結の章 長い、長い、エピローグ

     1

「久しぶりの日本だわ」

 成田空港の新年は、青空の下、海外旅行への出発帰国、両方で混雑していた。税関で入国手続きを済まし、空港前のタクシーに乗り込むため、タクシー乗り場へ足を運ぶ。周りの風景は、初めて見る景色だった。

「五十年ぶりだもんね」

 と、ハードタイプの赤い大型のトラベルケース――キャリーバッグ――を運転手に渡しながら、遼子女史は呟いた。

 西暦二千二十年、和暦だと、令和二年の新年である。中国の武漢で発生した、新型のコロナ・ウイルスが世界に広がる兆候を見せ始めていた。遼子女史はそれが蔓延し、渡航禁止となる恐れを事前に察知したのである。五十一年前、不思議な少年が教えてくれたのだ。それで、春に帰国する予定を早めたのだった。

「ダーリンに逢えるのは、三ヶ月後か、まあ、五十年待ったのだから、すぐは、すぐね。それまでは、マンション住まいか、甥の貴義、ちゃんと手配してくれているかしら?弁護士の仕事が忙しい、って、迎えにもこないんだから、新年も働いているのかしら?」

 いや、正確には一月二日、アメリカより、日本は日付が進んでいるのだ。

 取り敢えず、運転手に甥が用意した、自家所有のマンションの住所を伝えた。それは、旧興園寺邸に建てられた、高層の高級マンションだった。

「まあまあね、ニューヨークのマンションと比べると、狭いけど、ひとり暮らしには、広すぎるくらいだから……」

 そのマンションの最上階の部屋のドアをカード式の鍵で開いて、タクシーの運転手が運んできたキャリーバッグを転がし、多額のチップを手渡した後、遼子は部屋の中を見渡して呟いたのだった。

 カード式の鍵はその後、指紋による施錠へと変更される。セキュリティーは万全のようだ。部屋には調度品が備え付けられているが、どれも高級品ながら、遼子女史の好みではなかった。

「まあ、あと何年ここで暮らすことになるか解らない。ひょっとしたら、高知へ移り住んじゃう、ってことも、考えよう。東京は、ウィルス蔓延で住みにくくなるそうだから、高知なら年寄りには優しそうね、食べ物もおいしいって訊いたし、何より、ダーリンがいるもの……」

 言い抜かったが、遼子女史は八十二歳になっている。だが顔の艶は若々しく、小皺やホウレイ線もそれほど目立たない。六十代、いや、五十代と言われても、信じてしまいそうである。整形したのではなく、五十年間、美貌には気を付けていたのだ。映画俳優以上に気を使い、最良の手入れを施してきた。全ては、この四月に、ある少年との再会、それだけのために……。

       *

 それから二、三カ月、東京見物や日光、鎌倉といった、周辺の観光地へ小旅行をし、世界にコロナが広がってくる状況を確かめながら、遼子女史は時を過ごした。

「さて、今日が手紙の届く日か、甥の事務所に行ってみるか、ダーリンのお兄さまにも、挨拶しないとね。義理だけど、孫にあたるお人だから……」

 と、意味不明の言葉を発して、春物のドレスに着替え、白い帽子を被り――紫外線よけなのだ――マンションをあとにする。吉祥寺駅周辺も五十一年前とはすっかり様変わりしている。井の頭公園だけは、昔の風情が残っている気がした。

 三月二十五日、桜が満開に近づいている。

「東京の桜も開花が早くなっているのね。五十年前は、四月にならないと、花見はできなかったのに、これも、地球温暖化のせいかしら?神流湖辺りは、まだ開花してないようだから、ダーリンと行けるのは、二週間後かな?」

 桜並木を見ながら、遼子は愛しい人の面影をその花に重ねていた。

 タクシーを拾い、もちろん白いマスクを付けて、甥の貴義が所長を務める、白川法律事務所に向かう。新宿の都庁にも近いそのビルの二階に事務所はあった。軽やかな足取りで、階段を上る。ドアを軽くノックして、中にはいると、受付嬢がマスクをして立ちあがった。もう何度か訪れているので、顔見知りである。

 すぐに応接室に案内され、甥の貴義のロマンス・グレーのオールバックにした頭髪が部屋に入ってくる。今年、四十九歳になる、その甥は、腹が出ていて、貫禄は充分だが、糖尿病を気にしている。歳はかなり差があるのに、姉と弟にしか見えない。遼子に似て、中々のハンサムなのだ。

「遼子叔母さん、お久しぶり、どうです、東京暮らしにも慣れましたか?」

 マスク越しに、声を出す。

「そうね、もう退屈していますよ。外出も自粛ムードだしね」

「ええ、うちでも、テレワークっていうんですかね、出勤しないスタッフも検討していますよ。その自粛期間に何の御用でしょうか?」

「あら、正臣さんから訊いてないの?今日、大事な手紙が届くはずよ。例の岡部達善の再審に係わる情報が記載されているはずよ」

「何ですって?どうして、叔母さんがそれを知っているんですか?極秘、というか、僕と正臣君しか知らないことなんですよ」

「あら、知らないの?その手紙を五十一年前、中央郵便局の局長に、郵政大臣からの極秘文書、国家プロジェクトに関するものとして、預けたのは、このわたしよ。若い頃のね」

「そ、そうだったんですか?いや、詳しくは訊いていないんですよ。何でも、正臣君の弟さんが先日電話で、今日手紙が届くはずだと言って来たそうでね。僕は信じなかったんですが、五十一年間保管された手紙だというんですよ。でも、何故、保管する必要があったのかな?叔母さんご存知ですよね?」

「さあ、国家プロジェクトだから、わたしは中身は知らないわよ」

 と、遼子は笑いながら答えた。貴義は納得したのか、軽く肯いた。

 その時、ドアがノックされ、受付嬢が顔をのぞかせた。

「あの、郵便物が届いておりますが……」

 と、おずおずと彼女は言った。

「何だね、いつもどおり受け取っておきたまえ」

「それが、配達日指定で、国家プロジェクトに関するもので、受取のサインが欲しいと……」

「何、国家プロジェクト?そ、そしたら……」

 そう絶句して、甥は叔母の顔を見つめ直した。叔母は微笑みを浮かべていた。

       *

「白川正臣さんはいらっしゃいますか?大事な封書ですので、ご本人に直接お渡しするよう、局長のご命令です。受取もしっかり貰って来いと……」

「白川?ええっ?正臣君が三月二十五日付で、わたしの養子になって、白川姓になることまで知っていたのか?そ、そんなバカな……」

「いらっしゃるんですね?ご本人さん?」

「ああ、第二応接室にいるはずだから……、おい君、早く神堂君を呼んで来たまえ、例の手紙を受け取るんだと言ってね」

 貴義は傍にいた受付嬢にそう命じた。

 遼子たちのいた隣の部屋のドアが開き、三十過ぎくらいのスーツ姿の青年が慌てて飛び出してきた。郵便配達人がその青年に、

「白川正臣さんですね?」

 と確認した。

「は、はい、旧姓は神堂ですが……」

「ではここに受け取りのサインを、住所からお願いしますよ。それと今日の日付もね。しかし、本当においでたんですね?この手紙、不思議なんですよ。我が局内では伝説になっていて、賭けの対象になっていたんです。絶対、白川正臣なんていないって、いうのが大半で、賭けは成立しなかったのですがね。だって、五十一年前ですよ、預かったのは……。その当時、この住所はなくて、もちろんこのビルも……。しかも、当時はまだなかった郵便番号が書いてあるし、去年改正になった、郵便料にぴったりの切手が貼られているんだ。これは最近書かれたものですよね?だけど、金庫の中で、厳重に封印されて、代々の局長が引き継いだものに間違いないっていうんですよ。本当なら奇跡ですよね?

いやそれで結構です。確かに五十一年後の三月二十五日の配達日指定で、お渡ししましたよ。では、これで……」

 郵便配達の男性はそう言って背を向けた。残された一同はポカンとした顔で、それを見送っていた。ただひとり、笑顔を浮かべている、歳よりかなり若く見える、老女を除いて……。


       2

 タレントの『志村けん』が、新型コロナ・ウィルス感染症による肺炎で亡くなった。その訃報を訊いて、遼子は、東京を飛び出した。ヨーロッパでは、外出禁止命令が出されている所もあるという。東京が封鎖されれば、愛しい人に逢いに行けない。約束の日にはまだ幾日かあったのだが、彼女は荷物をまとめ、マンションをあとにした。

 京都で二泊して、清水寺や嵐山を観光し、高知駅へ降り立ったのは、四月一日の午後であった。

「高知って、空の色が違うわね、カリフォルニアの青い空、っていうけど、もっと、青い空だわ。空気も綺麗だし、ここで、余生を送るのもいいわね。確か、俳優の奥田瑛二の娘で映画監督の、桃子さんだっけ、高知が気に入って、移り住んだって聞いたわ。解る気がする……。でも、この銅像?合成樹脂かしら、素材は……、の三人は誰?ああ、ひとりは解る、坂本龍馬、でも、龍馬像は『桂浜』よね、確か?観光案内で見たもの……」

 遼子は赤いキャリーケースを引き摺りながら、高知駅前の三志士像を見上げているのである。真中(まんなか)に見覚えのある『坂本龍馬』両脇には『武市瑞山=半平太』『中岡慎太郎』が並んでいるのだが、歴史小説にはあまり興味のない遼子には、名前が浮かんでこなかった。

「遼子さん」

 と、その背中の方から若々しい男性の声がした。

 わたしの名前を知っている人は、彼だけだわ。でも、隣の人が同じリョウコ、かもしれないし……、と、期待と不安とが入り混じった気持ちで、ゆっくり声の方に顔を向けた。

「ダ、ダーリン!」

 その言葉に、周りにいた、学生風の男女が、奇妙な生物を見たように、足を止め、身を引いた。六十歳を超えていると思われる、老女――かなりの美人ではあるが――が、まだ高校生のような若者に向かって、『ダーリン』はないだろう?

