世界一かも、な……」

「なによ、それ、わたしが化粧で、歳を誤魔化してるって、言いたい訳?そりゃあ、お化粧はしてるわよ。愛しい、ダーリンの前だもの。ちょっと、厚めだとは思ったのよ、今日は……」

「い、いや、君の今日の化粧を言っているんじゃないよ。世間一般の……」

「ふん、言い訳は訊かないわ。礼次さん、嫉妬してるのね?最近、わたしがこのビルの空き部屋に暮らすようになったから……」

 遼子は、夫と息子を亡くした後、広い屋敷を離れ、自家所有のマンションでひとり暮らしを始めた。他にも、ビルやアパート、スーパーマーケットに土地を貸していたりと、不動産からの賃貸料だけで、充分過ぎる収入を得ていた。他にも大企業の株式を保有しており、有価証券や預貯金の配当、利息の収入があった。

 前回の事件で助手を務めることになったのを機に、マンションを出て、小林君と同じこのビルの三階の部屋を改装して、住み始めたのである。つまり、小林君と遼子は、壁ひとつ隔てた――まあ、分厚い壁であるのだが――部屋で暮らしているのだ。

「一掃のこと、壁の一部を壊して、大きなドアにしようかしら……」

 と、工事の設計者に言ったらしいが、ただでさえ古くなったビル、壁の耐震を考えても、却下されるのは当然の結果であった。

「でも、これ設置したの、深夜でしょう?確か、十一時頃から、翌朝の四時頃までだったわよね。こんな若い女性が……、痴漢が出るのよ……」

「まあ、仕事の都合で、遅くなる人があるんでしょう。確かに危険ですね。若くてきれいな人のようだから……」

「あら、きれい?ふうん、芳夫さん、わたし以外の女性にそんな関心があるの?浮気症か、考え直そうかな……」

「おいおい、遼子、それは言い過ぎだぜ。どう見てもこの写真の子は美人だ。これは、個人的な見解でなく、世間一般の標準的は反応だ。小林君が浮気症かどうかは解らんが……、いや、それより『考え直す』って、君、何を考えていたんだね?」

「決ってるじゃない、ダーリンと結婚して、わたしの全て、この身体も、心も、全財産も、捧げようと思っているのよ」

「ええっ?」

 と、男ふたりが、その答えに同時に声を上げた。しっかり、高音と低音とで、ハーモ二ーが作られていた。

「あっ、それ、考え直してください。ぼ、僕、辞退します。色々こちらにも、事情がありますから……」

「りょ、遼子、ほ、本気だったのか?」

 男ふたりは、慌てて、お互いの声を無視し、遼子に言葉を投げかけた。

「本気よ。ずっと言っているじゃない。芳夫君は龍太郎以上のわたしの理想の男性よ。歳が少し足りないだけ。でも、問題なし。あとは、あなた、ダーリンの気持ち次第よ。今は決められないというのは、解っているわ、学生だもの。でも、卒業したら、考えてね?二、三年なら待つわよ。五年間、貞操を守ったんだから……」

「そうか、遼子は見合い結婚で、学生時代も男っ気なし。恋愛経験が……」

「そうよ。わたし、男の人と恋に落ちて、苦しくて、切なくて、っていう、メロドラマの経験が『ゼロ』なの。初恋よ、この歳で……」

「麻疹(はしか)も歳をとってからだと、重症化するそうだから……」

「初恋と麻疹を一緒にしないで、でも、症状は同じかもね」

「いや、麻疹なら、医者や薬で治せるが、『お医者さまでも草津の湯でも……』の病気だぞ、これは……」


       2

「ああ、暇だなあ、こんなことなら、留守番なんて断って、ダーリンについて行ったら良かったわ。写真の現像を頼んでくるだけだからって、言ってたから、つまらないと思ったけど、その後、映画を見たり、買い物したり……、そうよ、デートにすればよかったのよ。留守は、礼次に任して……」

 ひとり言のように、ぶつぶつと呟いているのは、探偵事務所のオーナー兼助手の遼子女史である。昨晩から早朝までの第三日の写真をプリントをしに、知り合いの写真店へ礼次と小林君は出かけているのである。

「どうせまた、酔っ払いと、浮浪者しか写ってないわよ」

 と、嫌味を言った立場上、一緒に出かけるとは言えなかった遼子である。

 昨日、小林君に対する気持ちを、初恋だなんて、ちょっと、恥ずかしい表現でしたことを後悔しているのだが、却って、吹っ切れたのか、自分の気持ちに素直になろうと、思い始めている遼子だった。

 事務所のソファーで、背中を伸ばすように、両手を揃えて上に伸ばす。その時、階段を上ってくる靴音が響いてきた。

「あら、帰って来たのかしら?でも、靴音がふたつ。小林君はズックだから、あんな足音はしないし、礼次のドタ靴の音ではないわね。軽やか、そう、ハイヒールとローヒールの音かしら?わたしもピアノを習っていたから、音感は確かよ……」

 誰に言うでもなく――誰も傍にいないのだから――自らを自慢していると、事務所のドアが軽いノックの音をたてた。

「あら、お客様かしら?どうぞ、開いていますわ」

 伸ばしていた両手を慌てて元に戻しながら、ドアに向かって声を上げた。

「こんにちは」

 と、言いながら、ドアを開けて入って来たのは、その言葉――日本語――とは、不釣り合いなほどの容姿の持ち主だった。金髪、透き通るような青い瞳。そばかすの痕がある白い肌、高い鼻筋、大きな口……、歳は二十歳くらいか、金髪の髪はショートカットで、ボブ風、派手な花柄のワンピースに白いレースの肩掛けのようなカーディガンを羽織っている。どう見ても、外国人――アメリカ人――の少女である。

 その後ろにもうひとり、同年の少女が立っていた。対照的に茶系のロングヘヤーをひとつに紺色のリボンでまとめている。瞳はこちらもブラウン系だが、全体の感じは日本人である。服装も白いブラウスに黒のロングスカート。歳の割には地味な格好だが、それがよく似合っていて、美人に見える。

「どちらさま?何の御用でしょうか?」

 と、二人の少女を値踏みするようにジロジロと見つめながら、遼子女史がおずおずと切り出した。

「こちら、バーネット探偵社ですよね?」

 流石アメリカ人なのか、バーネットの発音が違う。

「漢字が読めなくて……」

 と、金髪の少女が申し訳なさそうに、言葉を繋いだ。

「は、はい、間違いなく『バーネット探偵社』です。日本人でも読めませんわ。当て字、というより、謎の文字ですから……。それより、ご用件は?何か事件?お困りのことがあるのでしょうか?」

「あっ、事件ではありません。小林君はいらっしゃいませんか?」

 ソファーに案内され腰を降ろすと、金髪の少女が、用件を切り出した。

「小林?」

 所長の礼次ではなく、この春から助手になった――しかも、アルバイトなのだ――男に何の用があるのだ。若い、加えて、可愛い女性に対して、敵愾心がムラムラと湧いてきた遼子だった。

「あっ、すみません、わたし、名前も名乗らなくて……」

 遼子の眉が上がったのを察してか、金髪の少女が低姿勢に――もともと、低姿勢だったのだが――言葉を繋いだ。

「わたし、エマ・シンプソン、こちらは、従姉のマリア、いえ、小日向毬子と言います。先日、長野の事件で、お世話になりまして……」

「長野の事件?ああ、ジェイムズ・ボンド、じゃない、ジェイムス・シンプソンさんの時計屋敷での事件ね?あなたがエマさんでそちらが、マリア、いえ、毬子さん?ええ、ええ、訊いてましたよ。で、でも、エマさん、あなた罪に問われなかったの?ご両親が、その……、犯人だったんでしょう?共犯ではなかったの?」

「ええ、わたしも共犯だったのですが、担当の刑事さんが、未成年だし、親の計画に強制的に従がわさせられただけで、逆に被害者の方だと、弁護してくれて、無罪になりました」

「そう、良かったじゃない。それで、ご両親は?」

「はい、母は殺人罪で起訴されたんですが、国際的な協定があったのか、両親は、アメリカ駐在軍に所属していましたから、国へ強制送還され、アメリカの裁判を受けるようになりました。それで、わたし、証人としてアメリカに行かなければならず、出発前に、小林君にお礼を言いたくて……」

「小林君にお礼?」

「ええ、担当の刑事さんが教えてくれたのです。わたしの罪が軽くて、いえ、無罪になったのは、小林君が担当弁護士に助言してくれたからって、刑事さんは罪を軽くすることに表立っては出来ないからって笑っていました」

「そ、そう、芳夫君がね……。まあ、あの子は優しいから……」

「はい、そうだ、あなたは、小林君のお母さま?いえ、お歳が若いから、叔母さまかしら?でも、ご親戚ですよね?よく似てらっしゃるもの……」

「似ている?わたしと芳夫君が……?」

 今まで言われたことがない。まあ、礼次以外に自分と芳夫君が並んでいる処を見た人物はいないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが……。

「ええ、顎の線とか、眼もとの優しげなところとか……、全体の雰囲気がそっくりです。初めてお会いしたから、よく解ります」

「そ、そう……、自分ではよく解らないけど……他人の空似ね、血縁関係はないはずだから……」

 遼子は頭の中で親戚筋を辿ってみる。小林姓は、遠い、遠い親戚にいたかしら?でも、あそことは血縁関係ではないわ。他には……、思い当たらない。

「残念です。ひと目でもお目にかかって、直接お礼を言いたかったんですが、時間がなくて……。これからすぐ、横田基地へ行かなければなりません。アメリカ軍の輸送機に乗せられるんです。グァム、ハワイ経由でカリフォルニアへ飛ぶそうです」

「あら、旅客機を手配してくれないの?」

「ええ、罪人の娘ですから……」

「アメリカも酷いわね。アポロ計画には大金をかけるのに……」

 つい先日、アポロ十一号が月面着陸した中継を興奮して観ていたくせに、遼子は嫌味を言ってしまった。

「くれぐれも、小林さんによろしく、感謝していたと、お伝えください」

 そう言って、短くなった金髪の頭を深々と麗子に向けて、下げるエマであった。

 エマが立ちあがり、ドアに向かう。毬子が遅れて立ち上がり、思案深げな態度を取っていた。

「どうかした?」

 と、ふたりを見送るために、ソファーから立ち上がった遼子がその様子に気づいて尋ねた。

「あのう、これを小林さんにお渡し願いますか?」

 おずおずと手提げのハンドバッグから、白地に花柄のイラストが印刷された封筒を取り出した。

「ラ、ラブレター……?」

 と、思わず言葉が出てしまう。ライバル出現、しかも、若くて、美人なのだ。エマより、毬子が芳夫君好みだと、話しながら想像していたのである。その毬子が意味深な手紙を取り出したのだ。

「いえ、違います」

 と、毬子は慌てて否定した。

「あら、違うの?残念、やっと彼に素敵な彼女誕生かと思ったのに……」

「い、いえ、そ、そう言っていただくと、とてもうれしいのですが……」

「うれしい?ってことは、やっぱり、気があるってこと?」

「は、はい、でも、わたしの勝手な気持ちですから……、義母(はは)から、小林さんの印象を訊いて、それで、お目にかかって……、ひと目惚れです。一方的な片想いです。あっ、これは内緒にお願いします。この手紙はそういうものではなくて、わたしたち――エマと本当のわたしの両親――家族のことです。父が帰ってくるかもしれません。何でも、父は北朝鮮から中国へ脱出し、その後、中国とソ連の国境紛争に巻き込まれて、負傷したようです。情報活動が出来なくなって、退役というか、強制送還なのか解りませんが、日本の基地へ帰ってくるそうです。それで、わたしもエマと一緒に横田基地へ行って、情報を頂こうと思って金沢から出てきました。小林さんにご相談したかったのですが、くれぐれも、よろしくお伝えください。いえ、わたしが、小林さんに好意を抱いていることは、絶対、内緒でお願いします」

 それでは失礼します、と言って、ドアを開いて待っているエマの方に向かって行った。

 遼子の手に、少女っぽい封筒が残った。

「ジェイムズ・ボンドの帰還か、波乱万丈だったんでしょうね。お幸せにね……」

 閉ざされたドアに向かって、遼子は呟いた。小林君を巡る、最大のライバルの幸せを祈りながら……。

       *

「ほほう、エマさんと毬子さんが来てたのか。エマさんは無罪放免、ジェイムスさんも無事ご帰還できるとは、目出度い話題ばかりだね」

 その一時間後に、プリントされた写真の入った紙袋を手に、礼次と小林君が帰って来たのだ。

「ええ、でも、何か思いつめた表情だったわ、毬子さんの方だけど……」

「お父さんの負傷が心配なんだろう。中国とソ連の国境紛争ってのは、おそらく、今年の春に起こった『珍宝島事件』のことだぜ。未だ緊張が続いているはずだ。一時は『核戦争』まで行くかって言われたくらいだから、激戦があったんだろう」

 そう解説を加えている隣で、小林君は黙って俯いている。

「ダーリンどうしたの?気分でも悪いの?」

 小林君の異変に気づいて、遼子が声を掛ける。

「だ、大丈夫です……」

 と、答えたが、大丈夫ではなさそうだ。汗が額に浮き出ている。空調の大きなファンが天井で回っているためか、室内は涼しいのだが、真夏なのだ。

「だめよ。凄い熱じゃない……」

 彼の額に手を当てて、遼子が大きな声を上げた。小林君はもう言葉を発することができず、ソファーに倒れ込んでしまった。

「救急車!」


       3

「まあ、たいしたことがなくてよかったよ」

 と、夕方遅く、事務所に帰って来た礼次が呟いた。

「たいしたことない?何、言ってるのよ、四十度近い熱があったのよ。一歩間違えたら、死んでいたわ。熱は少し下がったけど、またぶり返すって……」

「でも、単なる疲労からの発熱だそうだぜ。栄養剤を注射して、解熱剤を飲んで、あとはゆっくり睡眠をとるだけだって……、入院もしなくてよかったんだから……」

「ふん、あんな薮医者の言うこと、当てにならないわよ。救急車もどうして、あんな病院へ連れて行ったの?もっと権威のあるお医者さまに診てもらわないと……」

「君が一番近い、救急病院、って指定したんだぜ。それに、小さいけど、あそこの先生は、東大医学部出身の評判の良いお医者さんだぜ。薮どころか、名医と評判だ」

「あら、そうなの?だから注射とお薬で容態が良くなったのね。でも、安心は禁物よ。原因は『疲労』、あなたが働かせすぎよ」

「そうか?最近、暇だよ」

「何、言ってるの、長野の事件から和音の事件、全部あの子が解決したのよ。疲労蓄積、当たり前だわ。無能な上司を持つと苦労が絶えないのよね……」

「む、無能な上司?おい、あんまりだよ、これでも、元、警視庁捜査一課では……」

「はい、はい、『鬼刑事』とか、『若手のホープ』とか言われてたんでしょう?でも、小林君がいなかったら、二つの事件とも、未解決よ、特に和音の事件は……。わたし、様子を見てくる。彼の部屋、本当に殺風景よね。家財道具、全くないのよ。お布団もなくて、寝袋よ。わたしの持ってる新しい布団を持って行ったんだけど、いくら大学生っていっても、もう少しものがありそうなんだけど……」

 遼子は病院から帰ってきた小林君を階上の彼に貸している部屋へ連れて行ったのである。病院での処置のおかげで、自分で歩けるようになってはいたが、発熱は続いていて、遼子が新しい布団を敷くと、倒れこむように眠ってしまったのだ。

「もう一度様子を見てくるわ」

 そう言って、礼次を階下に残し、小林君の眠っている部屋に戻って、ベッドの横の椅子に腰を降ろした。やっと一息入れた遼子は、初めてじっくりと、彼の部屋を見回した。空き部屋だった事務所にも住居にも使用できる、絨毯を敷いた部屋には、簡易のベッド――ソファーにも使える型のもの――と、スチール製の事務机、事務所に置いてあるロッカーを一回り大きくしたようなキャビネット。そこを開けると、スポーツバッグと、ビニールの袋に丁寧にたたまれた下着類やジーンズやスポーツシャツが仕舞われていた。

 隣に簡易の台所、洗面台、そしてシャワールームとトイレがある。小型の洗濯機――これは遼子が買ってあげたもの――があり、洗面道具や、石鹸、タオルが整理されて置かれている、が、食器類は、コーヒーカップ――マグカップ――とグラスがひとつずつ、お茶碗も箸もお皿もなかった。薬缶はあるが、鍋やフライパンはない。備え付けの小さな冷蔵庫を開けると、缶ジュースや、果物の缶詰、『6P・チーズ』が二個残った丸い箱。卵や野菜や、肉類は入っていない。生活できる最小限のものにも足りないのである。

「苦学生なのかしら?お金がないのね?いえいえ、事務所のお給料はちゃんともらっているはずだし、褒賞金も――長野の事件も含めて――かなりあげたはずなのに……。そうか、実家が貧しくて、送金しているのか?それとも、将来のため、貯蓄しているのかな?わたしと結婚したら、お金は心配ないのに……。でも待って、彼の着ている、シャツ、最新のブランド品よね。VANやケンゾーだったかしら?それと、靴も何だか一流メーカーみたいだったわ。NIKE?ニケって読むのかしら?ニケって、パリの有名な美術館に飾られている、首のない女神よね、確か……、フランス製なのかな?聞いたことないメーカーだけど……」

 夜になった蛍光灯の明かりの下で、部屋を物色し終わった遼子は、簡易ベッドで寝息を立てている少年の横顔を見つめながら、ひとり言のようにつぶやいていた。

「そうだ、汗をかいたら着替えがいるわ。準備しておこう」

 キャビネットの扉を開けて、スポーツバッグの中を覘く。そこに、下着類がたたまれていて、その上に、彼がいつも使っている、茶色のバインダーが乗っかっていた。

 下着を取るために、バインダーを手に取る。

「あら、意外と重いのね」

 大きいサイズのもので、穴あきのルーズリーフ用紙が束になっているのだが、紙の重さにしては、重すぎた。

「あら、こんなものが挟んであるわ」

 と、遼子が取り上げたのは、大学ノートより一回りは小さいサイズの簡易日記帳である。かなり古いものなのか、汚れ――手垢――があり、背表紙も擦り切れていた。

「これは何かしら?ガラスの板?なんで、ノートの間にガラスがあるの?レンズではないわよね、黒いガラスだし、鏡にはなるけど、映りは悪いし……」

 彼女が見つけたのは、ルーズリーフの代わりの段ボールを切り抜いた箱状の枠に、ぴったりと収められている、黒いガラス板――のようなもの――だった。そのガラス板の周りには、プラスチック製の白い枠があり、その枠の上部には、マークなのか金色に縁どられた、小さな丸があった。反対側の下部には、もっと小さな黒い点がある。形態としては、鏡に似ているが、ハッキリと彼女の顔を映し出さなかった。

