第一の章 青い眼の少女事件
1
「所長、どうやら、事件の匂いがしますね」
小林少年が助手として働き出して、一週間程した、お昼前である。探偵社は暇である。冷やかしの相談は、日に二、三件はあるが、どれも、事件性はないものばかり。所長は、口髭の形を整えてばかりいる。
「何だね、事件の匂いって?」
所長の椅子に身体を埋め、爪をといでいる、所長の礼次が不思議そうに尋ねる。
小林君は、今とどいた、郵便物を仕分けているのである。電気代、電話代の請求書。それに混じって、白い、ありふれた封書があった。それを、彼が手にしたところである。
「その封筒、中を見ないで、事件の依頼と解るのかね?」
「ええ、依頼かどうかは、確定できませんが、脅迫状かもしれませんから。ただ、差出人の名前がなく、宛名は、定規を当てたような、四角い文字。筆跡を誤魔化すため。ありふれた、安物封筒。これは、探偵事務所に届く、典体的な事件の発生する、手紙ですよ」
「ほう、早く開けてみたまえ、君の勘が当たっていることを祈るよ。久しぶりの、事件だからね」
小林少年が、大きな裁縫ばさみを使って、封筒の端を丁寧に切って行く。中には、これもありふれた、便箋が一枚。三枚に折り畳まれていた。
あて名書きと同じように、直線的な文字。但し、定規を当てたのではなく、筆跡を誤魔化すためだけの、書き方である。したがって、かえって読み辛い。
『拝啓、棒網探偵社殿
貴殿が興味を抱きそうな事件が起こりつつあります。ある、若い令嬢の身に、危険が迫っております。この二カ月の間に、三度、事故を装った事案が発生いたしております。
緊急を要します。何卒、至急、当地へお越しください。
長野県諏訪郡××村の教会においでていただければ、詳細をお教えできると思います。このような手紙を書いたことが、犯人に知れると、犯行を急ぐ懸念があり、詳細については、書くことができません。犯人は、常に、私どもを見張っております。何卒、ご出馬の程、お願いいたします。
敬具』
そして、同封されているのは、「あずさ号」の切符が二枚である。
「ほほう、興味深い手紙ですなぁ。しかも、切符付き。これは、どうしても、出馬しなければなりませんなぁ。
小林君、あずさ号の出発は?」
小林少年が、時刻表をめくり、東京駅発の時刻を教える。
「では、あまり時間がない。信州地区の地図、忘れずに。それと、わたしは警視庁の知人を通じて、長野県警の刑事課へ紹介を入れてもらいます。今後の活動をスムーズにするためにね」
さあ、活動開始、と、椅子から立ち上がる。
小林少年は、身の回りの品をスポーツバッグに詰め込む。
団戸所長は、麻の夏用のスーツに、中折れ帽を被っている。
「ルパン、というより、ポアロだな、どうみても……」
と、小林君は思った。
2
「こんな田舎にも、教会があるんだねぇ」
ハンカチで汗を拭きながら、礼次が小林君に言う。
中央本線上諏訪駅で乗り換え、最寄りの駅から、ハイヤーを雇って、山道を登って来たのである。
諏訪湖は見えないが、アルプスの山々が見渡せる、かなり、標高の高い、盆地の村である。仮に、村の名前を、岩谷村としておこう。人家はまばら、いや、教会は村はずれにあり、木々に囲まれたその玄関前からは、人家は見えないのである。
「教会の場所は解りましたが、ホテルや旅館はありそうもないですよ。今夜、何処に泊るのです?下手したら、野宿、ですよ」
「まあ、何とかなるよ。この教会でもいいし、田舎のひとは親切だから、納屋の隅にでも泊めてもらえるさ」
そろそろ、夕闇が迫る時刻であった。麓の町の旅館か、少し離れてはいるが温泉郷もある。どちらかに泊って、明日、訪ねる、という、選択もあった。しかし、事件の詳細を早く知りたくて、強行軍を選んだのである。
「取り敢えず、教会へ入ってみよう。牧師さんか、使用人がいるかもしれないから」
礼次はそういって、鉄の格子状の門を開ける。鍵は掛かっていない。
雑草が、伸び始めている、玄関口までの石畳をあるき、教会特有の扉を開く。こちらも、無施錠、である。
教会は、規模が小さい。扉の向こうは、礼拝堂である。木製の椅子が、六列ほど、五十人が座れる程度である。正面に祭壇、牧師の説教台、その奥に、マリア像が安置されている。窓には、ステンドグラスも施されていた。
「ごめんください」
と、小林君が大きな声をあげてみる。
しばらくして、祭壇脇の扉から、牧師姿の、初老の男性が現れた。
「どちらさまですかな?」
と、バリトンの声で、尋ねてくる。
「旅の者ですが、道に迷いまして、教会の屋根を見つけて、お訪ねしたのですが、今夜一晩、泊めてもらえませんか?」
「旅のお方?登山、でもなさそうですなぁ、そのいでたちは?」
「ええ、のんきな、親子の旅を計画して、あてなどなく、彷徨っていまして、ここは、岩谷村のはずれでしょうか?」
「左様です。岩谷村の集落からは、少し、山を登ったところですが、まあ、お困りのようだ。迷える子羊、ではないようだが、狭い所でよろしければ、どうぞ、この裏手に、わたしの住まい、牧師館、と言うほどではない、アバラ小屋がありますから、雑魚寝でよろしければ、どうぞ……」
岩谷村は諏訪湖の観光地からは外れているが、街道の途中にあり、少し道を間違えれば、迷い込む可能性もあるのである。岩谷村から無理をして、山越えをしようとすれば、この教会の付近を通る、そういうことも偶にある。小林君の適当な嘘も、こうして、通用したのである。
教会の裏手、山の斜面沿いに、小屋のような建物があった。丸太を組み合わせて作った、ログハウスである。
「牧師さまはここに、おひとりで?」
と、小林君が尋ねる。
「ええ、半分、隠匿者ですよ。この教会は、明治の頃、建てられたのですが、前の牧師さんが亡くなられて、戦争もあって、しばらく、無人だったのです。それで、わたしが、長野の教会を辞めて、こちらへ移ってきました。牧師館はボロボロで、とても住めなかったので、取り壊して、この小屋を建てたのですよ」
まあ、どうぞ、ご遠慮なく、と、客の二人を、ハウスの中に案内する。
中は、土間、と広いひと間の板の間、そこに、囲炉裏を切ってある。田舎の日本家屋の感じが強い。
囲炉裏の中で、鮎が串に刺され、焼かれている。夕食の途中だったようだ。
「何もありませんが、鮎が焼けています。山菜と、漬物、白米は村の者が届けてくれます。一緒に食べましょう。少しなら、酒も用意できますよ」
牧師――名前を庄野方好と名乗った――の言葉に甘えて、荷物を部屋の隅に置き、囲炉裏の周りに腰を下ろす。
礼次は遠慮がちに、湯呑での冷酒をあおる。小林君は、鮎の焼き物と、山菜、沢庵でご飯をごちそうになる。
食事が終わって、お茶を頂きながら、世間話を始める頃、
「実は、我々、道に迷った、と、言うのは、口実でして、このような、手紙を受け取って、こちらを訪ねて来たのです」
と、小林君が、例の、捜査の依頼の手紙を差し出す。この牧師が、悪人ではなさそうだと判断したのである。あるいは、差出人かもしれないのである。
手渡された手紙を不思議そうに眺めながら、
「読みにくい文字ですなぁ。金釘流、とでもいうものですか?」
と、牧師が言った。
「わざとです、筆跡を誤魔化すためにね」
「そうすると、あなた方は、この手紙の受取人、何とお読みしますかな?ボウアミ探偵社?の方というわけですな?そして、この指定された、教会、というのが、この場所である、と、そういうことですかな?」
「そのとおりです。で、牧師さま、何かお心当たりはございませんか?このような手紙を書いた人物、あるいは、そこに書かれている、事件の前触れのような出来事、何でもよろしいのですが……」
質問をしているのは、小林君である。礼次は黙って、牧師の反応を覗っている。
「わたしではありませんよ」
と、強い口調で、まず、差出人ではないことを告げる。
瞳が泳いでいない。嘘ではなさそうだ、と、礼次は判断した。
「ただ、ここに書かれている、事件の前兆のような出来事なら、多分、と思い当たることがあります」
「ほう、それはどういった……?」
「この村の少し外れに、洋館が建っています。それほど古くはない建物ですが、外観は、明治時代の建物のような……、そう、時計台というか、屋根に大きな時計が備え付けてあります。村人は『時計屋敷』と言っていますがね」
「それで?そこに何かあるのですか?まさか、幽霊が出るとか……」
「いやいや、幽霊騒ぎなどありませんよ。そこには、ある女性が住んでいるんですがね。その女性の周りで、ちょっと、危険な事故が続けて起きているらしいのです。実際に私が見たり、本人から訊いた話ではないのですが、その屋敷に出入りしている、庭師の男が相談に来ましてね。警察に言った方がいいのではと……」
「警察に?ということは、事故でなく、事件性が疑われるってことですか?」
「ええ、その庭師はそう感じているらしいのです」
「その事故とやら、詳しくお話ししていただけますか?」
「はい、では……」
牧師はそこで、湯呑のお茶を一口飲み、その時計屋敷に住む女性と、その身の回りで発生した、事故について、話し始めた。
*
「その屋敷には、マリアという、十九歳の娘が住んでいます。日米の混血児だそうで、ブロンズの髪と青い眼、父親の血を濃くひいたと思われる、日本人離れをした容姿の娘です。つまり、お父さまがアメリカ人で空軍のパイロット、確か、ジェイムスさんとかおっしゃったはずです。お母さまが日本人でこの近くのご出身の方だそうです。もう故人になっておられますが……」
牧師の話は長々と続くが、纏めると次のようになる。
アメリカ空軍所属のジェイムスが横須賀基地にいた頃、マリアの母になる女性と知り合い、結婚、翌年、マリアが誕生する。そこで、ジェイムスは家族の為に、この地に土地を購入し、洋館を建てたのである。その洋館が完成する前後に、母親は他界。そして、朝鮮戦争が勃発し、ジェイムスは従軍することになる。マリアは知人に預けられ、成長し、十八になって、父の残したその洋館――時計屋敷――に引っ越してきたのである。
ジェイムスは朝鮮戦争の最中、乗っていた戦闘機が撃墜され、生死不明とのことである。
マリアは天涯孤独の身。今屋敷にいるのは、マリアの他に、執事のトーマス、家政婦のヘレンのアメリカ人夫婦――日本語は堪能であるらしい――と、メイドとして雇い入れた、サクラという、若い女性。運転手兼雑用係で、リーという、中国系のアメリカ人で中年の男。そして、庭の手入れに最近雇った、慎次郎という、若い男が住み込みで仕事をしている。
さて、牧師の話は事故についてへ移って行く。
最初の事故は、一ヶ月半ほど前のこと、マリアが散歩中、散歩道の山肌が崩れ、大きな岩が転げ落ちてきた。間一髪ではなかったが、かなり近くに落ちて来たらしく、真っ蒼な顔をして、帰って来たと、庭師――慎次郎――は話したという。
その次の事故――事件――はそれから、半月後、やはり散歩の途中である。近所で飼われている猟犬――ポインター種だそうだ――が繋いであったロープが外れ、丁度通りがかった、マリアに襲いかかったという。幸い、飼い主が近くにいて、事なきを得たそうであるが、足や手に咬み傷を負ったそうであ。
そして最後の事故――もう事件というべき事柄――が起きたのは、一週間前、夕食のスープの味がおかしく、マリアはすぐに吐き出してしまったが、そのスープに、ヒ素が混入していたらしいと、慎次郎は言ったのである。実際、ヒ素が入っていたかどうかは、調べていない――事件として報告されていない――ので、確定的ではないのである。
つまり、この一ケ月半の間に、三度、命に係わる、事故、或いは事件――殺人未遂――がマリアの身に起きているのである。
「それで、警察には、相談したのですか?」
と、小林君が尋ねた。
「いえ、慎次郎から話を訊いた時は、単なる偶然だと思いました。
まず、崖崩れですが、その日の前に大雨が降って、確かに地盤が緩んでいたのです。崖崩れが起きてもおかしくなかったのです。
猟犬も咬みつきはしましたが、元来、人懐っこい性格の犬で、じゃれた、程度のものでしょう。マリアが驚いて、振り払ったせいで、咬みつく結果になったものと思います」
「でも、ヒ素は?明らかに、毒物ですよね?」
「ヒ素かどうか、解ったものじゃない。ただ、味がおかしかっただけですよ。毒ではない、何かが混入して、味を変えていたんでしょう。だって、マリア自身が、怯えている様子がないですし、マリアを殺したいなんて、そんな動機のある人間は居りませんよ」
「ほう、マリアさんは、その事故について、全く不審に思っていないのですね?」
「そのようですね。わたしも気になって、その後で、さりげなくマリアに話しかけたのですが、普段と変わらず、明るい表情でしたよ。おそらく、慎次郎の思い過し、そうだ、あの男、推理小説が大好きだそうですから、きっと、誰かの小説を読んだんではないでしょうかね」
「ええ、ルパン物に似た話があります。『ルパンの告白』という、短編集の中に『彷徨(さまよ)う死神』という物語が……」
3
「小林君、昨晩、君が言っていた『彷徨う死神』という、ルパン物だがね。わたしの記憶では、『怪盗紳士ルパン』の中の一編だった気がするんだが……」
翌朝、牧師に礼を言って、教会を辞した、団戸礼次と小林君は、岩谷村の集落に向かっている。その道すがら、礼次が何気なく尋ねたのである。
「ああ、所長はハヤカワのポケ・ミスを読まれたんですね?元々、ルブランのルパン物は雑誌『ジュ・セ・トゥ』に載ったもので、発表順でいくと、かの名作『赤い絹の肩掛け』の次の作品です。ですから、当初は『ルパンの告白』という、短編集に収録されたのですが、短編集は後に何種類かの編集された本が出ていて、どの本を日本語版の底本にするかによって、違ってくるんです。ハヤカワは後に組み替えをされた、『怪盗紳士』を底本にしているみたいですね。それで、本来『怪盗紳士』に収録されていた『黒真珠』などが割愛されています」
「ほう、小林君、君もたいした『ルパンマニア』だねぇ」
「当たり前ですよ、所長の部下ですから」
「はっはっは、いや、わたし以上だ。
ところで、これからどうする?」
「もちろん、時計屋敷に行くに決ってます。例の招待状というか、事件の依頼人というか、が、牧師さんでないとしたら、その人物を突き止める必要があるでしょう?」
「いや、差出人は解ったよ」
「えっ?所長は解ったのですか?」
「ああ、牧師に事件性があると、訴えた、庭師の男に決まっている。牧師が、取り合わなかったので、わたしの処へ手紙を書いたんだよ」
「ええ、可能性はありますね。でも、違うと思いますよ」
「違う?何故?じゃあ、君は誰だと思うんだね?」
「誰かはまだ確定できません。ただ、庭師の男なら、筆跡を誤魔化したり、匿名では出さないと思います。そして、あの切符……」
「切符がどうした?」
「あずさ号の切符が二枚だったでしょう?つまり、所長と部下の分。差出人はかなり、我が『棒網探偵社』に詳しい者です。だって、助手の僕が雇われたのは、ほんの一週間前ですからね。庭師の男が、そこまで調べて、依頼してくるでしょうか……?」
*
二人は会話を続けながら、村の外れに差し掛かった。そこにはせせらぎが、小さな滝のように村を流れる岩谷川に流れ落ちる場所である。そこに、木の橋がかかっている。
ちょうど、二人がその橋にさしかかる時、反対側の村の方面から、一台の自転車が近付いてきた。その自転車乗りに視線が合った瞬間、二人は同時に足を止めてしまったのである。
朝の陽光に輝く、金色の髪、その髪をポニーテールに纏めて、風になびかせている。まだ若い少女のようである。真っ白いブラウスと、ブルージーンのパンツ姿は、テレビドラマの「アニーよ銃をとれ」の主人公のようであった。
自転車が木橋の上を走り、中ほどまで来た、その時、
「あっ、あぶない」
と、小林君が、肩にかけていた、スポーツバッグを地面に放り投げ、急に駆け出した。
礼次はあっけにとられて、突っ立っていた。
自転車の前輪が、橋の板が壊れていたのか、隙間にはまって、急ブレーキがかかったように、車体がバランスを崩してしまったのである。ハンドルを握っていた少女の身体が宙を舞いそうになった。橋の下は急流である。大きな岩が顔をのぞかせている。橋から転落すれば……、大怪我で済んでいたかどうか……。
小林君の両手が少女の右腋に延びて、橋から飛び出そうだった、少女の身体を繋ぎとめた。自転車だけが川面に落ちていき、岩とぶつかる音が、水音と重なるように聞こえた。
「だ、大丈夫か?け、怪我は……?」
礼次が慌てて、橋の上に倒れ込んでいる、少年と少女に駆け寄ってくる。
「僕は平気です、お嬢さんは?」
小林君は何事もなかったように立ち上がり、膝についた埃を払う仕草をした。
小林君が右手を差し出すと、橋の上に座り込んでいた金髪の少女が、やっと我に返ったように、少し蒼ざめていた、透き通るような白い肌に朱を浮かべ、その手に両手を差し出した。小林君と視線が合う。その瞳は、晴れ渡った空のような明るいブルーに輝いていた。
「どうもありがとう。危ない処を……。大丈夫、何処も怪我などしていないみたいです。あっ、ちょっと、肘を擦りむいたかな?血がにじんでいるけど、大丈夫です。本当にありがとうございました」
金髪の少女から発せられる言葉は、完全な日本語であった。容姿は先ほど述べたように、金髪、碧眼。肌は白く、鼻は高く、口はやや大きめである。完全に日本人というより、アメリカの西部劇の登場人物である。高い鼻の周りには、そばかすらしきものが浮かんでいる。瞳は大きいが、やや垂れ目である。アメリカ人の美人の基準には詳しくないが、おそらく、十人並みの容姿であろう。愛嬌のある顔といった方が適格と思われる。
小林君の右手にぶら下がるようにして、身体を起こした少女は、ジーンズの埃を払い、
「あのう、失礼ですが、この辺りの方ではないですね?旅のお方?」
と尋ねた。
「あっ、ごめんなさい、わたし、自分のことも言わずに……。わたし、マリアといいます。この近くの住人です。村の人は『時計屋敷』と呼んでいますが、村はずれの洋館に暮らしています。もし、よろしければ、お茶でも……、お急ぎのご用がなければですけど……」
「マリアさんと仰いますか?日本語がお上手ですが、アメリカの方?それとも……」
「ハーフです。日本語なら『合いの児』というのでしょうか?父がアメリカ人、母が日本人です。見た目は、父に似て……」
「とても、きれいな眼をしている。吸い込まれそうな……」
「いやですわ、はずかしい……」
「こ、これは失礼。わたしどもは、気ままな旅をしている者です。昨晩は道に迷って、この先の教会の牧師さんにお世話になってしまいました。急ぎの旅ではないし……、お邪魔でなければ、そのお屋敷も拝見できますか?この辺りでは珍しい、明治時代風の洋館だそうですね?昨晩、牧師さんからうかがいましたよ」
「あら、そんなお話を?でも、そんなに古い建物ではございませんのよ。建てたのは、戦後のこと。まだ、十数年。外見だけ、古臭くしているんです」
さあ、ご案内します。と、少女は橋を引き返す方向へ歩み始めた。川に転落した自転車は、後ほど、屋敷の者に引き揚げさせると、言った。
「これは、巧くいったね。我々の目的地へご案内してくれるとは……」
放り投げていた、スポーツバッグを肩にかけて、元の橋の上に戻って来た小林君に、礼次が小声でささやいた。
「これ、偶然でしょうか?それと、この橋の壊れ方、作為がありますよ。ほら、板の切れ目が鋸で切ったような跡が……」
4
「これは素敵な時計台ですね」
村の集落から、少し外れた小高い丘に建っている、古めかしい煉瓦造りのように、塀や壁を装飾した、二階建の西洋館。一部、三階建てになっており、そこが時計塔になっているのである。英国のビッグ・ベンを小さくしたような、ローマ数字の文字盤をもった時計が、今まさに、九時を告げる鐘の音を鳴らし始めた。
「父の趣味ですわ。悪趣味かもしれませんが……」
小林君の言葉に、マリアが微笑みながらそう言うと、
「いえいえ、この村の景色に相応しい、荘厳な音色ですなぁ」
と、礼次が感慨深げに言った。
アーチ型の鉄製の門を押しあけると、カウベルのような音が、時計の鐘の音に混じって聞こえた。門についているのでなく、何処か外の処に設置された呼び鈴が鳴る仕掛けになっているようである。
洋館の玄関のドアが開き、マリアと同じ年ごろの女性が、駆け足で近づいてくる。こちらは、日本人の顔をしているが、どこか、西洋人の面影もある。メイドであろう、白いフリルのついたエプロン姿であった。
「お嬢様、随分遅かったので心配しておりました。自転車は……?あっ、お客様でいらっしゃいますか?」
「サクラ、こちらの方に、危なく大怪我をするところを、お助けいただいたの。お茶とお菓子の用意をお願いね。応接室には、わたしがご案内するから」
マリアの言葉に、サクラと呼ばれたメイドは軽く会釈をした後、屋敷内に取って返した。
「今のは、メイドさんですか?ご家族は?」
と、ある程度は牧師から訊き及んでいる、家族構成について、小林君はさり気なく尋ねた。
「家族は居りません。使用人というか、同居している者は数人居ります。後ほど紹介いたしますわ。よろしければ、何日か、ご滞在してください。ひとりで、こんな田舎暮らし、都会の珍しいお話を訊かせていただきたいわ。それに、ここからなら、諏訪湖にも、松本にもそんなに遠くございませんから、信州をゆっくりご堪能できると思いますから……」
「そうですなぁ、あてがある訳でもなし、ご迷惑でなければ、二、三日ご厄介になりますかな。いや、宿泊代金はお支払いしますよ」
「いけません、家はホテルではございません。こちらがお願いするのですから、お代などと仰らず、おかまいない間、ご滞在してくださいませ」
礼次の言葉をそう言って遮ったマリアはどうぞ、と言って、玄関ロビーから、右手の部屋にふたりを案内した。
その部屋は二十畳ほどの長方形の部屋。中庭に面した側にテラスがあり、大きな開き窓がある。窓の反対側の壁際には、煉瓦造りの暖炉が切ってある。部屋の中央には、大きなテーブル。そこに、ソファーが向かい合うように置かれていた。