 だが、ダーリンと呼ばれた少年は、まるで、何時もそう呼ばれているかのごとく、笑顔を満面に浮かべ、両手を広げて、その老女に抱きついたのだ。

「これ、映画か、何かのCMの動画撮影?孫との再会シーンとか?」

 と、学生風の女性が隣の男性に問い掛けた。

「ああ、かなりの美人と美男だ。でも、知らないぜ、あんなタレント。新人かな?RKCプロダクションの撮影かも?でも、カメラもないなあ……」

 老女と若者のハグシーンはかなり続いている。監督か、ディレクターの『OK=カット』の声は掛からない。若い男女は、首をかしげながら、信号機の方に歩き出した。

「ひょっとしたら、エイプリルフールのパフォーマンスかもしれないね」

 若い女性が男性の左腕に、両手を巻きつけながら、笑顔でそう言った。

       *

「ダーリン、あなた、変わらないわねェ」

 駅前からタクシーで、老舗のホテルに到着し、高級な部屋に案内された後、遼子はしみじみと連れの少年にそう語りかけたのだ。

「髪を切ったのね?うん、短めだけど、似合っているわ。でも、それ以外は、五十一年前のままよ。その服まで……」

「ああ、三月二十一日の朝に帰ってきましたから、今日で十一日目かな?このシャツは当時のVANの復刻版ながです。こうした方が、僕と解り易いと思って……、だって、遼子さんにとっては、五十一年ぶりの再会になるがでしょう?僕にとっては、ついこの間ですけんど……」

「はは、おかしい、芳夫さん、高知訛りが出てる。あっ、芳夫さんじゃなくて……」

「正芳です。神堂正芳。所長=団戸礼次、直々に付けてくれた名前ですよ。予定どおりですが……」

「そうね、歴史は変えられなかったのね?それで、礼次、いや、こちらでは、本名を名乗っていたかしら?マサヨシ?それとも、綽名のセイギかしら、彼はどうなったの?」

 ふたりはソファーに向かい合って座っている。小林芳夫と名乗っていた少年、正芳はまだ、高校生だ。今は春休み中。片や、興園寺遼子はアメリカ帰りの八十二歳。髪の毛はシルバー・グレーになっていた。

「祖父は、二千七年、平成十九年に亡くなりました。僕の七五三の祝いを見て、その後、癌が見つかって……」

「そう、あなたと五年も一緒にいられたのね?満足だったんじゃないの?七十一歳か、長生きではないけど、まあまあね、いい人生だったわよ。あなたがいたから……」

「そうでしょうか?今日まで生きたかったんじゃあないかな?三人で逢える日まで……」

「それは無理って解っていたわよ。だって、あなたは亡くなったお祖父(じい)さまの日記を読んで、その未解決の事件を解決するために、時空を越えてきたんでしょう?冤罪を晴らすためだけではなかったはずよ。わたしの事件、和音の事件を解決するために……」

「そうか、バレていたんだ。あの、日記を遼子さんも読んだんでしたものね、和音君の事件、未解決で終わってましたものね?」

「そうよ。それで、礼次さんに言って、元の日記の記述に戻させたのよ。あなたでなく、本当の小林芳雄が助手になった設定でね」

「そうか、不思議だったんですよ。過去から帰って、鞄を開けたら、あの日記帳が、消えていたんです。で、慌てて、祖父の本棚を見たら、そこに日記帳があったんです。元のままの記載でね。時の流れの修正能力なんですね。ただ、うちの母親の顔が、少し違った気がするんですよ。化粧をかえたようで、何だか、遼子さんにそっくりになってきたんです」

「あら、元は似ていなかったの?おかしいわね」

「おかしい?」

「だって、あなたのお母さん、瑠璃子さんは、わたしの娘だもの……」


       3

「わあ、美味しい。さすが本場のタタキは違うわね、日本に帰って、鰹のタタキを東京で食べたけど、まるで別の食べ物ね?」

 ホテルの食事でなく、外で食べませんか?ある場所へ連れて行きたいんです。と、正芳が言ったので、こうして外で食事をしているのである。だが、その場所というのが、一流レストランとは正反対の施設なのだ。まず、建物が、テント張りのようなのだ。中に入ると、屋台村なのか、いくつもの小さな店がひしめきあっている。飲食店だけでなく、土産物屋のような店もある。そして食事をするのも、その店の中でなく、そのテントのような建物のあちらこちらに、テーブルとイス――それも木製のテーブルと、丸太を切ったような丸椅子――が並べられていて、平日、午後五時前なのだが、もう席は埋まりかけている。若い男女ばかりでない。遼子ほどの老女、老人、家族連れもいるのだ。

 『ひろめ市場』という名の、高知の新名所らしい。高知城の追手門から、東に延びる追手筋と、高知の台所といわれている、『大橋通商店街』との一角に位置している。

 そこは、以前、国連の視察で訪れた、東南アジアの雰囲気によく似ていた。小さなテーブルと丸椅子に座っていると、正芳が料理を運んできた。飲み物はジンジャーエールであったが、グラスを当てて再会の乾杯をし、料理に手を付けた。そして感想を述べたのが、先の言葉なのである。

「ちょうど、初ガツオのシーズンで、冷凍でなく、地捕れの生鰹だそうですよ。藁焼だから、香ばしさがあって、美味しいでしょう?」

「うん、ビールじゃないのが残念ね。いや、土佐の地酒に合うのかな?」

「お酒頼みましょうか?僕は未成年ですから、付き合えませんけど……」

「いいのよ、お料理だけで、大満足。こっちの料理は何?」

「それは、チチコといって、鰹の心臓です」

「あらそう、これも美味しいわ。高知って食文化は一級ね。わたし、移住、決めようかな?」

「いいですね、僕も、遼子さんと一緒に暮らしたいです。でも、先ほどの話、本当なんですか?僕の母が、遼子さんの娘だって……」

「ふふふ、小林名探偵でも、この謎は解けなかったのか?作戦成功だったのね」

「作戦成功?何をしたんですか?」

「芳夫君、あっ、ごめん、正芳君だ」

「いいですよ。僕も遼子さんには『芳夫』か『ダーリン』でないと、しっくりきませんから……」

「そうね、礼次は礼次だし、セイギ君なんて恥ずかしくて言えないし、マサヨシだと、あなたと、こんがらがるもんね、じゃあ、昔のままで……。まず訊くけど、あなたのお母さん、瑠璃子さんで間違いないわよね?そう、で、旧姓は白川でしょう?」

「ええ、よくご存じで……」

「わたしの旧姓が『白川』だってこと、知らなかったんだ」

「ええっ、遼子さんの……、じゃあ、貴義さん、今、兄が勤めている弁護士事務所の所長さんとは……?」

「わたしの甥よ。兄の長男よ」

「じゃあ、僕の母方の祖父、白川貴彦が遼子さんのお兄さん?」

「そうよ、黙っていてくれって頼んでいたのよ。あなたが生まれたら……、それがわたしの作戦……」

「そうか、祖父も祖母も、あなたのことは一度も話さなかった。大叔母が存在することさえも……。でも、それだと、あなたは僕の母の叔母にあたるんですよね?娘ではなく……」

「それは戸籍上……」

「えっ、戸籍上?」

「大きな声を出さないでよ。それでなくても、変なカップルだと周りから思われているんだから」

「いえ、周りは祖母と孫が食事をしていると思ってますよ。事実、そうだと、あなたは言っているんですよ。説明がまだですけど……」

「あっ、そうか、わたし、八十二歳の婆さんか今は……。いやあね、あの時のままの気分でいたわ、まだ、三十二歳のつもりで……。ほほほほ、冗談はここまで、そうね、場所を変えましょう。まだ早いけど、ホテルに帰る?今夜は、ふたりっきりで、過したいの、約束もまだ、果たしてないし……」

       *

「さてと、フロントには孫が一泊するって断って、料金先払いしたから、泊って行ってね。話したいことが沢山あるから……」

「ええ、こうなる予感はしていましたから、母にはきちんと断ってきています」

「そう、じゃあ、まずは約束を実行して……」

「は、はい、あのう、僕からするんですか?」

「当たり前よ、男でしょう?あっ、でもまだ、童貞君か……?」

「そ、そうですよ、まだ十日ですから、経験なんて無理ですよ」

 小林君は顔を真っ赤にしてそう言った。

「じゃあ、わたしは眼を瞑っているから、好きなようにして、あなたがしたいキッスの形で……」

 そう言って、遼子は瞳を閉じた。息を止めて、若い男性の吐息が近付いてくるのを、その形の良い鼻先に感じながら……。

 唇がそっと触れられた時、遼子はたまらなくなって、眼を閉じたまま、そこにあるはずの若い男の身体に両腕を伸ばしていった。しっかりと、身体を抱きしめられる感触がした時、遼子は何十年かぶりの女の快感を感じていた。

「愛してるわ……、ずっと、これからも……」

「ええ、僕も、愛してます、遼子さん……」

       *

「さて、わたしから話を始めましょうね。本当に数え切れないほど、あなたに伝えたいことがあるのよ。わたしの人生すべてが今日の為にあったのかもしれないくらいにね」

「いいですよ。今夜は一晩中、話してください」

「じゃあ、最初は岡部の事件のその後の調査結果よ」

 遼子はそう言って、ハンドバックから新書サイズの本を取り出した。

「何の本です?」

 と、小林君が尋ねる。

「わたしの書いた小説よ。自主出版、日本語と英語版と各五百部ずつ作ったの。タイトルは英語版が『BARNET MYSTERIOUS DETECTIVE IN TOKYO』、日本語版は『棒網探偵社・奇譚』よ。ふふふ、つまり、我らが探偵社の物語、もちろん、フィクションよ。だって、解決したら、歴史が変わって、あなたに逢えなくなるかもしれないでしょう?」

「英語版?海外向けに翻訳したのですか?自主出版で?」

「反対ね、まず、英語で書いたの。だってあれから一年後にわたし、ハーバード大に留学したのよ。それから一度も日本には帰っていないのよ。アメリカの方が長くなったのよ」

「ええっ?三十三歳で、ハーバード大?」

「ああ、短期留学、国際社会学を学ぶためにね。まあ、わたしのことは後からよ。まず、この小説には、事実も書かれているのよ。すべて仮名だけれど、あの時の事件をそのまま、和音の事件もその解決もね。それで、岡部のその後も、書いてあるのよ。記憶違いがあるといけないから、あなたに伝えるために、小説の形で残してきたのよ」

「では、今日のために、本を自主出版したんですか?」

「そうよ、というか、当初はそうだったの。でも周りの人たちが、この本を読んで、是非出版しろと、言ったの。それで、二百部作ったら、反響がすごくて、三百部増刷したの。そしたら、日本語にして欲しいって、リクエストがあって、日本語版をまた五百部作ったのよ。後であなたにも進呈するわ」

 遼子はまず、白川弁護士事務所宛に送った、富岡の父親に関する報告書について語った。そして、小百合と富岡の口論の話――ミス・マープルに似た大家の――を語った。

 それから、話は礼次のことに移った。


       4

「礼次さんのことは知ってる?実のお祖父さんのことだから、少しはご両親から訊いているんでしょうけど?」

「ええ、それがまた一つ不思議なことがあるんです」

「何、不思議なことって?」

「僕が時間旅行に出かけたのは、今年の三月二十一日、午前六時です。母に見送られて……、それで、あちら――千九百六十九年――を出発したのは、八月十五日、午前五時過ぎ、終戦記念日だったのでよく憶えていますよね?」

