まぶたの裏側に影を放っていた映写機は停止してその黒い暗幕が縦に別れたかと思うと、その向こう側には再び暗い現実が目に見て取れた、一瞬私は目が見えなくなったのかと恐れをなしたが、アイマスクで目元を被っていたことに未だ覚醒しきっていない意識でもってなんとか気づきそれを片手ではがして天井を見上げれば、目の前の向こう側にはいつもと同じように青く染まるシーリングライトがその横にやわらかい影を投げかけていた、カーテン越しに伺う窓の外の様子は未だに暗くしかしてまだ太陽の昇りきっていないことを察してはいた、私は正確な時刻を知るためにキャビネットの上に置いてあった携帯型ネット端末の画面の暗転を解除し点灯させ、今日の予定にゆとりをもって準備できるほどの時間が残されていることを知った、敷布団から起き上がり掛け布団を剥がしてベッドから抜け出した私は寝具を正した後に換気のために窓の引き違い戸を開けた、すると室内の外と内側の気圧差を等しくさせようと室外のひんやりとした空気が中に入ってきた、やはり日が差さない状態だとこの季節の朝はかなり冷え込んでおり私はその冷気から逃げるようにして寝室から退出し廊下に向かった、さすがに屋外よりかはまだ温かいもののフローリングの床が冷え冷えとしていることが予想されていたが履いている靴下のおかげで底冷えを防ぐことができた、まず睡眠中に膀胱内にたまっていた尿の排泄をトイレで済まし、排尿を済ませた後にリビングルームにたどり着いた私は朝食の準備を始めた、卓上の電動湯沸かし器の本体に水道水を入れて台座にセットし、水の加熱を開始させてそれを機械に任せている間に私は皿とカップを食器棚から取り出し皿の方にはオートミールを流し入れた、そして麦の上からラードをチューブで絞ることでかけてさらに耐熱カップにティーパックを入れた頃合いにお湯が湧き上がったので、取っ手を持って排水ロックを親指で押しながら解除して本体を傾けた後に注ぎ口よりお湯をカップと皿に注いだ、オート麦がふやけて柔らかくなるのを待ちつつ茶袋から成分が染み出すまで待機した、穀物が水を吸収しまた茶葉の香りと味が溶媒に滲出してくる頃には食品の温度も火傷しないぐらいには下がってきていた、私はまずカップの取っ手を指で挟んで器を口元まで持っていき唇で湯温を確認した後に中に入っている飲料を口に含んだ、上品な草の味わいが舌に広がった、そして口腔内から鼻の穴に抜けていく爽快感のある香りは昼間の月を見た時のように私の心を穏やかにしてくれる、そして睡眠中に乾いた喉をお茶で潤した後に私は竹匙で麦のかゆをすくう、粘性があり甘味を感じさせるそのお粥は調味料をラード以外一切入れてないがゆえにある種の素朴さを感じさせるには十分の味わいである、そして私はこのトゲのない優しい味付けが好きだった、人間学校で提供される食事もこれと同じような献立だったなと思い出す、今の自分の思考と嗜好を形作るのに際し人間学校は大きな影響を及ぼしていることは間違いない、当学校の卒業生たちはある種の連帯感でもって結ばれておりなぜならそれは国民たちに同族意識を持たせる通過儀礼だから、特に私のような人間にとってはそこの卒業証書を持っているかいないかだけで周囲からの扱いがかなり違ってくると言っても過言ではない、そしてこれから私が会いに行く予定になっているバルトは人間学校の同期であり在学中から何かとつるんできた仲である、そのよしみで彼女の父とも小さい頃から仲良くさせてもらっている、私は今日持参する予定であるチョコレートの缶がまだリビングルームのキャビネットの上に置いてあるかどうかを目視して確かめて昨日と変わらずにそこにあることに安堵した後に食器の片付けを始めた、卓上の電気湯沸かし器の中に入っているタンクに未だ残されているお湯は冷めてからシンクに流すとして、器が乾燥してしまって汚れがこびりついて洗浄しにくくなってしまうことを避けるために私はまだそれが湿っている間に皿とカップをキッチンの流しに持って行った、まずそれらの器の表面についている汚れをキッチンペーパーで拭って食品の残渣が下水道に詰まらないように予防した、そして器それぞれに食器用洗剤を適量注いだ後に続いて上水道のハンドルをひねり吐水口から流れ出したお湯をそこに汲んだ、そして防水エプロンを身にまといお湯を少しずつ出しながら食器の外表についた滑りを流し落として行った、今度はスポンジに食器用洗剤をつけて食器をくまなくこすり洗い、全体をまんべんなくなぞり終わった後に水道水で洗剤とそれを浮かした汚れを一緒くたにして洗い流した、私はそれらを水切り棚に一旦置いた後に今度はキッチンペーパーを数枚手にとって器に残った水気を拭きとった、湿り気をことごとく拭い去っと後にそれらを食器棚の元あった位置に戻した、そしてエプロンを脱いで冷蔵庫の前扉の表面にマグネットで取り付けてあるフックにそれをかけた、私は台所から抜け出して廊下を通った後に洗面所に至り髭剃りや歯磨きそして洗顔などを行なって身だしなみを整えた、続いて寝室に戻り換気のために開けていた窓の引き戸を閉めて施錠してから着替えるためにクローゼットの中から比較的フォーマルな服を選んで取り出した、そして更衣を終えた後に衣装タンスの扉を閉めて寝室を退出した私は、リビングに戻ってこれまたラフになりすぎない程度の手提げを用意して普段使いのバッグから必要なものだけを抜き出してそこに入れるのと同時に、外装や内容物を傷つけないようにチョコレート缶の上からさらに厚手の布でそれを覆った、しっかりと布の端を結び合わせて固定された缶詰を手提げに入れた後に私は自宅を後にするためにリビングルームを退出して廊下に向かった、そして玄関の上がり框の上に腰を下ろして靴を履き、土間の側面に設置してあるシューズボックスの天板の上に置かれた私の弟であるジャス・パーソンの写真が入ったこじんまりとした額縁と彼のタグに目礼でもって挨拶した後に、私は玄関の扉の施錠を解錠した後にそこに付けられたハンドルを手にとってそれを回して押し込んだ、蝶番の軸が回転してドアが開き目の前にはオレンジ色の陽光に照らされた官舎の別棟と葉を落としきった落葉樹の幹と枝がその光に染まって輝いており、まだ明けだしたばかりの空は天上から地平線に向かって薄めの緑の水色からタンポポの花のような黄色に向かって滑らかなグラデーションを描いている、雨雲の予兆すらない今日の天気のおかげで私は予定を支障なく楽しむことができそうだった、私は自宅を出て背面に振り返り扉を施錠した後に外廊下を歩き出すと、天井の見つけ部と手すり壁の隙間から差し込んだ日の光が壁を通路と平行線上に照らしておりそこを通過していく私に暖かい日差しを投げかけてきた、そして角を曲がった私はエレベーターに乗り操作盤から一階のボタンを探し出した後にそれを押して扉を閉めた、体の重心が浮かび上がるような感覚を抱いて浮き足立っていると、ほどなくして私は目的の階である一階に到達したので自動的に開いた扉の隙間からカゴの外に躍り出た、今日は治安維持省職員たちの公休日であるために平日のように出勤する予定はなくしかしてこのエントランスホールにもいつもは連れ立って出社しているルイの姿も見えるはずもなく、ロビーには入り口とそちら側の壁に空けられた窓から差し込む外光に照らされたゴムの木たちが連なって私を迎えただけだった、休日かつまだ早朝であるがゆえに玄関口には私以外ほとんど人がおらず、官舎の入り口に歩いて行く私の出す衣擦れの音と靴が地面を擦る響きと空調機が空気をかき回す音だけがエントランスホールの壁と床や天井にこだましている、やがて私は入口扉まで到達しそこを塞いているガラス製の自動ドアの前で立ち止まると、まぶたを閉じてまた開くのと同じぐらいの時間が経った後で引き戸が中心から二枚に割れて建物の内外を繋いだ、私はその鴨居の下をくぐって官舎敷地内の道路に足を踏み入れる、道をなしているインターロッキングのモザイク模様が集合住宅の影に