四、初黒星

 それからさらに二週間後、一一月も終わりを告げる頃、ちあらは登山道の入り口に立っていた。

 今日のちあらはひと味もふた味も違う。

 巫女装束ではないのである。

 登山と言うこともあって完全に山装備だ。キュロット付きのトレッキング パンツに、ボアベスト、その上にパーカ、背中には買ったばかりのリュックサック。いや、そもそも全部買ったばかりなのだが。

 一応巫女装束を意識したのか、キュロットは緑系、ベストは白系を選んだようだ。

 靴もしっかりと登山用のものだ。靴擦れしないよう、慣らしも完璧だ。

 昨今登山者が増え、山ガール等という言葉もでき、登山用ファッションの充実ぶりはちあらにとって嬉しいことだった。アメ横で時間が経つのを忘れるほどショッピングを楽しんでしまった。

 小ぶりのリュックサックの中にはお弁当! これは大事である。早起きして作った。

 そして今回は打刀と脇差しも装備だ。かわいらしいウェストポーチとベルトをうまく使って、腰に二振り差している。

「ぶ、物騒ですね…」

 図面ケースから刀を取り出して腰に差している様子を見ていた県職員が、少したじろいだ。ファッショナブルでかわいらしい格好とは対照的で不釣り合いな代物だ。

「わたしの太刀筋は霊のみならず、神をも切り裂く」

 ちあらは腰にセットすると、誇らしげにポンと左手ではたいた。

 同時に物騒な金属音が響く。

 実際、ちあらの刀は名匠が打ったものではあるが、魔法の武器ではない。したがって幽体や異世界の存在を傷をつけることは出来ない。しかし、ちあらがこの刀を振るえば、たちまちこの世のモノではない者を切り裂く。

 さらに車の荷室から大きなバッグも取り出す。あらかじめ宅配便で山梨県庁に送っておいたものだ。

「これは何が入ってるんです?」

 県職員がちあらの身に余るほど大きな荷物を指さした。

「結界用のしめ縄セット」

「はぁ……」

「設置すれば解る。みんな一度は見たことがあるもの」

 ちあらはそう言って、自分で担ぐのを諦めてバッグを県職員に託した。

「はいはい」

 県職員がそれを肩に担ぐ。

「こっちの袋は…?」

 車の荷室にはもう一つ、巨大な巾着きんちゃくのような袋が置かれていた。

「そっちは置いておいて大丈夫」

「了解」

 登山道入り口の駐車場には県の車以外にもう一台、大きな車が駐まっていた。

 ドコモの中継車だ。

 ドコモ社員も二人、着いてくると言う。

「雄鶏山山頂付近は電波が通じないんです」

 わざわざ山梨県が依頼したものだった。この件の山梨県の本気度がうかがえる。

「よ、よろしく……」

 突然の同行者の増加に、ちあらは少し戸惑った。

 なぜなら、守らなければならない命が増えてしまうからだ。

「それじゃぁ、まずは沢登りの道と登山道が分かれる広場まで行きましょうか」

 登山が趣味の県職員はそう言うと、皆の先頭に立って登山道の中に入っていく。

 道はすぐに上り坂になるわけではなく、近くのダムにそそぐ沢沿いにしばらくは緩い坂道が続く。

「登山と沢に分かれる地点はちょっとした広場になってるんです。そこで今日の案内人と落ち合うことになってます」

「県山岳会のメンバーだと聞いています」

「コク」

 ちあらは進みながらも周囲の木々や鳥たちから情報を収集する。

 山に異変はないこと、木々は穏やかであることを知ることができた。また、山の神が近くに来ていることも教えてくれた。

 クマのことだろうか?

 一五分ほど進むとなるほど確かに広場と言えるくらい開けた場所に出た。

 トイレやベンチなどが置かれていて、またかつては休憩所を兼ねた売店もあったらしいのだが、建物はすでに廃墟と化していた。

 そんな広場で屈伸運動をしている、割と年配の人がいた。

「あ、山岸さん!」

 県職員が声をかけて、駆け寄る。

 すると彼はくるりと振り向いて、笑顔を返した。

「いやぁ、どうも」

 少し白髪の交じった六〇代前半ぐらいだろうか? 身体はかなりシュッとしていて筋肉質なのが見て取れる。そして若い頃はイケメンだったろう事も。

「今日はよろしくお願いします。こちらが山岸さんのサポートを頼みたい子、月夜野さんです」

「月夜野ちあらです、よろしくお願いします」

 ちあらが前に進み出て、ぺこりと頭を下げる。

「おや、かわいらしい登山客だね、よろしく」

「我々はここで展開します。携帯のアンテナも立てますから、頂上でも電波が入るようになりますよ」

「それは頼もしい。一応、無線も持って来てはいますがね」

 山岸はそう言って腰にあるトランシーバを見せた。

「おお、さすが、用意がいいですね」

「月夜野さん、雄鶏山は素人が登れる山じゃないから、申し訳ないけどもし危ないと判断したらそこで中止することもあることは憶えておいて」

「コク」

「そうですね、最後の鎖場は慣れてる人でもかなりきついと思います」

 登山が趣味という県職員もうなづいた。

「最悪、岩のある場所まで来られれば……」

「それじゃぁさっそく行くか。私の足でも片道四時間はかかる。早く出るに越したことはない」

「ま、待って」

 ちあらは県職員がかついでいるバッグの元に駆け寄った。

「ああ、これですか?」

 県職員がそれを地面に下ろすと、ちあらはファスナーを開けて中身を取り出し始めた。

 出てきたのは七夕たなばたに使う笹といえるくらいの小さめな葉の付いた竹が二本、ティッシュ箱くらいの神棚、そしてバットぐらいの大きさに削り出した杉の木が四本としめ縄だった。

