メフィスト賞2023年上期_応募作品

松果れんげ

私、収容所《くに》、世界

 卒業課題は人間学習だった、のを思い出している。


 あのとき持っていた本やペンを今や金属片や火器ガンに持ち換えていた、鼻腔をくすぐる煮たソーセージの香りは眼下に撒かれた十二指腸と似ても似つかない、ほうきで床を履くように黒く温かいインクを清掃蛞蝓ピカイアが舐め取っていく、後始末は済ませた、脱走した牛が脈動をやめたのを確認した私は牛脂の付いたままの手で通信端末を起こす。


 こちらカウパーソン、タスク終わりました、ふむ、塩は掛けたか、まだですね、今かけました、対応が早いのはいいことだが、跡が残ってれば無駄な努力だ、大丈夫です、骨肉に至るまで完食させましたから、そうか、ご苦労だった、すぐに戻れ、了解、帰巣します。

 

 足元のアスファルトには浅目の水溜まりが出来ていた、濡れて黒ずんだそれは蛞蝓由来のものであり遺伝子改良で産まれたその半人工生物は元々は屍体の安全処理を目標に研究されていたものだ、その有用性に目をつけた人々が研究資金を提供することの見返りにその筆頭研究者ごと青田買いして技術を独占した、食欲旺盛なこの軟体動物は対象を速やかに食す、本来はこんなふうに使い捨てにはしないのだが今回の業務は特殊だったからこうして生金分解剤を振りかけて溶解させた、私はその場を離れるために周囲を警戒していたが相棒はいまだに濡れた路面を見つめている。


 おい、いくぞバルト、ああ、すまない。


 そう言うとバルトは微かに頭を垂れてそしてこちらに足から向き直った、バルトが駆け寄ってくるのを確認し私達は回収車に向かって音も無く駆け出した、月のか細い明かりを頼りに我ら以外に無人の路地を駆け抜ける、銃もナイフもしっかり固定してある、なぜなら微かな音でも油断ならないから、それに比べるとバルトの背負うボンベにも似た容器はその大きさゆえにこういうくねった曲がり角の多い舗道でぶつからずに駆けるのは難しい、しかし訓練を重ねたバルトは、習熟の末にその達成を可能にしていた、バルトの役目は背負うものメッセンジャー、私の役目は牛飼いバッカルーだ、人間学校卒業とともに巣立っていく人民たちにはしばしばその個人の性質を踏まえて選ばれた役割が与えられる、私達は、つまりカウわたしとバルトの両名は卒業をともにした同期生でありなんの縁起かこうして今に至るまで共に指名ミッションをこなしている、友と言えるほどの仲ではないかもしれないが仕事仲間ではある、そのバルトの方に目をやると背後をしっかりと追ってきていたので、私は前方に向き直り回収車との合流地点へと向かう歩みを続けた、倉庫が立ち並ぶ地区に足を踏み入れて目標であるその車両を見つけた私達は運転手ドライバーと合流した、彼と目配せして相互認証シーケンスを無事に終わらせたのち、私とバルトは車に乗り込んだ、バルトは空きボンベを置くために後部座席へ、対して私は助手席に乗りドライバーはもちろんハンドルの前に陣取った、各々の役割に応じてそのふさわしい席次は決まっていると言うわけだ、ドライバーはブレーキから足を離し車体は車道を走行し始めた、倉庫街を抜けて町と町を繋ぐ橋を超えた辺りでドライバーが声をかけてきた。


 で、どうだった、カウ、何がだよ、ルイ、牛の飼い主の話だよ、タグはついてなかったのか、いや、探ってみたが見当たらなかった、スタンプもかよ、焼印のことか、バーコードの数値配列はもちろん記録した、タグはどこかで摘出された可能性がある、闇医者ナチュラリスト連中か、自分たちの首を絞めるだけだって奴らにはわからないのかね、分かっててやってるんだろう、地下医療の躍進は今に始まったことじゃない、拠点を暴いて一網打尽にしようにも、闇医者たちは根城を築くことを良しとしない遊牧の民だ、そう簡単には行かない、だが俺たちはやるしかない、そうだろカウ、バルト、ああ、そうだな、そういやこれはうわさ話なんだが、またルイの虚言が始まったみたい、うるせえぞバルト、で、タグについてなんだが、近いうちにタグ利用下検出管理の精度が向上するらしい、そうすればナチュラリストどもがタグを取り去る前に、術中の奴らを強襲できるようになる、それは忙しくなりそうだな、だろ、ルイはそれ、どこから聞いたんだ、いいかバルト、横の繋がりだよ、俺がお前らを運ぶように、お上さんを運ぶドライバーもいるってわけだ、メッセンジャーやバッカルーにもそのうち伝わるだろ、信じられねぇかバルト、いや、不信の座に付いてるわけじゃない、強硬派もずいぶん性急だなと思っただけさ、そういえばバルトは穏健派だったっけ、私は正しいと思った方についてくだけさ、そういうのは日和見主義っていうんだぜバルト、運転に集中しろよルイ、何を今更、そうだ、カウはこの後の用事あるのか、紹介したいやつがいるんだ、お前も気にいると思うんだが、すまないルイ、教会に行くんだ、ああ、そうか、いや、すまない、こんな時期に、こちらこそ申し訳ない、水を差すようで悪かった、また空きができたらルイに連絡するよ、おっけー、了解だ、おいルイ、なんだバルト、お前も誘ってほしかったか、違う、前だ、前、前だって、今は停車中だぜ、赤信号って知ってるか。


 そう軽口を叩くルイをよそに私はフロントガラスに目をやる、バルトは普段怒鳴らないからじゃあ今は普段でない、ガラス越しに見る横断歩道を行き交う人々の群れ、その流れに馴染まない人影は杭を川底に刺したように突っ立っていて顔を伺うと帽子の影に隠れた目線はそれでもなおこちらを捉えている、その右手がジャケットの上着に差し込まれるのを視認した瞬間、伏せろ、私はルイの肩を掴んで体勢を崩させつつ自分も背骨を曲げて体を屈した、内耳を直接突き刺すような強烈な衝突音を聞く、かがんだままでフロントガラスを伺うと当たり前だが幸いなことにその投擲物が貫通することはなかった、ルイへの信頼を再実感する、きちんと規格に則った手入れをしているようだ、私は声をかけて二人の安全を確認する、両名とも傷を負うことはなかったようだ、とは言えどうするべきか、私は慎重に体を起こしテレビを見るようにガラス外の様子をうかがう、大部分の通行人たちはその場を走り去ったようでありそれは襲撃者についても同じだった、ルイに車体搭載撮影機器ドライブレコーダの設置有無を問う、もちろん彼はそれを無事稼働させていた、やれやれ、書くべき報告書が増えたというわけだ、追撃の不在を確認した我々は再び車を支部所に向かわせようと試みるも、凶行から逃れようとした人民たちが車を乗り捨てていたようで周囲の、いや少なくとも前方の道路は無人車が連なっている有様であった、幸いなことに同じ理由で歩道が空いていたから渋滞を抜けきるまでそこを走るという案をバルトが出し私とルイはそれに同意した、しかして車両は側道を走行し始め私は先程の一件について意識を向けた、おそらく彼は、仮に奴が男性であればの話だが彼の身柄はすぐに拘束されるだろう、無許可の銃火器使用、それも治安維持機関構成員への武力攻撃に対して本部は相応の対処を迅速に取るだろう、我ら牛飼いカウパーソンたちは人民の安全を守ることがその存在意義でありだからそれに対する攻撃はこの国家そのものへの反逆と捉えられる、あの襲撃者もまた人民の一人には違いないだろうがその重さは彼以外の人民よりも相対的に軽い、だから身元はすぐに判明するだろう、そのためのタグ、識別票なのだから、そんなことに思いを馳せつつ気付いて外界に目をやると車両は支部所の門をくぐるところだった、門番とルイは相互認証を済ませると、ついでに襲撃事件の発生とその証拠の伝達も終わらせたのちに彼はハンドルを切って駐車場に車を向かわせた、すぐさま整備班と医療班が駆けてくる、車両の担当責任者のルイをその場に残して私とバルトは先に所内に引き上げた、そしてバルトと別れたのちに私は牛飼い部に足を踏み入れた、そこには多くの机と椅子、そしてロッカーや棚などが配置されていて、私は一旦自分に用意された席までいき留守中に届いた書類やメールなどに手早く目を通したのちに、ある通達書に意識を向けた、それはタグ利用下検知管理の精度向上に向けた技術開発の講習会兼説明会への参加を要請していた、さっき社内でルイが言ってたやつだなと思い出した、私はその書類を指定のクリアブックに入れて1ページとする、そのついでに前のページを捲って軽くタグについて復習しておく、我がソサイエタスは国家制度として国内で出生したすべての人民を管理する権限を有しており、その権能を遺憾なく発揮するために人民一人ひとりにそれぞれ割り当てられた個体識別暗番号を出生児の段階から体表にバーコードとして印字し、さらに体内にその番号データの照合を可能とするタグを埋め込む、これらの処置を受けることは人民の義務であり逆に言えばその段階を踏まえることで初めて我がソサイエタスの一人民として身分を成立させることができる、私のような成人はともかくとしてまだ身体が成長段階にある子どもたちはそれゆえにバーコードの字面歪みが起こりやすく、したがって各教育段階に伴い生徒たちには再印字を施すことになっている、成人後も社会保障の枠組みで行われる無償健康診断でそれらの個体識別に不備がないかを都度確認することになる、しかし近年になってこの制度に反対する思想家たちが現れた、もともと議会の穏健派の一部ではこの識別番号付与制度を疑問視する声が上がっていたのは事実だが、しかし今我々が直面しているのはもっと過激な武闘派組織だ、いや、未だ組織としての実体は当局も確認しておらず実際にそのような集団が存在するかどうかは確定していない、しかしながら以前にもまして牛たちの国外逃亡未遂事案は増加の一方を辿っており、もちろん中には無事に国の外へ逃げおおせた物もいる、また、検知の網をかいくぐるためにタグを体内から摘出しようと試みる一派も存在しており、それを手助けしているであろう闇医者たちとその組織である地下医療集団の実体を当局が徐々に掴みつつあることもまた事実である、なので我々はそれらの反体制組織を結束させているより大きな枠組みもまた実在しているのではないか、そういう推測に基づく仮定をふまえてこの制度の根幹たる識別機能搭載タグの改良を行っているのだ、と私は考えてみた、この案の基盤となった証拠すべてを実際に確認したわけではない、告知書や伝令所に付された情報をもとに推量した部分もあれば、あるいはゴシップと山勘から連想した根拠不確かな部分もある、まあ結局、末端である私がこの国家と社会と組織の全容を把握することなど現段階では不可能であろうから、この自論と事実を対照比較する機会が訪れるのは少なくとも今すぐにはないだろう、ただ、何も想定していない状態で真相と相対するよりもこっちのほうがマシだと思っているだけだ、私はタグ情報についてジャーナルなどをまとめたクリアブックを閉じて机上の棚に収めたのちに、椅子に座りながら辺りを見回した、先程わたしとバルトとルイが遭遇した襲撃事件について牛飼い部牛飼い課長に直接対面で報告しなければならないのだ、そして目当ての人物の在室を確認した私は席を立って課長が腰を落ち着けるそのところに向かって歩み始めた、課長もこちらの来訪に気がついたようで脂肪の取れた細い目線をこちらに向けてきた、私は口を開いた。