隠れてその色を空の青色に染めている、昨晩私が外廊下から階下に見ていた落ち葉だまりはすでに面影なく掃き清められていた、おそらく夜中から明け方にかけて清掃業者が運び去っていったに違いない、等間隔に並んでいる並木の下に設けられた植樹帯にへその高さくらいまでで水平に刈り込まれた植え込みが続いており、その平行線が伸びていく道なりに沿って私も歩いて行く、そして敷地の内外を隔てる門を越えて私は市街地の歩道に足を踏み入れる、バルトとその父が時折住んでいる実家に向かうには最寄り駅まで電車で向かった後にそこからバスに乗り継いで数駅を走る必要があるので私は鉄道駅に向かって足を進めた、信号を渡り直線の道を数本歩み曲がり角を数回曲がった後に歩道に開けられた下り階段から駅のプラットフォームに向かって降りていく、改札口を抜けて少し歩きそこからさらにエレベーターに乗ってさらに地下深くへと降りていく、そしてプラットフォームにたどり着いた私は次の電車が進入してくる時刻を目視で確認した後、電車が来るまでの間少し濁ったクリーム色のベンチに座って待つことにした、休日ということもあっていつもなら通勤や通学ラッシュの時間帯であるにも関わらず平日のように駅構内が混み合うことはなかった、そして警笛の鼓膜を刺す鋭い音とともにホームの中に入ってきた列車の搭乗者数もまた少ないものであったので私は難なく座席の一つに腰を下ろすことができたのだった、警告音と共に乗車口のドアが閉まりブレーキを解除した空気の抜ける音が車内に浸透し、向かって水平方向にかかる慣性を体で感じながら車体が丸みのある電子的な唸りを上げながら動き始めた、鉄道利用者数が少ない上に私は前方に伺える車体に何箇所も開けられた車窓から見える外の景色を遠慮する必要なく独り占めすることができた、いくつもの道路や建物と乗用車や通行人が近くは早く遠くは遅く過ぎ去っていく、もちろん私が今見ているこの景色は電車の外に広がっている本当の風景ではなく透明度を調節できる特殊なモニターに映し出されている動画であり、列車の進行速度をモニタリングすることでそれに合わせて映像も仮想空間でレンダリングしているカメラの移動速度を変更できると以前ニュースで伝えていた、時折経費削減のために節電を行なった結果仮想空間をうつさないガラス窓の向こうに流れていくトンネル照明が彗星のように流れていく様を見ることができるそうだ、電車は停止と進行そして停止と進行を繰り返した後に私が目的地とする駅に到着したので真ん中から左右に裂けたドアをくぐり抜けてプラットフォームに降り立った私は地上を目指して上り方向のエスカレーターに足を乗せた、自動階段は二車線が用意されており、手すりは二本隔てて私の横を降り去っていく鉄道利用客の数は先程私が自宅の最寄り駅で数え上げた人数よりも心なしか多いような気がした、中にはこのかなり多い段数を足早にだが注意深く下っていく者もいる、彼らが急いでいる理由が何かの開始時刻に間に合うようにしているのだとしたらその予定までに到着できればいいなと思う人もいるかもしれなかった、そして私はエレベーターを登りきり改札口を出て更に階段を登った後に地上へ出て、バルトの家に向かうためのバスに乗り込むためにバス停まで移動した、以前と変わらない位置にあったその停留所には幸運なことに既にバスが止まっていて早速私はその車両に乗車したのだがそこには既に先客が何人か乗っていた、市民の中に混じって他の地区の支部所に勤める職員があまり穏やかじゃなさそうに忙しなく乗降者する客や辺りを歩く歩行者や通行車両を目ざとく観察していた、公休日でありかつ私の担当する地区ではなかったので少し逡巡したが、私は羽織ったジャケットの内ポケットから職員手帳を取り出し運転席近くにいた職員の一人にそれを威圧的にならないように注意して肩の力を抜きながら顔の斜め右側面あたりに提示した、彼はそれを見て取って私の身分を把握したようであったのこの事態の様子を伺うために私は口を開いた。


 お勤め中申し訳ありません、私はこの通り牛飼課職員のカウパーソンと申します、警戒態勢が敷かれてるように見えますがこの付近で何かあったのですか、少々お待ちください、責任者と連絡をとっていますので、はい、確認取れました、まだ当局から市民への公式声明が発表されていないので、混乱を防ぐためにも今からお話しすることは内々の情報だということを心に留めておいてください、承知いたしました、表立てないことを誓います、ありがとうございます、実は生体研究開発局中央研究所がくだんの反体制的勢力に襲撃されまして、襲撃者たちへの鎮圧は終了したのですが、彼ら現場まで輸送した運転手たちのうちの何名かが未だに逃走中で、現在は市内各所に非常線を張って検問に当たるとともに、こうして市内の公共車両に職員を配置して警備にあたっているんです、なるほど、そうだったのですね、お忙しいところお付き合い頂きありがとうございました、私はこれにて失礼します、付近にはまだ犯人が潜伏している可能性が極めて高いですからパーソン殿もくれぐれもご注意くださいね。


 そう言って彼は口を閉じ半分私に割いていた意識を再び警戒に集中させるために戻した、私もただでさえ緊張状態にある彼らからこれ以上時間を奪うわけにもいかないので先ほど私がこのバスに乗り込んできた時に座っていた客席に再び戻った、先ほど話に応じてくれた職員が述べていたように市内のあちこちで交通規制が行われており私が搭乗しているこのバスもまた何回か検問に引っかかった、検問所の前で順番待ちをしている際に反対車線を走っていた逆方向に向かうバスはこちらのバスとは違ってより大勢の人たちを運んでいた、確かにこちらのバスの目指している方面は例の反政府勢力たちが襲撃した研究所があるまさにその地域であり、だから私と一人二人ぐらいの市民を除いて職員ばかりが乗っている少人数構成なのは当然といえば当然のことだった、私はジャケットの内ポケットの中から携帯型ネット端末を手にとってバルトのアドレスに安否確認を問う文面を記したメールを送った、走行中の車内では座席はバスのエンジンの振動によって震えており、空調が空気をかき回す音を耳で感じつつ車外では外を走る車がタイヤで地面を擦り上げる音を立てながら通り過ぎていく、時折街中で響く警笛の音を聞いたかと思えば交通誘導であったり再び検問に立ち会ったりした、ようやく私の目的地の最寄りにある停留所にバスがたどり着いた時に時を同じくしてバルトからの返信を受け取った、私はその駅で下車するために運転所に代金として運賃はを払った後にステップリフトを下り降車口をくぐってバスを降りた、そして停留所から彼女が住んでいる家に向かうまでの道中で手に持っている携帯型ネット端末のメールアプリの受信箱を開いてバルトから来たメールを確認する、彼女自身は自宅に滞在していたので事件に巻き込まれることなく無事であったようだが、対する彼女の父は日付が今日に変わる頃ぐらいには研究所から帰宅してくる予定であったものの運悪く身を置いていた施設が襲撃されてしまったので未だに屋内に留まっているようであった、幸いなことに襲撃の範囲は中央研究所の敷地境界線上までに留まり施設内の職員に怪我を負ったものはいなかったようでそれはまた彼女の父も同じだった、現在は施設内の避難所に集合した各研究職員や事務職員などたちが避難計画に基づいて小集合に別れた後に、各グループが警備員たちの同伴のもとで輸送車に乗り込んで施設の外へ退避している最中なようである、なので彼女の父が実家に帰宅するまでにはまだ時間を要するということであった、私は彼女にその文面の内容を把握したことを伝えると同時に今からそちらへ向かうことも合わせてメールにして送信した、そして私は車道に並行するようにして敷かれた歩道に沿って公園と道を区切る柵の向こう側で敷地外周に沿って植えられた高木たち枝が形作っている網目状の屋根の隙間から差し込む木漏れ日がまだら模様を作っている街路は通った、彼女の邸宅までの道筋をたどり何本かの道を通って何回か角を曲がり、明かりの点いていない街灯たちを横目に横断歩道を幾度か渡った後に私が目指していたところである彼女の実家の外観が視界に入り込んできた、赤レンガと黒鉄を組み合わせた外壁が邸宅の周囲を取り囲んでおり私はその塀の一つの辺に開けられた鉄格子をはめた門扉の前まで来た、門の脇の壁にあるインターホンの呼び出しボタンを私は押してチャイムを鳴らした、ドアホンに取り付けられたカメラを通じて来客者の姿を確認したであろう家人が私に向かって迎えに来る趣旨の言葉を伝えてきたので私は門の前で待つことにする、肩から落とした落ち葉が足元に着陸するまでにかかる時間を五倍にしたいぐらいの時が刻まれた後に、黒く塗られた金属製の格子の向こうで玄関の鍵が解除される音に加えてウィンドチャイムがお互いにぶつかり合って奏でる星々が煌めくような旋律がそこから住宅街に向かって伝播していった、そしてアプローチを辿りこちらに向かってきた彼女が正門の施錠を解除して私の来訪を歓迎してくれた、バルトと共に邸宅の入り口までの導入路を歩んで行く、芝生の湖に渡された橋のような石畳の上を私たちは進んでいき広い玄関庇によって天から覆われているポーチの段差を一段登った、私がどうするべきか迷う前に彼女は進んで玄関の扉を開けて私を家の内部に招き入れてくれた、ブロックの敷かれたたたきに上がり上がり框で靴を脱いだ後にそれを揃えて土間に残し、私と彼女は上り口を踏み越えてスリッパを履き廊下に足を進めた、黒曜石のようになめらかな面と色をしたボーリングの床材は木材であるようだが足を地面に降ろしてもミシミシという音が立つこともなく歩いて行ける、出巾木からブランケットライトに至るまで塵のひとつもなく拭き清められている、我々はリビングルームに向かい部屋に入室した、私はバッグをアームチェアの座面に置いた後で持ってきた持参物であるチョコレート缶を包んでいた厚い布を解いてそれを彼女に渡した、それから私はバッグの中から手巾を取り出し衛生面を考慮して手指を洗浄するために洗面所へと向かった、洗面台で爪の先や水かきから手首にいたるまでまんべんなく水で洗い流した後に私は清潔なハンカチイフを用いて手の水気をくまなく拭き清めた、そして再び居間に戻り私とバルトは椅子に腰を落ち着けた、彼女の家人がお茶とお茶請けをダイニングテーブルの卓上に運びなさったので私たちはそのロックケーキと紅茶を頂くことにした、菓子を手にとって前歯でかじることで口に含むとボロボロとした舌触りと干しぶどうや生地の甘味が口の中に広がり、また生姜やシナモンの甘く爽やかな香りが鼻腔内にも入り込んで心が躍るように楽しまされる、私はカップのハンドルを指でつまんで口縁に唇をつけて紅茶を音もなく舌の上にふくみロックケーキの生地に吸い取られた水分を補うことでパサパサになっていた口内を潤しつつ噛み砕いたお菓子の残渣を胃に流し込んだ、甘さが支配していた味覚をその対極である苦味によって引き締めつつ、青々と茂った葉っぱの中に浮かぶイチゴの花托のようなさわやかな甘い香気が鼻に抜けていく、糖分と水分を補給し空腹を解消させて香りで心をリラックスさせた後にバルトと会話をするために私は口を開いた。


 このケーキ美味しいな、ほんと、それは良かった、なあ聞いた母さん、お菓子美味しかったって、そう、それは良かったわ、遠慮なく食べてちょうだいね、ありがとうございます、ご馳走になります、お父さんからはさっき電話で連絡があって、無事に避難のために乗っていた送迎車から降りれたみたい、今はこちらへ向かっている途中だって言ってたから待つのはもう少しだと思うわ、何事もなくて良かったですね、そういえばカウの課でもこの事件の捜査に加わってるんだろ、ああ、昨日から捜査班が立ち上がって私とゼッカもそこに加わったんだけど、当局は近いうちに課を超えたより大きな枠組みで例の勢力を一掃するための作戦に臨むみたいで、私もその一員として参加する予定だ、へえそうなんだ、じゃあもしかしたらいつもみたいにルイ達と三人で一組になる可能性もあるのか、そうかもしれないな、ただいつもとは違って今度の相手は逃亡を企てる者ではなく方針を同じくして集った組織的な勢力だから、こちらで捕まえた捕虜や組員から情報を引き出すために尋問する必要があるだろうしピカイヤを使う機会はすぐには訪れないだろうな、そうだね、まあ私達メッセンジャーたちの役目があるとしたらドライバーたちと一緒に武器や資材を運搬する事ぐらいだろうな、そういえばピカイアって言えば、ジャスの行方が分かったよバルト、へえ弟くん生きてたの、いや、もう亡くなってたよ、じゃあ仏さんが戻ってきたんだ、それも違ってジャスを構成していた物のうちまだこの世に残っているのは私が持っているタグだけだ、え、それじゃあどうしてジャスの現況を把握できたの、昨夜内部調査課課長に教えてもらったんだ、というのもジャスは当局によって手を下された後にその遺体をピカイアたちによって食い尽くされてしまったそうだ、あら、それじゃあ昨日の食堂での話し合いで言ってたことは事実だったんだ、そういうことになるね、インディヴィから忍び込んだりあるいは向こう側に逃げようとした人たちだけじゃなく、国内の市民や職員たちにまで制裁が行われているんだとしたら私たちも落ち着いてはいられないのかもな、それはどうだろうな、ジャス君がリサーチャーだったのは知ってるだろバルト、ああそうだったね、それで、ある時中に潜伏先だったインディヴィにその活動を感づかれて彼らに捕らえられてしまったんだ、そこで向こう側の再教育を受けた後に今度はソサイエタスの情報をこちらに持ってくることを任務とした二重スパイとなった、そして我が国にその転向が発覚しないように注意しつつ今までと何も変わっていないかのように振舞いながら、実のところは向こう側の欲する情報を手にして送信したり、あるいは協力者とともに国内での造反者の養成に携わっていたりしたようだ、それじゃあ、ジャスは本当に二重スパイだったってことかカウ、じゃあ今当局やその関係者たちを襲撃している連中も元をたどればジャスたちが仕組んだことなのか、どうもそうみたいなんだバルト、でもまあ少なくともピカイヤたちの矛先はまだ私たちには向いていないわけだね、もしさっきの予測が事実だったとしたら私は父にどういう顔を向ければいいのか分からないからな、今もまだ君のお父さんはピカイヤ研究に携わっているのかい、ああ今も現役だよ、変な話だけど、今でも私は君のお父さんに二人目の父親のような親しみを感じているよ、私たちが入学する前からの付き合いだったからな、それはもちろんジャスも同じだったが、まさか弟くんがこんな結末を辿るとはね、お父さんもそれを聞いたら残念がると思うよ、そういえば、せっかく来たんだからもしかしたらまたあの物置部屋に寄ってったりするかカウ、あの頃の写真とかまだ全然綺麗に残ってるぞ、後は人間学校の教科書やノートだとか私たちがなんとか家から持ち出してきた思い出の品とかもな、そうだね、そうさせてもらうよバルト、まずは君のお父さんに会ってからその後だね、それで今思い出したんだけど、君と初めて会ったあの日のことがなぜか突然頭に浮かんだんだ、ああ、公園で会ったんだっけ、あの時は兄弟二人一緒だったよね確か、そうそう、なんかじゃんけんをして遊んだ記憶があるな、何か一緒に賭けてた気がする、お菓子か何かを賞品にしてたんだっけ、確かそうだったのを私も覚えてる、なあバルト、あの時どうして私達の遊びに混ざって来たんだ、ほら、私たち兄弟って何かと避けられてたからさ、ううん、ただ単に面白そうだなって思っただけさ、みんなからはあなた達家族のことを伺っていたけど、でも私の父さんも母さんも特に関わらないようにとかそういうことは言ってなかったし、それにいっつもあなたたち二人だけで遊んでたじゃん、他の子達にあなた方兄弟のことを尋ねても名前とかしか知らなくて、どんな遊びが好きかとかお気に入りの色は何色かとか、そういう他愛もないことをあなた達本人に直接尋ねて聞いてみたかったっていうのもあるな、それに、これは言っていいことかわからないんだけど、もうあなたたちのことを悪く言う人は残っていないだろうな、二人ともちゃんと学校を卒業したし、両親達への目線があなた達兄弟に影響することももはやないんだからさカウ、でも今回の弟の一件が広く知れ渡るようなことになれば、私たちの間に血筋による関連を見出して再び彼らから白眼視され始めるかもしれない、少なくとも私はこの事をあなたの許可無く口外したりはしないよカウ、ありがとうバルト。