そのソファーに向かい合うように、マリアと礼次、小林君が腰を降ろすと、すぐにドアがノックされ、先ほどのメイドとは違う、中年の赤毛の西洋人の女性が入って来た。
「お嬢様、今、紅茶をご用意いたしておりますが、他にご用はございませんか?」
アルトの声ではあるが、はっきりとした日本語であった。
「ヘレン、こちらのお客様、しばらく、屋敷にご滞在していただくことになりました。二階の客室を準備しておいて。南側の……」
「かしこまりました」
ヘレンと呼ばれた家政婦らしき中年女性は、マリアの指図に深く一礼をして、部屋を後にする。それと入れ違うように、メイドのサクラがお盆を提げてきて、紅茶の入ったポットと、花柄の紅茶茶碗、角砂糖の入ったポット、ミルクのポット、クッキーの入った器をテーブルの上に並べる。
少しギコチないその仕草に、メイド業務が板についていない、まだ、初級だな、と、礼次は思った。
「ところで、マリアさまは、おひとりでお住まいと仰いましたが、ご両親は……?あるいはご兄弟とか、いらっしゃらないのですか?」
紅茶に角砂糖をひとつ入れ、スプーンで掻きまわしながら、小林君が尋ねた。
「兄弟は居りません。母も私が幼い時分に亡くなりました。父は……」
マリヤはそこで言葉を区切り、紅茶を口に運んだ。
「母国へでもお帰りですか?」
牧師から、その辺りも訊いているのだが、知らないふりをして、小林君がマリヤの言葉を引き出すような質問をした。
「いえ、先の、朝鮮での戦争に従軍して……、行方不明ですの。生死不明。操縦していた戦闘機が墜落したようで……。ただ、その墜落を目撃した同僚の飛行機のパイロットさんが仰るには、パラシュートが開いたのを見たとのことで、墜落死はしていないようです。ただ、その後の行方は全く解っていません。捕虜になったのか、戦死したのか……」
「ほほう、死亡が確定していない。ならば、ご無事ですよ。おそらく、北朝鮮軍の捕虜になったのでしょう」
と、礼次がマリアを気遣う言葉を発する。
「でも、捕虜の方で、帰還された方も居りますのに、父のことは解らないのです」
「それはご心配ですね。停戦が発令されて、相当な年数が経ちますからね。でも、死亡の通知もないなら、何らかの理由で帰還できないまま、北朝鮮に残っておられるんでしょう。国交が回復すれば、帰って来られますよ」
「そうそう、小林の言うとおり、気長にお待ちなさい。きっと、ご無事で帰られる日がきます」
「でも、帰還できない理由、って何なのでしょう?」
「それは……、お怪我とか、ご病気とか、お身体の状態が考えられますが……」
「それが、噂なのですが、父は、寝返ったのではないかと……」
「寝返る?」
「そう、アメリカ軍の機密、暗号とかの情報を漏らす代わりに、身の安全を図ったのではと……、それで、帰るに還れず、結局、亡命したのではないかと……」
「そ、それは何処からの情報なのです?噂と仰いましたが……」
「はい、確かな情報ではありません。帰還兵の、父の部下だった人の憶測にすぎないと思います。父は厳格な人と訊いています。決して母国を裏切る行為をするとは思いません。そう、父は日本の『ブシドウ』を敬愛して居りましたから……」
*
「お嬢様、弁護士の溝塚さまが、ご面会いたしたいと、おいででございます」
ドアがノックされ、執事姿の頭髪が薄くなった、青い眼の中年がそう言った。そのすぐ後ろから、中折れ帽を被ったグレーのスーツ姿の眼鏡にちょび髭、やや猫背の小男が愛想笑いを浮かべながら部屋に入って来た。この屋敷に来て、やっと、日本人らしい日本人の登場である。
「やあやあ、どうもどうも、朝早くにすんまへんなぁ。忙しうてね。例のお話の続きですワ、ありゃ、お客さんでっか?こりゃ、すまんこって……」
完全なる、関西言葉を発しながら、言葉とは裏腹に、遠慮することもなく、帽子を執事の方に預けると、予備のソファーを勝手に抱えてきて、マリアたちの側面に腰を降ろした。
「あっ、こちら、父の代からの懇意の弁護士さんで、溝塚さま……」
と、マリアが苦笑をしながら、礼次たちに紹介する。
「どうも、弁護士の溝塚太一でござります。よろしゅうに……。ところで、こちらさんは……?」
「旅をしている方で、縁あって、当屋敷にお泊まりいただくようになりましたの」
「こういう者です」
と、礼次は名刺を差し出した。
「た、探偵事務所所長?な、何か事件の調査でっか?」
溝塚弁護士は泡を食ったような口調でそう尋ねた。マリアも驚いた顔をして、息を止め、礼次の顔を見つめる。
「ええ、ある方の依頼を受けましてね。内容については、守秘義務がありますので、申せませんがね」
「この屋敷に係わることでしゃろうか?」
「さて、それも、守秘の部類でしてね……」
「解りました、いやいや、わたくしも法律家ですからな、その辺りは重々承知しておりますし、察する処、ご協力でけると思いますよ。あなたのその調査に関することに、おそらくですが……」
礼次は微笑んで、弁護士の言葉を訊き流す。肯定も否定もしない。相手の思い込みを利用するきでいるらしい。
どうなることやら、と小林君は心の中で苦笑いを浮かべていた。
「マリアさん、例のお父上のお話、ここでお伝えしてもよろしゅうおますかな?どうやら、このおふた方も、お父上の件での調査のようでっから……」
「ええ、どうぞ、わたしひとりよりも、そのほうが……。後ほど、ご相談にも乗っていただきたいこともございますし……」
「では、お父上からのご伝言をご披露させていただきます」
えほん、と一つ咳をして、溝塚が話し始める。
「わたくし、マリアさまのお父上とは、いや、お母さまの方が先ですけど、古くからのお付き合いがござりましてな。このお屋敷の土地購入の際も、まあ、少しは係わっておりますし、いや、その辺りははしょって、とにかく、お父上とは懇意にしていただいており、出兵前に、もしもの時の為と、お嬢さまへのご伝言を託されたのでございます」
マリアの父、ジェイムスが朝鮮戦争に従軍したのは、今から十七年前、マリアは二、三歳であり、父の顔も良く覚えていないらしい。母親は肺炎を患っており、その療養の為も兼ねて、気候の良いこの場所に屋敷を建てることにしたのである。だが、その屋敷の完成の前に、父は朝鮮半島へ赴き、屋敷の完成の便りを訊いた直後に、撃墜されたのである。
不幸は続く。横須賀の旧家で、療養していた母親が、火災により、焼死してしまったのである。マリアはちょうど、隣の家族が面倒を見てくれており、無事であった。旧家は全焼。思い出の品々――家族の写真など――全てが灰塵と帰してしまったのである。
「戦争に行かれるということは、生きて帰れぬかもしれへん、ちゅうことでっから、それなりのお覚悟があったんでしゃろう。マリアの二十歳の誕生日前に伝えて欲しいと、頼まれました。もちろん、文書にしてでおます。わたくしとて、いつ死ぬか解りまへんから、まあ、無事生きておりますけど……」
溝塚は手提げ鞄から、真っ白な封筒を取り出し、中身の手紙をテーブルの上に広げた。
その内容を簡単に記すると、
『無事帰還できるか解らない。もしもの時の為に、遺産を残しておく。マリアの二十歳の誕生日当日、午前零時に屋敷の暖炉のある部屋、居間か客間に使っているだろう部屋のどこかの隠し扉が開く。その隠し金庫に遺産を入れておく。遺産以外にも大切なものがある。ひとつはわたしの遺言状である。その遺言状が正式に執行されなければいいのだが……』
「お父さま……」
と、涙交じりの声で、マリアが呟いた。
「では、ジェイムスさんが出兵なさる頃には、お屋敷はほぼ完成していたんですね?」
と、小林君が確認する。
「そう。ほぼ完成しておりました、後は、あの時計を時計台に設置して、庭の植栽をするところでした。そうそう、その時計が、釣り上げられたところで、ジェイムス氏がカメラを取り出して、親子三人の写真をお撮りにならっしゃりましたワ。シャッターを押してくれと頼まれましたが、わたくし、機械もんには疎いもので……、日本のカメラやのうて、ライカゆう、アチャラはんのカメラやったもんで……、そうや、大工の棟梁さんがおって、シャッター押してましたワ」
「大工?西洋建築に……?」
「ヘエ、なかなか腕の立つ大工はんで、日本家屋も洋館も、いやいや、時計仕掛けのカラクリもジェイムスさんと協力して、図面を引いたそうでっせ。ジェイムスさんも大学は建設科、一級建築士――あちらの資格はよう知りまへんが――の資格を持っていたそうですワ」
「なるほど、ジェイムスさんの設計図をその棟梁が推敲して、完成させたってことですね?」
「そうそう、そうゆうこってすワ」
「マリアさん、憶えてますか、その日のこと?」
「いえ、あまり記憶がないのです。この屋敷に住むことになって、初めて来たときは、何故か懐かしいような気はしたのですが……」
「まあ、二、三歳では記憶がないのも無理ありませんね。
ところで、その遺産とはどのようなもので、遺言状とはどのような内容なのか?少しは解っていることはないのですか?」
「はい、正確なことは解りまへんが、マリアさんの父上は、伯母にあたるお方から相当のもんを贈られているとか。また、お母さまもご実家の財産をほぼ全額相続なさっておりますから、合わせれば……、億単位ではと……」
「お、億……、で、相続人は?その、マリアさん以外で……」
礼次が興奮した口調で尋ねる。
「お子さんはマリアさまおひとりですから……」
「では、万が一、万が一ですよ、仮定の話、マリアさんがお亡くなりになったら、どなたが相続されるのでしょう?」
と、小林君が尋ねる。
「それは、二通りあります。マリアさまが二十歳を迎えた後にお亡くなりになれば、マリアさまのご意思、つまり遺言を残せば、その遺言どおりに、また、ご結婚なさって、お子様ができれば、配偶者とお子様に……。一般の相続と同じですワ」
「万が一、二十歳前にお亡くなりになったら……?」
「ははは、もうそれはないでっしゃろう、あと一週間ですから……」
「ああ、もうすぐ、二十歳なのですね。では、他の相続人さんは、残念、ってことになる訳ですか……」
「まあ、そうですが、誰もそんな遺産があるとは思ってもおらへんでしょうから、ガッカリもしませんよ」
「その、誰もとは、どういう方々ですか?参考までに……」
「そうですなあ、はっきり戸籍を調べてみんことには解らへんですけど、お父さまの方には、お兄さんが居るそうですワ。お母さまの方は、ほとんど縁者が居りまへんそうで、確かお兄さまが居られたんやけど、先の大戦でお亡くなりになって、ご結婚されてへんようで、跡絶えですワ。ただ、お祖母さま――母方ですが――に女のご姉妹が――姉か妹かは解りまへんが――がご存命やとか……、確実な情報ではございまへんけど……」
「では、ジェイムスさんのお兄さんがその誰か、残念な方、知らぬが仏、の方というわけですな?」
「ははは、所長はんの仰るとおりですワ。今頃、クシャミしてますワ、何処に居るか知らんけど……」
5
「どうやら、事件の動機とやらがはっきりしてきたね。億単位の遺産……」
そう切り出したのは、礼次である。
言いたいことを言って、
「ほな、次の仕事がありますさかい、これで、失礼します」
と、愛想笑いを浮かべて、弁護士が立ち去った後、礼次と小林君は二階の客室に案内され、一息入れているのである。
「しかし、その動機で、マリアさんを亡き者にしようとする人物は、ジェイムスの兄、つまり、マリアさんの伯父に当たる人物のみですよ」
「いやいや、その伯父さんの周りに群がる悪党が居るかもしれん」
「ルパンでいえば、『虎の牙』ですか?」
「ああ、そうだね。今回の事件は『緑の眼の令嬢』ともいえそうだが……」
「所長、長野県警の方に、伝手はありますか?まず、マリアさんの周りの人間図を作成しないと……。それには、戸籍の調査が必要です」
「よし、電話を借りよう。紹介された刑事課の係員に依頼してみるよ」
礼次は両手で膝をポンと叩くようにして、立ち上がり、部屋を出ていった。
小林君も立ちあがり、大きな窓から、庭を眺める。屋敷の前庭には色々な草木が植えられている。その一角に、ひときわ目立っているのが、赤や黄色、白、深紅、ピンクと様々な色、大きさの薔薇であった。その薔薇園にひとりの男がいた。薔薇の剪定をしているようだ。
「あれが、牧師の言っていた、庭師の『慎次郎』かな?」
小林君は心でそう呟くと、身体を反転させ、部屋を足早に出ていった。
階段を下りると、サクラとすれ違う。
「庭の薔薇がきれいなもので、近くで見せていただきます」
と、言い残し、玄関から、庭へと足を運んで行った。
庭師はガーデン用の厚手の麻のエプロンをして、軍手に剪定鋏を握り、終わりかけの花を丁寧に摘んでいる。腰に下げた竹籠に摘み終えた薔薇の花が、鮮やかな色を競い合うように入れられていた。近づくと、ほのかな花の香りがする。
「きれいな薔薇ですね」
小林君が声を掛けると、パチンと枝を切る音がして、左手に真っ赤な大輪の花を持ったまま、庭師は振り向いた。
「お仕事中にごめんなさい。あまり見事な薔薇が、ほら、あの二階の窓から見えたもので……」
と、今降りてきた部屋の窓を指さす。
「ああ、今朝、お嬢さんを危うい処で助けてくれた、お客さまですね?」
庭師は小林君に笑顔を見せて、軍手で汗をぬぐった。まだ、若い男である。小林君とほとんど年の差がないと思われる。陽に焼けた肌と白い歯がほど良いコントラストを醸し出している。短髪、眼は細く、美男子とは言い難いが、個性的な愛興のある笑顔であった。
「初めまして、小林といいます」
小林君が、右手を差し出す。庭師は慌てて、剪定鋏をエプロンのポケットに入れると、右手の軍手を取り、握手をしてきた。右手はその顔ほど陽に焼けてなく、本来、色白の体質であることが想像できた。
「どうも、山田慎次郎と申します。住み込みで、お庭の手入れをこの春から任されています」
「慎次郎さん、少し、お話させていただいてよろしいですか?実は、昨晩、わたしどもは村はずれの教会にお世話になりましてね」
小林君の言葉に一瞬、身を固くする慎次郎を見つめながら、
「このお屋敷にお住まいのお嬢様に、最近、危険なことが続けて起こっている。それを牧師さんにお知らせしたのが、あなた、慎次郎さんと、覗いましたが、間違いありませんか?」
と、言葉を繋いだ。
「はい、心配で牧師さまに相談に行ったのですが、偶然だろうと……」
「それで、その後、何か変わったことは?どなたか他の方にご相談なさいましたか?」
「いえ、そのままです。ところで、今朝のお嬢様の危うい処とは、どういう状況だったのでしょう?まさか、同じような、命に係わる
…」
「いや、ちょっと、木の橋に亀裂があって、自転車の前輪が、運悪く、はまってしまった、よくありそうな事故ですよ。どうもオーバーに伝わっているようで……」
小林君は照れたように笑って、真実を隠してしまう。
「そうですか、単なる事故……、でも続きますねェ、その単なる事故、って奴が……」
「では、慎次郎さんは、どなたかに、そう、お手紙を出して、ご相談とか、なさいませんね?」
「手紙?いや、そんな手紙を出す相手も居りませんし……」
「いや、匿名で、捜査関係、つまり警察に……」
「ああ、そういう……、それは思いつかなかったな、匿名か……」
どうやら、慎次郎ではないらしい、探偵社への匿名の手紙の差出人、つまり、今回の事件の依頼人は……。
*
「小林君、どこへ行っていたんだね」
二階の部屋に戻ると、電話を終えた礼次が待っていた。
「そこの庭に、庭師の慎次郎さんがいましたので、確認に行ってきました」
と、慎次郎との会話を説明する。
「ほう、慎次郎でもない。とすると、誰なんだね、手紙の差出人は?」
「ひょっとしたら、犯人かもしれませんね」
「は、犯人?ど、どうして犯人が、探偵を雇うんだね?」
「ひとつは、誰も、今回の事故を訝ってくれない、つまり、事件にしてくれないから。そしてもう一つは……」
「もうひとつ?」
「あっ、これは突飛過ぎますから……。それより、警察の方は?巧く依頼できました?」
「ああ、警視庁から連絡が入っていて、担当刑事が出てくれた。相馬耕作という刑事だが、わたしの旧歴も知っていてね。是非協力させて欲しいと……。取り敢えず、マリアの周囲の戸籍、それと、個々の使用人、もちろんさっきの慎次郎も含め、あの牧師、弁護士、おまけに、噺に出ていた大工の棟梁、まあ、関係者と思われる人物全員の調査を依頼したよ。明日、明後日にでもこちらへ出てくるそうだ。それまでに何かあったら、地元の派出署の巡査に連絡してもらえれば、すぐに駆けつけるよう手配すると、まあ、至れり尽くせりさ」
「流石、元警視庁の鬼刑事さん」
「あれ?わたしの旧歴、君に話したっけ?」
「だって、警視庁の知り合いとか、今の県警の刑事の対応とか、総合判断すれば……」
「いやいや、流石、は、小林君、君の方だよ。感心する。まったく、良い部下が見つかったもんだ」
「では、明日はその大工の棟梁にでも会いに行きますか?」
「棟梁?まあ、会うに越したことはないが、何故、わざわざ?」
「時計仕掛けのことを知りたいんですよ。だって、時計仕掛けなら、時計を進ませれば、その時刻を待たずに……」
「そうか、秘密の扉を開けることもできる……」
「ええ、そうしないのは何故か?あるいは、特殊なシステムが施されているのか……」
「ああ、ルパンの『虎の牙』をまた思い浮かべたよ」
6
翌日、礼次たちは松本市内に住む大工の棟梁の居宅を訪ねた。前日の夕食時に、棟梁の住所を尋ねると、マリアも同行すると言い、リーという運転手に車の準備を命じた。
リーという運転手兼雑用係は中華系アメリカ人で、独特の日本語を話す。礼次たちを快く思っていないのか、猜疑心をその細い眼に露わにしていた。
大工の棟梁の家はこじんまりとした、日本家屋で、松本市の中心部の外れにあった。
事前にマリアから連絡を入れており、わざわざ玄関口まで出迎えてくれた。
上り框で靴をぬき、居間に通される。一枚板の大きな座卓の置かれた日本間に座布団が敷かれ、マリアは慣れない正座をさせられた。
「まあ、よくいらっしゃった。この老人を覚えてくださったとは……。そうか、慎次郎にでも訊きましたか?」
棟梁は日焼けした、皺だらけの顔を笑顔で包みながら、マリヤに語りかける。
「慎次郎?棟梁は慎次郎のお知り合いで?」
「おや、慎次の奴、紹介状を見せなかったのか?」
「紹介状?ああ、では、トーマスの言っていた知り合いの紹介状とは、棟梁さんからのものだったんですか?矢内源吾って誰だろうと思ってました」
「ああ、そうか、お嬢さんがワシの名を憶えているわけありませんわなぁ。ではいったい何用で……?」
「昨日、弁護士の溝塚先生がおいでになって、わたしの二十歳の誕生日に秘密の扉が開かれると仰って、その仕掛けを作られたのが、棟梁さんとお伺いしたもので……」
「ああ、もうそんなになりますか?早いもんですなあ。十、六、七年になりますか?いや、年をとると、一年が短くなるというか……。そ、それで……?」
「はい、その仕掛けについて、もう少し詳しく。また、その時の父との会話とか、ご記憶のあることがあれば、お教えいただきたいと……」
「ああ、お父さま、ジェイムスさん、お帰りになって居らんのですかな?飛行機が墜落したと、そこまではお聞きしていたのですが、ご生存してると思ってましたが……」
「はい、墜落死は免れたようですが、その後の行方は今も……」
「そうですか、それで、あの期限が近付いたってわけか。いや、必要なくなれば、とジェイムスさんとも話していたんですがね。未来は予測不可能ですからなぁ」
棟梁は感慨深げにそう言った後、着物の懐から箱入りのピースを取り出すと、マッチを擦り火を付けた。
「あの仕掛けは、ジェイムスさんが考えたんですがね。ただ、その元になる時計を時計台の大きな物に連動さすのは駄目だと言ったのはワシでしてね。雷でも落ちたら、パアですからね。また、眼に見える時計と連動したら、勝手に進められる可能性もある。そこで、仕掛の時計自体も扉の中、つまり、絶対指定の時刻より早くには開かないようにしているんですよ。ワシの考えでね。そう、ですから、あと一週間でしたっけ?待たないと扉は開きません。中に何が入っているか?それはワシには解りませんが、とても大切なものであることは間違いないですよ」
「大きさはどのくらいですか?」
と、小林君が尋ねた。
「それほど大きなもんじゃない。大きくすると、年数が経ってるから、開かない可能性もある。そうですねぇ、二尺四方の立方体の金庫と思ってくだされば……」
棟梁はフゥーと煙を吐き出す。
二尺――約六十センチ――四方の金庫、さて、億単位の資産を保管するのに充分なのか?微妙というより、無理な気が、小林君はしていた。
「ジェイムスさんは大した方だ。軍隊へ行ってなければ、立派な大工、いや、建築家になっていたでしょうなぁ。なんでも、軍隊の訓練中に、利き手の指を痛めたとか。確か左利きでしたな彼は。日本では『左甚五郎』という、天才がいたそうですね、なんて言ってましたからねェ。まあ、手先が器用で、精密機械いじりも好きで、色々質問されましたよ。釘を使わない、木造建築の溝の切り方とか、樽を作る箍(たが)とかにも興味を示していましてね。研究熱心でしたねェ」
「それともうひとつ、あの屋敷の完成直前、ジェイムスさんが出兵する前に、お屋敷の前で写真を撮られたとか、そのカメラのシャッターを押されたのが、棟梁だとか、覗っておりますが、ご記憶にございますか?」
「ああ、忘れもせんですよ。ジェイムスさんと奥さま。それに可愛い帽子を被ったお嬢さま。あの方がこんな美人に成長なされたんですなぁ。あの時は、お母さまそっくりと申しましたが、今は、お父さまの方に良く似てらっしゃる」
*
「所長、結局、秘密の扉は、マリアさんの誕生日当日、午前零時まで開かないことは確定しましたね。あと六日、どうしますか?」
大工の棟梁の住まいから帰って、再び、二階の客間のソファーに腰を降ろし、小林君が切り出した。
「そうだね、調査の方は、県警に頼んであるし、取り敢えず、我々が為すべきことは、マリアさんの身辺護衛かな」
「探偵というより、ボディーガードですか?
