二、小競り合い

 さらに一週間後、ちあらは再び山梨県にいた。ふっかけた見積もりはなんの文句も出ず通ってしまったのだ。しかも一週間で稟議が降りるとは役所では異例の早さだ。

 塩山えんざん駅、午前七時半。

 朝五時の電車に乗ってやってきた。

 あの雄鶏山おとりやまはこの塩山から行くのが近いのだ。

 とはいうものの、登山道入り口まではここから二〇㎞はある。それに今日は雄鶏山に行くのが目的ではない。雄鶏山周辺の神社や寺を巡って土地神の許可を得るために出向いたのだ。その数二一社。山梨県からのリストも合わせると、六社も増えてしまった。

 初めて降りる塩山駅はちあらの他に降りる客も多く、改札前は結構な人でごった返していた。田舎の駅な上に早朝なのだから人はいないだろうと予想していたので、少し面食らった。

 駅にはみどりの窓口もあり、それなりに乗降客が多い駅のようだ。

 乗客たちはみな登山者っぽい格好をしていて、大きなリュックを背負っている人がほとんどだった。一方のちあらは蓬莱不忍ほうらいしのばず学園の制服に、背負えるタイプの学生鞄かばん、肩から下げるタイプの筒状の図面ケースという出で立ちだ。鞄には早起きして作ったお弁当と飲み物が、そして図面ケースには打刀うちがたな(日本刀)が一振り入っている。

 地元では見たこともない制服を着ているちあらは、少しだけ駅で注目をびたかもしれない。

 ただ人の流れは確実に南口に向いており、北口に向かったのはちあらだけだった。

 北側はそんなにさびれているのかと思いながら階段を降りて出てみると、ロータリーもあり小綺麗に整備されていた。

 タクシー乗り場にはタクシーが数台、ということは北口もそれなりに人は降りるようだ

 ちあらが先頭の一台に近づくと、運転士が後部座席のドアを開けてくれた……のを無視してそのまま運転席側のドアに行く。運転士が少しいぶかしげながらも窓を開けた。

「一日貸し切りたい」

「観光かい?」

 運転士はまじまじとちあらを見つめた。おそらくどういう客なのかを見極めたかったのだろう。何せ明らかに登山者には見えないし、地元の制服でもないし、塩山は修学旅行生がくるような場所ではない。

「パワースポットめぐり。今日中に二十一カ所も回らないといけない」

 ちあらは鞄からタブレット端末をとりだすと、その画面を運転士に見せた。タブレットに表示されたマップにはずらっと寺社仏閣の位置がポイントされている。

「こりゃ大変だよ、嬢ちゃん」

 運転士が目を見開く。

「すべて行ける保証はできんよ?」

「行けるだけ行く。お金はちゃんとある」

 そういって今度はお金の入った封筒を鞄から出して手渡した。

「そんなにはかからないよ。ウチは二時間で一二〇〇〇円だよ」

「終電の時間までお願いする」

「本気だね、嬢ちゃん」

「コク」

 ちあらはうなずくと、タクシーに乗り込んだ。

 するりとなめらかにタクシーが発進する。

 さて、まずは最初にどこに行くべきか。

 実は神社というものは人間の都合で建てられている。何故なら、奉られているのは神だが、拝みに行くのは人間だからだ。修行の場でもない限りだいたいは誰でも行ける場所にあるものだ。

 だから二一カ所回ると言っても、ほとんどが集落の道沿いに集中している。

 なので効率よく回りたいところではあるのだが……。

「最初はどこに行けばいいかね、嬢ちゃん?」

 運転士はとりあえず車を北に向けながらも、バックミラー越しにちあらに視線を送った。

 嬢ちゃん呼ばわりはちょっと……とちあらは思ったが、当人に悪気はないし、育った時代が自分とは違うのだろうと思い、そのまま褒め言葉として受け取った。

「お伊勢いせの宮というところ」

 ちあらはまずは伊勢という名前が付いているところに行くことにした。

 というのも伊勢・出雲いずも諏訪すわあたりの名前が付いている神社があったらまずそれらを参らないといけないからだ。鹿嶋かしま八幡はちまんあたりも要注意だ。これらに詣でる前に他の神社に行こうものなら、あとで何を言われるか解らない。とはいえこういった全国規模の神社はそこに神様がいるわけではないので、ご利益に預かれないのが曲者だ。

