第二の章 神堂刑事、最後の事件

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「事件が起きたのは今から、五年前よ」

 棒網探偵社の応接室で、ソファーに座って向かい合っている二人の人物。その女性の方がそう話を切り出した。

「東京オリンピックの年ですね?」

 と、もうひとりの人物が尋ねた。

「そう、オリンピックが終わった、その年の暮れ近くのことだったわ」

 遠くを見つめるような眼をして、女性、興園寺遼子は一旦話を止めた。前に座っている小林少年は黙って、いつも手元に持っている学生ノートサイズの茶色いバインダーを開いて、ルーズリーフの用紙に聴き取ったことを筆記している。

「わたしの息子、当時五歳。幼稚園児。名前は和音。音楽のワオンと書いて、カズネ、というのよ。親のひいき目かもしれないけれど、可愛い子だったわ。テレビのコマーシャルや雑誌の表紙にって、スカウトされたこともあったの。断ったけれどね。ああ駄目ね。こんな話、事件と全く関係ないことよ。ごめんなさいね。話が下手で……」

「いいえ、どうぞ、自分の言葉でお話し下さい。警察の取り調べではないのですから。普段のままの言葉で……。そこに何かヒントがあるかもしれません」

「ヒント?あら、事件は解決しているのよ。悲劇的ではあったけど、未解決ではないのよ」

「それは、お話を覗わないと……」

「あら、小林君の直感が、事件は終わっていないと言っているのかしら?まあ、どちらでもいいけど、和音は帰って来ないわ」

 そう言って、遼子は自分の家族に起きた悲劇を淡々と語り始めた。

       *

 事件が起きたのは、昭和三十九年十二月×日。クリスマスの近い平日の午後。場所は東京都武蔵野市にある、私立の大学付属幼稚園での出来事である。

 遼子の息子、和音はさくら組――年少組――の教室で絵を描いていた。クリスマスツリーの絵だった。担任の小池牧子が子供たちを見守っている。そこへ用務員の藤井が慌ただしく、教室に駆け込んできた。

「大変です。和音君のお母さまが交通事故に遭われて、救急車で運ばれたそうです。和音君の名前をしきりに呼んでいるそうで、今、迎えの車が来るそうです」

 後から思えば、怪しすぎる電話であった。だが、相手は有名な救急病院の名前を言ったし、迎えに来た車も高級車であった。黒いキャデラック。制服制帽姿の運転手が、いつも迎えに来ている、興園寺の使用人兼運転手『平賀優作』と名乗ったので、疑うことはしなかった。

 ただ、その時、運転手はマスクをしていた。

「風邪を引いたようで、子供たちに移すといけませんから……」      

 と、もっともらしい言い訳をしたのである。

 和音を乗せた車が走り去って、約一時間後、同じような黒塗りの高級車が園を訪れた。和音を迎えに来たという、書生風の男――北島陽介と名乗った――と、運転手の平賀である。

「じゃあ、さっきの車は……?」

 と、園長の青羽繁子が言葉を詰まらせた。

「和音君のお母さま、遼子さまがお怪我をなさったと伺いましたが……」

 比較的冷静に尋ねたのは、担任の牧子だった。

「お怪我?いや、そんなはずはありません。つい十分ほど前に、わたしにお迎えに行くよう指示なされたのが、奥さまの遼子さまですから……」

 興圓寺家からこの幼稚園まで、車でなら、十分の距離なのだ。

 さあ、その言葉を訊いて、園長と担任の顔色が変わった。まさか、誘拐……?と、二人の頭に同じ漢字二文字が浮かんだのである。

「け、警察へ連絡を……」

 と、園長はうろたえて言った。

「落ち着いて、どうなっているんです?和音君はいないのですか?」

 事情がよくわからない陽介がそう尋ねると、

「ゆ、誘拐かもしれません。和音君は先ほど、そう、一時間ほど前にお迎えの車がいらっしゃって……」

「お迎え?私共以外に、どなたが?」

「いえ、それが、病院から電話があって……」

 しどろもどろながら、牧子は母親の交通事故の電話からの一連の出来事を陽介に語った。

「間違いない、誘拐だ」

「で、でも、病院の方が間違えたのでは?和音という別の子供さんと……」

 園長は希望的観測を述べる。しかし、誰もその意見に乗ってはこなかった。

「では、取敢えず、その病院へ電話して、この園に電話連絡した者がいるか尋ねてください。わたしは、直ちに奥さまと先生にご連絡して、善後策を講じないといけませんから」

「警察には?」

「誘拐なら、警察に通報しないほうが良い場合があります。身代金要求なら、支払ったほうが解決が早い場合も……。とにかく、こちらから連絡いたしますから、何もなかったように、通常の業務をしていてください」

 そう言い残して、陽介は運転手の平賀とともに、車に乗り込み、園を後にした。

       *

「これが、わたしが北島から訊いた、事件発生の状況よ」

「なるほど、絵に描いたような誘拐劇ですね。確認の電話をしていれば防げることなのに、興園寺家か、その救急病院に……」

「そうね、後から考えれば、冷静さが足りない……」

「それで、警察には?」

「まず、夫に連絡をしたの」

「夫?そうだ、遼子さん未亡人ですよね?当時は旦那さんがいらっしゃった?どういった方ですか?」

「夫の名前は興園寺龍太郎。当時、都議会議員をしていたわ。若手の有望株。次期総選挙で国会議員にって、候補者名簿に載っていたそうよ。その日は、大阪の方へ出張中。ホテルに電話して、急遽、新幹線で帰ってきたのよ」

「誘拐犯から連絡は……?」

「その日はなかったの。それで、ひょっとしたらと、親戚筋や知人にもさりげなく尋ねたんだけれど、見つからなくて……、警察には通報しなかった。ただ、幼馴染で、警視庁の捜査一課にいる、知人には相談したの」

「ああ、それが所長なんですね?幼馴染だったのですか……」

「そう、で、翌朝早く彼が来てくれて、地元警察に捜査の依頼をしたほうがいい、と言ったのよ。営利目的でない誘拐かもしれないからって……」

「つまり、身代金の要求がなかったから、ほかの目的、例えば、子供の欲しい夫婦とか、人身売買のためとかですね?」

「ええ、そういうことね。でも、そんな話をしているところへ、婆やが――家政婦の年寄りだけど――朝刊と一緒に白い封書を持ってきたのよ」

「なるほど、それが脅迫状、いや、誘拐犯の身代金要求書だったわけですか?どのような内容の、どんな字体で書かれてあったのですか?」

「ありふれた封筒、宛名もなし、差出人もなし」

「つまり、郵送でなく、直接放り込まれたもの、ということですね?」

「そういうことでしょうね。中の文字は、新聞の活字の切抜きを張り付けたもの」

       *

『子供 預る 身代金 壱千万用意せよ 警察 言うな 子供の命大事にせよ 電話をする』と、不揃いの活字がありふれた便箋の上に踊っていた。

「やはり、営利目的の誘拐か。警察に連絡して、犯人との折衝の対応策を練りましょう。それなりの専門家が必要ですよ」

「いや駄目だ。子供の命が優先だ。身代金を払って、子供を無事帰してもらおう」

 遼子の幼馴染の刑事の言葉を、一睡もしていない赤い眼をした、夫、興園寺龍太郎が否定した。

「しかし、金の受け渡しなども、きちんと交渉しないと、お子さんの生存確認、犯人の要求の程度など、対策は必要ですよ。出たとこ勝負では、金を持ち逃げされるだけです」

「そうか、では、警察はアドバイスをするだけという条件で、捜査は子供が無事帰ってきてから開始する、ということなら、介入を認めよう。武蔵野南署の署長は地元の行事などで懇意にしているから、頼んでみよう」

「ああ、大曲警視ですね?あまり評判は良くないが、出世欲が強い方だから、議員さんの頼みなら、快く引き受けますよ。取敢えず、専門の刑事を変装させて来るように依頼してください」

 そう言った、遼子の幼馴染の刑事は、腰の曲がった老人に扮して、この屋敷を訪れたのだった。


       2

「話は進んでいるかい?」

 遼子と小林君のいる、応接室のドアを開け入ってきたのは、この探偵局の所長である団戸礼次である。

「所長、お帰りなさい。猫の置物盗難事件は無事解決しましたか?」

「ああ、出張から帰ってきた夫にちょっとカマをかけたら、白状したよ。友人宅に預けていたんで、すぐに回収して、一件落着。夫婦間の問題は、わたしの関知する事柄じゃあないしね。交通費のみを頂いて、はい、サヨウナラさ」

「まあ、簡単な事件ね。世の中のためにもならないし、褒賞金はなしね」

「おいおい、最低金額はくれないか?これでも、知恵を絞ったんだぜ」

「じゃあ、五千円」

「えっ、それだけか?」

「いいじゃないの、五円じゃないんだから」

「五円じゃあ、お賽銭だ」

「五千円なら、占い師の易代程度ですね」

「へぇ、占いって、そんなに高いのかい?知らなかったよ。いい商売だね」

「礼次さん、そっちに転職する?」

「いや辞めておくよ。当たらなくて、客が来なくなったら終わりだからね。それより、どこまで話が進んでいるんだ?そっちが気になって、慌てて帰ってきたんだ」

「まだ、あなたの失態の場面までは行っていないわよ」

 遼子は笑い顔でそう言って、武蔵野南署の署長に連絡したところまで話したと、礼次に説明した。

「ちょうどよかった。警視庁の友人に、あの事件の調書を写してもらってね。記憶違いがあるといけないから……」

 そう言って、礼次は黒い事務カバンから、厚手の大型封筒を取り出した。

「じゃあ、始めるか。南署の署長と刑事三名が興園寺家にやってきたところからにしよう。署長一行が到着したのは、午前九時をまわっている時間帯。署長と刑事ひとりは、電機屋の軽トラックに、カラーテレビの段ボールを積んで、配達人を装っていた。段ボールにはテレビではなく、電話の逆探知、録音器械が梱包されていたんだよ」

 礼次が事件の回想を始めた。

 残りの二人の刑事は、酒の配達員と雑貨屋の店員に変装して屋敷に入ってきた。

「配達員が屋敷に入ったまま出てこないと、余計怪しいよな」と、遼子の幼馴染の警視庁の刑事――団戸礼次と名乗る前のわたし――は心の中でつぶやいていた。

「所長、その幼馴染の刑事、とか、団戸礼次と名乗る前とか、紛らわしいですよ。シンドウ刑事に統一しましょう。どんな字を書くかよく知りませんが……」

 回想の途中で、小林君がそう言った。

「あら、芳夫君、礼次さんの本名、知っていたの?」

 と、遼子が驚く。

「ええ、この前の長野の事件で、相馬警部補という、担当刑事さんが、ポロっと、漏らしたんです。ライターのイニシャルの『S』とも一致するし……」

「ああ、私があげたダンヒルのライターね?流石名探偵、よく観察しているわね。でも、あの『S』はシンドウ――神様の神に、お堂の堂と書くのだけれど――とは違う意味よ」

「えっ?苗字ではない?では、名前の方ですか?ファースト・ネイム……?」

「うん、ファースト・ネイムだけど、少し違う」

「おいおい、種明かしはいいんじゃないか?神堂刑事で話を進めようぜ」

 礼次はそう言って、話を回想シーンへと引き戻した。

       *

「警察はあくまでも、オブザーバー。捜査など開始しないでくださいね。幼稚園の方に聞込みなど、もっての外。身代金を支払って、子供が無事帰ってくるまでは、手出し無用で願いますよ」

 刑事たちが電話機に盗聴器や逆探知の装置を装着している前で、夫の龍太郎は署長の大曲にきつい言葉で釘を刺した。

「わ、解っておりますよ、人命第一。だが、犯人逮捕も重要ですからな。誘拐が成功したとなると、模倣犯が増えます。これは世の中のためになりませんからな。大丈夫、犯人には解らないように行動しますから、ご安心を……」

 龍太郎は大曲の言葉に目くじらを立てたが、言い争いは嫌いな性格なのか、黙って、部屋を出て行った。そして、廊下に控えていた、書生――第二秘書を兼ねていた――の北島と運転手の平賀に何事か指令を与えていた。

「後で解ったことなんだが……」

 と、礼次が注釈を入れる。

「この時、龍太郎氏は北島に幼稚園で、詳しい聞き取りをするように、平賀には運転手仲間に連絡して、高級車――黒塗りのキャデラック――の所有者やその型の車を運転している者の情報を集めるよう指示したのさ」

「つまり、警察の捜査を待たず、我々のような、私立探偵の真似をさせたのですね?」

「そういうことだ。後で、その結果が犯人確定に結び付くんだが、それはまた後の話にしよう」

 礼次の言葉に、小林君は無言で頷く。そして、手元のノートに何かを記載しているようだった。

「犯人から電話がかかってきたのは、お昼過ぎだった」

 再び、礼次の回想が始まる。

「金は用意できたか?」

 と、いった声は、女性のような高い声だが、生の声ではないようだった。

「返事はしなくていい。壱千万円くらいなら、お宅にとっては大した額じゃないはずだ。では、受け渡しの場所と時間を言う。金を持ってくるのは奥さんひとりにしてもらおう。いいか、一回しか言わないぞ。まあ、録音しているだろうが……。場所は、井之頭公園、東園のベンチだ。午後五時。あまり早くても遅くても駄目だぜ。時間厳守。警察には知らせるなよ。子供の無事を祈るなら、な」

「おい、子供は無事なのか?声を聞かせろ」

 受話器を握りしめていた龍太郎が必死に叫んだが、電話はもう切れていた。

「駄目です。逆探知は失敗です」

 と、ヘッドホンを耳に当てていた刑事が言った。

「あらかじめ録音していたテープレコーダーの回転速度を変えて、受話器口から流したんだな」

 と、神堂刑事が冷静な声で言った。

「クソ、中々の知能犯だな」

 大曲が悔しそうに唇を嚙んで言った。

「取敢えず、金は用意できている。妻ひとりに行かすのは不安だが、犯人の指示に従おう。子供の命が優先だ。遼子、大丈夫だね?」

 夫の言葉に、遼子は深く頷いた。

「婦人警官に行かしましょう。奥さまくらいの年齢の……」

「いや、駄目だ。犯人は遼子の顔も知っているかもしれない。危険を冒すことはできない」

 大曲の提案を龍太郎はあっさり否定した。

「では、奥さまの安全確保のため、刑事を目立たないよう配備します」

「それも遠慮願おう。途中まで、秘書の北島に付き添いを頼む。なに、こう見えても妻は護身術の達人だ、合気道や薙刀の実力者だよ。わたしより強いのは間違いない」

「そうですか、そこまでおっしゃるなら……」

 そう言いながら、大曲は部屋のドア近くにいた中年の刑事――酒屋の配達員の格好をしていた男――に目配せをした。その男は、軽く頷き、部屋を後にした。

「つまり、井之頭公園付近に警察官を配備したんですね?」

 と、小林君が尋ねた。

「そういうことさ。大曲署長はあくまで、犯人逮捕を優先したかったのさ……」

 礼次がため息交じりに、小林君の質問に答えた。


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 壱千万円の札束の詰まった茶色のボストンバッグを下げ、右手には樫の木の杖――護身用――を持って、遼子は屋敷を出た。屋敷は吉祥寺駅の北側に位置しており、井之頭公園は駅から徒歩十分ほどの距離である。遼子と北島は歩いて公園に向かった。あたりは人通りも多く、かえって安全だと思われたのである。

「あっ、一つ質問です」

「何だね、質問とは?」

 話の腰を折られた格好になったが、礼次は小林君の言葉に、にこやかに答えた。彼が質問する事柄は、全て、重要なことだと、理解できているからである。

「その用意された、お札ですが、新札ですか?番号とかは、控えてあったのでしょうか?」

「ああ、そこか、犯人の指定はなかったから、ほぼ新札だったよ。聖徳太子の一万円札の束、日銀の帯紙が半分、三友銀行の帯紙が半分だった。もちろん、番号は控えていたよ。まあ、それは無駄になるんだが、これも後ほどの話さ……」

 井之頭公園の東園は冬の平日ということもあり、人影はまばらであった。が、全然、いないわけではない。ここまでの道すがらの商店街は、クリスマスセールなのか、華やかな飾りつけで、若いカップルたちを集めていた。

 だが、短い冬の――冬至が近いのだから――日光はもう西に沈んで行き、夕焼けの空がかすかに光る時間帯になっていた。

 秘書の北島は東園の出口で待っている。周りを注意深く見まわすと、いるいる、刑事らしい連中が、会社帰りのサラリーマンを装っていたり、浮浪者の格好、中には婦人警官だと思われる女性もいた。

「素人目にも解るようじゃあ、犯人にも気づかれるな」

 と、北島は呟いた。

 約束の五時に十分前に到着して、木製のベンチに遼子はボストンバッグを膝に抱えて座っていた。何人かの通行人が、それをちらっと覗き込むようにして通り過ぎた。人間が近づくたびに、犯人かと、怯える遼子だった。

 少し残っていた、西日が完全に消え、街路灯が灯ったが、犯人らしき人物の接触はなかった。もう、一時間以上、待っているのだ。人通りもなくなっていた。

「来ないのかしら?」

 と、呟き、遼子は襟巻を巻き直した。膝頭から下が冷たくなってきていた。

 そこへ、北島が慌てた様子で走ってくるのが目に映った。

「奥さま、今、お屋敷に確認の電話を入れましたところ、犯人から、また電話があったらしくて、今回の取引は中止だと……」

 北島は、息を整える暇もなく、一気にそう話した。

「中止?どういうこと?」

「詳しくは訊いていませんが、例の甲高い機械音で、『現場に刑事がいっぱいいる、約束を守らなかったらどうなるか解っているのか?今回の取引は延期だ』と、それだけ言って切れたそうです」