それより、今日逢った、大工の棟梁ですが、少し変わってませんでしたか?大工にしては、眼付とか、身のこなしとか……?」
「ええっ?何かおかしかったかい?」
「我々のこと、尋ねなかったでしょう?それなのに、我々に向ける眼は、敵意というか、警戒心でいっぱいのようでしたよ」
「敵意?警戒心?まあ、見知らぬ人物だからね」
「いえ、マリアさんや、運転手のリーさんには、あんな視線を投げかけていないんです。特に、時計のからくりを尋ねた時、怖い眼をしていました。僕らがお宝を狙っているかのように邪推したんだと思います」
「ああ、億単位の遺産だからね」
「いえ、棟梁は『大事なものが入っている』ことは知っていますが、それが、遺産だとか、億単位だとかは知らないはずです。本人がそう言っていましたから……。でも、本当は知っているみたいなんです」
「ほほう、それで?」
「はい、これを県警の刑事さんに渡して、棟梁の過去――前科がないか――を調べてもらいたいんです」
そう言って、小林君が差し出したのは、ピースの紺色の箱である。
「それは……?」
「棟梁が吸っていた煙草の空箱です。指紋が残っていますから、前科があれば照合できるかと……」
「前科?彼が前科者かもしれん、と言うのかね?」
「はい、ひょっとしたら、泥棒、それも超大物かもしれません。ただ、捕まっていない可能性もあります」
「盗賊?それは、どういう根拠からの推理なんだ?」
「あの住居ですが、裏側は川に面しています。それから、隠し扉があって、床の間から、抜け穴がありそうです。床の間の掛け軸が揺れた時、隙間が見えました。それと、門から玄関口までにも、仕掛があって、警察などが踏み込んできたら、奥に知らせるようになっています。棟梁がわざわざ、我々を迎えに来たのは、その仕掛けを感づかれないようにするためです」
「そ、そんな仕掛けが……?それにいつ気がついたんだね?そうか、君、便所を借りた時、探っていたのか?」
「ええ、何となく、家の作りが気になったもので……。ようするに、あの家は忍者屋敷のような凝った建物なんです」
「そいつは、大工の遊び心だろう」
「それならいいのですが、彼も遺産を狙っている一人かも知れませんので……」
「そ、そうか、少なくても、隠し金庫のことは知っている。また、ジェイムス氏が大金持ちと言うことも、知っているはずだ……」
7
「一応、調べられる範囲で調べてきましたがね」
翌日、スーツ姿の私服刑事――相馬耕作警部補――が時計屋敷の応接室のソファーに腰を降ろした後、手提げの鞄から、分厚い封筒を取り出しながら、そう言った。
相馬警部補は小太りの身体、五分刈りの頭髪、ぎょろりと大きな目と太い眉毛。西郷隆盛をコンパクトにした感じの中年である。
封筒の中身は戸籍謄本の写しや住民票、それに手製の家族一覧票などである。
「ジェイムスさんの兄に当たる方は、アルベルト・シンプソン。現住所は不明ですが、アメリカ軍に所属しており、一時、沖縄に住んでいたようです。妻子が居るようですが、そっちのほうは、判明できませんでした。
マリアの母親は楠木佳織、昭和二十×年死亡してます。兄が居ったんですが、こっちも先の戦争で……。親族と言うと、佳織の母方の伯母がひとり、生存してるだけです。住所は、石川県金沢市とまでは解っております。今、追跡調査中です。あっ、名前は、小日向洋子です」
「それで、この屋敷の使用人は?」
「それが、いずれも、外国籍――庭師は別ですが――ばかりでして、照会を出しての回答ですが、執事のトーマスと家政婦のヘレンは夫婦もの、横須賀に以前住んでいたらしいのです。そこのアメリカ人の屋敷の使用人で、ジェイムスさんとも顔見知りであったようです。いずれ、ジェイムスさんが帰国したら、この屋敷で働くことが決まっていたそうです。メイドのサクラも同様、横須賀生まれです。こちらはハーフ。父親はアメリカ兵ですが、本国へ帰国してます。まあ、シングルマザーの母親に育てられたってとこです。父親には母国に妻が居るそうですから……。この娘はマリアの知り合いで、一緒についてきたようです。
運転手のリーは米軍の横須賀基地で働いていて、ジェイムスさんとは旧(ふる)い知り合いだそうで、こちらも、前から雇われる予定ができていたようです」
「殆ど、横須賀時代の知人ってことですね?」
「そういうことです」
「で、マリアさんは、お母さまが亡くなられた後、どのように暮らしていたのですか?」
「はい、しばらくは施設――孤児院ですが――に入っていたそうで、その後、知人だか縁者の方に引きとられたようです。その後は数年間、所在が確定していないのですが、中学時代に、横須賀の『アメリカン・スクール』に転入してきて、そこを卒業して、こちらに移り住んだようです」
「アメリカン・スクールに転入した理由は?」
と、小林君が尋ねた。
「どうも、養育者の方がお亡くなりになったようで、身元保証人がトーマス夫婦になっています。まあ、あの容姿ですから、普通の日本人の学校では……」
「いじめの対象、だったでしょうね?」
小林君の言葉に、警部補は無言で頷いた。
「では、その時期からトーマス夫婦との縁ができたわけですね?サクラの方は?」
「ええ、サクラはそのスクールの同窓生。つまり、学友ですね。数少ない、友人だったようです。サクラも母親の健康状態が芳しくなかったようで、まあ、似た者同士だったってことですか……」
「今、この屋敷にいる連中は、その横須賀時代のものが大半、ってことだな。慎次郎を除いてね」
「その、マリアさんを引き取って養育していた方は身元が分かっていませんか?」
礼次のつぶやきを無視して小林君が言った。
「はい、その孤児院ってやつが、つぶれて、名簿なんかも散逸してしまっているようです」
「例の、マリアさんの母方の親戚、大叔母にあたる方ではないのですね?」
「違うでしょう、その方なら、現在もご健勝のはずですから……」
「ああ、そうでした。でも、その養育者の方がお亡くなりになった、というのは、確実なのですか?」
「はい、そのアメリカン・スクールの方の職員に確認したところ、本人がそう言っていたそうです」
「本人、マリアさんがですか……」
そう言って、小林君は何か思案気に眉を曇らせていた。
「あと、庭師の慎次郎ですがね」
と、相馬警部補が話題を変える。
「出身は石川県、中学校から松本に住んでいます。高校を中退して、そうだ、もうひとりの調査対象者の大工の棟梁、矢内源吾のところへ弟子入りしたようで、ただ、大工の才能がなくて、それなら、好きな植物関係の仕事につけ、と棟梁が知り合いの庭師に預けたらしいんです。こっちの才能はあったようで、一人前の庭師として稼げるようになっています。ここへは、その大工の棟梁の紹介で、雇われたそうですがね」
「歳はいくつですか?まだ若いようですが……」
「ああ、若いですね。二十歳だそうです」
「ほう、二十歳前後が多いね。マリアにサクラ、この小林君も同い年だ」
「では、次は、その棟梁、矢内源吾の身元は?」
再び、礼次のつぶやきを無視して、小林君が警部補の調査報告を促す。
「こっちは、出身は神奈川県。つまり、この屋敷の連中と古くから関わりがある。ただ、戦争を挟んでますから、本籍の方が消失しているようで、詳しい素性は解らない。家族はいないようです。まあ、現戸籍上ですが……。今は松本市内に居宅を構えています。蓄えがあるようで、楽隠居状態ですね。時には家屋の修繕なんかは、安い賃金で請け負っているようですがね。中々腕の立つ有名な大工だったそうですよ。宮大工が本職だったそうで……」
「おかしな過去はありませんか?いえ、別に根拠はないのです。ただ、調べたほうがいいのではと思いまして、これを……」
小林君が、例のピースの空箱を差し出し、棟梁の指紋の照合を依頼した。警部補は腑に落ちない顔をしながら、白いハンカチにそれを包み、カバンに収納する。
「あとは、弁護士の溝塚と牧師の庄野ですが、まず、溝塚からいきましょう。こちらは出身は大阪です。大学がC大法学部。卒業後、横須賀の弁護士事務所に勤務して、国家試験に合格。今は地元に帰って、法律事務所を開いています。元々、マリアの母の遺産相続がらみの仕事がきっかけで、その後、ジェイムス氏との交際が始まったようです。この屋敷の土地購入にも絡んでいるようです。まあ、一流ではないが、そこそこ、固定客もいる、一般的な弁護士でしょうかな。あまり刑事事件は取り扱っていないようで、民事関連が多いようです」
「おかしな過去はないかね?あっ、これは、小林君のセリフか……」
「今のところは……、ただ、最初に勤めていた事務所を退職するときに、何かあったかもしれません。まあ、当時の所長と喧嘩でもしたんでしょうが……。あっ、失礼、シンドウさんもそうでした……」
「シンドウさん?」
と、小林君が首をかしげる。
「ゴ、ゴホン……」
礼次がその言葉を遮るように、空咳を発した。
「あっ、所長の、本名……」
「ゴホン、ゴホン、ではでは、最後に、牧師の庄野方好に移ろうか」
空咳を繰り返しながら、礼次が話題を変える。
「は、はい、では……」
相馬警部補は自分の発言――シンドウという姓を漏らしたこと――に少し罪悪感を抱いたのか、ハンカチを出して、額の汗をぬぐった。
「庄野方好は長野県出身で、プロテスタント系の神学校を出ています。あちこちの教会を渡り歩いて、長野の教会――地元ですから――に落ち着いたようです。まあ、年齢的に引退を決意したのか、棟梁と同じく、隠居したかったのか、この村の教会に引っ越してきたのが、二年前、ちょうど、マリアたちが引っ越してくる頃だったようです」
「マリアたちと?」
「偶然でしょう。マリアたちとの接点は見つかっていませんから……」
「おかしなことはないかね?同じ質問で、すまないが……」
「中々の人格者らしくて、キリスト教の信者でなくても、礼拝に来る村人が結構いるそうですよ。特に、クリスマスとか、イースター、ハロウインとかのお祭りは、宗教に関係なく……」
「日本人っていうのは、節操がないね、葬式は仏教、結婚は神式。お釈迦様の誕生日は知らないが、キリストさんの誕生日はケーキを食べる。まあ、宗教に寛大ともいえるが……」
「では、牧師さんも、怪しい、あるいは、おかしい点はないのですね?」
三度(みたび)、礼次のつぶやきを無視して、小林君が念を押した。
「はい、今回の事件――事件かどうかわかりませんが――に関しては、牧師は関係ないと思います。本当に、事件なんですかね?そりゃあ、膨大な遺産相続があと五日ほどで発生するのですから、何かが起きてもおかしくはないのですが……」
「事件はこれから、必ず起こります。どんな形になるか?単なる遺産相続で揉めるだけなのか?殺人にまで発展するか……」
「おいおい、小林君、殺人事件って、何を根拠に……?」
「探偵事務所に届いた、あの手紙ですよ。告発なのか、依頼なのか、はたまた、予告なのか……?」
8
それから二、三日間は何事もなく過ぎた。相馬警部補の調査のその後はあまり有益な情報は得られていない。ジェイムスの兄、アルベルトの消息も、米軍に照会しても確かな報が得られていない。海軍は除隊している。本国へ帰ったかもしれない、とだけの返答であったらしい。事件ではないので、それ以上の追及は難しいとのことである。ただ、家族構成は判明した。妻と娘がいるとのことである。妻はリズ――エリザベス――、娘はエマ――エミー――というらしい。
大工の棟梁――矢内源吾――の指紋照合は進んでいる。まだ、該当する人物には行き当たっていない。
「戦前、関東地方を荒らしていた、盗賊に該当者はいませんか?」
そう言った、小林君の妙な勘に基づき、対象を絞って、現在進行中である。
もうひとり、マリアの大伯母に当たる人物の調査も進んでいた。マリアは大伯母については記憶がないとのことである。幼い頃、逢っているかもしれない、そんな曖昧な返答であった。
その日、マリアの誕生日を三日後に控えた日の昼過ぎである。
小林君は昼食後、屋敷の周りを散策していた。慎次郎の整備した薔薇園から、裏庭に廻る。そこは、整地されていて、樹木も草花も植えられていない。赤土の広場で、雑草が生えていたのである。
その広場に、慎次郎がいて、雑草を刈っている。もう、ほぼ刈り終わって、整地された地面が見えている。その地面に白線が引かれていた。
「ここは、何をするための場所ですか?」
と、小林君が作業中の慎次郎に声を掛けた。
「ああ、小林さん。ここは、元々、テニスコートだったんです。住む人がいなくて、雑草が生えて、使用できなくなっていたので、整地して、あと、ローラーを掛ければ、ネットを張れますよ。小林さん、テニスはなされませんか?」
「ああ、テニスコート、それで白線が……。僕はテニスはしてませんが、バドミントンはやってます。山田さんは?」
「ぼ、僕は球技は、ど、どうも……」
何故か、慎次郎の態度が変わった。視線が小林君を見ていない。不思議に思って、その視線の先を追ってみる。振り向くと、マリアが金髪の髪を揺らしながら、近づいて来たのであった。
「あら、もうすっかり、整地できたのね。誕生日にはテニスができそうね?」
ふたりの間に歩み寄り、広場――テニスコートに生まれ変わろうとしている場所――を見廻し、マリアがそう言った。
「小林さん、出来たら、わたしとプレーしてくださいね」
そう言いながら、マリアは右腕を大きく回し、持ってはいないラケットでサーブを打つ格好をした。そして、元の方向へ帰って行ったのである。
その後ろ姿を見送りながら、慎次郎は何か思いつめたような表情を見せていた。
「どうかしましたか?」
黙ったまま、石のように固まっていた慎次郎の態度を訝って、小林君が尋ねた。
「い、いえ、何でもありません。金髪に見とれていました」
「ああ、マリアさんの髪、本当にきれいですものね」
「そ、そうだ、小林さん、今日、サクラに訊いたのですが、あなた方は、ただの旅行者ではなくて、探偵さんだそうで……」
慎次郎は、礼次と小林君の正体を今まで知らなかったのだ。
「ええ、隠していた訳ではありませんが……」
「いえ、いいんです。僕のような人間にそこまで言う必要はありませんから……。ただ、探偵さんがここにいるということは、マリアさんの身辺のあの出来事を調べていらっしゃるんですよね?」
*
マリアの大伯母の所在が判明した。その日の午後遅く、相馬警部補から電話連絡があり、金沢市の郊外で孤児たちの施設を運営しているらしい、とのことである。そこは、カトリック系の教会が運営する施設。彼女はシスターであった。
「所長、金沢へ行ってきます。その大伯母に是非お会いしたいんです」
と、小林君が言った。
「大伯母さんは事件には関係ないだろう?マリアさんともジェイムスさんとも、親しい関係ではないようだし、まして、遺産については、蚊帳の外の人物だから……」
礼次はそう言って、金沢行きに否定的だった。
「いえ、この事件の解決には、彼女の証言が必要です。マリアさんが二、三歳の頃のことを知っている数少ない人物ですから」
「二、三歳の頃のこと?」
「ええ、この屋敷ができた頃、お母さんが亡くなった頃、そして、ジェイムスさんが従軍した頃。事件はそこから始まっているんですから……」
「そうか、そこまで言うのなら、君ひとりで行ってきたまえ」
「では明朝早くに出かけます。但し、この行動は内密に……。僕のことを訊かれたら、そう、事務所の方に別件で、一旦帰ったことにしてください」
そういう会話が二人の間でなされた、二時間後、夕食を終えた二人が部屋に戻ると、内線電話のベルが鳴っていた。
「もしもし」
と、先に部屋に入った礼次が受話器に向かって会話を始める。
「あっ、団戸さんですか、僕、山田です」
「山田?」
誰か解らず礼次が首をかしげる。
「慎次郎君ですよ、庭師の。代わりましょう」
と言って、小林君が受話器を礼次から受け取る。
「もしもし、小林です。慎次郎さんですね?どちらから?これ、内線電話ですか?」
「ああ、よかった、小林さん。今、小屋からです」
慎次郎は以前物置小屋として使われていた、別棟に住んでいるのである。そこに、屋敷と直通の内線電話が設置されているのだ。
「実は、お嬢さん、マリアさんのことで、内密にお話ししたいことがあります。明日の朝、朝食後でも、こちらにおいでてくれませんか?」
「電話では話せないことなの?だったら、今から行こうか?」
「いえ、今夜は駄目です。ちょっと、調べ物があって、これから留守にします。明日の八時に待っていますから、お願いします」
「もしもし」
一方的に用件を言ったまま、慎次郎は受話器を切った。
「何だって?」
と、礼次が尋ねる。
「何か事件のこと、マリアさんのことで話があると。ただ、今夜は駄目で、明日の朝八時に小屋に来て欲しいとのことです。僕、その時間に出かけたかったのに……」
「彼のことだ、どうせたいしたことでもないのに、大げさに、勿体ぶっているんだろう。いいさ、わたしもいっしょに行くから、時間が来たら、君は出発すればいい」
*
その翌朝、約束の時刻に、礼次と小林君は慎次郎の住む元物置小屋の扉をノックした。だが、返答はなく、扉は施錠されていなかった。
遠慮がちに扉を開け、中の様子を覗う。物置の床に一尺ほどの高さに手作りの板の間を構えて、居住部分としている。板の間の一部に畳が二枚、つまり二畳分敷かれており、その上に布団が三つ折りにたたまれて置かれていた。その奥、壁際に、クローゼットなのか、扉付きのスペースがあった。ロッカー程度の大きさである。
慎次郎、いや、その他にも、人気(ひとけ)はない。小林君は板の間を膝をついたまま四つん這いで移動し、畳まれた布団に手を入れる。
「少しぬくもりがあります。シーツの皺もあるし、昨夜ここで寝ていたのは確かですね」
「では、陽が明けて、出かけたってことかね?約束の時間だというのに……」
「所長、動かないで」
「えっ、な、何だね?」
「そこ、所長の足もと辺り、土間の土埃が、乱れています。入って来た時は暗くて気がつかなかったけど、こちらから見ると、扉からの光で、解ります」
「何だって?土埃の乱れ?それじゃあ、誰かが……」
「ええ、確定ではありませんが、誰かと誰かが争って、ひとりは慎次郎さんでしょうから、もうひとりが謎の人物X氏……」
「そのX氏が慎次郎をどうしたんだ?」
「まず考えられるのは、拉致、その次は殺害、死体遺棄……」
「ど、どちらにしても、事件発生ではないか……」
「所長、あとはお願いします。慎次郎さんの行方を捜している暇はありません。僕は金沢へ行きます。相馬さんに連絡して、近辺の捜索をお願いします。僕への連絡は、石川県警へ、昨晩、相馬さんから、あちらに連絡を入れてくれているはずですから、担当の刑事さんに。僕も、一旦、石川県警本部に寄って、小日向洋子さんの孤児院の場所を確認しますから……」
「ああ、解った。でも、あまり時間はないよ。あと二日、いや、午前零時までだと、四十時間を切っている……」
「それと、この部屋、立ち入り禁止にしてください。警察関係者も、そこの土間までで。いいですね。じっくり調べたいけど、時間がないから、帰って来てから調べます」
「な、何を調べるんだね?」
「慎次郎が、調べたいと言っていたことですよ。その残骸が残っていると思います。メモのようなものかもしれませんが……、あっ、所長、探さないで、所長が探すのは、慎次郎の行方ですからね。では、行ってきます」
9
山田慎次郎の行方は、その日の捜索では判明しなかった。礼次の要請を受け、相馬警部補が数名の警察官を動員してくれたが、長野県警察本部としては、事件として扱ってはいない。単なる失踪、と思われていた。小林君の指摘した、小屋に残る土埃の跡も、争った跡とは断定できず、血痕等も発見できなかったのである。
したがって、失踪と拉致の両面からの捜索となった。最寄りの駅、街道筋の訊き込み、周辺の山狩り的なことも行われたが、それも、完璧なものとはいえず、成果は上がらなかったのである。
小林君が帰って来たのは、その日の夜になった。金沢市への日帰り、かなりの強行軍であった。成果を報告する前に、彼はもう一度小屋の中を捜索した。そして見つけた物は、三人の名前を書いたメモ、名前と電話番号が記載されていた手帳の切れ端であった。
「その名前、全く心当たりがないね」
と礼次が言った。
「荒井裕子、大崎智子、坂上しのぶ、女性ばかりですね。電話番号が、これ、金沢市の局番ですよ」
「金沢?偶然かな?」
「いや、慎次郎さん出身石川県って言ってましたよね?そうか、ひょっとしたら、繋がりがあったのかもしれない」