「うん、これが重たい原因か、何か解らないけど、触ってはいけない物のようね。でも、こっちの日記は気になるわね。少し見るくらいは……、許してね、ダーリン……」

       *

「何これ?ダーリンの日記じゃなくて、礼次のじゃない……」

 汚いものにでも触れたかのような、驚きの声、しかも、『礼次』と呼び捨てだ。階下で、きっとクシャミしているだろう。

「何々、『団戸礼次、事件手控』?日記じゃなくて、係わった事件の覚書か……。まあ、几帳面だから、解る気がするな。どれどれ、何が書いてあるのかな……?」

 丁寧な行書体のインクの文字が並んでいる。所々、訂正の黒い塗りつぶしや、二重線での訂正箇所があるが、読みやすい文字である。

「最初は、和音の誘拐殺人事件か……。『解決したが、わたしの中では未解決だ。共犯者がいる可能性が捨てきれない』か、うん、うん、その通りだったわね。あら、ここに、わたしが睡眠薬で自殺を図ったって書いてあるわ。その後の献身的な行動も……。そうか、ダーリンこれを読んだのか、それで、私の自殺未遂のこと知っていたんだ。謎が解けたわ」

 そしてページをめくる。長野の事件『青い眼の少女』事件の顛末が書かれている。その冒頭に、小林少年が助手になったと書かれてあった。

「『目のくりっとした、可愛い顔の好青年だ。髪の毛も今流行りの長髪でなく、スポーツマンタイプだから、好感度よし』って、全然違うじゃない。彼、小さくはないけど、くりっとなんかしてないわよ。それに、流行りの長髪だし、恰好いいわよ、ジュリーみたいよ」

 続けて、事件の内容を読み飛ばす。

「あれ?なんか結末が違うな?『ダイナマイト爆発、遺体がバラバラ』何のこと?えっ、結局、未解決?何、これ?事実と違っているじゃあない。あいつ惚けたか……?」

 次のページに進むと、『猫の置物盗難事件』と表題がある。犯人は依頼人の夫、猫の置物に嫉妬して、寝室の隣の部屋から盗み出す。密室で、鍵は彼女の枕の下にあり、合鍵はなし、鍵穴に傷もついてなく、丁寧に鍵がかかっていた。しかも、盗まれたのは、玩具のような白い猫の置物である。他に値打ちの宝石や金貨のコレクションなどは、手付かずであった。警察に連絡したが、どこかほかへ置き忘れているんでしょう、何か他に盗まれた高級品でもあれば、またご連絡ください、と言って、被害届も提出できなかった。

「まあ、これなら、犯人は身内ね、寝室で隣に寝ている夫、誰でも解るわ。警察官も解っていて、被害届を受理しなかったのよ。家庭内の問題だものね。何々、『猫の置物は舌が動く、それを使って、奥さま、あらぬ場所を舐めさせていた……』ま、まあ、大人の玩具だったの?」

 赤面する遼子だったが、興味が湧いて、次の事件簿に移る。

『××公園、婦女暴行殺害事件』と表題がある。

「あら、この公園、今、ダーリンがカメラを設置してる公園じゃない?過去にあそこで、殺人があったのね……」

 続きを読もうとしたが、小林君が、苦しそうな声を上げたので、日記をうつ伏せに閉じて、枕元に駆け寄った。

「りょ、遼子さん」

 と、うわごとを言っている。また、発熱が始まったようだ。氷枕を替えようと、枕に手を伸ばすと、いきなりその手をつかまれた。バランスを崩して、小林君の顔の上に、自分の顔が重なっていく。

「りょ、遼子さん」

 と、もう一度、目の前の唇から、自分の名前が呼ばれた。意識があるわけではない。朦朧とした中、夢でも見ているのだろう。

「夢の中でもいいわ。わたしの名を呼んでいる。ダーリン、好きよ。愛しているわ。あなたに全てを捧げるわ……」

 遼子は、目の前の唇に、自分の唇を押し当てていった。

「すごい熱、氷枕を取り換えなくちゃ」

 そういって、冷蔵庫に走る。ありったけの氷と冷水を入れた氷枕を小林君の頭の下に置いた。彼の息が荒くなっている。

「駄目だわ。このままじゃあ、死んじゃう。こうなったら、最後の手段よ」

 そう言うと、彼女は着ているものをすべて脱ぎ捨てて、生まれたばかりの状態になると、小林君の着ているパジャマもシャツもパンツも脱がして、自分の体を密着させたのだった。

「ダーリン、死なないで、わたしの命を受け取って……」


       4

「大変だ、大変だ、遼子、起きているか……?」

 どたどたと階段を駆け上がる靴音とともに、礼次の低音の声が小林君の部屋の前で響いていた。翌朝、七時すぎ、遼子は裸の体に慌てて、脱ぎ捨てていたTシャツと、スラックスを身に着けた。

「あっ、パンティ、はいてない……」

 と、気づいた時はもう遅い。礼次が勢いよく、ドアを開けてしまっていた。素早く、足で、ブラジャーとパンティをベッドの下に蹴り込んだ。

「ど、どうしたのよ、ノックもしないで、血相を変えて、病人がいるのよ」

 と、乱れた髪の毛を手櫛で整えながら、遼子が言った。

「い、いや、すまん、小林君の容態は?」

「だ、大丈夫よ。熱も下がったみたい。ぐっすり眠っているから、起こさないで、下へ行きましょう」

 小林君は生まれたままの姿で、眠っているのだ。それを気づかれないように、また、ノーパンのラインを気にしながら、遼子は礼次の背中を押して、ドアの外へ出、階段を降りて行った。

「どうしたの?大変って……?」

「これを見てくれ」

 そう言って、つけっぱなしのテレビのチャンネルをガチャガチャと回した。NHKのニュースが映し出された。

「さっき、民法のニュースで第一報を流していた。NHKで詳しくやるはずだ」

 そう言って、テレビ画面が見える位置のソファーに腰を下ろす。遼子はスラックスを気にしながら、離れた場所に腰を掛けた。

「おっ、これだ、これだ」

 と、礼次が画面を指さす。

 男のアナウンサーの音声が流れている。

「今朝未明、東京都武蔵野市の公園で女性の遺体が発見されました。遺体には首を絞められた跡、衣服にも乱れがあり、警察は、暴行殺人事件とみて、捜査を開始。目撃情報を集めているとのことです。現場付近に中継が出ていますので、カメラを切り替えます」

「これって、『××公園婦女暴行殺害事件』のことよね?」

「えっ?ああ、そういう名称がつくかもしれんな。この公園があの公園なんだよ」

「知ってるわよ。でも、同じような事件が起きたの?」

「同じような?何を言っているんだい?この公園では、痴漢騒ぎがあったが、殺人は初めてさ」

「えっ?だって、あなたの……」

 そこまで言って、遼子は言葉を止めた。おかしい、何かが狂っている、と女の勘が、警告を発していたのだ。

(あの、日記、古臭かった。黴臭かった。昨日、今日、書かれたものじゃない。でも、書かれている事件はつい最近のものも含まれている。そして、最も不思議なことは、まだ起きていない事件まで、書かれていた、いや、正式には中身を見ていないので、この事件とは確定できないけれど、読んでいたその時か、そのすぐ後に事件が発生したようにしか思えないわ。あれは予言書なの?だから、外れているところがあったのかしら?)

 遼子が心の中で、そう呟いているのを礼次は不思議そうに眺めていた。

「そうだ、カメラは?昨日の晩はカメラ設置していたの?」

「それだよ。昨日は小林君があんな状態だったし、三日連続で収穫もなかったしで、設置してないんだ。なんてことだ、こんな日に限って、事件が発生するなんて、今までの努力は何だったんだ……」

「覆水盆に返らず、後悔先に立たず、かな?さあ、事件発生よ。バーネット探偵社出動。あっ、でも、名探偵が……」

       *

「と、取敢えず着替えてくるわ。顔もすっぴんだし」

 と、パンティのことを思い出して、礼次を残したまま、階上の小林君の部屋に駆け込む。まだ眠っていることを確かめて、ベッドの下に隠した下着を手探りで取り出す。

「あら、ダーリンのパンツも出てきた。そうか、まだ、生まれたまんまの姿なのよね。気がついたら驚くわね。パンツくらいは履かせておくか……」

 男性にパンツを、しかも眠っている人間に履かせた経験は彼女にはない。

「ええっと、こっちの穴が開いているほうが前よね、おちんちんが出るほうだから……」

 人が聞いたら、赤面するような言葉を声に出している。ボクサータイプの下着をどうにかこうにか足先から、お尻のあたりまで引き上げた。その時、彼が動いた。そして、胸から腰のあたりにかけていた、薄い布団がベッドから滑り落ちた。遼子の目の前に、直立したものが飛び込んできた。

「わぁ、凄い、朝立ちしてる。ううん、また欲しくなっちゃう……」

 またまた、人に聞かれたら、とんでもないことになりそうな言葉を声に出した。

 それでもどうにか、パンツをはかせることに成功した彼女は、彼のほっぺに『チュウ』をして、部屋を後にした。そのキッスの感触と、ドアの閉まる音に、さすがに疲れている、彼も目を覚ましたのである。そして、パンツ一枚の自分の姿、しかも朝立ちしている、に驚いて、ベッドに上半身を起こしてしまった。

「もう朝か?一日寝てしまったのか?い、いけない、事件の当日に寝てしまったんだ……」

 小林君は慌ててベッドから飛び降りると、キャビネットの中のスポーツバッグを開いた。

「あれ?バインダーがない」

 服の上にあるはずのものがない。スポーツシャツとジーパンと、下着のパンツを取り出して、ベッドの方を振り返る。ベッドの脇の机の上にバインダーが閉じられた状態で置いてあった。そしてその横には、古い日記帳が、読みかけていることを表すように、ページを開いてうつぶせに置かれていたのである。

「そうだ、このトランクス、昨日履いていたやつじゃない。昨日はブリーフだったから……。そうか、遼子さんが看病してくれたんだ。それで、この日記帳を見つけた。さあて、困ったことにならなければいいんだが……」

       *

「ああ、了解、また進展があったら、教えてくれよ」

 小林君が階下の探偵事務所に降りていくと、ドアが開いたままで、遼子女史がドアの傍にいた。そして、礼次が電話の受話器を置くところだった。

「おはようございます。何かあったんですか?」

「まあ、ダーリン起きてきて大丈夫?熱は?」

「は、はい、もう平熱です。お腹がすきました……」

「そ、そうよね、昨日から何も食べていないものね。すぐにトーストとハムエッグを用意するわ。座っていて、ううん、寝ていてもいいわよ。出かける予定だったけど、用事が済んだみたいだから……」

「出かける?いったいどこへ?何かあったんですか?」

「後は礼次さんに訊いてね。食事の用意をするから……」

 そう言って、彼女は自分の住まいの上階へ帰っていった。

「ああ、小林君、気分はどうかね?大分、顔色がよくなったようだ。心配で、遼子のやつ、徹夜で看病していたようだ。あっ、何、ちょっと事件が起きてね。例の公園で痴漢どころか、殺人にまで発展した事件が昨晩、起きたんだよ。それで、昨晩は君の容態があんなだったから、カメラを設置し忘れてね、肝心な時に、面目ない。それで、事件解決に一役買おうと、出かける準備をしていたんだが、出かける前に、知り合いの刑事に確認したんだよ、事件のその後とかをね。するとどうだ、犯人は逮捕したっていうんだ。事件は解決さ」

「それって、間違いなく犯人なのですか?犯行を認めたってことですか?」

「いや、そこまでは詳しくは聞いてないけれど、その公園にたむろしている浮浪者で、婦女暴行の前科もある男だそうだ。被害者のスカートに汚れたそいつの手形が残っていてね。どうやら、酔っ払っていて、つい悪さをしたところ、叫ばれそうになって、首を絞めたらしい。状況がそうなっているから、間違いないそうだ」

「違う、その人は犯人じゃない。ああ、カメラがあったら、別の真犯人が映っていたかもしれないのに……」

「何だって?真犯人が別にいる?おいおい、まだ、事件の状況も聞いてないのに、またまた、直感ってやつかい?超能力かい?」

「詳しく話してください。直感ってやつですよ。例の猫の置物とおんなじ……」

 そこへ、遼子がトーストとハムエッグを乗せたお盆を下げてきた。

「今、テレビのニュース、やっているわよ。犯人逮捕ですって、早くつけてみて……」


       5

「被害者の名前は、田代美菜、二十四歳、K雑誌の編集者。近くのアパートにひとり暮らし、最近担当の作家の締め切りが迫っていて、毎日帰宅が遅くなっていたそうだ。容疑者は岡部達善、三十六歳、住所不定、本籍、埼玉県吉田町、二年ほど前に痴漢行為で摘発、罰金刑で終わっているようだ。おやおや、元公務員だってさ、吉田町役場の会計課だそうだ」

「じゃあ、前科のある痴漢行為の常習犯が、たまたま、帰宅が遅くなって、公園を通り抜けようとしたOLにみだらな行為をしようとして、抵抗されて、首を絞めたってこと?」

「そういう、顛末だね」

 テレビのニュースを視聴した後、もう一度、警視庁の知人に連絡し、詳細を確認した礼次が事務所のソファーに座って、遼子女史と小林君に説明をしているのである。

「事件発生は、深夜一時から一時半、発見されたのは、翌朝、五時半頃。死体は公園内の公衆便所の横にあおむけに倒れていた。衣服に乱れはあるが、性的暴行の後はないことから、襲われて、抵抗したため首を絞めたものと考えられている。死因は窒息死だそうだ。首を絞めた手形が残ってないそうだが、どうやら、女性がスカーフをしていたようだ。つまり、スカーフの上から首を絞めた、そのため手や指の跡は残っていない。ただ、そのスカーフは現場から見つかっていないそうだ。死体の発見者は、毎朝公園へ犬の散歩に来る老婦人。どうやらその飼い犬が発見したようだが、慌てて、大声を上げたら、別の散歩中の年寄りが駆け付けて、公衆電話に走ったそうだよ。警察が目撃者や不審者を捜査していたら、酔っ払って段ボールと新聞紙にくるまって寝ていた、岡部を発見。職務質問したら、女性に声を掛けたことを認めた。酔っ払っていたんで、その後の記憶がない、と言うんだ。そこで、指紋を取ってみたら、これが、女性のスカートの手形と完全に一致。即、任意同行、逮捕となったらしい」

「まあ、ありふれた事件よね、被害者の女性は気の毒だけれど、危険な場所を通るのが間違いよ」

「所長、公園で写した写真、仕舞ってますよね?ちょっと確認したいことがあります、出してくれませんか」

「何かね?事件当日は写してないよ」

 そう言いながら、立ち上がり、所長専用のデスクの引き出しから写真の入った袋を取り出してきた。

「ほら、この浮浪者が、岡部ですよね?」

 小林君が何枚かの写真をテーブルに置きながらそう言った。

「毎日のように写っている。つまり、あの公園をねぐらにしていたのは事実のようですね」

 写真は三日間写していたが、そのいずれの日にも、髭面のテレビで紹介された男の顔が写っていた。

「そして、これが被害者の田代さん」

 小林君が次にテーブルに提示したのは、二日目に写っていたOL風の若い女性の写真である。モノクロ写真なので色は解らないが、薄いスカーフが首に巻かれている。

「あっ、そうだわ、テレビの顔と同じだ。じゃあ、二日前も通っていたのね」

「ええ、遼子さんが心配していたとおりになったってことですね。そして、三日目にちょっと変わった人物が写っています」

 そう言って、彼が差し出したのは、カメラに向かって手を伸ばしている男の姿だった。

「何?このサラリーマン風の男がどうしたの?」

「これはおそらく、一枚目のフラッシュに驚いて、カメラを壊そうと近づいた時の写真です。実はそういう行為をする人間もいると考えて、カメラは公園の杭のようにカムフラージュしていました。代わりにその杭の上に玩具のカメラを設置していました。それをこの男は壊したようです」

 その一枚前の写真には、フラッシュの光を右手でさえぎっている男の姿が写っていた。その前の写真は、公園を出ていこうとする男の横からの写真だった。

「連写で二枚写真が写ったんですが、男が引き返して来て、もう一枚映し出されたと思われます。つまり、写真に写りたくなかった、ってことになりませんか?」

「やましいことがある?犯罪者なのかな?」

 と、遼子が言った。

「だ、だが、事件は翌日だぜ。関係ないだろう……?」

「はい、この場面が事件とは関係ないのは解っています。けど、この人物が、翌日もここを通ったかもしれませんよね……」

「まさか、この男が……?いや、それは飛躍しすぎだ、被害者のスカートに岡部の手の痕が残っているんだ、他の人間の仕業ではない。まさか、ふたり掛りで襲ったなんて考えていないだろうね?」

「いえ、そこまでは言っていませんよ。ただ、この男性が目撃者になる可能性はあるでしょう?」

「そうか、この公園を利用している人間だからね」

「ひとつ、この人物について、調べてみませんか?どうせ、暇だし、この公園で起きた事件だから、縁を感じませんか……?」

       *

 礼次と小林君は事件現場の公園に向かった。遼子は小林君の身体を心配したのだが、いつもと変わらぬ笑顔で、

「大丈夫です、遼子さんの看病が効いていますから……」

 と言われれば、引き留めることが出来なかった。

「でも、不思議よね、この事件がどうしてあの古ぼけた日記帳に書かれていたのか?」

 遼子はふたりを見送った後、合い鍵を使って、小林君の部屋に入って行った。だが、目当ての日記帳は小林君が持ち出したのか、見当たらなかったのである。

「留守番は飽きたわ。ちょっと調べてこよう。多分わたしの気の回しすぎ、ってことになると思うけど、確認は必要よね」

 そう言って、大きなツバのついた白いレース地の帽子を被り、事務所のビルをあとにしたのである。

 遼子が訪ねたのは、W大学の校内。その学生課の前で、ブリキの火バサミでたばこの吸い殻を拾っている、青年に声を掛けた。

「あのう、学生課はこちらでしょうか?」

 美人の問いかけに、青年は、戸惑いの表情を浮かべながら、

「そうですが、何か御用ですか?わたし、学生課のものですが……」

 と答えた。

「あのう、こちらの大学の二回生に、多分、文化系の学部だと思うのですが、小林芳夫という学生が居りますでしょうか?わたし、小林の……、お、叔母にあたるもので、このたび、東京へ出てきたついでに、下宿を訪ねようと思ったのですが、住所が解らなくて……」