「あー……」

 地鎮祭とかに使う聖域を作るためのもののようだ。

 ちあらはそれらを通る人の邪魔にならないところに設置する。まずは杉の柱を四本立てて正方形を形作る。本来は地面に差すのだが時間も惜しいので木々やベンチを利用してくくりつけた。そのうちベンチに固定した二本に竹も一緒にくくりつけ、最後にしめ縄で囲って終わりだ。ちょうどベンチが祭壇になったので、神棚を座面に置いてさかきの枝を差す。

「もし異変を感じたら、この囲いの中に入って。この中なら雄鶏山は手を出すことができない」

「は、はぁ……」

 急にオカルトチックになってきたので、県職員もドコモ社員も生返事しか返せなかった。

「だまされたと思って。命に関わることだから。雄鶏山の力はそれくらい強力」

 ちあらは真剣な表情で訴えた。

「わ、わかりました」

 とりあえず何かオカルトチックなことが起きれば、入ればいいのだろう。

「お待たせした」

 ちあらは山岸の元に戻って、ぺこりと頭を下げた。

「じゃ、行こうか」

 いよいよ雄鶏山への登山がはじまりだ。

 登山道はいきなり登りになるわけではなかった。いくつもの沢と交差しつつも徐々に沢からは離れて行き、登り道になってくる。最初の三十分は比較的緩い道が続き、余裕だった。

 案内人の山岸はとても物知りで、出会う植物や地形について色々と解説してくれた。

 聞けば彼は猟友会のメンバーでもあり、害獣駆除のかたわらジビエ料理なんかも手がけたりするらしい。地元レストランと提携して、イノシシや鹿の肉を提供しているのだとか。

「クマにったことはある?」

「あるよ。でもこの辺はそんなに多くないね」

「一頭しかいないの?」

「そんなことないよ。でも里に下りてくることは滅多にない。だから私も熊を撃ったことはないんだ」

「ふむふむ」

「ここ一帯にいる熊たちは人と関わらない方がいいことを知ってるのかも知れない。あとは山が豊かなんだろう。里に下りなくても食べるのに困ってないみたいだ」

「なるほど」

「そういえば、ひときわ大きなツキノワグマを見たことがある。ありゃぁ、山の神だな」

 などと言う会話も数時間も経つと出来なくなっていた。

 その余裕がちあらにないのだ。

 一方の山岸は、さすがというか、息を荒らげることもなくスイスイと登っていく。

 しかしちあらはだいぶ腰と膝にきていた。

 普段、武術のトレーニングは怠らないし、持久力も鍛えてきたつもりだ。行方不明者捜索には人が足を踏み入れないような場所におもむくことも多い。

 しかし、何時間もずっと登りっぱなしということは今までほとんど経験したことがなかった。そもそも行方不明者の捜索も、魔法で見つけてその場所を現地の警察や消防に知らせるのがメインであって、わざわざ歩いて探し回ったりするわけではない。