 ヒシ課長、少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか、構わん、災難だったなカウ、しかし仕事は無事終えたのだろう、ええ、そのとおりです、タスク自体はいつも通りでしたよ、ピカイアがタグを遺さなかったことを除けば、ですがね、開発研究部も優秀なものだな、分解剤を強力にしすぎたのは本末転倒とも言える、それは存じ上げませんでした、冗談だからな、しかしタグが出なかったことを考えると、今回の脱走牛もまた奴らの支援を受けたというわけだ、中には自己手術で成し遂げるものもいるらしいが、その蓋然性は些細なものだろう、そしてお前たちの帰還中の襲撃、つながってるとは思わないかカウ、僭越ながらヒシ課長、その可能性も勿論考えられるとは思います、と申し上げるのが今の私の限度です、そうだな、なに、私も完全にその筋を確信してるわけではない、しかし我々のように治安維持に少しでも携わるものたちは不測の事態が起きないようあらゆる可能性を想定しておくべきだ、おっしゃるとおりです、今回の件については両方とも議題に挙げるには十分な事案だ、君には今後も期待している、報告は異常でよろしいかね、はい、不足はございません、お時間を割いて頂きありがとうございました、お疲れ様、今日はよく休むといい、強襲のショックもあるだろうからそれが尾を引かないようにな、お心遣い感謝に痛み入ります、失礼いたしました。


 私は下げていた頭を上げて自席に戻ったのちに、入り口扉付近の出退勤管理機械に現時刻と識別番号を入力して無事に処理を終えたので牛飼い課を後にした、扉を抜けた私は廊下に出た、所内の動線はたいへん入り組んでいる、それは土と石油と金属できた迷宮でありまっすぐに長い道など存在せず角を曲がってはまた角を曲がっていく、と言っても道幅自体はすれ違うのに十分な空間を確保しておりこうして歩いている間にも何人かとはすれ違っていた、医療班の人間が多い気がする、私は正面玄関ではなく裏口から所外に出た、そこは駐車場に通じており二メートルほどの塀が周囲を囲んでいて支部所の壁面に規則的にはめ込まれた窓ガラスのパターンにこれまた規則的に配列された街灯のランプが反射している、日が傾いてきた空にその常夜灯群がまるで暗闇を照らす蝋燭の火のように厳かな雰囲気を醸しだしている、あるいはそれは教会に行くにあたって心が準備しているのかもしれなかった、私は駐車場の脇に沿って足を進めたが停車中の一台の脇にルイと誰かがつるんでいるのを見かけた、私は彼らに声をかけに言った。


 やあルイ、お、カウか、えっと貴方は、ああ、始めまして、僕はジカだ、ジカさん、僕はカウです、おいおい、随分よそよそしいじゃねえか、俺らはみんな牛飼いの一員だろ、仲良く行こうぜ、じゃあ、ジカ、でいいかな、ええ、じゃあ、カウ、よろしく、こちらこそよろしく、カウはもう仕事は終わりか、ああ、そうか、おれはもう少し残る、愛車の修理に付き合わなくちゃいけねえ、ジカはどうなんだ、僕のグループは待機中です、ルイたちが遭った銃撃の一件をふまえて出動を日常よりも抑制しているみたいですね、ジカは事情通なんだ、カウにも言ってなかったっけ、それは帰りの車内で聞いたよルイ、名前は言ってなかったけどね、ああ、そうそう、お前ら気質が合うんじゃないかって思っててさ、まあこうして実際会えたわけだ、僕は支障ないですがカウは予定空いていますか、実は教会に行く予定があるんだ、また会えるかなジカ、ええ、是非連絡ください、ルイを介して伝えてくれてもいいし、おおいいぜ、カウとは同じ組だしジカとはドライバー仲間だ、ハブってわけだな、分かった、じゃあなルイ、ジカ、気をつけて帰れよ、いずれまた。


 そう言って別れの挨拶を交わしたのちに私は駐車場を後にした、支部所の門を通り市街地に繰り出す、私はジャケットのポケットからネット端末を取り出して現在時刻を確認した、太陽は地平線に近づきつつあったもののそれは季節柄しょうがないものであって実際の時刻の観点から言えばまだまだ街の人通りは多かった、私は道端の階段を下り改札をくぐって地下鉄に乗り込んだ、電車を用いれば十五分とかからない距離に教会はある、もちろん規模を考えなければもっと近くに他にも教会は建っているのだが、誰もが行きつけの食料品店を持っているように私にも贔屓にしてる教会があるということだ、車体が徐々に減速していき身体に慣性がかかるのを感じた私は最寄り駅の到着を察し下車して地上に繰り出た、この辺りは支部所付近に比べれば空間にゆとりがあり木々や草花を植えた庭付きの住宅もよく見かける地区だ、自動車の通行量も比較的少なく穏やかな雰囲気が私の心と鼓膜を休ましてくれる、道沿いの黒い柵に沿っていくと教会が見えてきた、その建物は無彩色を基調とした装飾の少ない建築様式でその質素な見た目はしかし確かな理念と教えに裏打ちされているであろうことに訪れたものが気付くのにも訳はない、私はその建物の敷地に足を踏み入れて扉の開け放たれた入り口から内部に進んだ、先に教師に挨拶しておくのだ、私は目的とするその人物を探しその彼は説教壇から少し離れた長椅子に腰掛けているのを見つけた、他の信者と会合している様子だったが彼がこちらに鼻を向けて存在に気づいたので私は軽く会釈をした、彼もまたそれに応じた、信者の方とも同じく挨拶を交わした後に私は教会の庭へと続く出口の方へ向かった、扉の框をくぐって吊り灯篭がぶら下がりつつ連なった屋根付きの通路を歩んでいく、そして脇から空の下に出て墓地へと続く道を辿る、規則正しく格子状に当てはめて配置された墓石群はさながら石林のようでありそこに侵入したものの心が現実を忘れていく、私もまたそうであるように、そして到達した一角にも同じく墓標が建っておりパーソン家の面々がここに眠っている旨を刻字してある、墓誌の一番下には風化の跡が目立たない新しい名前が刻まれており、ジャス・パーソンはここに眠る、私はそこに目をやったあと跪き合唱の所作を形作って棹石を拝んだ、そよ風の触りが首筋に心地よくて木々の葉が擦れ合うさわめきが鼓膜をくすぐる、眠りの季節に向けてその葉を落としていくその様子はこの数多の骸が眠る墓所にこそふさわしいと思った、私は墓参りを済ませもと来た道を戻り再び教会堂へと至った、先程の教父がこちらの再訪に気づく、どうやら待っていてくれたようだった、彼が口を開いた。


 こんばんはカウさん、弟さんもきっと喜ばれておりますよ、しかしまだ旅立つにはあまりにもお早い、コウジョウ導師、人はいずれ大いなる流れに戻るのです、ジャスもまたその自然理から外れることなくいずれまた違った形で会えるかもしれません、カウさん、あなたは誠に信心深い、学生時代からそうではありましたが今となってなおその熱心が冷えることはない、皆が貴方のようであれば昨今のソサイエタス情勢もまた異なっていたのでしょうに、どうでしょうね導師、それほど悲観的になる必要もないでしょう、本部の制度改革も日進月歩ですからね、それに少なくとも私はコウジョウ導師に教鞭をとって頂けた事に感謝しております、今もなおね、ありがとう御座いますカウさん、そうですね、導き手である私こそがこの自己憐憫の病に立ち向かえなくては後人に顔向けできませんものね、それに私達が殉じるのはあくまで大いなるシステムの流れですからこの程度の些細に囚われるべきではないでしょうし、それでコウジョウ導師、以前伺った件について進展はございましたか、ああ、いえ、申し訳ございません、教会連の知り合いにも協力を仰いではいるんですが現状まだ発見されておりません、私もジャス君の巣立ちに関わった身として何とかして無事に見つけたいのですが、いえ、ありがとうございます導師、そのお心遣いだけでもいただけることが今の私には何よりの励みです、そう言って頂けるならこちらも申すことはございませんが、引き続き捜索は継続いたしますし続報は入り次第カウさんのご連絡いたします、もちろんここにもいつだって来て構わないのですよ、ええ、また来ます、それでは、はい、日暮れ過ぎですからお気をつけて、さよなら。


 そう別れの言葉を告げた導師と私は別れて教会の敷地から外に出た、来たときよりも日は沈み、道を照らす街灯と家々から漏れた光を頼りに自宅に帰るために私は歩いていく、翌日の勤務に向けて体を休ませなければならない、地下鉄の座席に腰を下ろした私は今夜の食事の献立を考えていた、いつもどおりに手早く食べられる食品にしようと思い、自宅最寄りの食料品販売店で肉と砂糖を買った、十三種類を混ぜた香辛料を切らしていたのを思い出して会計後に店内に戻ってそれも忘れずに買い足した、店外に出るとそのまま官舎地区に向かった、この地域の支部所職員が住んでるところで私もまたその支給の恩恵を受けてる身だった、官舎の敷地門をまたぎ自宅のある棟へと続く歩道を辿る、等間隔に植栽された樹木たちもまた墓地のように葉を路面に散らしている、明朝になれば清掃員によって掃き清められるであろうそれに足を乗せると紙を丸めるように乾いた音が鳴り、官舎棟の外壁と夜空に吸い込まれていった、私は目標とした棟の前に至り玄関ホールの郵便受けから自室の番号のものを見つけると鍵を開けて中の郵便物を取り出した、茶封筒が二つ入ったのでそれらを取り出した、官舎に移り住んでからチラシの処理に困らなくなったのは嬉しい、なぜならポスティング業者がここには入ってこれないからだ、乗り込んだエレベーターの中でそんな事を考えていた私は階についたのでその箱を降り自宅前まで言って鍵を解除、扉を開けて帰宅した、買ってきた食料品や仕事道具を適当なところにしまいジャケットを脱いで台所に向かう、蒸し器に調味料と水を入れてそこに重ねたザルに肉をセットし蓋をしてそれをまるごと電磁調理器に入れた、調理時間をセットしてから冷蔵庫を開けて中からビタミン飲料を取り出した、それとは別に砂糖と茶葉と耐熱カップを用意して電気ポットで沸かしたお湯で蜂蜜みたいに黒いお茶を入れた、調理器が止まるまでビタミンと糖分を補給する、人間学校の献立からあまり変わってない、卒業生の中には言葉には出さないものの給食の似姿を避けてるものもいた、かくいう私も卒業したての頃はその一派だったのだが結局この取り合わせに回帰した、まるであの頃を忘れずに重しとするかのように、そう言えば手紙が来ていたことを思い出した私は先程の茶封筒二つを手に取った、片方は差出人不明だった、私は先にもう一方の封筒を開くことにした、それはバルトから送られてきたもので添付された写真にはバルト、そして彼女の父が写っていた、彼らは研究所の中にいる様子でそこで育成されてるピカイアたちも一緒に写真には収められていた、メッセンジャーであるバルトを娘に持つ父はピカイアの研究に携わっていると以前バルトから聞いたことがある、両親ともに牛飼いの構成員でこの父がいるからこそ彼女は背負うものになったのかもしれない、同封された手紙にはその父が私に会いたがっていると記してあった、そういえば最近はあまり彼女宅には伺わなかったのに気づいた、タスクの合間に言い出してくれても良かったんだが私がジャスに意識を向けてることを気遣って却ってそれを控えてくれたのかもしれなかった、では近々、バルト宅に行くことにしようと予定表にそれを加え入れてから次に問題の名無し封筒に取り掛かることにした、封を切ると中には便箋が一枚だけ折りたたまれて入っているようだった、私がそれを引き出して開くと真っ白な空白の海に角張った筆跡で一文が書かれていた。