「ああ、小林ヨシオ。あの犯罪学研究会の会長をしている、自称、少年探偵団の団長だった男ですね?」

「そ、そう、何かそんな同好会に所属しているとか……」

「彼なら、おそらく、図書館……、あっ、今出てきましたよ。あの、ジャイアンツの野球帽を被った男です」

 青年の視線の先、隣の建物から出てきた、野球帽を被り、Tシャツにコットンパンツ姿の少年が分厚い本を脇に挟んで歩いているのが見えた。

(えっ?小林君がここにいるはずない、しかも、髪の毛短いし、横顔も別人だわ)

 遼子はその少年を見つめながら、心の中で呟いた。

「おおい、小林団長、お客さまだぞ」

 と、学生課の青年が大きな声で、野球帽の少年を呼びとめた。

 呼ばれて少年は本を腕に抱えたまま、足早にこちらに向かってきた。

(身長は、小林君と同じくらいね。でも、太目だわ。そうだ、眼がくりっとしてるし、短髪、スポーツ刈りのようだし、可愛い顔。あの予言書のような日記帳の小林君の容姿のままだわ)

 と、遼子は、また心で呟いていた。

「おや、僕にご用の方とは、この美しいご婦人ですかな?事件のご依頼?それとも、挑戦かな?」

「叔母さ……」

 と、学生課の青年が言いかけるのを制して、

「あなたが小林芳夫さん?」

 と、遼子が尋ねた。

「はい、間違いなく、犯罪学研究同好会の会長、元、少年探偵団団長、小林ヨシオです。あっ、学生証をお見せしましょう。ここで発行している。正真正銘の学生証ですよ」

 コットンパンツの尻のポケットから取り出された学生証には、眼の前の少年のくりっとした眼が印象的な顔写真と名前が記載されている。

「あら、小林芳雄、オの字が違う……」

「何をおっしゃる。小林芳雄のオは英雄のユウですよ。間違いありません」

「いえ、わたしの探している芳夫はオットのオなの。他に小林芳夫という学生はいませんか?」

「僕の知っている限り、おりませんね。ヨシオなんて、戦前の名前ですよ。戦後生まれ、団塊の世代の我々には多くありませんね。小林姓は沢山おりますが……」

「そ、そう?じゃあ、わたし、大学を間違えたんだわ。W大ではなくて、K大だったかしら……」

「それは残念、美女からの挑戦と思ったのに……」

「挑戦?それどういう意味ですの?」

「いえ、あなたのような美貌の持ち主、以前出逢った『黒蜥蜴』を思い出したものでね」

「クロトカゲ?えっ、それって、江戸川乱歩の……?」

「そうですよ」

「じゃあ、あなたはあの、明智小五郎の助手の小林君?小林芳雄、そう確かに英雄のユウの字だったわ……」

「だから、自己紹介したではありませんか、元、少年探偵団の団長だと……」

       *

「あの子、ちょっとおかしいのね、名前が同姓同名だから、小説の中の主人公と自分を同一化しているんだわ」

 別れの挨拶もそこそこに、学生課のある建物を離れて、気を落ち着かせながら、遼子は呟いている。

「でも、あの子がW大の犯罪学研究同好会の小林ヨシオ、なら、うちにいる小林芳夫は一体、誰になるの?ああ、頭がおかしくなりそう。わたしの不安が的中したってことよね。落ちつくのよ遼子、これは現実、夢じゃない。ふたりの小林ヨシオ。どう考えても、うちにいる、夫のオの方が……、ニセモノよね……。そうよ、彼には秘密があるのよ。偽名を使って、世を忍ぶ必要がある。そうか、全学連か、もっと過激な学生運動のグループのメンバー、しかも幹部クラス。公安あたりに睨まれて、地下に潜る。資金が亡くなって、アルバイト。多分本物の小林ヨシオを知っていて、その名前を騙ったのね。うん、間違いない、辻褄が……、合うのかな……?」


       6

「あら、ダーリン帰っていたの?礼次さんは?」

 不安な気持ちを胸に探偵事務所の扉を開けると、小林君がソファーに腰を降ろして、何やら小さな機械をつついていた。

「あっ、遼子さん、何処へ行っていたんですか?留守番していると思っていたのに、いないから心配してましたよ。誘拐されたんじゃないかって……」

「まあ、そんなにわたしのこと心配になるの?うれしい、ダーリン、わたし、あなたについて行くわ。公安の眼を逃れて、ソ連へ亡命してもいいのよ」

「何のお芝居ですか?映画でも見てきたのですか?スパイもの?」

「ううん、そんなことはどうでもいいのよ。礼次さんは?それと、事件、何か進展があった?冤罪なんでしょう?岡部って浮浪者……」

「まだ、確定できません。本人が女性に手を出したことは認めているようです。殺害まで及んだのか、記憶がないそうで……。所長は、この写真の男性の身元が解りそうなので、追跡調査中です。僕も手伝いたかったのですが、無理をするなと……」

「そうよ、無理は禁物。足を使う捜査なら、礼次に任しなさい。何せ、ルパンは辞めて、メグレになったそうだから……」

「メグレ?ああ、シムノンのメグレ警部、いや、警視だったかな?」

「それより、何をしてたの?その機械は何?」

「あっ、これ?ちょっとした玩具(おもちゃ)です」

 小林君は慌てて、ポケットに仕舞い込む。

「ふうん、怪しいわね……」

「そ、それより、遼子さん、僕に隠し事があるでしょう?」

「か、隠し事?な、ないわよ、あなたに隠し事なんて……」

 あの事か、ばれていたのか……?と、遼子は思い当たることがあったのだ。

「日記帳、見ましたよね?」

「日記帳?あっ、そっち……」

「そっち?他にもあるのですか、隠し事……?」

「な、ないわよ。そう、そうね、確かに読んでたわ。隠すつもりじゃなかったのよ。読みましたって、言うつもりだったけど、事件が起きてバタバタしてたから……」

「そうですか、信用しましょう。遼子さんですから……」

「ダーリン、信用してくれるのね?愛してるわ」

「でも、中身を読んで、どう感じましたか?不思議だと思いませんでしたか?それで、今まで何処へ行っていらっしゃったんですかね?それが、あの日記帳と関係していますよね?」

「そ、それは……」

 と言いかけて、小林君と視線がぶつかった。嘘はつけないな、と思い直して、

「うん、そうなの、不安になって、あなたのことを調べたのよ」

「それで?何か解りましたか?」

「小林君、あなたが本当は何処の誰だか、そんなことは問題ないわ。あなたはあなた、わたしの大事な人よ。さっきも言ったけど、誰かに追われていて、逃亡するなら、逃亡資金は用意するわ。そして、中国でもソ連でも、南極、いいえ、地の果てまでもあなたについて行く。離れないから……」

        *

「ダーリンたら、また笑ってごまかして……」

 小林君は、遼子の告白に言葉では反応をせず。微笑みを浮かべて、立ち上がった。

「何処へ行くの?」

 と尋ねたら、疲れたので、部屋で休みます、と言って出て行ったのである。

 ひとり、事務所内に取り残されて、思わず涙が込み上げてきた。

(こんなに心配しているのに……、)

 と、恨み事を心の中で呟いていた。

 さて、小林君の方であるが、部屋に帰って、簡易ベッドに倒れ込む。

(どうやら、遼子さんは、僕が小林芳夫ではないと、解ってしまったな。おそらく、大学へ行ってたんだろう。所長なら誤魔化せただろうが、彼女は無理だったな。そこで、何を見聞きしたかは解らないが、僕のことを、過激派の学生運動家と勘違いしたらしい。まあ、彼女の想像力の範囲なら、致し方ないかな?さて、もう少し、このままでいさせてもらおう。彼女が僕の正体を所長には言わないことを祈って……)

 そう、ひとり言のようにつぶやいて、彼は仮眠に入っていった。

 少し時間がたった後、ドアがそっと開かれて、遼子が顔をのぞかせた。小林君はまどろんでいた。音をたてないように、遼子がベッドに近づいてくる。小林君の寝顔をじっと見つめ、寝息を確認している。そして、その唇に、自分の唇をそっと押しあてた。

 小林君はそれに気付いたが、眠っているふりを続けた。

「ダーリン、愛してるわ」

 涙交じりの声で、そう言って。彼女は部屋を後にした。

(まずい、彼女、本気で僕を好きになってしまった……)

 ドアが閉まる音を確かめて、眼を開き、天井に向かって呟いた。

(真実を語ろう。そして、協力を求めるしかない。その後は、辛い別れになるかもしれないけれど……、ああ、僕自身が彼女のことを……、愛してしまったんだ……)

       *

「遼子さん、話があるんですが……」

 意を決して、小林君は遼子の住む、隣の部屋のドアをノックした。

 少し間を置いて、ドアが開かれた。涙の痕が残っている、美しい顔が目の前に現れた。

「話?どうぞ入って、こんな顔、見せたくなかったんだけど……」

 そう言って、小林君を部屋に招き入れる。その部屋は、隣の殺風景な状態とは別世界のように、家具、調度品で飾られていた。照明もシャンデリアである。

 小さなテーブルと、高級な革のソファーに案内されて、腰を降ろす。

「お茶を入れるわ、コーヒー?それとも、紅茶にする?」

「あっ、では、コーヒーを……」

 小林君の答えに、遼子は別室のキッチンへ足を向け、しばらくして、パーコレーターとコーヒー豆、二つのコーヒーカップのセットを運んできた。パーコレーターの電源を入れ、コーヒー豆をセットする。コーヒーが仕上がる前にもう一度立ち去り、角砂糖とミルクの壷を運んできた。

 コーヒーが沸き、格調高い香りが漂ってくる。カップに注ぎ、小林君の方にそっと差し出した。

「お砂糖は?」

「いえ、ブラックで、美味しいコーヒーはブラックがいいそうですから……」

「そう?わたしはふたつ入れるわ」

 そう言って、角砂糖とミルクを入れ、スプーンでかきまぜる。

「それで、お話って?」

 と、一口コーヒーを飲んだ後、遼子の方から口を開いた。

「遼子さん、僕が偽名を使っていることに気づいたんですよね?いえ、誤魔化さなくてもいいんです。僕も素直に認めます。それで、これは、遼子さんと僕の秘密にしておいてもらいたいのですが……」

「もちろんよ、あなたがそれを望むなら、殺されたって、口を割らないわよ」

「いいえ、そんな状態になったら、喋ってください。いや、そこは冗談ですが……。実は、僕……」

「追われているのよね?誰かに……、警察、それはないか?公安?それとも外国のスパイにかしら?」

「ははは、やっぱり、そうきたか、僕、過激派の学生ではありませんよ。いや、実は学生でもないんです。まだ、高校生、十八になったばかりです」

「ええっ?未成年?」

「はい、でも、この時代の高校生ではありません」

「この時代?何?何を言っているの?」

「前に、遼子さんが言っていたでしょう?この世界の人間ではないみたいだと……」

「ええっ?あなた、う、宇宙人?」

「まさか、地球人ですよ。しかも、日本人です。かぐや姫の親戚でもありませんよ」

「じゃあ、何処の世界の人間なの?」

「ちょっと信じてもらえないかもしれませんが、後ほど、証拠をみせます」

「証拠?あなたが、別世界の人間という、証拠があるのね?」

「ええ、それでも信用してもらえないかもしれませんが、遼子さんなら多分、解ってもらえると……」

「ええ、解るわよ。あなたの言うことなら、すべて理解できる……、と思う……」

「僕の生年月日は、二千二年、七月……」

「ちょ、ちょっとまって、それ、日本の紀元節の話?じゃあないわよね……、皇紀二千年、それだと、あなた何百歳になるのかしら……?」

「あっ、すみません、西暦です。日本の元号なら、平成十四年になります」

「ヘイセイ?そんな元号あったかしら?何時代?」

「西暦二千二年、今から三十三年未来です。昭和の次が平成、平和の平に成功の成と書きます」

「えっ、えっ、未来?あなた未来から来たって言うの?タ、タイムマシンが出来たのね、そのヘイセイって時代に……」

「残念ながら、マシーンは出来ていません」

「ええっ?じゃあどうやって、時間を越えて旅ができたの?」

「タイムスリップ、とでも言うのでしょうか、僕にも詳しい理論は解りません。ただ、時間の流れには隙間と言うか、割れ目のようなものがあって、そこにはいることができれば、ある一定の範囲で時空を行き来できるようです」

「時空の割れ目ね、うん、SF雑誌で読んだ気がする。カリブ海のバミューダートライアングルにそんな割れ目があって、沢山の船や飛行機が行方不明になっているって……」

「さあ、バミューダートライアングルは、異常気象の所為だと言われていますが、確かに謎の船舶、航空機事故が起きていますね。でも、僕の場合はそんな特別な場所を通って来たんじゃなくて……、ある薬の副作用なんです」

「薬の?時間を旅行できる薬が開発されたの?」

「いえ、薬自体は市販されている、インフルエンザの治療薬『タミ××』って錠剤なのですが、副作用があって、特に若い男の子――少年世代――が服用した場合、異常行動を起こしたりしたのです」

「異常行動を起こす?危ない薬ね、麻薬なの?」

「マヤク?ああ、マリファナとか覚醒剤のような麻薬ではありません。ただ、一部の少年に対しては、『魔薬』、魔法の、いえ魔物の薬かもしれませんね」

「異常行動って、具体的にはどんな行動を起こすの?」

「軽い例なら、幻聴、幻覚、興奮して、暴れる程度……」

「軽くないなら……?」

「二階の窓ガラスを突き破って、飛び降りた少年がいます。その子は幸い死には至らなかったようですが……、中には、死亡例も……」

「怖いわね、それで、その薬をあなたは飲んだのね?」

「ええ、僕の場合の副作用が……」

「時空を飛び越えた?」

「そういうことです」

「うそ、冗談でしょう?薬の副作用で過去に行ってしまったら、どうやって元に戻るのよ?」

「同じ薬を飲んで、帰りました」

「えっ?じゃあ、今ここにいるあなたは、何度も時間旅行をしてきたって言うの?間違ってこの時代に流れ着いたんじゃなくて……」

「そうです、最初は少し違う時代に飛びました。DVDを観ていたので、その時代が頭の中にあったようです」

「DVD?よく、解らないけど、頭の中にあった時代に行ってしまったのね?」

「ええ、それで、ポケットの中にあった、錠剤を飲んで、元の時代を頭に描いたら、戻ることができました」

「凄い、何処にでも自由に行けるのね?恐竜時代にも、遙か未来の宇宙時代にでも……」

「いえ、おそらくでしょうけど、五十年くらいが限度です。しかも、未来へはいけません。その時代を知らないのですから……」

「そうか、数字だけを頭に描いても駄目なんだ。その時の出来事とか、風景とか、現実がいるんだ……」

「そう、未来への旅行は出来ない、元の時代へ戻るのが精一杯です」

「解った、ううん、よく解らないけど、あなたの言うことは信じるわ。でも、証拠とやらを見せて、納得できるように……」

「はい、まず、簡単なところでは、このスニーカーです」

「スニーカー?」

「ああ、スニーカーって言葉もまだないのかな?ズック靴です。ほらこれ、ナイキってメーカーなんです。昭和四十四年には創業していないはずです」

「ナイキ?ああ、NIKE、ニケって読まないで、ナイキって読むのね、女神の名前じゃなかったんだ……」

「いいえ、おそらく、その女神の名前が元になっていると思います。それを英語読みしたのがナイキ、詳しいことは知らないのですが……。それと別の証拠をお見せします。多分、遼子さん見たでしょうけど、これです」

そう言って小林君は茶色のバインダーを開いて、中に閉じていた段ボールの枠から、黒いガラス板のようなものを取り出した。それは、厚さ一センチほどの、箱というより、板のようなものだった。

「これは、タブレットと言うものです」

「タブレット?英語ね、確かモーセの十戒を刻んだ石板をそう呼ぶんじゃなかったかしら?」

「ああ、語源はそうなんですね。僕らの時代では、持ち運びに便利な、薄型の液晶画面の端末機をタブレットと呼ぶんですが……、もっと小さい、電話機能付きのやつはスマホ、って呼んでます」

「ちょ、ちょっと待ってよ。意味不明の言葉の羅列よ。液晶画面?端末機?スマホ?全く訊いたこと無いわよ」

「あっ、ごめんなさい、ナイキより、新しい言葉なのか……。えーと、どう説明したらいいかな?コンピューターって解ります?」

「ああ、電子計算機のことね?アメリカのIBMとかいう会社が作っている、アポロ計画にも使われたそうよね」

「よかった、そこまでは理解できるんだ。じゃあ、SFの話みたいに訊いてくださいね。そのコンピューターがどんどん進化して、小さく、小さくなって、テレビのブラウン管も進化して、液晶画面って言うものが出来たんです。テレビの画面とコンピューターがひとつになったのが、タブレット、端末機っていうのは、コンピューターを操作する手元の機械と考えてください。スマホは電話が進化して、無線電話が出来て、それが小さくなって、携帯できるようになって、携帯電話と呼ばれて、それと、タブレットが合体して、スマホ、スマートホーンの略語ですけど、ができたんです」

「ふうん、よく解らないけど、五十年後の未来はそれだけ進んだってことね?じゃあ、未来は明るくて、二十一世紀は科学の時代で、戦争もなくて、理想社会が実現されるのね、ユートピアが夢じゃないんだ」

「いえ、残念ながら、戦争は地球上からは消えません。大きな戦争はないけれど、局地的にはどこかで銃弾が飛び交い、人が死んでいますし、そのため、難民が溢れることもあります。通信技術やコンピューターを始めとする、エレクトロニクスは発達しますが、戦争に使われますし、僕がいた時代、二千二十年には、新種の病原菌が世界中に広がっています。ただ、致死率がそれほどではなくて、人類滅亡の危機とはならないと思うのですが、決して、平和な理想郷ではありません。幸い、日本は戦争には巻き込まれずに、その時代まで来ています」

「そ、そうなの、病気まで流行るの?わたし、その時まで生きているのかな?エート、五十年?五十一年後か、八十を超えているわね……」

       *

「このタブレットは充電して、そうか、充電も解らないかな?」

「解るわよ。車のバッテリーも充電したりするから……」

「そう、そうですね。バッテリーの小さいのが――充電可能な蓄電池が――内蔵されていて、この時代と電気の供給は同じなので、コンセントにつなげば、充電が出来て使用可能なんです。ただ、元のデーターを配信する会社はないので、データーを更新は出来ません。僕の時代から、この端末と、メモリーカードに取り込んだデーターしか使えないんです」

「メモリーカードにデーターね、よく解らないけど、SF用語ね」

「こちらの機械は、デジタルカメラ」

 そう言って、さきほど、手に持って遊んでいたように思えた小さな機械をポケットから取り出した。

「写真機とビデオカメラ、動画を写せるようになっています。これ、内緒で、あの公園に仕掛けていたんです。バッテリーを使いきったんで、充電しないと内容は確認できないのですが、昨夜から早朝までは撮れているはずです。暗くなったら稼動するスイッチを付けていましたから」