 一歩の歩幅もだいぶ狭くなってきた。

「休憩しようか」

 見かねた山岸が歩みを止めた。

「あ、ありがと」

 少しホッとして、ちあらは身体の力を抜く。

「だいたい、腰にそんな重いモノをぶら下げていたんでは体力も持たないだろうに」

 重心が刀を差している左に偏り、そのバランスを保とうとすることで余計に体力を消費していることを、山岸は教えてくれた。

 とはいえ山岸の所持品が決して軽いわけではない。素人であるちあらがいつ倒れても大丈夫なように、簡易テントや救命用具などを持ってきてくれている。

 その重さは一〇㎏はあるのだという。

「すごい」

 もちろんちあらにも疲れをとったりする術はある。しかし術は一日に使える回数が決まっているため、もし雄鶏山と対決することになったら一つでも無駄にはしたくない。

 疲れを取るのは戦う前の一回だけにしたい。

「私が代わりに荷物を持ってあげてもいいが……刀に触れることは恐れ多い」

 刀は武士の魂と聞く。

 ちあらが武士なのかどうか解らないが、この登山にまでも肌身離さず持ってくるということは、この少女にとってとても特別なものであろうと山岸は推測したのだった。

「ここはすでに敵陣の中。外すわけにはいかない」

 ちあらは真剣な表情で答えた。

「だろうな」

 山岸は少し呆れもしたが、その心意気は嫌いではないようだった。

 それからさらに一時間、ようやく木々を抜け、目の前に大きな岩肌が見えてきた。最後の難関、鎖場である。

「少し休憩しよう」

 山岸はちあらを適当な岩に腰かけさせると、鎖場の登り方をレクシャーした。

 雄鶏山という名前はこの岩場が雄鶏おんどり鶏冠トサカのように扇状になっているところから来ており、その名の通り切り立った岩が天に向かって伸びていた。

「鎖から手を離さないように。軍手を貸そう。そもそもこの気温だと鎖そのものが冷たい」

 なるほど、軍手は持って来ていなかった。

「斜面になっているところは登山の延長で行ける。滑りさえしなければ鎖を伝って登っていけばいい。問題は垂直に近い場所と、鎖と足場が離れている場所だ」

「鎖と足場が離れている場所?」

「鎖はもう何十年も前に掛けられたものだから、ずれて足場のない場所にかかってたりするんだ。となるとそこは鎖を頼れない。ほぼロッククライミングと同じ状態になる」

「な、なるほど」

「まず私が昇るから見て憶えるんだ。で、私は一旦降りて下からアドバイスするから、登ってみろ」

「わ、わかった」

 気を引き締める。

 息が整い心臓の鼓動も平常時と変わらなくなってから、二人は鎖場を登り始めた。

 まず山岸がある程度登る。どこに足を掛けるべきかを観察してから、ちあらが登る。違う場所に足を掛けようとしたら、すかさず山岸の怒号が飛ぶ。

「そっちじゃない、もっと右」

「こ、こっち?」

「そう。ちなみに、いま足を掛けようとしたところを蹴飛ばしてみろ」

 そう言われたので、自分が置こうとしたでっぱりを蹴っ飛ばしてみると、ぼろぼろと崩れてしまった。

「わわわわ……!」

「全体重を乗せなくて良かったな」

「コクコクコク……」

 そんな地道な作業を繰り返しながら、約八〇メートルの岩を登り切るのに二時間以上を要した。走れば一〇秒もかからない距離なのにと思いつつも、登るのに夢中だったせいか、そんな長い時間だとは感じなかった。

「ここは私が先に登って、ロープを張ろう。さすがに垂直区間が長すぎる」

 最後のほぼ垂直に切り立った岩壁。

 しかも鎖が遠く離れている。

 山岸がほとんど足場のないところに足をかけながらスイスイと登っていく。

 すごい、とちあらは素直に感心した。

「この壁を登り切ったら三角点のある山頂だ。あと一〇mもない」

「おー……」

「まさかここまで登れるとは、思ってもみなかったよ。よく頑張ったね」

 そう言いながら山岸はザイルを固定して、垂らした。

 何度も自らが体重をかけてザイルが落ちないか確かめると、ちあらに投げてよこす。

「所々ハーケンが残っているから、そこに足をかけるといい」

「ハーケン?」

「金属の板が飛び出しとるだろう? 本当は打ち込んだ人が回収しないといけないんだがあまり強くハマっていると取れないこともあってそのままになってるんだ」

 山岸はそう言いながら、自分の近くにあるハーケンをかかとで蹴って、ハーケンの例を示した。

「な、なるほど」

 確かに岩肌をよく見てみると、小さな突起がいくつか見える。これらに足をかけて登れば良いようだ。

 ちあらはザイルをつかむと、今までの要領で登りはじめた。

 ハーケンに足をかけ、両手でザイルを持ち、ぐっと足に力を入れる。ハーケンが緩むことがないことを確認したら両腕で上半身を持ち上げながらも、さらに踏ん張って身体全体を持ち上げる。

「んっしょ!」

 あともう少しだ。そんな思いがちあらを急かした。

 今度は右足をハーケンにかけ、ロープをつかむ腕にぐっと力を入れたときだった。

 ジャン? グシャン? という聞き慣れない音。例えるなら、ギターの弦が切れたような、いや、テキトーに弦を押さえて弾いたようなそんな音が響いたような気がした。と同時に非常に激しい殺意がちあらを襲った。掴んでいたはずのザイルの手応えがなくなり、ちあらの上半身が空中へと投げ出される。

 ぴんと張っていたはずのザイルが垂れ下がるその向こうに、山岸の歪んだ笑いがあった。その手には鋭いナイフが握られていた。

 とっさに足の甲をハーケンに引っかけようとしたが、そんな曲芸めいたことは無理だった。

 一気に落下する。

『じゅ、重力制御……!』

 術を使おうとした瞬間、突き出した岩に腰のあたりを強打する。

「ッ!」

 骨が砕け、脊髄が断裂した。この時点で下半身は制御不能になった

『あああ……』

 意識だけは失わないようにしなければ。

 痛みを遮断するためにアドレナリンとセロトニンを最大限に放出する。

 必死に顔をうつむかせて、さらに手足を縮めて……とはいえ脳の指令は下半身には届かない。しかも身体中から送られてくる痛みのせいで術を発動する余裕はほとんどなかった。

 突き出した岩に二~三回ぶつかり、最後は岩棚に全身を打ち付けると、ずるると滑って、そのまま樹海の中に落ちていった……。


*  *  *


 落下してきたちあらは何本かの枝を折りながら、巨大な幹にぶつかって止まった。

 体中の骨が砕け、足はあらぬ方向を向いている。

 ちあらの脳にはさまざまな情報が送られ続けていて、常人であれば気を保つ事は不可能であったであろうが、痛みを遮断して、なんとか意識を失う事は免れた。

 彼女の場合、意識さえ失わなければどうとでもなる。

 目で周囲の景色は見えているはずだが、脳が処理できないのか薄ぼんやりとした景色しか認識できなかった。

起火ハジメノホ…!』

 ボンっとちあらの胴体が燃えるのだが、木がざわめき、ちあらを地面におっことした。

 ぐしゃっという変な音が響くが……幸いにも枯れ葉が降り積もった、比較的柔らかい場所ではあった。

『あああ、ごめん……なさい』

 声は出せないので心の中で木に謝って、慌てて炎を引っ込める。

 大体、山火事になったら大変だ。

 ちあらは体内の温度上昇にとどめた。その温度は二~三百度ほどで、体表温度は百度にも上る。

 しかし、燃やせない以上、回復には時間がかかる。

 ちあらは不死鳥と同じく、炎(エネルギー)によって復活することができる。つまり今いる場所が絶対零度の真空でなければ復活することが出来、その回復速度は温度や降り注ぐ放射線の量に比例する。