 我々は止まらない。


 たったそれだけの言葉が文面を成していた、その字体の癖に見覚えはなく何を意図して誰がこんな手紙をよこしたのか見当がつかなかった、私はネット端末からニュースサイトや牛飼い専用交流サイトなどに目を通したものの、一見したところでは私と同じような書簡を受け取った人々は見当たらなかった、念の為にルイとバルト、ヒシ課長に連絡及び報告をした、三人とも受け取ってない可能性は十分にあったが思い込みに耽溺するよりも進んで発散し検証するほうがいいと判断した、返信を待つ間にすでに停止していた調理器から蒸し器を取り出してそれをリビングのテーブルに敷いたクロスの上に載せて食事を始めた、しっかり火の通った肉の味と十三香の豊かな風味を味覚と嗅覚で知覚しつつバルトに追加のメールを送った、彼女の父と会える日程を決め合うためだ、未だに誰からも返信は来ないので私は件の手紙を構成する便箋と封筒をファイルに閉じて保護した後、ビタミン飲料の残りを飲み干した、そしてしばらくの間は砂糖茶を飲んで過ごした、ティーパックが入ったカップに砂糖を山のように入れてはそれをお湯で溶かし黒ずんだお茶を少しずつ口に入れて、空になれば再びそれを繰り返した、茶袋のフィルターをスプーンで押しつつ、しかしだんだんとお茶ではなくなってきて最後にはお湯になった辺りで食事の片付けを始めた、蒸し器の汚れをキッチンペーパーで拭い去っているあいだにネット端末が震えた、ヒシ課長から着信が来ていたので私は端末を手にとって電話に出た。


 もしもし、お待たせしました、カウです、ヒシだ、メールは見た、その文面以外に書いてある内容はなかったんだな、ええそうです、分かった、今の所ほかの部下から同じ事態に遭遇しているという報告は受け取っていないし、今は部長に報告して他の課や部にも似た手紙が来てないかを確認して頂けてるようだ、なにせ昼間の襲撃の一件が起こったばかりだからな、もしかしたら奴らはカウを狙っているのかもしれない、偶然だといいのですが、いえ、もちろん冗談ですよ、我々牛飼いは起こりうるすべてに備えて置かなければならないんですから、その通りだカウ、というわけでカウには明日聞き取り調査の一環で査問会議に出頭してもらう、そう気張る必要はない、あくまで参考人として知ってることを言ってもらえばいい、少なくとも容疑者ではないんだからな、了解いたしました、翌朝の出勤後に再びお伺いします、ああ、報告ありがとう、では、はい、失礼いたします。


 そう言って私は電話の通話ボタンを押して通信を終了した、通話中にルイとバルトからメールが来ていたみたいだが彼らもまたその手紙に心当たりはないようであった、おそらくヒシ課長も部長から同じような報告を受けているのかもしれない、なぜ私がこの文書の宛先に選ばれたのかは見当がつかない、とは言え何かしらの事態に意図せず巻き込まれている疑いがあるので警戒するに越したことはない、私はリビングルームの戸締まりを確認し無事に施錠されているのを確認したのちに、中断していた食器洗いを再開した、洗浄の終わった食器から水気を吹き去って棚にしまい排泄のためにトイレに向かった、ドアノブに手をかけて扉を開けて暖房便座に私は腰を下ろした、考えるのは今日のあれこれ、民衆の一部は当局に不満をつのらせておりその陰謀があちこちに燻っているというのはニュースで広く知られるところとなっており、当然この国の治安維持機関である牛飼いたちがそれを知らないわけがない、特に我々のように市中で実働に当たる者たちは、からの風当たりというのを嫌でも意識せざるを得ない、以前から時折こうした民衆から不満感情をぶつけられる事案が起こっていることは課内や横のつながりをを通して噂で聞くところでは会ったが、実際こうしてその矢面に立つ立場になってみると当事者感覚というものを再実感する、忘れていたわけではないが日々の積み重ねによって覆い隠されていたのもまた事実ではある、職業柄確かにいつ死んでもおかしくはないのだ、それを復習できたことが今日学んだ教訓だ、私はトイレットペーパーをちぎり陰部を清めたそれを便器に入れて流した、換気扇の音を扉の向こうに水洗トイレから立ち去った私はそのまま脱衣室に向かった、洗面台に備え付けられた鏡の上をもうひとりの私が通り過ぎつつ浴室へとつながる引き戸を開ける、視界を水平方向にすりガラスが通り過ぎ風呂場へと入って蛇口をひねり浴槽にお湯を溜め始める、湯船で入浴するための準備を整えつつ私はシャワーのノブをひねってお湯で体を洗い始めた、全身を組まなく洗い終わる頃になると浴槽には十分なお湯が張っている、私は足先から湯面に入り肩の付近まで全身を浸からせるまでに至った、お湯の浮力と暖かさで強張っていた体をほぐす、換気扇の回転音が室内の環境音として流れておりブラウンノイズにも似たそのさざ波の調べに耳を傾けながら、私は明日の査問会で聞かれるであろうことに思いを馳せた、襲撃者の容貌に心当たりはなく具体的なきっかけについても思い当たるところはなかった、提供できる情報はたいして有りそうもない、面倒というわけではないが大して時間もかからずに終わるだろうなと予測した、遅くとも午後までには通常業務に戻れるだろう、私は浴槽から上がり水気を拭き取ったり髪を乾かしたりした、そして寝具に着替えて歯磨きや水分補給その他諸々を終えたのちに寝室に向かいベッドに入って入眠した、室内はいつものように静かでそれは窓の外でもまた同じようだった、眠れば当然夢を見る、私もまた例外なく夢見の一員である、最近はよくピカイアが登場する夢を見ていた、そして今日の夜にもピカイアが現れた。


 雪を降らせる冬雲のように白くてなめらかな体表を有する彼らは確かにナメクジを思わせる姿かたちである、ピカイアの一匹が足元に寄り添ってくる、牛と違って人間には害を与えないらしい、元来その性格は温厚であるらしく彼らについてはバルトやその父から伺う機会があった、そのおかげで他の牛飼い課のメンバーよりかはピカイアへの造詣が深まったと思うし愛着の湧き具合もそれと同じくしている、私は足元のピカイアを撫でた、不思議とその肌は暖かかった、顔を上げると遠くで一匹のピカイアが溶け始めていた、私はそれを見て喉が狭まるのを感じた、きっといつかのバルトも、それは今日だったかもしれないがその彼女もまた今の私と感情を同じくしていのかもしれない、なぜ通常の段取りとは異なりあのピカイアを溶かさなければならなかったのか、それを考えるためには判断材料が不足していた、あるいはそもそも私が知ることのできる事項ではないのかもしれない、メッセンジャーであるバルトやあるいは彼女の父なら存じているかもしれなかった、そしていつの間にか周囲のピカイアたちもゆっくりと溶けはじめていた、私は視界が白んでいくのを感じる、外界とそれへの知覚が脳の中心に向かって吸い込まれて一点に収束しているのを感じながら、ああ、夢が覚めるなと感づいた私はその渦が作り出す流れに身を任せた、胸が詰まる様な感覚を抱くがそれもまた覚醒の合図だった。


 私がまぶたを開けるとアイマスク代わりに使うタオルの網目が視界を専有していた、布地の隙間から数々の光が筋となって網膜に差し込む、私は顔からタオルを取り去りネット端末の休眠モードを解除して現時刻を確認する、そしてベットから出て寝具を整えたあと出かけるための身支度を始めた、洗顔や寝癖直しなどを済ませてクイックオーツとふやかした干し魚を朝食に摂り、歯磨きと着替えを済ませて玄関に向かう、靴棚の上に置かれたジャスの写真立てとタグに出発の挨拶をして靴を履き扉に施錠をしたのちに官舎のエントラスホールに向かった、鈴蘭が連なったような造形の照明の下で壁沿いに等間隔に配置されたゴムノキの葉たちがライトの投射光と窓から差し込む空の色を反射している、鉢植え群の一つに目をやるとその傍に佇んでいる人影はルイのものだった、向こうもこちらに気づいたようでこちらに顔を向けた、そして官舎の外に出ていつもどおりに出勤に連れ立ちながら私は彼に声をかけた。


 やあ、今日は会議だよ、まいったね、どうせ大したことも話さねえだろカウ、それとも昨日のアイツには心当たりでもあるのか、いや、全く無いんだ、因果な生業だな牛飼いも、治安維持をお題目に挙げてるとは言え何かと民衆から恨みを買いやすい、まあそれだけ私達の影響が及んでる証拠でもある、舐められて国家の運営が成り立たなくなるよりかは今の状態のほうがよっぽど健全だよ、でもよ、実際こうして反体制的にふるまう輩は小規模ながらあちこちで出現し始めてるだろ、このボヤが燃え広がって大火事にならなきゃいんだがな、だからこそ、当局は少しでも人民から軽んじられないように脱走牛の発見と処理に血眼になってる、更に最近になってからは、あえて規制と統制を厳しくてその理由を脱走牛たちに置いてるんだろう、そうすることで民衆の不満感が奴らに向くように導いているのさ、一番恐ろしいのは政権が支持を失ったり大規模なクーデターが発生して革命が起きることだ、当局もそれだけはなんとしても避けないといけない、まあそういうのはお上さんたちが考えることであって俺らは今のところただ黙々と仕事のために動き回ってればいい、この国を守るためにね、そう言えば教会は言ってきたのかカウ、ああ、無事墓参りも済ましてきた、コウジョウ導師にもあったよ、まじか、あの人も長いね、未だに俺らが居たころと同じように現役なんだろ、さすがに髪も白んで肌もハリを失ってきてたけどね、ただあの眼はぜんぜん変わってないよ、熱心な先生だったよな、俺も今度久しぶりに挨拶してくるかね、きっと喜ぶよルイ、墓って言えばやっぱりまだジャスは見つかってないのか、ああ、そうみたいだ、コウジョウ導師も協力してあちこちに当たってくれてるんだけど残念ながら骸は見つかっていない、なあ、これは噂なんだが、うわさ、ジカから聞いたのか、ああ、もし気を悪くしたら申し訳ないんだが、ジャスはピカイアに食われたんじゃないかって、何だそれ、ジャスを消したのは闇医者じゃなくて当局だって言うのか、噂だよ、うわさ、もちろんカウの言いたいことはわかる、わざわざ洗わずに血まみれのタグだけを郵便で支部所宛に送ってきた、脅迫文と一緒にな、ジャスは諜報員リサーチャーだったから単独任務が主だし失踪後の足取りを追うのはなかなか難しかった、タグの検知機も一般型は未だに至近距離じゃないと役立たないからな、で、もしかしたらジャスは当局に都合の悪い何かを知ってしまった、それを知ったお上さんは目の上のたんこぶに対処した、根拠が薄いな、ゴシップジャーナルの陰謀論記事のほうがまだ信頼できる、でもよ、当局なら証拠を隠滅するぐらい容易くできそうじゃないか、それに例えば、ジャスが居なくなった、その実行者はナチュラリスト達だ、そういう筋書きを作り出すことで牛飼いたちの結束を高めつつやつらへの悪感情も強化している、割と辻褄が合ってる噂じゃないかカウ、もうやめとけよルイ、あまり反体制を仄めかすことを市中で口にするもんじゃない、誰が聞いてるかわからないんだ、それに私達は牛飼いなんだ、ソサイエタスに服しはしても反旗を翻すものではない、まあそうだな、お前の言うとおりだよカウ、実際俺も全面的にこれを信頼してお前に話したわけじゃない、そういう噂もあるってことさ、今度ジカに会ったらそれについて聞いてみたいな、ああ、伝えとくよ。