「ええ、憶えているわ」

「つまり、五か月近く、時間が経過したはずなのに……」

「はずなのに?」

「帰って来たのは、三月二十一日、午前六時十分。たった、十分間の旅行だったんです。母親が『あら、忘れ物?』と言ったくらいですから……」

「ははは、おかしい、じゃあ、あなたは、千九百六十九年に十八歳の誕生日を迎えたのに、帰ってきたら、十七歳のままだったのね?」

「そうなんです。で、その後のことなんですが、母の顔があなたに似てきた、って言いましたよね?それと別に、急に母が祖父のことを話しだして……。それまで、あまり、祖父の話はしたことがなかったんです。子供の頃――小学生の頃ですが――祖父母の話が出なくて、お墓参りとかは行くんですが、想い出話をしてくれなかったんです。子供心に、祖父は家族に嫌われていたのかと思ってました。でも、その日、母はとても懐かしそうに、また、嬉しそうに祖父の話を始めるのです。今まで、約束事があって、封印されてきた話だったような……」

「そうよ、礼次は封印していたのよ。あなたが時間旅行から帰るまで……、だって、あなたが過去を知ったら、歴史が変わってしまうもの。あなたが過去に旅行できなくなるかもしれないから、礼次もわたしも、封印してきたのよ。あなたとのできごとはね……」

「そうか、納得しました。過去の出来事が未来を経由して、二系統の物語になってしまう、時間のパラドックスを防ぎたかったんだ」

「そうよ、半信半疑だった礼次が、あなたの誕生、二千二年、七月に男の孫が生まれた時、確信したのよ」

「ええ、母が言ってました、お祖父さん、あなたの生まれた時、初対面の時、変なことを言ったのよ、『小林君の誕生だ』って、誰?小林君って?それから、孫の名前は決めてある、正芳、正しいに芳しいだ、って、宣言したのよ、と……」

「ははは、おかしい、歴史がそこで、繋がったのね、時間の修正能力がきちんと働いて、パラドックスが起きないように……」

「そうですね、それからの、祖父は僕をそれは大切に見守っていたそうです。上の三人の兄弟とは比べ物にならない、溺愛だったそうです。そして、七五三の祝いの時、『これが最後か』と、ポツンと言ったそうです。癌が進行していると気づいていたのかもしれませんね。最後にベッドの傍に僕を連れてきてくれと言って、『楽しかったぜ、小林君』と、また意味不明の言葉を言って、笑って息を引き取ったそうです。そんなエピソード、今まで、誰も教えてくれなかったのに……」

「礼次は幸せだったのね?あなたの予言どおり、あなたに逢えて、五年間、一緒に暮せたんだもの。わたしもあと五年は長生きするわよ。礼次に負けたくない。あなたと過ごす時間を……」

       *

「礼次はあなたが消えた後、その年の秋には事務所を閉めて、まずは大阪へ行ったのよ。万博が近づいていて、大阪は活気があふれていた。各国の要人が来る予定もあったし、警備会社が大繁盛。元警視庁捜査一課の刑事上がりだから、就職先には困らなかった。義父――祐子さんの父親――には、万博が終わったら、高知へ行くと約束したらしい。万博のあと、勤めていた警備会社が、儲けたお金で、高知に営業所を作ったの。その営業所長に、礼次が抜擢されて、結局生涯警備会社勤務よ。最終的には、その営業所は独立して、礼次の会社になったらしいけど……」

 遼子女史が団戸礼次のその後を語っている。礼次と祐子の子供は地元の女性と結婚し、ふたりの息子をもうけた。その次男が、正臣である。正臣の誕生から二年後、妻はなくなり、その一年後には、祐子も他界した。幼い二人の息子を抱えた、正祐に、父は再婚を進めた。それが、小林君の母親となる、白川瑠璃子であった。正祐は再婚、瑠璃子は初婚、ふたりの子供を持つ男寡(やもめ)と美人と評判の高く、白川家の大事な娘がどうして結婚できたのか、そこには、礼次の画策があったであろうことは、想像に難くない。

「渋っていた兄夫婦が、最後に出した条件、それが、将来、ひとり息子=貴義に跡取りができなかった場合、正臣さんを白川家に養子に出す、そう約束させたのよ。兄には子供ができなかった……。そもそも、貴彦も性的には『不能者』なのよ。その息子も……」

「そ、それはどういうことですか?お兄さんはふたりの子供を作っているではありませんか……」

「ひとり、瑠璃子はわたしの娘、もうひとり、貴義は人工授精でできた息子なのよ」

 遼子の言葉に、小林君は絶句し、顔が真っ青になっていた。

「兄はインポテンツ、勃起しないのよ。あの頃、それで、色んなお医者さんに相談していたわ。そして、わたしはあなたが旅立った後、身体の異変に気付いたの。経験があるから、すぐ解った。妊娠しているってね。礼次は気づかなかったわ。その後すぐ、彼とも別れたから……」

「だ、誰の、いえ、その、父親は?所長なんですか……?」

「ふふ、気づいているでしょう?父親が誰か?」

「ま、まさか……、そんなこと、ぼ、ぼくは、童貞ですよ……」

「マリアさまは処女で受胎して、イエス・キリストを授かった。あなたは童貞でわたしに瑠璃子を授けてくれたのよ……。ううん、嘘よ。わたしがあの夜、あなたが発熱して苦しんでいた晩。熱を下げようと裸になって……、ごめんなさい、あなたと関係を結んだの……」

「ぼ、僕が、射精したんですか、意識のないままに……?」

「そうよ、あなたにとっては『夢精』と同じ、でもわたしは、本当にいってしまったのよ。ほんの五分間くらいの出来事よ。それで授かったのが、瑠璃子なの」

「そ、そんな……、パラドックスが発生していますよ。パラドックスの一例で、過去の自分の父親を殺したら、自分は存在しなくなる……、って奴がありますが、これはその反対。自分が自分の母親を……?じゃあ僕は、僕のお祖父さん?いやもうひとり、姉の祖父になってしまう……」

「落ち着いて、って、落ちつける訳はないわよね。わたしのわがまま、あなたが愛しくて、一夜、ううん、一回だけ……、その行為が大変な結果になったの。産まない選択もあった。でも、奇跡の子供なのよ。わたしは産む決心をしたの。兄に言ったわ。生まれた子供はあなたたち夫婦の子供として、大切に育てて欲しいと……。もちろん兄も義姉も喜んで承諾してくれた。三人だけの秘密ができて、翌年、瑠璃子が生まれた。

 それで終われば、ハッピィ・エンドよ」

「続きがあるんですか?」

「そう、貴義の誕生にね。不能者の兄にどうやって子供ができたと思う?」

「さっき、人工授精、と……」

「そう、人工授精。でも他人の精子じゃないの。兄の本人の精子を採取して、それを義姉の子宮内に=排卵誘発させた後で、注入したの」

「じゃあ、インポじゃなくて、勃起したんだ。精神的なものだったんですよね。夫婦間だと立たないけど……」

「そうね、兄を治療していたお医者さまが、催眠治療を施して、インポの原因を突き止めたのよ。彼が不能になった原因を探ったら……、それはわたしの存在だったのよ」

「ええっ?な、何で、遼子さんが?」

「兄妹愛が、異常な方向に行きかけて、それを無理やりストップしようとして、性的不能に陥った。医師はそう判定したの」

「そ、そうか、一番身近にいた異性が一番きれいで、でも、決して性的対象にはできない存在だった……」

「きれいかどうかは、疑問だけれど、兄はわたしに性的興奮を覚えたのね。で、理性がそれを押しとどめた。それが、強くなりすぎて、不能になった……、でもこれは、その医者の判断だったのよ。わたしはそれを訊かされた時、あの兄に限って……って反論したわ」

「それで、どうやって確かめたのですか?その判定が、正解か否かを……」

「簡単よ。眠っている兄に、わたしのあの時の声を訊かせたのよ」

「あ、あの時?」

「絶頂を迎える時の、いえ、その前からのよがり声を……」

「そ、そんな必要があったんですか?」

「ええ、義姉の交換条件でね」

「交換条件?」

「そう生まれてくるわたしの子供を大切に育てるという契約の見返りを求められたの。彼女も自分の子供が欲しかったのよ。それも兄の……、愛していたのよ、兄を……。わたしがあなたを愛したのと同じくらいに……。子供を授かる最後の手段、わたしのよがり声を訊いて、兄が勃起して、その精液を冷凍保存し、人工授精をする……」

「な、何て異常な……」

「異常?そうかしら、女として当然だと思うわ」

「それで、成功したんですね?貴義さんが生まれたんですから……」

「ええ、わたしも開き直ったのよ。ええ、訊かせてあげるわ、最高のよがり声をね、って……」

「でも、お芝居でそんなことできたんですか?相手は、なしですよね?」

「ははは、そうか、誰かに相手してもらっても良かったんだ。妊娠してたから、受精することもないし……」

「じゃあ、ひとりで?オナニー?」

「そうよ、あなたを思い浮かべて、あのディープキッスのシーンを思い浮かべて、指を入れたら……、それはいい声を出したみたい……。わたし気を失っちゃったの。あなたと本当に繋がった気がしたのよ」

 小林君はもう言葉が出せないでいる。彼の存在が、過去の世界で、彼の知らないうちに、幾つものしがらみを作っていたのだ。

「あなたが時間旅行をしなかったら、瑠璃子はもちろん、貴義も生まれていないわね。そしたら、あなたのお姉さんも、あなた自身も……」

「じゃあ、今のこの現実は……?ここは、元の世界じゃないのか?パラレル・ワールドなのか……?」

       *

「落ち着いて、今日はこれくらいにしておきましょう、続きはまた明日……」

 そう言って遼子は、シャワールームへと入っていき、汗を流すと、ネグリジェに着替えて、ベッドに横になった。

「ぼ、僕、帰ります……」

 小林君は、茫然自失状態から抜け切れていないまま、部屋を出ていこうとした。その背中に遼子が声をかけて、一冊の本を手渡した。『棒網探偵社・奇譚』と書かれた、新書版の日本語の小説だった。

「これを読んで、そしたら、この世界があなたが元にいた世界だと解るわ。少しの歪みが生まれたけれど、修復されているはずよ」

「で、でも、僕は僕の孫なんでしょう?絶対あり得ない……」

「そのことは明日答えを出しましょう?きっと、時間の流れが修正してくれているはずよ。だって、あの時のわたしが歳をとって、あの時のままのあなたに再会できたんだもの、時空はつながっているのよ。同じ流れの中に、ね」