 そして彼女の心臓は太陽でできているため、火種に困ることはない。意識さえあれば自分を燃やして、復活することができるのだ。ただここは森の中。燃やせば木々に影響が出る。

 なので、枯れ葉が燃えないギリギリの温度で回復するしかない。

 一方、ちあらが視界から消えたのを確認した山岸は、すぐさま下山を始めていた。しかも彼は空中を飛ぶように山をあっという間に下りていく。山岸を乗っ取った者の魔の力であろう。

 広場ではアンテナの近くに二人のドコモ職員がモニターしていて、県職員はベンチで雑談していた。

 登山道の方から山岸の姿が見えると県職員の一人がそれに気づき、立ち上がった。

「山岸さん!」

 しかし、その後ろにちあらの姿はない。

「月夜野さんの姿がないな」

「そもそも戻るのが早すぎる」

「何かあったのかも」

 そう話しながら、県職員の一人が山岸に近づいた。

「月夜野さんは……?」

 と尋ねようとした時、山岸が後ろ手に持っていたナイフを繰り出すと、県職員の首を切り裂いた。あまりの一瞬の出来事に誰しもが目の前の状況を掴むことができなかった。

 血飛沫ちしぶきを辺り一面に散らしながら、県職員がつんのめって倒れる。

布施ふせさん!」

 もう一人の県職員が駆け寄ろうとしたが、ちあらの言葉を思い出した。

『もし異変を感じたら、この中に入って』

 そうだ、これは彼女が言っていた「異変」だ。

「囲いに逃げ込め!!」

 ドコモ職員も慌ててちあらが作った結界に向かって駆け出したが、一人が山岸に追いつかれ、背中を一突きされて倒れた。山岸はすかさずその上に馬乗りになり、ドコモ社員の髪の毛を掴んで頭を持ち上げると容赦なく頸動脈を切断した。

 とんでもない手際の良さだった。

「うわぁぁあ」

 それでも県職員ともう一人のドコモ社員はなんとか結界の中に飛び込むことができた。

 山岸が手を真っ赤に染めながら二人をギロリと睨むと、今度はナイフを隠さないまま結界に向かって歩き出した。

「ひゃ、一一〇番を……」

 ドコモ社員が携帯を取り出す。

「月夜野さんは山の中で殺されたのか……山岸さん、一体どうして……」

 県職員がつぶやく。

 このまま走って逃げ出すべきか、この中に留まっておくべきか。

 ドコモ社員が恐怖のあまり駆け出そうとしたが、それを県職員が腕を掴んで止めた。

「山岸さんは登山のプロだ。逃げてもすぐに追いつかれる。この囲いを信じよう!」

 精一杯の声でそうは言ったものの、自分も恐怖で震えが止まらなかった。

 いよいよ山岸が結界に差し掛かったが、まるで壁にぶつかったかのようにその先に進む事はできなかった。

「くそお、なんでこんなところに!!」

 山岸の低い声が広場に響き渡る。

「もしもし警察ですか!? 暴漢に襲われています! すでに二人が刺されて……」

「場所を伝えて!!」

「ば、場所は西沢渓谷の……ナレイ沢の脇にある広場で、そうですインフォメーションがある」

「電話はこのまま通話状態にしておきます。は、早く来てください、早く……!!」

 そうしている間にも山岸はゆっくりと結界の周りを回る。

 どこかに隙間がないか探しているようだ。

「どこだ? どこにある?」

 その声は、聞いたこともない声だった。低くて、少ししゃがれていて……女のようにも男のようにも聞こえる。

「殺してやる。必ず殺してやる」

 山岸は結界のあらゆる場所に手をかけたりして、なんとか中に入ろうとした。

 しかしちあらの作った結界は強固だった。

 結界を支えている四本の柱はただ木とベンチにビニール紐で括り付けてあるだけなのだが、そもそも山岸が柱に触れることはできないようだった。

 そんな大惨事が起きている事も知らず、ちあらは枯れ葉の上に倒れたまま回復を待っていた。あらぬ方向に曲がっていた両足はほぼまっすぐになり、背骨が修復されるととともに脊髄が接続され、次々と下半身からのデータも送られるようになった。砕けた肩や肋骨、骨盤はまだ時間がかかりそうだ。

 ようやく首を動かして、瞬きもできるようになった。

 それまでよだれも涙も流れっぱなしだったのだ。

 ふと何かを握ったままだったことに気付いた。それは……あの山岸に切られたザイルだった。自嘲がこみ上げる。落ち行く自分は相当必死だったのだろう。「落下する者切れたザイルをもつかむ」などという言葉がちあらの脳裏を過った。

 落ちてからどれくらい時間がっただろうか?

 ほそかった呼吸も胸が上下するくらいにまでは回復した。

 あともう少し。立てるようになれば治癒の呪文が使える。そうすれば怪我は一気に治せる。あともう少し……と思った矢先、枯れ葉を踏み締めて何かが近づいてきていることに気づいた。

 その足音から四足歩行であることはわかる。しかも体重はかなりある、というか踏みしめている足がかなり大きい。ということはひづめを持つシカではなさそうだ。

 ちあらはゆっくりだがなんとか音のする方へ首を向けた。

 音は次第に近づいてきている。

 ちあらはその姿が見えるまで、視線を外さなかった。

 すると、のっそりと大きなツキノワグマが現れた。

 かなり大きい。ヒグマくらいあるだろうか?