 さらに地元の人間が勝手に奉った場合もある──というか、それがほとんどだったりする──ので別に行かなくても良かったみたいなことも……。

「うーむー」

 ちあらはタブレットとにらめっこしながら、先に行くべき神社が他にないかを確認した。

「回る順番ってのは決まってるのかい?」

「最初のいくつかは決まっている。あとは効率重視」

「はいよ」

 タクシーは緩やかな上り坂をけっこうなスピードで登っていった。


*  *  *


 一二時、お昼休憩も兼ねて、運転士は道の駅へとちあらを連れてきてくれた。

 この時点で回った神社は九社。まずまずのペースではなかろうか。

 そして手応えは皆無だった。どの神社も祭神がいないか、雄鶏山とは全く関係のない神ばかりだった。まぁ、ある程度予想したことではあったが……徒労感は否めない。あと山だからということもあるのだが、動物神が多すぎるのも問題だった。神とはいえ言葉が通じないのだ。どうしても感情のやりとりになってしまう。

 この先も思いやられる。

「なんだ、嬢ちゃんは弁当持参か」

 いそいそと弁当箱を取り出しているちあらに、運転士が目を丸くした。

「早起きして作った!」

 ちあらは誇らしげに弁当箱を掲げた。宝箱ゲットか?

「お、自炊するのかい、えらいねぇ」

 お弁当の中身はオーソドックスというか、コンサバティブというか、ご飯の部分は日の丸、おかずはほうれん草のごま和えとひじきの煮付けに、だし巻き卵とタコさんウィンナーといったところだ。

 おかずの種類が多いが、何のことはない。大量に作って冷凍してあるだけなのだ。その日の気分によって食べたいものを解凍して弁当箱に詰めているだけなのだ。

 ちあらの通う蓬莱不忍学園は給食がないので、生徒は弁当を持参するか購買部で調達することになる。なのでほぼ毎日弁当は持って行っているのであるが、毎朝つくるのは面倒なので、こうして様々なおかずを作りためているに過ぎなかった。