「そ、それじゃあ、和音は?和音はどうなるの?」

「落ち着いてください、奥さま、どうやら、一旦中止のようで、また連絡するようです。和音さまは大丈夫ですよ。取敢えず帰りましょう。タクシーを呼びますから……」

       *

「どういうことだね、大曲さん。あれほど、言っておいたではないか。警察は手出し無用だと……。しかも、犯人に刑事だと解るような恰好だったとは、呆れて、ものが言えないよ」

 龍太郎は、『ものが言えない』と言いながら、言葉の攻撃を続ける。大曲警視は面目なさそうに視線を下に向けたまま、叱責を訊いていた。

「あああ、こりゃあ、後で部下の刑事たちに雷を落とすな」

 と、ひとり部外者の神堂刑事は心で呟いていた。

 遼子と北島がタクシーで帰宅した時も龍太郎はまだ怒りの矛先を沈めていなかった。

「先生、仕方ありません。警察も全力を尽くしているんです」 

 と、北島が龍太郎の怒りを鎮めるように言った。大曲がそれに無言で頷いた。

「もういい。犯人も身代金が諦められないらしいから、もう一度連絡があるだろう。そしたら、今度は絶対、警察は介入しないでもらいたい。いいかね、最終通告だよ。従わなければ、首相官邸を通じて、君の処分を考えてもらうからね」

 龍太郎は政権与党の支持を受けている都議である。次回の衆議院選挙では、野党候補の対抗馬として、国政に出ることになっているのだ。現首相の派閥に属しており、警視庁の人事に影響を与えることも、可能だと周りからは思われていた。

「は、はい解っております」

 と、大曲は部屋の暖房の所為ではなく、汗を額に浮かべながら、そう言った。

 時刻は夜八時を過ぎていた。食事もそこそこに、黒い電話機の前に、大人たちが顔を揃えている。

 リリリーンと受話器が鳴った。緊張が部屋の中を走る。

「ゆっくり、取って話してください」

 と、大曲が龍太郎に言った。

「解っているよ。静かにしていてくれ」

 龍太郎は不機嫌そうに答えた。

「もしもし、興園寺だ」

 その声に、またしても、録音した甲高い声が聞こえてきた。

「いいか、今度が最後の取引だ。郵便受けを見ろ。そこに、指示書と荷物が入っている。それに従え」

 それだけ言って、電話を切る音がした。

 ヘッドホンを付けたまま、刑事は首を横に振った。

 別の刑事が、部屋を飛び出し、郵便受けを確認しに走る。そして、数分後、小包を下げて帰ってきた。

「早く開けてみろ」

 と、大曲が命令する。

 言われた刑事は箱に耳を当て、異常な音がしないことを確かめ、テーブルの上に箱を置いて、包みを破り始めた。茶色の包装紙を指紋が付いている場合の為に、丁寧に解き、中身の菓子箱のようなものを取り出す。その箱を脇に寄せると、その下に、白い封筒があった。

 龍太郎が素早くその封筒を掴み、中の紙片を取り出す。(あっ、犯人の指紋が付いているかもしれないのに……)と、神堂刑事は心の中で叫んでいた。

『指示書 議員ひとり 金と箱の中身を持って 車に乗れ 行く先は 三鷹方面 後は 箱の中身が案内する』

 新聞の切り抜きを張り付けたものである。

 刑事が慌てて、菓子箱を開く。中には大型のトランシーバーがひとつ。『スイッチを入れたままにしろ』という、新聞の切り抜きを張った文書が添えられていた。

 そこで、また電話が鳴った。ゆっくり、龍太郎が受話器を取る。

「品物は確認したか?よろしい、すぐスタートしてもらおう。九時までに三鷹駅までに到着するように、な」

 それだけ言って、また切れてしまった。

「平賀、車の用意だ。ガソリンは満タンだろうな?よろしい。では、わたしひとりで行ってくる。よろしいかな、絶対手出し無用ですぞ。自分の首が惜しかったらね」


       4

「危険すぎる、とわたしは止めたんだがね。誰か一人でも、後ろの座席に隠れて乗り込ませるようにと提言したんだが、聞き入れなかったよ」

「夫は頑固でしたから、あの時はもう、誰の意見も聞きませんでしたわ」

「小林君なら、車のトランクにでも紛れ込んでいたかもな」

「江戸川乱歩の少年探偵団じゃああるまいし、そんな子供だまし、かえって危険よ」

「発信器を付けるって手もあったんだが、時間がなかったし、龍太郎氏が承知しなかっただろう」

「そうね、とにかく、子供のことで頭がいっぱいで、慌てて車に乗り込んで、三鷹駅方面へ走り去ったわ。『大丈夫、和音を必ず無事連れて帰る』そう言ってドアを閉めた。それが最後の言葉になったんだけどね」

「おいおい、結論を言うんじゃないよ。話はまだまだ続くんだからな」

 礼次と遼子の会話を黙って聞きながら、小林君は事件の悲劇性を改めて感じていた。

「ここから先は、この調書からでないと、我々は直接係わっていないことだからね」

 そう言って、礼次は大型封筒から書類の束を取り出した。

「これは、警察が検察に提出した、調書と事件の担当刑事のメモから作成したものだ。そのまま読んでもつまらないから、わたしが物語風に説明を加えるよ」

 礼次はそう断ってから、回想を再開した。

       *

「どうだね、聞こえるかね?」

 突然、助手席に置いていたトランシーバーから、くぐもった男の声が流れてきた。丁度、三鷹駅の北口付近を通行中であった。

「ああ、よく聞こえているよ。近くにいるのかい?」

 ヘッドライトに照らされた前方を注意しながら、右手で――車は左ハンドルだったから――トランシーバーを手に取り、通話ボタンを押して、龍太郎は答えた。

「三鷹駅には着いたかね?」

 と、龍太郎の質問は無視されて、相手の質問がなされた。

「ああ、今通過したよ」

「よろしい、では、五日市街道に入って、西に向かってくれたまえ。国分寺市方面だ。解るね?」

「ああ、解った。国分寺市へ行けばいいんだな?」

「いや、まだその先があるが、また後ほど連絡するよ。ああ、法定速度は守って、安全運転で頼むよ。では気を付けて……」

「おい、子供は無事か?声を訊かせろ」

 龍太郎の問いかけに返事はなかった。

 武蔵境駅の手前を右折し、五日市街道に出た。左折し、進路を西に向ける。トランシーバーからの着信はなかった。ルームミラーで後方を確認すると、少し離れて、ヘッドライトが見える。車種は解らない。

(犯人の車か?)と、思ったが、今はそれを確かめる時ではないと、龍太郎はスピードメーターに視線を移した。制限速度を少しオーバーした程度で車は西に向かっていた。

 西武鉄道の線路をまたぎ、国分寺市の中心街に近づいた処で、トランシーバーの豆電球が光った。

「順調に進んでいるようだね」

「おい、いい加減にしろ。何処まで行ったらいいのか、早く教えろ」

「おいおい、そんな口を叩くんじゃないよ。命令できる立場じゃないだろう?議員さんってのはこれだから嫌になるよ。命令じゃあなく、お願いだろう?選挙の時には下手に出て、お願いします。わたしに投票してください、って頼むくせに、当選したら、先生なんて呼ばれてさ、お高くとまって、上から目線かよ」

「いや、悪かった。そんなつもりじゃないんだ。早く金を渡して、子供を引き取りたいんだよ。お願いだ、金は素直に渡すし、警察に捜査も依頼はしない。君の身の安全は保障するよ」

「その警察が問題さ。今も、どうやら、跡を付けて来ているようだぜ。少し、スピードを上げてみな、後ろのトラックが付いてくるかどうか……」

「何だって、警察が?あれほど、念を押して言ったのに……」

「さあ、スピードを上げて、拝島まで飛ばせよ。駅前の駐車場で待っているんだ」

「解った、拝島駅だな?飛ばして行く」

 龍太郎はトランシーバーを助手席に置くとアクセルに乗せた足に力を込めた。スピードメーターが時計回りに動いて、キャデラックは猛スピードで疾走し始めた。

 サイドミラーを見ると、後方のライトが見る見る遠ざかるのが解った。だが、後方車両もそれなりにスピードを上げたようだ、思っていたほど、距離がひらいていかなかった。犯人が指摘したとおり、警察の車両かもしれない、と龍太郎は思って、なおスピードを上げたのだった。

       *

「おい、離されているぞ、スピードを上げろ」

 後方を走るトラックの助手席で大曲警視は運転している警察官に命令した。

「無理です。車の性能が違い過ぎます」

 と、アクセルをいっぱいに踏み込みながら、警察官は答えた。

「おい、トランシーバーの会話は傍受できているか?」

 大曲警視は幌の掛かった荷台にいる刑事に後ろを振り返りながら尋ねた。

 トラックの荷台に、電波の受信機を備え付け、龍太郎の使用しているトランシーバーの周波数を捕えているのである。時折雑音が混じるが、何とか会話は聴き取れていたのである。

「拝島駅、という指令の後は、何も応答がない模様です」

「糞ォ、尾行は諦めて、拝島駅へ直行だ。とにかく急げ、信号無視も構わん」

「いや、それは危険ですから、警察車両ではないので、一般車両との接触事故の恐れがあります」

 と、運転手が言った。

「ううむ、サイレンを鳴らせないのか……」

「本庁を通じて、八王子署の応援を頼みますか?」

「ダメダメ、あくまでも我が武蔵野南署の管轄の事件だ。本庁など介入させん」

 大曲の言葉に、うんざりした顔で運転手は黙ってしまった。交通量は少ない。深夜のトラックがたまにすれ違うくらいだ。その為か、先行するキャデラックはテールライトも見えなくなってしまっていた。

       *

「後方のヘッドライトが見えなくなった。相当引き離したな。それとも、警察ではなかったのかな。いや、あの大曲のことだ、わたしの忠告など無視して、犯人逮捕に躍起になっていることだろう。来年の春には、田舎の署へ左遷させてやる」

 深夜の街道は、信号機が黄色の点滅信号に代わっている。何カ所かの信号も運よく青信号で通り抜けた。もう少しで、拝島駅である。そこに和音が無事にいることを今は祈るしかなかった。

 道路案内の青い看板が『拝島駅』の文字を示してくれた。スピードを落とし、駅前の駐車場に車を進める。駐車場には車の姿はなかった。犯人は未だ到着していないようだ。

「早く着きすぎたのか……」

 と、ハンドルを切りながら龍太郎が駐車スペースに車を入れかけた時、いきなり、トランシーバーが点滅した。

「ご苦労さん。思ったより早かったね」

「どこにいるのかね?早く取引を始めようじゃないか」

「そう焦りなさんな。ここへ来てもらったのは、後ろのトラックが、警察の車両かどうか確かめるためなんだよ。ここが終点ではない。車を出してもらおう。次は国道十六号を八王子方面に走るんだ。また指示を出すよ。今度は、安全速度で頼むよ。キャデラックの性能は充分拝見したからね」

「おい、まだ走らすのか?」

 龍太郎の問いには返事がなかった。しかたなく、指示どおり、車を発進し、国道十六号を南下して、八王子市に向かった。

       *

「会話を受信しました」

 と、荷台でヘッドホンを付けている刑事が叫んだ。

「何て言ってきた?」

 と、大曲が助手席から振り向いて尋ねた。

「ここが終点でない、国道十六号を八王子方面へ行け、と……」

「いったいどこまで、引っ張っていくんだ。こうなったら、スッポンみたいに喰いついて離れないぞ。急げ、八王子だ」

 大曲は顔を硬直させて部下に叱咤した。

 一方の龍太郎の車は、八王子市の手前、拝島橋を渡った処である。

「次の信号を左へ廻れ」

 と、急に指令が入った。すぐ目の前に点滅信号が黄色に光っていた。慌ててウインカーを左に出してハンドルを切る。

「次の信号を左だ」

 と、また指令が出た。そしてハンドルを切ると、

「次の信号を左」

 と、三度目の指令が来た。

「返事をするな。黙って車を走らせろ」

 と、追加の指示が来た。大きなハンドルを切っているので、トランシーバーを操作出来ない。言われなくても返事は出来なかった。

「このままだと、元の橋の手前に出るな」

 と、ひとり呟いていた。

「そこを右に折れてもらおう」

 と、また指示が来た。

「おい、それじゃあ、元の拝島駅方面へ帰ってしまうぞ」

 相手には聞こえないのだが、思わずそう叫んでしまった。

「黙って指示に従え、無事子供の顔を拝みたかったらな。道なりだ」

 拝島橋を元の駅方面に車を走らせる。駅前を通過しようとすると、

「そこを右に折れて、真っすぐだ」

 と、また指令が入った。

(どうやら、前か後ろかに犯人の車がいるようだ)と、龍太郎は感じていた。

 右に折れると、元の五日市街道になる。真っすぐということは、国分寺から、三鷹方面へ引き返すことになるのだった。

      *

「おい、何て言って来たんだ?」

 と、大曲が苛々したように、受信機のヘッドホンに耳を当てている刑事に尋ねた。

「それが、『次の信号を左に』を繰り返していて、よく解りません。同じ指示を繰り返したのか、それとも、別の指示だったのか、あまりに矢継ぎ早の指示だったので……」

「それじゃあ、どっちの方面へ進んだのか解らないじゃあないか、具体的な地名とかは言わなかったのか?龍太郎氏はどんな返事をしたんだ?」

「具体的な地名は言いませんでした。龍太郎氏は言葉を発していません。おそらく、運転に専念していて、トランシーバーの操作が出来なかったものと思われます」

「その、左に折れろ、は何回言ったんだ?」

 と、運転手の警官が言った。

「三回です」

「その後は?」

「返事をするな」

「それから?」

「そこを右に折れてもらおう……」

「そうか、解った、車をUターンさせたんだ。元の道を逆走させたんだ」

「な、なるほど、君の言うとおりだ。流石、パトカーの運転技術優秀賞を取っただけはあるね」

「今、そんなことを言っている場合じゃないでしょう、我々もUターンしますよ」

 龍太郎のキャデラックが、脇道にそれている間にトラックは、拝島橋を通過していたのである。

 その時、受信機が『そこを右に折れて、真っすぐだ』との声を拾っていた。

「ど、何処を右に折れるんだ、チクショウ、見失ってしまうじゃないか」

 そう、大曲が悔しがっていると、トラックに積んでいた、警察専用の無線機が点滅した。

「大曲署長、聞こえますか?神堂です」

「おう、神堂君か、どうした?」

「今、警察車両でそちらを追跡していましたら、拝島駅前でキャデラックとすれ違いました。車体番号から興園寺議員の車と思われます。国分寺方面へ引き返しているようです。我々はすぐ追跡いたします。どうぞ……」

「そうか、拝島駅前を右折か。了解、こちらも拝島駅方面に進行中だ。跡を追い掛ける。どうぞ……」

「了解しました」

「ようし、もう逃がさんぞ。五日市街道を追跡だ」

 神堂刑事は運が良かったのだ。駅前の明るい場所でキャデラックとすれ違ったおかげで、車体番号まで確認できた。一般道路上であったなら、キャデラックとすれ違っても、キャデラックだったとも判別できていなかったかもしれないのだった。


       5

「いったいどこまで走らせる気だ。三鷹に帰ってしまうぞ」

 前方に注意をしながらも、トランシーバーからの音声を心待ちにしている龍太郎である。車は国分寺市を通り過ぎ、小金井市から武蔵野市に近づいていた。

 道路案内の標識が『東小金井駅』を表示している手前で、

「そこを左に入ってもらおう。そこを少し行くと、バス停がある。バス停の看板に次の指示書がある。それを取って、その指示に従え」

 と、トランシーバーが喋った。

 慌てて交差点を左に折れる。二百メートルほどの処にバス停の丸い看板があった。

 キャデラックを道路脇に寄せて、ウインドウを降ろす。眼の前の看板に一枚の紙片がセロテープで止められていた。

 その紙片には、手書きの地図が書いてあり、汚い文字で、『○○工場跡』と書かれてある。その場所を示すかの如く、地図上に『現在位置』と赤い丸印が描かれていた。

 龍太郎はポケットからラークの煙草を取り出し、中身を抜くと、エンピツで『○○工場跡』と書き込み、ポイとバス停の前に投げ捨てた。そして、ラークを咥え、シガーライターで火を点けると、ゆっくり車をスタートさせた。龍太郎がラークの空箱に伝言を記載したのは、神堂刑事の車両が、後方にいることに気づいたからであった。

「大曲は信頼できないが、神堂君は信頼できる」

 そう呟いて、バックミラーを確認したのだった。

 地図での道程は、ジャック・ニクラウスが来場した、有名な小金井カントリークラブを横に観ながら、丘陵地を上って行く。人家がまばらになってくる。脇道があり、雑木林の奥に灰色の工場跡が見えてきた。今は操業をしていない、繊維工場の跡のようだ。

 敷地内に入る鉄製の門が錆ついて、壊れかけている。風に揺れ、開いたままである。ゆっくりとその門を通り過ぎた。工場の正門、玄関口と思われる場所に車を止める。懐中電灯とトランシーバー、そして、札束の入ったボストンバッグを手にして車を降りる。玄関口の壊れかけた硝子戸に、また一枚の紙片がセロテープで止められていた。

『裏の倉庫に行け』と、汚い文字が書かれてあった。そこに倉庫の場所を示す、簡単な見取り図か書かれてある。龍太郎はその紙片を硝子から乱暴に引きちぎり、指定された倉庫へと、工場の右手から廻り込んで行った。

 裏庭――工員のための運動場だったのか――があり、その一角にスレート瓦葺きの平屋の倉庫が建っていた。裏庭には、雑草が、枯れかけて茂っている。その草を踏み分けて、龍太郎はボストンバッグを右手に提げて、倉庫に向かって行った。