「解りました。一晩考えてみます」

 そう言って、小林君はホテルを後にしたのだった。一冊の本を抱えて……。


       5

 小林君――神堂正芳――の精神状態は不安定となり、三日ほど立ち上がれないほどだった。だが四日目、彼は気力を取り戻し、まず、祖父たちの眠る、神堂家の墓所を訪れ、墓前に手を合わせた。それが済むと、スマホから遼子のスマホにメールを入れた。

 すぐに返信があり、待ち合わせ、ふたりはタクシーに乗って、桂浜へと向かったのである。

 新型コロナウィルスは大都市を中心に広がりを見せ、政府は『緊急非常事態宣言』を七都府県に発令する準備をしている。神流湖のある、埼玉県もその一つになる予定だ。その為、急遽出発することに決め、高知滞在中に是非行きたいと遼子が言っていた『桂浜』の龍馬像を訪ねてきたのである。このあと、龍馬の名がつけられた『高知龍馬空港』へ向かい、東京、羽田へ飛ぶ予定であった。

「どう、気分は?顔色は良くなったわね」

 と、龍馬像を仰ぎ見ながら隣に立つ小林君に遼子は言った。

「ええ、桂浜と坂本龍馬像を見ると、土佐の男は元気が出るんです」

「まあ、本当?」

「いいえ、嘘です。でも、今は元気が出ました。龍馬と遼子、ふたりの愛する『リョウ』さんを眼の前にしているんですから……」

「ダ、ダーリン、わたしを愛してるって言ってくれたのね?もう、嫌われてしまったと思っていたのよ、だって……」

「当たり前ですよ。僕の初体験の人なんですから……、その、僕としては、キッスのほうがですけど……」

「ふふ、いいわよ、嫌われていないと解って、幸せよ。で、どう?結論は出せたの?」

「はい、僕の心の中では……、だけど、それは証明不可能な事柄です」

「ねえ、わたしが言ったこと、本当だと信じているの?あなたのお母さまの瑠璃子さんがあなたとわたしの子供だってこと、あなたじゃなくて、他の男との間にできた子供かも知れなくてよ」

「信じてますよ。遼子さんがあの後、つまり、千九百六十九年八月十五日以降に他の男性と関係を持ったとは思えません。強姦されたなら別ですが、それなら、生もうとはしないはずです。昨日、キッスをした時、はっきり解りました。あなたはあの日以来、ずっと僕だけを愛し続けてきたんだと。五十一年間、待ち続けていたんだと……」

「ダ、ダーリン、わ、わたし、幸せよ。明日死んでもいい。こんなに幸せを感じられるなんて、あなたを愛し続けて、人生に悔いはないわ」

「ダメですよ、五年は生きるんでしょう?所長に負けないために……」

「そ、そうだったわね。でも、瑠璃子があなたの子供だとしたら、どうなるの?パラドックスは解消できたのかしら?」

「おそらく、パラドックスは発生しています。あなたに頂いた本を読んで気づいたことがあるんです」

「何?気づいたことって?」

「あなたが、五十一年後には『お婆ちゃんになっているわね』と言った時、僕は『ええ、本当のお祖母ちゃんに……』と答えています」

「それが、おかしいの?」

「ええ、僕はその時点では、あなたが本当の僕の祖母だとは知らないのです。あなたの姓が『白川』だってことも知らなかったのですから、親戚筋に当たるとも知らなかったのです」

「それはどういうことになるの?」

「僕の中に、もうひとりの僕がいて、そっちは知っていたんじゃないかって……」

「ええっ?それじゃあ、あなたは『二重人格症』ってこと?」

「いえ、通常の二重人格とは違います。どちらも、神堂正芳には違いない、別人=別人格ではないが、それぞれ、記憶が違う、魂に多少のずれがあるんだと思います。それが、パラドックスを修正する時に起こった、時空の現象だったんではないかと……」

「よく解らないけど……」

「つまり、歴史が二本になってしまったんです。僕が過去に飛んだ所為で、パラレルワールドができてしまった。それを修復して、二本の歴史をひとつにまとめるには、ふたりの僕をひとりにしなければならないのです。つまり、魂を合体させる……」

「待ってよ、それだと、パラレルワールドに住む全員が二重人格になるわよ」

「一部の人間だけで修正できたのですよ。人間の記憶だけの修正ですから……」

「じゃあ、わたしも、礼次も、瑠璃子もってことよね?」

「ええ、そういうことになりますね、変えられた歴史を統一したのですから、そこに係わった人は少なからず、影響を受けたはずです。二重の記憶を持っているんです。それも時間の経過とともに修正されるのでしょうけど、今は修正の途中なんでしょう。パラドックスの出発点が今年の三月二十一日なのですから、そこから修正が始まっているのですから、すぐには収まらないと思いますよ」

「そうか、歴史の分岐点がその日になるのね?あら、それって、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の世界じゃないの、マイケル・J・フォックス主演の……」

「ええ、時間旅行をすると、やはり、パラドックスは避けられないってことですね。でも、証明は不可能です。そういう結論で、納得するだけです。今更過去に戻って、遼子さんに別の男を作ることはできませんからね」

「それって、あなたに出会う前に誰かと結ばれるようにして、瑠璃子の父親を替えるってこと?」

「いえ、貴彦さんにあなたの、『例の声』を訊かせて、貴義さんが生まれる前に、娘を作らせますよ。可能ならね。そうすれば、あなたは僕の大叔母さんになる訳ですけど……」

       *

「わたしね、あれから、瑠璃子を無事出産したあとだけど……」

 羽田行きの旅客機の中で、遼子は過去の話を小林君=正芳に始めたのだ。

「アメリカへ渡ったのよ。従兄のひとりが、外務省にいてね、アメリカの日本大使館で働いていたから、その伝手で、ハーバード大に短期留学を口実に……。そのまま、外務省を通じて、大使館に通訳として就職できたのよ。まあ、いろいろと、コネを使ってね。大使館時代には、レーガン大統領と中曽根首相の首脳会談の時にプライベートタイムの通訳をしたりしたの。そしたら、ロン(=レーガン)が、わたしにちょっかいを出してきて、ナンシー夫人から『今後、リョウコは通訳禁止』って、お達しが来たの。その後、すぐだったわ。国連の事務局へ入れるようになって、元々、渡米の目的が国連に入って、難民問題や紛争問題の解決とまではいかないだろうけど、手助けをしたかった。あなたから、あの時、今後、難民が世界中で溢れ出すって訊いていたから……。もう、五十歳に近かったかな?でも、八十歳までまだ三十年以上あると解っていたもの、時間はある、できることもあるはずだと……。事務局に入ったのは、難民問題の専門の『国連UNHCR』って、組織もあるんだけれど、難民問題は、その原因となる、戦争や紛争、宗教的な対立、そういったものを解決しないと、根本的な解決にはならないと解っていたの。だから、事務局本部で、事務総長に近い部署で働いたのよ。おかげで、世界中を巡ったわ。イスラエルとパレスチナ、イラン、イラク、アフガン……。アフリカ諸国やアジアの国々。ただ、日本だけは来なかったの、怖かったから、あなたを、あなたの誕生を確かめるのが……。だって、生まれていない可能性もある。礼次が言っていたように、ペテンだった可能性の方が、常識的だものね。産まれていないという事実を知ったら、わたしは生きる意味を失うのよ。それが怖くて……」

 遼子はそこまで語って、隣の席にいる少年の方に微笑んだ。

「でも、充実してたのよ、国連時代は。色んな人に出会った。イギリスのダイアナ妃にも、南アフリカのマンデラ大統領にも、晩年のオードリー・ヘップバーン、マザー・テレサにもお目にかかれたわ。そうそう、もうひとり、アメリカ大統領で、クリントンさんにも……。それでね、またまた、夫人のヒラリーさんに嫉妬されて、『ビルの一マイル以内に近づかないで』って、警告されたのよ。ロンもビルも浮気者で有名だったのよ」

「いや、遼子さんがきれいすぎだったからでしょう?」

「ロンの時は四十代半ばだから、まだ、ってところだけど、ビルの時は、六十前よ。ビルより大分歳上よ」

「でも、今より二十数年も若い頃でしょう?今でもきれいだし、キッスしたくなりますもの……」

「まあ、うれしい、あなたのその言葉、五十一年ぶりのお世辞ね?」

「お世辞だなんて、本心です。証拠を見せます」

 小林君はそう言って、遼子の唇に軽いキッスをした。

 遼子はそのあと、とても幸福そうな笑顔を浮かべて、彼の肩の上に右の頭(こうべ)を乗せて行ったのであった。

 窓の向こうに富士山の雄大な姿が見えていた。

「このまま、宇宙の彼方に、飛んでいきたい気分だわ……」

「僕たちの新婚旅行ですね?」

「ふふふ、誰かに訊かれたら、腰を抜かすわよ。六十五歳違いの夫婦だなんて……」


       6

「高速道路ができて、便利になったわね」

 関東自動車道路の『本庄・児玉インターチェンジ』を古い型のスカイラインGT―R――ケンとメリータイプ――の後部座席から見廻しながら遼子女史が隣に座っている、小林君に言った。

 運転手つきのこの車は、遼子がわざわざ用意した車である。箱スカのGT―Rが間に合わず、それより、ひと世代新しい車種となったのだ。免許を持っていない小林君と、五十一年、日本の道路を走ったことのない老婆では、運転はできない。そこで、運転手つきとなったのである。運転手は一言も会話を交わしていない。行く先もあらかじめ知らされていて、ナビゲーションに誘導されて、羽田空港近くのホテルで一泊したふたりを乗せて、ホテルから、下久保ダムまで、車を走らせているのだ。

 車は、まず桜(=ソメイヨシノ)が七分咲きの城峯公園に停まった。桜も綺麗だが、そこから見える人工の湖『神流湖』の眺めは最高だった。

「きれいね。あの頃は、こんな公園はなかったと思うけど、桜も満開に近いし、いい季節ね」

「ここの桜は秋にも咲く種類があって、年に二度楽しめるそうですよ」

「あら、そう、じゃあ、秋にも来ようか」

「ええ、いいですね。では、そろそろ、目的の場所へ行きますか」

「あの『望郷の碑』の建っている場所ね?」

「気づいていたんですね?」

「そこに何があるのかまでは解らないけど、あなたの目的があそこだとは見当がついていたわ」

「謎解きはそこについてからにしましょう。『ディナーの後』ではなくてね……」

       *

「変だな?」

 と、ダムの管理事務所跡の前にGT―Rを停めて、ダムの橋の上に差し掛かった時、小林君が呟いた。

「何が変なの?」

「僕たちのすぐあとに、黒いセダンが停まったんです。それが、城峯公園からずっとついてきていて、それに乗っているふたりの男がこちらを覗っているようです。観光客とはとても思えない、サングラスをかけた、まるで、『ヤーさん』のような二人連れです」