 飲み物もただお茶のペットボトルを二本ほど鞄に入れてあるだけである。

 天気は良く、パラソルのついたテーブルでお弁当を食べるのは、なかなか遠足気分で楽しい。

 せっかく来たのだから、後でお土産とかを覗いてみようとか思う。さいの目クラブのみんなに何か買っていこう。

 そう思いながら道の駅の建物に目を向けるとほうとうののぼりが見える。山梨といえばほうとう。食べたことないなーなんてことも思う。

「ありゃ、まだ食べてるのか」

 などと遠足気分を満喫していると、もう運転手が戻ってきた。

 はや。

 さすがタクシーの運転手。商売柄、食事を取る時間も惜しいのだろう。

「も、もうちょっと待って……」

「いいよいいよ、嬢ちゃんのペースで食べてくれ」

「お、お土産も見たい」

「あー、道の駅は夕方には閉まっちまうから、見れるときに見とくとイイかもな」

「ありがと……」

「じゃ、用事が済んだら車に戻ってきてくれ」

 運転手はそう言うと、車に戻っていった。

 あまり待たせるのは悪いと思い、精一杯の速さで弁当を食べ終わると、いそいそと売店へ。

 いや、その前におトイレ。

 今度はソフトクリームの幟に目を奪われる。

 そういえばほうとうも気になる。

 などとソワソワしながらちあらは道の駅を堪能した。

 お土産はほうとうセット。いつも食うのに困っている十和子とわこの分も買っておいた。あとはお野菜とか安かったけど……持って帰るのが大変なので断念した。

 季節によってはブドウや桃も扱っているらしかった。

 タクシーに戻る前にソフトクリームも買う。あと運転士さんに缶コーヒーも。

「戻った」

「嬢ちゃん、気が利くね」

 ちあらから缶コーヒーを受け取りながら、運転手が嬉しそうに笑う。

「次は大轟山三津窪だいごうさんみつくぼ神社だ。ここからそんなにはかからないよ」

「コク」

 ドアが閉まると、タクシーはすぐに動き出した。

「三津窪神社は今日の、本命」

 ちあらは気を引き締める。が、その真剣な表情とは裏腹に、右手に握られたソフトクリームのせいで雰囲気は台無しである。

 三津窪神社はあの雄鶏山につながる登山道と同じ旧道沿いにある神社で、奥の院が雄鶏山に隣接する山の頂にある。

 そのことからちあらはこの神社が雄鶏山と関係があるのではないかと踏んでいた。祭神も大山津見神おおやまつみのかみとなっているが、もしこの神社が古いものであれば、元々は地元の神を奉っており、時代とともに大山津見となった可能性もある。

 となれば直に土地神と相まみえることが出来るかもしれないし、そもそも雄鶏山の土地神である可能性もある。そんな期待がちあらにはあったのだ。


*  *  *


 森の中に包まれるようにたたずむ三津窪神社の鳥居は、見上げると神秘的で荘厳に見えた。

 近くには沢が流れ湧水もあることから、恐らくかなり古くから人間が住み着いていた場所であろう。その古代の人たちの祭事場であった可能性が高い。だとしたら当時からの山神がまだしているかも知れない。

 期待に胸をふくらませつつ、ちあらは最初の鳥居をくぐろうとしたのだが、拒否された。

『えー……』

 明らかに張り詰めた空気がちあらの行く手を阻んでいる。

 感覚的には急に気圧が高くなった感じ。しかも普通、気圧が高くなれば温度も高くなるはずなのだが、冷たい。まるで空気の壁である。

『ふむむ……』

 もちろん強行する事は可能だ。しかし、強行は神に抵抗することになる。

 ちあらは鳥居の前で柏手かしわでを打ち、礼をして神社に入ることを願い出た。

 すると、自分の周りを取り巻く空気が少し軽くなったことを認識できた。同時に鳥居の向こうから光が差し込んできた。どうやらこの光の通りに来い、ということのようだ。

 神社は山の中腹にあるため、参道はちょっとした山道になっている。杉林に囲まれた何段もの階段を登っては折り返し、また階段を登っていくと、最上段の向こうに拝殿の屋根が見え始めた。

 神社の形態を取っているが、古くから仏教とともにあることが感じられる神社だ。修験者の修行の場であり、だから大轟山という山の名前がついているのだろうし、奥の院が山のテッペンにあったりするのだろう。

 手水舎ちょうずしゃで手を清め、拝殿の前に立つと、ちあらはここに導いていただいたことに感謝を捧げるとともに雄鶏山についての呼びかけを行った。

 すると神は純白でけがれていない布と、岩を暗示してきた。

『?』

 わからぬ。

 言葉で説明してほしいなぁ、とちあらは問いかけてみたが……。

『アパ、ダマポ、イドゥダヤパ……』

 なにやら聞いたことのない言葉(?)が返って来た。

 なにこれ、縄文? もっと古い言葉かも……??