「でも、暗くて写りが悪いでしょう?」

「大丈夫、公園の出口に常夜灯があって、その光で充分撮れるはずです。暗く映っていてもコンピューターで画像処理すれば、充分な画像を得ることができます」

「ちょっと待って、さっきから訊いていたら、あなた、あの公園の事件にひどく興味があるのね?まるで、あの事件を解決するために、ここへ来た、つまり、時を越えてきた、って気がするんだけれど……」

「そうです。流石は遼子さんだ。お祖父さんが惚れていた理由が解ります。美人なだけじゃなく、賢くて、好奇心が旺盛……」

「あなたのお祖父さん?ちょっと待って、頭が混乱する。あなたは五十年後の人間、そのお祖父さん、だいたい、六十歳くらい離れているとしたら、今、三十前後、わたしと同じくらいか……、えっ、まさか、れ、礼次さんが……」


       7

「もう、頭の中がこんがらがって、理解不能。どういうことなのか、もういちど、話を整理してみなくっちゃ」

 小林君はその後、この時代に来た理由を説明してくれた。

 彼は今――彼の時代において――高校生。四国のある地方都市に暮らしている。兄が居り、東京で弁護士事務所に勤めているそうだ。その弁護士事務所の仕事の中に、岡部達善の再審請求の依頼があったのだ。つまり、今回の事件は岡部の犯行として、刑が確定した。無期懲役という、かなり厳しい判決だったようだ。前科があった所為だろう。だが、本人は否認していた。酒に酔ってはいたが、殺してはいない、首など絞めていないと裁判で訴えたのだが、有罪となり、刑に服した。だが、彼の親族が疑問に思い、再審請求を続けたのである。それがやっと認められそうなのだ。だが、彼が犯人でなければ、真犯人は誰なのか、他に同時に変質者が存在したのか?可能性は少ないのだ。

 小林君――いや本名はまだ知らされていない――は祖父の残した日記にこの事件の顛末が書かれてあったことに気がついた。例のバインダーに挟まっていた、団戸礼次の事件手控である。

 自分の能力――薬の副作用による時空を越える――を使えば、現場に行ける。あまりに関与することは、歴史を変える、時空を乱すことになるから、慎重に行わなければならない。そこで、彼は見つけたのだ。祖父に大学生の助手が出来ることを……。小林芳雄というW大の大学生。彼になりすませば、事件に関与でき、歴史を大きく変えることもないのではないか……、その日は解っている。その場所も……。彼は時空を越えてきたのである、その日に……。

「僕は少し歴史に介入しすぎたようです。長野の事件を解決し、和音君の事件にも……。それで、ゆがみが生じて、反動が来た。その表れがあの発熱。それで、事件当日動けなくなった気がしています。これ以上関与すると、元の世界に戻れないのかもしれません」

 最後にそう言い残して、彼は自分の部屋に帰って行ったのだ。

「えーと、あっ、大変なことを思い出した。わたし、未来の人と……、エッチしてしまったんだわ……」

       *

「礼次さんには内緒にして、って言われたけど……、あいつに話したって、信じる訳がないわね……」

 遼子は自分の部屋の高級なソファーに横になって、天井のシャンデリアを眺めながら、空想に浸っていた。

『小林君が僕の孫?未来から事件を解決するためにやって来た?ははは、君、小林君に担がれたんだよ。君のSF好きを逆手にとって、空想物語を作ったんだよ。彼が詐欺師の才能が豊かだってのは、この前の事件で解っているじゃあないか……。 ナイキ?ああ、あのズックかい?あれはどこかの――多分、関西の――小さな靴屋が、外国製って思わすために、名前を付けた奴さ。タブレット?デジタルカメラ?じゃあ、訊くが、それが動いている処を君は見たのかい?単なるガラス板に色を付けた奴と、玩具のカメラだろうよ。小林君が偽名を使っているのは、多分、あの子、家出してきたんだぜ、言葉に時々、関西風のイントネーションがあるから、四国の出身ってのは、本当かもしれんぞ……』

「家出?」

 自分の空想の世界で、礼次が発した言葉に、現実の世界に戻って、遼子は自問自答してみる。

「そうか、単純に考えればよかったんだ。家出よね。彼、お金がないし、ここへ来る前は、宿なしだったし、持ち物はあの大きなスポーツバッグひとつ……。なんだ、そうか、家出人だったんだ。多分、受験勉強に疲れたか、家庭内に問題が起きたかね……」

 新たな想像でしかない結論に満足して、遼子はソファーから立ちあがる。

「うん、何にも悩むことはない。今のままでいいのよ。三人でこの探偵事務所を盛り上げていけば、彼の居場所はこのビルでいいのよ。だから、エッチも許される。わたしは、フリーなんだから……、あっ、でもむこうは未成年か……、十八歳なら、ギリギリ、セーフよね。強姦罪や、未成年者虐待なんて罪にはならないわよね……?」

 遼子女史の空想――妄想――が続いていると、例のドタドタという、階段を上がってくる靴音が聞こえてきた。

「礼次か?どっちの部屋へ用事かな?」

 そう思う間もなく、自分のドアがノックされた。

「おい、遼子、いるのか?事務所、鍵もかけないで、無人のままだぞ」

「着替えをしているのよ、取られるものなんて何もないし、誰もこのおんぼろビルには入って来ないわよ。お客なんて来やしないし……」

「ああ、部屋にいたのか、そ、それならいいんだ。君が、誘拐か、拉致されたんじゃないかと心配したんだ。いいよ、ゆっくり着替えたまえ。調査が進んだから、下で訊いてもらえるかな?小林君は寝ているのか?疲れているようだったが……」

「小林君、部屋で休んでいると思うよ、ノックしてみて……」

 と、ドア越しに遼子は礼次に伝えた。そして、心の中で呟いた。

「小林君だけでなく、礼次までわたしのことを心配してくれているんだ。ちょっと姿が見えないだけで、ふたりとも、同じように『誘拐、拉致』を気遣っているのね。優しいのね、ありがたいわ、こんな小母さんに……、えっ?つまり、ふたりの性格まで似ているってこと?まさか、血の繋がりがあるってことかしら……」

       *

 遼子女史が化粧を直して事務所のドアを開けると、もう、小林君はソファーに座って、礼次と何やら話をしている。

「孫と爺ィには見えないわね……」

 と、そのふたりを見つめて、遼子は苦笑した。

「おお、遼子、化粧を直してたのか?一段ときれいになったな」

「あら、そう?普段より、薄化粧よ、外出するでもないし……」

「い、いや、化粧は薄い方が、君には、いい、ってことさ……」

 礼次が、言葉を繕っているのを傍で笑いながら、

「遼子さん、きれいですよ、相変わらず……、さあ、座って、事件が進展しそうです」

 と、小林君が、ソファーの席を空けながら言った。

「まあ、ダーリン、お世辞でも嬉しいわ。礼次さん、小林君を見習いなさい、言葉ひとつで、印象ががらりと変わるのよ。あなたがモテないのは、容姿だけじゃなく、女性に対する気配りよ」

「えっ?わたしと小林君とどこが違ったんだ?ふたりとも、君をきれいだと褒めたんだぜ」

「そのきれいに繋がる言葉よ。あなたは、『一段と』小林君は『相変わらず』どちらが、うれしい?化粧を直した後で言われて……?」

「い、いや、どちらも褒め言葉だと思うが……、君の採り方だろう?小林君が言ったら、どんな表現でも嬉しくて、わたしが言ったら……」

「あっ、そうね、それは言える。渥美清が言うのとジュリーが言うのと、同じセリフでも、意味が違うもんね」

「わたしが『渥美清』で、小林君が『ジュリー、沢田研二』かよ……、髪型だけだぜ」

「はいはい、夫婦漫才はそこまで、事件の深刻な話をしていたのに、所長も遼子さんの前では、威厳も何もありませんね」

「ご免、ご免、礼次さんの顔を見たら、つい、からかいたくなって……」

「おいおい、わたしの顔は、からかいやすい顔なのか?」

「さあ、事件の話ですよ。例の前日の写真に写っていた、サラリーマン風の男性、身元が解ったんですって?」

「ああ、駅員や、駅の売店の従業員、おまけに、公園にたむろする、浮浪者たちに訊いたんだ、写真を見せてね。顔はよく見かける、真夜中に駅を通ることも、月に何度か、頻繁ではないが、あるそうだ。それほど特徴のある、まあ、二枚目でも三枚目でもない、よくある容姿だから、気にかけている者はいなかったけれどね……。それで、夜遅くなった時に公園を利用するようだから、その延長線を捜査範囲にしてみたんだよ」

「それで?結論は?」

「まあ、先を急ぐんじゃあないよ。公園の裏口を出て、左右を見回す。おそらく独身で、小さなアパート暮らしと見たね、わたしは……」

「そんなことどうでもいいから、男の素状、名前、とか……」

「ちぇっ、メグレ並みの捜査過程を話そうかと思っていたのに、遼子も気が短いね。小林君に嫌われるぞ」

「いえ、僕はそんなことで、遼子さんを嫌いになることは決してありません」

「まあ、うれしい、それって、わたしのこと、『好き』って言ってくれてるのよね?」

「え、ええ、まあ、嫌いではないです……」

「おいおい、そういう話は後でしてくれ。話を続けるぞ」

 礼次のうんざりした言葉に、遼子と小林君は同時に頷く。

「公園を出て、アパートの多い地区へ足を運んで、写真を見せながら聴き取り調査さ。で、公園から十五分ほどの距離に古いアパートがあって、そこの住人らしい主婦に尋ねたら、居たね、そのアパートの二階、二〇三号室の住人、富岡常政、二十六歳、大手か中堅の建設会社に勤めているそうだ。その時は不在、出勤中だろう」

「明日は日曜日ですよね、在宅かも、朝早いうちに、訪問しましょう」

「でも、その富岡って男と被害者の田代さん、接点があるの?田代さんも近くの住人なのかしら?近所の顔見知りだったとか……?」

「いや、被害者の住所――アパートなんだが――は方向が違っている。そっちは新しいアパートで、治安状況は良いみたいだ」

「じゃあ、接点はなしよね。年齢は近いようだけど……」

「まあ、小林君が調べたいんだから、いいじゃないか。捜査の結果、事件とは無関係と解れば、それでいいことだから……」

「そうよね、暇だし、お客が来る気配もないし、八月になったし……」


       8

「そうですか、今日も出勤ですか?」

 翌朝早く、吉祥寺の富岡のアパートを訪れると、ちょうど、大家である老婦人が一階の玄関に近い部屋にいて、富岡が不在であることを教えてくれた。

「勤務先の住所とか、電話番号とか解りますか?」

「そうそう、名刺を貰ったんだけど、どこかへ置き忘れて……、いいわよ、鍵を持ってくるから、部屋に入って、確か、会社のカレンダーを張ってあったから、そこに電話番号も書いてあったわ」

 大家の老婦人はそう言って、合い鍵の束を持ち出し、二階の二〇三号室のドアを開けた。

 狭い玄関口を遠慮なく入って行く彼女のあとを、礼次と小林君は遠慮がちに続いて行った。

「ほら、ここにカレンダーがあるでしょ、電話番号も印刷してあるわよ」

 狭い台所と居間を兼用しているような板張りの十畳ほどの空間、その壁に『S建設』のカレンダーが張られている。カレンダーには大きなダムの写真が印刷されていた。

 そのカレンダーの横手に、食器棚があり、その棚の上に写真立てが飾られている。小林君はカレンダーの下部に印刷された会社の電話番号を控えようと、近づいて、ふと、その写真に写っている、男女二人を見つめた。

「男性は富岡さんですね、女性は?奥さんですか?」

 と、大家の方を振り返り、小林君が尋ねた。

「あら、富岡さんは独身よ。ああ、その写真の方は、恋人ね」

「これは何処のダムかな?カレンダーにもダムの写真。このふたりの写真の背景にもダムが写っていますよね……」

「ええ、富岡さん、会社ではダム建設の部門だから、多分、利根川の上流のダムじゃないかしら、富岡さん、出身もそっちの方よ、ダム建設で、立ち退きになったらしいけど……」

「この女性、富岡さんの恋人だそうですが、お名前とか、お住まいとか、ご存じないですか?」

「それがね、名前は確か、小百合さんって言ってたわ、姓は……、大久保とか、小久保、いえ、そうじゃない……、ご免ね、思い出せなくて……。それがね、その方、去年だったかしら、急にいなくなったのよ」

「急にいなくなった?」

「失踪、っていうのかしら?黙って、アパートを出て行ったみたいで……」

「それで、行方が解らないんですか?お邦(くに)は?そちらへお帰りになったんでは……?」

「そう、小百合さんと富岡さん、幼なじみで、つまり、お邦も同郷、水没した村、ダム湖の底にね……」

「ひとり暮らしだったんですか?」

「いえ、従姉とか言う、二つぐらい年上の女性と暮らしていたそうよ。そのひとも、どうしていなくなったのか解らなくって、警察にも相談したらしいけど……」

「結局、行方不明のまま……、それが去年の?」

「そう、暮頃かしらね、詳しくは知らないけど、警察はただの家出人、くらいにしか思ってくれなかったみたいよ。誘拐でもなさそうだし……。あっ、それより、富岡さんに急用なんでしょう?そっちの方、昨日も、訪ねてきてたようだし、警察の方?それにしては、あなたはお若いはね?うちの孫と同じくらいにしか見えないわ?孫、今、大学浪人生なの、東大は無理、って言っているのに……」

「いえ、警察ではありませんが、それに近いものです」

「あら、じゃあ、探偵さん?わたし、これでも、探偵小説ファンよ。特に、ミス・マープル、ご存じ?イギリスの、アガサ・クリスティー女史の作品、わたしくらいの年寄りかしら、そのマープルって名探偵……。そうだ、電話するなら、うちのを使って、遠慮しなくていいのよ」

 大家の老婦人はそう言って、富岡の部屋をあとにする。小林君は素早く、食器棚の上にあった写真立てをショルダーバッグに隠して、何喰わない顔で、彼女のあとに続いて行った。

        *

「富岡は本日、休暇ですが」

 受話器の向こうで、若い女性の声がそう答えた。

「休暇?出勤していないのですか?」

「ええ、今日は日曜日ですし……」

 そう言いかけた電話の向こうで、別の男性の声がした。

「富岡なら、朝、見かけたぞ」

 と、その声は聞こえた。

「あっ、ちょっとお待ちください」

 女性の声がそう言って、電話口を片手でふさぐ音がする。少しの間、その手の隙間から、男女の声がするのだが、聴き取れない。

「お待たせしました、お電話替わりました。わたし、富岡と同じ部署の田中と申します。富岡ですが、今朝一度出勤いたしまして、休日なのですが、現場を見てきたいとのことで、会社の公用車を取りに来ていました」

「現場?それは何処なのでしょうか?」

「はい、ご存じでしょうが、我々の部署はダムの建設担当でございまして、幾つかのダム建設の計画、また、現在工事中のものもございます。富岡は利根川水域の方を担当しておりまして、本庄ダム、八ッ場ダムなど、計画がございまして……、おそらく、去年完成した、下久保ダム辺りの視察に行ったのかと……、そこは彼の地元でもありますから、間違いないと思いますが……」

「下久保ダム?」

 と、小林君が、電話の回答を復唱すると、隣で急に、

「下久保、そう、下久保小百合さんよ」

 と、大家のミス・マープルが叫んだ。

「あっ、こっちのことです。どうもありがとうございました」

 小林君が慌てて受話器を置いた。

「下久保小百合さん?富岡さんの恋人、っていう人の名前ですね?」

「そうよ、元、恋人になるけど、あなたの電話の言葉で思い出したの」

「所長、下久保ダム、って何処にあるか解りますか?去年完成したダムだそうですが……」

 小林君はマープルの言葉を軽く頷いただけで、半分無視をし、礼次に確認の言葉を発した。

「確か、埼玉県と群馬県の県境にできたダムだ。水没した住民が三百世帯以上あって、補償問題でかなり揉めたって訊いてるよ」

「行きましょう、車を手配できますか?」

「車?武蔵野南署に頼むか?いや、確か遼子が車を持っていたぞ。この近所、と言っても、旧興園寺邸の近くだが、そこに国産車を預けているはずだ。彼女用の、ね」


       9

「この道で間違いない?」

 右ハンドルの国産カー、『スカイライン2000GTーR』を運転しながら、遼子女史が言った。車は東松山市を通過し、国道百四十号線を下久保ダムへと向かっているのである。

「国道二百五十四号線に入って、児玉町から行った方が近いかもな」

 助手席で道路地図を開きながら礼次が言った。

 富岡の住むアパートの大家に借りた電話で事務所にいる遼子女史に車のことを伝えると、自ら運転すると言ってガレージ前へ集合したのである。確かに、2000GT―Rは免許を持っている礼次にも荷が重かった。新型の『箱スカ』と呼ばれている、シルバーグレーのピカピカの車を、ダム湖のある山道を走らせるのは気が重かった。

 遼子は自信たっぷりにハンドルを切っているが、助手席の礼次は冷や汗を掻いている。山道に入って、道幅は狭く、ガードレールもない崖の傍を車は疾走しているのだから、崖が眼下に見える助手席は、ジェットコースターより恐怖心が沸いてきた。

「あっ、あれがそうではないですか?大きなダムの壁面が見えています」

 後部座席の小林君が声を上げる。遼子女史は、運転に集中し、前方の道路しか見えていないし、礼次は崖を気にしているので、遥か彼方にその巨大なダムの姿が見えてきたのに、ふたりは気づいていなかったのだ。

 車をダムの管理事務所の前に停める。

「ほら、S建設の名前のはいった、ライトバンが停まっていますよ。きっと、富岡が乗って来た車ですよ」

 箱スカから真っ先に降り立った小林君が敷地内に止められている、白いバンを指さして言った。

 最後に助手席から青い顔をして降りてきた礼次は、声が出ないのか、無言で頷いた。

 事務所の扉には鍵が掛かっており、緊急連絡先の電話番号が書かれた紙が貼られている。日曜日なので、事務所も閉めているようだ。

「何処へ行ったのかしらね?誰もいないなら、視察にもならないでしょうに……」

 遼子女史の言葉に礼次は無言でーまだ声が出せないのだー頷いた。

「ダムへ行ってみましょう。双眼鏡を持ってきます」

 小林君がスカイラインの後部座席から、小型の双眼鏡を二つ持ち出し、ダムの上部の橋へと歩みを進めた。

 眼の前にダム湖である『神流湖』が豊かな水を湛えて、広がっている。遠くでヒヨドリの啼く声が聞こえている。青い空には、鳶が悠々と舞っていた。

「あっ、あそこに人影が……」

 と言った、小林君が指さす方向に小高い丘があり、石碑が立っている。その傍に男性が屈んでいるのが双眼鏡のレンズ越しに見えたのだ。

「何か記念の碑が立っているようね」

 と、もうひとつの双眼鏡を手にしていた遼子女史が言った。礼次は気分が悪くて、双眼鏡を眺める気にはなれなかったのだ。

「行ってみましょう」

 遼子女史が先頭に立って、ダムの橋を渡って行く。丘の上にいた男性がその気配に気づいたのか、急に立ち上がり、反対側の斜面を駆け下りて行った。

「あっ、待ちなさい、逃げると、撃つわよ」

 いきなり、遼子女史が指でピストルの構えをして、男の背中に大きな声を掛けた。男は一瞬、足を止め、振り返ったが、遼子の手に何もないことを確かめたのか、また、背を向けて走り出す。その振り向いた一瞬で、その男が写真に写っていた、富岡常政であることが解った。