 大きな鉄製の扉――錆色が浮いている――の取手を持って横に開くと、中は段ボールやプラスチックの箱が乱雑に置かれていた。

「よく来た、では取引を始めよう」

 と、トランシーバーから声が聞こえた。

「何処にいるんだ?子供はいるのか?無事を確認したい」

 龍太郎の声に、倉庫の奥で反応したかのように、小さな明かりが灯った。懐中電灯の光だった。その光に照らされて、少年の姿が見えた。

「和音、和音なのか?」

 龍太郎の呼びかけに、少年は深く肯いた。どうやら、口に猿轡の代わりに、ハンカチが結ばれているようだ。両手も前で交差させ、タオルのような布で縛られていた。

「和音」

 と、龍太郎がその光の中へ駆けだした時、

「動くな。まだ、近寄るんじゃない。取引が先だよ。金を確認しないことには、子供に近づくことは罷りならねェんだよ」

 と、トランシーバーが唸った。

「わ、解った。金はこのとおり用意している。受け取ってくれ」

 龍太郎は足を止め、ボストンバッグを前に差し出した。

「ゆっくり、十歩前に歩いて来な。そこで、バッグを置いて、十歩後退するんだ。早くしろ」

 龍太郎は言われたとおり、ゆっくり、前に進み、十歩のところでバッグを置いた。そして後ろ向きにゆっくりと元の場所に帰って行った。

       *

 警察の一行は、その時、工場内に侵入していた。神堂刑事がバス停に残されたラークの空箱を見つけ、そこに書かれた『○○工場跡』を住居地図で確認し、車のライトをスモールにして、工場に近づいてきたのである。大曲署長一行には、途中の道路わきにトラックを停めさせ、徒歩で来るように指示を出していた。犯人に見つからないように、細心の注意を払っての行動であった。

 刑事の一人が背負ってきた、受信機が、トランシーバーの会話を傍受していた。ただ、龍太郎が工場のどこにいるのかは把握できていなかった。

 巡査の一人が、工場裏に廻り、倉庫らしき建物の扉が開いていることに気が付いた。龍太郎の持っている懐中電灯の光が微かに漏れていたのだった。

「よし、すまないが、扉を閉めてくれ。邪魔が入ると、子供の命の保証が出来かねるからな」

 トランシーバーの声に龍太郎は背中を向け、扉を閉めに走った。それを、巡査は確認し、大曲警視のもとに報告に走った。

「倉庫か、よし、遠巻きにして見張るんだ。倉庫から出てくる奴は、鼠一匹逃がすんじゃあないぞ」

「署長、まだ動かない方がいいですよ。子供は無事のようだ。ここはひとつ、取引が終了するまで待ちましょう。どうやら、犯人は子供を返してくれるようだ。しかも、龍太郎氏はトランシーバーの受信スイッチを入れたまま。中の会話は筒抜けです。取引が終わってから、周りを固めても、ここは一本道。上るか下りるかだけです。逮捕は簡単です」

 神堂刑事の提案に、大曲は渋い顔をしたが、人命第一はやはりよく解っている。

「よし、このまま待機だ。トランシーバーの傍受を怠るなよ。何時でも突入できる態勢でいろ」

 緊張が警察官に走った。トランシーバーの受信機を降ろした刑事が緊張した顔でヘッドホンを耳に当てた。

「そのまま動かないでくれよ」

 と、受信機から男の声がした。

「ああ、大人しく待っている。早く金を確認して、子供を開放してやってくれ」

 と、龍太郎の答える声。

 ガサガサと段ボール箱が動かされる音。ペタペタとズック靴のような履物の足音。ジジジというファスナーの開く音が聞こえた。

「間違いないようだな。では金は貰って行く。もう少しで子供は無事、お前の元へ届くよ。動かないで、後少し待つんだ。俺が、ここから出ていくまでね」

 そして、ジジジとファスナーの音。ペタペタと靴音。

「和音、こっちへ来るんだ」

 と、龍太郎の叫ぶ声。

 ガタガタとプラスチックの箱が崩れる音。

「和音、おう無事だったか、よかった、怪我はないか」

 龍太郎の喜びの声が上がった。

「よし、子供は無事だ。突入」

 大曲が声を発した。

「まだ駄目です。犯人と子供の距離がどのくらいあるのか把握できていません。乗り込んで人質に取られたら……」

「何を言う、犯人は逃亡を図っているじゃあないか。今しかない。構わん、突入だ」

「辞めるんだ、あと五分待つんだ」


       6

「ええっ?そこまで行って、悲劇が起きたんですか?子供を無事救出できなかったってことですよね?」

 と、小林君が尋ねた。

「ああ、わたしの必死の叫びも、署長命令で、警察官は突入を開始したんだよ。ところが……」

「ところが?」

「警察官は倉庫には入れなかったんだ」

「鍵が掛かっていたってことですか?」

「いや、龍太郎氏は扉を閉めただけで、元々鍵など付いてないんだ」

「じゃあ、どうして?」

「流石の小林君もそこまでは読めないか?やっぱり、エスパーではないんだな」

「エスパー?僕が?誰がそんなことを?」

「あら、違ったの?ごめんね、わたしがひょっとしたらって……。だって、あまりに直感が当たるものだから……」

「ああ、あの、猫の置物のことですね?確かに、出鱈目に言ったら当たってましたね」

「で、出鱈目に言ったのか?」

「まあ、冗談で言ったのですが……。それより話の続きですよ。何故、警察官が倉庫には入れなかったのかの謎を教えてください」

「突入しようとした、警察官の眼の前で、爆発が起きたのさ。倉庫の扉の前の地面が突然爆発したんだ」

「爆弾が仕掛けられていたってことですか?」

「そう、ダイナマイトがね」

「そうか、所長が長野の事件の時、ダイナマイトに異常な反応を示したのは、そこでもダイナマイトが関係していたからなのか……」

「そうなんだ。またダイナマイトかと……」

「それで、爆発の規模は?倉庫ごと吹っ飛んだのですか?」

「いや、最初の爆発は、小規模だった。警官の足を止めたくらいだった」

「最初の?つまり、爆発はそれで終わりではなかったってことですか?」

「そう、続けて、倉庫の中でも爆発が起こって、段ボールの箱が燃え上がったんだよ」

「火災が発生した?中にいた人たちは?」

「残念ながら、全員焼死だ。龍太郎氏は即死でなく、息はあったんだが、子供の名前を呼び続けて、病院に運ばれた後すぐに亡くなった」

「和音君は?」

「こちらも全身大やけど。龍太郎氏が身を挺して守っていたようだが、助けられなかった」

「そ、それで犯人は?」

「それが、犯人も逃げ遅れて、火に包まれて焼け死んでいたよ。お札の入ったバッグもそのまま丸焦げさ」

「では、犯人死亡で誘拐殺人事件は解決したってことですか?」

「ああ、もちろん、その後も捜査は続けられたんだが……」

「どうも歯切れが悪いですね。何があったんですか?」

「礼次さん、署長さんをぶん殴ったのよ」

「ぶん殴った?」

「そう、礼次さん、つまり、神堂刑事の忠告を訊かず、警察官が突入した所為で、犯人は慌てて、仕掛けてあった爆弾のスイッチを押した。それが引火して、大切な命が失われたのよ」

「爆発は時限爆弾ではなく、スイッチがあったんですね?」

「ああ、工事の発破に使う、押しボタン式のやつが犯人の死体近くに焼けて転がっていたよ」

「では、犯人は警察官が近付いたのに気が付いてスイッチを押した。自分がそれに巻き込まれて焼死してしまった、ってことになるのですか?」

「そういうことになるね」

「それで、署長の失態に腹を立てて、ぶん殴った。その所為で、刑事をクビになったのですか?」

「クビじゃない、辞表を出したんだよ。遼子に合わせる顔がなかったしね。刑事失格だと、その時は思ったんだよ」

「それじゃあ、その後の捜査には介入出来なかったってことですか?」

「そういうことだ。大曲警視の指示で、捜査が行われ、結局、犯人死亡で検察に報告書が上がったんだよ」

「犯人は誰だったんですか?興園寺家との係わりがある人物だったのですか?」

「関係はほとんどない人物だった。名前は黒崎兼男。当時十八歳。未成年だったから、名前は公表されなかった。少年Aの犯行さ。黒崎は東北の生まれで、集団就職で東京へ出てきたって奴だ。自動車整備工場で働いていてね。犯行に使われたキャデラックを修理した工場で働いていたんだよ」

「ああ、そこでキャデラックとの接点が……。でも、自身の車ではありませんよね?十八歳の集団就職の工員が手に入れられる車ではないですものね」

「ああ、盗難車だったよ。そう、このキャデラックを追及したのは、最初にちらっと言った、書生の北島と運転手の平賀のお手柄なんだよ。つまり、幼稚園で、目撃者から車の特徴を訊いていた。ナンバーの一部、多摩ナンバーだったことを突き止めていたんだ。多摩ナンバーでキャデラック。運転手仲間に確認したら、吉祥寺近辺に一台所有者がいた。すぐに当人に当たると、三日前に盗難届が出ていたんだよ。それが、ガレージにきちんと入れていて、鍵も保管していたんだ。それが、ガレージの鍵を開け、車をいじらず盗み去った。どう考えても合い鍵が作られたとしか思えない。それで、つい最近、点検で修理工場に出したことを教えてくれた。その工場に黒崎がいた。しかも、キャデラックの点検をしていたんだよ」

「なるほど、車はそこで繋がりましたね。でも、誘拐事件とは繋がるのですか?黒崎に誘拐事件を起こすような動機があったのですか?」

「ああ、ギャンブルに嵌っていて、借金があったそうだ」

「でも、なぜ、興園寺の息子さんを狙ったのですか?」

「やはり、龍太郎氏は有名人だったんだよ。次期総選挙に若手の有望として、新聞を賑わしていた。家族、小さな子供がいることも載っていたらしい。金もあると思っていたんだろうな」

「それで、所長はその結論に満足しているんですか?」

「満足?どういうことだね?」

「つまり、他の考えが浮かばなかったか?ってことですよ」

「そ、それは、犯人が他にいるってことかね?」

「ええ、共犯者が……」

「ど、どうして、共犯者なんかいるんだね?何処からそんな考えが……?」

「あまりに手際が良すぎるってことですよ。計画的で、しかも大掛りだ。トランシーバーを用意したり、テープレコーダーで声を変えたり……。おまけにダイナマイトですよ。借金のある十八歳の工員がそんな準備をするお金があると思いますか?」

「そういえば、そうね……」

「おいおい、遼子まで何を言うんだ。黒崎に協力するような人間がいるはずないじゃあないか」

「黒崎にはいないでしょうね。でも、逆に黒崎なら、他の誰かに協力しても、おかしくないですよね……」


       7

「恐ろしいわ」

「何がかね?共犯者がいるってことがかね?」

「違うわよ。芳夫君よ。話を訊いただけで、誰も思わなかったこと、本当の誘拐犯――主犯――がいるって言い切る彼の頭よ。やっぱり、エスパーじゃなくて、宇宙人じゃないの?金星人なのかもよ」

「おいおい、超能力の次は宇宙人説かい?SFの読み過ぎなんじゃあないか、君は……」

「まあ、宇宙人は冗談よ。冗談でも言わないと、気がまぎれないのよ。だって、和音と主人を死に至らした犯人が別にいるかもしれないのよ。いえ、あの子が言うんだから、絶対いるのよ。そしたら、その人物は、人殺しの片棒を担いでいるのに、五年間も、のうのうとこの世で暮らしてきたのよ。そうよ、今も普通に暮らしているのよ。許せない。絶対に許せないわ。決めたわ、わたしが依頼人になる。棒網探偵社に依頼するわ。真の誘拐犯を見つけ出して。誰がわたしの大切な家族を死に追いやったか、真相究明をお願いするわ。例え、もう事件は解決済みで、罪に着せることはできなくても、真相だけは知りたい……。夫と息子の無念を晴らしたい……、お願いよ。褒賞金は五百万円よ」

「わ、解ったよ。僕だって、これは汚点だ。いや、共犯者説は、一部では、囁かれていたんだ、だが、誰も大きな声を出さなかった。警察官として許されることじゃない。真犯人がいるのに、見逃していたなんて……」

 礼次と遼子は小林君が大学の講義があると出かけた後、探偵社の応接室に残って、会話を続けているのである。

 五年前の幼児誘拐殺害及び、その父親の殺害事件がまだ未解決なまま――検察では解決済みなのだが――終わらせないと意見は一致した。だが、どうやって、真相を解明できるのか?ふたりには全く思い付かないのだった。

「どうするのよ?何から手をつけたらいいの?わたしも手伝うから、することがあったら言って。お金も心配しないで、誰かを買収するなら、資金は提供するわ」

「さあ、解らない。今更、警察に再調査も依頼できない。我々だけで、調べるしかない。だが、誰に訊くんだ?もう、証言は出尽くしている」

「情けないけど、芳夫君が大学から帰ってきたら相談するしかないかな。彼の直感でも、超能力でもいいから、良い知恵を貰うしかないわね」

「それしかないか……。所長の威厳もこの際忘れよう……」

「今晩、ここに泊っていい?ひとりじゃ眠れそうにないのよ」

「えっ?ここに……。おいおい、わたしと君はそんな関係じゃあないはずだぜ」

「何言っているのよ。あなたは芳夫君の部屋で寝るのよ。わたしはこの応接室のソファーで寝るの。毛布を用意してね」

「な、何だ、それじゃあやっぱり、ひとりになるじゃあないか」

「じゃあ、わたしが芳夫君と寝たらいいと言うの?わたしはそれでもいいけど……」

「おいおい、彼はまだ未成年……のはずだ。間違いがあっては、彼のご両親に顔向けができん」

「何言っているの?彼は立派な男よ。貞操の危機はわたしのほうじゃないの……」

「と、とにかく、彼と君を同じ屋根の下では……。解ったよ、この部屋を君に提供する。わたしは近くのホテルにでも部屋を取ることにするよ」

「あら、わたしと芳夫君を同じ屋根の下に残して行くの?上の階ならすぐに夜バイに行けるわよ」

「おいおい、そんな真似はしないでくれよ、探偵社のスキャンダルになる……」

「まあ、一晩禁欲をするわ。あなたも変なホテルに行かないでね」

「ああ、ビジネスホテルさ。駅前の、ね」

「じゃあ、また明日の朝に……」

「ええっ?まだ明るいぜ、もう寝るのか?」

「違うわよ。ここに泊るなら、それなりの準備が必要でしょう。着替えもいるし、化粧道具もいるのよ。夜のお肌のお手入れは大切なのよ」

「そうだね、お肌の曲がり角を過ぎて、もうひと昔だから……」

「失礼ね。わたしの肌年齢は、芳夫君と同い年よ」

「まあ、小じわの数を数えてみるんだね。じゃあわたしは、ビジネスホテルにチェックインしてくるよ。では、また明日逢いましょう、お姫さま……」

       *

「あれ、所長は?」

 と、夕方というより、午後八時近くになって、小林君が探偵社に帰って来た。灯りが点いていたので、礼次がいると思ったらしい。だが、部屋にいたのは、遼子だった。その上、彼女は顔にパック中だったし、衣装もピンクのネグリジェ姿だったのだ。

「わあ、だ、誰かと思ったら、遼子さん?何故、遼子さんが今時分までここにいるんです?そ、それに、その顔とその姿は……。まさか、所長と、ふ、不倫ですか……?」

「不倫?まさか、わたし面喰いなのよ。礼次さんはちょっと対象外ね。芳夫君ならOKよ。昨日も言ったけど……」

「えっ?じゃあ、まさか、ぼ、僕を待っていた……?」

「いやぁね、あなたを待つなら上のあなたの部屋で待つわよ。合い鍵持っているし、大家だから……」

「合い鍵……持っているんですよね……?」

「だから、早とちりしないでよ。今夜はここにわたしひとりで泊ることにしたの。礼次さんはビジネスホテル行きよ。あなたの所為でもあるわ。あなたが誘拐犯の主犯が他にいるって言うから、興奮して、我が家では眠れそうにないから、あなたと同じ屋根の下で眠ろうと思ったのよ。本当なら、上の部屋で、ひとつのベッドででも良かったんだけど、礼次さんが焼餅焼くから、ここで我慢したのよ。それとも、やっぱり、ひとつのベッドにしたい?芳夫君がそうしたいなら、遠慮はいらないわよ」

「い、いえ、遠慮します。おやすみなさい……」

「あっ、そう、いくじなしね。いいわよ、はいはい、おやすみなさい。後で、夜バイを掛けてやるから……、鍵をしても無駄よ。わたしは大家……」

       *

「おいおい、冗談でもいけないよ。小林君は見かけによらず、いや、見かけ以上にシャイなんだから……。多分、童貞だぜ。君が変なことをすると、トラウマになって、女性恐怖症、になりかねないよ」

 翌朝、心配になって、早々にホテルをチェックアウトしてきた礼次が、昨夜の小林君が帰宅した時の様子を遼子から訊いて、苦言を呈したのである。

「あんなことで、女性恐怖症になっていたら、探偵なんて務まらないわよ。探偵に誘惑は付き物でしょう?ジェイムズ・ボンドもすぐにベッドインするじゃない」

「君は小説と現実を混同しすぎだよ。あんなにモテる男なんて、この世には存在しない」

「あら、モテない男の僻みにしか聞こえないわよ」

「誰がモテない男なんですか?ああ、所長のこと?確かにモテる男の顔ではありませんね。あっ、失礼、ノックもしないで、お二人の会話に乱入してしまいました。それに朝の挨拶もまだでした。おはようございます」