 ルイがそう言い終わると支部所の通用門前を越えて正面玄関に入った辺りで我々は別れた、私はそのまま牛飼い課に向かい部屋に入ったのちに自席に向かった、朝礼までまだ十分な時間が会ったので私は装備品の点検や今日のタスクスケジュールを確認した、メールリストを確認すると本日行われる査問会議への出頭命令を伝える連絡を受信していた、私はその文面を読み、しばらくしてヒシ課長が入室して来たので私は席を立ち上がって挨拶を交わし彼に昨日送られてきた封書を閉じたクリアファイルを提示した、課長はそれを確認して受け取った、証拠の撮影と複写を命じられたので私はそれに従った、その間に課長は内線で何処かへ連絡を取り少し間を置いてから記録課の職員が入室してきたので私はその職員に現物入のクリアファイルを手渡した、査問会議に当たって査問会の各メンバーに配布する資料として用いるのだろう、あるいは記録課の書庫に証拠品として収められる、そして朝礼が始まり人員確認や全体報告などが済まされ、朝礼が終わると程なくして職員室の入口で係員が訪れて私へ召集に応じるよう伝えた、私は係員とともに職員室を後にし査問会議が行われる部屋へ向かうこととなった、灰や白色を基調とする入り組んだ通路や薄暗い階段を進んで金属むき出しのそっけない外見のエレベータに乗り込んで該当階まで赴き、ついに査問会議が行われる部屋の灰ペンキ塗り扉の前までやってきた、同行した係員がノックと参考人の到着を告げるとそれに応じて入室を許可する返事が返ってきたので係員は扉を開けて私を会議室の中に誘導した、私はそれに従って框をくぐり係員は扉を閉めた、議長と思われる方が私に証言席までくるように命じたので私はそれに応じるように会議室の内部へと進んだ、査問会メンバーは長机に沿って横に連なるように座っており私の正面から彼らの視線が注がれていた、中央の席に座っている査問会構成員の一人が口を開いた。


 召喚しておりました参考人が出頭しましたのでただいまから査問会議を始めます、まず参考人は氏名及び所属を述べてください、はい、私は治安維持省牛飼部牛飼課構成員カウ・パーソンであります、はい、確認しました、それではこれから本事案、参考人に送付された文書に関する質問をしていきます、それに当たって、参考人は真実に基づき正直に証言することへの誓いを立てていただきます、ではお願いします、はい、わたしカウ・パーソンは良心と大いなるシステムの流れに則り嘘偽りなく証言することをここに誓います、はい、ありがとうございます、それでは議題に移りたいと思います、まず参考人はこの封書をいつ受け取りましたか、はい、昨日の夕方から夜にかけて受け取りました、それはどこですか、はい、自宅であります官舎のエントランスホール郵便受けにて受け取りました、では内容を確認したのはいつですか、はい、封書を受け取り帰宅した後に自宅内部で内容を確認しました、その手紙の内容は覚えていますか、はい、我々は止まらないと書かれていました、他になにか書かれていたりはしませんでしたか、はい、先程述べました言葉だけが書かれておりました、貴方はこの書簡の差出人に心当たりはありますか、いえ、ございません、では送られてきた理由については何か心当たりはありますか、いえ、ただ、民衆の内で治安維持活動に対し何らかの不満を抱いたものがその解消のために送ったのではないかと推量しております、つまり、具体的な理由については心当たりが無いということでよろしいですか、はい、おっしゃるとおりです、分かりました、以上で参考人への事情聴取を終了したいと思いますが他に問いただしたい事がある出席者はおられますでしょうか、おや、アゲット内部調査課長、なにかございますか、ええ、いえ、質問はございません、承知しました、それではカウ構成員、証言お疲れさまでした、また追加の召集命令がありましたら追ってご連絡します、本日はありがとうございました、退出してよろしいですよ、はい、失礼いたします。


 私はそう言って頭を垂れた、そして係員に応じるがままに会議室を後にした、私は腕時計で時間を確認した、大して時間は経っていなかった、係員とはその場で別れ私はそのまま来た道を戻って牛飼課職員室に戻ってきた、ヒシ課長に挨拶をして会議が終わったことを伝えた、そののちに私は自席へ戻り書類やメールリストの確認をした、早速査問会議員から労をねぎらう言葉と追加の聴取が未定である趣旨のメールが来ていた、私はそれに礼を持って返信するためにキーボードをタッチタイピングしながらふとウェブ端末を見ると着信が入っているのに気がついた、私は画面ロックを解除して受信箱を確認するとルイとバルトからのメールだった、ルイの方は昼食の誘いで今日はまだお互いに出動がかかっていないのでバルトとジカを加えて四人で食いに行かないか、所内食堂だけど、という内容だった、私はそれを了承した、所内食堂での食事はすべて公金で賄われてるため職員は無料で食にありつける、メニューの種類はそれなりに多いものの通年を通してあまり代り映えしないのが難点と言えば難点だが、管理栄養士によって考え抜かれた献立によって栄養バランスは文句の付け所がない、味についても外食の専門店に比べれば流石に劣る面もあるだろうが、牛飼職員で味にうるさい者には今のところ出会ったことはなく私からしてみても不味くないし美味しい味付けだと感じる、ちなみにメニューは同じでも一部の具材がいつの間にか変更されてることは何度かある、いや、些細なことだ、私はルイのメールに続いてバルトからのメールを読むために開いた、彼女の父と会合する日程に折り合いがついたようだった、私はその日程をスケジュール帳アプリに転送し紙の日程帳にも忘れずにメモしておく、電力や電波の恩恵に預かれない場合を備えて職員は実体にも記録を残しておくよう指導されている、私もまたその教えに従う一人である、会えることを楽しみにしてると綴ったメールをバルトのウェブ端末に返信した、私は日報に書いておくために査問会に出席したことをメモとして書き留めておいて市内の巡回に出ることにした、同僚のゼッカに声をかける、いつもなら共にもう外でパトロールしている頃合いなのだが、今日は私が査問会に出頭していたのでゼッカも単独で出るわけにも行かず内部作業をしていたようだ、彼も作業を切りの良いところで終えられたようだったので両者とも装備を整えたのちに支部所から出て市内へと繰り出した、お決まりの巡回ルートをまわり不審者の存在や市民間での諍いが無いかを確認していく、治安に問題ないかを確認するとともに市内地理の更新箇所があればそれをふまえて脳内マップを改正する、出動任務を滞りなくこなすためにはこうして実地に赴いて土地勘を養っておくことが効果的だと教わったし時がたつにつれてその実感も一段と強まる、私達は広場を通過し商店街を通りぬけそこから二車線の通りに出た、日中の午前なので車両通行量もそれなりに多い、ガードレール内側の歩道を歩いていると脇道からワゴン車が一台顔を出した、停止線で一時停止し本道に合流しようとタイミングを待っている、窓の内側から伺える車内は薄暗くしかしその原因であるサイドウィンドウがゆっくりと降りていく、車内の影が動くのがおぼろげにだが確認できる、そしてなにか手に持った長い獲物をこちらに向けるのを目視する寸前、私はとっさにゼッカに声をかけつつ周囲に目を走らせてすぐ右の雑貨店に飛び込んだ、手動の押戸だったのが幸いだった、破裂音が鼓膜を鋭く刺し硬い者同士がぶつかり合う音も聞こえた、ゼッカが唖然とする店員と客をかばうように立ち回り私は店の外の様子を注意深く慎重に覗いてうかがった、件の車両はその場に留まっており窓際の射撃手は構えたままだった、すばやく店内に引き下がると再び銃声、ジャケットに取り付けた無線機に支部局が出動命令を出したとの通電が入り背後の店内に目をやるとゼッカはすでに応援を要請していたらしくハンドサインで伝えてくれた、襲撃者の人数や構成が分からない以上は二人だけで対応できるかが未知数だ、とはいえ向こうから店内へ攻めてきたら市民にも被害が出る可能性は十分にある、私は最小限だけ歩道に身を乗り出しセミオートの拳銃で三発、それぞれ射撃手とタイヤ、そして窓の向こうにいるであろう運転手に向けて発砲した、タイヤには命中したことを私はその破裂音とともに知る、悲鳴が聞こえたので襲撃者のうちのどちらかには当たったようだ、とはいえ油断は全くできない、応援が来るまでになんとか二人で持ちこたえなくてはならないし犯人を逃亡させるわけにも行かない、この近辺には監視カメラが幾つか設置してあると記憶しているから最悪逃げられた場合でも何かしらの手がかりは残るだろう、しかしエンジン音の鳴る音は聞こえてこず再びワゴン車の様子を見ると車体はそのままの位置にあった、射撃手の姿は確認できなかったが近づいて中を確認するのはあまりにも無謀すぎる、どうするべきか、わずかに逡巡していると市街を反射して伝播してくるサイレンの音が耳に聞こえてきた、無線機からも応援車両の連絡が入る、数台の装甲車が走行してきて店の前を通り過ぎあのワゴン車の前方を塞いだ、ここからは見えないがおそらく後方にも陣は展開されているだろう、これで襲撃者を搭載した車両は治安維持部隊によって包囲された、応援車両から続々と武装した牛飼職員たちが下車してきた、私達がいる雑貨店にも何名かが配備された、これで万が一の場合に犯人たちがここに突入しようと試みてもその目論見は達成されるまえに無力化されるだろう、他の職員たちの一部は周囲の警戒にあたりそれ以外は装甲車のドアや車体の陰に隠れることで有り得る銃撃に備えつつ、そのうちの何名かがそこから出て身を晒して照準を車両に向けたままそこににじり寄っていった、先陣を切る職員が大声で犯人たちに投降を求める、しかしそれに対して応じる声の返ってくることはなく彼らは近付く歩みを止めなかった、しかしワゴン車まであと7人分ほどの距離まで職員が近づいたところでふいに車両のサイドドアのロックが外れるような音がした、職員がそれに応じて発砲した、銃弾はおそらくカーフレームに命中したみたいだ、投降するようにと勧告が続けられていると、何度目かになってようやく襲撃者のものと思われる声が帰ってきた、職員が犯人に対し武器を捨てて両手を外に見せながら降りてくるように命じた、するとその人は言われたとおりにしてワゴン車の側面から降車してきた、手を後頭部につけて車体側に体を向けたまま膝を地面に落とすように命じられると果たしてそのとおりに身体を動かした、後ろに控えていた職員たちの何名かが追加で犯人のもとへ駆け寄りそして襲撃者の両手首に手錠がはめられた、私は思う、襲撃者は一人だけだったのだろうか、あるいはあの者以外にも誰かが襲撃に参加していて私達が店舗に閉じこもっている間に車外へ逃げおおせたのだろうか、それを知るには周囲への聞き込みや監視カメラの記録映像を調べる必要がある、あるいはあの被疑者への取り調べでそれに関する供述がなされるのだろうか、それは後になってからしか分からないだろうし今は現場の保存と周辺住民への説明が必要だ、ゼッカが店員と客人に気を配っていてくれたおかげで彼らが取り乱す事態には至らなかった、すでに店外の職員たちは現場保全に向けて動き始めていた、歩道側はポールなどを支柱にしてその間にテープを張り車道には応援車両に積まれていた柵や立て看板を置くことで封鎖する、発射された銃弾やそれが当たった銃痕の位置にも部外者が立ち入らないようにマーキングした後に職員が配置され見守りに当たる、交通整理や歩行者の誘導なども始まり私も無線機が指令を受信するのを聞いている、まずはこの雑貨店の店員や客人に事情を説明しなければならない、私とゼッカは身分を証明する手帳を彼らに掲げそれから連絡先などを記した名刺を渡した、彼らからも任意で名刺を受け取り携帯している名刺入れにそれを閉まったのちにゼッカと目配せをしてから私は口を開いた。