「繋がり?何の繋がりだね?それより、金沢での収穫は?何か解ったのかね?」
「ええ、かなりのことが解りました。今回の事件のほぼ全容が……。あとは、裏付けだけです。相馬さんにお願いすることがあります。連絡が取れますか?」
「事件が解明できた?一体どんな内容だね?裏付けって、何を頼むんだ?連絡はすぐ付くはずだ、今夜は、駐在所に泊ることになっているから……」
「一旦部屋に帰りましょう。あと一日、今十時三十分。残り、二十五時間三十分ですから」
*
「はい、以上です。よろしくお願いします」
相馬警部補に幾つかの調査の依頼をし、明日の夜に関係者を集めてもらうことを含め、用件を伝え終えると、小林君は受話器を置いた。
「どうも今一つ解らんのだが……」
と、礼次が尋ねる。
「まだ、確定ではないので、お話しできませんが、この屋敷に住むある人物が、犯罪行為を企んでいます」
「それはまあ、想像できるよ。遺産がらみの事件だからね。だが、誰なんだ?マリアさんに危害を加えようとしたり、慎次郎を拉致した人物は?」
「明日、階下の応接室に関係者を集めます。そこで、告発することになります。それまでに、相馬警部補が、調査を完結できればよいのですが、できなければ、ちょっと、ハッタリめいたことをする必要もありますね」
「ハッタリとは?」
「罠にかけるってことですよ。その人物にね」
そう言いながら、小林君は何気なく窓の外に視線を向けた。何か白っぽいものが、窓枠を掠めたような気がしたのである。
窓に近づき、外を覗く。
「おや、あれは何かな?」
「どうした、何かあるのか?」
礼次も何事かと窓際に歩み寄り、外を眺める。小林君の指さす方、そこは、別室のバルコニーが屋根に張り出している辺りである。そのバルコニーの側の屋根の上に、白い物体がふわりと漂っているのである。辺りは暗く、その白い部分が闇夜に浮かんでいるように見えるのだ。
「あれは人間のようですね、白い何か衣装を着た……あっ、金色の髪が……」
その物体が異動した所為か、バルコニーのある部屋の微かなライトの光に反射したのか、確かに、金色の頭髪が見えた。
「マリアだ」
と礼次が言った。
「確かに、ネグリジェ姿の女性のようです。でも、様子が変ですよ、意識がはっきりしていないような、ふらふらと揺れているような……」
「ま、まさか、夢遊病?」
「あり得ます。だとしたら、危険です。屋根から落ちてしまう可能性が……」
「ここからでは無理だ。一旦廊下に出て、マリアの部屋に入るか、下から梯子でも掛けるかしないと……」
礼次の言うとおり、二人の部屋の窓から、その女性のいるバルコニー近辺には、途中に障害物の張り出しがあり、容易にたどり着けそうになかった。
ふたりは慌てて部屋を出ようとして、ドアに向かった。
「おや、ドアが開かない」
と、礼次がドアのノブを捻りながら言った。
「ちくしょう、誰かが、外からカギを掛けていやがる」
ガチャガチャとノブを回すが、ドアは開かない。
「所長どいてください」
そう言って、小林君はドアのノブを掴む。
「所長、靴を脱いで、貸してください」
「えっ?靴?どうするんだ?」
「いいから、早く。僕の靴はスニーカーなので、無理なんです。革靴のかかとが必要ですから……」
礼次のはいている革靴を右手に構え、思い切りドアノブを叩いた。三回目で、ノブは首が折れるように垂れ下がり、鍵が壊れてしまった。
「さあ、早く、急ぎましょう」
「そんな鍵の開け方が……、壊し方があったのか……」
「所長は、マリアさんの部屋へ、僕は玄関から回ります」
小林君はそう言って、階段を降りはじめる。礼次はまっすぐ、マリアの部屋を目指した。
マリアの部屋は鍵がかかっている。礼次は先ほど小林君が行ったように、革靴を右手に構え、ノブを思い切り叩いた。
「意外と簡単だ」
そう呟きながら、礼次は部屋に飛び込む。部屋は小さなルームライトがついているだけ。礼次は壁際のスイッチを入れた。部屋が電灯で明るくなった。バルコニーのある窓が開いている。ベッドには誰も眠っていない。右手に持っていた革靴を慌てて履いて、礼次はバルコニーに飛び出した。
白い人影は見えなかった。明かりのない眼下の庭を見渡すと、いた。白い物体がふわふわと、塀際を動いている。そこは確か、通用門がある辺りだった。
「小林君、通用門の方だ」
大きな声を上げる。すると、その声に反応して右手の方から、小さな光が、クルクルと廻された。玄関から飛び出した、小林君が、携帯用のペンタイプの懐中電灯を照らしているのであった。
ペンライトの小さな光源では、白い物体まで光は届かない。足元を照らすくらいで、早く駆けることもままならないようだった。
礼次は部屋を物色して、大きい懐中電灯が備え付けられているのを見つけた。各部屋に備え付けられていたのに気づいたのであった。その懐中電灯を手に、バルコニーから屋根に飛び出す。屋根の傾斜は、それほど急勾配ではない。だが、そこから、地上に飛び降りるのには、高さがあり、勇気がいる。ふと右手をみると、明かりが漏れている。そこは、勝手口になっており、常夜灯が灯っていた。その勝手口の屋根は、一段低くなっており、そこからなら、地上に飛び降りることも可能のようだ。礼次はそちらに向かった。そちらに行くと、時計塔の時計盤の光が届いており、足元が確認できる。
「どうやら、マリアもここから降りたな」
そうひとり言のようにつぶやいて、屋根から飛び降りた、礼次であった。
小林君のペンライトの光が、ちょうど、通用門から出ていくのが見えた。大きな懐中電灯で、前を照らしながら、礼次もその方向に走り出した。
「ダメです、見失いました。暗くて、どちらに行ったのか解りません。無闇に探すより、応援を頼みましょう。派出所へ連絡しましょう。それから、使用人も起こして……」
「使用人も?大丈夫かね、その中に犯人がいるんだろう?」
「もし犯人が、この機会を利用するとしたら、今頃、屋敷には居ないかもしれませんよ」
「そうか、今いなければ、そいつが犯人か……」
「でも、マリアさんに夢遊病の症状があるなんて……」
10
派出所から二名の巡査と相馬警部補が駆け付け、使用人、トーマス、リー、サクラを使って捜索が開始された。二人一組に分かれ、四方に散らばったのである。ヘレンは留守番、マリアが帰ってくるかもしれない。その場合、介抱する必要があった。
日付が変わる頃、礼次と小林君は村はずれのマリアと出逢った木の橋のたもとにいた。
「所長、川に落ちていないか確認してください。僕はもう少し先まで行ってみます。教会に牧師さんがいたら、応援を頼んできます」
「そうか、ここから、教会が近いね。まさか、そこまでは行ってはいないだろうが、念のためだし、牧師さんも起こしてきてくれ。わたしはこの辺りを探しているから」
礼次はそう言って、小林君の背中を見送った後、懐中電灯の光を橋の下方向へ向けた。光の届く範囲には異変はない。雨が降っていないので、水かさは少ない。橋のたもとに引き返し、川沿いにライトを照らしながら、歩いていく。コガネムシのような昆虫がそのライトに引き寄せられるように、羽音を立てながら集まって来た。
しばらく捜索していると、別のライトが近付いてくる。運転手のリーと派出署の巡査とのコンビであった。
「見つかりませんか?」
と、礼次が尋ねる。
「ええ、これだけ明かりが少ないと、見落としがあるかもしれませんが、今の処、手掛かり、痕跡は見つけられません」
「女性の足ですから、そう遠くへは行っていないと思うのですが……」
そう言いながら、三人は元の木橋の方へ足を運んで行く。そこへ、小林君が足早に帰って来た。
「おう、小林君、牧師さんは、居たかね?」
「それが、留守のようで、張り紙がありました。急用で、長野の教会へ行くと書いてあります。牧師館というか、小屋も覗いたのですが、誰もいません。教会の中にも……」
「そうか、こっちの方には来ていないかもしれんな。やはり、民家のある方に行った可能性が高いかも……」
「一旦帰りましょう。あとの組が何か見つけたかも知れません」
小林君の言葉に一同頷き、屋敷の方に足を向けた。
屋敷に向かう坂の途中にライトが揺れていた。相馬警部補ともうひとりの警察官であった。
「相馬さん、何か見つかりましたか?」
小林君の言葉に、相馬警部補は無言で首を横に振った。
一同は坂を上って、時計屋敷の玄関をくぐる。カウベルにような音が響き、玄関から、ヘレンが飛び出してくる。
「お嬢さまは?見つかりましたか?」
ヘレンのその言葉は、マリアが屋敷に帰っていないことを知らせていた。
「そうだヘレンさん、お尋ねしたいことが……」
と、小林君が言った。
「マリアさんは、夜中にこのような行動をとることが、過去にもありましたか?つまり、夢遊病者のような状態になることが……」
「は、はい、実は過去に何度か……。でも、今回のように行方が解らなくなるほどのことは……」
ヘレンが眉を曇らせて、言葉を濁していると、
「お、お嬢さまらしき人影が……」
と、息を切らして、執事のトーマスが坂を駈け上がって来た。
「どの方向です?」
「それが、最初は民家のある田んぼの畦辺りにいたと思ったら、今度は、村の外れの方に移って、今頃は、木橋の方に向かっていると思われます。サクラが見失わないように、あとを追っています。応援がいると思い、わたしだけ帰ってきました。早く、あとを追ってください。尋常でない、行動をしているみたいで……」
*
夢遊病者の行動が尋常でないことは承知していたが、我々が捜索したその後を、辿るような動きをしたことになるな、と、小林君は思った。
時刻は午前二時近くになっていた。木橋から、教会へ向かう坂道は、木々が密集しており、しかも、深夜の暗闇、月明かりもなく、見透しが利かない。トーマスの案内に従うように一同は、足早に坂を進んで行った。
「あっ、あそこに、人影が……」
と、巡査の一人が叫んで指をさす。
その指の方向に、白い人影がふらふらと教会へと続く坂を上って行く。が、すぐに木立の中に隠れてしまう。
「教会の方へ向かっているようです。ここからは、一本道、急ぎましょう」
先頭のトーマスの言葉に、一同、懐中電灯を前方に照らし、足を急がせた。
坂を登りきって、教会の門に辿り着くと、そこに懐中電灯の光があった。
「あっ、トーマスさん、お嬢さんらしき人が、ここに入って行ったようです」
ライトに浮かんだその人物はそう言って、教会の門へ足を踏み入れた。
「サクラさん、マリアさんらしき人はどっちに行きました?教会の中ですか?それとも、裏手の牧師館の方ですか?」
「解りません、暗くて、どっちに行ったのか……」
そうサクラが答えた時、急に辺りが明るくなった。
「おう、これは、火の手だ、どこかが燃えているんだ」
と、礼次が叫んだ。
「まさか、教会が、いや、教会がシルエットで見えている。としたら、火はその裏側、牧師の住居の小屋が怪しい」
相馬警部補がそう言っているうちに、煙がもくもくと暗い空に広がって行く。その辺りが一段と明るくなっていく。
小林君が真っ先に駆け出す。礼次がそれに続き、警察官も走り出した。
裏手に回った時、牧師館と呼ばれたログハウス風の小屋は炎に包まれ、崩れ落ちていた。火の回りが異常なくらい速く、しかも黒煙が立ち上っている。
「ガソリン臭いです。放火に違いありません」
「放火?いや、それより、中に人がいたら……、ああ、もう無理だ、完全に焼け落ちていく……」
礼次の絶望した声が、炎に照らされた夜空に解けていった。
「お、お嬢さまあぁぁ……」
サクラの悲鳴が、響き渡っていた……。
11
幸いと言うべきか、炎は周りに延焼せず、小屋の周囲の木々を焦がしただけで鎮火した。
翌朝、地元の消防団と警察による現場検証が始まり、焼け跡から焼死体が発見された。真っ黒焦げで、身元はおろか、人間の骨と解るくらいの焼死体であったらしい。ただ、その周りに、金髪と思しき、人毛の焼け焦げたものが発見されたのである。
「今解剖に廻っていますが、おそらくマリアの遺体で間違いないでしょう。ガソリンに引火したようで、殆ど骨だけの状態でしたが……」
マリアの二十歳の誕生日の前日の午後、現場検証を済ませた相馬警部補が時計屋敷を訪れ、礼次に報告した。
「小林君が昨夜、いやもう今朝未明になっていたが、放火と言ったが、それに間違いないかね?」
「確定的ではないのですが、放火の疑いがあります。だが、放火としたら、犯人はどうやって我々の眼を掠めて火をつけたのでしょう。火の手が上がった時、我々全員が教会の門の前に居りました。出口はそこだけです。暗いと言っても火の手の所為で、辺りは昼間のようでしたから、見逃すはずはないのです。特に警察官は放火と訊いて、犯人がまだ近辺にいると考え、ひとりが門の前で待機していたのですから……」
「放火です。そして、殺人です」
「放火殺人、酷いことをするもんだ」
「放火の方法はいくつか考えられます。おそらく、時限装置を使ったのでしょう」
「時限装置?そのような機械は焼け跡からは見つかっておりませんが……」
「いえ、機械ではなく、機械的な方法という意味です。例えば線香、蚊取り線香でもいいです。徐々に燃えていき、ある部分に火が到着すれば、一気に燃え上がる。紙製のマッチでも時限装置が作れます」
「なるほど、そういう手があったか。蚊取り線香なら、燃えたら灰になるだけですからね、殆ど跡が残らない。詳しく調べさせましょう」
「それと、今夜の関係者を集める例の件、お願いします。それまでには、犯人を特定しておきますから」
「えっ?犯人が解っているのですか?」
「いえ、まだです。でも、あと、数時間後には確定できます。昨夜お願いした件、判明しましたら、それで結論が出せますから……」
*
「所長、ちょっと電話をします」
相馬警部補が、首をかしげながら退出すると、小林君はそう言って、内線電話を取り上げる。電話機の横に屋敷内の電話機の内線電話番号が書かれたメモがある。
「あっ、トーマスさんですか?小林です。ヘレンさんは?ああ、そこにいらっしゃる。いいです、声が聞こえました。居場所の確認ですから……」
そう言って受話器を切る。そして次の電話を掛ける。
「あっ、サクラさん、お部屋にいらっしゃいますね?結構、お疲れでしょうから、今日は部屋で休んでください」
受話器を切り、次の番号を回す。
「もしもし、リーさんですか?小林です。今朝はお疲れさまでした。お部屋にいてくださいね。緊急の用ができるかもしれませんから、はい、ではよろしく」
「いったい何のための電話だね?各人、部屋にいるように、相馬君から言われているんだ、部屋にいるに決っているだろう?」
「いえ、実はこの内線電話、盗聴されているようなんです」
「盗聴?」
「ええ、つまり、僕とトーマスさんが内線で話をしているとしたら、他の内線電話を取り上げれば、その会話を訊くことができるのです」
「ああそうか、内線電話はすべて繋がっているってことか。しかし、誰が訊いているか、特定はできないだろう?」
「ええ、だから、全員に電話して、その盗聴者を確定したんです」
「確定?出来るのかそんなことが?」
「ええ、会話が終わった後、受話器を切る音がします。会話の相手が切る。そのすぐ後に盗聴者の受話器を切る音がするのです」
「ああ、そうだね。しかし、それで、誰か特定できるのかね?」
「はい、今掛けた三組の会話の後、ただひとりだけ、受話器を切る音が一度しかしなかった人物がいます。その人物が、盗聴者自身だから、二度目の受話器の音はしないのです」
「そうか、本人は盗聴されていないんだ」
「さて、今度が本当の電話です」
そういって、小林君はポケットからメモを取り出す。
「それは?」
と、礼次が尋ねた。
「慎次郎さんの小屋で見つけた、三人の女性の電話番号です。おそらく、慎次郎さんはこの中の誰か、いえ全員かもしれませんが、失踪前に電話しているはずです。ですから、これから、この三人に電話して、確かめようと思うんです」
*
「もしもし、荒井さまのお宅でしょうか?荒井裕子さまは……、あっ、ご本人さまでしたか、わたくし、山田慎次郎の友人で、小林と申します。慎次郎君、ご存知ですよね?ああ、小学校の同窓生、いえ、昨夜ですが、そう、電話がありましたか、はい、どういったお話でした?ああ、やっぱり、そうでしたか。ところで、大崎さん、坂上さんも……、同窓生でしたか、いえ、実は慎次郎が行方不明でして、ええ、多分その事で調べ物をしているんだと思いますから、はい、どうもありがとうございました。失礼いたします」
小林君の電話が終わる。
「おいおい、いったい何のことだね?さっぱり要領を得んのだが、慎次郎の小学校の同窓生が今回の事件と係わりがあるのかね?」
「はい、多いに……。これで裏付けが取れました。慎次郎が気がついたこと、我々に伝えようとしたことも判明しました。そして、慎次郎の行方も……」
その後、小林君は鞄に入れていた革製のバインダー、ルーズリーフのノートを装着したものを広げて、細身のボールペンを動かしていた。それから、派出所にいる、相馬警部補に電話して、昨晩の依頼の進捗状況を確認していた。
「そうですか、ありがとうございました。はい、それで、結構です。裏付けになりました。ええ、事件は解決できます。あとひとつの方も手配をお願いします。では、今夜よろしく」
そう言って、受話器を置いた。
「全く解らん、ルパン、いや、ジム・バーネットはわたしじゃなく、君だったのか……」
礼次がひとり言のようにつぶやいた。
「あと六時間ですね」
部屋の壁に備え付けの丸い時計の針が縦に一本、真直ぐになった状態を確認しながら、礼次のつぶやきが聞こえなかったかのように、小林君が言った。
12
寂しい晩餐の後、小林君は、屋敷の周り、特に通用門あたりを熱心に調べていた。残念ながら、乾いた土壌には足跡は残っていない。所々に伸びかけている雑草が、いくつか倒れている。
それから、彼はもう一度、慎次郎の暮らしていた、元物置小屋を訪ね、ロッカーのようなクローゼットを覗き込む。中には掃除道具や剪定バサミなどが、整然と置かれていた。
部屋に帰ると、再び、内線電話を外線に切り替え、派出所の相馬警部補に電話をかけ、何事か最終確認をしていた。
「どうも君は、秘密主義過ぎるね。推理小説の名探偵を模倣しているのかね?」
「ええ、確実でないことは言えません。この部屋も盗聴されているかもしれませんから……」
「と、盗聴?」
驚いたような顔をして、礼次が部屋中を見回した。
「大丈夫とは思いますが、念のため……。ですから、金沢で仕入れた情報も、所長にはお伝えできません。あと数時間後に、真相をお話しします」
「真相?つまり、今回の事件、特に、マリアさんを焼死させた犯人を逮捕できるというのかね?」
「さて、どうでしょうか?」
「犯人は、慎次郎に決まっている。ほかの連中は我々の傍にいた。マリアを殺害し、ガソリンをかけ、死体を焼くことができるのは……」
「そうでしょうか?まだ居りますよ。例えば、牧師。例えば、棟梁、もうひとり、弁護士の溝塚氏にも……、やろうと思えばですが……」
「しかし、その連中は、この近辺にはいなかったはずだ。牧師は長野に行っていたはずだし……」
「いえ、あの時間帯、誰も正確なアリバイはありませんよ。もちろん、この屋敷の使用人たちも……」
*
階下の応接室にソファーがコの字に並べられている。暖炉の方向だけが、空いている状態である。そこに、七人の男女が腰を下ろしている。暖炉側から見て、右手、部屋の入口に近いソファーには、手前に弁護士の溝塚、その隣に、牧師の庄野。暖炉に対面するソファーには、右手からリー、ヘレン、サクラが腰を下ろし、左側のソファーには、奥にトーマス、手前に棟梁の源吾がいた。
時刻は、午後十一時三十分を暖炉の上の置き時計が示している。七人はこの部屋に来て、十分ほど、無言のまま待っているのである。県警の刑事主任である、相馬警部補から、この時間に、この場所に集まるよう指示を受けたのである。
ドアが軽くノックされて、音もなく内側に押し開かれた。まず入ってきたのは、スーツ姿の相馬警部補、続いて、ベージュの夏用の麻のジャケット姿の礼次。三人目はポロシャツにジーンズ姿の小林君。続いて、私服の刑事、最後に、警察官の制服姿の派出所の巡査が入ってきて、ドアを閉め、彼だけがその場に立ち止まった。
壁際に置かれていた、折り畳みの椅子を相馬警部補と礼次、私服刑事がそれぞれ開き、礼次と相馬警部補は暖炉の右わきに並んで座った。弁護士と牧師が座っているソファーのすぐ近くに位置取りをしている。私服刑事はその反対側、ソファーの後方、出窓のある前に椅子を置いて座った。つまり、この中の誰かが、逃亡を企てても、すぐ阻止できる態勢なのである。