 現代日本語が通じないとか、人間の願い事とかまったく聞く気のない神様なんだなーとか思う。

 となると雄鶏山を伝えるのも難しい……たぶん当時はそんな名前じゃないはず……。

 ちあらは身振り手振りで雄鶏山の方向を指さしながら、なんとか伝えてみると、今度は岩だけが暗示された。どうやら岩が雄鶏山のことを指していたらしい。確かに雄鶏山は岩山である。

 ああ、なんだ通じているのか……とホッとする。

 すると今度はクマにたくさんの山という暗示が届く。クマは山のいただきに立ち、山々を照らしている。

『なるほど……』

 これは解る。たくさんの山=山一つじゃなくてこの辺り一帯、そして神様はクマということなのだろう。となると白い布の意味はなんだろうか? 岩と一緒に出てきたので、雄鶏山の何かを現している?

 しかし、そこで暗示は途切れた。

 ちあらが何を働きかけても、答えが来ることはなかった。

 要するに、そのクマに会えと言うことか……?

 ちあらはダメ元で自分のことをそのクマに伝えるように願うと、ようやく拝殿から降りた。

 それからぐるっと境内を見渡し、社務所が売店にもなっていることに気付いて、てててと駆け寄った。

「たのもう」

 中にいた巫女装束の人に声をかける。

「はい、いらっしゃい」

 なかなか元気な年配の女性が窓口に顔を出した。

「この辺に、クマは出る?」

 開口一番、クマの話を出す。

 相手は予想だにしなかった質問に少したじろいだが、すぐに営業スマイルに変わると、

「クマに注意の看板はね、あるんですよ。登山者なんかがね、見たって言うんですけど、あたしらは見たことはないですねぇ」

 と答えた。

「ふむー……」

「それよりも、もー、シカが増え過ぎちゃって……大変なんですよ」

「シカ……」

 暗示の中にシカはなかった気がする。

「冬の間に木の芽をね、食べ尽くすしちゃうんですよ。道路に出てきて事故の元になるし、畑は荒らすし、ほんと困ってるのよ」

「……」

 クマはシカは食わないのだろうか……? 等と思う。

「クマがいるかどうかは、登山客に聞いて見た方がいいかもしれないですねぇ」

「あー……」

 この話しぶりだと、別にこの神社がクマを奉っているとか、クマを大事にしているとかそういうことはなさそうだった。もしかしたら遙か昔はクマを神か神の使いとしてあがめていたのかもしれないが……その後、神道が入ってきたり、仏教が入ってきたりで昔の記憶は欠片かけらも残っていないようだ。

 白い布、岩、クマ、山々。

 断片的すぎる。

「あ、ありがと」

 ちあらはテキトーに交通安全のお守りを買うと、お礼を言った。

「いいえ、またいらしてください」

 見送る声を聞きながら、ちあらは肩透かしを食らったような気分だった。とはいえ、この神社の神には自分の存在と雄鶏山に用事があることは伝えられたので、目的は達したと言えるだろう。


*  *  *


 すっかり暗くなった夜の九時、立派なお寺の門の前でタクシーは止まった。今日最後の場所だ。

 寺は神社と違い、夜遅いと自由に入れるとは限らない。しかし寺にも本堂に拝む場所が用意されているはずだ。

 山門にはかがり火がたかれ、門戸は開け放たれていた。

「開いてるみたいだから、行ってくる」

 ちあらのその言葉とともに、リアドアが開く。

 ちあらは飛び降りるように車から飛び出すと早足で山門をくぐり、本堂へと走った。

 本堂の扉は閉まっていたが、中から光は漏れており、かすかながら読経どきょうの声も聞こえる。

 外の闇へと漏れ出す本堂からの光は、黄金に輝いているようにも見えた。

 ここで感じられる力はまったく別種のものであり、雄鶏山に関わることはなさそうだ。

『ここも、来なくても良かったのかな』

 そんなことを思いながら本堂の前で一応手を合わせる。

 すると読経の声がやみ、静々とこちらに布のすれる音が近づいてくるのが解った。ちあらは目を開けてしばし本堂の扉を見つめていると、少しガタついた音がしながらも目の前の扉が開いた。