 皆さんはじめまして、私は治安維持省牛飼部牛飼課職員のカウ・パーソンと申します、そしてこちらにおります職員はゼッカ・センです、皆様方の中で大小構わず怪我を追ってしまった方や心肺などに強いショックがかかり痛みを感じている方、あるいはそれ以外でも構いません、なにか体の調子が優れない方はいらっしゃいますか、皆様ご無事ということでよろしいでしょうか、少しでも体調の異変を感じた方がいらっしゃいましたら遠慮なさらずにすぐにおっしゃてください、さて、ご存知かとはお思いますが今一度ご説明させてください、先程この近辺で事件、おそらく重火器を用いた発砲および銃撃を伴う事件が発生いたしました、現在犯人の一人はこちら治安維持機関に投降しました、しかしながら暴徒が単独犯であったかどうかは調査中であります、従って、もし複数犯による犯行であった場合、まだ他の犯人が市内で逃走あるいは潜伏している可能性が十分にあります、皆様方にはそこのところを承知して頂き不用意な外出はできるだけ控え、少しでも不審な人物や出来事を見かけましたら当局に通報して頂きたく存じ上げます、また、ご自宅に変えられましたら扉や窓の施錠をしっかりとなさって頂き、万全の構えを構築して頂けるようにお願いいたします、現場付近は車両や人を問わず入場制限がなされます、封鎖内にお住まいの方はお近くの職員に用事をお伝えなさって頂きその職員が同行する形で域内を進行していだきます、封鎖期間や厳戒態勢の終了については詳細な日程は未定ですが、決定次第皆様にご連絡いたします、また事件あるいは犯人の動向に関して続報が入りましたら、そちらも合わせて市民の皆様方にご連絡いたします、ご迷惑をおかけしますが事情を汲んで頂きまして、何卒ご理解の程お願い申し上げます、こちらからは以上となります、皆様方の中でなにかご質問がございます方はいらっしゃいますでしょうか、はい、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか、ええどうぞ、近頃県内の各地で暴力的な事件が起こっていますが、今回の件もそれらと関連するものなのでしょうか、それに関しましてはなんとも言えないところではございます、今回の事件も詳細が明確に鳴るのは今後になるでしょうし、今までの事件も踏まえてそれらになにか繋がりや関連が見いだせるのかということも、また不確かなところではございます、では、いわゆる国外からの我が国への侵略行為であるとか、あるいはテロ攻撃である可能性はあるのでしょか、そうですね、可能性という点では全く無いとは言い切れないのが実状ではございます、お察しの通り、国外の国々の中には我がソサイエタスに対して良からぬ心象を抱いている政権があるのもまた事実でして、我々も今回の件がそのような流れの中から生まれてきたものなのか、あるいはただ単に国内だけで偶発的に起こったものであるのか、それは可能な限り詳しく明らかにしていく所存でございます、もちろん我々治安維持省、ひいてはソサイエタスにとって、守るべきものは国民の皆様方であり、それを徹底するためには汗血を流し骨肉を折るのも辞さない構えでございます、承知しましたカウ構成員殿、質問に応じて頂きありがとうございました、こちらこそ、市民の皆様のご不安を解消することが我々の勤めでありますがゆえに、では、他にご質問がある方はいらっしゃいますか、ございませんようでしたら、客人方はお買い物がお済みしだい、職員との同行のもとでここから避難して頂く形になります、よろしくお願いいたします。


 そう言い終わったのち私とゼッカは店内に滞在していた市民が退出するのを手助けする業務に加わった、すでに現場には牛飼部の鑑識班職員などが到着してお、証拠の保全と記録や回収に努めている、カメラを向けられていることに気づく、広報部職員も既に取材に来ているようだった、生放送担当の職員は封鎖範囲の外から撮影していて夕方のニュースや新聞の夕刊一面ではこの話題で持ちきりかもしれない、市民の中にはやはり最近立て続けに起きている襲撃事件の裏には一本の筋が通っているのではないかという見方が蔓延しているらしい、先程の壮年男性も似たような意見を持っているようではあった、当局としてもこれに対し何らかの所信表明や公式発表をせざるを得ないぐらいには世論の中の不信感は高まっているようではある、もっとも下っ端である私がそう思い始めてるということはより聡い上層部は既に公式声明への準備を始めていることだろう、私はただ目前の任務をこなしていれば良い、そして職員たちの協力の下で私とゼッカは当雑貨店の客人を全て避難させ終わり、封鎖内やその周辺の地域に住んでいる市民たちに事情の説明と諸注意を告げて廻った、陽光が橙味を帯び始めた夕方頃になって我々が担当する業務は一段落した、私とゼッカは支部局に帰社することにして事件現場を後にした、おそらく当事者である私とゼッカは帰着し次第報告書を書く必要に迫られるだろうし調査会議にも再び出頭しなければならないだろう、最近事件に巻き込まれることが多いなと思い私は物憂げだった、なにか厄介なことに巻き込まれているのだろうか、私はいつの間にか波瀾の渦中に吸い込まれたのだろうか、そもそも昨日の襲撃事件に遭遇してから私の日常は乱れてきている、例の差出人不明の手紙についても不可解極まりない、ゼッカに相談するか、と思い立ったところで今日の昼に予定されていたルイたちとの会食に行けなかったことに気づいた、連絡しておけばよかったが今のイマまで深層心理の彼方に置き去りにされていた、私はウェブ端末を開いて手早く二人に詫びるメールを送った、ジカにはルイの方から伝えてもらおう、そうしてる間に私とゼッカは支部所に到着した、いつになく正門の警備体勢が厳戒になっており配置された職員の数も通常に比べるとかなり多い、何かあったのだろうか、あるいは先程の事件を踏まえたその結果だろうか、職員手帳を門番にかざして認証を終え二人で入場したのちに牛飼課の職員室まで向かった、そこに至るまでの通路もやけに慌ただしく衣擦れの音とともに早足で横を通り過ぎていく職員も目についた、そして職員室についた我々は一旦荷物を自席に置いたのちにヒシ課長のもとまで挨拶と報告に向かった、課長も待ちかねていたかのように片腕を挙げて手のひらをこちらに向けて用があることを伝えるハンドジェスチャーおよびボディランゲージを提示してくる、ゼッカと私で課長席の前に課長から見て水平方向に展開する形で並び立ち整列した、そして私とゼッカが口を開いた。


 只今戻りました、ご苦労だったな、身体検査を予約してあるからこの後に二人とも行ってくるようにな、あと今日の件に関して報告書を書いて今日中に提出すること、襲撃前後の様子から犯人の容姿に至るまで、記憶している限り詳細に書くように、まあいつも通りにやってくれればそれでいい、事情聴取の予定は決まり次第追って連絡する、担当業務も忘れずにやっておくこと、もちろん事情は考慮するがな、以上だ、さ、検査に行ってこい、了解いたしました。


 私達はそう答えて職員室をあとにした、廊下を構成する白塗りの壁はいつもと変わらずにひんやりとしており、黒い材質のの床に反射するのは蛍光灯の光ばかりではなく靴底が叩いたその残響音が所内にこだましていく、私達二人は検査異質に入室し全身の内外に至るまで身体検査を受けた、もちろん新しい傷病に関しては小さなものから目立つものまで検出されることはなかった、青い繊維で織られた布のカーテンには向こう側の医師や看護師と技師の姿が投影されており裸足で触れる床面もまたひんやりと肌を冷ましていく、ゼッカも身体に問題はなかったようなので私達は制服を着たのちに検査室を退出し、報告書のおかげで帰宅時間が遅くなることに対してお互いに愚痴を言い合いながらそして再び牛飼課の職員室に戻ってきた、私は自席にいって椅子に腰を下ろし据え置きネット端末のスリープモードを解除して文書作成アプリケーションを起動した、所属や氏名と日時などを書式をふまえてタッチタイピングでキーボードから入力していく、ポケットに入れた名刺入れから雑貨店の店主からもらった名刺を取り出し店名を参照しながら報告書の事件内容欄を文字で埋めていく、そう言えばワゴン車のナンバーを確認していなかったことを思い出して机越しにゼッカに聞いてみたものの彼もまたそれを把握してなかった、課長に小言を言われそうだな、と笑いあった、とは言えそもそも店内から見えていたのは車両の頭部だけだったのだから、いや、避難誘導後に確認する手立ても会ったはずだ、些細なケアレスミスではあったがもしももっと重要な情報を見逃していたらと思うと笑ってばかりも居られない、どうしたもんかと考えつつも私はデスクに置いていたペットボトル入りのグリーンティーで唇や舌と喉を潤した、苦味と香りを気づけ薬代わりに気分を落ち着けて再び書類作成に打ち込んだ、そしてしばらくして書類を書き終わったので複写機に印刷データを送信しつつ電子文書としても課長にメールで送信した、メールの受信箱には最近受信した様々な書類が並んで表示されていて、先日ルイの運転車両に打ち込まれた弾丸と見られるものを映した記録写真や、襲撃事件現場付近で撮影された監視カメラの映像から抜き出した犯人らしき人物の写る画像が数カット、そういった通知書に目を通して確認していき読了後のチェック欄をクリックした、現在分かっている情報を前提とした話し合いが行われるのでこうした最新情報に目を通しておかないとすぐについていけなくなる、ズボラなやつだと思われて評価を落とされるよりかはマシだ、おそらくこの一連の出来事の背後にある存在を探る本格的な捜査が始まるだろうしそうなれば私もその捜査員の一人として務めることになるだろう、そして私は今日中にやって置かなければならない仕事をやり終えたので帰宅準備に入り出した、椅子を引いて立ち上がり窓の外を見ると、既に日は地平線の果てに沈んでいて設置された外灯が中庭の舗装された遊歩道と広場や植栽を照らしている、内外を隔てる窓ガラスには天井に連なる蛍光灯の線光が反射しており、職員室内では換気システムの立てる通風音とデスクトップ型ネット端末の筐体のファンのうなり声が背景音楽を即興演奏している、ゼッカも業務を終えたようなので私達は職員手帳を出退勤管理機にかざして退勤時間を忘れずに入力したのちに職員室を後にした、通路を歩み通用口を抜け駐車場の脇を通り裏門を抜ける、そのまま官舎に向かいそこに到着した後はエントランスホールで郵便受けの中身を確認する、今日は手紙は来ていないようだったので私達はエレベーターに乗り込みそこで階の違うゼッカと別れて私は自宅にたどり着いた、冷蔵庫から肉を取り出して蒸すことで調理をしお湯にふやかしたオートミールと肉を配膳して夕食とした、思い出したのでネット端末を開く、ルイとジカも襲撃事件現場への職員送迎などに当たっていたみたいで結局所内に残ってたのはバルトだけのようだった、メッセンジャーは基本的に内勤が主な仕事であり外での業務は脱走した牛への対処や装備品の運搬などに三人組で駆り出されるときぐらいで、むしろピカイアの扱いに長けるために日夜研究と習熟に励むのが彼らの業務の内の一つだ、生物の根幹をなす一つである摂食を発展させて工作道具に転用するその発想はたしかに見事なものでバルトの父もまたそれの確立と発展に関与してきた研究職員の一人である、今度会ったときにはどんな話をしようか、持参する土産は何にしようか、私は携帯型ネット端末を手にとってアドレス帳を開きバルトに向けて通信を図った、まだ床に就くには早い時間の気もするが起きているだろうか、通話の承諾待ちを告げるダイヤル音がスピーカー越しに鼓膜を震わせる、しばらくして通話が開始された、バルトの声が聞こえてくる。