 男が屈んでいた場所には、『望郷之碑』と彫られた石碑が建っていた。その前を全速力で小林君は通り過ぎ、富岡の背中を追う。富岡は丘を下り、ダム湖と反対方面に足を向けた。そこは、ダムの壁が切り裂いた、深い渓谷になっていた。男は雑木の茂った脇道に入り、崖っぷちに立ち止まる。小林君がその背中を見つけた時、急に男は振り返り、微かに笑った。そして、崖に向かって、身を翻したのである。百メートルはあろうかと思われる、絶壁へと……。

       *

 夏の太陽が西の山に沈み始め、夕暮れが迫る頃、地元の警察、消防団の捜索の成果により、富岡常政の傷だらけの遺体が発見された。ダム下流の岩場まで遺体は運ばれていたのである。死亡が確認され、検死へと運ばれていった。

「どうして、飛び降りたの?自殺よね?」

 遼子は自分のかけた言葉の所為で、富岡が死を選んだのかと、思ったのである。

「わたしが、拳銃を打つ構えをしたから、警察と思って、逃げられないとでも思ったのかしら?だとしたら、犯罪者よね?」

「遼子さん、彼は死ぬためにここへ来たのだと思いますよ。最後に振り向いた時、確かに笑っていました。警察に追われて、急に覚悟を決めたんじゃなくて、はなから、覚悟の自殺をする気だったと思います」

「じゃあ、何故このダムを選んだの?」

「それは、僕には断定できませんが、あの『望郷之碑』が関係しているかもしれませんね。もう一度行ってみますか?」

 車に戻り、懐中電灯をそれぞれ手にして、夕闇が押し寄せているダム湖を見つめながら、三人は『望郷之碑』のある丘に向かって行った。

『望郷之碑』と書かれた石碑の裏側には、沢山の人名が彫られている。このダムの建設により水没した、町村に暮らしていた住民、全ての氏名が刻まれているのである。

「あっ、富岡常政、がある」

 と、遼子女史が叫んだ。

「ここには、『下久保小百合』の文字もあります」

 と、小林君が静かに、右手の人差し指を伸ばして言った。

「ここが、ふたりの故郷なのね?このきれいな人工の湖の底が……」


       10

「遺書はなかったんですって?」

 その日は、地元の旅館に泊り、警察の事情聴取を受けた三人は、遼子女史の運転するGT―Rに乗って東京へ向かっている。助手席には行きと違って小林君が座っていた。

「なかったそうです。でも自殺は間違いがないと警察も認めてくれました。つまり我々が突き落とした、という疑惑は晴れた訳ですが……」

「まあ、そんな疑惑があったの?」

「一応ですけどね」

「それで、吉祥寺の事件との係わりはどうなるの?彼が事件に係わっていたのか、永遠の謎、ってことよね?」

「はい、本人から訊くことはできませんから……」

「ねえ、芳夫君、あなた、例の薬持っているんでしょ?そしたら、彼が死ぬ前のあの時間にタイムスリップして、訊いてみたら?あなたは、あの事件に係わっていますかって……」

「ダメですね。そんなことをしたら、僕という人間が同時にその場に現れることになります。歴史が大きく変更されて、元に戻れない。遼子さんにももう逢えなくなりますよ」

「えっ、わたしに逢えない?それは嫌よ。そんなことになったら、わたし、死んじゃうから……」

「でも、もうすぐ、その日がきます。そろそろ、元の時代に帰らなければなりませんから」

「何の話だい?ふたりでボソボソと……」

 後部シートでごろ寝をしていた礼次が、話の一部を耳にして、急に会話に入り込んで来たのだ。

「新婚旅行は何処にしようかって話よ。わたしは二回目だけどね」

「新婚旅行?き、君たち、そ、そこまで話が進んでいるのか?」

「所長、冗談に決っているでしょう」

「あら、冗談でもないわよ。近い将来、そんな日が来るかもしれないでしょう?わたしはその気だし、ダーリンもわたしのこと好きだって言ってくれたもの……」

「そ、そうか、い、いや、わたしは反対はしないよ。うん、ふたりの気持ち次第だから……」

「所長、反対してくださいよ。歳の差を考えろとか、世間体を考えろとか……」

「どちらも関係ないわよね、礼次さん?」

「ああ、どちらも……、いや、関係あるかも、な……」

       *

「ねえ、小林君様子がおかしくない?」

 数日後、コーヒーを入れて所長の席へ運んできた遼子が、新聞を広げている礼次に言葉を投げかけた。

「小林君がどうしたって?」

「部屋に籠ったきり、事務所にも降りて来ないわよ」

「大学のレポートでも書いているんだろう、彼の本分は学生だ。事件はないし、依頼人は来ないし、事務所に来たら、君の熱い口説き文句を訊かされるだけじゃないか、部屋に籠りたくもなるさ」

「まあ、わたしの所為だって言うの?」

「い、いや、暇だなあと……」

「心配だわ、様子見てこよう」

「辞めておけよ、嫌われるよ、いや嫌われはしないが、迷惑だろう、彼は優しいから、拒みはしない、レポート作成に忙しくても、君に付き合うだろうから……」

「そうね、あああ、恋ってこんなに切ないものだったのね、一時間顔を見ないと、不安になっちゃう……」

 遼子の芝居がかったセリフを無視して、礼次は新聞に目を向ける。

「おや、例の公園の事件、進展があったようだぜ、岡部が自白したって、記事に出ているよ」

「自白?罪を認めたってこと?」

「そうなるね、このままだと、相当な刑罰を受けることになりそうだな、前科があって、暴行殺人だからな」

「でも、お酒に酔っていて、低迷状態、正常な判断が出来ない状態での犯行でしょう?」

「自白したってことは、殺意を認めたってことだろう、精神状態ウンウンは考慮されないだろうな」

「じゃあ、無期懲役って判決もあり得る?」

「ああ、死刑とまでは行かなくても、そこまでの刑はあるかもな」

 遼子女史は小林君が話してくれた、未来の話、岡部が無期懲役の判決を受けて、五十年後に再審請求が始まる……。

(あれは、予言?それとも、本当に小林君は未来から来た少年なの?)

「どうした、深刻な顔をして?」

「ううん、芳夫君がこのことを訊いたらどう思うかって……、ほら、彼、岡部の犯行じゃないって、直感で言っていたでしょう、でも、他の犯人は見つからないし……」

「富岡の犯行と認められる物証も、いや、接点さえ見つからないんだからね、ただ、同じ公園を通過していただけだからなぁ……」

「でも、夕べ、ひとりで出かけていたでしょう、彼、事件を追っているのよね?」

「ああ、誰かに逢ってきたみたいだ。会社員だろう、仕事が終わった後で逢ったんだろうから」

「多分女性ね」

「な、何故女性と決めつけるんだ?」

「だって、わたしに内緒にしているんだもの、誰と逢ったか……」

       *

「ああ昨日ですか?ええ、女性ですよ」

 三階から事務所に顔を出した小林君に礼次がさり気なく、夕べ誰に逢ったか、女性だったのか尋ねた返事が、こうだったのだ。遼子の柳眉がつり上がった。

「富岡の恋人だった下久保小百合さんのルームメイト、従姉の下久保可南子さんという方です。小百合さんの行方が解らなくなった時の状況を知りたかったんです」

 遼子の眉が元に戻った。

「ダーリン、事件を追っていたのね?でも、ひとりで危ない事しないで、礼次に任しておきなさいって、身体を使うことは……、あなたは頭脳だけ使えばいいのよ」

「おいおい、危ない処はわたしが担当かよ?」

「当たり前よ。老い先短い者と、明るい未来が待っている若者とどちらをとる?」

「まだ、そんな歳じゃあないがね、小林君が若者ってのは、認めるよ」

「それで、ダーリン、何か成果があったの?」

「まあ、少しは……、小百合さん、何かに悩んでいるようだって言ってました。その何かは、想像できないそうですが……」

「じゃあ、失踪する理由らしきものがあったってこと?」

「かもしれませんね」

「しかし、その、小百合とかいう娘の失踪と、今度の公園の事件と、どう結びつくんだ?全く関係のない事件だとしか思えないんだがね、わたしには……」

「それは礼次が、凡人だからよ。天才には閃くものがあるのよ、ねえ、ダーリン?」

「い、いえ、僕は天才ではありませんし、所長と同じレベルです。ただ、亡くなった富岡さんの自殺の原因が、小百合さんの失踪と絡んでいる……」

「そうよ、彼が自殺する原因は彼女の失踪、それは充分考えられるわ、いえ、絶対そうに決っている。仕事面でも充実した仕事だって、同僚の方が言っていたんでしょう?」

「ええ、富岡の遺体と会社の車を引き取りに来て、そう言ってたそうです。自殺の原因が解らないって……」

「富岡さん家族がいないのかしら?遺体の引き取り手が会社の人だなんて……」

「ああ、そこは複雑な理由があるらしい」

 と、礼次が話を引き継いだ。

「例のダム建設による補償金でね。その金を父親が全部持ち逃げしたんだよ。母親は狂ったようになって、自殺したそうだ。何せ、生まれ故郷はなくなる、その原因となるダム工事に息子が関係していたんだからね、直接ではないにしろ、あの辺りのダム建設には多いに係わりのある会社、部署に勤務していたんだから……、いや、当事者だったから就職できたのかもな」

「そうなの、天涯孤独だったのね」

「いや、母親は自殺未遂で死んではいないそうだ。病院に入院しているらしい、精神病院の方だがね」

「ああ、そうなの、じゃあ、お葬式も出せないわよね、それで、会社の同僚が来たってわけか……」

「小百合さんの家族も同じようですよ。こっちは母親が、若い男と逃げたらしくて、父親はその後、病気が悪化してお亡くなりになったそうです。従姉の方はその父親のお兄さんの家族で、就職先も斡旋してあげたとか言っていました」

「大きなダムの建設で、小さい家庭が崩壊したのね……」

      *

「ひとりで行くの?わたしも連れて行って」

 翌朝、小林君は旅に出ると、ふたりに告げたのだ。

「一泊するだけです。明日の夕方には帰ってきます」

 そう言って事務所をあとにしようとした小林君の背中に、遼子女史が声をかけたのである。

「ちょっと秘密の場所へ行くんで、遼子さんは連れて行けません。今回は無理ですが、いつか行けるかもしれませんね、ふたりっきりで……」

「何処なの?その秘密の場所って?ああ、秘密だから、言えないのよね?でも、必ず帰ってきてね、わたしをひとりにしないでね?」

「おいおい、小林君は明日には帰ってくるって言っているんだぜ。何をセンチな台詞言っているんだ?これっきり、永遠(とわ)の別れになるわけではないのに……」

「礼次には解らないのよ」

 と、きつい言葉をつい口に出してしまう。未来へ帰る、そんなおとぎ話のような考えが、浮かんでくるのである。

「ごめん、強くいい過ぎた……」

「いや、悪いのは僕です。勝手な計画を立てて、しかも秘密の場所なんて言って、謝ります、許して下さい」

「なに、言っているの?ダーリンを責めたりしないわよ。ダーリンは好きなことをすればいいのよ。わたしは待っているから……、うん、約束よ、明日は帰ってきてね、それから、帰ってきたら……、ううん、キッスして……」


       11

「あのう、こちらが『バーネット探偵社』でしょうか?」

 その日の午後遅く、事務所のドアがノックされ、二十代半ばの地味な服装の眼鏡をかけた女性がおずおずとドアを開け、留守番をしていた遼子女史に声をかけた。礼次は、公園事件の岡部の自白がどういったものなのか、詳しく知るために、知り合いの刑事を訪ねて出かけている。

「はいそうですよ、何か事件のご相談ですか?どうぞお入りください、そのソファーにどうぞ」

 遼子女史の手招きに応じて、女性はソファーに腰を降ろした。

「どのような、ご依頼でしょうか?」

「あの、こちらに、小林さんという、髪の長い可愛い、高校生くらいの助手の方っていらっしゃいます?」

「小林?」

 小林君の名前が女性の口から発せられた所為で、遼子女史の眉がつり上がる。

「どういうご関係?うちの小林と……」

 まさか恋愛関係はないわよね、こんな地味な女と……、と眼の前の女性をジロジロと値踏みする、遼子だった。

「いえ、昨日お会いしたばかりなんですが、いらっしゃるんですね、この事務所に……?」

「ええ、うちの助手ですよ。大学生ですけど……」

「ああ、そうなんですか、詐欺じゃあなかったんだ……」

「詐欺?あの、失礼ですけど、あなた、どなたかしら?お名前は?」

「あっ、ごめんなさい、わたし、緊張してて、探偵事務所なんて初めてなもので……、名前は下久保可南子といいます。昨日、会社が終わったあとで、小林と名乗る少年が訪ねてきて、従妹の失踪を調べているからと、変なことを言って帰ったものですから……」

「下久保さん、ええ、別件の事件の関係でね、確かに可南子さんっておっしゃる、下久保小百合さんの同居している方を訪ねると言っていましたよ。それで、変なことを言ったってどんなこと?詐欺かもって思ったって、おっしゃったけど……」

 眼の前の女性の正体が判明して、ほっとひと安心はしたものの、彼女の口から出た言葉の嘴に不快感を抱いた。

「あっ、決して変な意味ではないんです。わたしが理解できてないのかもしれません。ちょっとした、ご依頼を受けたのですが、それが、不思議なご依頼だったもので……」

「ご依頼?つまり、うちの小林があなたに何かを頼んだってことね?それがあなたにはよく解らない依頼だった、そういうことかしら?」

「いえ、依頼の内容はよく解る、というか、出来ないことはないと思うのですが、それが、どうゆう理由で、しなくちゃならないのか、理解できないんです。騙されているんじゃないか、あるいは冗談なのかと……」

「よく解らないわね、小林が何をあなたに依頼したのかしら?」

「はい、順を追って説明しないと、ご理解いただけないかと……」

「そう、ではどうぞ」

「その小林という方が、小百合の失踪のことをお尋ねになって、その後のことなんですが、小百合の一番新しい写真がないか尋ねられたんです」

「ええ、それは必要ですからね」

「はい、そこまではよく解るんです。それで、失踪する二日前にふたりで撮った写真をお見せしたんです。ネガもありますし、差し上げようとしたんですが……」

「したら、どうなったの?」

「変な依頼を受けたんです。『その写真を大切に保管してください』と……」

「それは、変ではないわ」

「いえ、その続きが……」

「続き?」

「ええ、その写真を、ネガを含めて、丈夫な金属製の手提げ金庫のようなものに入れて、五十年間保管してください。あなたか、あなたのお子さんかが、それを保管してください。五十年後、正確には五十一年後の西暦二千二十年三月に、『神堂正臣』という、三十歳くらいの弁護士と名乗る男が受取に来ますから、事情は訊かずにお渡しください、そう言ったのです。五十一年後?いったい何のため?冗談としか思えないでしょう?それか、詐欺にあっているのかと、わたしが思っても……」

 確かに異常な頼み事である。だが、その真意を、遼子は理解できていた。未来の再審で必要な証拠になるんだ、と……。

「その写真って?」

 遼子は自分の心臓の高鳴りを自覚しながら、冷静に質問をした。

「はい、一枚小百合に渡そうと余分に焼き回ししたものがあります。これです」

 そう言って、こちらも地味なハンドバッグから、カラー写真を取り出してきた。

 眼の前の眼鏡をかけた地味な顔の女性が笑っている。その横に髪の長い、美人が写っている。笑顔ではない。どこか沈んだ顔をしており、隣の女性とはまるで対照的である。

 遼子は知らないのだが、富岡のアパートの部屋にあった写真立ての中の女性と同じ女性なのだ。ただし、髪の毛の長さが、セミロングから、ロングヘヤーに変わっている。だから、もし二枚の写真を比べたら、ちょっと印象が違って見えるかもしれない。いや、全然別人と思うかもしれないのだ、笑顔と暗い顔だから……。

「そうね、これは大事な写真よ。五十年間保管してください。ちょっと、説明は出来ないけれど、とても大事な、そう、遠大な計画(プロジェクト)の一部なの。決してご迷惑にはならないはずよ。そうね、タイムカプセルってご存知?あれと同じ、未来への手紙みたいなものよ、お解りいただけるかしら?」

「ああ、タイムカプセル、解ります。それじゃあ、その特別なプロジェクトにこの写真が選ばれたって事ね?ええ、是非協力いたしますわ、五十一年後まで、子供の代まで……、わたしまだ独身ですけど……」

       *

「とっさに、タイムカプセルなんて、嘘でごまかしたけど、取り敢えずダーリンの依頼を遂行させることには成功したわよね」

 下久保可南子と名乗った女性が帰った後、緊張を解いて、ソファーに深く体を沈めながら、遼子はひとり言を口にした。そして、推理を始めるのだった。

「あの写真が五十一年後の裁判のやり直しのための重要な証拠、あるいは参考資料になるってことよね。ああ、それじゃあ、ダーリンはやっぱり未来から来たってことになるわ。近い将来、帰ってしまうってことよね、いや、いやよ。わたしも未来へついて行くから、その『タミ××』って薬を飲んで……。でも、少年にしか異常行動は出ないって言っていたし、未来には行けない……、ああ、よく解らないけど、わたしには時間旅行は出来ないってことよね?ダーリンと別れるくらいなら、わたし死ぬわ。そうよ、心中しちゃおうかしら……、ダメよ、未来の人間を殺すなんて、歴史が変わってしまうもの……。頭が混乱してきた。どうしたらいいの……?」