「気の所為じゃない?日差し結構強いから、サングラスしていてもおかしくないわよ。わたしも持ってきたもの」

 遼子はそう言って、大きなサングラスを取り出した。オードリーが『おしゃれ泥棒』か『ティファニーで朝食を』か、で掛けていたレイバンのサングラスである。

「ほほう、そうだったんですか?」

「何?何がそうだったの?」

「いえ、あのサングラスの二人連れの正体が解ったんですよ」

「えっ?どうやって知ることができるの?」

「遼子さんの返事からです。ヤーさんのような、と言ったのに、全く不安になっていない。つまりあなたには心当たりがある。サングラスについてもうまく誤魔化そうとした。そこで、出てきた答えは……」

「答えは?」

「刑事ですね?群馬県警か、警視庁から派遣されたか、は、まだ謎ですが……」

「ど、どうしてそこまで解るの?あなた、やっぱり、超能力者なの?」

「いや、簡単な推理ですよ。これから、我々が発見しようとしているものについては、あなたの推測どおり、警察関係者立ち会いの元が、正しい判断ですから……。僕はこの運転手さんが刑事さんかと思っていたのですがね?」

 小林君は笑顔でそう言って、何故か少し後ろをついてくる、制服姿の運転手を指さして言った。

「流石、叔母さんが褒めていただけのことはある。正臣君ではなく、この子を養子にすればよかったかな?」

 そう言いながら、白い手袋をはめていた右手で、掛けていたサングラスを外し、

「初めまして、遼子の甥に当たる、白川貴義、君のことは、叔母からも君のお兄さん――正臣君――からも訊いているよ。祖父譲りの名探偵だってね」

 と、自己紹介をしたのだった。

「あっ、兄の法律事務所の……、兄がお世話になっております。初めまして、正臣の弟で正芳と申します」

「はははは、噂どおりの、今時には珍しい、礼儀正しい好青年だね。叔母さんのお気に入りと言うのがよく解る。が、ふたりは何時からの知合いなんだ?叔母さんが帰って、まだ三月、ちょっとだぜ。それなのに、運転席で話を訊いていると、もう何年も前から知り合いだったみたいな口ぶりだったんだが……」

「貴義さん、わたしたちは五十年以上前からの知り合いよ。ただし、魂の、ってことだけど……」

「ほほう、前世では、恋人か夫婦だったってことですかな?メルヘンとしては面白いが……」

「あなた、例の五十一年前の『配達日指定』の手紙、読んだでしょう?」

「ええ、封筒はおそらく、最近作ったものでしょうが、中身は当時の物のようでした。ある探偵事務所が、『××公園婦女殺害事件』の周辺調査をした報告書。それと、どういう訳か岡部の再審に対するアドバイスが書かれた文書が別にありましたね。それを書いた人物が封筒を差し替えたのだと思いますがね」

「それを書いたのが、この子よ」

「えっ?正臣君の弟さんが?でも、事件の内容を相当詳しく知っていましたよ。我々も気づいていないようなことを……」

「実は、その報告書を作った探偵社に調査を依頼したのは、僕の祖父、神堂正義なんです」

「ああ、正臣君のお祖父さん、確か、元、警視庁の敏腕刑事だったとか……」

「その祖父が、事件に関与していて、詳しい手記を残していたんです」

「わたしも関与していたのよ。当時、礼次、あっ、これは、この子のお祖父さんの探偵時代の偽名なんだけど、礼次とわたしは探偵事務所を開いていたの。事件があったのが、わたしの住んでいた旧興園寺邸にも近い場所だったから、興味を抱いて、捜査を始めたのよ」

「それで、岡部が真犯人ではないと、結論を出したのですね?では、何故、それを、捜査関係者に言わなかったのですか?冤罪と解っていたのに……」

「そ、それは……」

 と、遼子は答えに詰まってしまった。

「祖父の意志です」

 と、小林君が答えた。

「正義氏の意志?」

「証拠がない。単なる仮説です。富岡と言う男が、その時間帯に公園を通ったか、裏付けがないし、状況証拠だけで組み立てたものです。本人が亡くなっていますので、自白も得られませんし……」

「いや、報告書では、ラーメン屋で食事をして、ビールを一本飲んで、出たのが午前一時少し前だったって、ラーメン屋の店主が証言している、と書いてある。その他にも、状況証拠とはいっても、恋人の失踪、父親との確執と、殺人未遂。おまけに、自殺する原因が他にない。確かに仮説ではあるが、君のお祖父さんはかなり正確な情報を得ていて、真相に近づいていたはずだ。なのに、それを途中で放り出し、五十一年後に、我々に託すなんて……。それと言い忘れていたが、先日、君が正臣君に宛てたメールに書いていた、富岡の恋人の従姉に当たる、下久保可南子と言う女性を調べて、逢いに行ったんだ。現在は、太田可南子、どうゆうわけか、叔母さんの所有のマンションに住んでいたよ。だから、すぐ逢うことができた。正臣君が手紙の指示どおり、『神堂正臣という弁護士です』と名乗ったら、『ああ、五十一年間保管しておりましたわよ。タイムカプセルとして』と言って、七十代後半の婆さんが手提げ金庫から封印された封筒を取り出して渡してくれたんだ。写真とネガが入っていたよ。それで、その時、婆さんがおかしなことを言ったんだ」

「何て言ったの?」

 と、遼子が尋ねた。

 可南子が遼子女史の所有マンションに住んでいたのは偶然ではない。遼子がそう手配したのだ。行方が解らなくならないために、格安の値段で、提供したのである。

「正臣君に『あなたは、小林さんの遠縁の方かしら?どことなく、あの子の面影があるわね、そっくりではないけど、雰囲気が』と言ったんだ。それで、正臣君が尋ねてみた、その小林君という少年は、どんな容姿をしていたかと……」

「どう答えたの、可南子さん?」

「髪の毛の長い、ジュリーにタイプが似ているけど、もっと、日本的な美少年だった。わたしの好み、ドンピシャ。今の亭主の若い頃もまあまあだったけど、それでも、月とスッポン、ああいう神秘的な眼をした子ってなかなかいないわよねェ、と言ったよ。今、私の眼の前にいる、少年のようにね……」

「そ、それで、貴義、あなたはどう思ったの?その小林君っていう少年のこと?」

「ひょっとして、叔母さんの恋人だったんじゃないですか?大学生と言っていたそうだから、二十歳くらいか、歳の差はあるけど、叔母さんは若く見えるし、美人だし、未亡人だし、同じ事務所にいたんでしょう?」

「ええ、そうね、一緒にいたわ」

「そうですよね、その婆さん、小林少年の頼みが信じられなくて、探偵事務所に確かめに行ったって言っていましたよ。そこで、すごい美人に逢ったって、ああ、このひとと、小林君はデキテる、って、ひと目で解ったって、女の勘で……。その美人って、叔母さんですよね?」

「で、デキテるって、それ、勝手な想像でしょう?」

「いえ、当たっていると思いますよ。この少年に逢えたおかげでね、確信しました。僕は知っているんですよ。姉の瑠璃子は僕の本当の姉じゃない、叔母さんの隠し児、私生児だってことをね。つまり、姉の父親はその小林君、この少年はあなたと小林少年の孫に当たるんだ。だから、魂が繋がっているなんて、言ったんでしょう?魂じゃなくて、血が繋がっているんだから、それも非常に濃く……」

「あっ!」

 と、小林君と遼子が同時に声を上げた。そして同時に、笑い声をあげたのだ。

「そうです、そうです、そういうことなんだ……」

「そうね、それでいいのよ……」

「なんです?何がおかしいのかな?僕の推理、完璧でしょう?」

「ええ、貴義さん、完璧よ。それで、修正ができたわ。パラドックスは解消されたのよ」

「何を言っているんですか?パラドックス?修正ができた?」

「いいのよ、あなたのおかげで、ひとつ解決したってこと。さあ、もうひとつ、肝心な事件の解決をしましょう。岡部の冤罪を晴らす。決定的な証拠を、彼が発見するわよ。たぶん、だけど……」


      7

「ひとつ確認したいのですが……」

 と、小林君が貴義に尋ねた。

「何かね?」

「僕がメールでお願いしていたことのひとつですが、このダム湖が日照りで水位が異常に下がった年に、遺体が発見されましたよね。確か、新聞によると、若い女性、五十年ぐらい前に死亡したものだということでしたが、身元は解ったのでしょうか?顔の復顔作業をするとか、報道にありましたが……」

 四年前の七月、関東地方に雨が降らず、各ダム湖の貯水量が、かなり減少したことがあった。そのダム湖から白骨化した女性の遺体が発見されたのである。

「ああ、あれね、うん、調べてみたが、筑波大の研究室で復顔作業を試みたそうだ。まあ、骨が古くて、どの程度、復元できたかは疑問だが、かなりの美形に仕上がっていたよ」

「その写真を見たのですね?」

「ああ、一応、コピーも頂いたが、それがどうしたんだね?」

「貴義、鈍いわね。その顔が、下久保小百合さんに似ているんじゃないの?その頃、彼女は失踪して、未だに行方不明……」

「そ、そうか、叔母さんの言うとおりだ。いや、比べてはいませんが、美形です。ただ、髪型は復顔のほうは、ロングじゃなかったので……。でも、そうだ、確かに似ている処もあったな。よし、遺骨の特徴をもう一度検証してもらおう。あの遺体が下久保小百合だとしたら、田代美菜さんを小百合と間違えて、富岡が首を絞めた、って、仮説の裏付けになる」

「でも、そんなことしなくても、おそらくだけど、もっと凄い証拠が出てくるわよ。この『望郷の碑』の周りの何処かでね……」

「叔母さん、どうしてそんなことが解るのですか?」

「だって、自殺する前に富岡がこの碑の前にしゃがんで、何かしていたんだもの。それをわたしたちは目撃しているのよ。祈っていたんじゃなくて、地面に何かを埋めていた……。今思い返すと、それしか考えられないのよ。ねえ、ダーリン?」