 もしもし、カウか、ああそうだ、今日の昼は済まなかったなバルト、明日また集まれるか、ええ、大丈夫だと思う、じゃあルイとジカにも伝えとくよ、カウは怪我はなかったのか、問題なかったよ、二日続きでまいっちゃってるけどね、で、そうだ、今度君の父に会いに行くだろ、何を持っていけばいいかなとおもって、酒を飲まないのは覚えてるんだけど、そうだな、研究所でも食べれるチョコレートとかでいいんじゃないかな、まあもちろん、休憩所で食べれるって意味だけど、分かってるよ、じゃあチョコにするよ、お父さんによろしく言っておいてくれ、おっけー伝えとく、父もカウに会えるのを楽しみにしてるみたいだ、それはよかった、土産の件ありがとう、それが聞きたくて電話したんだ、そう、じゃ、今日はお互いにお疲れだったわね、良い夢を、ああ、おやすみ。


 私はそう言って通話ボタンをタップし通信を終了した、食後の片付けと入浴その他を済ませたのちに私は寝室に入室して寝具に包まれた、微睡みから至って深く眠り旅路を行くその足は見知って見知らぬ世界をうろつく。


 宵明けの公園でジャスがブランコを漕いでいて私はそれをベンチに座りながら見ている、小さい頃はよく二人で遊んでいたなと思い出す、そういう私の手を見るとなめらかな肌と細い指が目に入る、ジャスも心無しか幼く見える、それも当然で私達は子供なのだ、他所の子供達が広場でバトミントンなどをしている、混ざろうかと思ったけどやめた、私はパーソン家の人間だったからきっとセンの子たちから避けられるだろう、それに私にはジャスがいるのだ、人数が二人いれば大抵の遊びはできた、ジャスがブランコで遊ぶことをやめてこちらに駆けてきた、私と遊びたいそうだ、さてなにをしようかな、私は考えながらバッグの中に入ったキャラメル箱に入ってるキャラメル一つを包装紙をめくり取らずに手にとってじゃんけん連勝戦の景品にすることにした、そうしてジャスとじゃんけんゲームをして遊んでいると公園の砂利道が蹴り上げられて砂と砂が擦れる音が聞こえた、そちらに目をやると知らない子がこちらにかけてきていた、その子は口を開いて何をしてるのかと尋ねてきた、じゃんけんしてるんだ、このキャラメルを賭けてね、と私は答えた、賭けごとはいけないんだよ、私も混ぜて、とその子はせがんできたので私は弟と眼を見合わせた、そして参加選手が一人増えたのだった、キャラメル箱に残ったキャラメルが二つほどになったところで父が私達兄弟を迎えに来た、私と弟は遊んでいたその子に別れの挨拶をした、名前を聞いてなかったので私達の氏名を教えたのちにその子の名前を聞いた、リンという名前だとその子は言いまた遊ぶ約束をして私達は別れた、昼の明るい曇り空は影を和らげ浮遊感がどんどん強まって景色もおぼろげに霞んでいく。


 まぶたを開けた私はいつもどおりの暗闇と差し込む光を知覚した、なにか懐かしい光景を夢見ていた気がするものの思い出そうとするほどにそのきっかけとなる糸の先はほつれて溶けていく、掴みきれないそれが今や何だったのかも忘れてしまい私は起き上がって床を出た、寝室のベッドランプを点灯させカーテンを少しだけ開いて窓の外の様子をうかがう、官舎の間を縫うように通る道は夜明け前に青く葉を落とした街路樹が骨のように細い腕を無数に中空に伸ばしている、欲望の数だけ増えた手腕が叶えたい願いはなにか、それはおそらく生き続けたいという望みであるいは国家という共同体もまた存続のために必要としているのかもしれない、私のような手足を、その先触れの後に控えるのはどんな未来なのか、この深海のように暗く青い宇宙に夜明けをもたらす太陽が輝いている将来、闇と底に潜む者たちを暴く救済の光、私は街並みの向こうに夜明けを見出す、霧を払うように暖かい光に包み込まれて世界が白んでいくのを感じる。


 そして私はまぶたを開けるとアイマスクが作る闇が目に映った、私はそれを取り去って寝具を整えたのちに出勤に向けての支度を始める、ラードを溶かし湯にふやかしたオートミールと干し魚のスープを味わいつつ温められた身体を動かして身だしなみを整える、排泄や着替えなどを済ませたのちに私は紙くずや食品の包装をまとめて口を結んだゴミ袋を手に持ちつつ荷物を背負って玄関に向かう、写真立てに挨拶をして扉を開けて私は自宅を後にした、うろこ雲が青空に点描を成し道を挟んだ向こう側に見える官舎の別棟は陰に青く染まる、外廊下のコンクリート床の脇に誂えられている乾き切った側溝に落ち葉が落ちているのを見つけた私はそれをつまんで手すり壁から向こう側へと指を開いてそれを落とした、手すりの天端から頭部を乗り出してその落葉がくるくると回転しながらひらひらと舞い落ちていくのを私は眺める、それが地面に着陸したのを見届けたのちに私はエレベータに向かった、乗場戸からかご内に乗り込む、操作盤の行き先階ボタンから一階のものを押して機械に指示し扉がしまったのちに下階に向けて動き出した、操作盤の上部に誂えられたパネルが表示する階数が少しずつ減算されていき私は頭部と腹部に浮遊感を感じる、上階に留まろうという無意識の現れかもしれないが働くためには降りていかなければならないのだ、エレベーターが一階に着き停止したので私はそこから出てエントランスホールに向かった、そこで毎日の日常通りにルイと合流した後に官舎を出て職場である支部所に向かう、支部所の正門を抜けたのちにそこでルイと別れて私は牛飼課の職員室へと向かった、室内に入り職員たちに挨拶をしたのちに自席へ向かい装備の点検や書類チェックをしながら朝礼を待った、そして定時になったので課長の号令のもと全体報告が行われた、ヒシ課長いわく近頃立て続けに起こっていた襲撃事件とその裏に潜んでいるであろう勢力についての捜査を本格的に始めるらしく、その任務に携わる人員が口頭で読み上げられていった、それによると私もまたその一員に任命されたようで、確かに今現在担当している他の事件や事案がなかった以上は私も選ばれるのは当然の成り行きだったといえる、ヒシ課長はそれ以外の諸連絡を終えると朝会は終了し、我々はそれぞれ自らに割り振られた業務に向き合うことになった、襲撃事件捜査員たちは自らのデスクに置かれた荷物を空き箱にまとめ始めた、私達には業務上行われる諸連絡の円滑化を目的として職員室内に新たな一角が設けられており、したがってそこに自席を移してまとまることになるのだ、私は書類や文房具を荷物にまとめていく、据え置き型ネット端末も持っていく必要はなかった、社内ネットワークを通じてデータベースに電子資料など保存されているので移籍したデスクに既に用意されている端末からサインインすれば今まで通りと変わりなく業務を行えるようになっている、メンバーの移動が終わると本任務を遂行する職員たちを束ねるために選出されたリーダーと共にヒシ課長から諸々の通達がなされた。


 今日から君たちには昨今頻発している治安維持省構成員に対する襲撃事件およびそれを起こしているとみられる反社会的勢力への捜査に当たってもらう、それにあたってまず昨晩から今朝にかけて判明した情報を口頭で共有する、資料についてはメールで各職員に通達しておくのでそちらにも目を通しておくように、さて、昨日逮捕した襲撃犯に行われた供述調査において参加した襲撃犯は彼以外にも二人いると自供した、しかしながら武器の入手経路や彼らを束ねてる不明勢力については未だに聞き出すことができていないのが現状だ、そこで君たちにはまず逃走犯の行方を追ってもらう、今から配布するのは事件現場付近の監視カメラに映っていた逃走犯と思われる人物たちの写真や動画だ、それらを見た上で周辺住民に聞き込みに当たってもらう、住民を脅して武装したまま潜伏している可能性も十分に考えられるので必ず油断せず警戒を怠らずに装備と防具を整えて任務に当たること、具体的な地域分担の割り振りは資料を配布するのでそれに従うようにせよ、私からは以上だ、なにか質問のあるものは居るか、ゼッカか、どうした、はい課長、現在この所内で勾留されております襲撃犯についてなのですが、タグによる身元確認などは既になされているのでしょうか、いや、奴もまたタグの摘出手術を受けていた、入れ墨によるバーコードも消痕するぐらいの徹底ぶりだ、それではその犯人が国外からやってきた可能性も考えられるのではないでしょうか、いや、今回うちで捕らえているものに関してはソサイエタス国民に間違いない、人相記録やDNAデータベースとの照合を用いた鑑定の結果、この国に住民票を持つ一人の国民であると判明した、しかし今ゼッカが尋ねたことはたしかに鋭い指摘だった、実際我々はこの一連の事件の裏側には国内の反政府勢力だけではなく国外からの介入も影響していると想定している、また、タグの検出精度の向上および検出機械の普及台数の増加が実現にむけて動き出していることも以前君たちに伝達したとおりだ、本案件をふまえてその流れはますます強まっていくと予想されており、そうなれば今より長距離まで検出可能になり個人識別が容易になるだろうし、逮捕時の身柄照合あるいは健康診断を介した人民情報の更新以外に殆ど使われていなかった実社会での利用についても、検出機械の安価化と普及に伴って実現していくだろう、そうなれば治安維持機関としても職務に望むにあたって現状よりも速やかに業務をこなしていけるようになるのは間違いないだろう、そして今回の事件ではまさにこのタグ利用に対する反発から生まれていると私は考えている、それがどういった思想のもとで展開されているかどうかは知る由もないが、タグを用いた人民認定とその管理は我が国のアイデンティティを形作り根幹となっている理念の反映物であり、だからこそ我々はこの驚異に対して断固として立ち向かわなければならない、他に追加の質問はあるかゼッカ、いえ、ございません、ありがとうございました、よし、他に尋ねたいことがあるものは残ってるか、居ないようだな、それでは諸君、これにて諸連絡は終わりだ、良い働きを期待している。