「おい、遼子大丈夫か?何をブツブツ言っているんだ?気分が悪いのか?」

 ふと視線を上げると、心配そうな団子鼻が眼に入った。

「きゃあ!……、なんだ、礼次の鼻か……」

「おいおい、人の鼻を見て、そんなに驚くことはないだろう?気は確かか?」

「ご免、ご免、ちょっと妄想をしてたのよ、天狗が出てくるお話をね」

「天狗?わたしの鼻は天狗のようだと言うのかね?」

「そんな立派じゃないわね、髭と団子鼻とで、想像を膨らましただけよね」

「まあいい、君が正気を取り戻したのならね。それで、変わったことはなかったかね?事件の依頼とか……」

「ある訳ないでしょう?暇、暇、暇すぎて変な妄想をしてたのよ。ダーリンが天狗にさらわれるって……」

「それで、わたしを天狗に……?ああ、ちっとも面白くないね。たまにはわたしが活躍する夢でも見てくれよ」

「多分、永遠にないわね。それより、何か解ったの、岡部の件……」

 遼子女史が話題を転換した。

「ああ、親しく付き合いのある元同僚の話なんだがね。どうも、自白したって言うんだが、これが、取り調べの刑事の恫喝による、怯えからか、あるいは、あきらめの気持ちが働いたからじゃあないかと、そいつが耳打ちしてくれたよ」

「ええっ?じゃあ、冤罪じゃあない」

「そう、その可能性があるってことだぜ。だけど、一度自白したんだから、調書に署名して、検察送りになってしまったそうだ。後は裁判で、自白を覆すしか手はないな。だが、状況証拠は彼を『クロ』と言っている。判事がそれを覆すとは思えない。自白がなくても、有罪になりそうな状況だからね。無罪を主張したら、余計心証が悪くなる。反省の色が見えないってね」

「ああ、悪循環ね、やっぱり、真犯人を見つけるしかないか、五十年後に……」

「五十年後?五十年したら、真犯人が見つかるのか?いや、五十年もかかるのか?どっちだろう……?」

「ええ、あなたの孫が、真相を見つけるわ」

「わたしの孫?おいおい、わたしには子供もいないんだぜ、再婚する気はないし、孫なんてできっこないよ」

「あっ、そうか、あなたには子供がいないのよね?じゃあ、孫もできない。なんだ、やっぱり、わたしの妄想か……」

「妄想?天狗の話の続きがあるのかい?」

「いいえ、天狗じゃないけど、そうね、言ってもいいかな、妄想だから……」

「是非聴きたいね、その妄想って奴を……」


       12

「何がおかしいんですか?僕が帰って来てから、どうも、何度か笑われているような気がするんですけど……、僕の顔に何かついています?」

 翌日の夕方、小林君が無事帰ってきて、たまには外で食事をしようと高級ではないが、そこそこのレストランで、礼次、遼子女史、小林君が晩餐の席に座っているのである。コース料理の最後のデザートを食しながら、礼次の意味深な笑顔に反応して、小林君が話を切り出したのであった。

「いや、夕べのことだがね、遼子が面白い妄想の話をしてくれたもんだから、それを思い出してね……」

「思い出し笑いですか?それが、僕に関すること?」

「そうだよ、例によって遼子の好きなSF小説のような話さ」

 礼次は笑いながら、デザートのアイスクリームをスプーンで口に運ぶ。小林君の視線が遼子女史に移る。遼子が両手を合わせ、「ご免」という恰好をして、頭を下げる。

(なるほど、例の内緒の話を所長にしたのか、妄想の話として……)

 と、小林君は心の中で苦笑していた。そんなことには無頓着に、スプーンを皿に戻し礼次が話を続ける。

「君が僕の孫だと言うんだ。しかも、君は今の時代の人間ではなく、そう、五十年後の世界から時空を飛び越えてきた、っていうんだよ。そんなことは現実には不可能だ。タイムマシンは理論上不可能なんだよ。パラドックス、ていったか、矛盾が発生するんだ、時空を越えて何者かが過去に来る。そしたら、歴史が変わってしまうだろう?その時代にはいないはずの人間が存在することになる……」

「所長、その考えは正しいんですが、別の考えもあるんですよ」

「ほう、時間のパラドックスが起きない可能性があるのかね?」

「時間の流れ、つまり我々は大きな時間という大河に浮かんでいるんです。流れは過去から未来へ一方通行の流れです」

「ああ、それは想像しやすいね」

「我々はその流れに形のない舟の上に、後ろ向きに――ボートを漕いでいるように――乗っていて、上流しか見えていません」

「つまり、過去しか見えていない、未来は背中ってことだね」

「そうです。で、そこに異物が落ちてくる。つまり、未来か過去からか、別世界の何かが侵入してくる。すると、時間の流れに波紋が広がります。そして、それが大きいものだと、舟が揺れて、軌道、舟の航路が歪んでしまい、方向が変わる可能性が出てきます」

「そうだよ、それがパラドックスになるんだ」

「でも、時間の河は果てしないほど大きい、大きな波紋も、例えば渦巻きも、流れの中に飲み込まれ、吸収され、大河は元の軌道へと舟を運んでしまうんです」

「つまり、ひとりやふたり、いや何十人くらいなら、時空を越えてきても、時間の流れが修復するというのかね?」

「ええ、仮説に過ぎませんがね。もうひとつ、パラレルワールドという説もありますが、これは少し歴史が変わってしまう説になりますね」

「それは、よくSFに出てくるわね」

 と、遼子が会話に入ってくる。

「しかし、どちらも仮説だろう?時間を飛び越えるなんて、現実には不可能さ。生身の人間には無理だね。人間の細胞が時空間を通り抜けられないからね」

「そうでしょうか?さっきの、大河の例で見てください。我々は流れに浮いている存在です」

「ああ、時間という流れの上にね」

「では、その上は?」

「上?時間の流れに、上下があるのかい?」

「河の上には何がありますか?」

「そう、空気、いや空があるか……」

「空には、鳥がいますよね?」

「鳥?ああ、この世界にはね、鳥ばかりか飛行機や人工衛星も飛んでいるがね」

「時間の流れの上にも空間、つまり空に当たる部分があって、その流れを俯瞰している存在があるとしたら、鳥のように……、その鳥になるか、あるいは鳥に運ばれたら、今のっている舟ではなく、過去か未来の舟に乗り移ることが可能になるのではないですか?鳥の力ですから、そんなに遠くには行けないかもしれませんが……、鳥ではなく、大嵐による風か大波の所為で、舟から飛ばされる、つまり遭難してしまって、過去に流れ着くってこともあるかもしれません」

「そうよ、バニューダートライアングルだけじゃなくて、世界には過去へ飛ばされたとか、見知らぬ世界へはいりこんで、やっとの思いで生還できたって話、結構あるのよ。SFではなくて、実話、ノンフィクションでね」

「ううん、ふたりしてわたしをペテンにかける気かい?どうも納得しかねるがね、まあ、どうでもいいさ。証明はできないんだから、今の科学ではね」

「では、証明はできませんが、状況証拠を提示しましょうか、未来の予言です」

「予言?小林君、君が予言するのかい?」

「ええ、いいですか、所長の身に起きることを言います」

「ははは、わたしの身に起きること?だが、今それを訊いたら、わたしがその未来に逆らう行動をするかもしれないよ。そしたら未来が変わるから、予言は外れるってことになる。それこそ、パラドックスだよ」

「だから、証明の一端になるんですよ。未来は変えられない、少々の波紋ではね」

「怖いことを言うね。まさか、わたしは明日死ぬ、って予言じゃないよね?」

「ああ、寿命ですか?正確には教えられませんが、少なくとも三十年以上、二十一世紀までは生きられますよ。ただし、そう訊いて、命に係わるような無茶はしないでくださいね。時間の修正能力にも限界があると思いますから……」

「へえ、二十一世紀が迎えられるのか?還暦は越えられるってことか、まあ、悲観することはないな」

(つまり、孫の顔が見られるってことよね……)と、遼子は礼次の嬉しそうな顔を見つめながら思っていた。

「それで、予言って、どういうの?」

 と、遼子は話の続きを促した。

「所長に孫ができないと思っていますよね?子供がいないんだからと……」

「ああ、わたしは再婚する気はないからね。遼子がしてくれるなら別だが……」

「ええっ?じゃあ、わたしが、こいつと……?」

「こいつは、ひどいじゃないか……」

「ははは、残念、遼子さんとの間に生まれる子供ではありませんよ。いえ、これから生まれるんじゃない、もうすでに生まれています。多分、三歳か四歳くらいかな?」

「なんだって、この世にわたしの子供がいるっていうのかい?」

「それって、もしかして、別れた、いえ、別居中の奥さんに子供ができていたってこと?」

「流石、遼子さん、ご名答です」

「そんなバカな……」

「所長、今の奥さんの状況をご存知ですか?」

「いや、一度も連絡していないし、してもくれないよ」

「実家、って何処ですか?奥さんの……」

「ああ、四国だよ」

「まさか、ダーリン、今度の秘密の旅行って、四国へ行って来たの?」

「残念、今度は不正解です」

「じゃあ、どうしてあなたが祐子さんの現況を知っているのよ?」

「ヒロ子さんというのですか、所長の奥さん?」

「ええっ?それも知らないのに、子供がいるって言い切れるの?」

「はい、だから、予言、と言っているんですよ。現実ではなく、未来から導かれる結論です。因果関係というでしょう?結果があれば、その原因がある。孫がいるというのが『果』子供がいるというのが『因』ということですね。まあ、その辺は予言とは関係ない。とにかく所長には子供がいて、その子供が生まれたのは、奥さんが実家にお帰りになった後」

「祐子さん、お腹に子供を宿していたんだ。だから離婚しないって言って、実家に帰ったんだ。わたしの所為で……」

「何を言うんだ、君の所為じゃない、彼女が勝手に誤解したんだ。僕と君が不倫関係だと、勝手に思い込んで、しかも、相談もせず警察官を辞めてしまって、仕事がなくなって、生活費にも困っていたんだから、実家に帰るしかなかったんだよ。だけど、まさか、妊娠していたなんて……」

「それで、そのお子さんは、男の子?女の子?」

「男の子です。名前は正祐(まさひろ)、おふたりの一字ずつを貰っています」

「それがあなたのお父様ね?」

「な、何だって?おいおい、それは、妄想なんだろう?」

「それは、予言の範疇外です。予言はあなたに孫ができること、その前にあなたは、四国へ移り住みますがね、親子水入らずで、四国で警備会社に勤めることになるでしょうね。これが僕の予言です。果たして当たるでしょうかね……」

       *

「ダーリン、起きてる?」

 レストランの食事を終え、各自の部屋に帰ってから、数時間、夜中の十二時にあと少しという時間帯、遼子女史が、隣の小林君の部屋のドアをノックしているのだ。

「はい、今から眠るところでした。何か御用ですか?」

 と、ドアが大きく開かれ、Tシャツとジャージ姿の小林君が遼子女史に尋ねた。

「約束、憶えてる?」

「約束?」

「ほら、忘れてる。帰ってきたら、キッスしてくれるって約束よ」

 遼子女史は、そう言うといきなり、小林君の首に手を回し、唇を重ねたのだった。うっ、うっ、と息を詰まらせている彼を押し倒すように、身体を預けて行く。ふたりはドアのすぐ傍のじゅうたんの上に、重なったまま倒れて行った。

「ご免ね、無理やりしちゃって……」

 ゆっくり唇を離しながら、上になっている遼子女史がうるんだ瞳を投げかけていた。

「キッスって、こうやってするんですね?唇を合わすだけだと思っていました。いきなり舌が入って来たのでどうしたらいいのか解らなくて、僕、変なことしませんでしたか?遼子さんの舌を絡めてしまったような……」

「まあ、ダーリン、ディープ・キッスも知らないの?」

「はい、キッスの経験がないもので……」

「ええっ?じゃあ、ファーストキッス?あなた、本当に童貞なの?女性とエッチした経験ないの?」

「ど、童貞って何ですか?女性経験なんてありませんよ。僕、未成年、十八歳になったばかりって言ったでしょう。あちらの世界では、まだ十七歳ですよ」

「そ、そうなのね、じゃあ、こんな小母さんが、あなたの初体験の相手ってことね?」

「初体験?まあ、キッスは初めての経験ですから……、すごくうれしいです。こんな美人とファーストキッスができて、うん、理想的です」

「そ、そう、そう言ってもらえると、わたしもうれしいわ」

「でも、これ以上の関係は駄目ですよ。僕、もうすぐ帰らないといけないんです。体調に異変を感じてきています。こちらの時間の流れの中に留まってはいられないようです」

「えっ?体調に異変?あの発熱の所為?」

「ええ、あれ以来、微熱が出たり、めまいがしたり、ちょっとした幻覚というか、元の世界の景色が浮かんだりするんです。呼び戻されているようで……」

「いつ、何時まで居られるの、ここに……」

「明日まで、明後日の朝には……」

「いやよ、別れるなんてできない、わたしも連れて行って、あなたの世界に……」

「無理です。あなたはその時代にまだ生きているんですから、ふたりの遼子さんが存在することはできません」

「わたしが生きている?じゃあ、わたし、八十歳以上長生きするってこと?」

「はい、お元気で、だから、約束したでしょう、いつか二人っきりで、昨日僕が行った場所へ行きましょうって……」

「そうね、そんな約束したわね、そこは何処なの?教えて」

「あの美しい人工の湖『神流湖』です」

「あら、あなたあのダム湖へ行っていたの?」

「ええ、幾つか確認したいことがあって」

「それは秘密にしなければならないこと?歴史が変わる可能性があるから……?」

「遼子さんすっかり理解できていますね。そうなんです。一部は絶対秘密です。ただ、お教えできる範囲でお話しします。ソファーに、あっ、もうベッドになっているんですけど」

「いいわよ、ベッドの中で、大丈夫よ、ディープ・キッスで満足したから、それ以上は求めないわ。座ってお話しましょう」

 ふたりはじゅうたんの上に座っていたのだ。半ば、身体をひとつにしているかのように接近して……。ベッドに変わっているソファーに並んで腰を掛け、小林君が話を始める。

「まず、容疑者の岡部の本籍、憶えていますか?吉田町っていいましたよね?」

 遼子女史は無言で頷く。

「その吉田町って、あの下久保ダム建設によって、水没した地域なんです」

「ええっ?じゃあ、岡部も補償金を貰った家族なの?」

「さて、おそらく逆の立場、彼、吉田町役場の会計課勤務だったでしょう?補償問題で、国と住民の板挟み、脅迫じみたことも受けていたらしくて、そのストレスからか、逃避の為か、役場を辞めて、東京へ出てきたそうです」

「まあ、彼もダム建設の関係者なのね?」

「そうなりますね。東京へ出てきてもいいことはなくて、転がり落ちるように生活が破たんします。酒に溺れ、元々酒には強い方じゃなくて、好きでもなかったそうです。元の役場の同僚の方の証言です。酒の力を借りないと生きられなかった。だが、その酒が犯罪行為を引き起こします。酒に酔って、女性にみだらな行為をする。痴漢行為で逮捕され、それが今回の事件へと繋がっているんです」

「だとしたら、ダム建設の犠牲者のひとりね、彼も……」

「そうなりますね。で、話を進めます。昨日、岡部の同僚だった方のお話を訊いた後、次は下久保小百合さんの知人の方を訪ねました。その方は、中学校の同級生、自殺した富岡ともクラスが同じだったこともあるそうで、ふたりのこともお訊きできました。ふたりの関係ですけど、中学時代は噂にもなっていなかったそうです。小百合さんはクラスのいいえ、学校中の人気者、片や富岡は影の薄い存在だったそうです。ふたりを結びつけたのはやはり、ダムでの立ち退きだったようです。クラスメイトの半分くらいが対象となった。その中で、不幸な結果になったのが、あのふたりだったそうです」

「そうよね、どちらもご両親が決別する結果になったんですものね」

「ねえ、遼子さん、驚かないでくださいよ」

「何?驚くような情報があるの?」

「ええ、僕も絶句しましたから……、小百合さんのお母さんが若い男と逃げた、ってのはご存知ですよね?まあ、金の切れ目が縁の切れ目、長続きしないで、捨てられています。それから、富岡の父親ですが、金をひとり占めして、これも逃走、でも長続きはしない……」

「まさかそのふたり……」

「ええ、最近、多分一年ほど前でしょうけど、ふたり、夫婦のようになって、水没した町の近くの町営住宅で暮らしていたそうですよ。生活保護を受けながら……、当然、別姓のままですけど……」

「まあ、何て恥知らずなの」

「その、小百合さんの同級生もそう言っていました。それと、その小百合さんの失踪についてですが、その母親の生活に関係しているんじゃないかって、これは憶測だけど、と断っていましたけれど、一度小百合さんがふたりの様子を見に来たことがあったそうです」

「そう、まあ実の母親だからね。裏切られても、血の繋がりは消せないわよね。じゃあ、富岡も父親の様子を見に来たのかしら?」

「それがですね、今、僕、町営住宅で『暮らしていた』って過去形で言ったでしょう?」

「ああ、そうね、今は暮らしていないってことよね?そりゃあ、富岡の父親には正式な妻がまだ生きているんだもの……」

「そう、で、富岡の父親は、いつの間にか、姿を消したそうです」

「まあ、恥を知っていたのね、そんな地元では暮らせなくなって、またどこかへ雲隠れってことよね」

「さあ、それならいいんですが……」

「それならいい?どういう意味なの?」

「自ら出て行ったのならいい、ってことです」

「ええっ?それって、人知れず、殺されたかもしれないってこと?」

「解りません、それ以上は調べる時間がなかったんです。もう一度ダム湖へ行って、それで帰ってきましたから……」

「そう、神流湖へ行ってきたんだ。それで、何時私を連れて行ってくれるの?さっきの話だと、わたしが八十過ぎてからのことらしいけれど、教えてもらえるかな?」

「はい、お教えしますよ。忘れないでくださいね」

「ちょっと待って、メモとペン貸して、五十年先まで頭の中だけじゃ不安だから……」

 遼子の依頼に、小林君はルーズリーフの一ページを外し、ボールペンを差し出した。

「このペンも、今の時代のものではないのね?見た事ないもの……」

「ドクターグリップ付きのボールペン、まだ発売されていなかったのか?」

「書きやすそうね、クッションが付いていて、ペンダコができないかもね。さあ、何時になるのかな?」

「はい、西暦二千二十年、令和二年、昭和の次が平成、平成の次の元号が令和です。今の浩宮殿下が天皇陛下になった時代です」

「そう、天皇の代も替わっているのね」

「ええ、今の昭和天皇も皇太子殿下も長寿を全ういたします。いや、今の皇太子殿下はご年齢を理由に譲位されて、上皇さまになられます。美智子妃殿下は上皇后さま。共にお元気ですよ、その時代まで……。その年の四月、桜の満開の時期にしましょう。ただ、新種のウィルスが蔓延している可能性がありますが、ふたりだけの車の旅なら大丈夫でしょう」