 突然ドアが開いて、にこやかな顔の小林君が事務所に入って来た。

「あら、相変わらず、爽やかな笑顔、礼儀正しい態度。流石、マイ・ダーリンね」

「おい、何時から、小林君が君の『マイ・ダーリン』になったんだ?」

「昨晩からよ、ねえ、芳夫さん……」

 と、遼子は小林君に怪しいウインクをした。

「おいおい、本当に夜バイを掛けたんじゃあないだろうね?」

「さあ、どうだったかしら?夢の中で、芳夫さんに抱かれていたけど……」

「き、君、夢遊病の気はないだろうね?」

「おふた方、何を盛りあがっているんですか?朝から微妙なお話ですね。それより、僕、今日も講義があるんで、時間がないんです。昨日の続きを少ししたいのですが……」

「そ、そうか、じつはこっちも、事件の話をしたかったんだ。正式な事件の依頼があってね。遼子君が依頼人だ。五年前の幼児誘拐殺人事件の再調査だ」

 昨日の遼子の頼みを、礼次は小林君に話したのである。

「そこでだ、どこから捜査を開始するか、作戦会議だ。何か君の意見はあるかね?」

 礼次は、所長としての威厳を保つため、小林君頼みの現状を巧く誤魔化すように、作戦会議を提案したのだった。

「所長にもう一度、詳しい事件の細部を覗いたいんです。幾つかあります。それを箇条書きにしてきました」

 そう言って、小林君はルーズリーフから取り外した用紙を机の上に置いた。

一、トランシーバーの入手先

二、ダイナマイトの入手先

三、龍太郎氏の死、あるいは、その活動の妨害を望んでいた人物

四、興園寺家の内情に詳しい、人間の一覧表

五、犯人とされた、黒崎兼男の関係者、および、事件発生時前後の彼の行動記録

六、私立幼稚園関係者の証言の洗い直し、和音君を連れ去った時の運転手の様子及び、和音君の態度

七、当時、事件に関係していた捜査員の証言、特に、追跡のトラックを運転していた警察官の証言

「取り敢えず、七項目を書きだしました」

「うん、一と二はよく解る。だがそれ以降は……?」

「はい、想像できる犯人像が、興園寺家に恨みがある者、或いは利害関係がある者、そして、内情をある程度把握している者と考えられるからです」

「恨まれるような家庭ではないよ」

「ええ、でも、選挙が近かったんでしょう?対立候補や党内の派閥争い、政治関係の、つまり政敵は多いはずです。それと……」

「それと?」

 小林君が、遼子の方をちらっと見て、言葉を濁してしまった。そこで、礼次が、追及の言葉を発したのである。

「言い難いんですが、余りに、綺麗な奥さん、可愛い坊や、嫉妬する人間がいてもおかしくはないと思います。僕も龍太郎さんが羨ましいと思いますから……」

「そ、そうだよ。わたしも龍太郎氏には嫉妬していたよ」

「ちょっと待ってよ、そしたら、和音の誘拐事件は身代金目的じゃあなくて、興園寺への恨みか嫉妬によるものだと言うの?」

「ええ、そうです。結局、犯人は身代金を手にできなかった。そもそも、取引場所にダイナマイトを仕掛けたり、火災が発生し易いような段ボール箱があったり、僕が思うに、犯人の本当の目的は、龍太郎さんの殺害ではなかったかと……、いえ、まだ仮説の状態ですけど……」

「そ、そしたら、和音君誘拐は、龍太郎氏をおびき出す餌に、ということかね?」

「ええ、事件の結末を見たら、そちらの可能性の方が高いのではないかと……」

「て、天才だわ、やっぱりこの子、天性の探偵の才能があるのよ。間違いない、あなたの直感を信じるわ。犯人の目的は、夫殺害のほうよ」

「わ、解った、わたしもそちらに賛成する。で、あとの項目だが……」

「ええ、ですから、黒崎は共犯者であって、主犯ではない。しかも、犯人とはそれほど近い関係ではなかったかもしれません。つまり、車の合い鍵を作らせたのと、現金の受け取り役をやらされただけじゃあないかと……」

「何だって、でも、あの工場跡の倉庫には奴以外いなかったんだぜ。金の受け取り役が自爆用の爆弾で死んじまったりするのかね?」

「そこですよ、だから、あの時追跡に加わった警察官の証言が欲しいのです。いいですか、犯人と龍太郎さんの遣り取り、トランシーバーでの会話、不自然だと思いませんか?」

「不自然?」

「そう、犯人は、龍太郎さんの車がどこを走っているのか、ちゃんと把握していたんですよ。しかも、完璧に近い。拝島橋を渡った後、急に指令が入って、脇道から交差点をくるりと回って、元の道に出る、そんな指令を出しているんですよ」

「そうか、ずっと後を追跡していたか、いや、それはない。そうか、先回りして、待機していたんだ」

「その可能性もあります。ですから、怪しい車が前後を通行しなかったか、追跡車両の警察官に確認したいのです」

「それが、七番目だね?では、六番目の幼稚園の証言とは?もう出尽くしているはずだが……」

「いえ、おそらく、警察は自分の都合のよい証言だけを採用しています。つまり、黒崎の単独犯行であったという証拠だけを集めて、疑わしい証言は、思い違い、見間違い、記憶違い、で抹消されています」

「そ、そんな大事な証言でしょう?警察がそんなことする?」

「遼子さん、大曲署長は出世欲が強い。汚点は作りたくない。未解決にはしたくなかった」

「だから、黒崎の単独犯で早く結論出したかったって言うのね?」

「ええ、共犯者がいたとしても、殆ど証拠はない。唯一の真犯人との接触者である、和音君も犯人の声を、トランシーバー越しにではあっても、訊いていた龍太郎さんもお亡くなりになりました。そして同時に、そのトランシーバーも、犯人の書いたと思われる、指示書、案内の絵地図も焼けてしまった……」

「そ、そうだよ。あの火災で、重要な証拠は焼失したんだ」

「だから、犯人死亡での解決を選んだんですよ。遼子さん初め、ご遺族の無念など考えずに……」

「許せないわ、犯人と同じくらいに、大曲も……」

「ですから、記録に残されていない証言があるはずです。僕が黒崎は真犯人でないとまず思ったのは、あの誘拐の場面です。犯人は興園寺の運転手の『平賀優作』を名乗った。それが不自然でなかった。いつも送り迎えに来ている運転手ですよ。黒崎が偶然、平賀さんと同じ背格好だったなんて、信じられますか?」

「そ、そうだ、違和感なく、マスクをしていたことだけが、違和感で、背格好に違和感を感じていないんだ、園長も担任も……」

「ええ、もし、黒崎の犯行だとしたら、彼は平賀さんの名前も、その体型も、話し方まで把握していたことになります。そこまで計画的な犯行をする必要があったのか?和音君を誘拐するなら、友達と遊んでいる処を、無理やり拉致する方が手っ取り早いと思いますが……。それと、わざわざ、キャデラックを盗んでの犯行。とても、集団就職で東京に出てきた少年の考える犯行とは思えないですね」

「そうよ、最初からおかしいんじゃないの、警察って何よ……」

「いや、そこまで言わなくても……」

「あっ、ごめん、礼次さんを責めているんではないわよ。大曲よ。あいつは警察官失格よ。礼次さん、ぶん殴るだけじゃあなくて、半殺しでも良かったのよ、いえ、この世から抹消してくれていても……」

「おいおい、それじゃあ、わたしが犯罪者になってしまう……」

「世の中のためよ。死刑になったら、わたしがお線香を絶やさないわよ」

「し、死刑にはならんだろう?」

「まあ、まあ、ふたりとも落ち着いて、いいですか、作戦会議はここまでですよ。僕は大学の講義がありますから、出かけます。今は、探偵社には休暇を貰っている状況なんですよ。単位が取れないと、留年ですから……。後は所長が調べておいてくださいね。夕方には帰ってきますから……」

「早く帰ってきてね、マイ・ダーリン……」

      *

 礼次はまず、警視庁の友人に電話をし、元武蔵野南署勤務の追跡のトラックを運転していた警察官の情報を得た。新宿署に異動になっており、連絡すると、神堂刑事を憶えていて、快くアポイントを取ってくれた。

 それから、知り合いの同業者――私立探偵で元警察官――に電話を入れ、幾つかの調査を依頼した。

「早急に頼むよ。事務所に女性の助手がいるから、結果は事務所にしてくれ」

 そう言って、受話器を置いた。

「女性の助手?それってわたしのこと?何時からわたしが、探偵局の助手になったのよ。わたしはオーナーでしょう?」

「協力するって言ったよね?だから、助手として働いてもらうよ。小林君は、訊いてのとおり、大学の講義で忙しいんだ。君しかいないだろう?留守を預かるのは……」

「あああ、変な約束しなけりゃよかった。封切りの映画観たかったのにな……」

「また、スパイ映画か、SF映画だろう?」

「残念ね、『心中天網島』、篠田正浩監督の作品よ。近松門左衛門の浄瑠璃が原作」

「へえ、君も趣味が広いね。いや、こうしてはいられない。小林君が帰ってくる頃までに、七項目の調査を出来るだけ完了しておきたいからね。行ってくるよ」

「礼次さん、格好いいわよ。昔の神堂刑事時代に帰ったみたいに……」

「おいおい、じゃあ、団戸礼次は格好悪いってことかい?」

「ええ、似合わないもの。あなたはルパンにはなれないわ。どちらかって言えば、メグレのほうよ」

「それは褒め言葉かい?」

「そうよ、最高の、ね」

「ありがとう、君に褒められるのが、僕の生きがいさ。じゃあ、吉報を期待してくれよ」

「ええ、メグレ警部、了解しました……」

       

       8

「さて、作戦会議を再開しようか、だいぶ調査の進展もあったようだよ。今日は土曜日だし、講義もないそうだからね」

 第一回の作戦会議から二日後、探偵社のソファーに団戸礼次、小林芳夫、興園寺遼子がそれぞれに向きあうように三角形に座っている。眼の前のテーブルには、知り合いの探偵社から送られてきた調査資料が開かれていた。

「まず、トランシーバーの出処だがね。現物は焼け焦げていたんだが、その形式と、周波数から米軍からの貰い下げのようだ。上野のアメ横か、秋葉原辺りで入手できる物らしい。だから、そこから犯人に結び付けるのは難しそうだ」

「所長、ひとつ確認したいことが……」

「何だね?」

「トランシーバーの片割れ、つまり犯人側が使用していた方は、発見されたのですか?」

「いや、それがだね、わたしも気になって、警視庁の資料を確認してもらったんだが、火災現場から見つかった破片は、おそらく、一個分。つまり、龍太郎さんが持っていたものだけのようなんだ。ただ、爆発物があったから、その勢いで、遠くへ飛ばされた可能性もあるそうだ」

「結論としては、見つかっていない、そういうことですね?」

 小林君の念押しに礼次は深く肯いた。

「次はダイナマイト、こちらも推定だが、トンネル工事が近くでやっていてね。そこから盗まれたものと判断していた。確かに、本数が足らず、会社へは報告が上がっていたらしい」

「警察へは届けていなかった、ってことですか?」

「ああ、数ある中の三、四本だから、と言い訳していたらしいがね」

「それではそこも空振りですね。犯人には繋がらない……」

「では、三つ目だ。龍太郎さんの政敵は野党の現役代議士と、前回立候補したが落選して再度挑戦を試みている、龍太郎さんと同じ与党の男。もうひとり加えるなら、立候補予定の別の野党候補の三人だ。龍太郎さんの都議としての人気は高い。国政に出ても勝利は間違いないと言われていた。何せ、首相の派閥に属しているんだから、応援も凄いよ」

「で、そのうち、特に龍太郎さんを亡き者にしようと考えそうな人物は?」

「同じ与党の男だろうね」

「そうね、橋谷って、六十くらいの小父さんよ。土建屋の社長。前回の選挙で惨敗したくせに、公認を貰いたくて、相当金をつぎ込んだらしいのよ。なのに、党から、うちの主人を推す声が上がってしまって、家にも脅迫染みた電話が掛かって来たわ。最後は泣きつくように、次回だけ譲ってくれ、って。主人は『党の役員が決めることだから』と、やんわりと断りの返事をしたらしいわ」

「そうですか、容疑者にはなりますが、どうも、今回の事件には似つかない性格の人物ですね。それで他に、政敵でなく、恨まれるような人物、嫉妬が殺意に代わるような人物はいませんか?例えば、所長のように、遼子さんの熱烈なファンとか……」

「お、おいおい、わたしが何で、遼子の熱烈なファンだと決めつけるんだね?単なる幼馴染みだよ」

「無駄です。どんな言い訳も通用しません。所長が遼子さんに対して持っている感情は……」

「感情は?」

「愛です。それも、純愛です。傍にいる僕が赤面するくらいの古臭いメロドラマの純愛感情です」

「ふ、古臭い……、そ、そうなのか……?」

「でも、それは、とても、素敵です。そんな感情をずっと持ち続けられる男がいることに感動します。そして、遼子さんも、それを理解している。お互い、良い距離を保っている。とても素敵な関係です。でも、悲劇的でもありますよ。それ以上は進展しない、関係でしか、ありませんから……」

「進展しない関係か、そのとおりだ。しかしわたしは、それでいいんだよ。進展しなくてもね」

「所長、駄目なんです」

「えっ、どうして?」

「所長がそう思っていることが、遼子さんに伝わっている。だから、遼子さんは未亡人のままなんですよ。こんなに美人で、明るくて、周りから好かれている女性が、再婚できないんですよ」

「えっ、再婚しない理由が、わたしの存在なのか?」

「ち、違います。わたしが再婚しないのは、前の主人の思い出が……」

「ええ、それもあるでしょう。でも、遼子さん、自分の胸に手を当てて、考えてください。あの悲劇の後、あなたが、生きがいを失くして、自殺まで考えた時、誰が救ってくれましたか?今のあなたの、その明るさは、誰が取り戻してくれたのでしょうか?」

「そ、それは、礼次さん、いえ、まだ神堂元刑事だった頃の……。でも何でそれを知っているの?わたしが自殺しかけたことなんて、礼次さん以外知らないことよ」

「わ、わたしは何も言っていないぞ」

「当たり前よ、誰もあなたを疑ってはいないわ。芳夫さんが知ってたことに驚愕してるのよ。この人、やっぱり、エスパーなのよ」

 遼子の言葉を、小林君は否定も肯定もしなかった。ただ、微笑んだまま、会話を別の話題へと移して行った。

「ところで、またここで確認です。当時、興園寺家に出入りしていた人々、使用人から、政治関係の秘書のかたなどの一覧はありますか?」

「ああ、第四の項目でそれは書き出してあるよ。これだ」

 礼次は居り畳んでいた紙片をテーブルに広げた。

「主人の龍太郎、妻、遼子、長男、和音。これが家族ですね?ご主人のご両親や、ご兄弟は?」

「両親は無くなっております。わたしの方は兄がおり、そちらで、一緒に暮らしていますが……。それと、夫の兄弟は、姉がひとり、このかたは、北海道の方にお嫁に行っていまして、年賀状が来るくらいの関係でした」

 と、遼子はまるで取り調べを受けている容疑者のような言葉使いで答えた。

「なるほど、ご主人の親族は、そのお姉さま、おひとり……」

「おいおい、まさか、また遺産相続なんて言うんじゃないだろうな?」

「あり得ませんよ。今回は遺産がらみの犯行ではありません。では、次は使用人他の関係者」

 そういって、小林君はテーブルの紙片に書かれた人物名と肩書を確認する。

「第一秘書、福松靖男。第二秘書(見習い)北島陽介。運転手、平賀優作。家政婦、梶山富子。以上が日常的に屋敷に出入りしていた人物。福松以外は屋敷に住み込みで働いていたんですね?」

 遼子が頷く。

「さて、あとは、後援会会長、篠田弘昌。龍太郎の伯父で、元国会議員の興園寺孝太郎。その妻で、元財閥の娘、八重子。以上が関係者ですか……」

「伯父や伯母は関係ないと思います。鎌倉の方に隠居していますから……」

「あと、後援会会長も容疑者にはならないぞ。その頃、台湾に長期で旅行中だ。何でも、オリンピックの時に台湾選手団の中に、戦時中の知り合いがいて、選手ではなく役員だったらしいが、大会終了後、ご招待があったらしい」

「では第五の項目、黒崎の事件前後の行動です」

「ああ、こちらは、知り合いの探偵社からの報告だ。元刑事だけあって、信頼できる内容だよ」

 礼次はそう言って、レポートのように閉じられた数枚の紙片を手に取った。

「黒崎兼男、昭和二十×年、岩手県生まれ。地元中学卒業と同時に、集団就職で上京。武蔵野市の自動車整備工場で働いていた。そこで、まじめに働いて、かなりの資格も取得したらしい。が、十七の歳に、同じ中学校を卒業した友人Bに誘われて、大井競馬場へ行った。歳を誤魔化してね。そこでギャンブルに嵌ってしまった。競輪、競馬に賭けマージャン。カモにされたんだな。仕事は熱心だったが、安い給料は、借金で……、てやつだ」

「それで、興園寺関係の人物との接点はありますか?」

「ない。いや、判明できない、との報告だ。ただ、キャデラックと、その車のガレージの合い鍵を近くの合い鍵屋で作ったのは確認できている。お客に頼まれて、予備キ―を作りたいと申し出があったらしい。合い鍵屋も顔見知りだし、自動車整備をしていたら、ついでにお客に頼まれることもあるだろうと、疑いもしなかったそうだよ」

「つまり、キャデラックの盗難は、黒崎の犯行が濃厚ということですね?」

「そう、借金に困って、誘拐、身代金強奪を計画した、と、当局は判断した」

「動機はあった。だが、彼のできる行動ではなかった……」

「そうだな。彼はその日、誘拐事件の日は休みだったらしい。事前に休暇願が出ていたそうだ。そして、身代金の受け渡し日だが、ちゃんと出勤しているんだ。ただし、午後五時には終業している。だから、夜間のアリバイはない」

「まあ、最終的には、小金井市か田無市の境の工場跡にいたのですから、犯行に加わったのは間違いないでしょうね。犯人の身代わりに、拉致されて、殺されたってことは考えられませんよね?」

「怖いことを言うね。それなら、龍太郎さんが対応した倉庫の中には、別の犯人がいたことになる。まさか、拉致された人間が、ダイナマイトの発破のスイッチを押したりはしないよ」

「そう、そこも確認したかったのですが、燃え尽きた現場で、そのスイッチが実際に使われたものだと確定できたのでしょうか?」

「おいおい、もっと怖い話になって来たね。どういう意味だい?爆発が起こった。起爆するのには、スイッチがいる。そのスイッチがそこにあったんだよ。他に何が考えられるんだ?」