小林君ひとりが立ったままである。位置は暖炉の真ん前。自然と一同の視線が彼に集中した。
「こんな深夜、お忙しい方もいらっしゃいますでしょうが、お集まりいただきありがとうございます」
と、小林君が言葉を切り出した。
「何や、警察からの呼び出し、ゆうて訊いたから、かしこまりましたって、参上したのに、探偵さんの話かいな」
「溝塚さん、間違いなく、警察の要請です。しかもあなたはどうせこの時間にはこの屋敷に来る予定だったのでしょう?あと、数十分後には、秘密の扉が開かれるのですから……。棟梁の矢内源吾さんも立ち会うおつもりだったでしょう?」
「刑事さん、わたしは部外者だと思うんですが……」
相馬警部補の肩書を知らない牧師の庄野がそう疑問を呈した。その発言に答えたのは礼次だった。
「いえ、留守中だったとはいえ、あなたのお住いの牧師館で殺人、死体遺棄、或いは放火という、重大事件が発生しておるのですぞ、部外者などと、とんでもない、容疑者になってもおかしくない状況ですぞ」
「よ、容疑者……?わたしは所用で長野へ……」
「長野の教会へいらっしゃっていたんですな?」
と、相馬警部補が尋ねた。
「はい、急な呼び出しで……」
「おかしいですなぁ、こちらで確認したところ、長野の教会では、呼び出してはおらんそうですが……?」
「そ、そうなんです。行ってみたが、間違いのようで、確かに電話で教会の職員と名乗ったのですが……」
「つまり、偽の電話に騙されて、教会を――この村の方ですが――空けられた、ということですかな?」
と、これは、礼次が確認する。
牧師は無言で頷いた。
「まあ、その件はのちほど」
と、小林君が問答を差し止めた。
「さて、先ほど、相馬警部補が仰られたとおり、あと二十数分で、この屋敷をお建てになったジェイムスさんの大切なものが保管されている秘密の扉が開かれます。その前に、今回の一連の事件、というより、陰謀の経緯について、判明しましたことを皆様にお伝えしようと思います」
「陰謀?陰謀とは何でっしゃろ?」
「はい、今から説明します。皆様もご存じの事柄もあり、また、隠されていた事実もございます」
「隠されていた事実とは、なんでおます?」
「皆様のかぶっている、仮面……、そう申し上げておきましょう」
「仮面?月光仮面でおますか、ははは、こりゃ、けったいな話や……」
「溝塚さん、少しおしゃべりが過ぎますぞ。なんぞ、都合が悪いことでもあると勘繰られますぞ。小林君の話を黙って聞きなさい」
と、礼次が釘を刺した。
反論しようと、口を開きかけた弁護士であったが、警部補に睨まれ、首をすくめて、黙り込んだ。
*
「今回の陰謀の発端は、皆様ご存じのとおり、この屋敷が建てられた、十七年前に遡ります。アメリカの軍人であった、ジェイムス氏がその財産をこの屋敷に隠したまま、朝鮮戦争へ従軍なさったからです。そして、本人は行方不明。妻である佳織さまも不慮の事故でお亡くなりになりました。残された遺族は、三歳にならない少女、マリアさんです。
さて、遺産相続ならば、問題ありません。ジェイムス氏の死亡が確認していれば、普通の相続が発生していました。しかし、彼は生きている、らしい……。アメリカ軍内では、彼は北朝鮮で暮らしている。捕虜かあるいは亡命かは解りませんが、生存説が情報として入ってきているのです。これは、北朝鮮からの亡命者――脱北者――の証言だそうです。ですから、この屋敷を含め、彼の財産は、未だ、彼のもの。相続は発生していません。マリアさんに譲るなら、贈与になります」
小林君はそこで話を区切り、一同を見回した。
「さて、最近、マリアさんの周辺で起きた幾つかの異変、最終的には、焼死体となった、一連の事件。これが、ジェイムス氏の財産がらみなら、その陰謀を企てた人物――犯人といったほうが分かりやすいので、犯人としましょう――はこの屋敷に財産が隠され、しかも、本日、マリアさんの誕生日午前零時に、秘密の扉が開くことを知っていたと思われます。なぜなら、陰謀はつい最近、顕著化され始めた。つまり、その日が近づいたから、始まったのですから……」
「それなら、わたくしたちは犯人ではありませんわ。私も夫も、サクラもリーさんも、屋敷の秘密など、全然知らなかったのですから……」
「ちょっと、ヘレンはん、それじゃあ、知っているのは、ワシひとりと仰るんでっか?ワシがその犯人やと……」
「溝塚さん、興奮しないでください。もうひとり、いらっしゃいます。ほら、建物を建てた源吾さんです」
「わ、わしは知らん。隠し金庫は知ってるが、中身までは訊いていない」
「いえ、犯人だと言っているのではありませんよ。その時点で、隠し金庫のことをご存じなのは、ジェイムス氏を除けば、おふたり。マリアさんは幼くて、無理だったでしょうから……。但し、その時点では、です。その後に知った人物がいました」
「誰です?」
と尋ねたのは、庄野であった。
「ジェイムス氏の兄、アルベルトです」
「アルベルト?でも、彼は沖縄にいたんでしょう?どうやって知ったのです?」
「牧師さま、中々お詳しいですね?実は、アルベルトに伝えた人物がいます。本来秘密にすべき事柄を漏らしてしまった……。そうですね?溝塚さん」
「な、何を根拠に……」
「おい、溝塚、調べはついているんだよ」
と、相馬警部補が凄みを利かした口調でそう言った。
「お前さん、当時勤めていた、弁護士事務所で、大金を着服したんだってなぁ。その埋め合わせの金を調達するのに困って、丁度、この屋敷の相続人を探していた時期だったから、アルベルト一家を見つけて、情報を高い値で売りつけた。その金で横領をもみ消し、円満退社をしたわけか?これは、前の事務所の所長や経理担当にきっちり証言を受けていることだからな……。まあ、時効は時効か……」
「た、大金やなんて、ほんのはした金ですワ。眼ぇつぶってくれてもよさそうなのに、あの会計の女……」
と、悔しそうに唇を噛んだ。
「さて、次の仮面を被っている方は……」
と、小林君が話題を変えて一同を見回した。誰もその視線を見つめ返す者はいなかった。
「牧師さま、先ほど、アルベルト氏が沖縄にいたことをご存知でしたね?かなり、この屋敷の家族に関心がおありのようですね?マリアさんはキリスト教の信者ではありますが、カトリック系でしょう?大叔母さまの関係か、ジェイムス氏のほうか?いや、多分、両家ともカトリック信者だと思いますが……」
牧師は無言で頷いた。
「では、牧師さまの仮面を脱いでいただきましょう。牧師さまは我々にお話しくださった以上にマリアさんたちに係わりがある、どちらかといえば、マリアさんの母君、つまり、佳織さまとの係わりが深い方ですね?」
「そこまでお調べですか?そのとおりです。わたしは、マリアの母、楠木佳織の元婚約者でした」
「婚約者……?」
と、礼次が声を上げた。
「はい、戦前のことです。だが、結婚はしなかった。いやできなかった。わたしは戦争を嫌悪しておりました。もちろん宗教家としてもですが、戦争、軍隊、軍人、そういったものが、先天的に受け入れられなかった。そんなわたしに、赤紙――召集令状――が届きました。わたしのとった行動は……。逃げることです。許婚者(いいなずけ)を捨てて、故郷を捨てて、逃亡者になりました……」
「僕は戦後生まれで、戦争は知りませんが、お気持ちはわかります。いや、当時としては受け入れられない考えでしょうが、正しい考え方です。戦争は悪です。牧師さまがマリアさんを見守りたい気持ちが解りました」
「わたしが、戦後の混乱に乗じて、復職できた時、佳織は亡くなっておりました。マリアの消息を知ったのは偶然です。さびれた教会を立て直そうという動きがあり、この村の教会もその一つにすぎませんでした。現地を視察した時、村人が今度、時計屋敷に娘が返ってくると噂していたのです。その娘が佳織の子供、マリアと知って、わたしはこの地に来ることを志願したのです」
「よく解りました。牧師さまの仮面はそういうものだったのです。さて次の方は……、リーさん、あなたです」
「エエッワタシ?ワタシ、仮面、被ってナイヨ、見たマンマヨ」
「元、横須賀の米軍にいらっしゃったとか……?」
「ソウヨ、雑用係ヨ、怪シクナイアルネ」
「それこそ仮面でしょう?本当は、ある組織の一員。情報活動をしている。そう、CIAとかいいましたかね?そこであなたは、スパイの摘発に従事していた」
「リーさんよ。日本の警察を甘く見るなよ。これも裏は取ってあるんだぜ」
小林君の言葉を補足するように、相馬警部補が凄みのある声を発した。
「ム、ムカシのことアルヨ……」
「いえ、この屋敷に雇われたのも、スパイ摘発の仕事の一環でしょう?つまり、ジェイムスさんにスパイの容疑があったってことですね?」
「そ、そこまで、調べているアルカ。ソウヨ、ジェイムスは二重スパイの疑いアルノコトヨ。その証拠が、今夜開かれる、金庫の中にアルノヨ」
「ありませんよ。ジェイムス氏は二重スパイではない。但し、スパイではあったでしょう。アメリカのですが……。我々の調べでは、北朝鮮に潜入するため、わざと戦闘機を撃墜させられ、捕虜となって、敵の情報を探る計画だったそうです。その為、二重スパイの疑いをかけられた。そういう芝居をしていたのですから当然ですよね。さて、次の方は、源吾さんあなたです」
そう言いかけて、腕時計を見る。
「おや、一分前だ。話は中断します。金庫が開く時刻です。金庫の中に、この事件を解明する貴重なものが入っているはずです。一枚の写真ですが……」
そう言いかけたとき、時計屋敷の謂れとなった、時計塔の鐘の音が響いてきた。
グォーン、グォーン……
そして、カタカタという機械音が小林君のいる暖炉側の壁から聞こえてきたのである。
カタンと音がして、暖炉の右側の壁の一部が、下方に下がった。そこに空間が生じたのである。
誰かが、その空間に手を入れ、中にあったものを鷲づかみした。棟梁の源吾であった。同時に彼はその空間の隣の壁を押した。その壁がどんでん返しのように、クルリと百八十度回転し、源吾は壁の中に吸い込まれていったのである。
「くそ、動かないぞ」
相馬警部補が慌ててそのあとを追いかけようと、壁に向かったが、壁は元のように、ただの壁に戻っていた。
小林君は暖炉の横の空間に手を入れ、一枚の紙片を取り出した。それが唯一残されていたものだった。
「やっぱり……」
と、彼はその紙片を見つめて、そう言った……。
13
「小林君、何を見てるんだ?棟梁が遺産を持って逃げたんだぞ」
礼次が声を荒げながらそう言った。
「大丈夫ですよ。抜け穴の出口は解っています。さあ、行きましょう。あっ、刑事さんはそのまま、この連中が逃げないように。まあ、外にも警官隊がいますから、この屋敷からは逃げられませんがね」
私服刑事と使用人、牧師、弁護士を部屋に残して、小林君を先頭に相馬警部補、巡査、礼次が部屋を飛び出す。手には懐中電灯が握られていた。
玄関から飛び出し、小林君が向かったのは、慎次郎が寝起きしていた、元物置の小屋である。その扉を慎重に音がしないように開け、懐中電灯で小屋の中を照らした。
「まだ、到着してないようです」
と、彼は言った。
「ここが、抜け穴の出口なのかね?」
と、礼次が尋ねる。
「静かに、そろそろ出てきます。ライトを消して、扉の傍に待機していてください」
小林君の指示に、一同懐中電灯のスイッチを切った。あたりは物音ひとつしない暗闇に包まれた。
小林君がひとり、板の間に上がっていく気配がした。ほとんど音を立てずに……。
そのわずか数秒後、どこからか、かすかな物音がしてきた。
カタ、カタ、という音。木と木が触れ合って発生する音のようだ。一同、息を殺してその物音の方向を探っていた。
キィーという、木製の扉が開かれるときに発生する軋み音。ガタンと何かがものに接触した音。そして、ふたたび、キィーという扉の軋む音が聞こえた。
その方向に、小さな明かりが灯った。小さな懐中電灯の光であろう。その光はクローゼットの扉が開かれているのを示していた。
ライトが揺れ、どうやら、その光を持つ人物が部屋の中を確認しているようだ。だが、光は弱く、部屋中を照らすほどではない。息をひそめている礼次たちの姿は、その光に捉えられなかった。
ライトを前方に向けたまま、その人物はクローゼットから板の間に前進してきた。板の間の軋む音がした。その時、
「ワァッ」
と、驚きの声が、その人物から発せられた。
懐中電灯が床に転がり、そのすぐ後から、ドン、と大きなものが板の間に倒れる音がした。
「明かりをつけて!」
と、小林君が大きな声を上げた。
懐中電灯の光が三つ灯り、そのすぐ後に、部屋の蛍光灯の明かりが灯された。
礼次の目に飛び込んできたのは、クローゼットの開け放された扉の前に、板の間の方に視線を向けて立っている小林君。そして、板の間にあおむけに転がっている、棟梁――源吾――の姿であった。
「イテテ、いきなり、一本背負いはひどいなあ」
懐中電灯の光を身に浴びながら、床に転がっていた源吾が苦笑いのような表情で言葉を発した。
「抜け穴の出口まで、調べがついていたのかい?そこの学生さんらしい方の指金かい?いやはや、完敗だ。大人しくする。往生際はよくしないとね」
「流石、『横須賀小僧』と綽名まで付けられた盗賊さんですね。無駄な抵抗はしない……」
「な、なんだって!ど、どうしてその綽名を……」
「はい、『日本の警察をなめるんじゃない……』これは僕のセリフではなくて、相馬警部補のセリフでした……」
「なに、お前さんの指紋を照合していたら、戦前、神奈川県で、お屋敷専門の盗賊『横須賀小僧』なんて、呼ばれた盗人の残してた指紋と一致したってことだよ。調べてみようとしたのは、その少年の提言だがね」
「どうして、わしが盗人ではないかと疑ったんだ?」
「あなたの住んでいるお家の間取りですよ。部屋と部屋の間におかしな空間がある。床の間の掛け軸の裏に穴が開いている。侵入者があれば、すぐわかるような仕掛けまで……。まるで忍者屋敷ですよね?」
「そうか、あの日ほんの一時間程度で、それに気がついたのか?しかし、この抜け穴は?そこの物置箱はこちらからは開かない。抜け穴があるとは解らないはずだ」
「ああ、このクローゼット風のロッカーですか?これは不自然すぎます。元々この小屋は物置小屋。その建物に、扉つきのこんな小さなロッカーは要りませんよ。鍵がついているわけでもない。ただの棚にしてもよいのに、わざわざ、扉をつけている。何かを隠したい、そう思えますよね?それで、少し寸法を測ってみたら、奥行きが足りない。人ひとり入れるくらいの空間がある。そして、この小屋もあなたの作られたもの。あの忍者屋敷と同じ仕掛けがあってもおかしくありませんよね?」
「いや、そんなことより、隠し金庫から盗んだものを返してもらおう」
源吾と小林君の問答に割って入ったのは礼次である。左手に懐中電灯を持ったまま、右手を差し出した。
「盗んだ?わしは何も盗んじゃいませんぜ。何なら裸になりましょうか?」
「何を言っている。金庫の扉が開いたと同時に、中のものを盗み出して、どんでん返しの壁に飛び込んだじゃないか。しらばっくれても無駄だ。おい、こいつの身体検査だ」
大きな目をむき出しにして、相馬警部補が隣に立っている巡査に命じた。
巡査が源吾の体を調べるが、これといったものは出てこない。ピースの箱にマッチ。ほかは財布と、手拭くらいである。さいふの中身は、一万五千円程度。小銭が少々あるが、お宝のようなものは入っていない。
「さては、抜け穴の途中に隠してきたな?取敢えず身柄を確保だ。派出所の留置所へ放り込んどけ」
「へえ?いったい何の罪で?わしは抜け穴を潜り抜けてきただけ。逮捕されるような悪事は働いちゃあいませんぜ」
「うるさい、盗人猛々しいとは貴様のことだ。窃盗容疑。抜け穴を調べればすぐに解ることだ」
「抜け穴を調べる?どうやって?こっちからは、開かない。いや、屋敷の方からも開きませんぜ。あれも時計仕掛けなもんでね。屋敷を壊すしかないね。それに、そこまでして抜け穴を探しても、何にも出ちゃあきませんよ。今、通ってきた本人が言うんだから、間違いなしでさぁ」
薄ら笑いを浮かべてそう言い切った源吾の両手に手錠をかけ、相馬警部補と巡査は小屋をあとにした。
「本当にこちらからは開かないのかねぇ?」
と、言って、礼次がクローゼットの中を確認する。
長方形の箱型のクローゼットのどこにも抜け穴へ通じる仕掛けは見つからなかった。
「壁ごと壊すしかないか……」
「その必要はありません。抜け穴の探索自体が無駄です」
「何だって?どういう意味だね?」
「棟梁は噓を言っていない。抜け穴に盗んだものは隠していないってことですよ」
*
相馬警部補と巡査は一旦、派出所へ向かった。棟梁の源吾は留置所に留め置かれ、明朝、取り調べをすることとなった。
礼次と小林君は元の応接室に帰ってきた。待機していた私服刑事に源吾逮捕を伝える。屋敷の使用人と、弁護士、牧師は大人しくソファーに座っていた。
「棟梁は捕まったそうですが、財産は?ジェイムスの隠していた……」
そう切り出したのは、ヘレンである。
「大丈夫です。今取り調べ中ですから……。それより、先ほどの続きを始めましょう。源吾さんの仮面の話の途中でしたね」
「そ、そんなことは、どうでもエイこってでしょうが、お宝ですがな、問題は。それが見とうて、こんな深夜に雁首揃えておりますんやで……」
小林君の言葉を、大げさな態度で遮ったのは、弁護士の溝塚であった。
「残念ながら、盗難事件の証拠品ですから、しばらくは、お目にかかれないでしょう。警察が保管しています。いずれは帰ってきますが……」
小林君は真実を隠してそう言った。
「何や、がっかりでんなぁ」
「そうがっかりすることはありませんよ。元々、お宝、財産など、ここには入っていなかったのですから」
「ええっ、財産がなかった?」
そう大きな声を上げたのは、また、ヘレンであった。
「ヘレンさん、そんなに財産に興味がおありですか?貴女にはあまり関係のないお話だと思うんですが……」
「い、いえ、この屋敷の使用人として……、興味が……」
「まあ、いいでしょう。あなたの仮面も後ほど、外していただきますから……」
「仮面?わたしは何の仮面も被ってはいませんよ」
「そうでしょうか?ヘレンさんの過去も興味深いものだと、調べがついているのですがね?でも、順序がありますから……
先ほど、棟梁が鷲掴みにしていったものは、書類のようでした。おそらく、ジェイムス氏の手紙か遺言状の類でしょう。しかし、本人は生存している可能性が高い。遺言状はまだ執行できません。財産の処分も、さて、どうなりますか……」
*
「藤岡さん、相馬主任から緊急の伝言です」
小林君の真相解明は、一旦持ち越しとなった。使用人や、牧師、弁護士を各人に与えられた部屋に戻した後、応接室に残っているのは、礼次と小林君、それに私服刑事であった。突然ドアを開けて、警察官が入って来た。藤岡と呼ばれたのは、部屋に待機していたその私服刑事の名前だった。
「なに?焼死体が……」
警察官に耳打ちされた藤岡刑事が驚いた声を上げた。
「どうやら、焼死体の検死結果が出たようですね?」
と、小林君が言った。
刑事が無言で頷いた。
「焼死体はマリアさんではなかった、男の死体だったでしょう?」
「ええっ、どうしてそれを……?」
藤岡刑事が警察官からの伝言を訊いた時以上に驚きの声を上げる。
「理由は幾つかあります。一番は、死体が真っ黒焦げであったのに、金髪の髪の毛が焼け残っていたこと。不自然ですよね?つまり、偽装です。死体がマリアさんであると思わすための……。それと、あそこまで、黒焦げにする必要が何故あったのか、それは死体が男性だった、多分慎次郎さんの遺体でしょう」
「それと、追加の報告ですが……」
小林君の説明が途切れた処を見計らって、先ほど伝言をもたらした警察官が言葉を発した。
「何かね?」
と、礼次が尋ねる。
「はい、火災現場を検証しておりましたら、ダイナマイトが見つかったそうです」
「ダ、ダイナマイト?」
と、礼次が警察官の言葉に驚愕する。
「但し、水につかった状態で……、いえ、消火の際ではなく、火災発生の前に水浸しになっていたようで……」
「要領を得んなあ、どんな状態で、何本のダイナマイトが見つかったんだね?」