 そう言ってヒシ課長は自席へと戻っていった、残った我々はリーダーの指示に従いまず配布された分担表や襲撃現場の記録データの確認作業に当たった、いつも通り二人一組の体勢で地域捜査に当たる、私が組む相手はこれまたいつも通りゼッカでありまた私達の担当区域の中には例の雑貨店も入っていた、そして資料確認を終えた我々はリーダーの呼びかけのもとで実働に移る頃になった、時間はちょうど昼時に近くなっていたので私はゼッカと昼の休憩後に合流する約束をしたのちに彼と別れて職員室を後にした、向かう先は所内食堂で昨日果たせなかったルイとバルトやジカとの会食が今日に繰り越して行われる予定だ、私は白塗りの壁に挟まれた迷宮のように入り組んでいる通路を歩き壁に囲まれて踊り場に設けられた蛍光灯の冷たい光を頼りに薄暗い下り階段を降りていった、地下に位置する売店や食堂フロアに私は足を踏み入れる、大勢の職人が昼時に集中しても対応できるように空間と間取りは余裕を持って広く設計されており、従って人数分の席を確保しておく必要のない私は入口付近で他の三人の到着を待つことにした、私は携帯型ネット端末を開き三人に自分の到着を告知したのだが返信によるとどうやらバルトは既にここに来ているようだった、私はフードコートのように広々とした食堂内を見渡すと顔のデザインをようやく確認できるぐらいの距離に居るバルトを発見した、彼女も周囲を探って私を見つけようとしていたらしくこちらが手を上げてその存在を知らせるとそれに気づいたようで向こうも挙手をしてそれに応じた、そしてバルトと合流してからすぐと待たないうちにルイとジカもやってきて、初対面であるジカとバルトが軽い自己紹介を済ませたのちに我々はサービスカウンターまで向かうことにした、席には重要ではない荷物を置きつつ卓上にある使用状況を示す札入れを使用中のものに差し替えておいた、まあ空席は他にも十分あるので大丈夫だとは思うが念の為の処置だ、私達は食券機に向かい機械に提示された注文したい品目のボタンを押し発行されたチケットをカウンターに提出する、すると番号札と交換されるのでその紙片を控えて、食事が出来上がればカウンターにて番号札を見せて確認したのちに料理を受け取ることができる、私は食堂の外周を進み脇道に入り角を曲がって青い長椅子のベンチの間を縫うように歩いてから先程のテーブルに着席した、三人とも無事に戻ってきたので食事を始めた、私は麦粥を匙で掬って口に運んだり切り分けられた後に焼かれた豚肉を噛み締める、ビタミン飲料で口の中を潤しつつその後味すらも水を飲んで清めた、食事の合間を縫って話していた話題はやはり今回の事件のことでドライバーたちもバッカルーたちの捜査に同行する形で事をすすめるようだった、ドライバーの役目は現場への送迎や物資の運搬であるから遠目の地区に行く際には私やゼッカもルイやジカの世話になるのだろう、メッセンジャーたちに関しては今のところはまだ内勤が主な業務のままであるとバルトは言っていた、たしかにピカイアが活躍できるような事案ではなかったしバッカルーの人員も現在は不足していないので三人一組やそれ以上の規模での捜査にならない限りはメッセンジャーたちが加わる事態にはならないだろう、そして話の方向性は私とルイが以前話していたジャスについての噂に変化していった、周りの席に座っている職員たちの気を引かないように内容をぼかしつつ声も不自然にならない程度に潜めながら話題を深めていく、ジカが口を開いた。


 私がその話を聞いたのは上官の方を送迎していたときのことです、これはカウの弟さんに対象を限定して話をされていたわけではなくて、確かなにかのきっかけでピカイアに関する話題になったときに、先方から口に出された内容だったと記憶しています、国家への背信者や不都合な真実を知りすぎた厄介者を内密に処分するためのその手段として、ピカイアが利用されているんじゃないかとね、脱走牛や敵国諜報員だけに範囲がとどまらずに、今言ったような連中を処理することにも使われてるってわけか、死体を跡形もなく消し尽くしてしまうという意味では、ピカイアたちほどにうってつけの存在はそうはいませんからね、現在行方不明扱いになっている人民や海外からの人々のうち、どれだけがほんとうの意味で行方が分かっていないのかは謎に包まれています、それを知ることができるのは上層部か直接手を下した関係者ぐらいでしょうね、バルトの方ではそういった話はしないのか、そうだな、ピカイアの研究と開発の目的はさっきルイとジカが言ってたとおりで、死体の全てを秘密裏に消し去ることが目的だとは父からも聞いている、ただしその適用範囲については少なくとも私の知るところではないし、運搬課の職員で知ってるのは役職上位の面々ぐらいだろうな、まあ結局の所、私達みたいな実働隊の知るところではないし、考えても真相がわかることはないだろう、ジャスの行方が見つかればいいなとは思ってるけどね、そもそもジャスの生死についても分かってないんだろカウ、ああ、あくまで弟のタグが手元に送られてきただけだ、ただし死んでいなかったとしても、この国でどうやって見つからずに生活していけてるのかはわからない、少なくとも公共施設や目立つ場所には顔を見せていないはずだ、個人識別番号が必要となるような場所にはね、だとすると、闇医者連中と関わりを持ってるのかもな、あるいは最悪の場合、今回の襲撃事件を起こした勢力に加担してる可能性もある、そうだなルイ、その可能性は十分にある、もしそうだとして、仮に今後そういった形でジャスさんと再開した場合、カウはどうするんですか、どうするたってジカ、私は任務を遂行するまでだよ、ジャスを拘束して裁判にかけて、その罪にふさわしい刑罰を受けてもらう、それだけだ、そうですか、いえ、そうならないことを祈ったほうがいいのか、とはいえ亡くなられてるよりかは生きて再会できる方がいいのか、どっちなんでしょうね、なるようになるだけさジカ、私にできることは、できる限り起こりうる全てを前もって想定しておいて、いざ事実に直面したときに動揺せずに落ち着いてタスクをこなせるように努めていくことだけだから、そう言えばジカ、その噂を話してくれた上官って誰なんだ、あ、聞いて良かったらでいいんだけど、ええ、おそらく大丈夫だと思いますよ、アゲット内部調査課長です、よく一緒になるのか、そうだねルイ、ありがとうジカ、いえ、またこうしてみなさんと食事ができると良いですね。


 ジカがそう言ってこの話題は終わりを告げた、ついでにジカの連絡先を聞いていなかったことを思い出したので忘れないうちに彼の端末アドレスを教えてもらい、また私のもジカに教えた、無事昼食を終えた私達は食堂ホールを後にして上階に向かう際にそれぞれ用事がある階で降りていった、ドライバーであるルイとジカは地上一階でエレベーターを降りていき、さらに上に行って私はバルトと別れることになった、明日は彼女の父と会う予定になっているその日だったので翌日の再会を誓い合ってから私は牛飼課職員室に向かった、そしてそこでゼッカと合流して市民への聞き取り調査のために街へと向かうことにした、通路を抜けて通用口を通過し駐車場の脇道を通って裏門から街に繰り出した、私達の担当住所の中には前日の襲撃事件の際に攻撃から逃れるために利用した雑貨店が含まれていたので私達はまずそこに向かうことにした、店舗の名前を確認するためにジャケットの内ポケットに入れた名刺入れから先日頂いた該当店舗の店長から渡された名刺を取り出す、その店舗の名前はラーゲリ・グローサリーと言い店長の名前はカル・セドニーと呼ぶらしい、私は名刺に記載された電話番号を携帯型ネット端末で読み取りカル店長に聞き込み捜査のアポイントメントをふまえた連絡を入れた、ラーゲリ雑貨店以外での情報収集においては住民宅に直接来訪することで対応して頂く必要があるがこの店の場合は事前に前もって連絡先を知ることができていたので捜査の取っ掛かりとしてもまずはちょうどよかった、おそらく殆どの住民に逃走犯の心当たりはないだろうと思われる、それはつまり無駄骨を折ることを意味しているのだがしかし少しでも有用な情報を得るためにはこうするしかないのだった、通話先の店長から捜査協力の承諾を頂いたので私とゼッカは依然として進路を変えることなくラーゲリ・グローサリーを目指して市内を歩んでいった、店の近くまで来てみると昨日行われていた交通や通行の規制は既に終了しており車道や歩道にはいつも通りの市民の姿を見ることができた、銃痕ばかりは流石にそのまま残っていたものの昨日の慌ただしさは今日になるとその鳴りを潜めていた、横断歩道上での歩行者および軽車両の進行を制御する信号機の二段式灯が緑色に変わったので、我々は黒いアスファルトに印を付けられた白い横縞で形作られている車道という川の上に現れた一夜橋のような歩道の上を渡っていった、その橋に直交する形で頭をこちらに向けて停車している車両の眼前を無事に通り過ぎたのちに私とジャスは再び歩道に乗り上げた、金属製の白いガードレールが歩道と車道を隔てることで歩行者と車両の衝突を防ぐ事ができる、それは車両が歩道に突っ込んでくることを防止するというだけではなく歩行者が車道に突っ込んでくることの妨げとしても機能している、こうして道を歩いている私とゼッカもまたその環境設計の恩恵に預かっており、しかし昨日の事件ではこの金属作の存在がとっさの回避先を限定してしまう障害物として機能してし待っていたこともまた事実ではあった、私は結果的に命に別状なく裂傷や出血と打撲などもなく襲撃を乗り切ることができたが、それと同時に次回またそういった機会に遭遇したときにどう動いて対処すればいいかという脳内検証の材料となる経験値を得られたことは不幸中の幸いであったといえる、そして私達は目的地としていたラーゲリ・グローサリーの店舗前までやってきた、店頭から中の様子をうかがうと通常通りに営業はしているようであり昼過ぎという時間帯が影響してか客足も昨日よりかは増えていた、私達は押戸を開けて入店したのちに店内を歩いて会計先のスタッフの方へ向かった、購入希望商品の精算待ちをしている客が居なくなったのを見計らってその店員に声をかけた、こちらの身分と要件を伝えると彼は我々の来店予定を承知していたようで、呼び出し鈴をレジの卓上に動かして目立つように配置したのちに我々に少々待機していただくよう断ってから店の奥に向かいそこにある扉を開けて中に入っていった、会計卓上のベルが鳴らされる暇もないほどの時間的速さで彼は店長を伴ってこちらに戻ってきた、責任者を呼んでくるという役割を果たした従業員の彼は再び業務に戻り、私達は客通りの少ない店の角に移動しそこでカル・セドニー店長に用件を切り出した、私は口を開いた。


 こんにちはセドニーさん、私どもは治安維持省牛飼部牛飼課の者たちです、先日申し上げましたように、事件についての近況報告と皆様方からの情報を提供を望んで伺いました、本日はお忙しい中お時間を割いて頂き誠にありがとうございます、いえ、構いません、私の叔父もそちらの省に努めておりますので、その重要性はよくよく承知しております、そうでしたか、それで昨日の事件はどうなったんですか、はい、襲撃犯の一人は身柄を確保されまして、現在は所内で拘禁されております、ただ犯人は単独犯ではなかったようで、今も他の者どもの行方は掴めておりません、セドニーさんは昨日から今日にかけてなにか不審な出来事や人物を見かけたりなどは致しましたか、いえ、特に気になるようなことはございませんでした、なるほど、承知いたしました、今後また何かお気づきになるようなことがございましたらどんな些細なことでも構いません、私達にご連絡ください、分かりました、そうしますね、ご協力ありがとうございます、犯人が早く見つかると良いですねパーソンさん、またあんな事が起こるかと思うと恐ろしいですから、ええ、そうですね、市民の皆様が安心して生活できるよう我々も全力を尽くして捜査に努めます、それでは今回はこれで失礼いたします、また何かありましたらご連絡いたしますので、その際はよろしくお願いいたします、はい、ご協力できれば幸いです。