 ちあらと目があうと、クマはそのままためらわずに近づくと、ちあらに背を向けてからドッカと腰を下ろした。

 どうやらちあらを襲う気はないようだ。

『てっきり死んでるかと思ったが……まさか生きているとは』

 そしてそんな声が届く。

「言葉が、話せるの?」

『人との関わりはあまりないが……少しは』

「いつから見ていたの?」

『何かが不自然に落ちていくのが見えたから、そのときからだ』

「そう」

 それからちあらは首を正面に向けると、目を閉じた。

「油断してしまった」

 そしてそうつぶやいた。

 登山という慣れない状況が、ちあらの精神の余裕を奪った。

 山岸が憑依されることなど解っていたはずだ。今までにも僧とタクシーの運転手が憑依されたではないか。さらに自分を監視する魔の目があることも知っていたはずだ。中央線の中で自分を見つめる大きな眼球(ウィザーズ・アイ)を見たではないか。

『登山とは神の御身体ごしんたいに登ることと同義だ。したがって全身全霊をかけて登らねばならない。登山とは儀式と言えるだろう』

「……」

『つまりおまえは油断したのではなく、神の身体に登ることに全力を尽くしていたのだ』

「確かに登ることで精一杯だった」

 とはいえ今こうして鎖場から落とされ、身動きさえ取れなくなったのは事実だ。

『ふむ、こういう状況を表す言葉を、人間が話しているのを聞いたことがある』

「なに?」

『注意一秒、けが一生』

 ちがうとちあらは心の中で突っ込んだ。

『ここは我らの領域だ。怪我が治ったら、さっさと出て行くことだ』

 どうやらクマはこの場所に人がいることが気に入らないようだった。クマからしてみればあれだけ高いところから落ちたのだから、死んでいると思ってちあらに近づいたのだろう。

「出て行きたくても登山道がどこにあるかわからない」

『そこまでは案内しよう』

 そう言って、クマは腰を上げると歩き出そうとした。

「ま、まだ動けない」

『早く治すのだ』

「この一帯を焼き払っていいなら、すぐ治る」

『そんなことをしてみろ、すぐさま食ってやる』

「わ、わたしは美味しくない」 

『同意。確かにおまえは肉も少なくて不味そうだ』

 がーん。

 そうはっきり言われると悲しくなるのは何故だろう……別に食われたいわけではないのに。

『そうだ、ゴミを拾っておいた』

 どこに隠し持っていたのか、クマはちあらのリュックをちあらのそばに放り投げた。

「あ、ありがと……」

 とはいえ、リュックもボロボロだ。クマがゴミと呼んだのも頷ける。中にはタブレット端末やお弁当が入っているのだが、無事ではないだろう。そういえばスマートフォンはと思い、ウェストポーチをまさぐるとこちらは身体についたままだった。もっとも中身が無事かは解らないが。

 さらに刀がないことにも気付く。

『これもだ』

 それを察したのか、今度はちあらがぶつかった木に触れると、上の方から打刀と脇差しがドサドサっと落ちてきた。

「はぇ~」

 どういう仕組みか解らず、しばしちあらは樹を見上げていた。

「ありがと」

 それから礼を言うと、ようやく上半身を起こした。


*  *  *


 広場では山岸とのにらみ合いが続いていた。

 山岸はひとしきりちあらの作った聖域の隙間を探ったが、見つけられず、歯軋はぎしりした。

『今から向かっている警察官に電話させますから、一旦電話を切ります。すぐにかかるので、必ず出てください』

「は、はい……お願いします」

 電話が切れるのが心細いと感じながらも、ドコモ社員は電話をいったん切った。

 山岸は一度聖域から離れると、自分のリュックの所に戻り、着火剤とランタン用の油を取り出した。

「あ……!」

「この囲いごと燃やす気だ……」

「こんなに枯れ葉が積もっているのに、山火事にでもなったらただでは済まないのに……」

「あの山岸さんは、たぶん、山岸さんじゃない……」

「え? どういうことです?」

「うまく言えないけど……」

 県職員は確信していた。霊はいるのだ、と。

 もはや疑いの余地はない。だが、それをうまく説明する言葉を持ち合わせてはいなかった。

 万事休す。

 もうこうなったらこの囲いからダッシュで逃げ出すしかないのか。

 二人がそう身構えたときだった。遠くの方からサイレンの音が聞こえてくる。

 しかもたくさんの。

「はやい…!」

「間に合ってくれ……!」

 二人は祈るように声を振り絞った。

 まずは近くの派出所にいた警察官二人とさらに救急隊が駐車場に到着したことを知らされた。

「た、たいへんです……火を、火をつけようとしていて……!」

『今、向かっています!』

 携帯電話の向こうの声も鼻息が荒い。走っているのだろう。

「チィ…!」

 山岸は撒いていた油瓶を放り投げ、登山道の中へと早足で消えていった。

 程なくすると警棒を抜いた二人の警官が掛けてくるのが見える。

 その後ろに二人一組で担架を担いだ救急隊員が四人。

 その姿に、県職員とドコモ社員はホッとしてへたり込んだ。

「大丈夫ですか?」

 警官が駆け寄る。

 救急隊員は倒れてる二人の元へ。

「暴漢は?」

「山の方に逃げていきました」

「わかりました」

「暴漢は逃走、繰り返す、暴漢は逃走」

 無線で連絡しながら、警官二人は登山道に続く道を塞ぐように立ちはだかった。

「お二人に怪我はないですか?」

「だ、大丈夫です。我々は無傷です。ですが同僚が……」

「解っています、あとは我々に任せて、心を落ち着かせてください」

 すでに救急隊員が蘇生を試みている。

 そうこうしているうちに警察署からの捜査員たちも続々と到着した。警察官のみならず、機動捜査隊に鑑識に刑事に……広場は瞬く間に捜査関係者でごった返した。

「どうも、日下部くさかべ警察署刑事課の近藤です。こっちは機捜(機動捜査隊)の君島」

「よろしく」

 何人かの部下を従えて刑事らしき人物が県職員に警察手帳を見せながら話しかけてきた。

「急を要する事態ですので、手短に状況を教えてください」

「襲ってきた男は顔見知りと言うことで間違いないですね?」

「はい、山岳会のメンバーで県でも何度かお世話になったことがありますし……まさかこんなことになるなんて」

「容姿のわかるものはありますか?」

「写真とかはちょっとないですね……歳は六五歳で身長は一七五㎝くらい、少し細身ですが筋肉質です。山にはかなり詳しいので気をつけてください」

「今、山岸と同じ猟友会の者が協力をしてくれるとのことでこちらに向かってるそうです」

 別の捜査員が携帯電話で会話しながら、そんな一言を挟む。

「それは心強いな」

「相手は凶器を持っている上に山に詳しい、一班五人制であたってくれ」

 言ってるそばから、けたたましいドローンのローター音が響きはじめる。

 さらに警察犬部隊も到着した。

「刑事さん、山岸さんと一緒に山に入った女の子がいるんです。もしかしたらその子も……」

「背格好のわかるものはありますか?」

「はい」

 県職員はタブレット端末で撮影したちあらの写真を捜査員に見せた。

「これはお祓いをしてもらった時の写真なんですが、今日は普通に私服です。この銀髪が目立つと思うので他人と間違うことはないかと」

「なるほど」

 一方、山岸に切られた二人の応急処置は早々に終わりを告げた。おびただしい量の出血をみれば絶望的なのは誰が見ても明らかだった。すでに心肺は停止しており、瞳孔反射も起きなかった。

「布施さん……!」

 救急隊員が二人の目を閉じるを目の当たりにして、残された県職員は身体を震わせる。

 この騒ぎは登山道へと向かっているクマの耳にも届いてた。

『山が騒がしい……』

 クマは少し不満そうに言うと、立ち止まった。

 そして臭いをかぐように鼻をクンクンとならした。

『おまえを探しているのかもしれない』

「わたしを?」

『数十人はいる』

 クマは目を細めると、音のする方向に向き直った。

「そんなに……」

 何かあったのだろうか?

『おまえを探しているとなると、人間どもが我らのテリトリーに入ってくるかもしれない』

 クマはそういうと、背中に乗せていたちあらをぽいっと地面に落とした。

「わわわ……!」

 斜面だったので危うく転がりそうになるが、後ろ向きにでんぐり返ってゴツンと木の幹に後頭部をぶつけて止まる。

『沢の音が聞こえるか?』

「き、聞こえる」

『その沢は登山道と交わっている。深いところはないから、沢を下っていけ』

 クマはそういうと、密集した木々の中をまるで何もないかのように駆け抜けて行ってしまった。そういえば自分を乗せていたときも、けっこうな速度で進んでいたような……とか思う。

 クマが去った方向をしばらく見送ってから、ちあらは水の流れる音を頼りに斜面を樹木伝いに下りていくと、次第に水の音は大きくなり、幅一mほどの沢に出た……のだが、当然ながら人が歩くことは考慮されていない。