 そう私は彼女にお礼を言った後に目の前に置かれたティーポットのハンドルを手に持って持ち上げてから傾けることで紅茶を器に注いだ、そして卓上に乗ったソーサーを片手にもう片方の手でティーカップの取っ手を指でつまみ、中に湛えられていたお茶を口の中に流し込んで舌や喉を潤した、そして私たちがロックケーキを食べながらその味とよく焼かれた骨のようにザクザクした食感を楽しんでいた時に、リビングルームの壁に水平線上に何回も開けられた穴にはめられた腰高窓たちから差し込むプールの底から覗いた空のように水色のサイドライトが柔らかい光を投げかけている居間にどこか懐かしげな赤く円いドアチャイムの音の波紋が広がった、バルトの母がリビングの壁に取り付けられたインターホンの親機の表面にはめ込まれているモニターから正門の横に取り付けられているカメラが取り込んだ来訪者の姿を確認している、その人物が自らの夫であると確認したバルトの母親は私達の方へ向き直り私たちがその帰宅を待ち望んでいたところの人がついに戻ってきたことを私たちに知らせた、そして彼女は夫に向かってすぐそちらに向かう趣旨の言葉を述べた後にリビングの扉から廊下の方へと駆け足で抜け出して、その通路へと繋がる開け放たれた扉から彼女が玄関に向かっていく足音がリビングルームの中に反響してきた、やがてウィンドチャイムの鈴鳴りと共に玄関の閉まる音が鍵を閉める音もなく聞こえてきて換気扇が空気をかき回す音やロッククッキーを噛み砕いたり紅茶をティーポットからカップに注ぐなめらかな音がリビングルームを支配していた、そしてまたウィンドチャイムの音色と共に玄関の扉が開く音がした後に二人の男女が会話を交わす声と土間のタイルと靴の底が擦れ合う音を一旦扉が閉まる音と鍵を閉める音が覆い隠したが、その音の針が抜けていくにしたがって再び彼らの声と廊下を歩く足音が私の耳にも聞こえるようになった、そしてすでに開け放たれたままであったリビングルームの扉の前まで彼らが来たので私とバルトはようやく彼の父であるユーモン・リンと対面することができたし当然それは彼にとってもまた事を同じくする様子であった、私と彼が挨拶を交わした後に、彼はここにたどり着くまでに身に纏っていたコートと手で持っていたバッグを私とバルトがいるダイニングテーブル付近とは別の一角に設置してあるソファーの座面と背もたれに置いたり掛けたりした、そしてリビングルームに隣接しているキッチンのシンクで手を洗ってその水気をペーパータオルで隈なく拭き取った後に、私とバルトが囲んで座っているダイニングテーブルに接触するかしないかの距離ぐらいまで歩みを進めてから私たちと同じようにそこに並べられていたアームチェアーの一つを引いてその前方に体を移動させた後にそこに着席して背もたれに体を少し預けた、そしてユーモンさんは口を開いた。


 お待たせして悪かったね、よく来てくれたねカウ君、こちらこそお会いできて嬉しいです、こうして顔をお合わせするのは久しぶりですね、そうだね、お互いになかなか忙しい立場だからこうして運良くタイミングを合わせられたのもきっと何かの縁だね、スキニン、私にも一つティーセット持ってきてくれ、今持ってくわユーモン、あとこれ、カウ君がお土産にチョコレート缶を持ってきてくれたから、中身を皿にあけてそちらに持って行くわね、そうかそうか、ありがとうなカウ君、ところで最近のそっちでの暮らしぶりはどうだね、もし何か不便なところがあって困ってたりしていたら、こちらに戻ってきてまた前みたいにここで暮らしてもいいんだよ、なんせ部屋と空間はまだ有り余ってるから遠慮しなくてもいい、ありがとうございますユーモンさん、ただ今のところはまだ特別困るところなくやっていけてますので、ご提案を退ける形になってしまって大変恐縮なのですが、もしまた思い出すようなことがあればご相談させていただきます、それにここよりも向こうの官舎の方がカウの職場には近いんだから、そういう面でもそっちの方がいろいろと都合が良いだろ父さん、急に出勤要請が来てもここからじゃ結構時間かかるじゃん、なるほどそれもそうか、確かに私も向こうにいるよりもこの家にいるほうが近くて便利だからな、あなたの場合はさらに時間を節約するために普段は研究所に泊まりきりでしょユーモン、なにぶん扱っている研究対象が鈍いから実験の観測や計測とそこから得られた情報に基づく考察や報告と改良にかけなければならない時間を考慮すると通勤にかかる時間ももったいなくてね、今はどういった研究をなさっているんですかユーモンさん、ピカイアの生命や品質維持にかかるコストを従来より削減したモデルの開発だね、カウボーイ君はもちろんバルトも知っての通り、現在のピカイアもとい清掃ナメクジはその名のごとく体表が軟体動物のように柔らかい、そのため特に屋外活動に用いる際には専用の格納ケースに入れて細心の注意を払って現場に運び入れる必要があるし、それに加えて免疫系や環境の変化にも特別強くはないという課題もある、だから我々は今現在これらの諸問題を解決する糸口を探しているところなのだが、先ほど言ったように実験結果が得られるまでに時間がどうしてもかかってしまうので、今すぐに何かがどうこう変わるというわけではないだろうね、まあじっくりやっていくさ、そう言えば父さん、ピカイアって半人工生物なのよね、人工ってことは人によって作られてるってわけだよね、じゃあその原料って何なの、そうだな、詳しいことは部外秘なのでたとえ家族とはいえ明かせないのだが、大まかに言ってしまえば生体プログラミングを施した有機体を軸にしてその周囲に生物の諸構成要素をまとわせたのが彼らの基本形となっている、なるほどね、ところでカウ君、仕事の話をしていた時に思い出したんだが、技術開発部で新しく開発された機械がうちにも来たんだ、試験運用とデータ収集を兼ねて指定された各職員たちに配られているみたいなんだか、ちょっと待っててくれ今持ってくる、バッグに入ってるんだ、その背嚢に入るぐらいなら大した大きさではないみたいね、でもそれって食卓に持ってきても大丈夫なやつなのユーモン、ああもちろん平気だ、ほら、これだよ、携帯型の個人番号収録体内埋め込み型電磁タグだ、今までは据え置き型の巨大な機械でタグを検知するしかなかったし、その認識距離もかなりの近距離にしか対応していなくて機材も高価だったため官公庁や行政施設と銀行ぐらいでしか扱える余裕がなかった、しかし設計や生産体制を大幅に見直して効率化と改良を進めていった結果、このように安価で小型化したモデルを開発することができた、さらに従来に比べてその探索距離を中距離にまで延長することを可能にしたから、保安活動や治安維持に従事する職員たちにとってもありがたい代物になることだろう、それでよかったらなんだが、カウ君にもこれをひとつ渡すから受け取ってくれないかな、ええ、いいんですか、預かりたいのは山々なんですが機密管理の規則に抵触しないでしょうか、問題ないと思うよ、多分君たちの方へも後日正式に配られることになるだろうし、君が何かに悪用したり紛失したりすることはないだろうしね、ではせっかくなのでいただきます、試しに運用してみて何か誤作動とか気になるところがあったらレポートにして残しておくとあとで役立つと思うよ、それに普段は研究所の中で内勤に従事することが主な仕事である私とは違って、カウ君なら外回りする機会も多いだろうからきっとこの機会が役立つ機会も多いんじゃないかな、そうですね、じゃあこれをあげるね、ああそうだ一つ言い忘れていたんだけど、この開発モデルは短期の運用を前提としていて長期間の性能や外観の維持は想定されていないから、後で正式に発表されるバージョンとは違って耐久性に難があるみたいだから取り扱う際にはその点を考慮して乱暴な扱いは避けた方がいいとも言っていた、まあでももし壊れたとしても故障した際の状況や利用方法をログとして残しておけばそれを参考にした開発部が更に改良する際に役立てることができるだろうから、思わず不具合を起こしてしまったとしてもそれはそれでいいと思う、了解いたしました、それで今日は、ユーモンさんにお伝えしたいことがございまして、私の弟のことなんですか、ああジャス君のことかね、彼について何かわかったのかね、そのことなんですが実はジャスはやはりもう亡くなっていたんです、そうか、そうか、まあやはりそうではないかと心のどこかで思っていたのは事実だが、そうか、もう彼はこの世にはいないんだね、亡骸はあの教会のお墓に入れるのかな、荼毘に付す日程が決まったら良かったら私たちにも教えて欲しい、是非とも彼の見送りに参加したいからね、そのことなんですが、ジャスの遺体自体は戻ってきてないんです、なので新たに埋葬する予定も同じくないのです、それはつまり、どういうことなのかな、骸が見つかっていないにも関わらず彼の生死が確定したということは何か他の証拠が見つかったということなのかね、はいその通りです、証拠というよりはどちらかと言うと証言と言った方が適切なのですが、これから私が述べることは昨晩アゲット内部調査課課長から伺ったことです、私の近親で弟でもあるジャス諜報員が二重スパイとして働いていたことを当局が突き止めて彼を処刑したのです、そしてその亡骸は秘密裏に処理されました、ピカイヤに食い尽くされるという結末を辿ることで、なるほどカウ君、君の弟くんは赴任先の国にその忠誠先を鞍替えしたってことだね、そしてその国家というのはずばりインディヴィだろう、お察しの通りですユーモンさん、そしてそこでジャスは再教育を受けてその方針を反転させて今度はソサイエタスに牙を剥くようになりました、我が国における反体制的勢力の台頭とその煽動に関わっている中心人物の一人が他ならぬ彼だったのです、そういうことか、それでは近頃頻発している行政に対する襲撃も元をたどればジャスくんの手引きが発端となっているとも言えるわけか、おっしゃる通りです、なるほど、そうか、そういうことだったのか、そうなると君は今度の掃討作戦には参加することになっているんじゃないかな、ご存知でしたか、その通りです、この機会を逃すわけにはいきませんからね、そうだねカウ君、もちろんそれが君のあずかり知らぬところではあるものの、ただでさえ君のご両親に関することで上層部は君のことを注目視していることは私たちリン家も存じてはいたが、それに加えて君の弟君まで事の成り行きとはいえ我が国に対し仇なす立場であったことを踏まえると、なおさら今君の立場を明確にすることで国家への忠誠心を当局に疑われることなく信用してもらう必要があるだろうね、ごもっともです、他の人達がどう思ったり言うかに関わらず私たちはあなたのそばにいて助けるからねカウちゃん、ありがとうございますスキニンさん、なんてったって君もバルトも人間学校を卒業しているんだからね、そうですね、そうだ、今から少しあの物置部屋に入ってきてもいいですか、久しく訪れていなかったのでちょうどいい機会として行ってみてもいいかなとバルトとも話していたんですが、弟の事を話していたらなおさらその気持ちが強くなってきてしまいました、ああ、全く構わないよ、なんてったって元々は君たちのものなんだから遠慮しなくていいのさ、じゃあ早速ですが少し席を外して上に行ってきます、うん、いってらっしゃい。


 そう私達が会話を交わしたのに、私はリビングルームのダイニングテーブルから椅子を引くことで体をそこから遠ざけた、そして座面におろしていた腰を上げて椅子から立ち上がると、椅子の前方とテーブルの脚の隙間を通り抜けた後にリビングルームと廊下を介する扉に向かって足を進めた、通路に出て向かって左側を眺めると、その突き当りの壁際に誂えられているシューズボックスやキャビネットの天板の上に置いてある植木鉢は写真立てとボトルシップやさらにその上方の天井まで壁を埋めている額縁に収められた絵画やポスターが玄関に開けられた覗き窓やその脇に設けられている腰高のはめ殺し窓から浸透してきた外光に照らされて広場の露天商が売っているターコイズの首飾りのような空色に染められている、そして私は目的地としている二階の物置部屋に至るための階段の下から数えて一段目にたどり着くために体や目線と進行方向を右側へと向けた、両側の壁の天井近くに廊下に沿って連なっているブランケットライトが等間隔に直方体を羊羹のように断ち切ったような長方形の外周模様を描いており、床のフローリング材の平行線と直角に交差することでグリッドを形成し視覚における遠近感を強めている、私は階段の手すりに手をかけた後に階段に一歩踏み出した、床と同じようにその段段は黒曜石のように暗く滑らかに光を反射する木材によって作られていたが、これまたこれまでの足元と同じく作りがしっかりとしているために私が足裏に体重を預けた程度ではみしりと軋む音を立てることもなかった、階段側の壁に沿って設けられた照明が放った光が手すりの子柱と親柱の間に開けられている隙間から反対側の壁に通過する際にその進行を阻害されたことによってできた何本もの縦方向の平行線を投影している、蹴上が高く比較的勾配の大きい階段を私は登りつつ最後の段差を担当する踏み板に乗せた足を離して目的地とするところの二階に至った、階段の両側の突き当たりに設けられた窓から差し込んだ空の光がこの階の廊下や扉と天井の有様をおぼろげに明かしている、私は以前より何度もここに来たことがあったのでやむなく家主によって部屋替えがなされていなければ当然物置き部屋に至るための扉の外観とその位置も不変であるはずだった、記憶と惰性や習慣も頼りに私は見当を付けた扉のドアノブをひねりその入り口の板を開けた、その向こう側に広がっていた部屋の大きさは床に成人男性や女性たちを二十人ほど敷き詰めて並べることが可能な床面積を持っており窓際には窓の採光も邪魔しないように配慮した高さのキャビネットや本棚が配列されている、さらに窓を持たない壁際には天井付近にまで届いているかと思うほどの高さを持ったクローゼットや本棚がいくつか置かれており、その本箱の各棚は収納物の種類ごとに配置される棚が分けられて整理整頓されている、私が室内に足を踏み入れて埃や毛糸の積もることなくよく清掃されているカーペットのふわふわした毛足をやむなく踏みつけると、牧草地のように高木のない東の丘に広がる高原に繁茂するシロツメクサのように下を向いてヘタレてしなる、そして書棚の上の前までたどり着いた私は少し表紙が日に焼けて黄ばんだのか緑色になっている元々は青く染められていた書皮をめくってかつて私か弟が使用したであろうノートを閲覧することにした、表紙をめくって一枚目のページに書かれている文面を眺めるとおそらくこれは人間学習の際に書かれたものだろうことが内容から見て取れた、布団を三枚弱ほど敷き詰めるのがやっとである広さの部屋の中でいつ訪れるかもわからない課題達成とそれに伴う卒業を夢に見たあの頃の日々を今もありありと思い起こすことができる、健康を維持するために必要な量の食事を決まった時間に与えられ、素っ気なくはあるものの用を済ませるには十分な水回りや三つ折りに畳まれた寝具をカーテンのかかっていないむき出しのガラス窓から差し込んできた西日が照らしている、換気のために自ら開けたその窓はしかし空気やそこに漂う微粒子と違ってそこを人が通行することは許しはしない、やることといえばひたすら生きること、あるいはひたすら終わりが来ることを待ち望むことであり、しかしおそらく私以外にも同じようにここに入る誰しもがその外向きの希望が日に日に薄れかき消されていくのを感じてきたはずである、それはまるで意識を鮮明に保ったまま少しずつ自分の身体をよく研がれた刃物で削ぎ落とされていく凌遅刑を心に処されているようであったかもしれない、実際にこの国で行われている主な処刑の演目は銃殺であるから、少なくとも私たちが体験してきたあの生き続けるだけの日々に比べれば銃弾に貫かれて散っていった人々の感じる苦痛の総合時間は比較的に短かったであろうことが想像できる、ジャスや私の両親がその最後の時に感じた苦痛が瞬間的なものであったのならいいのになと願いつつ、私はそのノートのページを一枚また一枚とめくり続けてその内容に目を通し続けた、情報を浴びるように触れられることもなく移動の自由もないあの部屋の中でできることといったら、ひたすらに自分の内面を見つめ続けてそこにいるもうひとりの自分が放つ声やあるいは今までの記憶をテキストにして内省と自己循環の海に潜って泳ぎ続けることだけだった、あの一室での毎日と比べれば、今私が過ごしているこの一見なんでもないようでいて実のところは夜半過ぎに偶然にも風の吹かなかった湖の水面のように波一つ立っていない穏やかな日々は、それでもわずかに起こるイベントとのコントラストのおかげで心が停滞しないように取り計らってくれている、今私が心から実感しているこの自然の理をすでに在学中の私も気づいていたことが今流れているページの内容からも伺える、正確な日数の間隔は把握していないのだが恐らく毎月に数回行われる居室内の点検の際に健康診断などと一緒にこれらの備忘録の内容も教員たちによって確かめられる、それが生徒の卒業を認めるにあたっての判断材料に使われるかどうかも私は把握はしていないし、あるいはこれらは考慮されずにもっと別の何かがその裁定の根拠になったのかもしれない、でも結局のところ現に私と弟は卒業できたわけでそれと同じように今このソサイエタスで暮らしているある年齢以上の国民の内で、さらにこの人間学習制度の対象範囲を全学生に広げて義務化する法改正が施行された後に義務教育を終えた人々もまたあの日々を体験してきたわけだ、そのおかげで国民の間にはお互いにあの通過儀礼を終えたという経験を根拠とする同族意識が強く芽生えており、それがこの国の結束力を形作るにあたって大きな役割を担っていることは間違いない、そして私はノートを閉じた、その冊子の裏表紙に今もインクで刻まれている人名は私のもので、しかしその苗字を今も背負っているものは今やこの世界の中では私だけしか残っていない、もちろん私とその血筋を同じくする者達に範囲を限定したらの話ではあるが、最後の可能性としてわずかばかりであるが残っていた弟の生存もまた最近になって否定された、しかし元より教会の墓地に立っている墓誌には彼の名前も既に刻まれていたのだから既に心の準備が整っていたことにより驚きもまた少なかった、私は閉じたノートを本棚に戻し、その上の棚に置いてある額縁に入った弟と両親も混じって撮られた私たち家族の写真の入った小さいフォトフレームに手を伸ばした、ガラス越しにみる彼らの表情はみな一様に和やかな笑顔で、おそらく有名な観光地の中に建っているモニュメントの前で通りがかった親切な人に撮影してもらった記念写真であるようだった、私は他にも並べられた彼らの姿が収められている写真や書棚に入っているアルバムの中から同様に彼らの姿を見いだす、私は開いたままのアルバムを手に持ったまま無地でクリーム色のカーテン越しに透過してきた季節柄低めの高度で輝く太陽の光が照らすライフログで満ちた物置部屋を見渡した、そこに置いてある各々がそれを見た私に対し回顧を促し、その物品や記載を呼び水にして脳の中に長く仕舞われていた記憶を呼び起こしては回想していた私は再生される過去を現在で追走し続ける、夢の世界に浸るようにそのフラッシュバックしてくる過去に想いを馳せては追想をその由来とするセピア色の悲しみに冷やされて脳髄が鎮静していく、私は想い出の綿菓子のような苦味を貪るように棚から棚へ、本から本へ、箱から箱へと記憶の山を渡り歩いていったのだが、あるプラスチック製の箱の中に綿に包まれて丁重に仕舞われていた見たことはあるが見たことはないものを見つけた、それは私が出勤時に毎朝自宅の玄関の脇に設けられているシューズボックスの天板の上に飾ってある私の弟の写真が入った写真立ての手前に置かれている個人情報収録体内埋め込み型電磁タグそのものと外観を同じくしていたのだが、しかし私の住まいにあるそれとは違ってこの箱の中に丁寧に収められていたタグは合計で二枚あった、私はこの邸宅の階下に未だにいるであろうリン家の面々にこの物体が何に由来するものなのかを尋ねようと思いかけたが、私はこの謎を一人だけで解決できる手段を既に持っていることに思い当たった、早速私は手元に持っていた先ほどユーモンさんに頂いた携帯型タグ検知機が収められているであろう小箱を開けた、包装を解いて中身を取り出すと小さくコンパクトにまとめられていたのでそれを広げてみた、それは一見するとゴーグルのような装置であった、梱包の中に同封されていた説明書の存在を見つけた私はそれを開いて目を通し始めた、専門的な前提理論や設計の詳細に至るまでは理解することは叶わなかったが、どうやら脳の視覚野に作用してセンサーが検出した情報を座標に変換した後に視界に反映させるそうだ、使用方法はスキーやアイスホッケーをする時にかぶる一般的なゴーグルの用法と変わらず、このレンズ自体は銃弾や衝撃物から両目とその奥にある脳を守る強化プラスチックに過ぎず、あくまで街中でかぶっていても最低限は周囲から怪しまれないように偽装する意匠となっているみたいだ、私は早速それを頭からかぶって目元に取り付ける、そして私がこの行動をするに至ったその目的物である二枚のタグを視界に入れた、確かにこの二枚の金属片はこの部屋にその存在を置いておくにふさわしいものであって、つまりこれは私の両親が生前体内に入れていたもので、私の在学中にいつのまにかいなくなっていた彼らが残した唯一の彼らの構成物だった、思わぬ再会に驚いて沈黙している私のおかげで窓から差し込む黄色い光と静寂に包まれているこの物置部屋に、しかしかすかに何者かが近づいてくる足音が侵入してくるの耳で聞いた、私はそちらの音が鳴る方へ振り向いて目をやった、開発段階の装置を通じて私が視覚した情報によるとユーモンさんが階段を上ってきて私がいる二階へと至った後にこの物置部屋に近づいてきているようであった、私は一瞬だけこの二枚のタグを元あった位置に戻して何も見なかったフリをしようかと逡巡したが、そもそもこの部屋にあるもののほとんどが彼らによってここに搬入されてきたもので、さらに私がこの物置部屋に入ることを止めたことなど一度もなかったのだから、そうである以上私がここで何らかの配慮を見せる必要など何もなかったのだった、しかして私の視界に映っているタグの数値が廊下に沿って移動するの見届けているうちについに彼はこの部屋の扉の前まで来て立ち止まりその目の前にあるであろう板に右手でノックした、入場していいか問われたがもちろん私にその願い出を断る理由も権利もなくなので彼は扉を開けて部屋に入ってきたのだった、私は例の箱が特に隠すこともなく蓋を開けたまま手に持っていたままだったのでユーモンさんは私が何を手にしていてそれが何を意味するのかを瞬時に理解したようだったことが彼の顔色の変化から伺えた、私は彼にどう声をかけようか悩んでいたがそれはまた彼にとっても同じようであったので先に私が会話を切り出せば状況が好転するであろうことを察した私は口を開いた。