 中から若そうな──といっても三〇は過ぎているであろうが──僧が姿を現した。

「こんばんは」

 僧はにっこりと笑うと視線をちあらに合わすため広縁ひろえんひざをつき、丁寧に挨拶あいさつをした。

「こ、こんばんは」

 ちあらは少し唐突な出会いにうまく対応出来ず、抑揚のないぶっきらぼうな挨拶を返す。

「当院に何か?」

「読経の邪魔をして悪かった、わたしの祈りは済んだ」

 この寺に雄鶏山の関わりは薄い。これ以上ここにいるのは迷惑だとちあらは思った。

「解決されたのでしたら、なによりです」

 僧はにっこりと笑う。

 ちあらも深くお辞儀をしてその場を離れようとしたそのとき、後ろ髪ひかれるというか、いや、予感というものだろうか? ゾクッとしたような気配を感じた。

 あわてて振り返る。

 だがそこには僧が平穏な表情でこちらを見ているだけだった。

「どうかなさいましたか?」

 笑顔のままの僧が、少し首をかしげる。

「たった今、あなたに用事ができた」

 ちあらはまっすぐ僧の瞳を見つめると、深く頷いた。

「そうですか、では立ち話もなんですからどうぞこちらへ」

 僧がさらに扉を開けると、ちあらを本堂の中へと導き入れた。

 本堂は畳敷きで四八畳もある立派なものだった。その畳敷きのさらに奥は板間になっていて、赤い絨毯じゅうたんの上にご本尊が安置されている。

 季節が季節だけにストーブがかれていて、中はほんのりと暖かかった。

 ちあらは僧と向き合って座ると、この場所に来た目的をかいつまんで話した。僧はちあらの言葉に相づちを打ちながらも黙って聞いていた。

「それは大変でしたね」

 そしてこの寺が最後の場所だと知ると、穏やかな声で頷く。

 いつの間に手配したのか、小僧が温かいお茶を持ってきてくれた。

「して、山から何を感じましたか?」

「死を呼びかける、負の力」

左様さようですか」

「すでにたくさんの命が失われている」

「それは大変なことで」

「それを止めに、わたしは来た」

「しかして、その死が必然だったという可能性もありませぬか?」

「どういうこと?」

「その人達は、そこで死ぬ運命だった……とか」

「それはないと思う。まだ憶測でしかないけれど、魂が必要だったんだと思う」

「つまり、雄鶏山が魂を欲したと?」

「必然の死というものは誰かの意思によって決まるものじゃない。色々なことが積み重なって、最終的に逃れようのない死が決定する。誰かの意思で決まったのなら、それは殺人だと思う」

「あなたのいう運命の積み重ねが、最後の最後で人の手による死であった可能性は?」

「う……」

「多くの死へつながる必然が重なり、最後に人がとどめを刺さざるを得なかった。たとえその人が殺めたくなかったとしても」

「それを証明するのは難しい……と思う。わたしにはその人が殺したようにしか見えない」

「左様です。それを見極めるには輪廻りんねの糸をたどらねばなりません」

「輪廻の……糸?」

「魂は、今この時だけのものではありませんからね」

「………」

 それは輪廻転生のことだろうか?

 その輪廻の輪の中でとががあるがゆえに死が確定したとでも言うのだろうか?

 ちあらには仏教の考えが解らないため、僧の言葉を理解することはできなかった。

「ですから、その人の死だけを見て、すべてが決まるわけではないのです」

「ふむふむ」

 たとえ殺人であったとしても、殺人者も、殺された人も、その人生だけでなく、輪廻の中で何らかの因果いんががあったかもしれない。その糸をたどっていけば、実は必然の死との出会いだったのかもしれない。