 水はかなり冷たく、倒木、ゴツゴツとした石や岩が続く。

 ただありがたいことに方角に迷うことはなかった。下流に向かって進めば良いのだ。

 一〇分も進むと登山道が沢に沿って並行している場所に出られた。

「おー」

 ちあらは登山道によじ登り、駆け下りる。

 たしかに下方が騒がしい。

 ドローンのローターの音が次第に鮮明になる。近づいている証拠だ。

 下の方の木々の間から人の姿が見えた。しかも一人や二人ではない。

 胸騒ぎがする。

 鳥たちがたくさんの人間が山に入ったこと、犬を連れている事を教えてくれた。

 さらに下っていくと山道が開け、登山道が沢の河原と共有する場所で捜査員たちと遭遇した。

「あ!」

 向こうもちあらを発見して、ザバザバと沢を渡ってくる。

「もしかして月夜野さん?」

 そしてちあらの名前も知っていた。どうやらクマの予想は当たっていたようだ。

「コク」

「よかった! 無事で……はないようですね」

 捜査員はちあらの姿を見て、慌てて支えようとした。

 そこでちあらは初めて自分の姿を意識した。服はボロボロだし、下半身は血まみれだ。

「大丈夫、ちゃんと歩ける」

 その場で腕を振ったり足踏みしたりしてみせる。

 捜査員たちは、じゃぁその服に染み込みまくっている血はなんなんだと思ったことだろう。しかも返り血ではなく、どう見ても内側からの出血にしか見えない。

「行方不明の少女を保護しました。月夜野ちあらさんと確認。ええ、例の銀髪の女の子です」

 捜査員の一人がちあらが渡した学生証を確認しながら無線連絡する。

「一緒に山を登った山岸がどこに行ったかは見ていないか?」

 他の捜査員がちあらに山岸の消息を尋ねてきた。

「え、山岸を探しているの?」

 ちあらの予想では自分を落としたあと、正気に戻っているはずだった。それが雄鶏山の目的だと思ったからだ。もしまだ取り憑かれたままだとしたら……。

「そうだ。どのあたりではぐれた?」

「彼が、なにかしたの?」

「……」

 捜査員たちが一瞬顔を見合わせたあと、二人を刺して逃走中であることを告げた。

 不味い展開だとちあらは心の中で舌打ちする。山岸は取り憑かれただけであり、彼が自分を落としたことにしたくはなかったのだ。

「で、山岸とはどこで?」

「鎖場ではぐれてしまった」

 ちあらは切断されたザイルを捜査員に手渡す。その断面は鋭利なモノで切断されていた。

「あなたを落とした?」

「コク。わたしが気がついた時には彼の姿はなかった」

「よく無事だったな……」

「岩じゃなくて木の上に落ちたから助かった。運が良かった」

 と言うことにする。

「そうか、となると山岸と別れたのは下山する前か……」

「ヤツは広場に一度戻っているから……」

 などと相談を始める捜査員たち。

「途中で出会ったりしてもない?」

「コク」

「近藤警部、月夜野さんは山岸とは山頂付近ではぐれたと、ええ、はい、それからは見ていないと」

 捜査員の一人が無線でちあらの話した情報を報告する。

「小宮山、おまえが広場まで月夜野さんに付き添ってあげてくれ」

「了解しました」

「深追いしてはいけない。わたしと一緒にいったん広場に戻って欲しい」

 ちあらはリーダーらしき人の腕をとって、首を左右に振った。

「大丈夫だ、私たちはちゃんと訓練を受けているし、凶悪犯を捜索することにも慣れてるんだ」

 まあ、そう反応されてしまうか。

 ちあらは奥に進むという四人に、邪悪から守る術(プロテクシヨン・フロム・イビル)をかけた。もっとも雄鶏山の力が強ければ意味はないが……何もしないよりマシだろう。

「おまじない」

 ちあらはそういうと、四人を送り出した。


*  *  *


 ちあらが広場に戻ると山岸の捜索に捜査員のほとんどが出払ってしまったためか、だいぶ寂しくなっていた。残っているのは救急隊員と鑑識、現場を指揮する刑事と通信係や機器をモニターしている署員ぐらいだった。

 いつの間にかパイプテントが設営され、急ごしらえの捜査本部ができあがっていた。

 救急隊員が横たわった県職員とドコモ社員のそばで何かを書いている。おそらく死亡に関する書類だろうとちあらはすぐに悟った。もし生きていたらこんなところで悠長にしていないからだ。

 ちあらはすかさずその横たわっている二人に駆け寄る。

「あ! ちょ、ちょっと!」

 制止する救急隊員を押しのけると、遺体に触れ、蘇生が可能か調べるが、すでに魂は抜き取られたあとだった。雄鶏山が抜いたのだろう。生き返らせるには魂を取り返さなければならない。

「あ、月夜野さん」

 ずっとうつむいて座っていた県職員が、顔を上げた。

「無事だったのか……よかった」

 そういって少し安心したような表情をした。

 同僚の死を知って放心状態だったのだが、ちあらの声を聞いて我に返ったらしい。ちあらが無事だったことに安堵したようだった。

「いや、無事ではなかったみたいだけど……」

 服が血だらけなのに気付いて、表情を曇らせる。

「わたしは平気。だけれど、山岸が乗っ取られるのを阻止できなかった」

「やっぱり……あれは山岸さんではなかったのか」

「コク」

「だけど……そんなこと警察は信じてくれるだろうか……」

 県職員は元気のない表情のまま、捜査員や救急隊員たちを見渡した。

 もし自分が岩場から落とされた時、山岸も道連れにしていればここでの惨劇は起こらなかっただろう。しかし、そんな判断はできない。あくまでも山岸は乗っ取られていただけであり、そんな彼を勝手に死に追いやる理由もない。

 でも……その結果、二人が殺されてしまった。

 いや、命の足し引きはよくない……。

 いろんな思いがちあらの中で浮かんでは消える。

「現場を指揮している人に会いたい」

 事件は現在進行中だ。とにかく事態を収拾しなければ。

 ちあらは立ち上がって広場をぐるっと見回した。

 すると、ちょうど自分を指さしながらこちらに向かって来る人物に目がとまった。

「警部、あの子が山岸と一緒に登山に向かった子です」

「無事で良かった」

 そんな会話をしながら刑事課の近藤がちあらに近づいてくる。

「あなたが指揮官?」

 ちあらは近藤が口を開くよりも前に声をかけた。

「そうだが」

「山に入った人たちを今直ぐに呼び戻して欲しい。事態は一刻を争う」

 向こうが何か言いたげなのを無理に遮って言葉を続ける。

「ご心配ありがとう。だが大丈夫だ、我々だって素人じゃない。凶悪犯罪者を追うことのイロハは心得ている」

「それは百も承知している。けれどわたしの言葉を信じてほしい。この山はすでに人ではない者が支配している」

「まぁまぁ、落ち着きなさい。けがの方は大丈夫なのか?」

 言い合っているそばから登山道の方から冷たい風が入り始めていることにちあらは気付いた。

 それはまさに冷気。

「?」

 ちあらはその風の音に耳をそばだてた。風の音に混じって、かすかな音が聞こえたのだ。

『琴?』

 思わせぶりな、それでいて悲しげな音階が風の音に混じっている。

 どういうことかわからず、ちあらの心が騒ぐ。

 次は何をしてくる気だ? 何の準備をすればいい??