 私の両親のタグ、こちらに残っていたんですね、ああ、そうなんだ、いつ君にそれらの存在を教えるべきか、そもそも伝えていいものなのか迷っていたので結局今の今まで言い出せずじまいだったんだ、私が学校を卒業した後にまた街に戻ってきた時にはすでに彼らはいませんでした、当局からの通達によれば私の両親は反体制的な思想に基づく活動によって国家の運営に対し多大な損害を与えようと試みたことも理由に当局に検挙された後に二人とも処刑されたと聞きました、ああ、それは間違いなく事実だ、当時の私も直接その現場に同席していたわけではないのだが、どうやら二人残された君たち兄弟のためにタグだけは処分せずに残しておいてくれたみたいなんだ、死亡者のタグは悪用される可能性もあるのによく当局が許可してくださいましたね、私もそう思うよ、それとこの二枚のタグはここにある他の品々と同じく君たちの生家からこれらを持ち運ぶ際に同席していたとある職員から手渡されたものなんだ、もしかすると彼が何らかの理由でそれらを私たちの手元に置いておくことに尽力してくれたのかもしれない、なるほど、ちなみにその職員さんは今どうしているのでしょうか、いや、それに関しては私も詳しいところは全く知らないのだ、名前を尋ねても答えられることはなかったし、もう十数年も前のことだから顔つきも当時とは変わっているだろうからすれ違っても中々わからないだろう、でも今日こうしてまた両親の存在を思い出せる何かが残っていることを知れて良かったと思っています、そういえばユーモンさんは何か用事があってここに来られたのではないですか、ああ、そのことなんだが、これに関しても君に言っていいことかどうか、いや、今から話すことはここだけの話に留めておいて欲しいんだがお願いできるかな、承知いたしました、内容を口外しないことを誓います、実は君たちの両親に関することでもあるんだが、先ほど下の階のリビングルームで私たちが会話を交わしていた時に出た話題で、ピカイアの原料の話が少し出たことを覚えているかな、はい、ですがそれは機密事項だったのではないですか、その通りだ、でもおそらく君にはこれを聞く権利があると思うんだ、彼らがナメクジと呼ばれる所以は確かにその見た目や体型と動きがそれに似ているからなのだが、しかし彼らは本物のナメクジと違って無脊椎動物ではない、背骨でもって身体全体を支えている列挙とした脊椎動物なんだ、ある生物から取り出した背骨を中心として人工筋肉や臓器を組み合わせる生化学処理を施すことで彼ら半人工生命体が誕生したというわけだ、ではユーモンさん、その背骨の供給元になっているある生物とはつまり、そう、人間だよ、ヒトの脊椎と脊髄を取り出して生体パーツとして再利用する、前者は後者を保護したり体を支えたりするのに使う、対する脊髄は全身を制御するための電子回路として転用する、しかしユーモンさん、死体から組織や器官を取り出してきても生体活動が停止したままでは、それらはただの物体の寄せ集めに過ぎず一個体の生命として成立しないのではないですか、その通りだカウ君、なので死後速やかに各器官や組織を摘出して冷却処理によって生命活動を休止あるいは緩慢にさせた後に倉庫に運送して保管する、そして実際に生体を製造する段階にあたっては各部品の間に流れておりそれらを生かし続ける循環器系を滞りなく稼働させる必要がある、そうすることで初めて目の前の物体が一つの生き物として動き始めるのだ、すると生体研究開発局はピカイヤ等の製造方法をひた隠しにしているのは、その材料が人間であるということに対する倫理的観点からの批判を避けるためですか、ああ、それに更に付け加えるとすればどんな人間の亡骸を用いているかという点が我々がそれを公にしたくない理由に強く関係している、そしてこれこそが君がこの事実について知っておくできたと私が思い決心した所以なんだが、つまり、この死体の正体はおそらく当局に処刑された人々の亡骸なんだ、そしてその中にはもしかすると君の両親やあるいはジャス君も含まれていたのかもしれない、これこそが私が君にこの事実について述懐した理由なんだ、私は君の近親者たちの死を汚してしまったのだ、なるほどそういうことだったんですねユーモンさん、しかしなぜわざわざ人間の死体から脊椎や脊髄や何やらを取り出して再利用して活用しようと考えついたんですか、もし仮に脊椎動物であるという点が大事な要素であるとすれば、牛や羊と豚や鶏などの家畜を屠った後の残り物を用いればよかったと思ってしまうのですが、それはだねカウ君、元々ピカイアたちは生体兵器を目標として開発研究されたわけではなく、移植臓器を生産あるいは保管できる生ける培養体の完成を目指していたその過程で副次的に生まれたんだ、もちろんここで生み出されたり保存しておいた臓器の移植先は人間であるからその生物を構成する組織や器官も人間由来のものでなくてはならなかった、そしてそれらを生かし続けるためにはわざわざそれ専用の機械を開発するよりも、まとまった制御機関である脊椎や脊髄を再活用した方が結果的にコストがかからなかったんだ、実際中央研究所には君達が普段接しているピカイアたちとは別のバージョンの個体群も育成されており、それこそが先ほど私が述べた生体バンクのピカイアなんだ、それではユーモンさん、私やバルトが普段任務に用いている死体隠滅用の彼らも実際には外見を変えた人間であるということですか、いやそうではないカウ君、彼らに対してはその利用法の原動力となる雑食かつ極めて大食いの接触様式を確立するために人体とは異なった臓器を組み込んでいる、特殊な消化液の分泌やもしくは人体だと吸収できない物質を体内に取り込めるようにするために専用のシステムを持っている、だから君たちが任務で用いている個体に関しては人間そのものとは最早かなり異なる様子を示しているんだ、ということは人間のように知性を発生させる脳もピカイアたちは持っていないということですか、その通りだ、彼らに組み込まれている培養脳は生命活動を維持するための必要最低限の機能と性能だけが持たされているし、また今のところ彼らに知性が宿っていることを証明できるような計測結果は得られていない、人間が高度な思考を行う際に消費するエネルギーは彼らにおいては代わりにその強力な消化吸収や解毒処理とホルモン生成に費やされている、しかしユーモンさん、彼らは私たち職員と処理の対象である死体を区別できるだけの判断力を備えているように思われます、私たちは彼らに牙を抜かれた経験はありません、それはだねカウ君、一つは彼らがその物体の周囲に漂っている二酸化炭素の濃度で対象が生きているか死んでいるかを見分けられるように設計されているおかげであり、もう一つはメッセンジャーが摂食対象ピカイアたちに教える標識となる物質を死体につけることでマーキングしているおかげだからだ、これらはいわゆる走性の一種であるというだけであるのだから、それだけで彼らに知性や学習能力があることを証明することは難しいだろう、それでは所謂飼い犬や家畜が飼い主になつくとか親しみを感じるということがあると思うんですがピカイヤに関してはそういうことはないと考えられるのですね、そういうことだ、彼らはあくまで予めインプットされた反射活動をしているに過ぎない、メッセンジャーたちが彼らを運搬する際に利用しているケースもまた彼らの狭く暗い場所を好む習性を利用しているんだ、そういう環境に彼らを置いておくと刺激が少なくて落ち着くのかその場でじっとしているんだ、住処と食事さえ用意してやれば彼らは暴れる事すらないのだから実際研究所では彼らが入ったケースが壁のように積み上げられつつ配列されてもいて、まるで観客のいない動物園みたいだとそれを視察しに来た上級職員が感想を述べていたよ、それでは任務に連れて行ってまた戻ってきたピカイヤたちはそこで過ごすのですね、そうなると、任務にあたる際にときたま役割を終えた彼らは帰巣させずにそのままその場で処分することがあるのですが、それは寿命が近づいたり耐用年数が過ぎた個体がその処理対象に選ばれるのですか、いや、君たちの方での業務中の対応についてのあれこれに関しては私にも分かりかねるね、中央研究所やあるいは支部所のメッセンジャーたちが世話してる個体達に関しては君が今言ってくれたようなことを考慮してその品質を管理しているが、任務のために持ち出された個体がタスクにおいてどういった役割を与えられているのかに関してやその使われ方については私達の担当外なので関与していないのだよ、まあ個人的な愚痴を言わせてもらえば、稼働や接合の長期安定は未だに難しく新規個体の生成も決して容易とは言えないので、出来る限り使い捨てにするようなことは避けていただきたいとそれとなく諫言してはいるのだがね、これからは私も今まで以上に彼らを丁重に扱いますねユーモンさん、そうしてくれると助かるなカウ君、そろそろ私もまた下の階に戻ろうと思います、機密である内情をお話ししていただきありがとうございました、いやとんでもないよ、とはいえ、私も少し肩の荷が下りた気がするよ、じゃあリビングに行こうか、はい、行きましょう。


 そう私が答えた後に我々は扉を開けて物置部屋を後にして二階の廊下部分へと足を踏み入れた、そして一階に至るために階段の最上段に一歩足を踏み出して、手すり笠木に手を当ててバランスを保ちながら踏み板から足を踏み外さないように注意しつつ一段一段階段を下っていく、ユーモンさんがその道中を先導して歩いているので私は彼を追い越したりぶつかったりしないように中止していつもよりもゆっくりと足を進める、そして体勢を保つために私が手すり天端に伸ばしていた手が親柱に触れるところまで来た時、しかして私たちは一階の廊下に降り立ったのだった、正面に見える通路のさらに向こう側に置いてあるキャビネットやシューズボックスの上に差し込んでいる光が先ほどよりも白みを帯びた空色でそこにある額縁や小物などを照らしているのはこの距離から見てもはっきりと目に見て取れる、そして私はユーモンさん田中さんの背中に付き従ってそのまま壁際のブラケットライトを明かりにそれを暗くはっきりと反射する樹脂でコーティングされた木材を敷き詰めたフローリングの床の上を歩んでリビングルームへと通じる扉の前まで向かった、そして彼が先にその扉を開けてそれは手で押さえながら私がリビングルームの中に入るものを流してくれたのでその招かれに応じるがままに木製の沓摺を踏み越えた私はドア枠をくぐって居間に足を踏み入れた、バルトから私が物置部屋で何を見てきたのかをよかったら教えてくれないかと尋ねられたので私は人間学校に在学している時に使用していたノート類や私達兄弟や両親の姿を映した写真が入った小ぶりの額縁であったり、あるいは私たち兄弟に両親が遺してくれた二枚の個人情報収録体内埋め込み型電磁タグが丁寧にしまいこまれた合成樹脂製の箱の中身に目を通したり眺めたりしてきたと答えた、それを聞いた彼女はまだ私がその両親のタグのことを知らなかったことに驚きを示すような表情を見せて、それを聞いたその話の輪に加わっている私たちと同じようにリビングルームを囲んでアームチェアの座面に腰を落ち着けているユーモンさんが少しバツが悪そうに感じていることを泳いだ後に伏せられた目と僅かに俯いた顔や卓上で組んだ手のジェスチャーから察した私は、それを聞くには確かな覚悟が必要だったので打ち明けられた時に私が抱くであろう心情を推察して話す時機を見計らってくれたバルトのお父さんにむしろ感謝しているという趣旨の言葉を調子を和やかに保ちつつ伝えた、結局のところ私はいつかはそれを知ることになっていたんだろうしただたまたまその機会が訪れたのが今日だったというだけなのだ、そして話題はここにいる四人のうちの誰かしらが生活上経験してきた類のよもやま話に移行していった、普段の食事や休暇中の過ごし方とか最近耳で聞いたり目にして気になっていたりあるいは実際に鑑賞した映画や書籍に関する情報交換であったりと、穏やかな昼下がりの休日に交わし合う会話としてはこれ以上ないほどに適当なトピックだった、私たちはその話の合間に時折ティーカップにティーポットから汲み入れた紅茶を口に含んでその野苺のような香りと豊かな苦味を味わいつつ口腔内を潤したり、あるいは平たく牛乳のように滑らかで白い陶磁器製の皿に盛られた焼き菓子を食べてその生地とレーズンの甘みであったりあるいは噛めば霜柱を踏んだ時の音に似た響きが頭蓋に伝播するのを楽しんだりしている、その談笑や会食でささやかに賑わっているリビングルームの空間に減衰する電子音のチャイムが鳴り渡った、スキニン夫人が椅子から立ち上がってインターホンの親機についたマイクを使ってそれに応じた、どうやら郵便配達の方が来たみたい、ちょっと行ってくるから失礼するわね、と彼女は言った後に居間を出て玄関に向かうために廊下に足を踏み出した、私はクッキーの生地に吸い取られた水分を補給するために紅茶を口に含んだのだが、その際に鼻腔へ抜けた熱された茶葉から染み出た成分の香りが三日前のことを突然意識に思い出させた、あの時も喫茶しながら何か手紙を読んでいて、その内容はちょうど今日のこの家での集まりについての予定を立てるためにバルトから送られてきたものだった、そしてそれとは別にもう一つひどく端的かつ文脈の不明瞭な内容を記した書面の手紙も受け取っていた、そしてその送り主はおそらくこの一連の事件に関与していており昨夜の研究所を襲撃した犯人の一部も未だ当局に捕らえられていない。


 ウィンドチャイムの鈴鳴り。


 私が勢いよく椅子を引いたのでその四脚が下に敷いてあるカーペットに引っかかって思わず後ろによろけて倒れそうになったがテーブルの天板の端を掴んで何とか体勢を持ち直しそのままの勢いで前方につんのめってその勢いを殺そうとして前方に伸ばした手がさらに敷かれたクッキーとチョコレートに突っ込んで彼らを押し砕いていったがかまわず背後に向き直り後方のソファーに置いてあるバッグの中からセミオートハンドガンを取り出して廊下へとつながる扉に向かって駆け出した、乾いた破裂音、目の前の突き当たりに差し込む光がさえぎられて影ができている、銃弾は弾倉に入ってる、スライドを引いて弾を薬室に装填する、撃鉄を起こせ、曲がり角に落ちた影が下に滑り落ちていく、我々は止まらない、入り口側の壁に密着して駆ける、カメラに映らないぐらいの銃身、壁が途切れる手前で立ち止まり壁を背にする、この角の向こう側はどうなっている、左前方のキャビネットと壁に投影された人影は動かない、日射角度からその目標位置を暗算する、しかしそれより確かな鏡像が額縁のカバーグラスに反射していることに気づいた私を彼もまた同じようにこちらを見ているかもしれないが迷っている暇はない、私は飛び出して引き金を引いた、相手の銃身に命中、アプローチにかっ飛んでいく銃、トリガーを引け、外れ、腕、外れ、外れ、膝、外れ、外れ、外れ、足りるか、首、玄関に相対していた私は再び壁を背にするために体を引っ込めた、額縁の反射から向こうの様子を伺う、単独犯だろうか、夫人をこちらに引き込みたいが、しかしそれは今は無謀だと頭が告げている、右側からバルトの声が聞こえる、通報したらしい、私が銃弾を加え込めるためにマガジンを引き出そうとすると銃身にロッククッキーのかけらがかなり付着しているのを見つけた、それを握りしめていた手のひらにもまたついていたそれを私は舌で舐めとって口内に広がるボロボロとした舌触りと干しぶどうや生地の甘味と、鼻腔内に入り込んでくる生姜やシナモンの甘く爽やかな香りを脳に刻み付けた。


〈了〉

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