「はい、本数は三本、小さな木箱に入っていたのですが、そこに偶然でしょうか、飲料用の水を通していたパイプが折れて、貯水している水槽の水が全部、木箱からダイナマイトに降り注いでしまったらしいのです」
牧師館は上水道の設備がなく、谷川の水を一旦貯水槽にため、浄化し、その水をパイプで小屋の中の貯水用の大きな甕に流し込んでいるのである。そのパイプが途中で壊れて、甕に流れるはずの水がダイナマイトの入った木箱に流れ込んだらしい。
「そ、それじゃあ、もし、水がかかっていなかったら……」
「大爆発、遺体どころか、小屋もあとかたもなく……だったでしょうね」
14
焼死体が、マリアでなく、おそらく、慎次郎のものだとすれば、状況が変わってくるのである。小林君はすでに、その事は察していたらしい。真相究明も続けられたのだが、時刻は真夜中を過ぎていた、と言うより早朝に近くなっていた。相馬警部補も県警との連絡で慌しく、屋敷に来られなくなっている。そこで、夜が明けてから、再度集合することとなった。使用人や、牧師、弁護士には、死体がマリアでなかったことは知らせていない。また、全員、逃亡を防ぐために、警察官が交代で警備している。
二階の寝室に帰る前に、小林君は隠し金庫の扉が閉まらないように、書棚の百科事典を持ってきて、扉につっかい棒のようにしておいた。時限装置付きの扉なので、自動的に閉まってしまう可能性があったのである。
「火災現場の死体が、慎次郎だとすると、マリアさんはどうしたんだろう?確か、教会へ向かっているマリアさんを我々は目撃している。途中に隠れて、我々が通り過ぎてから、道を引き返したかもしれないが………」
部屋に帰って、礼次が小林君に疑問を投げかけた。
「所長、もうお解りでしょう?マリアさんのあの行動は、偽装ですよ」
「つまり、夢遊病ではなく、我々を欺いて、教会まで導いたってことだね?」
「そう、そして、火事により死亡したと見せかけたかったってことです」
「何故?どうも解らん、何故、死んだことにしないといけないんだ?」
「その謎が、今回の事件の動機に繋がっています。つまり、遺産相続……」
「おかしいよ、マリアは相続人だ。死んでしまっては、相続できない。何故、自らの相続権を放棄するんだ?しかも、唯、要らないと言えば済むことを、偽装死までして……」
「ですから、マリア以外の相続人の陰謀、ということですね」
「それなら、伯父のアルベルトかその周辺の人物が係わっていることになる。マリアがそんな連中と関係を持っているとは思えんが……」
「そう、マリアさんは係わっていません」
「そうか、マリアは生きている。だが、陰謀をたくらんでいる人物に拉致されたんだ。死んだことにして……」
「ええ、マリアさんは生きています。でも、拉致はされていませんよ。そして、今回の事件には、ほとんど、いや、全く関与していないと思います」
「何を言っているんだね?訳が解らんよ……」
*
夜が明けると小林君は仮眠をとった程度であるにもかかわらず、派出所の相馬警部補に連絡をとった。
「教会の火災現場で見つかった、ダイナマイトですが、出処は?そうですか、ダムの工事現場で、紛失の届けがあった……。三日前、解りました。それと、金沢の方は?はい、それで結構です。では、十時に集合ということで、よろしくお願いします」
小林君の電話での会話を隣で訊きながら、礼次は首をかしげている。
「ダイナマイトは解るが、金沢の件、何のことだね?」
「十時から、再び、真相解明を始めます。それには間に合いませんが、金沢からある人物をお招きしています。それで、確認していたのです」
「ある人物?誰だね?」
「所長のご存じの方です。まだ、逢ってはいませんが……」
「ああ、マリアの大伯母さん、小日向洋子さんか」
礼次の納得した言葉に、小林君は答えなかった。
「さて、何か朝食になる物を頂きますか、サクラさんもヘレンさんも食事の準備は無理でしょうから……」
そう言って部屋を後にする。礼次も慌てて、その後に続いた。
小林君の予想に反して、サクラが起きており、トーストとサラダ、コーヒーくらいしかありませんが、と言って、テーブルの上に用意を始めた。
トーストが焼き上がった頃、牧師の庄野、続いて、リーと弁護士の溝塚があくびをしながら、食堂に入って来た。最後にトーマスとヘレン夫婦が寝不足気味の眼を瞬きながら、テーブルについた。
いつもなら、決って減らず口をたたく、溝塚も、無言で二枚目のトーストをかじっている。
「十時から、また、警察による取り調べがあります。昨晩の続きと、新たに判明したことを皆さんにお伝えします。それまでは屋敷内でご自由に……」
各人が、コーヒーを飲み始める頃を見計らって、小林君が言った。
「犯人は、大工の棟梁の、エーと、源吾とかいいましたか、あの男だったんでしょう?もう、あとは警察に任したらよろしいがな、ここには、遺言状もないし、居っても、しょうおまへんがな……」
「溝塚さん、残念ながら、棟梁は、殺人には関与していません。教会の牧師館に火をつけ、殺人を犯した者は他にいます」
「そ、それは、この中に、ってことでっか?」
「それは後ほど、警察官の同席でないと……」
*
午前十時の時計台の鐘が厳かになり始めた。応接室には、礼次、小林君を初め、トーマス、ヘレン、サクラ、リー、庄野、溝塚、それと、藤岡刑事と巡査が一名がそれぞれ、ソファーや居りたたみの椅子に座っている。
時計台の鐘が、鳴り終わった頃、ドアがノックされて、相馬警部補が巡査と棟梁の源吾――手錠と腰縄を付けられた状態の――を引き連れて部屋に入って来た。
「お待たせしましたな。皆さんお揃いで、では始めましょうかな」
相馬警部補が、居りたたみの椅子に腰を掛け、隣に源吾を座らせる。巡査はその後ろに立っている。
「おい、手錠はともかく、腰縄は外せよ。ワシは何もしてない。何も盗んでない。不当逮捕、言ってるだろうが……」
源吾が、自分の立場を主張する。
「金庫が開いたから、中を確かめた。それと、壁のどんでん返しは、ワシが作ったもの。その出来栄えと、通路を点検に飛び込んだだけ。犯罪行為はまるでしてない。どうだい、納得したかい?手錠も腰縄も外せよ」
「はい、棟梁のおっしゃるとおりです。でも、金庫内に何かあったら、取り出すつもりだったでしょう?何もなかったから、咄嗟に、自分の懐から、手拭を取り出して、あたかも、金庫内の物を取り出したかのように見せた。手品師のような技でしたね」
小林君の言葉に源吾は眼を瞠り、無言のまま唇を噛んでいる。
「『横須賀小僧』と異名をとったあなたなら、縄抜けや手錠の鍵を開けるのもお手のものでしょうから、今しばらくは、そのまま、僕の話を訊いていてください。無実と解れば、手錠も外してもらえますよ」
「ちょ、ちょっと、待っておくれやす。そしたら、金庫に何も入ってなかった、ちゅうんでっか?遺言状も、お宝も……?」
溝塚が顔を赤く染めながら、小林君に問い詰める。
「いえ、まず、一枚の紙片がありました。ジェイムス氏が大切なもの、と言っていたのはこれのことだと思います」
「何です、その紙片とは……?」
「後ほどお目にかけます。それより、昨晩の続きです。棟梁が怪しい行動をしてくれたおかげで、皆さんの仮面を剥ぐ話が止まってしまいました。まずは棟梁の仮面は先ほど言いましたが、『横須賀小僧』と呼ばれる盗賊です。戦前、金持ちのお屋敷など、を専門にあらしていた盗賊です。わずかに残っていた指紋があり、それが、棟梁の指紋と一致しました」
「ああ、けど、もう全て、時効になっているはずだろう?そんな罪ではワシを逮捕はできないはずだ」
「そうですね、戦前の話ですから、二十年は経っています。だけど、あなたが『横須賀小僧』だった事実は消えませんよ。そして、最後に盗みに入ったのが、横須賀のジェイムス氏のお屋敷。そこで、ジェイムス氏に捕えられた……」
「な、なんでそこまで……」
「ある方に、訊いています。ジェイムス氏はあなたの見事な侵入ぶりに感心して、罪を許した。おそらく、忍者の子孫とでも思ったのでしょうね。自らも特殊な任務を与えられた人間として、大いに興味を抱いたのでしょう。そして、あなたが本職は宮大工の凄腕の棟梁と知って、新たな屋敷の建築の手伝いを依頼した。あなたは、罪を償う意味で、その申し出を受け入れた」
「ああ、そのとおり。ワシが盗みに失敗したのは、あれが最初で最後だよ。それで、盗みから足を洗った。元々、金目当てじゃない。己の能力を試していただけさ。ジェイムスはいい男だよ。ワシの技術を学びたいと言って、盗人に弟子入り志願したんだからな。その、弟子の大事なお宝を、汚い奴が狙っている。それが許せなかったから、こうして屋敷に乗り込んで来たんだが、ジェイムスの方が一枚上手だった。金庫にお宝を入れておかなかったんだからな」
「そういう訳で、棟梁は事件に関係を持っていた。では、次の仮面を被っている方を紹介しましょうか」
小林君はそう言って、一同を見廻した。
「次は、ここには居ない人物です。庭師の慎次郎さん。彼も仮面を被っていました。そのひとつが、棟梁の部下、つまり、盗賊の一味だったってことです。ただし、彼が盗みを働いたことはありません。手解(てほど)きを受けただけ。何故なら、棟梁は足を洗っていたからです。それでも、いざという時のために、訓練というか、技術は身に着けていた、そうですね、源吾さん?」
「ああ、慎次は最後の手下さ。この世を生き抜くための、ひとつの手段としての盗みの技術を教えておいたのさ」
「でも、慎次郎さんにはもうひとつ、仮面がありました。いえ、本人は隠していたのではない。我々が知らなかっただけなんです。それは、また後ほどの話になります」
*
小林君がそこまで語り終えた時、突然ドアがノックされた。制服姿の警察官がドアを開け入って来た。ドア近くにいた相馬警部補に一礼して、耳元で何かを囁いた。
「そうか、確保したか……」
と、相馬警部補が頷きながら、小声で言った。その言葉に、小林君が深く肯いた。
「さて、もうひとり、ここにいない人物の仮面を剥ぐことになりました。まずはこれをご覧ください」
そう言って、小林君はバインダーの間から一枚の紙片を取り出した。それを右手に掲げ、一同の視線をその紙片に集中させた。
「これが、この隠し金庫に入っていた、一枚の紙片、先ほどお話しした、ジェイムス氏の大切な品物です」
それは、四つ切りに引き伸ばされたモノクロ写真であった。三人の人物が写っている。背景に時計台が見えている。
「それは、家族写真ですね?」
と、牧師が言った。
「そうです、この屋敷の前で写した、ジェイムスさんと奥さまの佳織さま、そして、ジェイムスさんに抱っこされている少女がマリアさんです」
大柄な、外国人の両腕に抱えられて、帽子を被った、二歳ぐらいの少女が中央にいた。
「よくご覧ください。白黒なので、はっきりしませんが、少女の髪の毛は、あきらかに黒に近い色をしています。そして瞳も少し、うすい気もしますが、青い眼ではありません。お顔もお母さまによく似て居られて、どちらかというと、日本人の容貌です。棟梁、あなたがシャッターを押した写真で間違いありませんね?」
「ああ、間違いない。この娘がマリアさんだ。母親によく似ていた。えっ?じゃあ、この前家に来たあの娘は……?」
「そう、贋者です。つまり、この屋敷に住んでいたマリアと名乗った娘は、この写真の娘さんではありません」
「そんなバカな。あの子はマリアです。ジェイムスの娘に間違いありません。髪の毛の色など、成長して変わることもあるのよ」
そう、大きな声を上げたのは家政婦のヘレンであった。
「確かに、少しは変化することもあります。赤毛が金髪に近くなることも……。だが、黒髪、或いは濃い茶色の髪が、金髪になることはない。まして、黒い瞳が青い眼になることなどありえません。それともうひとつ、徹底的な証拠があります。この写真の裏には手形が押されています」
そう言って、小林君は写真を裏返す。そこには小さな掌の黒い手形が押されていた。子供の左手の手形である。
「この指紋とこの屋敷に住んでいた娘の指紋、彼女の部屋の鏡台から採取したものと比べれば、別人であるとはっきり解ります。指紋は成長しても変わりませんからね」
「そ、その手形がマリアのものとどうして解るの?」
「サインがあります。ジェイムスさんの字で、『最愛の娘マリア、二歳』と、いう文字と、ジェイムスさんと佳織さんのサインです。それともうひとつ、これは左手、マリアさんは父親と同じく、左利きだったと思われます。この屋敷の娘は食事の時も右利きでしたし、テニスのサーブを打つ仕草をした時も、右利きでした」
「どうして、左利きと言い切れるのよ」
「ヘレンさん、マリアさんが左利きであったことは、小学校の同級生から確認が取れているのですよ。その同級生の一人が、もうひとつの仮面を被っていた、慎次郎さんだったのです。そして、仲の良かった女友達に、慎次郎さんは確認の電話をしています。その女性から、僕自身が聴き取りをしています」
「そ、そんなバカな。マリアは横須賀にいたのよ。慎次郎は石川県育ちのはずよ」
「では、ヘレンさんに質問します。マリアさんは何処の小学校を出ていますか?」
「そ、そんなこと私が知る訳ないでしょう」
「そう、残念ながら、あなた方はそこまで調べられなかったんですよね?マリアさんは、お母さまの佳織さんが、不慮の事故、火事に巻き込まれて亡くなった後、一時孤児院に収監されました。だが、小学校に入る頃に、知人に引き取られています。孤児院がその頃突然閉鎖になった。身元の解る書類や、その後の行く先も解らなくなってしまったのです。知人というのが誰ということも……」
「そうよ、その知人の方がお亡くなりになって、わたしたち夫婦が身元引受人になったのよ」
「そこも、残念ですね。その知人の方はご存命です。しかも、マリアさんは今でもその方と暮らしていらっしゃいます」
「そ、そんはアホな……、ワシが調べて、見つけられへんかったのに……」
「ほほう、溝塚さん、つまり、あなたはこの屋敷にいた娘がマリア本人でないことを知っていたということですね?」
「い、いや、その、孤児院が潰れた後、行方が解らへんようになって……、その後、戸籍で探しても見つけられへんかった……、それが何年後かに、アメリカン・スクールにその子が入学して……」
「つまり、戸籍が途切れていた?」
「そうや、ジェイムスの娘は行方不明で……」
「そう、知人に引き取られたその子は、マリアという名ではなかった。いえ、最初からマリアという娘は存在しなかったのです」
「な、何を言っているんだ君は、じゃあこの写真の子供は?ジェイムスさんのサインは、どういうことだ」
と、源吾が小林君に喰ってかかる。
「マリアという名は、ジェイムスさんがそう呼んでいただけなんです。愛称と言っても良いかもしれませんが……。本名は『毬子』。手毬のマリという漢字です。カトリックのジェイムスさんは、その日本人の名をマリアという愛称で呼んでいた。それを周りの人たちが本名と勘違いをしていたのです。そして、毬子さんは、その知人の養女となりました。大伯母に当たる、小日向洋子さんの娘として、今は小日向毬子さんと名乗っています。金沢の孤児院のシスターです。僕が金沢の孤児院にお伺いした時は、生憎外出中で逢うことは叶いませんでしたが、大伯母の洋子さまにお目にかかって、毬子という、ジェイムスさんと佳織さんの娘を預かっていることを教えていただきました。さっきの源吾さんの過去のお話も、小日向洋子さんからの情報です。間もなく、毬子さま本人が、この屋敷にやってくることになっています。そして、もうひとりのマリアと名乗っていた少女も訪れるはずです」
15
「何ですって?この屋敷にいたマリアは、火事で亡くなったのでしょう?」
そう尋ねたのは、牧師の庄野であった。焼死体が男性であったこと、おそらく、慎次郎であったことは伏せられていたのだから、当然の疑問だ。
「ああ、その件に関しては、わたしから報告させていただきます」
と、言ったのは相馬警部補である。
「検死の結果、焼死体は男性のものと判明しました。今、残された歯型を照合していますが、この屋敷で庭師として働いていた、山田慎次郎と推定されました」
「し,慎次郎?焼死体って、殺されて焼かれた、ってことですかい?」
「源吾さん、そのとおりです。殺人事件として、捜査が始まっています」
と、棟梁の質問に小林君が答えた。
「な、何で、慎次の野郎が殺されなきゃ、ならねェんだ?あいつは、遺産相続には全く関係ねェんだぜ。ただ、小学校の時の可愛かった同級生に逢いたかったんだ。あいつの初恋だったんだ……」
「マリアさんが贋者と知ったからです。ただ、彼を物置小屋から拉致した人物は別の目的があったのですが……」
「解っているのかい、慎次を殺した犯人、って奴が……?」
「はい、拉致した人物は……、リーさんあなたです」
「ナ、ナニ言ってるネ、ワタシ、知らないアルヨ」
「リーさん、あなたは内線電話を盗聴していましたね?しらばっくれてもダメです。ちゃんと実験して、盗聴者はあなただと確定できているんです」
小林君は、火事の後の各人の部屋に電話した時の受話器の落ちる音の説明をした。
「あなたは、この屋敷で、ジェイムスさんが敵国のスパイである証拠を探していた。だから、電話の盗聴は日常的だったでしょう。慎次郎さんが夜中に僕に掛けた電話も盗聴していましたね?そして、慎次郎さんが何か秘密を掴んだことに気が付いた。そして、早朝、彼を拉致し、ガレージに監禁した」
「ガレージに慎次郎を縛ったロープがあったよ。血痕が残っていてね。慎次郎の血液型と一致した」
と、警部補が言った。
「認めるアルヨ。拉致したことはネ。ケド、殺してはいないアルヨ。マシテ、教会の小屋に火を付けてはいないアルヨ」
「ええ、殺人犯は別にいます。マリアさんが贋者としられては困る人物がね……」
「誰アルネ、ワタシに罪を着せようとした人間は……?」
「あなたの隣に座っている方です」
*
「ホホホホ、リーさんの隣に座っているのは、わたしですわ。このわたしが殺人犯?ただの家政婦のわたしが、何で慎次郎さんを殺さなければならないのでしょう?」
「ヘレンさん、それはあなたが、ただの家政婦ではないからです」
「ただの家政婦ではない?ではわたしは何者かしら?自分でも解らないのに、他人のあなたがお解りになるの?」
「はい、昨晩も言いましたが、あなたも仮面を被っていらっしゃる」
「まあ、仮面なんか被っておりませんことよ。化粧も薄めですし、ホホホホ……」
「あなたとトーマスさんはご夫婦で、マリアと名乗っていた娘の身元引受人でしたね?」
「おや、そのこと?マリアが贋者なんて、まだ信じられませんけど、仮に彼女が贋者であったとしても、わたしどもは、ジェイムスの娘と思って身元を引き受けたのですよ。横須賀時代の多少の縁があった、同国人ですからね」
「その多少の縁とは、どんなご関係でしょうか?」
「あらあら、そのくらいはもうお調べではなかったの?ジェイムスの横須賀の屋敷の近所にアメリカ人の夫婦が住んでいて、そこの使用人だったのですわ、私ども夫婦は……」
「確かに、トーマス、ヘレンという夫婦がおりましたね。だが、あなたたちではない。残念ながら、横須賀の方で調査の結果、そのアメリカ人のご夫婦は本国に帰国。トーマス、ヘレン夫婦もその後、帰国なさっていますよ。しかも、あなた方の写真を近所の方々に見せたところ、全く知らない、トーマス夫婦とは別人だと、証言を貰っているんです。つまり、マリア同様、あなた方夫婦も『ニセモノ』ということですよ。リズさん」
「リズ?リズって誰のことなんだ?」
小林君の言葉尻を捉えて源吾が質問をした。
「ここにおいでの『ヘレン』と名乗っている、偽家政婦の女性です」
「ああ、それは解るが、リズというのは……?」
「棟梁はご存じなかったのでしょうか?ジェイムスさんのお兄さま、アルベルトさんの奥さま。エリザベス・シンプソン、通称、リズさんです」
部屋の中の全員――二人の夫婦を除いて――が赤毛の中年家政婦に視線を集中した。
「ホホホホ、わたしがエリザベス・シンプソン?アルベルトの妻?何を証拠に……。わたしがリズなら、夫は――トーマスは――アルベルトだとおっしゃるの?」
「そうだよ。日本の警察を舐めるんじゃねぇ。GHQの時代じゃないんだ。照会すれば、ちゃんと、回答をくれるんだよ。あんたがた二人の顔写真付きでね」
相馬警部補が、両手に一枚ずつ、正面から写された男女の写真を提示した。それには、赤毛の女性、もうひとつは、まだ、金髪の髪の毛が残っている時代のトーマスの顔写真であった。
二人の顔色が変わる。ヘレン、いや、リズは言葉を失っていた。