「ええ、流石、元探偵助手、見事な推理です。でも、その『わたしたち』のもうひとりは、僕の祖父のことですからね、母方の……」

「あっ、そう、そうよ。あなたがお祖父さまにそっくりだから、つい、あの日に戻った気になってしまって……」

「で、それはどの辺ですか?」

 と、貴義が尋ねた。

「ここです。この、『バツ印』のような傷跡のある、敷石の下に、彼が隠した、或いは、残した、ものが埋められています」

 『望郷の碑』の周りは、敷石で整備されていて、雑草も刈り取られている。碑の、向かって、やや右寄りに敷かれた、長方形の敷石に、はっきりと、バッテンが刻まれていた。

「これを」

 と、小林君が、マイナスの大きめのドライバー=ネジまわしを運転手姿の貴義に手渡す。それを受け取った貴義が、敷石の周りの地面を掘り起こし、敷石を動かした。

 敷石を取り除いた地面には、アルミニューム製の弁当箱のような薄い箱型の容器が、土を被った状態で姿を現したのだ。

「刑事さん、立ち会いをお願いします」

 と、貴義は、少し離れて様子を覗っていた、サングラスのふたり連れに大きな声をかけたのだ。自分たちがねつ造したものでないことの証言者、立会人として、刑事たちをこの場に呼んでいたのである。

 慌てて近づいてきた刑事立ち会いのもと、箱が掘り出され、蓋が開かれた。もちろん、貴義は運転手用の白い手袋をして、指紋を付けないようにしている。刑事たちも白い手袋を装着していた。

「こ、これは……」

 と、貴義が絶句した。

 蓋をあけると、すぐ目に飛び込んで来たのは、若草色が少し色あせてはいるものの、鮮やかな薄い布、スカーフだった。

「田代美菜さんの首に巻かれていたスカーフですよ。おそらく、富岡の指紋がくっきりと残っているはずです」

 小林君の言葉に刑事たちの身体が反応して、若いほうの刑事が素早くその布を広げた。そこには、くっきりと、両手の親指の跡が、拇印のように残されていた。

「その指紋と、この写真立ての指紋を比べてください。富岡常政の指紋だと解るはずです」

 小林君はそう言って、ショルダーバッグから、ハンカチに包まれた古い写真立てを取り出した。富岡のアパートの部屋に飾られていた、富岡と小百合の笑顔の写真が収められた、写真立てだった。

「これは、遺書のようだ」

 貴義が、スカーフの下に収められていた、便箋を丁寧に取り出し、内容を確認していた。

「遺書、そして告白の文書だと思いますよ。彼は人違いで田代さんを殺したことをニュースで知った。小百合さんが自分を呼んでいるのだと思って、彼女が眠る、自分が遺体を遺棄した、この湖で死にたかったのでしょう。この碑にはふたりの名前も刻まれている。ふたりの墓標に見立てて、ここに、真実を残したかった。最後の懺悔のために……」

「懺悔をしないと、あの世で小百合さんに逢えないでしょうからね、今は天国にいるのかしら?」

「さて、どうでしょうか?ただ、現実の世界では、犯罪は時効になっていますけどね……」


       8

「貴義から連絡があって、岡部の再審請求が受理されたそうよ。無罪判決は確実だって、冤罪だったことが証明されたって……」

 季節は初夏を迎えている。日本中が自粛、自粛で、イベント中止が続いており、東京オリンピックの中止、延期がほぼ決定的になってきていた。高知でも『よさこい祭り』の中止が決まった。遼子の楽しみの一つが消えたのだ。

 遼子と小林君は桂浜の龍馬像の傍のベンチに腰を掛けている。この時期、普段なら観光客でにぎわう場所なのだが、今は自粛で閑散としている。水族館も閉館しているようだ。

 あの、『望郷の碑』の前から発見された、富岡の告白文については、ねつ造ではないかとの疑問が警察関係者から出されたのだ。そこにそんなものが埋まっていると、どうして知っていたのか?知っていたなら、何故、今まで放っておいたのか?そして、小林君が手渡した『写真立て』も年代は古いものであるが、中の写真が新し過ぎる、との声が上がったのである。そりゃ、そうだろう、五十一年の時間を飛び越えてきたものなのだから……。

 遼子は当時の事件の関係者――調査を行った側の数少ない生き残り――だったため、検察からかなり突っ込んだ事情聴取を受けたのだ。つまり、ねつ造したのは彼女であると、検察側は証明したかったのだ。だが、彼女の経歴を知って――かなりの重要人物が彼女の親戚筋に居り、彼女自体も国連のかなりの地位にいたのである――いくら、甥が事件の弁護をしているといっても、名もない元浮浪者の事件にそれほどの労力をつぎ込む訳はない。また、彼女は海外に居り、帰国後にこれだけのことをする、時間的余裕もなかったはずである。たとえ、共犯者がいたとしても……。

 詳しい調査が進むにつれて、告白文は当時の紙、当時のボールペンのインクで書かれていて、写真立てに納まっていた写真の裏の文字――本人と小百合の名前と撮影場所が書かれた――と筆跡が完全に一致した。そして、スカーフに残された指紋と写真立て及び写真に残された指紋も一致。写真に写ったふたりは、富岡常政と下久保小百合だと、小百合の従姉(=太田可南子)が証言したのだ。それだけではない、可南子はその写真と同じものを捜査官に提出したのである。

「小百合の写真が『国家プロジェクト』に使われると訊いたから、たぶん、五十年前の美人の写真として使うのでしょうけれど、もう一枚あった、彼氏と写っている写真の方がきれいだったから、大事に保管していたのよ」

 と、彼女は言ったそうだ。

 そして、四年前にダム湖の渇水時に発見された女性の遺体も再調査が行われ、首の骨に絞められた時についたと思われる、ひびがあったこと、復元された顔が、下久保小百合の特徴に一致したことなどから、告白文は本物と認定されたのだ。

「富岡の告白文書とはどんな内容だったのですか?」

 と、太平洋を眺めながら、隣に腰を降ろしている。老女に尋ねる。

「現物は見てないから、貴義からの報告だけだけど」

 と、前置きして、老女は内容を語り始める。

『わたくし、富岡常政はここに懺悔をいたします。わたしはふたつの殺人とひとつの殺人未遂という罪を犯しました』

 という言葉でそれは始まっていた。

 長い手紙、それには、下久保ダム建設による、故郷喪失。父親の失踪。小百合との出会いが語られ、父親へのヒ素による、殺人未遂が語られていた。未遂に終わったその事件を小百合に知られ、小百合から叱責を受けた。

「まかり間違えば、わたしの母親も殺していたのよ!」

 と、きつい言葉を投げかけられ、

「もう、一緒にいられない、別れましょう」

 と、言われ、彼女の首を絞めて、殺害したのである。

 死体を会社の車――ライトバン――に乗せ、下久保ダム――当時ダム湖に水をため始めていた、その人工の湖――に重しを付けて沈めたのだ。

 父親を殺す計画は、まだ諦めていなかった。父は自分が留守の間にアパートを訪れ、詫びる手紙を残して行った。母の病院に行って、母にも謝って来た。二度とお前たちの前に姿を見せない、死んだものと思ってくれ、見逃してくれ……、とその手紙には書かれていたのだった。

「何を今更、母に謝っただと?母にそれが通じる訳ないだろうが、それにこの手紙を選りによって、小百合に手渡すなんて、俺が小百合を殺す羽目になったのは、お前の所為だ。決して、許すものか。今度は毒じゃない、切り刻んでやる……」

 だが、彼が父親の消息を掴んだ時には、父親は凍死していたのだ。復讐は出来ず、彼の心に無念と後悔が残っていた。小百合を殺すことはなかった、と……。

 仕事に没頭し、忘れかけた亡霊が甦ったのである。事件の前日も帰りが深夜になり、近道の公園を通り抜けようとすると、急に明かりに照らされた。何事かと思って、顔を隠し、慌ててその場を離れたが、おかしいと思い、引き返すと、杭の上にカメラが置かれている。いたずらかと思ったが、癪に障り、カメラを壊して立ち去った。その翌日のことである。

『その日は前日より遅くなり、最終にやっと間に合う状態で、晩飯も食べていなかった。駅前のラーメン屋に飛び込み、遅い晩飯とビールを一本頼んだ。ほろ酔い気分で公園の縁を回って=その夜は公園を通らなかったのだ、公園の裏口まで来た時、急に尿意を覚えて、公衆便所に駆け込んだ。ほっと一息ついて出てくると、いきなり、何者かに体当たりされたのだ。髪を、長い髪を振り乱して、恐ろしくゆがんだ顔をした女性が、眼の前にいて、自分を見て、また恐怖の表情を浮かべたのだ。それが、小百合に見えた。小百合と同じスカーフが眼に飛び込んで来たのだ。小百合の幽霊か?いや、今、確かにぶつかった。実体がある。まさか、生き帰ったのか?復讐に現れたのか?ええい、死んでくれ、俺の人生を壊さないでくれ……、と、無我夢中で見覚えのあるスカーフの上から首を絞めた。女の口から血が滴り落ちて、眼がひっくり返った。手にスカーフが張り付いて除かなかった。しかたないので、そのままズボンのポケットに突っ込み、死体を蹴飛ばして、裏口から一目算に走って逃げた。幸い誰にも逢わなかった。

 翌日のニュースで、殺したのは小百合でなく、田代とかいう、女だと知った。犯人として、浮浪者が捕まったことも……。どうやら、彼女は浮浪者に襲われて、必死で逃げる途中だったのだ。そこへ俺が現れて、また襲われると、勘違いをしたのだろう。そして俺は、彼女を小百合だと勘違いしてしまった。そのあと、刑事らしい男が、俺の写真を持ってこの辺りを調査していると、隣の住人が教えてくれた。浮浪者の犯行と確定してくれないのか?俺があの公園を利用していることは多分知られている。もうだめだ、ふたり殺して、ひとりを殺し損ねているんだ。死刑は間違いない。いやだ、死刑になるくらいなら、死んでやる。そうだ、小百合が眠っているあの湖に身を投げよう。そして、懺悔しよう。あの『望郷の碑』にこの告白文を埋めて……』

      *

「そうか、本当は湖に身を投げたかったのに、我々が現れて、湖側ではなく、崖の方に行くしかなかったんですね。気の毒でしたね」

 遼子から『告白文書』の内容を訊かされた後、小林君はそう呟いた。

「何言っているのよ、殺人犯よ、思いどおりの死に方なんてさせてたまるものですか。わたしたちを警察関係者だと勘違いして、慌てて逃げ出したのよ。自首する気はなかったのよ」

「そうですね、遼子さんの制止の言葉も拳銃を構えた格好も、無視されましたからね、あのセリフ、格好よかったですよ。ドラマの婦人刑事、って感じでした」

「あら、そう?写真撮ってくれたらよかったのに……。そうだ、写真と言えば、デジタルカメラは?あの時、あなたが持っていて、事件当夜、動いていたはずだって言っていた奴よ」

「憶えていたんですか?あのカメラには、ちゃんと富岡の姿が映っていましたよ。しかも短いですが、動画で……。ポケットからスカーフをはみ出させてね……」

「それじゃあ、決定的じゃない」

「ははは、でも、証拠にはなりませんよ。当時存在しない機械で写しだされた映像なんて、誰が信じます?」

「そうね、誰も信じない。でも、あなたはあの時に真相を掴んでいた。田代美菜さんの殺害犯は富岡常政だと……。つまり、因果の『果』を知っていて、『因』を探していたのね?孫ができたことを知って、子供の存在を探すように……」