「悪しき魂だとしても、くれぐれも無用な殺生せっしょうはなさらぬよう」

「わたしは穢れたものをめっすることしかできない」

「滅するなど、とんでもない。浄化されるのがよろしい」

「罪あって死んだ者は、ただ滅びるのみ」

難儀なんぎですな」

「わたしは救いを伝えることはできるけれど、直接救うことは出来ない。その人自身が救いを求めない限り、救われることはない」

「あなたが救ってはあげないのですか?」

「わたしにその権限はない」

「ならば、私が救ってあげましょう」

 僧が一つ頷くと、口元が少しゆがんで不気味な笑みを見せた。

「!」

 と同時に僧の後ろで揺らいでいた影が突然大きくなると、ちあらを飲み込むかのように襲いかかった。これがちあらの胸騒ぎの正体であった。

 ちあらは落ち着いて自分の傍らに立っていた浄灯じょうとう燭台しょくだい)をつかむと、迫り来る黒い影に突き立てた。

!」

 ちあらの声と同時に蝋燭ろうそくの炎が爆発したかのように一瞬だが広がり、逆に炎が影を包み込む。

「゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ……!!」

 かなり低めの……おそらく女性のような叫び声とともに黒い影は形を崩しながらちあらの後ろへと流れ、そのまま外へと飛び出して行った。

 ちあらはゆっくりと浄灯を元にもどし、呆然としている僧に駆け寄った。

 彼の顔の正面に手のひらをかざして、解呪の呪文(リムーブカース)を唱える。

「う……」

 すると僧の瞳孔が元に戻り、我を取り戻した。

 そして目の前で起きたことを思い出すと、信じられないといった表情でちあらを見上げた。

「少し、心が乱れていたようですね」

 だが、さすがは僧といったところか。落ち着いて、ゆっくりと頷く。

「まさか、この私にあのようなモノがひそんでいたとは……あなたはそれが見えたから、私に用事かあると言ったのですね?」

「さすがに見えてはなかった。ただ、何かがいることは感じていた」

「そうですか……」

 少しせないという表情をしたが、僧はちあらの言葉をそのまま受け取ると、立ち上がって本堂の外へ出た。

「今夜は、騒がしい気がします」

「わかるの?」

「どうでしょう……ただの胸騒ぎかもしれませんが……」

 そう言って天を仰ぎ見た。

「少なくとも経をあげる気にはなりましたからね」

 そして目を閉じて、頷いた。

「今日は朝から空気がおかしかった、そう感じておりました。そしてその原因はあなたがこの辺りを巡っていたからでしょう。あなたによってこの地が騒いでいたのです」

「なるほど」

「その雄鶏山、確かに何かがありそうですね。人では計り知れない、何かが……」

「すでにわたしは目をつけられたと思う。わたしに関わった人間に影響が出ることがよくわかった」

「あなたは恐らくとてもお強いのでしょう。なにせこの地を騒がすほどですから。となるとあなた自身には手を出せない、だから周囲を惑わしているのかもしれません」

「………」

「またとない体験だったと思います。物の怪にかれるなど私もまだまだ修行がたりませんね」

 僧は苦笑すると、数珠じゅずを握る手に力を込め、首を左右に振った。


*  *  *


 山門を出ると、タクシーがちあらの帰りをずっと待っていた。

 時間は二一時半をとっくに回っていたので、三〇分以上待たせたことになる。

 ちあらは急いでタクシーに向かったが……運転席でちあらを待つ運転手が黒いオーラに包まれているのに気付いた。

 まあ、それもそうか、などと思う。僧で失敗したのなら、次は運転手というわけだ、

 これ以上他人に迷惑はかけられないとちあらは深く頷く。

 運転手はちあらに気付くとタクシーから下りてきた。今までならドアを開けるだけだったのに。

「なぜ同じ手を二度も使うの?」

 ちあらは下りてきた運転手に問いかけた。

 ところが今度は運転手自身がちあらに襲いかかってきた。なるほど、これが僧の時との違いかと思った。取り憑いた人間なら直接手は出せまいということなのだろう。