「もうひとつスイッチがあったとしたらどうですか?例えば、少し離れた、工場の陰とかに……」

「ど、どういう意味なんだ?」

「所長、おかしいと思わなかったんですか?」

「何がだね?」

「龍太郎さんが倉庫にはいてからも、何故、トランシーバーを通じての会話が続いたのか?警察が傍受していることは、理解していたはずですよ。その前の会話で、『黙っていろ』とか、紙ベースでの指令書に切り替えたりとか、傍受を気にしていたはずです。それなのに、眼の前にいる龍太郎さんと何故、直接話をせず、トランシーバー越しにして、その会話を警察に訊かせたのか……」

「ええっ?あの会話は、警察に訊かせたかったと言うのか?」

「そう、警察に踏み込ませて、その所為で、人質というか、一般人を巻き込んで殺してしまった。そういうことにしたかった、のではないですかね」

「あれは、罠だったのか?」

「そう考えないと、ダイナマイトを仕掛けた意味が解らなくなりますよ。最初から、倉庫ごと吹き飛ばすつもりだった。だが、思ったより、爆発力がなかったのです。ダイナマイトを扱うプロではなかったのですね」

「じゃあ、黒崎は知らなかったのか、ダイナマイトのことは……」

「おそらく、金を受け取って逃げだすつもりだった。そこへ警察官が乱入しようとした。物陰から見張っていた犯人が発破のスイッチを押した。最初に倉庫の扉付近。続いて、倉庫の中の、おそらく、逃げだそうとしていた黒崎のすぐ近くで爆発が起こった。そして、その炎が、段ボールに引火し、倉庫内は火の海になった。警察隊は、新たな爆発を恐れて、飛び込んでいけなかった。そして、倉庫の中の人間、三人は焼死体となって発見される。その騒ぎに紛れて、発破のスイッチなど回収して、犯人は逃走したんですよ」

「あなたって、そこまで見通せるの?まるで現場にいたように……」

「遼子さん、あくまで推測、状況から考えて、その可能性が高いと言っているんです」

「でも、あなたが言うと、絶対間違っていない気がするわ。そうでしょう、礼次さん?」

「ああ、小林君の言うとおりだ。その可能性が高い。いや、それ以外考えられない」

「では次の項目、幼稚園の目撃証言です。これは僕が昨日幼稚園を訪問してきました」

「ああ、そうだったね。朝そう言って出かけたから、君に任していたんだ」

「当時の園長、担任の牧子さん、用務員の藤井さん、全て、在園中でした。そして、あの事件を昨日のことのように、記憶しておりました」

 そこで、話を区切り、小林君はふたりの顔を覗き込んだ。

「誘拐の状況は、警察の報告通りです。ただ、その後で、警察が黒崎の顔写真と、身長体重を記載したものを持ってきて、この男で間違いないですね、と確認というより、同意を求められたそうです。三人とも、違うんではないかと、思ったそうです。マスク越しではありましたが、もっとふっくらした顔だったと、平賀さんはふっくらしてましたからね。そう言うと、警察官は、含み綿をして、頬を膨らましていたんだ。と断言したそうです。だから、それ以上は反論できなかった。身長とか体重とか文字で見せられても、記憶と比べられなかったので、『その身長は、刑事さんと比べてどうですか?』と尋ねたら、同じくらいだろうと……。そしたら、もう少し高かった気がしたそうですが、言えなかったと言いました」

「最初から、黒崎がその運転手だと決めつけてきたんだ。証言なんて、殆ど無視に近かったんだろうな」

「そして、重要な証言を得ました」

「何だね?」

「ええ、担任の牧子さんの証言ですが、和音君がその運転手に何か語りかけたと言うんです。それが、『平賀』と聞こえたというんです」

「それが、重要なのかね?犯人が平賀と名乗ったんだろう?和音君がそれを復唱しても、おかしくないだろう?」

「まあ、その回答は後ほど。もうひとつありました。和音君は車に乗り込んだ後、ウインドウを開けて、『先生、サヨウナラ』と笑顔で挨拶したそうです」

「挨拶はきちんとするように、躾けていたわ、不思議でも何でもないのだけれど……?」

「そうですか、おふたりとも、和音君のサインが見えていない……」

「和音のサイン、それはどういう意味?」

「いえ、また後ほど、推測を話します。最後の項目をお願いします」

       *

「あの時トラックを運転していたのは、武蔵野南署の交通課の警察官。名前は吉沢恭介。パトカーの運転技術の優秀さを買われて、運転手に抜擢されたそうだ。今は新宿署で交通課の課長だったよ。事件のことはよく覚えていた。そして、彼も、大曲警視の判断には否定的だったよ」

「神堂さん、僕は今でも、あなたのあの叫び声を憶えていますよ。『あと、五分、待て』といった言葉をね。そして今でもそれが正しかったとも思っています。五分待っていれば、人質は無事倉庫から出てきたとそう思えてならないのです」

 と、交通課、吉沢課長は言った。

「そうですか、あの事件を再調査。未亡人からの依頼ですか。はい、僕もあの犯人少年Aの単独犯とは思っていませんよ。でも、警察官として、いえ、僕は刑事課ではなかったので、意見を言う立場でもありませんでした。けれど、おかしいとはずっと思っていたんです。えっ?周りの車両ですか?怪しい車両?気がつきませんでした。かなりのハイスピードで走ったところもありましたし、待ち伏せというか、別のルートから先回りされたら、気がつかなかったでしょうね。ただ、これはわたしの個人的な考えなのですが、犯人が何故、拝島橋まで車を走らせて、また引き返すような真似をしたかを考えてみたんですよ。犯人は時間稼ぎをしたかったのではないでしょうか。つまり、あの現場にダイナマイトを仕掛けたりする時間、あるいは、他に、すぐ動けない理由があって、理由は解りませんが、不自然な時間の経過だったもので、そんなことを考えたんですが……」

 吉沢課長はそう言ったと、礼次は話を終えた。

「中々、優秀な方ですね。畑違いの刑事課の仕事なのに、ちゃんと事件の流れを把握しているし、疑問点も的確です。不自然な犯人の行動の裏には、犯人に繋がる事実が隠されています。時間稼ぎ、正解ですね」

「これで、君の作った七項目の調査が終了したわけだが、どうだね、犯人に繋がるものが出てきたかね?」

「ええ、充分に。明日、犯人をお教えできると思いますよ」

「何だって、犯人が特定できたのかい?」

「いえ、まだです。だけど、二十四時間、いや、十八時間ほどのお時間を頂ければ、結論を出せると思います」

「まるで、ルパンね、ルパンにもそんな話があったじゃない……?」

「ああ、『八点鐘』の中だったか……」

「唯、犯人を指摘できても、告発できるかは解りませんよ。証拠を集めることは困難を極めるでしょうし、特に検察の壁があります。事件は解決済み、で、門前払いです」

「いいのよ、罪に問えなくても、そいつの眼の前で、『あなたが犯人よ!』って言ってやりたいのよ。その時の犯人の顔を、この眼に焼き付けたいのよ」

「遼子さんがそれでいいのなら、全力を尽くしますよ。もう、容疑者は絞れています。明日の朝から、それを確かめに、出かけたいと思います」

「期待しているよ。名探偵ルパン君……」

       

       9

「どうだね、犯人は特定できそうかね?」

 翌日のお昼近く、外出していた小林君が、事務所に顔を出すと、いきなり所長の団戸礼次が尋ねてきた。小林君は、昨日も、そして、今朝早くからも出かけて、捜査をしていたらしい。だが、詳しい内容は、無言のままなのだ。

「はい、九十九パーセント間違いなく。ただ………」

「ただ、とは?」

「証拠がありません。告発しても、当人が否定すればそれまでです。遼子さんが望まれる、ご主人と和音君の無念が晴らせるかは、自信がありません」

「そうか、仕方ないよ、五年が経過しているんだ。しかも、警察内で大事な証拠が失われているんだからね」

「そこで、提案があるのです」

「提案?何?わたしが出来ることなら何でもするわよ。お金が掛かることでも……」

「ええ、遼子さんの協力が必要です。龍太郎さんの伯父さん、元国会議員さんでしたね?」

「ええ、そうよ。結構、大物代議士で、法務大臣をしたこともあるわ」

「そうなんですね。そこで、その伯父さんの伝手で、検察を動かして欲しいのです」

「検察を動かす?」

「ええ、事件の再審を始めるかのような、素振り、というか、噂を立てて欲しいのです」

「再審か、まあ、素振りだけなら、黒崎兼男の家族から申し出があるようにすれば、出来ないことはないが、それが、犯人へのアクションに繋がるのかね?」

「ええ、事件の再調査が始まる。いえ、既に始まっていることを犯人に知らせたいんです」

「ほほう、つまり、揺さぶりか?」

「ええ、その再審に龍太郎さんの伯父上が、かなりの興味を抱いていることにしてください。その上で、事件の関係者をご招待したいんです。龍太郎さんと和音君を偲ぶ会を『旧興園寺邸』で開催し、その主催者を伯父さまにお願いしたい。そこで、幾つかの罠を仕掛けておきます。犯人を追いつめるね……」

「つまり、こういうことね、事件の再審手続きが始まりそう。もう既に、探偵が事件の再調査を始めている。そこで、その調査に大きな関心を抱いた、元法務大臣で、被害者の伯父さんが『偲ぶ会』という名目で、関係者を集める。その中に、真犯人がいる。その人物に罠を掛け、自白、或いは、証拠を突きつける、そう言う筋書きね?」

「流石、推理小説マニアの遼子だ。小林君の意図を見事に理解しているね」

「伯父さまの方は大丈夫よ。元々、あの事件の解決には、疑問を呈していた方だし、龍太郎さんは自分の息子のように可愛がってくれていたし、もちろん、和音は実の孫以上の可愛がりようだったから……」

「はい、そこは、クリア出来そうですね。もうひとつ、難問があります」

「何だい?その難問とは?」

「どなたか、お知り合いで、建設業界の大物はいらっしゃいませんか?そうだ、龍太郎さんは政治家として、どちらの分野が専門だったのでしょうか?」

「主人は建設畑ではないわ。どちらかというと、環境問題が得意。それと、第一次産業、農家と水産業の味方よ。ただ、建設業界の関係者なら、いるわよ。わたしの父は大手ゼネコンの重役だし、夫の伯父さんの奥さまは、前にも言ったと思うけど、財閥のご令嬢。関係企業に大手建設会社があるし、そのメイン銀行の頭取とも親戚関係だし、大株主でもあるわよ。どちらの企業も……」

「小林君、遼子の親族を当たれば、どんな業種でも、顔が利くよ。現総理大臣でさえ、動かせるかもしれんよ」

「それは凄い、では、そのルートのいずれかを使って、ある人物を、その『偲ぶ会』にご招待していただきたいんです」

「ある人物?」

「ええ、政治がらみ、建設業界がらみの人間がいるもので、証人、或いは容疑者として……」

「よ、容疑者?事件に建設業界が絡んでくるのか?汚職事件なのか?」

「まあ、関係者の一人ですが、ご招待しても、余程のことがないと、出席してくれないかもしれませんから、強引な手段を駆使してでも集まっていただきたいんです。それと、警察関係者ですが、例の『大曲警視』と今、新宿署の交通課長さん。それと、トランシーバーの無線傍受を担当されていた刑事さん。もうひとり、警視庁の科学捜査班の音声鑑定の専門家をお願いします」

「音声鑑定?何をするんだね?」

「実は、事件の時の電話の声や、トランシーバーの傍受した犯人の声は録音されているんです」

「ああ、証拠として残っているだろうが、誰のものとも解らんよ」

「ええ、当時は、ね。でも、科学は発達しているんですよ。今なら、その科学を利用できる、そう思いませんか……?」

      *

 小林君の計画は、龍太郎氏の伯父上、孝太郎、その夫人、八重子の協力を得て、着々と進行していた。事件の再調査がなされるという噂が、警視庁の中や、所轄の警察官の中で囁き始められていた。もちろん、大曲警視――今は町田署の署長である――にも、当時、事件に係わった警察官たちにも……。いやいや、他にも事件に多少の関係のあった人々にもその噂は流れていったのである。

 だが、それに対する反応は、今更、迷惑な話だ、というのが、大勢であっただろう。特に、真犯人にとっては…….

 そして、龍太郎氏の伯父上からの『龍太郎と和音を偲ぶ会』開催の招待状が発送される段取りになったのは、十日後のことであった。

 その開催日は、

「丁度、龍太郎の誕生日と和音の誕生日が同じ日なの。生きていたら、四十歳と十歳よ。その日にしましょう。真相解明をする日に、ちょうど……、だと思うから……」

 遼子の提案で決まったのであった。

「招待客の名簿は出来ているのかね?」

 と、礼次が小林君に尋ねた。

「はい、事件の関係者、ほぼ全員。警察関係者と他、龍太郎さんの政治がらみの人間が数人。それと、証人として出廷していただく人がいます」

「つまり、『偲ぶ会』という、名目で、裁判を開くのね?」

「そうですね、私的な裁判と、言えるかもしれませんね。判事は元法務大臣の伯父上ということです。ただし、犯人側には弁護士はいない。だから、我が『棒網探偵社』の調査結果の報告会、というのが、本当の趣旨になると思います」

「ああ、待ちどおしいわ。で、真犯人は誰なの?招待客の中にいるってことよね?でも……、ルパン君は教えてくれない……」

       *

 招待状が発送されたが、その中の一人は出席できなくなってしまった。その前日の早朝、死体となって発見されたのである。

「今朝早く、国鉄中央本線、三鷹駅と武蔵境駅の間にある踏切で事故がありました。下り電車に男性が引かれ、即死の状態で発見されました。警察の発表では、男性の身元は職業運転手、平賀優作さん四十二歳ということです。事故の原因はただ今調査中。事故、自殺の可能性もあり、慎重な捜査が進められております」

 朝のテレビのニュースが、列車事故、轢死事件をそう伝えたのが、『偲ぶ会』の前日だったのである。

「平賀優作、同姓同名ではないだろうね?元、興園寺家の運転手の平賀のことなんだろう?よりによって、こんな時に、死ぬことはないだろう……」

 そう礼次が言った時、画面は天気予報に移っていた。

「事故と自殺の両面、つまり、もうひとつ、他殺の可能性もあるってことですよね?」

「芳夫さん、それどういう意味?平賀が殺された、ってことなの?」

 朝のコーヒーを用意して、遼子がテーブルにカップを並べながら、驚きの声を上げた。

「まさか、平賀はあの誘拐事件の犯人に殺されたって言うんじゃないだろうね?何か犯人に関すること、秘密を掴んでいたとか……。それを犯人に気づかれた……」

「だとしたら、わたしたちがばらまいた、事件の再審が始まるって噂が、犯人を揺さぶったってことになるわ」

「そうですね、その可能性が出てきましたね。ただ、明日の『偲ぶ会』までに、自殺か事故かあるいは、殺人か、特定できればいいのですが……」

「よし、所轄の刑事課に連絡して、検死の結果が出たらすぐ知らせてもらおう。龍太郎さんの伯父上、興園寺孝太郎、元法務大臣の威光を利用してね」

「でも、平賀さんが、犯人の何を知っていたのかしら?知っていたら、わたしか、北島君か、第一秘書だった福松さんに伝えるはずだわ」

「そうでしょうか?内緒にしておきますよ、彼なら……」

「つまり、犯人を脅迫しようとしたのかね?」

「さて、どうでしょうか、全ては明日のことです。それより、遼子さん、例の工事、お願いできましたか?」

「例の工事?おいおい、わたしに内緒で、何を企んでいるんだ?」

「ベッドの中の睦言よ」

「べ、ベッドの中?ま、まさか、君たち……」

「嘘よ、睦言だけど、ベッドじゃなく、屋敷の中だったわ。だから、秘め言と言った方が正しいかも、ね」

「ああ、昨日、興園寺邸を下見に行っていたんだ。そこで、工事の話か?どこか修繕が必要だったのかい?」

「修理じゃないのよ。よく解らないけど、門を塗り替えて、いえ、その準備だけしてくれって……。それで、会が始まる午後二時前に、門の周りに、シンナーや塗装液が撒けてしまった状態にしておいて欲しい、って頼まれたのよ」

「それは、何故……?」

「おまけに、シンナー類をお客さまが吸いこむといけないから、白いマスクを人数分用意しておいてくれって言うのよ」

「そ、それは、罠……ってことか……」


       10

 翌日の午後、吉祥寺駅の北側の閑静な屋敷が立ち並ぶ一角。そのひとつ、旧興園寺邸の前に黒塗りの高級車が次々と停まった。

 最初に到着したのは、龍太郎の伯父、孝太郎と八重子夫人を乗せた車であった。既に準備をしていた、遼子と礼次がそれを出迎えた。

「おう、神堂君、今日はよろしく頼むよ。名探偵の真相解明、期待しておるぞ」

「ええ、そうですわ。龍太郎の無念を是非晴らしてくださいね。あんな可愛かった、和音を殺した犯人を、死刑にしなくては、わたしども、死んだ後、龍太郎に会わす顔がないわ」

「は、はい、ご期待に添えるよう、準備を整えております」

「うん、今日の招待客の中に真犯人が居る、それに間違いないだろうね?いくら、犯人を見つけたいからと言って、証拠もなしに、また、冤罪なんてことにはならんようにね。政界を引退したと言っても、わしは元法務大臣だからね。そこのところは、解っているね?」

「は、はい……」

 礼次は、額の汗をぬぐった。暑いからではなく、冷や汗だったかもしれない。

 次に、時間前にやって来たのは、警視庁の科学捜査班の音声分析の担当者である。彼は大きなアルミニュームの箱を抱えて中に入って行った。そして、中身を設置しながら、小林君と何やら小声で打ち合わせをしていた。