「そうです。富岡が田代さんを殺した理由、動機が解らなかった、その時は……。ゆきずりの殺人ではありませんからね、何らかの『因』が存在するはずだと……」

「どうやって、因を見つけたの?直感?」

「いえ、あの写真立ての写真ですよ。ふと、目に留まった時、このひと、もう少し髪が長かったら、殺された女性によく似ているんじゃないか、とね」

「そうか、礼次には無理よね、その直感は……。それで、可南子さんを訪ねて、一番新しい写真を見せてもらったのね?その写真を証拠、あるいは参考資料として、五十一年保管を頼んだ」

「ええ、あの写真なら、人違いによる殺人だと信じることができますからね。だから、ネガも一緒に保管してもらって、修正をしていないことを確認して欲しかったのです。だって、まさか、あんな徹底的な証拠となる、スカーフが残っているとは思わないし、告白文もどこまで真実が書かれているかは僕には見当もつきませんから、状況証拠はなるべくたくさん必要だと思ったんです。結局、あの前の三日間に公園の裏口で撮影した、何枚もの写真は、我々以外の眼には触れずに終わりましたからね」

「でも、あなたは小細工をしているわ?」

「小細工?」

「あの『望郷の碑』の敷石のバツマークよ。あれは富岡がつけたものじゃない。だって、富岡が自殺した後、わたしたちあの碑を調べたわよね?敷石は新しかった。何処にもそんな印はなかったわ。あのあと、あなたは秘密の場所へ旅行して、その場所があの『望郷の碑』。そこで、埋まっているものを確認して、元通りに戻す。そして印をつけたのよね。五十一年後に見失わないように、タイムカプセルを埋めた場所って、解らなくなることが多いそうだから……」


       9

「そうだ、遼子さんに確かめたいことがあったんだ」

 桂浜をあとにして、ホテルのレストランでディナーを味わっている。デザートが運ばれる前の時間帯、急に話題を変えた小林君だった。

「なに?確かめたいことって?」

「あの、頂いた小説というか、事件簿の本に書かれていたことで、僕の知らないことがあるんです。事実なのか、フィクションなのか、よく解らないもので……」

「なに?あなたの知らないことって?」

「ほら、僕が発熱する前に、マリア、いや、毬子さんとエマさんが来てたって、そこはうろ覚えですが訊いていたんです。でも、毬子さんが僕宛に手紙を置いて行った、というのは、初耳なんですが……?」

「あっ、いけない、五十一年間も忘れていたんだ。あのあと、あなたが死んじゃうなんて誤解して、身体を……、その、ひとつにつなぎ合って……、すっかり忘れていたのよ。小説を書くときは順序良く思い出したけど、そのあとは、全く事件と関係ないことだから、思い出さなかった」

「それで、その手紙は?失くしたんですか?」

「失くすわけないでしょう、あなたに関することは、どんな些細なもの、髪の毛の一本でも処分はしないわ」

「では残っているんですね?」

「残っているわよ。きっと、熱烈なラヴ・レターよ。あの子あなたに一目惚れしたって、はっきりいったんだから、結婚相手、候補の一人よあなたは……」

「ラヴ・レターではない気がします。僕の直感が間違っていなければ、エマさんのことだと思いますよ」

「エマ?あの金髪の方?あなたあっちが趣味だったの?美人じゃないわよ。アメリカじゃあ、あの程度は、十人並みかそれ以下よ」

「いやだなあ、僕の好みは遼子さんに決っているじゃないですか」

「でも、わたしと出逢う前よ。あの事件は」

「遼子さんはすぐに、男女の関係、色恋方面に話を持って行きたがるんですよね」

「じゃあ、毬子さんの手紙は色恋の話ではなくて、何の話だと思うの?もし、あなたの直感が当たっていたら、あなたの欲しいもの何でも買ってあげるわ」

「ええ、本当ですか?マンションでも?」

「マ、マンション?そんなものが欲しいの?」

「ええ、あなたと一緒に暮らすための……」

「な、何を言っているの?冗談はやめてよ」

「冗談ではないですよ。五年以上は生きて、僕と暮らすんでしょう?所長は僕とひとつ屋根の下で暮らしたんですよ。祖父と孫の関係ですけど。遼子さんは嫌ですか?」

「嫌な訳ないでしょう?でも、わたし、ますます、歳をとるのよ。醜くなって行くのよ。素ッピンの顔はあなたには見せられない……。でも、一緒にいたい……」

「だったら、マンションに住みましょう、ふたりで……」

「だめよ、あなたはまだ高校生。お母さまが許さないわ」

「どうして?祖母と孫ですよ。母からしたら、実母ですよ。本人は知らないかもしれないけれど……、少なくても、親族だとは解っているはずです」

「違うわ、わたしはあなたを孫とは思えないのよ。恋人よ、初恋の人なのよ、永遠に……」

「解っています。僕にとってもあなたは恋人以上に大切な人です。だから、傍にいたい。あと何年一緒にいられるのか、未来は今の僕には解らないのですから……」

「ありがとう、でも、やっぱり一緒には暮らせないわ。わたし、性的対象として、あなたを想うのが怖いのよ。こんなお婆ちゃんなのにね……。だから、時々逢うだけにして、我がままだけど……」

「解りました、遼子さんの意志を尊重します。じゃあ、マンションは辞めて、新しいパソコン、タブレットにもなる奴、それと、ミラーレスの一眼レフのデジタルカメラを買ってください」

「あら、随分安い買い物ね、マンションに比べると。いいわよ、買ってあげるわ。それで、あなたの直感を訊かせてよ。手紙の内容についてのね」

「はい、エマさんの出生についてのことだと思います」

「エマの出生?エマはアルベルトとリズの子供でしょう?今更、出生がどうのこうのと手紙に書く訳ないわよ。外れね、その直感」

「そうかなあ?アルベルトとリズの子供かなあ、あまり似ていませんよ、ふたりとも。あっ、遼子さんは知らないか、ふたりの顔……」

「現物はね。でも写真は見ているわよ。小説を書くために、あなたが作ったっていう、ふたりの若い時の偽造写真もね。そう言えば、アルベルトには似てないこともないけど、金髪で青い眼、ふたりとは違う、でも、叔父のジェイムスさんにはそっくりだったんでしょう?親子と間違うくらいに……」

「そう、親子と間違うくらいに、ね」

「な、何が言いたいの?まさか、エマが本当にジェイムスさんの娘だって言いたいの?じゃあ、毬子は?」

「ふたりともジェイムスさんと佳織さんの子供だと思いますよ」

「む、無理よ、一ヵ月後にふたり目を産むなんて……」

「それは、戸籍上でしょう?エマさんがアルベルトとリズの子供だという戸籍上ですよ。そこが根本的に間違っているとしたら、誕生日も違っていてもおかしくありませんよね」

「ええ、まあ、すべてが偽りなら、出生届も……。えっ?じゃあ、毬子とエマは双子だっていうの?顔が違い過ぎよ。従姉妹としてなら、似ているところが多いけど……」

「二卵性双生児ならどうですか?ひとりは父親似、ひとりは母親似、全体の雰囲気は、同じ感じがする……、あり得ませんか?」

「あ、あり得るわ。で、でも、そんなことが起きるの?双子が生まれたのに、バラバラに育てられるなんて……」

「おそらく、病院で取り違えが起こったんでしょうね。リズと佳織さんの子供を……」

「えっ?リズもお産だったの?」

「ええ、ほぼ同時期に、でも、リズの子供は死産だった。早産になって、母体を守るため、子供は助からなかった。その日、佳織さんは双子を産んだ。本人は知らなかったんです。双子を宿していたことは、そこで、アルベルトがそのひとりをリズが産んだ子にした。当初の予定日の、それから一カ月後に正常に生まれた子としてね」

「う、うそ、そんなことってあり得るの?あなたの空想でしょう?」

「ははは、残念ながら、僕、調べたんですよ。いいえ、実は先日、金沢の毬子さんに電話をして、毬子さんご存命なんです。今七十歳、もうすぐ七十一歳ですけど……。僕の祖父があなたのことを日記に残していて、何か手紙を貰ったのに、失念してしまったとの記事があったもんで、気になって……、と、お伝えしたら、五十一年前に書いた手紙のことを話してくださいました。その時、『まあ、お祖父さまに声がそっくりですわね』って、驚いていましたがね、本人とは思えないでしょうから……」

「ひどい、それって、詐欺じゃない。手紙の内容を知っていて、賭けをするなんて、危うくマンションを買わされるところだったわ」

「はははは、賭けは、遼子さんから言い出したんですよ。それに、僕がルパン顔負けのペテン師だってことは、五十一年前から知っていたはずですよ……」

       *

「あなたがルパンの話をしたので思い出したわ」

 デザートが運ばれてきて、テラミスを食べながら遼子が話題を変えた。

「何を思い出したのですか?」と、小林君も小さなフォークを使いながら尋ねた。

「いえね、甥の貴義がね、あなたのことを、ルパンの生まれ変わりか、さもなくば、ルパン以上の才能の持ち主だ、っていうのよ」

「僕がルパンの?」

「そう、例の五十一年間保管されていたという、封書の件よ」

「ああ、あれ、絶対、解けない謎でしょうね?」

「そう、あれはあなたが仕組んだ、最大のペテンだもの」

「ペテン?違いますよ。あれは足跡(そくせき)です。僕が確かに過去へ行ったという、ね」

「まあ、そういうことにしておくわ。でも、それを知らない人間にとっては、理解不能なものよ。古代の遺跡から出てきた、オーパーツみたいなもの。あってはならないものなのよ」

「それで、そのオーパーツについて、叔父さん=貴義さんはなんて言ったんですか?」

「その謎を僕は解明した、って言うのよ。それで、あなたがルパンの生まれ変わりなんじゃあないかって、言い出したのよ」

「結論が飛躍しすぎていて、よく理解できないのですがね?」

「うん、順を追って話すわね。まず、あの封筒の話からよ」

 そう言って遼子は、貴義との会話を小林君に伝えるのだった。

「あの封筒は、古臭そうに見えますが、最近作られたものです」

 貴義は、名探偵が真相を解き明かす時のように、腕を背中に回し、事務所の狭いスペース歩きながら、そう話を切り出したのだ。その話を遼子女史は壁際のソファーに、職員二名が、パソコンの置かれた事務机の前の椅子に座って、拝聴しているのである。