「た、確かに、我々夫婦は、アルベルトとリズだ。認めよう。だが、これには理由がある。我々が本名を名乗っていたら、それこそ遺産目当てだと思われる。だから身分を隠していた。マリアを本当の姪だと思っていたんだ。ジェイムスが帰還するまで、大切に預かるためにね。それをとやかく言われる筋合いはない。ましてや、やってもいない殺人の犯人にされる覚えなどありはしないぞ」
「ヘレンさん、いえ、リズさんと今後はお呼びしましょう、リズさんはどうですか?殺人を犯していないと、神に誓えますか?」
「や、殺(や)っていない。何を証拠に、わたしを殺人犯だと……?」
「証拠はあります。犯行に使われた細身のナイフ。犯行の後、洗ったようですが、血液反応が出ています。深く差したせいでしょうか、刃の根元には洗い残しの血液がありました。そして、ナイフの柄にはあなたの指紋が、はっきり残っていました」
「う、嘘よ、ナイフは残って……」
そこまで言って、リズははっと気が付いて言葉を止めた。誘導尋問だと思ったのである。
「ナイフは処分した。あの火災現場で、一緒に燃やしたはずだと、そうおっしゃりたいのですね?」
「な、何のことかしら?ナイフなんて存じませんことよ」
「では、教えましょう。あなたは、マリアさんに頼まれて、リーさんに僕を駅まで送っていくよう伝えに行った。リーさんの様子がいつもと違うことに気づいたあなたは、ガレージを覘き、ロープに縛られ、猿ぐつわをされている慎次郎さんを発見した。猿ぐつわを取ってあげると、慎次郎さんは、リーさんに拉致されたこと、そして、マリアさんが贋者だってことを思わずしゃべってしまった。あなたはロープが固いから解けない、ロープを切るものを持ってくると言って、一旦外に出る。台所から、細めのナイフを持ってきて、ロープを切るふりをして慎次郎さんに近づく。そして、ナイフで心臓を一突き……」
「う、嘘よ、出鱈目よ……」
「まあ、続きがありますから訊いてください。その後、トーマスさん――いやアルベルトさん――を呼んで、死体を別の場所に移す。おそらく勝手口から入った辺りに運んで、ビニールシートで包んでからナイフを抜き取った。解いたロープはガレージに戻しておく。リーさんの犯行に見せかけるために……。そして、ナイフを洗い、台所の元の位置に返しておいた。慎次郎さんの捜索が一段落したあと、暗くなってから、死体を教会近くの雑木林に運んで行った。ナイフはその時まだ、台所にあったのです。あなたは死体を運んだ後にそれに気づいた。ナイフを処理したのは、ずいぶん遅くなった。あのマリアさんの夢遊病騒ぎに紛れて、持ち出したのです。つまり、凶器のナイフは、朝から、深夜まで、台所の定位置に置かれていた。誰かが、隣にある同じ種類の別のものと入れ替えたとしても、あなた方は気が付かなかったでしょうね?」
「い、入れ替えた?だ、誰がそんなこと……?えっ?まさか、あんたが……?」
「そう、金沢から帰ってきて、慎次郎さんの小屋を調べた後、ちょっと台所へ入ってみたんですよ」
「そ、それで、血の付いたナイフを見つけたっていうの?」
「そういうことです。台所にあった手ごろな――人を刺し殺すのにですが――を探したら、怪しいのが一本。他は使われた形跡がないのに、一本だけ、柄が濡れていた。しかも、血痕らしい赤みがかったものが、付着していましたからね。取敢えず、抜き取って、隣のナイフと交換しておきましたよ。だから、あなた方が処分したナイフは、隣にあったナイフです。血痕の付着したナイフは警察で鑑定してもらっています。まもなく、血痕が慎次郎さんのものと一致したと報告が入るはずですよ」
*
「こいつらが慎次を殺した犯人か?それは解った。が、どう考えても解(げ)せねェことがある。マリアと名乗った贋者だが、何で、死んだことにしなくちゃならなかったんだ?しかも、二十歳になる前の日に……?」
小林君の真相解明の話に、リズとアルベルトは黙ってしまった。その沈黙の間を利用するように源吾が言葉を発した。
「棟梁、良い質問ですね。その種明かしはもう少し後で……」
「いやに、気を待たせるじゃあねェか、そしたら、もう一つ質問だ。あのマリアと名乗った娘だが、確かにその写真の娘とは別人のようだ。だが、わしが逢った時感じた、父親にそっくり、つまりジェイムスさんの娘と言われても疑問に感じなかった。これはどういうことなんだ?」
「まさか、ジェイムスさんに佳織さん以外の女性がいて、つまり、隠し子、ってことなんですか?」
「牧師さん、あの娘さんは、二十歳前後。もし、隠し子がいたとしたら、ご結婚後にできた子供になりますよ。カトリックの信者であるジェイムスさんがそのような行為をなされるとは思いませんね。ただ、他人の空似ではない。としたら、結論はただ一つ。彼女は姪、つまり、アルベルトさんとリズさんの娘のエマさんだということです。叔父さんにそっくりな姪ということでしょうね」
「ちょっと待ってください。それなら、この二人の娘」
と、牧師は赤毛の女性と、禿あがった頭髪の男性を指さして言った。
「自分の娘をマリアだと間違うはずはありませんよね?」
「つまり、こいつらは、最初から世間を欺いていやがったんだな?」
と、棟梁が小林君に確認するように言った。
「そう、それもこれも、ジェイムスさんの財産を合法的に手に入れるためです」
「合法的に……?つまり、法定相続人として、名乗りを上げるということですか?」
牧師が小林君に尋ねる。誰もが小林君の説明に聴き惚れてしまっている。
「ここで、先ほど棟梁が疑問に思ったことの回答が出てくるのです。何故、マリアさんが死んだことにしないといけなかったか?それも、二十歳になる前に……」
「そうか、二十歳になると、ジェイムスの財産がすべてマリアさんに譲られてしまう。そうなると、アルベルトは法定相続人から外れる、ってことですね?」
牧師の質問に、小林君は無言で頷く。
「だけど、ジェイムスは死んでいないんだろう?相続はまだ始まっていないんじゃあないのか?」
「棟梁、ジェイムスさんが生存している可能性が高いと解ったのは、ほんの最近のこと。しかも、一部の人間しか知らないことです。アルベルトさんとリズさんは知らなかった。そして、生存不明者として申告すれば、何年か後に、死亡認定が下りると考えていたのです。それまで、財産が誰にも移譲されず、現状のままであれば、唯一の相続人は、アルベルトさんただ一人となります」
「そうか、マリアに移譲されないようにする為か……」
「でも、本物のマリアさんは生きているんですよね?」
「牧師さん、先にお話ししたように、マリア・シンプソンという女性は存在しないのです。ですから、アルベルトさんらは、マリアの存在を確認できなかった。孤児院の突然の閉鎖のため、戸籍が途切れてしまった。つまり、生死を確認できなかった。但し、遺産相続が発生する前に、死亡とする事件が発生していれば、マリア・シンプソンというジェイムスさんの相続人はいなくなるのです。後で、毬子さんが名乗りを上げても、その時は遺産は処分されてしまっていたでしょう」
*
小林君はそこで一旦話を区切り、アルベルトとリズに視線を向けた。二人は無言のまま。ただ、リズが恐ろしい眼差しで小林君を睨んでいた。
「何から何まで、作り話よ。この小僧が勝手に想像した絵空事じゃあないの。ナイフの指紋だって、元々わたしが保管してたものだもの、わたしの指紋が付いていたっておかしくないわ。他の誰かが指紋を付けないように、手袋でもして使ったのよ。そ、それに、わたしにはアリバイがあるわ。あの、火事があった時、わたしはこの屋敷にいた。夫はあなたたちと一緒にいたはずよ。だから、わたしたちはできない。エマ、そうマリアと名乗っていたのはエマよ。だけど、あの娘(こ)にもできないのよ。あの火事はわたしたちの放火じゃない。誰かが慎次郎を殺して、牧師館に隠しておいた。火事は偶然起こった可能性だってあるわ。囲炉裏で魚を焼いたりしていたそうだから、その残り火が引火したってことも考えられる……」
いきなり、リズは大声で反論を始めたのだ。
「リズさん。マリアと名乗っていた女性をあなたの娘さんのエマさんと認めましたね?では、何故、エマさんをマリアと名乗らせたのですか?」
「それはわたしが説明するよ」
と、アルベルトが切り出した。
「マリアの生死が不明だった。ジェイムスもだ。だが、この屋敷の秘密の扉が開かれる時が迫っていた。我々親子が、本名のまま、この屋敷に乗り込んできたらどうなる?財産目当てと思われることは眼に見えていた。だが、扉が開く時間に立ち合わなければならない。だから、エマをマリアに仕立て、我々は偽名まで使って、この屋敷に来たんだ。全ては弟の財産を守るためだ。ここにいる、大工や庭師や牧師と言っている男たちに奪われないためにね。エマは別に偽装死したんじゃない。あの娘は、自分がマリアとして、扉が開く時間にここにいることに罪の意識を感じただけだ。だから、黙って旅に出ただけだ……」
「ほほう、中々、上手い言い訳を考えましたね。でも幾つかほころびがあります。まず、エマさんの夢遊病を演じたこと。リズさんは僕の問いに『お嬢さまは以前にも夜中に彷徨うことがお有りになりました』と言いましたね?つまり、あの出来事は、あなたたちが演じたお芝居だった。そして、捜索隊をあの教会に導いたのは、アルベルトさんでした。エマさんの振りをしていたのは、サクラさん、あなたでしたね?」
小林君が人差し指をメイドに向ける。サクラは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「あの火事が偶然でないことは、焼死体の状況から明らかです。死体の周りにガソリンが撒かれていました。あの小屋にはガソリンはなかったはずです。そして、ダムの工事現場から盗まれた、ダイナマイトまで置かれていたのですから……」
小林君は、サクラのことは放っておいて、リズの言い訳のほころびを指摘した。
「ダイナマイトが爆発しなかったことが、誤算でしたね。証拠の幾つかが、残されましたから、慎次郎さんの性別が判断できたことが第一ですけど……」
「でも、誰が火をつけたのです?」
と、牧師が尋ねた。
「サクラさんです」
「サクラ?でも、サクラはあなた方と合流して、教会の門の前にいたんでしょう?」
「ええ、火がついたと思われる時は、です。少し順を追ってお話しましょう。僕と所長がマリアさんと思しき人物が、屋根から庭を彷徨っている姿を見つけた処からです。あれは、サクラさんがマリア、いえ、エマさんのネグリジェを着て金髪の鬘を被っていたものでした。通用門の扉を開け、外に飛び出したと見せかけ、ネグリジェを脱ぎます。下は黒い薄手のシャツ。夜陰に紛れて庭を横切り、屋敷に戻ります。そして、何喰わない顔をして、マリアさんの捜索に加わったのです。しかも、パートナーをトーマス、つまりアルベルトと組むことにして……。ふたりはマリアを探すふりをして、残りの捜索隊の行動を監視します。僕が教会の方の探索を終えて帰って来たのを見計らって、ふたりは慎次郎の死体を牧師館に運びいれます。アルベルトはマリアを見つけたと屋敷に戻り、サクラは再びネグリジェを身に纏います。教会への道の途中で、その姿を見せた後、急いで牧師館へ駆けつけ、設置していた蚊取り線香に火を付けました。線香が燃えていく間に教会の入り口に帰り、あたかも今到着したかのように我々と遭遇したのです。蚊取り線香の発火装置が、ガソリンに引火し、小屋はあっという間に燃え落ちました。だが、期待していたダイナマイトは爆発せず、遺体は照合され、蚊取り線香の燃えカスも残され、一緒に消えてもらうはずだったナイフ――残念ながら、凶器のナイフではなかったのですが――も残されたのです。どうですか?サクラさん、間違ってないでしょう?」
「サクラ、黙っているのよ。何の証拠もないんだから……」
サクラが言葉を発しようとしたのをリズがそう言って止めた。
「サクラもこいつらの仲間だったのかい?そいつは慎次の奴も気づいていなかったな」
「棟梁、それはどういうことです?」
と牧師が尋ねた。
「いや、こいつは秘密だったんだが、慎次郎はマリアを守る目的があってこの屋敷に雇われたんだ。それで、マリア――まあ贋者だったそうだが――に危害を及ぼしているのが、この屋敷の住人の一人。リーが一番怪しい、と目星をつけていたんだ。まさか、この屋敷の住人全部が陰謀の共犯だったとは……」
「それで、わたしに相談に来たのか、慎次郎君はマリアを本物と思っていたんだ、その時は……」
「だが、まだよく解らねェ。あんたら探偵さんが何故ここに呼ばれたんだ?手紙で依頼されたって訊いているが、誰が依頼したんだ?慎次郎じゃあないはずだ。あいつにそんな考えは浮かばねェ」
「依頼の手紙を書いたのは、リズさんです」
「何だって?こいつら、犯人だろう?犯罪者が、いやまだ犯行には及んでいなかったから、犯罪の計画者ってことになるが、何で探偵を雇うんだ?墓穴を掘ることになるじゃあねェか……」
「それは、我々に証人になってもらいたかったからですよ。マリアが死んだという証人にね」
「そんなら、別に探偵でなくても……、そう、この牧師でも良かったんじゃあねェか?」
「おそらく、土地のものでない、利害関係のない人間が必要だったのでしょう。牧師さんはどうも怪しまれていた、つまり、佳織さんとの関係をそれとなく察していたのではないかと思われます。
では、事件を最初から振り返ってみましょう。発端です。それは、溝塚さんの使い込みから始まりました。昨夜お話ししたように、溝塚さんは、この屋敷の秘密をアルベルトさんに漏らして、金を受け取った。そこからこの事件が計画されたのです。主犯はリズさんですね。娘のエマさんをマリアと偽り、アメリカン・スクールに入学させる。遠大な計画が始まりました。元々行方不明となっていたマリアさんですから、誰も疑いを持たなかった。顔もジェイムスさんにそっくりでしたから、尚更です。エマさんはマリアになりきった。サクラさんという同級生を味方につけ、計画は順調に進みます。スクールを卒業し、マリアとしてこの屋敷に住むようになった時には誰もが本当のジェイムスさんの娘だと思い込みました。そして、二十歳の約束の時が近づきます。マリアとして生きてきたエマさんを偽装死する計画が始まりました。事故、または事件に巻き込まれたことにして、死んでいくことにした。その方が世間に、マリアは死んだと信じ込ませることができると考えたからです。その事件・事故の偽装の為に、幾つかの危険な状況を作りました。崖崩れ、飼い犬の鎖が外れる。食事に異物が混入される。そして、探偵を雇って、その眼の前で、事故に逢う。どれもが全て偽装でした」
「あの橋の上の事故も偽装だったのか?」
と、礼次が感心したようにつぶやいた。
「僕が救いの手を差し伸べなくても、橋の下へは転落していなかったでしょうが、見事な演技でしたね。そして探偵である我々をさり気なく屋敷に滞在させた。そこまでは計画通りでした。でも、誤算がありました。棒網探偵社を甘く見ていたのです。『捜査費無料』なんて看板に騙された。単なる探偵マニアの素人探偵と判断した我々が、実は警察にかなりのコネを持っていた。事件発生前に、この屋敷の住人や関係者の調査が思いのほか進んでしまったのです。
弁護士の溝塚さんが語る情報、つまり、マリアさんの二十歳の誕生日に遺産相続の秘密の扉が開く、それだけが探偵に与えられる情報だったはずが、警察の組織的な調査力を使われて、溝塚さんのことや棟梁や慎次郎、横須賀時代のこと、金沢の毬子の大伯母の存在まで調べられてしまったこと。そして、最大の誤算が慎次郎さんにマリアが贋者と気付かれたことでした。彼を殺すのには何の躊躇もなかったでしょう。けれど、そこで計画を修正しなければならなくなった。本来、マリアの代わりの死体を都合するつもりだったのですが、女性の死体でなく、男性になってしまったのです。だけど、計画はほぼ当初の計画通り、誕生日の前日実行されました。エマは屋敷を抜け出し、サクラが夢遊病を装い。慎次郎の死体を牧師館ごと焼き払う。そして、秘密の扉から取り出した遺言状を手に入れ、自分たちの都合の良いようにことを運ぶ。弁護士が付いていますから、その辺の勝算もできていたはずです。だが、金庫には思っていたものはなく、却って、証拠の品が出てきた。そして、思っていたより探偵が優秀だったため、悪事が全て露見してしまった」
「嘘よ、何度も言うけど、この人の単なる想像の話よ」
リズの最後の抵抗に、小林君は相馬警部補にアイコンタクトをとった。
「何度も言うのはこっちのほうだがね、警察を舐めるんじゃあないよ。お前さんの娘のエマは、身柄を確保しているんだよ」
「えっ?エマが捕まった?どうして、そんなに早く警察が動けるの?」
「松本駅で張り込み中の警察官の職務質問で身柄を拘束されたのですよ」
と、小林君が説明した。その言葉に、一瞬、発言しようとしていた相馬警部補は息をのみ、話を補う。
「まあ、この少年の提案で、焼死体が発見された後すぐに、非常線を張った。慎次郎かマリアかいずれかが逃亡した可能性があるからな。そしたら、松本駅でマリアと思しき娘を捕まえた。金髪の髪を黒い髪の鬘でごまかし、サングラスを掛けていたらしい。余計怪しいスタイルだと思わなかったのかねえ。職務質問でも、あやふやで、すぐに警察署へ連行したんだよ。本名のエマ・シンプソンと名乗ったそうだ。さっき、この少年が、この屋敷にいたマリヤもやってくると言ったのは、警察に身柄を拘束されたエマを警察官が連れてくるってことさ。もうすぐ、到着する。お前さんたちの計画は全てパアになったってことだ。まあ、遺産なんてなかったし、とんだ空回りの計画だったようだが、殺人犯として、逮捕状も一緒に持ってくるからな。そう、溝塚、お前さんも事情を訊かせてもらうよ。この計画の片棒を担いでいたことは間違いないところだろう?」
16
その数分後、警察官に連行されて、この屋敷ではマリアと名乗っていた少女――エマ・シンプソン――と、リズ、アルベルトの逮捕状が届き、二人は手錠を掛けられ、屋敷を後にした。同時に、弁護士の溝塚とサクラも事情聴取のため連行された。
エマは残されている。まだ事情がよく解っていないのだ。計画が水の泡となり、遺書も財産も発見されず、自分が贋者のマリアと証明される写真の存在すらも彼女は知らない。
「マリアさん、いや本名はエマさんですよね。あなたのご両親が計画なさった遺産相続の偽装行為は発覚しました。ご両親は別の殺人容疑で逮捕されたのです。庭師の慎次郎さん殺害、死体遺棄、そして放火の容疑です。あなたは殺人事件とは無関係のようですが、今回の事件の共犯であることには違いない。少しお話を覗いたいのですが、よろしいですか?」
小林君の言葉に、エマは静かに頷いた。
「エマさん、生年月日は?」
と、思いもよらない質問が彼の口から発せられた。
「一九四×年×月×日です」
と、彼女は答える。
「よかった、まだ、未成年だ。罪は軽くて済みますよ」
エマは今年二十歳になるがまだ誕生日は来ていない。毬子より、一月ほど後に生まれたのだった。だから、成人に達していない。少年法の規定の範囲なのである。
それから、小林君は事件の真相をエマに説明した。エマは俯いてそれを訊きながら、涙をこぼしていた。
「間違いありません」
と、小林君の話が終わると、エマはぽつりとそう答えた。
「母親と父親の犯行に従うしかなかったんだろう?まあ、同情の面もあるし、未成年だし、罪は軽いよ。少し、少年院か鑑別所にお世話になるくらいさ。その後は、エマ・シンプソンとして、自由に暮らせるはずだ」
と、言って相馬警部補はエマの肩を叩いた。
そこへ、ドアのノックする音が聞こえ、お客さまです、と巡査が誰かを案内してきた。
おずおずと部屋に入って来たのは、ダークブラウンの長い髪を後ろに束ねた。見習いのシスター姿の女性であった。瞳は濃いブラウン色である。
「マリア?」
と、その女性に声を掛けたのは、エマだった。従姉妹である二人は初対面であったが、すぐに血のつながりが理解できたようだ。
「エミーね、従妹の……」
と、その少女も緊張が解けて、笑顔を浮かべてエマに歩み寄って来た。
「毬子さん、小日向毬子さんですね?そして、旧姓はシンプソン、ミドル・ネイムはクスノキさんでしょうか?」
「はい、小日向毬子です。先日は留守にしておりまして、申し訳ありません。あなたが、母がお逢いしたという小林さんですね?母が、とても礼儀正しい好青年だと言っておりました。わたしの結婚相手にしたいとまで、言っておりましたよ」