 ちあらは掴みかかってきた運転手の懐に入るとえりをつかみ、自分の腰に運転手の体重を預け、運転手自身の襲いかかってきた勢いを利用して投げ飛ばした。

 ただし、襟は絶対に離してはいけない。アスファルトに頭を直撃させたら、ただでは済まない。

 背中全体を地面に打ち付けられて、運転手が「ぐう」という低いうなり声を上げた。

 痛みでまだ動けない運転手に解呪を施すと、黒いオーラが霧散して消えていった。

「ん、あ?」

 同時に運転手が自我を取り戻す。

「あれ? なんでオレは……」

 地面に仰向けに倒れてることを理解できずに戸惑うが、しだいに今までのことを思い出す。

 何度かまばたきしたあと、表情が青ざめるのがちあらにも解った。

「た、大変だ、おれは嬢ちゃんに…!!」

 すぐさま起き上がってちあらに向き直ると、地面に正座して、ちあらに謝ろうとした。

 どうやら、取り憑かれてる間も本人の記憶は失われないようだった。つまり先ほどの僧も、おそらく自身からわき出た何かがちあらを襲おうとしたことが見えていたのかもしれない。

 謝ろうとする運転手をちあらはあわてて制止すると、首を左右にふった。

「あなたは何も悪くない。今日の寺社巡りは見えざる力と関わりを持つためのもの。何が起きても不思議はない。だから、今起きたことは忘れてほしい。わたしも決して誰にも言わない。あなたがわたしにしようとしたことは、あなたから出たものではないから。むしろ、あなたを巻き込んでしまったわたしのせい」

 ちあらはそう言うと、運転手にびた。

「これ以上、わたしと一緒にいたらあなたに迷惑がかかってしまう」

 ちあらはそう告げて精算を申し出た。

「駅まではまだけっこうあるが、本当に大丈夫かい?」

「大丈夫、体力には自信がある」

 胸を張るちあら。

「ま、オレみたいなおっさんを投げ飛ばすぐらいだからな。ビックリしたよ」

「てれてれ」

「この道なりに下って行けば駅に出るのは簡単だよ。青の案内標識通りに行けばいい」

「ありがと」

「最後まで付き合えないのは心残りだが、嬢ちゃんの言葉に従うよ。不思議な一日だったよ」

 運転手はそう言って、苦笑した。

「わたしこそ、世話になった」

 ちあらも頭を下げたあと運転士の手を握って、別れを告げた。

 去り行くテールランプを見つめながらちあらは雄鶏山に自分が認識されたことを確信した。これは雄鶏山からの宣戦布告である。いや、地縛霊を払ったことが、雄鶏山に宣戦布告と映ったのかもしれない。

 僧も言っていたではないか、この地が騒いでいる、と。

 しかも僧や運転手の精神を乗っ取れるとは、かなり強力だし、地縛霊などと違って確固たる自己と知能を持っている存在であることが解る。もしかしたら言葉を解するかもしれない。

 しかし正体は皆目見当がつかなかった。

 白い布、岩、山々、そしてクマ。

 霊なのか、神なのか、それともそのほかの魑魅魍魎ちみもうりょうの何かなのか。

 そういえば僧は「物の怪」と言った。そして浄化するのが良いとも。

 そこにヒントがありそうな気もする。

 ちあらはそう思った。


*  *  *


 ちあらが塩山駅に戻ってきたのは高尾たかお・東京方面の最終電車の時間よりわずか二分前だった。

 時刻は二二時二六分、最後のお寺から塩山駅までは約一二㎞。ちあらは時速二〇㎞ほどで駆け抜けてきたことになる。

 少し息を切らしながら、電車に飛び乗る。

 もー、鞄の中がぐちゃぐちゃだ。

 お土産袋も全部鞄に詰めてきたからだ。

 鞄とショルダーベルトをとめる金具が一部バカになっている。それくらい人が時速二〇㎞で走ったときの振動はバカにできないようだ。

 通学鞄じゃなくて登山用のリュックとかだったら平気だったのかも……とか思う。

「んしょ……」

 ちあらは揺れる電車の中で鞄の中を整理した。

 この車両に、乗客はちあら以外いない。

 一通り荷物の整理をつけてから、ちあらは今日のことを振り返った。

 正直、寺社巡りはほぼ不発と言って良かったが、しかし、無意味だったわけではない。三津窪神社と最後のお寺だ。雄鶏山は確実にちあらを認識したと言ってもかまわないだろう。