 その後、小林君は作業服らしきツナギに着替え、ナイロン製のエプロンをし、防塵マスクのようなゴーグルを顔に当てて、玄関から門へと出ていった。

「さてと、そろそろ、第一陣が来るころかな?」

 と、ひとり言を言った後、四角い金属缶に入った液体を門の内外に撒き始めた。シンナーのきつい臭いが立ち込めてくる。もうひとつの缶を開け、青い塗料を、少量であるが、周辺に撒いていった。そして、金属のバケツにもその液を入れ、大きな羽毛を放り込む。門周辺の塗装をしていて、塗料や、その塗料を薄めるためのシンナーを撒き散らかしてしまったような景観を作ったのである。

 そこへやって来たのは、警察署の公用車、警視庁町田署の大曲署長を乗せた車である。門の前に黒塗りの車を止め、大曲署長が後部シートから降りてくる。

「うっ、何だ、この臭いは……?」

 シンナーの強い臭いに、顔をしかめる。

「すみません、塗装をしようとして、シンナーの缶を蹴飛ばしてしまいまして……。害になるといけませんから、これを……」

 塗装工事の職人に扮した小林君が、白い布マスクを差し出してそう言った。

「それとこれは頼まれたんですが、玄関にインターフォンがありますから、そこで、お名前とご招待状に書かれた番号をお伝えください。新聞記者など、部外者に入られると困りますので、ご本人確認でございます、とのことです」

「解った、早く、シンナーと塗料を始末しておけ、ご近所から苦情が来るぞ」

 命令口調でそう言って、大曲はマスクを装着し、玄関先へ歩みを進める。玄関ドアの横にインターフォンがあり、ボタンを押した。

「はい、どちらさまでしょうか?」

 という、中年の女性の声がした。元、興園寺家の家政婦だった富子の声だ。

「わたくし、警視庁町田署署長、大曲と申します。ご招待いただき、参上いたしました」

「はい、大曲さま……。恐れ入りますが、ご招待状に書かれた、番号をお願いいたします」

 招待状には、『この招待状を持参のこと』と注意書きが書かれてある。往復ハガキ大の招待状の最後に通番のようなアラビア数字が書かれてあった。

「ええっと、千十番ですな」

 と、大曲は答えた。

 すると、玄関ドアがカチっと音を立て、前方に開かれた。

「どうぞ、お待ちしておりました、大曲さま……」

 タキシード姿に着替えた、団戸礼次が慇懃に頭を下げ、大曲を屋敷の中に導いた。玄関を入ると、和服姿の中年の女性――家政婦の富子――が居り、食堂と思しき、テーブルの並んだ広い部屋に案内された。

 大曲に続いて、警察関係の吉沢交通課長と、武蔵野南署の担当刑事、香坂刑事が同じような手続きを取り、部屋に入った。

 その後、龍太郎氏の元秘書、福松靖男と北島陽介。その後に、後援会長、篠田弘昌。最後に二人、この選挙区から立候補し、見事、国会議員に返り咲いた、与党の橋谷伸雄。一緒に来たのは、郡山元尚と名乗った。二人が乗って来た車は、黒塗りのキャデラック。郡山の所有の車らしい。つまり、郡山とは、事件の時、黒崎に車を盗まれた本人である。だが、その人物と、与党議員が、何故同乗してきたのか?

 ふたりにマスクを手渡して、その背中を見送った小林君は、

「やっぱり、関係者だったか……」

 と、ひとり言を言った。

       *

「どうでしたか?思い当たる人物とかが居りましたでしょうか?」

 作業着を脱ぎ、普段の姿に戻った小林君が、玄関わきの部屋の窓越しに、来客の様子をじっと観察していた二人の女性に尋ねた。

「はい、マスクをしたお顔の形、特に耳の形がそっくりだと、思ったお方が……」

 そう言ったのは、年かさの方の女性である。

「わたしは、マスクをつけてお話しする声が、確かにあの時の……」

 若いほうの女性が続けて言った。

「小池先生はピアノがお上手とのこと、音感は普通の方より発達していますよね?」

「はい、三歳からレッスンを受けておりますから……」

 と、小池と呼ばれた女性が答えた。

「では、おふたりが思い当たった人物は、この中のどなたですか?」

 小林君は、そう言って、招待客の名簿を書き写したノートの一ページを二人に提示した。二人はゆっくり、そして同時に、同じ名前の上に人差し指を向けたのだった。

「伴野さん、音声の録音はできましたか?」

 小林君は、部屋の中央のテーブルの上に録音機や音声解析の器械を据えて、ヘッドホーンを耳に当てている男性に尋ねた。

「ええ、かなり鮮明に録れています。少し時間をいただければ、電話の声、トランシーバーからの録音音声と比較して、この中の誰の声が一番近いかは、判断できると思います。さらに詳しくは、本庁の器械で精査することにはなると思いますが……」

 伴野と呼ばれた、警視庁科学捜査班の音声担当者は、ヘッドホンを外しながらそう答えた。

「ありがとうございます。今、お客様は、ささやかな会食中、ティー・タイムですから、三十分後に、始めたいと思います。おそらく、この人物、或いは、この方、の声と一致すると思います」

 そう言って、小林君は、先ほど女性ふたりが指し示した、名簿の名前の人物のほかに、もう一人の名前を伴野刑事に示した。

       *

 来客の集まった食堂には、白いテーブルクロスが掛かった長いテーブル。食事でなく、ケーキと紅茶が各人の前に運ばれ、その他に、果物の入った硝子の鉢や、菓子類の入った皿が幾つか並べられていた。

 龍太郎の伯父、孝太郎氏の挨拶があり、各人、黙ってケーキを頬張り、お茶を飲む。部屋の片隅に小さな机があり、その上に写真立てが置かれていた。そのガラスの中には、キャッチボールをしている、龍太郎と笑顔の和音が写っていた。

 ケーキを食べ終える頃、ドアがノックされて、警察官と小林君が入ってくる。警察官は、敬礼をして、黙ったまま、武蔵野南警察署の香坂刑事に歩み寄り、耳元で何かを囁いた。

「そうか、殺人の可能性が高いということか……」

 と、その言葉を受けて、刑事は呟いた。

「いや、失礼、別件の報告を受けておりまして……」

 言い訳するように、誰ということなく、周りにそう説明したのだった。かつての上司、大曲署長がその顔を睨んでいた。

「では、始めさせていただきますかな」

 小林君がテーブルから少し離れた場所に椅子を用意して座ったのを見届け、孝太郎がそう話を切り出した。

「偲ぶ会というのは名目。皆さんも薄々は察していただいていたと思いますが、和音の誘拐殺人事件の再調査が始まっております。わたしと、龍太郎の妻である遼子が、優秀なる探偵社に依頼し、事件の真相を追及していただきました。そのご報告をいたしたいと思います。ご紹介します。元警視庁捜査一課の刑事、神堂(しんどう)正義(まさよし)君、今は探偵事務所の所長で、団戸礼次と名乗っているようですが、彼も当時、少しは事件に関係していた。オブザーバーとして事件の経緯を見守っていたこともあり、この事件の再調査にはうってつけの人物でありました。また、そのアシスタントを務める少年も、非常に優秀であり、先日、長野で発生した、ある殺人事件を、見事に解決いたしております。その優秀なスタッフが、導いた事件の真相を、これから、お披露目いただきたいと思います。では、団戸君、よろしく頼むよ」

 孝太郎はそう言って、礼次に視線を向けた。

「いや、興園寺さん、お言葉を挟むようですが、事件は解決しておりますぞ。犯人は少年A、ここだけの話にしていただきたいが、本名は、黒崎兼男、当時十八歳の自動車整備工の男。検察で犯人死亡による、解決を得ておるんです。捜査も完ぺき。何せ、わたしが陣頭指揮を執った事件でありますから、間違いありません。なあ、香坂君……」

 大曲が隣に座っている元部下に視線を向け、同意を求めた。香坂刑事は、苦虫をつぶしたような顔を見せたが、聞こえないふりをして、紅茶を口に運んだ。

「その、君の完璧という捜査に落ち度があると、わたしが判断したから、再調査を依頼したんだよ。いいから、団戸君の調査結果を訊きたまえ。反論があるなら、その後で訊こうじゃないか。おそらく、反論できまいがね……」

 孝太郎は事前に礼次から黒崎の単独犯とは考えられない、という根拠を提示されている。その論理――小林君の論理であるが――は元法務大臣の彼を充分納得させるものだった。元々、この事件解決には疑問を呈していた彼であったのだ。また、彼の立場――元法務大臣――を利用すれば、法務省、東京地検の上層部に働きかけて、再調査を進めることもできたのだ。当時の法務大臣は、彼が法務大臣時代初当選したばかりの後輩議員。検察側でも彼の息のかかったものが、長官をしていた。だが、身内の、しかも、彼が最も可愛がっていた、甥の事件に口を挟むことは、私的なこと、とみなされる。それ故、静観する外なかったのである。

「おほん」

 と、礼次は空咳をして……、

「それでは、再調査の結果をご提示申し上げます」

 と、言って、一同をぐるりと見回した。

 テーブルの上座の一角に孝太郎が座り、彼の右手側の一番端に礼次が座っている。彼の正面が八重子、その隣が、遼子である。

 礼次は立ち上がり、下手に用意されていた黒板の前へと足を進める。そして、回転式のその黒板を百八十度回転させ、裏側に書かれた文字を一同に見えるようにした。小林君がそれを手伝い、黒板の面をねじで固定する。

 黒板に書かれた文字は、

 ・七つのなぜ?とそこから推定される犯人像

 一、なぜ、電話の音声が録音されたテープレコーダーの早送りの声だったか?

 二、なぜ、身代金の壱千万円の札を使用済みの番号のバラバラなものに指定しなかったのか?

 三、なぜ、トランシーバーを指示に使ったのか?

 四、なぜ、最後の指示は紙に書かれていたのか?

 五、なぜ、車を拝島橋方面まで走らせ、引き返させたのか?

 六、なぜ、倉庫にダイナマイトを仕掛けたのか?

 七、なぜ、龍太郎氏の車の走行中位置を正確に捉え、その場その場で指示を出したのか?

 そこで、一段落間隔をあけて、

 犯人は、ひとりではない。ひとりでは不可能な犯罪である。

 犯人は、身代金が目的ではない。紙幣の番号に無頓着、ダイナマイトで、紙幣まで焼いてしまった。

 犯人は、興園寺の内情に詳しい。和音君の幼稚園のこと、運転手の名前、使用の車種、などを把握している。

 一同に礼次がそこに書かれた文字を読み上げた。そして、

「では、ここからは、助手の小林が説明いたします」

 と、黒板の横に立っていた小林君に視線を向けた。

「まず、黒崎の単独犯であり得ない状況を説明いたします」

 と、小林君が話を切り出した。

「そのひとつが、黒崎の事件当日の解っている行動です。誘拐事件発生当日、彼は勤務を休んでいます。つまり、アリバイなし、ということです。次に、身代金受け取りの日、彼は午後五時まで勤務しています。思い出してください、最初に、身代金受け取りを指定した場所と時間を……。『午後五時、井の頭公園、東園』、彼の働いている会社から、車なら、十五分位、まあ、最初から待たせるつもりなら、出来ない範囲ではありませんが、その前の脅迫電話がかかって来た時間や、脅迫状の郵便受けに入れられた時間帯を考えると、全てをひとりで行うことは、時間的に不可能です。そして、その後の犯人の行動、トランシーバーによる指示から、最後の現場となった工場跡に先回りするという、しかも、ダイナマイトを仕掛けておくという、時間的余裕が彼には作れません。作れたとしたら、奇跡です。

 そして、最も確かな証言があります。和音君が通っていた幼稚園の、園長先生と担任の先生の証言です。和音君を迎えにきた運転手の体形が黒崎と違っていることです。警察は記憶違い、で片付けていますが、ふたり、いや、用務員の方を合わせると三人が、運転手は黒崎より背が高かったし、写真の顔よりふっくらとしていた、と証言しているのです。いや、反論があるでしょう。写真は前のもの、その後、ふっくらした可能性もあると……。ですが、黒崎の勤めていた会社の同僚の方が証言しています。黒崎は悩みがあった――借金があった――所為か、以前より、痩せていたと……」

 そこまで語った小林君の視線は、テーブルの中央付近に座っている、大曲の方に向けられていた。大曲の顔が歪んでいるのを確認し、話を続けた。

「幼稚園を訪れ、和音君を拉致した人物は、黒崎ではない。つまり、事件は複数犯の犯行であったわけです。では、この運転手の正体は……?ということになりますが、ここにまた、重要な証言があります。和音君が、その運転手に何事かを話した、その言葉の一部を、担任の小池先生が訊いています。彼女はピアノの先生でもあり、かなり、音に対しては常人より、敏感であります。ですから、聞き間違いではないことを、先に申しておきます。和音君は運転手に『平賀さんは?』と、尋ねたそうです。その後、車に乗り込み、後方座席のウインドウを開け、『先生、サヨウナラ』と、いつもと変わらない、笑顔で挨拶したそうです」

「それが、おかしいのですか?当たり前のような気がしますが……」

 そう言ったのは、一番手前に座っていた、龍太郎の元第二秘書、北島陽介だった。

「そうですね、当たり前、普段と同じだったことが、かえって不自然なのですよ。何故なら、母親が事故で病院に担ぎ込まれたという、緊急時、しかも、運転手は平賀と名乗ったが、平賀ではなかった、だから、和音君は『平賀さんは?どうしたの?』と尋ねたのですよ。平賀と名乗った男が、平賀でないと解っても、普段のままだった……。つまり、男は和音君の知っている、しかも運転手としてやってきても不思議でない人物だった。そうですよね、『北島陽介さん』……」


       11

「ちょ、ちょっと待ってください、その推理は飛躍しすぎだ。僕がその運転手な訳がない。僕が和音君を誘拐する理由がない。そ、それともうひとつ、僕は黒崎なんて男を全く知らないし、逢ったことも、いや、接点などありはしない。それが、誘拐の共犯など、冤罪もはなはだしい……」

 北島陽介は小林君の推理に対し、慌てて反論をし始めた。

「そんな、幼稚園の園長か担任かは知りませんが、五年近く前の記憶など、信用できませんよ。思い違い、いや、思い込みでしょう」

「五年前ではないんです。事件の後すぐに、そう証言した。だが、捜査官がそれを無視したんです。だから、かえって、おふたりは記憶に残っているんですよ。それから、おふた方とも、あの事件は鮮明に、ご記憶しているんです。自分たちのちょっとした不注意で、大事な命を失うことになったのですから……。それもあって、事件に対して、とても協力的です。本日もとなりのお部屋から、ご来客の皆さまを観察し、そのお声、マスク越しの声を訊いてもらいました」

「マ、マスク越し?じゃ、じゃあ、あのマスクを掛けさせたのは、そ、そのためだったのか……」

「よくお解りで、その結果は言わずともお解りですよね?あなたのマスクをしたお顔、マスク越しにインターフォンへ名前を告げた言葉、あの事件の時の運転手に間違いないと、おふたりが証言してくれましたよ」

「う、嘘だ、そんな記憶など、信用できるか、思い違いだ……」

「まだまだ、証拠がありますよ。あなたのインターフォン越しの声を、隣の部屋で警視庁の音声解析の専門家が解析してくれましてね。トランシーバーからの声と声紋が一致したことを報告していただきました」

「せ、声紋?」

「ええ、科学技術は進んでいるのです。人間の声はすべて、独特の波長があり、ひとりひとり、違っているんですよ」

「そういうことだ。北島さん、観念するんだな。証言だけじゃなく、証拠も充分過ぎるものになったんだよ。科学の力でね……」

 と、礼次が最後通告を発した。

「いや、俺じゃない、俺は殺しなどしてはいない。トランシーバーで……」

「おい、こいつを殺人容疑で、逮捕しろ」

 そう声を上げたのは、大曲署長であった。

「大曲さん、まだ、事件の真相は出尽くしてはいませんぞ。まだまだ、これからですぞ。さあ、小林君、続きを始めようか」

 大曲の命令じみた言葉を礼次がそう言って遮り、小林君は無言で頷いた。

「さて、和音君を拉致した男は北島さんです。金の受け取り役を任されたのが、黒崎。だが、先ほど北島さんがおっしゃったように、ふたりには接点がありません。どちらが主犯――犯行の計画者――だったとしても、お互いをパートナーにするその理由がないのです」

「そ、それでは、もうひとり、共犯者がいるってことですか?」

 そう尋ねたのは、吉沢課長であった。

「はい、共犯者というより、主犯格が少なくとも、ひとりはいます」

「少なくとも?」

「ええ、少なくともです。他にも共犯者が居りました。そのひとりが、昨日お亡くなりになった、平賀優作さんです」

「平賀が共犯者?で、ではあの列車事故は、まさか、殺人……?」

「吉沢さん、あなたのご推察どおりです。香坂刑事、そうですよね?」

「は、はい、先ほど連絡がありまして、平賀の遺体の検死結果によると、アルコールの他に睡眠薬の摂取が確認されたとのことです。そして、手首の傷など、列車事故を装った、殺人と判断いたしております。犯人については、現場周辺、事件前の平賀との接触者等、調査中であります」

「口封じ、ってことですか、真犯人の?」

「吉沢さん、その可能性が大、ということですよ」

 小林君はそう言って北島に視線を向ける。

「お、俺は知らん。平賀さんが殺されるなんて、俺には関係ない話だ」

「北島さん、あなたが殺(や)ったなんて言っていませんよ。犯人は別にいます」

「ええっ?平賀の他にまだ、誘拐事件に係わっているものがいるのですか?」

「そうです。主犯格の男がいるはずです。先ほど、お話ししたように、北島さんと黒崎には接点がない。しかし、ふたりを結ぶ懸け橋に当たる人物、それが平賀さんです。北島さんと平賀さんの関係は、説明不要でしょう。黒崎との関係です。これは自動車を通じて、つまり、興園寺家のキャデラックも黒崎の勤める整備工場で整備されたことがあるのです。ですから、平賀と黒崎は、車の修理、点検で顔見知りだったのです」