「そ、それは、恐縮です。初体面なのに、色々深く質問をしてしまって、失礼だったかと反省いたしておりましたのに……」
「いえ、その質問が、とても的を得ていて、何でこんなにわたしどもの事情に詳しく、また、想像力が逞しいのかと、感心しておりました。それなのに、とても、謙虚というのか、得意気にすることもなく、淡々と理論的で、何か犯罪行為を企んでいる悪人を追いつめている、正義の味方、ヒーローってああいう児なのよ、って、それはもう、いつもの冷静な母らしくない口調で……」
「ま、まあ、お母さまは第一印象で、変に想像を逞しくなされたのでしょう。私立探偵と名乗ったもので、そこから、小説の、ホームズなどを想像したのかもしれませんね。まあ、そんな話は置いておいて、遠い処よくおいで下さいました」
「わたし、すっかり忘れておりましたの。二十歳の誕生日にこの屋敷で大切なことがある。確か、子供の頃、実の母親からメダイの中に書付を入れられていたのに……」
メダイとは首にかける装飾品であり、キリスト教のお守りでもある。ペンダントのように中が空洞になっており、大事な紙片を挟んでいたりするものもあるのだった。
「今日がその日だったんですよね?どうなりましたの?何が起きたのかしら?エマはそのためにここにいるのね?」
身内の――従妹の――エマがいた所為なのか、元来の明るい性格からなのか、毬子は矢継ぎ早に質問をしてきた。
取り敢えず、毬子をソファーに導き、小林君は壁の隠し扉を指さした。
「これが、おっしゃっていた、大切なことの結果です。今日の午前零時にこの扉が開きました」
「まあ、十七年も前なのに、そんなに正確に?凄いですわね」
「はい、仕掛は凄いものでしたが、中身はこの写真だけでした。でも、とても大切なものです。あなたにお渡しいたします」
そう言って、小林君は家族写真を毬子に手渡した。
「まあ、お父さま、お母さま、それにこれが私ね?横須賀の実家に同じ写真があったのですが、火事で焼けてしまって……。そう、ここに保管されていたのね。よかった、二人の写真、一枚もなくなってしまったんです」
毬子は満面に笑みを浮かべて喜んでいた。
「マリア、それだけだったそうよ。財産なんて残されていないのよ。この屋敷を建てるために財産を全部使ったのかしら、叔父さま……」
「エマ、お金なんかより、わたしにはこの写真が嬉しいわ。だって、お金では買えないものなのよ。世界にただ一枚だけの写真。焼けてなくなったと思っていた想い出の写真よ」
「マリア、あなたって、欲がないのね」
「さて、本当にエマさんがおっしゃったように、ジェイムスさんは財産を使いきってしまったのでしょうかね?ねえ、棟梁……?」
「な、何でわしに訊くんだ?」
「いえ、棟梁なら、まだこの扉の仕掛が残っていることをご存じだと思いましてね……」
「仕掛が残っている?それはどういうことだね?」
小林君の疑問に源吾が答えを渋っている間に、礼次が質問を挟んで来た。
「ほら、この扉を開くための機械、つまり、精巧な時計がどこにも見当たらないでしょう。棟梁は、以前、時計ごと金庫に仕舞い込んだとおっしゃった。でも、時計はない。としたら、もうひとつ、時計と一緒に隠されたものがあるのではないですか?」
「えっ、別の隠し金庫が……?」
「はい、そう考えるしかありません。それで、待っているんです」
「何を待っているんだね?」
「もうすぐ、正午の鐘が鳴るのを……」
*
部屋の中に沈黙が訪れた。そして数分後、
グォーン、グォーンと時計台の正午を告げる鐘が響き始めた。誰もが息を凝らして、壁を見つめている。
カタ、カタと時計台の鐘の音の余韻の隙間を利用するように、機械音が聞こえてきた。そして……、
「おお、秘密の金庫の奥の壁が下に落ちていったぞ」
と、礼次が叫んだ。
秘密の金庫は、二重底ならぬ、二重扉で奥にもうひとつの空間があったのだ。
礼次が咄嗟に、棟梁の前に立ちあがった。
「おいおい、見えねえじゃないか。まさか、今度もわしが中身を盗むふりをするとでも思ったのかい?」
と、棟梁が笑いながら言った。
「ああ、何が起こるか解らないからね」
と、憮然とした顔の礼次が答える。
小林君は笑顔を浮かべながら、ゆっくりと金庫の中に手を伸ばす。二重の奥には、置時計式の精巧なタイマーが置かれており、その横に白い封筒があった。
「これが、ジェイムスさんからのマリアさん、いえ、毬子さんへのメッセージです。開けてください」
小林君は金庫から封筒を取り出し、毬子に差し出した。毬子はそれを受け取ったが、躊躇して、表書きを見ただけで、それを小林君に差し出した。
「ダメです。わたし怖くて、開けられません。小林さんお願いします。あなたが開けて、読んでください」
「そうですか、では、僕が代わりに……」
そう言って、『最愛の娘へ』と表書きのある封筒の封を開いた。
☆
『親愛なるマリア、お誕生日、成人、おめでとう。あなたをマリアと呼ぶことを許して欲しい。「マリ」という漢字を私はどうしても書けないのだ。妻にそう言ったのだが、妻はこの漢字に拘っていた。だから、君をマリアと呼ぶことを佳織は認めてくれたのだ。
マリア、今君は、母親に似た黒い髪に黒い瞳の少女から大人になっていることだろう。私は多分、その場にはいないだろう。私は特殊な仕事をしている。スパイと呼ばれる諜報活動員なのだ。朝鮮で戦争が始まり、私は新たな任務に就くことになった。生きて帰れる確率は低い。今回の任務が成功しても、次の任務が待っている。ソ連との関係が悪化しているからだ。
マリア、君の成長した姿を見られないのは残念だが、私は不幸ではないよ。佳織という、理想の女性に出逢えて、結婚でき、君という宝物を手に入れ、二年半も一緒に暮せたのだから………。
マリア、私が君に残せるものは、君の望むものではないだろう。家族での平凡な、平和な暮らしは与えられなかった。だから、その罪滅ぼしに、幾つかの品物を残しておく。気に入らなければ、処分して構わない。ただ、私の気持ちだけは、受け取って欲しい。
マリア、最後に君に幸あれと祈っている。アーメン……』
*
「お父さま……」
毬子は小林君の朗読の途中から、涙が止まらなかった。読み終えた手紙を元の封筒に戻して、小林君から受け取った後も震えが止まらなかった。
「そ、それで、ジェイムスさんが残しておくと言った、品物は何処にあるんだね?まさか、あの写真だけ、ってことはあるまいね?」
少しの沈黙の後、礼次がそう言って、小林君を見つめた。
「はい、では、その品物を見つけに行きましょうか」
そう言って小林君はもう一度二重扉の金庫の奥に手を入れた。そして、そこに置かれている置時計型の装置の出っ張ったボタンを押した。
「おお、壁が動いた」
と、礼次が驚きの声を上げた。
そこは、棟梁が飛び込んだどんでん返しの壁であった。押してもびくともしなかったその壁がゆっくり回転して、九十度の角度で停まった。
「秘密の通路が開きました。この中に、ジェイムスさんが毬子さんに残したものがあるはずです」
小林君がそう言って、先頭に立って、抜け穴に入って行った。そして、すぐにスイッチを見つけて、灯りを灯したのである。
通路は下り階段があり、地下道になっている。所々に電灯が灯り、足元を照らしている。
「さあ、ここです」
と、言って小林君が立ち止まった。
「えっ?まだ、通路の途中じゃないか」
と礼次が言った。
「この右側の壁に取っ手があります。隠し部屋があるようです」
「ほほう、よく気がついたね。そう言えば、取っ手だ。ドアのようだ」
その取っ手を引くが動かない。押しても動かない。
「そうか、横開きか」
と、言って、小林君は取っ手を右方向に引いた。
少し抵抗があったが、壁のような部分が右に動き始め、扉が開かれた。その奥には大きな部屋が用意されていた。その部屋にもスイッチがあり、灯りが灯される。その灯りの下で一同が眼にしたものは……
「これは、美術館?いや博物館か……?」
部屋の壁には、絵画が飾られている。正面には、壇があり、仏像が何体か置かれている。部屋の中央には、硝子のケースがあり、そこには色鮮やかな宝飾が飾られていた。
「雪舟の水墨画、ルオーのキリスト像の版画、北斎の浮世絵、ゴッホ、ルノアール。それに、鎌倉時代か室町時代の仏像。宝飾類は、ダイヤ、サファイヤ、ルビー、エメラルド、翡翠に真珠。凄いコレクションですね」
「こ、これが、ジェイムスさんの遺産、いや、財産か……数億、じゃあきかないだろう」
「当時の、二十年ほど前の貨幣価値ですから、今の価値は……」
「数倍、いや数十倍か……」
「でも、わたしには、あの写真ほどの価値はありませんわ。どれも、わたしには不要のものです」
「マリア、何てもったいないことを言うの。叔父さまがあなたの将来を考えて、価値のある物を集めてくれたのよ」
「エミー、これは悪趣味よ。父の欲が現れているわ。こんなもの見たくなかった」
「毬子さん、お父さまはこう言っていましたよ。あなたの望むものではないだろう、と。そして、処分してよいとも言っています。処分すれば、かなりの金額になる。あなたが今抱えている問題も解決できるほどの、いやそれ以上の……」
「毬子さんが抱えている問題?何だね、それは……?」
「大伯母、いや、今は義母の小日向さんが運営する孤児院です。資金が枯渇して、銀行からの借り入れも断られて、閉鎖の瀬戸際なんです」
「そ、そんなことまで、ご存知でしたの?」
「ええ、金沢の警察の方から、事情を覗っていました。この資産の一部を売却すれば、当座は凌げます。お父さまはそれを望んでいらっしゃると思いますよ」
「そうですよ。個人のためじゃあない。恵まれない子供たちのために使うんだもの、ジェイムスさんも喜びますよ」
「そうでしょうか?孤児院の資金に使って、よろしいのでしょうか?」
「相馬警部補、税務署には内緒にしてくださいね?贈与税が掛からないように……」
17
「いやあ、大団円になった。小林君、今回の事件では、君の大活躍。正直、驚いたよ」
翌日、毬子たちに見送られて、礼次と小林君は帰途についた。久しぶりの探偵事務所に帰りついて、一息入れながら、礼次がそう切り出したのだ。
小林君は無言で溜まっていた郵便物や新聞の束を整理している。請求書がかなりあるのであった。
「しかし、不思議なことが幾つかあった。まず、あのダイナマイトだよ。アルベルトが連行される時に呟いていた。あんなところへ、水道のパイプが折れ曲がってくるはずがないのに、なんて運が悪いんだと……。確かに、偶然にしてはあのパイプの位置はおかしいね。で、ひょっとしたらと思うんだがね……」
「何です、ひょっとしたらって?」
「あれは君の所為なんだろう?君はわたしと別れて教会へ捜索に行った。その時牧師館も見てきたんだよね?その時に……」
「さあ、どうだったかな?忘れました」
「まあ、いい。他にも不思議なことがある。あのアルベルトとリズの顔写真だ。あれもアメリカ側から手に入れたものじゃないはずだ。何処から入手したんだ?相馬君も白を切っていたんだが、まさかあれも……」
「ほら、言っていたでしょう。犯人に罠を掛けるって。あの写真は合成写真ですよ。現在のふたりの写真を加工して、若い時代の物に見せかけただけ……」
「しかし、何時?」
「まあ、あれは証拠にはなりませんから、どうということはない。ただ、ヘレンがリズで、トーマスがアルベルトだと解ればよかったんです。指紋とかでもいいんですが、それだと時間が掛かるでしょう?」
「それともうひとつ、これは相馬君が首を捻っていたことなんだが、エマが捕まった場所が『松本駅』だと、何故君に解ったんだね?相馬君は『確保したか……』と呟いただけだったと言っていたが……」
「ああ、それは、簡単な推理です。エマが屋敷を出た時間は夜中、そして確保された時間帯と彼女が採るだろう行動、目立たないようにする為を考えると、大きな駅で捕まったとしか思えない。それなら、松本駅になりますからね」
ううん、と礼次は唸るしかなかった。
転の章
「所長、しばらく、お休みをいただきます。大学の講義がありますから……」
長野での事件解決から数日後、小林君が事務所に上階の部屋から降りてきて、礼次にそう言った。
「ああ、君は大学生だからね。学問の方が大切だ。まあ、調査の依頼もないし、暇だから、いいよ。何かあれば、上の部屋に伝言を入れておくから……」
そう言って、礼次は新聞を開いた。小林君は部屋を後にした。
午後、小林君が帰ってくると、礼次の姿はなく、机に伝言が残されていた。
『事件の依頼あり、盗難事件、君を煩わすこともないようだ』という、走り書きだった。
「盗難事件、ああ、猫の置き物が盗まれたって奴か。犯人は依頼人の夫、妻が置き物に夢中で夫婦生活ができなくなって、夫が隠してしまった。明日には解決だな」
小林君が、伝言をポケットにしまおうとした時、ドアがノックされ、返事を待たずにドアが開かれ、中年の女性が勝手に入って来た。
「あら、礼次さんは、お留守?珍しいわね。事件がこんなに続いて起きるなんて……」
「あのう、どちらさまでしょうか?」
かなりの美人、女優で言うと八千草薫似である。馴れ馴れしい言葉から、依頼人でなく、所長の個人的な知り合いであると判断した、小林君だった。
「ああ、小林君、初対面だったわね。礼次さんから色々覗っていたから、初対面だってこと忘れていたわ。わたし、このビルのオーナー。つまり、あなたの大家さんよ」
「オーナー、大家さん?では、所長の言っていた、この事務所の経営者。美人の未亡人……」
「ほほほ、『美人の』は、おかしいけれど、未亡人よ。そう、この探偵事務所の経営者でもある。間違ってはいないわ。わたし、興園寺遼子。年齢は内緒……」
「あっ、どうも、初めまして、小林芳夫です。素敵なお部屋をお借りしております」
「まあ、噂どおりの礼儀正しい好青年。私がもう少し若かったら、恋人に立候補したいわ。でも、こんな小母さんは恋愛対象外でしょうね?」
「い、いえ、噂以上の美人、いや、知的で可愛らしくって、僕がもう少し歳がいっていたら、お付き合い願いたいくらいです」
「まあ、お世辞でも嬉しいわ。部屋代タダにしてあげる。ところで、礼次さんは?事件発生なの?でも、助手のあなたがここにいるってことは、たいした事件じゃないわね?」
「ええ、盗難事件だそうです」
「ああ、さっきあなたが呟いていた、猫の置物、犯人は夫、ってやつね?」
「えっ、ひとり言、訊いていたんですか?」
「ごめんね、ノックする前にドアを開いていたのよ。礼次さんを脅かそうと思って……。でも、見知らぬ人の背中だったから、ドアを閉めなおしたの……。訊かれてまずかった、さっきの言葉……?」
「ま、まあ、少し……」
「あなたって不思議な人ね。未来が見通せるみたい。この前の事件でも大活躍だったそうね?不思議にあなたの勘が全て的中したって、礼次さんが言っていたわ」
「所長、事件のこと話したんですか?」
「そうよ、わたし、オーナーだもの、この探偵社の。それに、訊いてないのかしら?事件解決したら、褒賞金を出すことになっているのよ。その事件の解決が難しかったり、事件解決によって、世の中に利益が大きかったりで、褒賞金額が変わるのよ。今回は、その両方で評価が高かったのよ。だから、わざわざ、褒賞金を持って来たのよ。オーナー直じきにね……」
「そうだったのですか、褒賞金が出るのか……」
「今回の事件はあなたが全額貰っても良いと思うのだけど、まあ、所長と相談して、ボーナスくらいは貰いなさい」
「それで、今回はいくら出るんですか?」
「今回は三百万円よ」
「三百万円……」
「あら、あまり驚かないわね?少なかったかしら、名探偵の報酬としたら……」
「いえ、あまりピンと来なくて……。今度の事件のジェイムスさんの財産が数億円、というのも、よく価値が解らなかったんです」
「そうそう、そのジェイムスさん、スパイだそうね?ジェイムズ・ボンドみたいに、男前で、セクシーなのかしら?」
「ああ、ショーン・コネリーのボンドですね?『ドクター・ノー』の……」
「小林君って面白いわね。『007は殺しの番号』じゃなくて、原題のほうを言うなんて、やっぱり、変わっている。うん、おもしろい。益々気に行った。年の差、気にしないで、恋人にしちゃおう。若いツバメってのもいいかもね……」
「えっ、まあ、冗談でも嬉しいですが、美人に褒められると……」
「冗談ではなくってよ。本気よ。だって、わたし、未亡人だもの。恋愛自由よ。結婚もOKよ」
「ははは、もういいですよ。それより、僕、前から知りたいことがあるんです。所長のことで……。それも、オーナーにも関係することなんですが……」
「いやぁね、オーナーなんて呼ばないで、遼子って呼んでよ。芳夫君」
「は、はい、では遼子さん、お尋ねします。所長が刑事を辞める原因になった事件。つまり、あなたのご子息の誘拐殺人事件の顛末です」
小林君の言葉に、遼子の顔色が変わった。
「そ、そう、礼次さん何も話してくれないのね?うん、仕方ないか、自分からは言い出せないよね。でも、一応、彼の了解を取ってからじゃないと話せないわ。だから、今は駄目。さっき、あなたが話していた、猫の置物盗難事件の犯人が本当に依頼人の夫だったら、わたしが礼次さんを説得して、話してあげるわ。でも、あなたの推理、当たっているのかしら?事件の詳しいことまだ訊いていないんでしょう?直感だけよね、今の推理……」
*
「えっ?何だって?猫の置物の盗難事件の犯人が夫だって言ったのかい、小林君」
「そうよ、ひとり言みたいだったけど……」
その日の夜。小林君は上の階の部屋に帰っている。出直してきたオーナーの遼子が事件を解決して帰って来た礼次と話をしているのである。
「確かに、犯人は依頼人の夫だったよ。だけど、小林君は事件そのものを知らないはずだぜ。ただ、盗難事件発生、としか伝言に書いてなかったんだから……」
「ええっ?じゃあ、猫の置物が盗まれたのも、依頼人が女性で、夫がいることも、知らないってことよね?どうやって、推理するのよ。直感でも無理よ。これって、流行りの未来予知?心霊現象なの?彼、エスパー?」
「エスパー?何だねそれは……?」
「超能力者、ってことよ」
「つまり、予知能力か透視能力ってことか、昔、そんな事件があったな。福来という博士が研究していたらしいが……」
「いつの話よ、明治か大正かでしょう?古いわよ。今はSFの世界で、超能力は普通に取り扱われているわよ。推理小説ばかり読んでちゃあ、時代遅れって言われるわよ」
「SFって、空想物語だろう?現実にあり得ないから、SFなんだ」
「それはそうね、でも、ソ連も中共もおそらくアメリカもESPの研究が進んでいるわよ。超能力は存在する、っていうのが常識になってきているのよ」
「だけど、あの小林君が……?」
「そうね、見た目は可愛い少年ね。でも、ほら、ちょっと変わっているわよ。そうだ、今ふと気がついた。彼、あなたに似ていない?眼とか鼻は違うわね。そんな団子鼻ではないし……」
「団子鼻?人が気にしていることをはっきり言うね、君は……」
「そうよ、口元が似ている。それと、耳の形も、あなた福耳だものね」
「ああ、耳は褒められるよ。福は来ないがね。しかし、似ているかね、僕と彼が……」
「あなたに隠し児がいても、あの年にはなっていないわよね。甥ってことはあるわね」
「残念だが、僕に年上の兄弟はいないよ。従兄弟たちもみな年下だし、あれくらいの年の親戚はいないね。かなり遠い親戚までは知らないがね」
「じゃあ、他人の空似か……」
「ああ、僕は平均的な日本人の顔だからね」
「でも、あの子は違うわ。何か、ずっと新しい感じの日本的な顔」
「逆に、平安時代のお公家さんの顔に近いんじゃあないか?庶民の顔じゃあないね。
それより、どうするんだい?彼の推理、直感だろうが、超能力だろうが、犯人を的中させたんだから、約束どおり、例の事件、話すのかい?」
「わたしは構わないわよ。いつまでも、縛られるのもどうかと思うし……」
「やっぱり、戦後強くなったのは、靴下と女性か……」
「何よ、何年前の言い回しよ、古過ぎ……」
「じゃあ、君が話せよ。僕は自分の汚点を話すのはどうもねぇ。所長の威厳に係わるし……」
「何が所長の威厳よ、もう小林君の方が探偵らしいわよ」
「そ、そんなことはないよ」
「まあ、半分冗談よ。解った、明日、わたしから話す」
「ああ、覚悟はしておくよ……」
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