「そう、令和二年四月ね、ええ、約束しましたよ。あなたは多分、今のままなのね?わたしは腰の曲がったお婆ちゃんかしら?」

「ええ、本当の『お祖母ちゃん』ですよ……」


       13

「何だって?小林君、ここを辞めて、明日、邦(くに)へ帰るって?邦って、やっぱり、四国なのか?彼、わたしの女房の、祐子の縁者なんだろう?昨日の予言、あれ、祐子に子供がいるってことを知っているんだから……」

 翌朝、遼子女史の焼いたトーストとハムエッグ、香りの高いコーヒーで朝食を満喫している所長の団戸礼次は、突然遼子女史から小林君がいなくなることを知らされたのだ。彼は小林君が未来から来た少年だとは、決して認めない。そこで、彼の出した結論は、

(四国の祐子の遠縁の子で、家出してきたんだ。家庭内の問題か、進学で親ともめたか、あるいは、イジメに遭ったか……)

 と、遼子女史が、妄想したのと、ほぼ変わらない結論を出したのである。

「まあ、帰るとしたら、四国ね、時代は違うけど……」

「おいおい、真に受けているのかよ、あれは、小林君得意の、ルパン顔負けの詐欺師の本領発揮だぜ」

「いいのよ、礼次には理解不能の範疇だってことは、端から解っていたから。どうせ、ダーリンのこと、ただの家出少年だとでも思っているのでしょう?」

「い、いや、そ、それは……」

 図星をつかれて、咥えていたトーストにむせてしまう。

「ところで、その祐子さんには連絡したの?あなたに子供がいるか、確認せずにはいられないわよね?」

 遼子の言葉に、一瞬、ドキっとさせられたが、何食わぬ顔で、コーヒーを口に運び、心を落ち着けた。

「ああ、今朝早く、祐子の実家へ電話してみたよ。義父が出て、酷く叱られた。今まで、連絡しないとは何事かって……。昔から怖い人だったからなぁ、『いごっそう』っていうそうだぜ、そういう性格の人を……」

「それで?祐子さんは?」

「ああ、笑っていたらしくて、父親の剣幕がおかしかったんだろう、こっちは、穏やかな口調で、お久しぶりね、って切り出したよ。まあ、最初は世間話というか、近況伺いをして、それから、探りを入れたんだよ。君、子供ができたって?とね……」

「あら、最初から、その事を知りたくて電話したって言えばいいでしょう?男らしくないわね……」

「いや、こっちに落ち度というか、引け目というか、があるから……、まあ、そう切り出すとね、『あら、ようやく噂が伝わったの?四年近くかかったのね、東京は遠いところなのね』だってさ。名前は『正祐』、小林君が言っていたとおりだったよ。今年四歳になるってさ。父親に似ず、可愛い子よ、だって、余計なことを笑って言ってたよ。それで、その後がいけない……」

「その後?何があったの?」

「父親が電話を替われって言ってね。わたしに、『父親が離れて暮らすのは、子供の養育に良くない。孫もそろそろ幼稚園だ、こちらで、就職を斡旋するから、引っ越してきなさい。いいかね、来年の春までには、こちらへ来るんだよ』そう言って、電話を切ったんだ」

「それはそうね、子供には父親が必要よ。そうか、あなたもいなくなるのか……」

「いや、まだ、決定ではないよ。わたしは『マスオさん』にはなりたくないからね」

「だめよ、運命に逆らっちゃあ、未来は変えられない。あなたは四国へ行って、警備会社に勤めて、孫の顔を見て、満足して天国へ行くのよ。わたしは八十過ぎまで生きてやるわ」

「おいおい、小林君の予言を成就させるのかい?」

「そうよ、わたし、予感していたの、和音の事件の真犯人が解った時、この探偵社を作ったのは、このためだったんだって……、だから、もう幕引きの時期が来たのよ。芳夫君がいなくなって、あなたも四国へ行く。わたしは……、そうだ、アメリカへ行こう、わたし、やりたいことを見つけたのよ。少し時間が掛かるかもしれないけれど、できないことじゃないわ……」

「ア、アメリカ?何をしに、何のために?」

「難民を救うためよ」

「難民?」

「そうよ、世界にはこれから、難民が増えるんですって、地球のあちらこちらで、小さな戦争や紛争があって、そのたび、土地を追われる人ができるのよ。芳夫君がそう言ってた。わたし、そんな人の役に立ちたい。だって、それを知っているのは、わたしひとりなのよ、世界中で……」

       *

「所長、遼子さん、最後にお願いがあります」

 午後になって、小林君が事務所に顔を見せてそう言った。

「所長にお願いしたいことは、富岡の父親の行方です。下久保ダムの近くに、去年までは暮らしていた、小百合さんの母親と同居していた処までは掴んでいます。その後どうなったのか、調査をお願いします」

「ああ、解った、警察の知人や、知り合いの探偵社を総動員して、調べてみるよ。だけど、結果を何処へ知らせればいいんだね?」

「はい、それをこれから説明します。遼子さんへのお願いです」

「何?何でもするわよ、死ねと言われれば、一緒に死ぬわ」

「何をバカなことを、五十一年後に逢う約束でしょう?」

「五十一年後?君たちそんな約束をしてるのか?わたしは?逢えないのか?」

「所長は、孫の顔を見て、そう、四、五年は一緒に暮らせますよ。遼子さんは、五十一年後までお逢いできないと思います」

「孫?君はどこまでもペテン師を貫くつもりなのか?君がわたしの孫な訳がないよ」

「礼次、興奮しないで……。それで、わたしへの依頼って何?」

「この封筒を、郵便局へ預けてもらいたいんです」

 そう言って、彼は茶色の普通の封筒を取り出した。切手が貼られてあり、住所、宛名、それと、住所の上部には七桁の数字が横書きで書かれてあった。

「手紙なら、ポストに入れればいいんでしょう?」

「いいえ、それでは困るんです。この宛名に届かないから」

「届かない手紙をどうして出すの?」

「今は、届かないのです。説明します。この手紙を、それと、先ほど所長に依頼した、富岡の父親の調査結果の書類、それを一緒に、別の大型封筒に入れてください。それを、『東京中央郵便局』に直接持って行って下さい」

「直接でないといけないのね?」

「そうです。『配達日指定郵便』でお願いしたいのですが、そういうシステムができるのは、昭和六十一年頃です。今は『年賀状』くらいしかありません」

「ああ、指定した日に届けて欲しいのね?それはいつなの?来年のお正月?」

「いいえ、西暦二千二十年、三月二十五日です」

「二千二十年?五十一年後か……」

 と、礼次が感嘆の吐息をつく。

「解ったわ、冤罪を晴らすための証拠にするのね?歴史は変えられない、だから、今、真相を究明するわけにはいかないのよね?」

 遼子の言葉に、小林君は頷く。だが、礼次は、

「冤罪の?まさか、五十一年後に岡部の冤罪を晴らすっていうのか?そ、そのために、き、君は、ここへ来た、時空を越えて……、そんなバカな……」

「いいのよ、礼次には理解できないかもしれない、ってのは、織り込み済みよ。SF小説を読んでいる気で、芳夫君の話を訊いていてね。でも、その日を指定するのは、難しいかもね?郵便局で笑われるのがオチよ」

「はい、そこで、遼子さんの人脈が必要なんです。伯父さまの、孝太郎さん程度の大物を駆り出して、郵便局長に脅しを、いや、国家の秘密計画(プロジェクト)だと、説明して、局内の耐火金庫へ、代々の局長引き継ぎとして保管するよう、図ってもらいたいんです」

「あら、おもしろい、簡単よ。郵政大臣は、伯父さまの後輩だから」

「そうですか、頼もしいですね。では、所長の方の報告書も、この配達日指定の封書に入れてください」

「解った、しかし、なんだね、この切手は?エエーと、合計で百六円も貼ってあるじゃないか?」

「二千二十年の郵便料金、一般の定形封書代と、配達日指定代を合わせたものです。もし、五十一年間の保管料と言われたら、別途お支払いください」

「いやぁね、国家プロジェクトよ。タダに決っているじゃないの。料金取るなんていう局長だったら、左遷よ、クビにはできないから……」

「いやいや、ルパン顔負けのペテン作戦だね。だけど、岡部以外に犯人がいるのかい?それを証明して、冤罪を晴らすことができるのかい?」

       *

「これは、絶対他言無用でお願いしますよ。そうでないと、歴史が変わって、僕が生まれないかもしれませんから……」

「ええっ?ダーリンが生まれない?」

「まあ、そこまで、変わらないとは思いますが、所長の将来は確実に変わります。名探偵の誉れ高き勲章を得るでしょうから……。そんなものは、いらないでしょう?」

「いらないよ。可愛い孫の顔が見たいからね、君の話に乗っかった場合だが……」

「では、公園の婦女暴行殺害事件の真相をお話します。仮説ですが、ほぼ間違いないという自信があります」

「ほほう、君の仮説に今まで間違いはなかったからね、信じるよ」

「そして、その真相は口外無用なのね?」

 はい、と頷いて、小林君が仮説という事件の真相を話し始めた。

「岡部が犯人でない、ひとつ、それは、岡部のねぐらとしている、ベンチと死体の発見された公衆トイレとの位置関係です。ここにあの公園の略図があります」

 そういって、ルーズリーフの用紙に書かれた、公園の地図をテーブルに置いた。

「トイレは、裏口に近い場所、ねぐらとされたベンチは、木々を挟んで、こう、結構離れているんです」

「だが、どこで、岡部が被害者の田代さんを襲ったのかは確定できないだろう?」

「はい、でも、時間が午前一時過ぎ、岡部は酒に酔っていた。記憶がなくなるほど……、としたら、もう、ベンチで寝ていた時間ではないでしょうかね。ほら、例の三日間の写真に写った岡部も最初の方に写っていて、深夜には写っていませんよね」

「そういえば、何時も最初の方のコマに写っていたな、それで?」

「つまり、日常彼は遅くても十二時にはベンチで寝ていたんじゃないか、その日たまたま、遅くまで起きていたことはないと思います。彼はそんな証言はしていませんから、いや、これは未来の裁判記録のことですが……。ですから、事件発生当時、彼はベンチで寝ていた。そこへ、田代さんが通りがかった、というのが、考えられる、事件の発生状況です」

「そうね、そこまでは、問題ないと思うわ。そこで、岡部が変な気を起してた田代さんに襲い掛かって、抵抗されて、首を絞めて殺害、よね」

「公衆トイレまで追いかけて行ってですか?かなりの距離、酔っ払いが、素面の女性に追い付けますかね?検死の結果、死体は発見現場からほぼ動かされていない。おそらく、首を絞められたのは、トイレの前、そこで、倒れて、トイレの横に転がった、との結論が出されているんです。だから、岡部が犯人としたら、そこまで、彼女を追い掛けて行ったことになるんですよ」

「なるほど、不自然だね。だが、殺人が起きているんだ。誰かが田代さんの首を絞めた。岡部以外にいるのかね……」

「います。富岡常政という男が……」


       14

「しかし、富岡と被害者の田代さんとはまるで接点がないんだぜ。富岡が婦女暴行の常習犯とか、仕事のストレスがたまっていて、女性を襲ったとか、その可能性も薄いんじゃあないか?職場の同僚の話では、仕事熱心で、残業はあるが、仕事は充実していたそうだから……」

 礼次が小林君の仮説に対し異論を唱える。

「富岡が変質者だとは言っていませんよ。だが、彼にも秘密があったはずです」

「秘密?」

「そう、事件の前日も残業で遅くなっていましたよね。当日も残業で遅くなったことは、同僚の方もおっしゃっていました」

「ああ、だから、事件当日、あの公園を通った可能性は大いにあるだろうがね」

「前日の写真で、彼は奇妙な行動をとりましたよね?ほら、一度写真に写ったのを知って、引き返してきて、玩具のダミーのカメラを壊したりして……」

「ああ、あれは酔っぱらっていたんじゃないかな?」

「いえ、しっかりと目的をもって、カメラを壊しに帰ってきています。その理由を考えると、彼にはやましいことがあった。遼子さんが言ってたでしょう、犯罪者なのかもしれないって……」

「彼が犯罪者?どんな犯罪を起こしたというのかね?万引きかね?」

「いえ、殺人だと思います」

「まさか、父親を殺したとでもいうの?行方が解らないという……?」

「遼子さん、行方不明者は富岡の父親だけではありませんよ」

「えっ、えっ、えっ?ま、まさか、下久保小百合さんを富岡が……?こ、恋人なのよ」

「愛は憎しみに代わりやすいというでしょう?何かをきっかけに、愛する人を殺したいほど、憎んでしまう……」

「確かに、わたしも刑事時代にそういう事件には出くわしたよ。男女の色恋沙汰は、日常茶飯事だからね。だが、どうしてそう言い切れるんだ?恋人がいなくなっただけで、殺人だと……」

「前にも言った、『因果関係』ですよ。孫ができるなら、子供が先に生まれている……」

「何を言っているのか、さっぱりなんだが……」

「礼次、凡才は黙って訊いていればいのよ。何かが『果』として、現実にあって、それに対する『因』を考えると、富岡が小百合さんを殺している、ってことになるのよ。その『果』っていうのも解らないんだけれど……」

「そうです。遼子さん、探偵の素質があります」

「それじゃあ、わたしはないってことか……?」

「まあ、普通の人ですから、所長は……。いや、ごめんなさい、話を進めます。その『果』の方が、田代さんの首を絞めて殺した、という結果です」

「おいおい、そっちも、確定じゃあないだろう?不確定な『因』と不確定な『果』では、因果関係にはならないぜ」

「ははは、流石、所長、誤魔化しは効きませんね。確かに、不確実な要素が濃い、だけど、他には考えられない、どんなに可能性が低くても、ありえないことを削除していくと、最後に残る、可能性、10%以下の仮説でも、それが真実なんです。

 いいですか、岡部の犯行はあり得ない。他に変質者らしき人物は見当たらない。としたら、変質者の犯行ではない。田代さんに恨みのあった人物?そんな人物は現れていないし、いたとしても、あの公園にあの時間にその人物が偶然現れるわけがない。では残されたものは……、人違いによる殺人です」

「ひ、人違いだって?田代さんは誰かと間違って殺されたというのか?」

「待って、そう言えば、何処となく似ているわね?」

「えっ?誰が誰と似ているんだ?」

「被害者の田代さんと、下久保小百合さんよ。公園に仕掛けたカメラに写っていた顔と、一昨日、小百合さんの従姉の可南子さんが持っていた小百合さんの妙に沈んだ顔、そっくりではないけど、ふたりとも目の大きな現代的な美人だし、背格好も同じくらい、もちろん年齢も、それから、髪の長さも同じくらいのロングヘヤーよ」

「そうか、遼子さん、小百合さんの一番新しい写真を見たんですね?失踪する二日前に撮ったという……。そうなんです。あの写真の小百合さんは被害者の田代さんに大変良く似ている。公園のあの薄暗いライトの下で、変質者に襲われたばかりの恐怖の顔をした女性が目の前に現れたら……、それが、自分の手にかけた女性の顔とそっくりだったら……」

「きゃあ!」

「お、おい、怪談話になってきてるぜ」

「富岡にとっては、まさに怪談。幽霊が出たと思ったのでしょう。さて、そこで、富岡の当日の行動ですが、残業があり、最終の電車で帰宅したそうです。おそらく、駅前の居酒屋か、ラーメン屋などで、腹ごしらえをしたはずです。暑い夜だったから、ビールの一杯ぐらいは飲んでいたでしょうね。それで、深夜一時過ぎに公園を通り抜けようとする。裏口近くの公衆トイレで用を足して、出てきたところへ、髪の毛を振り乱して、恐怖の表情を浮かべた女性が目の前に現れる。トイレの前のライトは逆光に近い。前日にも変なフラッシュを浴びて、この公園では不思議なことが起きるという先入観。そして、季節はお盆が近い……。もちろん、彼の心にやましい気落ちがヘドロのように沈殿していたでしょうね、犯罪者、それも殺人者なのだから……」

「目の前の女性を、殺したはずの恋人が化けて出てきたと……」

「それとも、完全に死にきれていなくて、復讐に蘇ってきたのかと思ったんでしょうね。だから、もう一度首を絞めて、今度は完全に息の根を止めたんです」

「そうだ!」

「えっ?遼子、何を急に……」

「さっき、話した小百合さんの失踪前の写真、二人で写っていたんだけど、ふたりとも首にスカーフをしていたわ。お揃いの……」

「よく気がつきましたね、そうなんです。小百合さんは気管支が弱くて、夏でもスカーフをしていたそうです。そして、田代さんもスカーフをしていましたよね?条件がそろい過ぎていた。人違いが起きる条件がね……」

「じゃあ、そのスカーフが見つかれば、富岡の指紋がついているってことだぜ」

「ええ、多分、スカーフはとっさに、危険だと感じて、ポケットにしまい込んで持って逃げたと思います」

「ああ、あの日、カメラをセットしていたら、富岡の慌てた姿が映っていたはずだ」

「ダ、ダーリン、デジタルカメラ……」

       *

「やっぱり、おかしいぜ」

 小林君の事件真相解明の話が終わり、彼は部屋に帰っていった。明日の早朝に帰る準備のためだった。

 ソファーに残った二人がため息をついた後、礼次が遼子に問いかけたのである。

「やっぱり、ペテンだぜ。因果関係が、どちらも決定的ではないような気がする。富岡が小百合さんを殺したから、人違いが起きた。それが因果の流れだ。だが、彼は逆に推理をしているんだ。富岡が田代さんを殺害する動機、それは人違いしかない、人違いで殺人、しかも首を絞めて殺すという残忍な手口から、過去に殺人を犯していたと、そう推測しているんだ。『卵が先か鶏が先か』って、話だよ……」

「でも、真実は一つよ。岡部が犯人じゃない。岡部はそのきっかけを作っただけ。犯人はそのすぐ後に、首を絞めて殺しているのよ。暴行ではなく、首だけを、ね。それができるのは、富岡だけ……、しかも、状況は彼の犯行としか思えないわ。恋人の失踪、父親との確執、殺人者となる条件はそろっているのよ」

「しかし、これじゃあ、和音君の事件の時の大曲署長と同じだぜ。犯人死亡で幕引き」

「違うわ、彼は幕引きができないのよ。五十一年後でないと、歴史を変えられないから、今、真実を語れないのよ」

「またまた、未来から来た少年の話を真に受けているんだから……、ストーリーとしては面白いよ。富岡が真犯人の可能性もあるさ。だが、小百合さんは失踪してるんだぜ。死体は発見できていないんだ。殺されているって証拠はどこにもないんだぜ」

