棒網探偵社奇談
@AKIRA54
プロローグ
「そしたら、行ってくるね」
と、長髪の少年が、スニーカーを履き終え、立ち上がって言った。
「荷物は?それと薬も、大丈夫かえ?」
そう言ったのは、彼の母親である。
大き目の黒系統色のスポーツバッグを軽く叩いて、
「大丈夫、ちゃんと、持っちゅう」と答える。
「お金は?」
「うん、何とか掻き集めた。それに、向うで、稼ぐ手も考えちゅうき、大丈夫よ、心配しな」
「ほいたら、気ィつけて、おじいさんによろしゅうね」
「ああ、けんど、よろしゅうは、おかしいろう?」
「そうやね、まあ、エイわ、元気やったら……」
「まあ、すぐ帰るき、と、思う。なんちゃあ、なかったらやけんど……」
玄関のドアを開け、薄暗い、朝もやの中を少年は歩いて行った。その背中が、消えるまで、母親は見送っていた。
*
時は、昭和四十×年、場所は東京都下、某所である。
古びた、三階建の雑居ビル。階段を上った、二階の正面のドアに、
『棒網探偵社』とゴシック体の金文字が横書きで、大きく書かれてある。
その横の壁には、伝言板のような板に、張り紙が貼ってある。
『 棒網探偵社
あらゆる、犯罪に係わるご相談に対応いたします。
但し、浮気調査、身元調査、迷子等の人探し、は硬くお断りいたします。
調査費用、実費のみ、交通費、出張の場合は宿泊費用のみで、捜査に係る費用は戴きません。
お気軽に、ご相談ください。
所長 団戸 礼次 』
そして、その張り紙とは別に、もう一枚、張り紙がある。
『探偵助手、募集中、やる気のある、若者、大歓迎、経験等不問、給与優待』
その、探偵助手募集の張り紙をはがして、ドアをノックする。
「お入りください、ドアは開いておりますよ」
と、ドア越しに、男性の声がする。
ドアを開いて中に入ると、正面に大きな木製の事務机。その向こうに、肘掛椅子に深く腰を掛け、両足を組んで、机の上に投げ出している、鼻の下に気障な髭を生やした、中年――三十代前半の――男が、笑顔を浮かべていた。
「事件の依頼ですかな?」
と、髭に手を当てながら、男が問いかける。
「いえ、この張り紙の件です。探偵助手に雇っていただきたいのです」
そう答えたのは、最近流行っている、ビートルズを真似た、長髪の学生っぽい少年であった。
「ほほう、助手志願ですか?まあ、どうぞ、そこのソファーに座ってください。やる気はおありでしょうね?いや、結構。では、採用テストを行います。これに合格しないと、雇えません。探偵としての、素質、才能がなければ、務まりませんからね。いいですか?
よろしい、では、第一問、この探偵社の名前、その意味を答えなさい。時間は、五分以内に……」
「ひとつ質問はいいですか?いえ、問題に関することではなく、あなたが、この探偵社の所長さんですか?」
「さよう、わたしが、所長ですよ。さあ、あと、四分半ですよ」
「ああ、その答えは、もう解っています。答えていいですか?」
「もちろん、自信がおありのようだ、どうぞ……」
「棒は英語でバー。網は同じく、ネット。繋げると、バーネット、バーネット探偵社、これは、アルセーヌ・ルパンの連作短編に出てくる探偵社ですよね。ベシュー刑事が敵役の……。調査費無料。所長は口髭。ルパンのファンなんですね」
「ほほう、見事な推理。では、第二問。私の名前は?」
「簡単すぎますよ。ルパンのファンでしょう?ダンド・レイジ。ルパンの変名、ラウール・ダンドレジーの当て字ですね。本名ではないでしょうが。本名は、Sで始まるのでしょう?」
「な、なんと、その本名は、どうして……?」
「あなたが弄っている、そのライター、どなたかからのプレゼントでしょう?頭文字の『S』が彫られている。あなたの姓か、名前の頭文字、そう考えるのが、当たり前ですよね?」
「いやあ、見事見事、合格です。ようこそ、バーネット探偵社へ。エーと、お名前は?」
「小林、小林芳夫。W大の二年生。犯罪学研究同好会に所属しています。実際の犯罪調査を経験したくて……」
「犯罪学研究?それは変わったクラブですな」
「はい、会員は僕と、女の子ひとりです。それと、この探偵社、住み込みで雇ってもらえませんか?実は、下宿屋を、追い出されそうなんです。家賃滞納で……」
「ははは、それは結構。その方が、何かと便利ですよ。よろしい、このビルのオーナーが、この探偵社のパトロンでしてね。お金持ちの未亡人なんですが、空いてる部屋を使わしてもらいましょう。但し、家賃は給料から引きますよ。まあ、電気、光熱費程度ですが」
「このビルのオーナーさんが運営費を出してくれているんですか?それで、調査費無料で出来るんですね?」
「そのとおり。ですから、あなたの給料も、きちんと支払えますよ。バイトではなく、正社員並みにね。
それでは、明日、この上の、奥の部屋を空けておきますから、引っ越してきなさい。ソファーがあるから、ベッドに使えますよ。キッチンもトイレもある。風呂はないが、シャワー付き。学生には贅沢な部屋ですな」
少年は、では、明日、引っ越します。と言って、部屋を出て行った。
階段を下りて行くと、途中で同じ年ごろの少年と出逢った。
「ああ、探偵助手の募集は終わりましたよ。今、決まったようです」
と、階段を上って来た少年に笑顔を浮かべて伝える。
階段を上りかけた、少年は、「どうも」と言って、不思議そうな顔をして、階段を逆に下りて行った。その後ろを見送っていた、小林芳夫と名乗った少年は、しばらく、その場に立ち止まり、相手が見えなくなってから、階段を下りて行った。
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