「何故なら!」

 と言って、人差指を空中に立てる。「一(ひとつ)」と言いたいらしい。

「五十一年前、このビルは存在しなかった」

 このビルとは、彼らがいる、弁護士事務所の入居しているビルである。オーナーは遼子女史である。

「住所でさえ、住所表示変更があり、この住所は五十一年前には存在していない。加えて、当時には、郵便番号なんてものは、ありはしない。この三つから、この封筒は少なくても、去年の郵便料金改定が発表されたのちに作られたものである。百六円の切手がそれを物語っている。ただし、切手は当時発売されていた、古い切手を使用しているがね。それを考慮すると、この封筒はねつ造されたものという結論になるね」

 彼は、白川正臣宛に届いた、配達日指定の茶封筒を片手に掲げてそう言い切った。

「所長、でも、その封筒は、中身と一緒に、東京中央郵便局の耐火金庫の中に、局長引継ぎの重要書類として、代々伝わったものなのでしょう?どうやって、ねつ造して、差し替えることができたんですか?魔術師ですか?」

 そう尋ねたのは、この弁護士事務所の職員、小林君の兄にあたり、現在は所長の白川貴義の養子となっている、正臣である。

「犯人は、君の弟、正芳君だ」

「ええっ?芳君が?無理ですよ。彼は高知に住んでいるんですから……」

「ああ、直接は無理だね。だから、共犯者がいるはずだ」

「共犯者?これは、事件なんですか?」

「わたしにとってはね、大事件だよ。あってはならないことだが、現実に起こっている。五十一年大切に保管されていたものが、我々の手に渡る前に差し替えられたのだからね。これを事件と言わずに、何を事件というのかね?」

「いえ、その……」

 正臣は義父に反論はできなかった。

「その共犯者って、わたしを指して言っているのかしら?」

 正臣の傍らで、ソファーに腰を深く沈めて話を聞いていた、貴義の叔母、遼子が微笑みを浮かべ、そう尋ねた。

「ええ、あの少年の共犯者となれば、叔母さんだけですが……」

「無理ですよ。遼子おばさんに、差し替えることは不可能です」

「彼女の人脈を使えば、或いは……、と、思ったんだが、その人脈は、もう過去のものだ。正臣君の指摘どおり、叔母さんには不可能だね。だが、わたしは真相をつかんだのだよ。これしかありえないって、仮説をね」

「そ、それはどういう……?」

「まあ、訊き給え。僕が閃いたのは、この封筒がいつ差し替えられたのか、差し替えられる可能性があったのはいつだったかを考えたんだよ」

「差し替えられる時間があったんですか?極秘文書ですよ。弟は存在すら知らないはずですが……」

「いや、正芳君はお祖父さんの日記を読んでいたんだよ。だから、文書の内容も把握していて、封筒の形態も、知っていたんだ。ひょっとしたら、お祖父さんの指令だったのかもしれんぞ」

「ええっ?亡くなった祖父の指令?」

「ああ、君のお祖父さんは、元刑事、しかも、この事件に興味を抱いて、周辺の捜査をしているし、富岡の犯行だと、ほぼ、断定している。ただ事情があって、発表できなかった。そこで、もし、岡部が再審請求でもしたら、自分の調査結果を表沙汰にして欲しいと、書き残していたんだろうよ」

「それを僕ではなく、弟の正芳に?」

「正芳君は、お祖父さんに溺愛されていたそうじゃあないか?何処かに、自分と通じるものがあったんだろうよ。まあ、そこはいい。正芳君はお祖父さんの遺志を継いで、あの手紙を差し替えることにしたんだ」

「で、でも、不可能ですよ。たとえあいつが、東京にいたとしても……」

「不可能を可能にしたんだ。彼は本当にルパンの生まれ変わりかもしれん。さもなくば、ルパン以上の才能を持った少年だ」

「ル、ルパンでも不可能でしょう?」

「いや、ルパンなら、ルパンと同じかそれ以上の才能を持っている人物なら、可能なんだ。ある方法でね……」

「ある方法とは?」

「いいかね、封書を差し替えできる時間帯は何時か?金庫内では不可能、なんせ、五十一年間の局長が封印したハンコが座っているんだ。それは偽造できない。となると、封印が解かれた後からとなるよね?」

「ええ、そうでしょうね、封印された封筒の中の封筒を差し替えるのは、種のない奇術では不可能ですから……」

「としたらだ、答えは一つ。封印が解かれて、この事務所に運ばれる間に、封筒は差し替えられたんだよ」

「ええっ?あの郵便配達員が?」

「それか、あの郵便配達員の目をごまかして、すり替えたかだが、それだと、住所が一致していないことに彼が気付くはずだ。だから、あの郵便配達員が、正芳君自身だったか、或いは、強力な助っ人、だったかだよ」

「ふふふ、面白い仮説だけど、穴だらけよ」

 それまで、黙って話に耳を傾けていた遼子女史が急に言葉を発した。

「穴だらけ?」

「ええ、まず、封筒の裏をごらんなさい。封印の代わりに、赤い印があるでしょう?封を元に戻して、封印の形を確かめてごらんなさい」

 遼子女史の言葉に、貴義は開いていた封筒を元のように閉じる。

「どう?赤い印は何に見える?」

「薄れてはいますが、唇、口紅の跡ですね」

「そうよ、キスマーク、わたしが若い時のものよ」

「ええっ?これ、叔母さんのキスマークなんですか?」

「そうよ、それに、宛名は当時から、『白川弁護士事務所内、白川正臣様』になっていたのよ。住所ははっきり覚えてはないけど、郵便番号も書いてあったわ。それは五十一年前、わたしが封をした封筒に間違いないわ。ルパンといえども、ねつ造は不可能なのよ」

「そ、そんなバカな……」

「ねえ、貴義さん、あなた『ナミヤ雑貨店の奇蹟』って、小説ご存じない?映画化もされた、東野圭吾の小説よ」

「知っていますよ。名作ですから」

「あれと同じ現象が起こったとは思えないかしら?つまり、現在から過去へ、お手紙が届けられたって……」

「そ、そんな、あれは空想小説ですよ。ファンタジーだ。現実にそんなことが起きるわけがない」

 貴義は興奮した声でそう言った後、額に右手を当て、『考える人』となった。

「そうか、もうひとりいたんだ。共犯者というか、この封書のねつ造のシナリオを描いた人物が……」

「ええっ?まだいるんですか、登場人物が?」

 と、正臣が驚愕とウンザリした気持ちを込めて、続きを促した。

「ああ、この封筒に叔母さんのキスマークが付けられているなら、結論はひとつ、封筒は当初からふたつ作られていたんだ。ひとつは、郵便局に、もうひとつは、その主犯格の男性が保管していた」

「主犯格の男性?僕の祖父ってことですか?亡くなった……」

「いや、団戸礼次氏ではない。もうひとり、助手と名乗る少年がいたんじゃないかね?確か、小林芳夫、ふざけた名前だ、明智小五郎の助手、少年探偵団の団長と同姓同名だなんてね。オの字は違うようだが……」

「ああ、一時、アルバイトの学生がいましたね。でも、彼は岡部の刑が確定する前に辞めていますよ」

「正臣君、君には知らせてはいなかったがね、その小林という学生は、この遼子叔母さんの恋人なんだよ。いや、驚くのも無理はないがね、歳が一回りも違うのだが、まあ、このとおり、叔母は美人だ、当時はもっと美しかった。世間知らずの学生が一目ぼれするほどのね」

「つまり、大叔母さんと、その学生――小林芳夫と名乗る――がこの封書のねつ造を計画したってことですね?」

「計画だけじゃあないよ、実行したのもおそらく彼だ。小林と名乗る男、今生きていたら、七十歳か……」

「で、でもあの郵便配達人はどう見ても三十代でしたよ」

「君、僕でも、間違いはあるさ。あの郵便配達人は『シロ』だ」

「でも、すり替えは、彼しかできないと……」

「いや、もうひとりできる者がいる」

「誰ですか?」

「郵便局の局長だよ。小林という学生が今、七十歳、局長に変装して、金庫内の封印された封筒を開け、その時、この封筒を差し替えた。見事というほかない。かの、アルセーヌ・ルパンが『8・1・3』において、『ルノルマン』に成りすましたのと同じだよ……」

       *

「ははは、ルノルマン刑事部長、それはすごい発想ですね。現、東京中央郵便局局長に小林君が成りすましていた。貴義叔父さんは小説家になったほうがよかったんじゃあないですかね」

 遼子の話の途中であったが、小林君(=正芳)は思わず感想を述べた。

「まあ、突飛な考えだとは思うわ。でも、あなたが、その小林君で、過去に飛んで行ったなんて、そっちのほうが信じてもらえないでしょう?」

「確かに……、遼子さんの、『手紙だけが時空を越える』が、限界でしょうね。それで?話はそこまでで終わったんですか?あまり、貴義叔父さんをいじめてはかわいそうですよ。彼の大胆な推測のおかげで、時空の歪み――パラドックス――が解消できたようなものですから、小林君という架空の人物が、存在するという結論でね」

「まあ、それはそうだけど、封筒については、結論は出せない話になったから、わたしは帰ることにして、最後にこう言ったのよ」

「何て、言ったのです?」

「その封筒の指紋を調べてごらんなさい、ってね」

「指紋を?」

「そう、封筒には何人かの指紋がついているはず。まず、あなたと礼次とわたし。それと、当時の郵便局員、それと現在の郵便局員よ」

「そうなりますね」

「ねつ造されたもの、差し替えられたものなら、当時の郵便局員の指紋はないはず」

「それはそうですが、当時の郵便局長の指紋なんて照合できませんよ。たぶん、お亡くなりになっているでしょうから」

「まあ、そこまではいいのよ。決定的なことを言ったのよ」

「決定的なこと?」

「指紋は重なっているはず。そしたら、後から触った人の指紋が、前の人の指紋を消すようについているはずよね?」

「ええ、細工なしに触れば、当然そうなりますよね」

「あなたの指紋、つまり、貴義がいう、主犯格の男性の指紋は一番先についている。だから、何人もの指紋の一番下になっているはずだって……。今の局長が、その主犯格の男性だとしたら、その指紋は、一番上か、二番目か、正臣も貴義も封筒に極力指紋を付けないように処理をしたから、自分たちの指紋は残っていないはずなのよ。そう言ったら、貴義は何も言えなくなって、目を丸くしていたわ。わたしはそのまま帰ったから、結果は知らないけれど、多分、彼のことだから、知り合いの刑事に頼んで、指紋の鑑定を依頼したはずよ。結果を知らせてこないところを見ると……、頭を抱えているのね。新しい、仮説が思い浮かばなくてね……」

 遼子はそう言って、残っていた『テラミス』を口に運んだ。モナリザのような謎の笑みを浮かべながら……。


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