 ちあらは近藤と言い合いをしながらも、雄鶏山の次の手を一生懸命考えた。

「とにかく、現場は我々に任せてもらいたい。だいたいキミは一般人だろう?」

 と言ったところで、近藤の言葉が切れた。

 目を見開き、口をパクパクとさせている。

「うわぁぁぁぁぁ!」

 同時にちあらの後ろから叫び声が響いた。

 ちあらもそれに気付いて振り返る。

 近藤の視線の先では……地面に横たわっていたはずの死体が動き出し、救急隊員に襲いかかったところだった。

 そっち《ゾンビ》で来たか……と、ちあらは内心舌打ちする。

「下がって!」

 ちあらはとっさに死者を葬り去る術(ターニング・アンデツド)を使おうとしたが、慌てて止めた。ちあらの退魔の術は死者を一瞬で灰にしてしまう。そうなったら魂を取り戻しても、蘇生がさらに面倒なことになる。

 ちあらは出かけた呪文を飲み込むと、死者の動きを止める術(ホールド・アンデツド)に切り替え、二体の動きを止めた。

ゴッ!!!

 その瞬間、山の方から猛烈な冷気が吹き込んだ。悲鳴のような風切り音が広場に吹き荒れる。身を切り裂くような冷たく鋭い風だ。同時に荒れ狂うようなけたたましい琴の音が風と共に広場に鳴り響いた。

「結界に入って!!」

 ちあらはまだ固まっている近藤をぐいぐいと押した。

「な、何を……」

「いいから! あの結界の中に!」

 すでに県職員とドコモ社員が飛び込んでいる。

 ゴオッっという音とともにさらに強い冷気が広場の中を吹き荒れる。その強烈な風音とともに、金切り声のような不気味な音が響き渡ると、それを聞いた者達は恐怖のあまり顔を歪め、叫び声をあげて狂ったように逃げ惑い始めた。

「あーあ」

「おい! どうしたんだ!? お前ら勝手な行動は許さん!!」

 近藤が結界から飛び出そうとしたが、それをちあらがとっさに足払いでこかす。

「うお!?」

「ここから出たら、あの人たちと同じ目に遭う。風が収まるまで、待って」

「………」

 結界の外では尻餅をついて失禁する者、叫び声を上げて駆け出す者、嘔吐する者……警察官も消防隊員も鑑識も、皆が皆まるで狂ったように叫びだし、逃げ出し始めた。

「な、なんだ……! 何が起きているんだ!?」

 しめ縄の中にいた近藤は尻餅をついた体勢のまま、我が目を疑った。

 ちあらは自分の近くでしゃがみ込んで震えている警官に近づくと、邪悪から守る術を施し、恐怖の呪いを解く術(リムーブ・フィア)をかけると、彼の目の前で手を振って意識を確かめた。

「あ、あぁぁぁぁ……あ、あれ?」

 警察官はすぐさま正気を取り戻す。

「とりあえず、あの二人を拘束して」

 ちあらは警官の肩を叩くと、立ち上がったまま微動だにしない二体のゾンビを指さした。

「ええ!?」

「じゃないと、そのうちまた動き出す」

「まじか!」

 警察官は手錠を取り出すと勇気を振り絞って死体に向かった。

「あなたもお願い」

 ちあらはもう一人、恐怖で動けなくなっていた捜査員にも同じ術を施す。

「で、出ても大丈夫なのか?」

 それを見ていた近藤が結界の中からちあらに声をかける。

「まだ出てはいけない。この冷気を止める」

 ちあらは広場から登山道に続く道の入り口に立って何やら呪文を二、三(コンセクレイトやディスペルなど)となえるとようやく風がピタリとやんだ。あの琴の音も。

 静寂が広場に訪れる。

「出ても大丈夫」

 そして近藤に向き直ると、深く頷いた。

 彼は恐る恐る結界から出ると、キョロキョロと辺りを見渡した。

「………」

 そしてどうしたらいいものか困惑した。

「広場でこの有様。山に入った人たちがどうなっているか……命の保証はない」

 ちあらは首を左右に振って下唇を噛んだ。

「なんだと!?」

 近藤は我に返ってテントにある無線機に駆けると、山に入った捜査員たちを順番にコールしたが、どの班からも返事がなかった。

「な、なんてことだ……」

 近藤は焦りと絶望からうなだれるが……。

『ザッ……こちら第三班、リーダー山本です。本部、どうしました?』

 ちあらにも聞き覚えのある声が返ってきた。下山途中に遭遇した班だ。ちあらがかけた守護の術は、どうやら雄鶏山に対して有効だったようだ。

「状況が変わった、今すぐ広場に戻ってくれ。詳細は戻ったら説明する」

『えー、第三班了解、帰還します』

 その声を聞いて、近藤が少し安堵する。しかし、応答があったのはその班だけだった。

「とにかくこの広場は危険。駐車場がある旧道まで引き上げて」

 ちあらの言葉に、初めて近藤は大きく頷いた。

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