「そうか、キャデラックを点検できる工場、近くにそれほど数はなかった……」

「これで、事件の犯人の一味、三人が確定できました。そこで、もう一度、事件を再現してみましょうか。見逃されていたことがそこにあることに気づくと思います」

「見逃されていたこと?」

「盗難に遭った、キャデラックのキィーです」

「ワシの車のキィーのことかね?黒崎という整備士が勝手に複製を作ったそうじゃないか」

「郡山さん、勝手に作ったのでしょうか?黒崎は持ち主に頼まれて、と、鍵屋さんに言ったそうですが……」

「それがデマカセじゃったんだよ」

「さて、わたしどもの聴き取り調査で、黒崎の同僚の方が証言しています。キャデラックを整備・点検に納車した時、運転してきた男性がキィーを黒崎に渡しながら『ついでに、このキィーと、キィーホルダーについている鍵の複製を作ってくれないか』と、注文し、それを受けて、『ここではやっていないので、鍵屋に頼んでみます』と、黒崎が答えたのを隣の車の点検で車の下に潜り込んでいた同僚が訊いたそうです。そしてその後、黒崎にその事を確認して、鍵屋を紹介したのは自分である、ということでした。つまり、黒崎は鍵屋さんに本当のことを言っていたのです」

「そ、そんなバカな、ワシは言っとらん」

「あなたとは言い切れませんが、車を納車された方、どなたか別の人物の可能性もありますが……」

 その小林君の問いかけに、郡山は答えなかった。

「しかし、その複製の鍵を使って、黒崎が車を盗んだことには違いないのでしょう?鍵の複製を誰に頼まれたかは別にして……」

 と、吉沢課長が尋ねた。彼が誰よりも事件の真相解明に興味があるように思えた。

「盗難届が出されていますよね、事件の三日まえです。だが、その複製の鍵が使われたかどうかは、疑問です」

「ぎ、疑問?それ以外に盗む方法はないぞ。キャデラックのオリジナルキィーはワシの手元にあるのだから……」

「キャデラックのオリジナルキィー、つまり、会社のマークの入ったキィーですよね?そのキィーが、盗難車が発見されたあの工場跡の空き地で、車に差し込まれたままの状態で発見されたとしたら、どう考えられますか?」

「何だって?盗難車にオリジナルキィーが……?」

「そうです。先ほど見逃されていたこととは、その現場の状況写真の一枚に、イグニッションキィーの写真があり、その鍵にはオリジナルのマークが刻印されています。鍵屋での複製では、決して作れない代物ですよね?」

「つ、つまりどういうことですか?盗難車にオリジナルキィー……?ええっ?盗難は嘘、虚偽だったってことですか?」

「それしか考えられませんよね、郡山さん?」

「し、知らん、記憶にない」

       *

「さて、先ほどお話しした、黒崎の同僚、戸梶さんとおっしゃいますが、とても興味深い証言をしていただきました。黒崎が誘拐事件当日、休みを取って、翌日のことだそうです。『昨日は休んで何をしていた』と尋ねると、『臨時収入があってね、借金を返済してきた』と、言ったそうです。借金の額はおよそ、十万円弱。競馬や競輪で儲けた訳はなく、何かの報酬、つまり、誘拐事件に関与する、前金を受け取っていたと考えられます。身代金がまだ手に入っていない段階での報酬。つまり、黒崎に渡されたのは、犯人の自腹。それだけの金を、今までに紹介した平賀や北島に支払えるでしょうかね?」

「つ、つまり、まだ、黒幕がいる。三人は黒幕の手先にすぎない、というわけですね?」

「そ、その黒幕が、ワシだとでも言いたいのかね?ワシが何で、子供を誘拐せなならん。身代金など、必要ない。金なら……」

「そう、あなたなら、身代金目的での誘拐など計画しませんよね?それが、ここに提示した、第二の『なぜ?』の理由です」

 小林君は、黒板に書かれた、第二の項目を指さして、そう言った。

「壱千万円札の番号に無頓着だったか、それは、この誘拐が身代金目的ではなかったからです」

「身代金が目的でなかった?しかし、金の要求はしていますよね?それに手の込んだ受け渡しの方法をとっている。それなのに、金は要らないなら、目的は……?ま、まさか……」

「そう、吉沢さん、結果が物語っています。主犯の目的は、龍太郎さんを亡き者にすることが真の目的。和音君誘拐はその手段であり、動機のカムフラージュでもあったのです」

「ま、待て、待て、ワシが龍太郎氏を殺す動機がない。動機のない人間が、こんな手間を掛けた殺人をするものか。すべて、この気の狂った、探偵助手とやらの妄想ではないか。車の盗難はワシの思い違いで、オリジナルキィーごと盗まれたんだ。そうだ、キィーを付けたままだったんだ……」

「僕は、あなたが黒幕だとか、犯行の主犯格だとか、断定した覚えはありませんよ。結論を急がないで、事件をもう少し、振り返ってみようじゃありませんか」

「そ、そうだった、ワシは疑われていると、思い込んだだけだ。無実なのだから。事件を振り返ってもらおうじゃないか……」

「では、事件を再構築します。まず最初に、幼稚園に電話が入ります。和音君のママ、すなわち、遼子さんが交通事故で大けがをし、救急搬送され、和音君の名を呼び続けている、というものです。残念ながら、この電話の人物は特定できていません。電話を訊いた用務員の藤井さんはその声に心当たりがない、あるいは、記憶が曖昧であるということで、特定には至っておりません。ですから、ここでは、犯人Aといたします。

 さて、次なる場面は、先ほどお話しした、和音君の拉致場面です。ここで、もしも=IF=の話をしましょう。それは、幼稚園の対応です。もし、園長先生が冷静に、電話の真贋を確認するために、病院、または、興園寺家に電話を入れていたら、犯人はどう対応したでしょうね?北島さん、その対応策も、事前に平賀さんから訊いていたでしょう?つまり、もし、確認されて、嘘がばれていたら、こう言え。『わたしも病院から連絡を受け、こうして迎えに来たのです。嘘だったんですか……』と……。北島さんならその言い訳が通じますものね。だから、あなたが運転手役だった。平賀と名乗ったのは、嘘がばれていないと解ったからですよね」

 そう言葉を掛けられた北島は、無言のまま俯いていた。

「さて、つぎの場面は郵便受けに投げ入れられた手紙。これは平賀さんなら簡単に投函できます。同じように、トランシーバーを入れた小包も同様です。内部の者の犯行。これが、項目、一つ目の、録音テープでの指示に繋がります。犯人は屋敷の中にいた。この犯人というのは実行犯という意味です。ですから、電話で直接話せない。あらかじめ録音したものを流すしかなかったのです。その、テープレコーダーの二番目の会話。最初の取引場所、井の頭公園に警察関係者がいる、という内容でしたよね?この内容から、テープは北島さんと遼子さんが井の頭公園に到着した後で録音されたものと思われます。警察が現場に行くかどうか、龍太郎さんは、断っていたのですから、可能性は半分以下。それをあらかじめ録音しておくとも思われない。つまり、この音声は当日の午後五時から約四十分ほどの間に録音されたものであります。ですから、この声は北島さんではあり得ない。遼子さんがいつベンチを離れ、東園の出口に北島さんを探しに来るか解ったもんじゃない。その場を離れることは出来なかったでしょう。ですから、電話の声は北島さんではない。では、平賀さん?それとも、黒崎?どちらでもありません。ですから、ここにもうひとり、犯行に加わったBがいます。犯人AとBが同一人の可能性は充分あります。そういうことで、話を続けます。

 次の場面は、龍太郎氏が指示された最後の電話です。この電話も同じBの声に間違いありません。このテープの回転速度を早くした声を、逆にゆっくり再生させたらどうなるか?お解りですか?」

「それは、元の声になる……?」

「そう、完全ではないが、元の地声が再生できます。昔なら難しかったこの再生方法も、今なら、可能になっています。後ほど、伴野検査官がその声を再生していただけることになっています。つまり、Bの声が訊けるはずです」

 実は、この再生はまだ、不完全なのだが、地声が解っていれば、その声に近づけて、再生速度を調整することで、地声に近い声を再生する方法が採れる。小林君はBの正体が解っているから、その方法を伴野検査官に依頼したのだ。その作業が、今、隣の部屋で続けられているのである。

「さて、電話の指示に従い、龍太郎さんはひとりで車に乗り込みます。最初の指示は、三鷹駅に午後九時までというものでした。その後の指示はトランシーバー越しの声でした。ここで、『なぜ?』の項目の幾つかを解明しましょう。まず、なぜ、わざわざ、車を西に走らせ、また戻るような真似をしたのか?この答えは簡単です。時間稼ぎ。最後の場所にダイナマイトを仕掛ける時間、そこへ案内する手書の指令書をバス停に張っておくための時間が必要だったのです。それを行ったのは、平賀さんでしょう。北島さんはその時、キャデラックの後部座席の下に潜んで、トランシーバーから指示を出していたはずですから……」

「何だって?座席に潜んでいた?」

「ええ、あのキャデラックは、トランクルームと後部座席が繋がっているんです。トランクルームから入って、後部座席のシートを少し動かせば、人ひとり、充分隠れていられますし、外の様子を探ることも可能だったでしょう。特に全速力で車を走らせている間は、後部座席など注意を払いませんからね」

「つまり、北島は出発前からトランクルームに隠れ、走行中に後部座席に移ってきたというのか?」

「ええ、平賀さんの援助があれば、あらかじめ後部座席に細工もできたでしょうし、龍太郎さんに気づかれない対策も、平賀さんから伝授されていたでしょう。ですから、犯人は車がどこを走っているか、常に把握でき、トランシーバーによる指示で、遠くからの通信だと思い込ませることもできたというわけです」

「そうか、だから、周りに怪しい車など発見できなかったのだ。先回りしていたのかと思ったが、キャデラックが全速で走ったら、先回りも難しいだろうからな……」

「これで、ほぼ、『なぜ?』の項目の回答が終わりました。あと、ダイナマイトを仕掛けた理由ですが、これはもうお察しでしょうが、犯人は龍太郎さん殺害が目的だった。それを自爆という偽装で終わらしたかったのです」

「自爆?それじゃあ、黒崎も最初から殺されることになっていたのか……?」

「そういうことです。彼も被害者のひとりです。共犯者でもありますが、彼は和音君を連れて、工場跡の倉庫へ行っただけ。金を受け取るだけの役目だったのです。倉庫の中での会話も彼ではなく、他の人物だった。この音声を解析すると、北島さんではない声になりました。倉庫で交わされた会話も録音が残っているのです。そこに、とても重要な会話が最後に残っているのです。それは、龍太郎さんの最後の言葉、和音君を抱きしめ、こう尋ねました。『誰に攫われた?』その後和音君が何か答えますが、聴き取れません。その後の言葉が、残っています。『北島とふく』そこまで、録音され、爆発音があとの言葉をかき消しています」


       12

「事件の再現はここまでです。さて、ここからは事件と直接関係のない、周辺の調査のお話になります。この調査の結果、事件の真の目的が明らかになると思います。つまり、犯行の動機がこの調査で浮き彫りになってきました。その調査というのが、人間関係です。関係者同士の繋がりがどんなものなのか?過去に遡って調べてみました。意外な関係が見つかりました。まず、北島さんです。あなたは遼子さんと同じ高校、クラスは違うが、同学年だそうですね?そして、亡くなった、平賀さんですが、郡山さん、あなたの高校時代のひとつ後輩。同じバスケット部に所属だったとか……。そして、平賀さんは龍太郎さんの運転手になるまえはあなたの建設会社で働いていたとか。ですから、龍太郎さんへはあなたの紹介で興園寺家で働くようになったんですよね。つまり、あなたも興園寺家と、何らかの関係があったんですよね。そこで、建設関係を探ってみると、まず、郡山さんと、衆議院議員の橋谷代議士の関係が浮かび上がります。前回の選挙で、郡山さんが橋谷さんの後援会長を務めた、間違いありませんね?同じ建設業界の仲間ということでしょうか……。そうだ、福松さんは今、橋谷代議士の秘書をなさっており、次回の都議選に立候補の予定と覗いましたが、間違いありませんか?」

「間違いはないが、選挙と事件と何の関係もない話を、随分引っ張るじゃあないか。結局、真犯人というか、黒幕が誰なのか掴めていないのだろう?」

「さて、事件と関係がない、と言い切れないから、確認をしているんですよ。事件の動機とやらが、政治、いや選挙と言った方がいいかもしれませんが、に絡んでいる可能性が捨てきれないのです」

「選挙絡み?殺人事件が?な、何を根拠に……?」

「龍太郎さんが亡くなって得をしたのは誰か?動機を探す鉄則ですよね?身代金が目的でないから、金の問題ではない。後は、恨みか妬みか、あるいは、地位、名声を得たいか、そのいずれかになります、今回の動機は……。さて、複雑になっているんですよ。犯人が複数いて、首謀者の動機があって、それに同調した共犯者にはその人の動機があって、さらに、誘われたもうひとりの共犯者にも別の動機があって、犯行に及んでいるんです。ですから、真の、最初に立案した男の動機が影が薄くなってしまったのです。最も単純な、一番得をするものが、ぼやけてしまっているんです」

「誰なんだ、一番得したものとは?」

 と、一番遠い席に座っている、孝太郎氏が尋ねた。

「もちろん、代議士に当選した、橋谷さんです。龍太郎さんがご存命なら、党の推薦は受けれなかった。今の地位もなかったはずです」

「では、橋谷が真犯人なのかね?」

「いえ、真犯人ではありませんが、彼の意向が事件の発端になっています」

「それはどういう意味かね?橋谷君は黙って訊きたまえ。ワシは真実を追求したいんだ。君の言い訳や反論は後で覗うよ。この少年の見解を最後まで聞いた後でね……」

「橋谷さんは五年前、次期総選挙で議員返り咲きを狙っていました。その前の選挙で、あるスキャンダル――女性問題ですが――により、票をかなり落として、野党候補に惨敗を喫した。スキャンダルの女性問題は後で検証すると、たいしたことではなく、大げさな報道があった所為と解りました。まあ、この辺りは事件と関係ないので、女性問題は省略します。とにかく、次の選挙で、議員に返り咲く、これが橋谷氏の大きな目標、人生を賭けていたといっても過言でないほどの課題であったわけです。そのために、多額の金をばら撒いたようですね。与党幹部や選挙区の有力者に……。選挙違反ギリギリのところでしょうかね。ところが、晴天の霹靂、次期選挙の与党候補は、都議選のトップ当選の実績と、元法務大臣の甥というステイタスを持った龍太郎さんに決まりかけてしまった。慌てて、龍太郎さんに脅迫めいた電話をしたり、最後は泣きついたりしました。だが、結果は芳しくない。そこで、建設業界の有力者、郡山さんに泣きつく、何とかしてくれと……。

 さて、相談を受けた郡山さん、ここに思惑があった。郡山さんにも、龍太郎さんが国会議員に当選すると、ちょっと面倒なことになる予感があった。それは、廃棄物の処理に係わることでした。建設業で出た廃材を、武蔵野の山奥に捨てていた。不当投棄。それだけではなく、有害物質が雨水と共に流れ出して、水質汚染を起こしていた。龍太郎さんは環境問題に詳しい。都議なら何とかなる、が、国会議員となり、現総理大臣の庇護を受けるとなると、思い切った環境問題へのテコ入れをされそうであった。損害賠償とかに発展しそうなのだ。そんなところへ、龍太郎さんを陥れる相談を受けた。渡りに船。巧く行かなければ、すべてこいつに罪をかぶせられると思い、手を打ってやると、応諾したのです。それともうひとつ、その当時、建設業界はオリンピック景気の終了で、反動を受け不況へまっしぐらだったんです。何とか公共事業の発注を増やしたいと願う建設業者は、環境問題の龍太郎さんより、橋谷氏に議員になって、金を落としてもらいたかった。だが、党の推薦がなければ、建設業界の票だけでは、当選は不可能であったのです。

 最初は殺すとまではいかなかったでしょう。スキャンダルをぶちあげればよいと考えていたが、全く隙がなかった。金も女性関係も、周りからの評判も、付け入る隙がなかったのです。唯一の弱点、それは、美人の奥さんと可愛い息子。これを利用するしかない。そこで、誘拐を企てることになりました」

「お、おい、想像だけでそんな話を作るんじゃあない」

「郡山君、黙って訊きたまえ。せっかちはイカンよ。君の父上もせっかちだったが、遺伝しておるのかね?」

 孝太郎氏の言葉に郡山は黙ってしまう。

「さて、子供を誘拐し、脅迫により立候補を辞めると宣言させよう考えます。そのためには誘拐を実行する共犯者が必要でした。そこで第一候補が元従業員、高校の後輩であった平賀を使うことです。平賀を呼び出し、計画を話します。平賀は和音君誘拐には賛成しますが、それを立候補取り辞めの脅迫にすることには反対します。当然、犯人が政治がらみと眼を付けられる。そうしたら、橋谷から郡山、そして、実行犯の平賀へと捜査の手が伸びるのは眼に見えていました。ですから、身代金目当てを装い、龍太郎さんを誘い出し、大怪我か、精神的なショックを与えて、政界から遠ざける、そんな計画をしたのです。郡山さんは、平賀に任した。だが、平賀もひとりでは無理なことが解っている。誰かを犯人役にしておきたい。そうだ、借金で困っている、整備士がいたと黒崎を金で誘いました。あくまで、黒崎は犯人役のダミー。実行を手伝ってくれる男が欲しい。そこで目を付けたのが、遼子さんに想いを寄せている、北島です。『どうだ、龍太郎がいなくなれば、遼子をものにできるかもしれないぞ』と誘惑された北島が計画に乗ってきました。

 ところが、このふたりの会話を盗み聞きしたものが居りました。そして、俺も仲間に入れろと、割り込んできます。話を訊かれては、断れません。こうしてもうひとり、Bが仲間に入ります」