『あなたは恐らくとてもお強いのでしょう。だから周囲を惑わしているのかもしれません』

 そしてあの僧の言葉が気になる。

 今日のどこかの時点で雄鶏山はちあらを認識し、ずっと後をつけていた。そして、あの僧に取り憑いたのだ。

 もしかしたら今でもちあらの動向をうかがっているかもしれない。

 が、今は何も感じなかった。気配を消しているのかもういないのか知りたかったが、姿を隠す魔法を見破る術(インヴィジビリティ・パージ)は、今日はとっていなかった。

「む……」

 とはいえ今回の件は地縛霊から始まっている。

『もしかしたら死者に関する呪文を使えば、何か解るかも……?』

 ちあらはそんなことを思い立ち、ダメ元で死者を見つける呪文(ディテクト・アンデツド)を唱えてみた。

「……」

 が、目の前には何も現れなかった。

 でも何やら上の方からかすかな気配が……と、ちあらが視線を上げたときだった。

「ひ…!」

 巨大な目ン玉が一つ、ちあらのことをじっと見つめていたのだ。

 ちあらの頭上、ほんの一mくらいのところに、ぼうっと浮いている。大きさはバランスボールくらいはあろうか? ただディテールははっきりとしない。本来この目玉は対透明化の魔法でしか見られないのだが。この目玉を作り出した者が死者アンデッドであるせいか、死者を見破る呪文にも反応してしまったようだ。

『お、おまえか──!!』

 ちあらは心の中で叫んだ。

 いつから尾行けられていたのだろうか? おそらくタクシーの中にもいただろうし、あの寺の本堂の中にもいたに違いない。

「あなたは、何者? 何故、魂を集め続けている?」

 ちあらはその大きな目玉に問いかけた。

 だがその大きな眼球は微動だにせず、ただちあらを見つめているだけだった。この目玉は情報を送るためのいわゆる監視カメラ的な作用しかないようだ。

「必ず、あなたに会いに行く」

 ちあらはそう告げると、目玉を消そうとディスペルの呪文を用意しようとしたが……その前に小さくなって消えて行ってしまった。

 おそらく雄鶏山の力が届かなくなったのだろう。

 それにしてもその範囲は恐ろしく広いとちあらは感じた。慌ててスマートフォンでマップを開いて、雄鶏山からの距離をはかる。

 電車はちょうど笹子ささご駅を出たばかりで、ここから先は力が及ばなくなってしまうようだ。

『なんか今日は疲れた……』

 ちあらは長いため息をつくと、シートに身体を預けて目を閉じた。

 車内はとても暖かい。

 シートの下からぬくぬくと暖気が立ち上ってくる。

 どうせ御茶ノおちゃのみず駅まで二時間はかかる。

 このまま、この暖かさにまどろみを託してしまいたい……。

『なんて甘いことを考えていた時期もありました』

 日付の変わった夜の〇時二〇分頃、ちあらは中野駅南口前に立っていた。

「……」

 どうやら塩山駅の上り最終電車では、中野駅まで来るのが限界だったようだ。中野発、新宿・千葉方面行きは〇時五分発の御茶ノ水駅行きが最終。東京メトロ東西線も西船橋方面行きは二三時五三分に終わっていたのだ。

 高尾駅から出ている電車がすべて東京駅まで行くと思い込んでいたがゆえの敗北であった。

「おなか、すいた」

 ぽつりと一言つぶやくと、ちあらはトボトボと大久保通りを東に向かって歩き出すのだった。

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