「あっ、そうか!」

「また、突然、ひらめいたのか?」

「うん、小百合さんの死体は、おそらくあそこに眠っているわ……」

       *

「ではお元気で、所長には三十三年後、遼子さんには、五十一年後に逢えるはずです。遼子さんに逢うのは、僕にとっては、一週間か二週間後になると思うのですが……」

 まだ明け切れていない、ビルの前の通りは、薄い靄か霧がかかっていた。大き目の黒系統色のスポーツバッグを軽く叩いて、長髪の少年は、見送りにビルの玄関口にたたずんでいる、男女二人に声をかけた。

「ダ、ダーリン、一緒には行けないの?五十一年って、永過ぎよ」

「いえ、遼子さんはこれから大変な人生を歩まれます。波乱万丈?とても充実した人生です。振り返れば、あっという間のような……。その話を僕に訊かせてくださいね?一週間後に、僕の世界で……」

「こ、小林君、わたしは騙されないよ。君がわたしの孫だなんていう、ペテンにはね。だが、万が一、本当なら、君の本名をわたしが言い当ててみよう」

「礼次、何を言っているの?ダーリンの本名?それは秘密のはずよ」

「いや、小林君がわたしの孫だったら、そしてその誕生をわたしが祝うというのなら、わたしは孫の名前を決めているんだ。わたしに命名権があると思うよ」

「そうですね、僕の名前は祖父がつけたそうです。兄弟全員、兄が二人と姉が一人ですが、皆、祖父がつけています」

「そうか、じゃあ、君の名前は『神堂マサヨシ』だ」

「ちょっと待ってよ、それは、あなたの本名でしょう?正義(せいぎ)と書いて、マサヨシ。子供の頃から、『セイギ』って呼ばれていて、名前のとおり、正義感が強くて、弱い者いじめをする子がいたら、上級生にでも向かって行って、ボコボコにされていたわね。周りから、将来警察官になるって、言われてて、そのとおり、刑事になった」

「ボコボコにされたのは、負けたからじゃない。柔道を習っていたし、空手もかじっていた。本気を出したら、相手に怪我をさせる。だから、黙って殴らせていたんだ。そしたら、いじめられていた子が、『もうやめろ!』って、止めに入ってくれてね。いじめていた奴らも、殴り飽きたのか、手が痛くなったのか、『このくらいで勘弁してやる』って、引き揚げたんだよ。その後は、わたしを見かけると、こそこそ逃げ出したよ。柔道の有段者だと、知ったらしくてね。いじめられていた子も勇気を出して、嫌な誘いは断るようになったよ。まあ、昔の戦後すぐの頃のことさ」

「そうか、『セイギ君』だったんだ。あのライターのSの頭文字は、正義のSだったんですね?所長の綽名、いや勲章かな?」

 小林君の言葉に、礼次と遼子は顔を見合わせて、しっかりと笑った。

「それで、ダーリンの名前も『セイギ』のマサヨシにするの?」

「いや、ヨシの文字は違うさ。小林君の名前の『芳夫』のヨシさ。神堂正芳、どうだ、いい名前だろう?」

「うん、いい名前、決定ね」

「どうだい?君の本名と一致するかい?違っているはずさ、だから、君はわたしの孫じゃない、てことになるんだ」

「そ、そうだったんですか、僕の名前は、僕が名乗った、偽名から取られていたんだ……。いや、小林芳雄は実在している。W大の犯罪学研究同好会の会長として……、嫌だな、その人の名前が、僕の名前になったのか……」

「えっ、何だって?それじゃあ、君の本名は……」

「はい、正芳です。ありがとうございます。素敵な名前を頂きました。三十三年後にですけど……。こちらの世界へ来る時に、母が『お祖父さんによろしく』と言っていましたよ。お祖父さん……。では、これで、薬が効き始めましたから……」

「ダ、ダーリン待って、さ、最後に、キ、キッスして………」

 背を向けた少年に向かて、遼子は手を差し伸べた。

「遼子さん、一週間後、再会したら、その時は、熱いキッスをしましょう。絶対約束します」

「で、でも、その時はわたし、八十歳を超えたお婆さんよ。皺くちゃよ……」

「そう、皺は増えているかもしれませんが、美人のままですよ。それに、ものすごく、人生の深みを感じる、神々しさにあふれている、かもしれませんね?」

「かもしれないの?ひどい……」

「小林君、いや、正芳、元気でな、いや、元気なのは決まっているのか?三十三年後を楽しみにしているよ。君のペテンに掛かっていないことを祈って……」

 はい、とひとこと言って、少年は背を向けた。朝霧が濃くなって、少年の姿を包んで行った。そして、すぐに、その姿は視界から消えてしまった。

 慌てて、ふたりが霧の中へ駆けだす。だが、点滅している信号機まで追いかけても、少年の姿は見えなかったのである。

「ダーリン、五十一年後、きっと、逢おうね、そして、キッスするわよ……」


       転の章


「こちらに、小林芳夫という、少年探偵さんはいますか?」

 小林君が消えてしまった翌日、遼子は何もする気が起こらず、事務所のソファーに身を沈ませていた。その客が、ドアをノックしてはいって来た時、礼次はトイレに座っていたのだ。

「はい、居ります、いえ、もう辞めたんですが……、アルバイトだったもので……」

 遼子は慌てて、よく解らない答えを言ってしまう。

「あらそう、残念だわ。あの子なら喜びそうな情報を提げてきたのに……」

 そう言ったのは、六十歳代後半ぐらいの女性である。白髪混じり――殆ど白髪に近い――の髪にパーマがきれいに当たっている。服装もシックなワンピースにレース地の肩掛け風のカーディガン。ワンピースは藤の花をデザインした模様が染められていた。

「あの、どちらさまでしょうか?小林のお知り合い?」

「ええ、先日、わたしの経営するアパートへ事件の調査にいらっしゃったわ。確か、団子、とかいう気障な髭を生やした男と一緒に……」

「ダンゴ?ぷっ!それは、団戸ですわ。団戸礼次、うちの所長です。でも、団子のほうが憶えやすいわね、あの鼻から……」

「あら、団戸?そう、あのお鼻だと、団子よねぇ」

 そういう会話が続いていると、隣の部屋から、大きなくしゃみの音がした。ドアが開いて、ハンカチで手を拭きながら、話題とされていた団子、いや、団戸礼次が現れたのである。

「遼子君、お客さまかな?」

 と、所長としての威厳を身体全体で表そうと、ゆっくりとした口調で礼次が言った。

「れ、礼次!ファスナー、ズボンの……」

 遼子女史が慌てて指摘する。礼次の『社会の窓』が大きく開いていたのだ。

 くるりと背中を向け、チャックを引き上げてから、何事もなかったように、礼次は振り返った。遼子の方が顔を真っ赤に染めていた。

「おや、これは、これは、富岡さんのアパートの大家さん。ミス・マープルさんでしたか」

「ミス・マープル?」

 事情を知らない遼子は首をかしげる。

「あら、憶えてくださったのね。わたしがクリスティーファンだったってこと……」

「ええ、忘れはしませんよ。それで、今日はどんなご用件ですかな?事件発生ですかな?」

「ほら、ご存知でしょうけど、富岡さん、自殺したのよ、新聞に出てたでしょう?下久保ダムって、あの人の生まれ故郷の村が沈んでいる、そこの崖から飛び降りたってね。それでかな、昨日、刑事が来たのよ。富岡さんの自殺の原因を調べるとか言ってね。部屋を見せてくれって言ったけど、令状も持ってなくて、わたしお断りしたのよ。そしたら、その刑事が、富岡の父親が訪ねてきたことはないか、って訊くのよ。自殺と何の関係があるのか説明もないから、知りませんって答えたけど……、実は、以前、父親と名乗る男が来たことがあったの。でね、そのことを警察に知らせるより、あの可愛い探偵さんに知らせたほうが、有意義だと思ってね。だって、警察に話したらそれっきりでしょう?後でどうなったか教えてくれないわ。でも、探偵さんなら、わたしの情報がどう役に立ったか、教えてくれるわよね?」

 その刑事というのは、礼次が依頼した、探偵社のオプのひとりだろう、と想像できた。

「ほほう、流石マープルさんだ。よく来てくれましたね、我が探偵社に。もちろん、情報をくれた方には、その結果もお知らせいたしますよ、ただし、言える範囲がありますし、他言は無用でですがね」

「ええ、解りますよ。捜査に支障、裁判にもね。でもあの子なら、コッソリ教えてくれそうな気がしたのよ。女の勘でね」

「それで、富岡さんの父親はいつごろ訪ねてきたのですかな?」

「去年の秋の終わりごろかしら、汚いなりだったわ。汚れて、継ぎのあたったコートというか、オーバーね。髪はボサボサ、無精ひげだらけ、浮浪者と思ったわ」

「富岡さんとはお会いできたのかしら?」

 と、遼子女史が話に加わった。

「富岡さん、仕事が忙しくて、帰るのは深夜、朝も早くに出勤、出張することも結構あった、結局、会えずに帰ったの。それで、これを息子に渡してくれ、と言って、封筒に入った手紙を渡してくれたのよ」

「ほほう、何か大事な用件があったのですな?」

「そうよね、ところが、そこへあの恋人だった、えーと、上久保、じゃない、下久保、下久保小百合さんがたまたま、お部屋の掃除に来たのよ。それで、富岡さんのお父さんだって、紹介してしまって、手紙は彼女の手に渡ったのよ。封がしてなかったから、多分中身を彼女、読んだはずよ。その晩、部屋から、口論する声が聞こえたの。富岡さんと小百合さんのよ」

「どんな口論だったんですか?」

「いえ、内容は解らないけど、あいつは父親じゃない、とか、死んで詫びてもらうとか、富岡さんがあんな興奮した声出したの初めてだったわ」

「まあ、家庭の複雑な事情があったんでしょうな。家を飛び出した父親が、何年か後に帰ってきて、金でもせびりに来たんじゃないかな?」

「そうね、ルンペンみたいな恰好だったから、お金は持っていなかったでしょうね」

「それで、その後は?父親は訪ねてきたのですか?」

「いえ、わたしの知っている限り、訪ねては来てないはずよ。それに、それからだったの、あんなに仲の良かった、富岡さんと小百合さんが妙によそよそしくなって、そのうち、小百合さん姿を見せなくなったのよ。失踪したって聞いたのは、もう少し後だったけど……」

「ええっ?つまり、その口論があった後、何日かして、小百合さんは失踪したってことなんですか?」

 と、遼子が確認をした。

「ええ、そうね、半月も経っていなかったと思うけど……」

      *

「何だって、富岡の父親は亡くなっているって?それはいつのことで、死因は何なんだい?」

 ミス・マープルの大家が帰って、礼次は依頼していた探偵事務所に、捜査状況の確認の電話を入れたのだ。その答えが、まだ、確定的ではないが、と前置きして、富岡の父親が死亡していることだったのである。

「今年の二月、ひどい寒波の夜が明けた、朝に公園のベンチの陰に段ボールと新聞紙にくるまれて、男性が息を引き取っていたんだ。凍死さ。ホームレスだったようだ。身元不明のままだったんだが、こっちでも、身元不明の死亡者を当たっていたからね。聞込みの特徴と一致して、今、指紋を調べている。群馬県の鬼石町の町営住宅に住んでいた時の指紋があるんだ。同棲していた女から、富岡の父親が使っていた、櫛やコップ、歯ブラシなんかを押収してね、指紋が残っているからね。それで、ほぼ間違いなし、昔、手術したっていう、盲腸の跡もあったし、間違いなしさ。殺しの目はないよ。一緒にいた浮浪者の仲間が、寒いから地下街へ行こうと誘ったのを、断ったんだってさ。半分自殺行為だね」

「そうか解った。後で、報告書を頼むよ」

「ああ、同棲していた女の話も詳しく書いておくよ。何の事件を追っているのか知らんがね、まあ、参考になればいいが……」

 そう言って、相手の元刑事の探偵は受話器を切ったのだ。

 その報告書が届いたのは、夏の全国高校野球選手権の決勝が行われていた日だった。松山商業対三沢高校。前日、延長十八回、0対0、再試合になった、決勝戦である。

「ほほう、これは興味深い報告書だぜ」

 礼次は報告書のうちの、小百合の母親からの聴き取り部分を読みながら、そう呟いた。

「何が興味深いの?」

 と、傍らのソファーに座っている遼子女史が尋ねた。

「まあ、読んでみたまえ」

 と、その部分を礼次は遼子に手渡した。

 そこには、新たな事件を匂わせる内容が書かれてあったのだ。

「これって、殺人未遂事件……?」

       *

 小百合の母親、則子の証言として書かれた報告書には、富岡の父、邦政が毒――ヒ素――を飲まされて、死にかけたことがある、と話している。

 去年の夏の終わりか秋の初め頃らしい。則子は仕事を探しに出かけていた。夕方、成果もなく帰ってくると、台所の床の上で、邦政が腹を押さえて苦しんでいる。

「どうしたの?」

 と駆け寄ると、

「み、水をくれ……」

 と言う。

 コップ一杯の水を与えると、台所の流しにふらつく足取りで、辿りつき、口に指を押し込み、飲み干した水と一緒に、胃の中のものを吐き出したのだ。

ゲエゲエと胃液まで吐き出した後、ぐったりと床にしゃがみこんでしまった。

「どうしたのよ、何があったの?」

「ど、毒を盛られた。多分、ヒ素だ」

 と、邦政は少し落ち着いた様子ではあったが、震える声でそう言った。

「だ、誰が、あんたなんかに……」

「息子さ、常政が訪ねてきたんだ。それで、インスタントのコーヒーを入れたんだが、角砂糖に、毒を入れられた。あいつは、ブラックがいいと言って、入れなかったから……」

「息子さんが来てたのね?で、でもどうして、あんたに毒を……?」

 台所のテーブルには、コーヒーカップがふたつと、角砂糖の入った硝子のポットが並んでいた。飲みかけの冷めたコーヒーが、カップに残っている。

「あいつは、俺を恨んでいる。聡美が自殺を図って、殆ど記憶喪失の状態で、精神病院に入院しているそうだ」

「聡美さん?あんたの奥さんね?自殺を図ったの?そう、恨まれても仕方ないわね、わたしも恨まれているわ、きっと、小百合に……」

 その、小百合がふたりの住む町営アパートを訪れたのは、三日後だった。則子は邦政が息子に殺されかけたのを告げたのだ。彼女は娘が邦政の息子と付き合っていることを知らなかった。

「あんたもわたしを殺したいほど憎んでいる?」

 と、彼女は娘に尋ねた。

「いえ、憎んでないと言ったら嘘になるけど、殺したいとは思わない。たったひとりの肉親だから……。でも、ヒ素は角砂糖に入っていたのよね?もし、邦政さんが意識不明で、知らずに、お母さんが角砂糖を使っていたら、お母さんも死んでいたかもしれないわよね……?」

       *

「その翌日、邦政がいなくなった、か……。意味深な報告書ね」

 報告書の則子の聴き取り部分を読んだ遼子がそう感想を漏らした。

「ああ、こっちの邦政に関する報告書には、邦政の死亡解剖の結果が記載されている。死因は凍死だが、血液中に微量のヒ素が検出されたそうだ。それともうひとつ、邦政はそれよりかなり前に富岡常政、つまり息子の状況を把握していたようだ。つまり、小百合という、則子の娘と付き合っていることを知っていたってことになる」

「邦政が失踪した理由、自分が生きていることを、小百合から常政が訊いてしまう。そしたら、また殺しに来る。今度は確実に、死を確かめるまで……」

「そうだね、大家の言っていた『口論』ってやつが、ここで繋がる。小林君の仮説はどうやら的を射ているようだ」

「でも、絶対他言は無用よ。歴史が変わる。あなたは孫に、わたしは愛するダーリンに逢えなくなるかもしれないのだから……」

「ああ、解っているよ。しかし、岡部は気の毒だな、無実と解ったのに、無期懲役で刑務所行きだぜ。何とかならないのかね?」

「ならないわ、歴史がそう決まっているんだから。そうだ!歴史が決まっているで思い出した」

「な、何なんだ、また急に……?」

「あなた、日記帳に事件簿みたいな手記を書いているでしょう?」

「えっ、どうして知っているんだい?」

「未来のことは知っているのよ」

「ああ、小林君から訊いていたのか」

「ううん、彼のバッグにあったものを勝手に読んだんだけどね。後で謝ったわよ。それであなたにお願いよ」

「何だね、改まって……」

「その日記、改ざんして欲しいの、いいえ、元に戻して欲しい、と言った方が正解だと思う」

「元に戻す?元も今もないと思うんだが……」

「いえ、ちょっと、歴史が変わったのよ。芳夫さんがこの世界へ来たために、そこで、修正が必要なの」

「よく解らないが、パラドックスが起きたんだな?」

「そうよ、いい、改ざんする箇所を言うわよ。まず、芳夫さんの『オ』の字、『雄』にする。それから容姿、短髪で眼がくりっとしていて、流行の長髪でないスポーツマンタイプ、それで好感が持てる、そう書くのよ。それと、長野の事件と、和音の事件、未完結で終わるのよ。未完結事件だから、彼――芳夫さん――が時空を飛んできて、解決することになるのだから……」

 遼子女史は、盗み読みした古い日記帳の文面をできる限り正確に、礼次に伝えた。礼次は必ずそうすると約束したのだ。

「さて、この探偵社からの報告書を、預かっていた封筒に入れて、君の伯父さんから郵政大臣を通じて話が行っている『中央郵便局の局長』へ届けるか。おや、今、宛名を確認したんだが、宛名の名前が『白川正臣』その前に、『白川法律事務所内』ってあるぜ。白川って、君の旧姓と同じだな。偶然かな?」

 礼次は合計で百六円の切手が貼られた定形封筒の表を見ながらそう言った。

「白川法律事務所?それに、正臣?」

「何か、思い当たるのかね?」

「いえ、そんなはずないわ……」

「どうした、浮かぬ顔をして……」

「わたしの兄、白川貴彦、今、地方判事なのよ。でも、辞めたいって言ってたの。それで、法律事務所を開いて、弁護士の仕事をする計画があるのよ」

「ええっ?じゃあ、これは未来の君のお兄さんが開く、弁護士事務所宛ってことかい?」

「解らないわ、別の白川かもしれないし。でも、もうひとつ、正臣って名前も気になるのよ」

「正臣?よくある名前かもしれん。ほら、俳優の『近藤正臣』って二枚目がいる」

「ええ、そしてもうひとり、最近耳にした人がいるのよ。神堂正臣、多分、未来のダーリンのお兄さん、弁護士をしていて、五十一年後の春に、下久保可南子さんが預かっている、小百合さんの写真を受け取りに行くと決まっている人なのよ」

「しかし、姓が違うぜ、白川と神堂……」

「でも、あなたとわたしの姓なのよ、偶然ってあり得るかしら……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る