「そのBとは何者だね?脅迫電話のテープレコーダの声の主なんだろうが……」

「Bはかなり頭の良い男です。今回の犯行の計画は彼の手によってなされました。最後に仲間入りした男が、結局、主導権を握ったことになりました」

「しかし、そのBという男にどんな動機があったんだね?そんな大それた犯罪を企んで、見返りがあったのかね?」

「ええ、この男にも欲望がありました。いや、この男の欲望というより、嫉妬心が、あの残酷なダイナマイトによる一度に三人を殺すという犯罪に結びつくのですから……」

       *

 そこまで話が進んだ時、ドアが軽くノックされた。

「電話の音声の解析が出来ました」

 そう言って、伴野検査官がオープンリールのテープレコーダーの器機を抱えて入って来た。

 黒板の前に、テーブルを構え、その上に器械を置く。コンセントにプラグを差し込み、電源を入れる。

「電話の録音を、徐々に録音スピードを遅くしていき、通常の人間の声の波長で再現しています。多少のノイズはありますが、かなり、鮮明に再現できています。特に、この人物の声に特徴があることから、ほぼ、本人の声に間違いありません。では、再生してみます」

 そう、前置きの説明をして、テープレコーダーのボタンを押した。通常より、かなりゆっくりとした口調での声が再生され始めた。

『金は用意できたか?返事はしなくていい。壱千万円くらいなら……』

「嘘だ、インチキだ」

 テープの再生が続いている中で、男の声が部屋の中に響き渡った。男性にしては甲高い声、テープの声と同じ声であった。

「何の細工もしていませんよ、福松さん」

 と、伴野検査官が言った。

「これがあなたの声だという証拠がまだあるんです。もうひとつの録音がね。再生してみますか?あなたが今日、玄関のインターフォン越しにお話になった、声の内で、招待状の番号を告げた部分ですが……。『壱千十八番』でしたよね?その壱千の発音が電話の壱千万円の声の声紋と完全に一致したんですよ。科学の力は、そこまで進んでいるのですよ。どうしました?反論できますか?」

「あ、あの番号は……、このための……罠だったのか……」

「そうですよ。招待客は十人程度。それなのに、通番が壱千番になるなんて、不自然だと思わなかったのですか?みなさんに『壱千』あるいは『千』と発声していただきたくて、あの番号をご用意させていただいたんですよ」

 小林君が福松に向かって、罠の内容を告げた。


       13

「ああ、今思い出しても痛快だったわ」

 『偲ぶ会』の翌日、探偵事務所のソファーに座っている遼子が思い出し笑いをするように会話を始めた。

「真犯人の福松ではなく、その後の伯父の言葉に反応した、大曲のあの顔よ」

 遼子はその場面を、回想しながら、また、クスクスと笑った。

 福松が観念したかのように、俯いてしまい、部屋の中に沈黙が下りたのだった。その沈黙を破ったのが、孝太郎氏の渋い声だったのである。

「これで、先の事件の解決が間違っていたことは明確だ。大曲君、君も名誉挽回したいだろう?早く、この連中の逮捕状を請求したまえ。そして、再審の手続きに入りたまえ。それしか、君のクビが繋がる手立てはないよ」

 孝太郎氏の声に、蒼ざめた顔をして、

「は、はい、直ちに手続きに入らせていただきます。お、おい、香坂君頼んだよ。君から武蔵野南署の署長を通じ、警視庁、検察への手配を……、も、もちろん、わたしからもお願いをするから……」

 もう、しどろもどろの口調ながら、元部下の香坂刑事に命令ではなく、依頼の態度をとる大曲だったのだ。

「お、おい大曲、それじゃあ、裏切るつもりか?」

「な、何を言うんだ、犯罪者のくせに……」

 郡山の言葉を慌てて遮るように大曲署長が大声を上げた。

「なるほど、そういう経緯(いきさつ)があったんですか?黒崎単独犯で終わらせた理由は、早く解決したかっただけではなくて、郡山さんや橋谷さんの意向が含まれていた……。いや、我が探偵社もそこまでは看破できていませんでしたよ」

 黒板の前で、タキシード姿の団戸礼次が自慢?の髭を擦りながら、納得顔でそう言った。

       *

「確かに、あれは決定的だったね。大曲も辞表を提出するだろう。どこまで、郡山たちの犯行への関与を知っていたかは解らないが、警察官としては失格だ。責任を追及される前に辞めるという手を打つだろうね。退職金が欲しいだろうし……」

 礼次はソファーに背中を預けながら、口髭の形を気にするかのように、鼻の下に右手を近づけた。

「当然よ。世の中から抹消、いや、抹殺されるべき男よ。屑、害虫よ」

 遼子が、汚いものに触れたように顔をしかめて、そう言った。

(そんな顔をしても、やっぱり、美人だなあ)と、小林君はその横顔を見つめていた。

「あら、いやだ、ダーリン、そんなに見つめないで、変な顔してたでしょう、今……?」

「い、いえ、変な顔どころか、綺麗だなあ、と……」

「まあ、嬉しい。今夜は大丈夫よ、マイ・ダーリン」

「お、おいおい、今夜大丈夫って、何が大丈夫なんだ?」

「あら、礼次さん、焼餅?大丈夫って、安全日ってことよ。安心して可愛がってもらえる日……」

「ま、まさか、君たち、そ、そんな関係になっていたのか……?」

「だって、礼次さん、純愛路線でしょう?わたし、未亡人よ。それも五年近く、男っ気なしで禁欲生活してきたのよ。こんな素敵な男性が眼の前に現れて、放っておけるほど貞女では、なくってよ……」

「じゃ、じゃあ、一線を越えたのか……?」

「所長、冗談に決まっているじゃあないですか。遼子さんも、真面目人間の所長をいじめるのは辞めてください。これでも、僕の上司ですから……」

「こ、これでも?ひ、ひどい、遼子もひどいが、小林君もか……」

「あっ、訂正します。『これでも』じゃなく、この程度……、いえ、探偵の素質じゃなくて、その、容姿の話ですよ、容姿……」

「容姿?やっぱり、ひどい、人が気にしている部分を……」

「しかたないじゃない、恨むなら、親を恨みなさいよ。もっと前のご先祖様かもしれないけれど……。でも、そんなあなたにも奥さんがいたじゃない……」

「奥さんがいた?つまり過去形ですか?」

「あっ、ごめん、正式には離婚してないんだっけ?」

「離婚?どういう状況なんですか?」

「いや、その話はまた別の機会にしておこうよ。それより、事件の方だ。今回も、小林君の鮮やかな、いや、鮮やか過ぎる推理力で、たった半月で事件解決だ。だが、わたしには不思議でならんことが多すぎる」

「そうよね、わたしも鮮やか過ぎて、なんだか、誤魔化された感じがするのよね」

「ええ、誤魔化していますからね」

「ご、誤魔化し?」

「例の、声紋の判定ですけど、あれは嘘です。犯人が福松さんだと解っていたから、福松さんの声に合わせて、電話の声を作り上げたんです。だから、もし再審が開始されても、証拠として提出はしませんよ。伴野さんも充分、承知の上です」

「ええっ?じゃあ、あれも……、罠……ってこと?」

「ええ、証拠はまるでなし。自白あるいは、自滅を誘うしか手がなかったんです。ただ、仮説には自信がありました。橋谷代議士の思惑から始まり、郡山、平賀、黒崎と北島、最後に福松までの思惑が絡み合って、事件を複雑にしているってことは……」

「そう、それだよ。橋谷、郡山の思惑は説明を受けた。だが、あとの――黒崎は金が欲しかったんだろうが――興園寺の使用人三人の思惑の説明がなかったぞ」

「あれ?想像できませんか?所長は無理か、でも、遼子さんなら……」

「北島は解るわ、説明があったもの……」

「説明があったかな?」

「ええ、平賀が北島を誘う言葉に……」

「そ、そうか、北島は遼子に想いを寄せていたんだ……」

「高校時代に何度かラブレターを貰ったことがあったわ。全く無視だったけれど……」

「そりゃあ、逆に恨まれるぞ。正式に振ってやった方が諦めがつくってもんだ」

「口を訊くのも嫌だったの。なんで、手紙書くの?って感じよ。わたし以外に美人がたくさんいたのよ、我が母校はね」

「へえ、そんな高校に行きたかったな」

「成績悪くて、受からないって言われたんじゃあなかったかしら、中学校の担任に……?」

「そ、そうだったか?憶えてないよ」

「はいはい、青春の回顧はそのくらいで、話が脱線していますよ。後のふたりについてはどうですか?想像できませんか?」

「では、ふたりとも、遼子へおかしな気持ちを抱いていたのかな?」

「半分正解です。平賀は女房に逃げられていて、幸せな夫婦仲に嫉妬をしていたようです」

「では、福松は……?」

「遼子さんへ怪しい気持ちを持っていたはずです。でも、もうひとつ動機があります」

「もうひとつ?では、恋愛感情や嫉妬ではなく……かね?」

「ええ、ヒントは話しているはずですよ、昨日……」

「ヒント?そんな話したかな?」

「現在の彼の立つ位置」

「ああ、橋谷の秘書をしている、けど、議員秘書なら、龍太郎さんの方がいいだろう?」

「違いますよ、その後です」

「都議会議員に立候補ってこと?」

「遼子さん、正解です。彼の野望は都議から国政へ、そして大臣になることですよ。つまり、龍太郎さんの歩むであろう道が、自分の目標と同じだった。狭き門、いや、険しい道です。ライバルはいないほうがよい。それも、非常に有力な大臣候補は邪魔者です」

「解るわ、福松さん、政治家を目指していたことを隠したりしてなかったし……。それと、これは秘密にしたかったんだけど……、彼、わたしの最初のお見合い相手だったのよ」

「お見合い?お見合いしたんですか、遼子さん?それ、龍太郎さんと知り合う前のことですよね?」

「あら、言ってなかった?龍太郎とはお見合い結婚よ」

「ええっ?お見合いで、こんな理想的なカップルが見つかるんですか?」

「小林君、何を驚いているんだね?見合い結婚なんて、ごく普通だろう?特に、遼子や龍太郎さんは家柄があるんだ。政治家や財閥と親戚関係なんだよ。滅多なところから結婚相手は選べないよ。皇室の嫁選びみたいなもんさ」

「そうなの、自由恋愛で相手を見つけるなんて、無理だったのよ。で、見合いした最初の相手が福松。気障で、自己顕示欲が強くて、第一印象で、こりゃ駄目、ってことよ」

「まあ、そうでしょうね。龍太郎さんなら嫉妬はしますけど、納得もします。遼子さんにはふさわしい方だと……」

「芳夫君、あなたって本当にいい人ね。龍太郎と同じくらい……。そう、あなたとなら、やり直せそうだわ、わたしの青春……」

「お、おい、もう冗談はやめにしてくれよ」

「あら、本気よ。芳夫君さえよければ、わたしの全てをあげるわ」

「い、いえ、お気持ちだけで……」

「まあ、意気地なし。そこだけは龍太郎に負けているわ。彼はお見合いの席に座るなり、『君は僕の妻になる運命の人だ』って宣言したのよ。わたし、まだ相手の顔も見ていないうちに、よ」

「はいはい、のろけはもう沢山だ、話を元に戻そうぜ」

       *

「ところで、実際、誰が主犯格なんだ?最初は橋谷の依頼から始まって、郡山が計画して、平賀が実際の犯行を計画したんだろうか?」

「それと、平賀は殺されたんでしょう?誰に殺されたの?やっぱり、郡山?」

「さて、まだ、平賀さんの事件の真相は解明できていませんが、僕の仮説からいくと、犯人は福松さんになりますね」

「ふ、福松が?平賀まで殺したのか?」

「ええ、だから、殺人を犯したのは、福松だけなんです。あのダイナマイトのスイッチを押したのも福松だと思います。つまり、事件の主犯は福松靖男です」

「どういうことかね?一番最後に計画に参入した男が、主導権を握った、ってことになるのかね?」

「そうです。お話したように、福松は頭の良い男だった。それまでに、平賀が考えた計画では、失敗する確率も、成果を上げられる確率も不十分過ぎたのです。出た処(とこ)勝負、としか思えなかったはずです。そこで、福松が平賀に提案した。あっ、言い忘れていました。福松は仲間入りを打診したのですが、その相手は平賀さんだけ、つまり、郡山も北島も福松が犯行に関与していたことは知らなかったのです。だから、平賀さんは殺された。もし、郡山の犯行だとしたら、平賀ひとりではなく、北島さんも殺されていたはずです。平賀さんひとりを始末すれば、自分に疑惑をもたれる心配がなくなる。そう考えていたのです。北島は電話の声もトランシーバーを調達したのも平賀がしたこと、と思っていたのですが、実は、福松だった。最後の工場跡に辿り着いた後、後部座席から出て、トランシーバーを指定の場所に置いて逃亡した。前もって車が用意されていたのです。そのトランシーバーを使ったのが福松だった。北島は平賀だと思っていたはずです。つまり、福松は平賀の陰に隠れて、自分の目的――龍太郎さんを亡き者にするという計画――を実行に移したのです。ダイナマイトを仕掛けたのも、おそらく、福松の単独行動でしょう」

「な、何て悪い奴なんだ、悪魔としか言いようがない……」

「そうだわ、昨日の話の中で、あれ?って思ったことがあったの。質問してもいいかしら?」

「ええ、ご遠慮なく」

「和音の担任の小池先生の証言。和音が運転手に言った言葉、『平賀さんはどうしたの?』って聞こえたなんて、証言してたかしら?『平賀』だけだったんじゃない?」

「そうだよ、前にはそう訊いていたよ」

「それと、主人の最後の言葉――トランシーバーからのだけど――『北島とふく』なんて、本当に録音されていたの?わたし、事件の後、警察から『最後の声です』って訊かされたのは、『和音、無事だったか』って言葉で、それ以降は残っていないって言われたのよ……」

「ああ、あれですか、あれも罠のひとつですよ。フェイクってやつです。誘導尋問的なものと思ってください。証拠としては提出されませんから……」

「ひどい、君って詐欺師だ」

「あら、礼次さん、彼はルパンなんだもの、バーネット探偵社なら、これくらいの詐欺行為はあって当たり前よ。ねえ、ダーリン……」



       転の章


「また暇になったわねェ」

ため息交じりの声を上げたのは、棒網探偵社のオーナーの興園寺遼子である。彼女の前には、可愛い?小林君が座っている。オーナーである彼女がため息をつく理由、それは、彼女の夫とひとり息子を殺害した真犯人をあばき出したあの日以来、事件が起きていないのだ。それだけなら、まあ、普段どおりなのだが、あの事件解明以来、彼女はオーナー兼、探偵助手になっていたのである。はりきって、事件解決にその頭脳と、年の割に?若々しい肉体を駆使しようと考えていたのに、さっぱりなのである。

「暇だから、セックスでもする?昼間っからだけど……」

「な、何を言っているんです?誰とするんですか?」

「あら、ここにいるのは、わたしとダーリンだけよ。邪魔な礼次さんはいないし、可愛がって欲しいな」

「もう、冗談はやめてくださいよ」

「いつも、そうやって、冗談で済まそうとするんだもの、わたし、本気だっていつも言っているでしょう?あなたとなら、いつでも、どこでもオッケイよ。少々の恥ずかしい格好も、あなたが望むなら、変態行為も……」

「な、何てこと言うんです。所長が訊いたら腰を抜かしますよ。いや、心臓が止まるかもしれませんよ」

「そんなタマじゃないわよ、礼次さん。本当はわたしとダーリンが巧く行くのを期待しているんじゃないのかしら?今日も用もないのに出かけてるでしょ?行き先も言わないで……。わたしたちをふたりっきりにするためよ、きっと……」

「そ、それは違うと思います。実は、警視庁から復帰しないかと、お誘いがあったみたいなんです」

「ええっ?刑事に戻るの?」

「さあ、話があっただけかもしれませんがね。悩んでいることは事実ですよ」

「そうか、悩んでいるんだ……。でも、再就職っていうの?それとも、職場復帰?そんなことできるの?」

「まあ、特例でしょうね。おそらく、龍太郎さんの伯父上のご意向で、形ばかりの採用試験を受けて、警視庁長官とか、警察庁の長官とかが、特別推薦で……、ってことかな?その辺りは政治的配慮の範疇なんでしょうが、僕には解りません」

「ああ、そうか、あの事件解明、殆ど――全部――あなたがしたけど、伯父さまは探偵社の調査結果を話が上手な助手に任した、と思い込んでいる。つまり、事件を解決したのは、礼次さんだと誤解しているのよね。それはそれでいいのだけれど、でも、復帰したら、この事務所は?閉鎖よね。あなたがやって行くなら、わたしオーナーを続けるけど、あなた大学生でほとんど、アルバイトなんですものね。そう言えば、アルバイトの探偵が事件解決なんて、前代未聞よね」

「まあ、所長は復帰をしませんよ。だって、辞めた原因の事件の真相は解明できても、龍太郎さんや和音くんを亡くした責任が消える訳ではないですから……」

「彼は全く責任なんてないのよ」

「解ってますよ。でも、所長の気持ちの中では、あなたに済まなかった、という気持ちは永遠に消えません」

「そうね……。そうか!」

「何です、急に悟りを開いたみたいに……」

「やっぱりそうなのよ。彼がわたしたちを、ふたりっきりにする理由。わたしとあなたを結びつけて、わたしの心の痛手をいやしたいのよ。彼のできる精一杯の償いなのよ。そうと解れば、やっぱり、セックス……」

「何を言っているんですか。遼子さんと僕、ひと回り歳が違うんですよ。親子とは言わないけど、叔母と甥くらいは歳の差がありますよ」

「あら、芳夫君の世界では、そんなに歳の差を気にするの?」

「ぼ、ぼくの世界?それどういう意味ですか?」

「えっ?何?何を驚いているの?わたし変なこと言った?あなたたちの世代、そうか、世代を世界って言い間違えたんだ。でも、あなたの反応、おかしいわよ。まるで、あなた、別の世界に所属しているみたい……」

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