 そうセドニー店長が言い終えたのちに我々はラーゲリ雑貨店での聞き込みを終えた、店長にはお願いして犯人の姿を印刷した情報提供を募集するポスターを貼ってもらうことにした、そこには現場近くの監視カメラに写り込んでいた逃走犯と思われる人物の写真と事件の簡易的な説明や治安維持省への連絡先を記しておいた、小売り店や公共施設と市中の掲示板に至るまでこのチラシを貼り出し少しでも犯人の行方を掴むきっかけとなることを願う、またこれらのおかげで犯人が市内でむやみに外出することを防止する願いもある、大まかな人相や体型が市民の間で周知されてる以上は大々的に動くことを犯人は避けるだろう、もちろんそのぶん目撃情報が減少するデメリットもあるとはいえるが、活動時間帯が制限できるのならば襲撃犯が捜査網より外に出る蓋然性を低くできる利点もある、私とゼッカはラーゲリ雑貨店を出ることにした、帰り際に商品棚の中にオートミールや香辛料が並んでいるのが目に入り、それが普段食材の調達を狙って通っている店よりも安価で売られているのに私は気がついた、こちらに寄ってから帰るとすると今までよりも少しばかり歩行距離は長くなることは想像がついたが、両案を比較しても数分の差異に収まるぐらいの違いしかないと思われるので試しに次の買い出しの際はこちらに赴くことにしようと私は決めた、そして私達は雑貨店を退店したのちに、近隣の民家や商業施設と法人窓口や集合住宅から戸建てに至るまで聞き込み調査を続け、情報提供に共有頂けた場所においては例のポスターを目立つとこに張り出して頂けた、そうこうしているうちに今日訪れる予定だと決めていた地域は住民が留守だった家を除けば全て周り終えたので私とゼッカは帰所して報告書を書くために一旦今日の外周りをここで切り上げることにした、西日が大気を通過したことで橙色に染められた光が街に青く長い影を落としており、町中の人通りや車両の通行量も真昼間に比べればうんと増えている、そうして市内を歩いた私達は支部所の裏門近くまでたどり着いたが、同じように捜査に出ていた職員たちもこの時間帯になるとちらほら支部署に戻ってきており、駐車場まで入ると自動車を用いてパトロールに向かっていた職員や、それとは別の職員とともにその優れた嗅覚で犯人の足取りを辿っていたのであろう捜査犬も署に続々と戻ってきている、私とゼッカは他の職員たちが作る人の流れの中に合流し、通用口から所に入って廊下を通り抜けて牛飼課の職員室まで戻ってきた、私達はそれぞれ自席に戻ろうとしそういえば今朝方デスクの配置換えをしていたことに気がついた、向かう先を訂正し正しい席を目的地に定めて新しく捜査班に割り当てられた席に今度こそたどり着いた、捜査班のリーダーに帰所の挨拶をしたのちに外勤中に配布されていた資料や通達に目を通しつつ、今日市内捜査で確認できた情報などを内容に含めた報告書を作成するために据え置き型ネット端末に接続されたキーボードからタッチタイピングで文章を入力して書類を作り上げていく、私とゼッカで入手できた捜査に役立てそうな情報といえば、事件当時に近辺に建っていた集合住宅や戸建ての住民のうちでガラス窓越しに現場の様子を恐る恐る眺めていた方々が居た、その方たちいわく、襲撃犯たちが乗っていた車両のサイドドアが開いておそらく二人ぐらいの男たちが降車して市内に走り去っていくのを目撃していたようだった、我々はその目撃者の市民に犯人が走り去った方向や服装と体型を聞き取りした、その証言の内容は捜査開始前に配布されていた監視カメラの映像に録画されていた犯人像と一致していたのでこの情報に基づいて逃走犯たちが何処に逃げ去ったのかを調べるための捜索範囲を絞り込めることができそうだ、そして私は報告書を無事に作り終えてそれを本捜査に関する情報を収集するために設けられた共有データベースに向けて送信した、明日までには本事件の捜査に携わっている職員たちがかき集めた情報をもとにして、より詳細な事件の内実とこれからの捜査に向けて改正された計画や方針が考え出されることだろう、さて、今日はどうやら残業なしで退勤できそうであるが、これから捜査の情勢把握が進んでいけば捜査本部だ立ち上がった初期である今のようにはいかなくなるだろう、襲撃犯は何処へ逃げたのか、あるいは何処で武器と車両を調達および保管し、このソサイエタス国家の人民すべてに履行義務がある個人番号収録体内埋込み型電磁タグをいつ誰が何処で取り除いたのかも調べ上げなければならない、さらにはその取り除かれたタグが現在何処に存在しているのか、破壊や廃棄しているだけならまだしも再利用して何らかの陰謀のもとに悪用されている可能性も捨てきれない、だが今の私がすべきことは与えられた任務を着々とこなしていくことであり、職員全てがそれを達成し続けることで治安維持省という総体が初めて事件を解決までに導けるようになる、私たち実働隊のなすべきことは上層部が十分な指揮を行い判断を下せるように情報を集め、そしてそれに基づいて通達された命令のもとに体を動かすことであり少なくとも今の我々はそのための手足に過ぎない、もちろん頭も使うのだが、さて、私はゼッカも報告書を書き上げたことを確認したのちに捜査班全てから報告書が伝送されるまで待機しているリーダーに挨拶をして彼より先に退勤することになった、職員室の天井に設けられた照明を構成する蛍光灯たちは既に所内が定時を過ぎているがゆえに規則通り消灯しており、未だ残業のために職員室内に残っている職員たちのワークデスク上に灯る据え置き型ネット端末のモニターと卓上ランプの明かりだけが、まるで深夜に至って静まり返った町並みに線上かつ等間隔に連なる防犯目的の街灯のように点在していた、宵空の照らす暗く青い光が情報のあふれる海を成しそこに浮かぶ島々のいくつかに灯された灯台の明かりを横目に、私とゼッカは職員手帳を用いて退勤処理を終えてその部屋を後にした、そして扉の框をくぐり白壁と黒床の通路を抜けて先よりも人通りの少ない通用口をくぐる、支部所の職員全てが自動車通勤してもまだ余裕がありそうな駐車場では、これまた大地を燭台に刺された蝋燭のように連なる照明灯が地面を這う者たちのその足元を照らしている、その整頓されたまだら模様の明かりを頼りに支部所の裏門まで向かいそこで私達は進路を異とするがために別れた、私は昨日までとは違う帰宅順路を脳内地図に描きその筆跡に基づき引かれた線路を走る鉄車となった、向かう先は昨日と今日に訪れたラーゲリ・グローサリーで信号を渡って店の前まで来てみると先程来たよりも来店者数は更に増えていた、しかし昼時に来ていたのはどちらかと言えば買い物バッグを持った軽装の婦人や老人方たちであったが、いまは書類バッグや大型のリュックサックを身に着けているお客が目立つ、おそらく私と同じように仕事帰りで自宅に向かう途中に立ち寄っている人々なのだろう、さすがに人がすれ違うことができるくらいの空間は残されており、私は昼間に目にしたクイックミールの小袋や十三種を混ぜた香辛料と、豚の脂を精製してチューブに詰めたラードやティーバッグ入りの茶葉を買い物かごに入れていった、そして忘れずに菓子食品を陳列してある棚からチョコレートを探す、その中から受けったら歓迎されるだろう包装デザインと菓子造形のものを探し出し、見定め出したその平べったい缶入りのチョコレートは値段も贈答品としては適正な価格であったので二缶を棚から取り出してこれもかごに入れた、一つは明日バルト宅に訪問したときに彼女の父への土産として持っていくものでもう一つは味見用だ、さすがに食べたこともないものを贈るのは憚られるし、もし美味しくなかったら私の目利きへの評価が下がるだろうことが予想させる、干し魚も買おうかと迷ったがまだ家にはストックが残っていたはずだし、混雑した店内でこのかごを持ったまま更に動き回るのはいささか気乗りがしなかった、私は商品を積んだかごを手に持って人混みを上手く掻い潜って、会計を待ち望む人々で構成されている小規模の行列の最後尾に着いた、店外は季節柄と日没に伴って低下した気温が肌に涼しく感じられたが、この天井に設けられた蛍光灯たちに照らされている店内は人々の発する体温や運動熱で春先の朝方ぐらいの暖かさにはなっていた、また一人二人と客が入店している入口横に誂えられたショーウィンドーの向こう側では仕事帰りの中年男性や女性であったり、ヘッドライトとテールランプを点灯させた自動車たちが行き交ったりしている、行列の待ち時間をそうして周囲を眺めて観察することで凌いでいると、前方の待機客の人数は残り二人になっておりそろそろ私が会計する順番が回ってきそうであった、硬貨や紙幣を入れた財布を取り出そうとジャケットに手を入れる、幸いなことに求めている金袋はそこに変わらずに収まっていた、購入物の値段を税込みで加算していき、暗算結果として脳内に提示された合計の支払金額にできるだけ近しい金額を持ち前の金銭から用意しておく、そして私が列の最前衛となりそののちに二つある会計卓の内の一つから先客が立ち去って店員が私を呼び込む声が聞こえたので、その手招きに従って私はレジに進んで手に持っていた買い物かごを会計卓の上に載せた、私の売買契約を担当する店員は昼時に応対してくれた彼とは違う方だった、その人は今は隣の会計場で別の客を担当している、そして目の前の店員が私が持ち運んできたすべての商品のバーコードをスキャナーを用いて読み取り終わると、果たしてその金額は私が予測した数値と同じであった、私は店員がその商品群を黒と赤のインクで店名の印字された未晒クラフト紙袋に入れていく間に、卓上に置かれたトレーに指定金額を十の位から切り上げた数値と同値になるように貨幣を置いた、無事に会計は終了し商品を入れた紙袋とお釣りを受け取ったのちに私はすっかり暗い空の下に出るために店の外へと向かおうとした、客人の作り出す流れに逆らわないようにタイミングを見計らっていると背後から肩をそっと数回タップされたことに気づいた、私が振り向くとそこに居たのは壮年の男性で私はその風貌を前にも何処かで見たことが有ったような気がした、瞬間的に私がその既知感の正体を脳内で探っているところで目の前の彼が口を開いた。


 やあ、こんばんはカーソンくん、えっと、申し訳ございません、以前何処かでお会いしたことは覚えているんですが、ははあ、昨日の査問会のことは覚えているかな、あ、あのときの、内部調査課長殿、大変失礼いたしました、いやいや、構わないよ、こんなふうに制服を脱いでしまえば顔なじみでもない限り同じ職員だとは気づけないのも無理はない、それに我々が顔を合わせたのも少しの時間だったし会話を交わしたわけでもないしね、ええ、お気遣い感謝いたします、それで私になにか御用がございますでしょうか、ああ、その件なんだが、これから少し時間を頂きたいんだ、君と話したいことがあってね、もしそれが叶わないならまた後日に予定を回してもいいんだが、いえ、大丈夫です、明日は公休ですし、それでだいぶ食材を買い込んでいたわけだね、ええ、それと明日、個人的にお世話になってる方にご挨拶しに行く予定がございますので、その持参品も合わせて買ったんです、なるほど、気を使わせたようで悪かったね、明日の予定に支障が出ないよう手短にまとめて話すから安心してくれ、重ね重ねお心遣い頂き恐縮です内部調査課長、アゲットでいいよ、所の外でもそんな長く仰々しい役職名と肩書を聞くと息苦しい気分になってしまうな、それに君に名前を覚えてもらういい機会だしね、失礼いたしましたアゲット殿、では行こうか、店の奥を抜けると応接間があるからそこで腰を落ち着けて話そうじゃないか、え、っと、この雑貨店とアゲット殿はどういったお関係であられるのでしょうか、ああ、言ってなかったっけ、ここは私の妹一家が経営してる店でね、店長のカルにはもう会ったかな、あの子が私の姪なんだ、ここは所からも距離が遠くないから私も時折こうして尋ねてきているというわけさ、さ、こっちだ。


 そうアゲット内部調査課長が言って店の奥にある扉の方へと向かったので、私も色とりどりで意匠豊かな包装が配列してある商品棚の合間を縫ってその背中を追った、一体課長は私に何の用があるのだろうか、今回の襲撃事件に関係することだろか、しかしそれらは考えても答えの出ない詮無い事項なのでとにかく私は彼の話を聞いてみる他にないのだ、従業員限定という文字列が印刷された張り紙の貼ってある扉をアゲット課長が開け私もそれに続き内部に足を踏み入れる、そこは在庫や伝票であったり商品管理システムの導入された据え置き型ネット端末が机上に置かれた倉庫兼事務所になっており、その端末の前で椅子に腰掛けて業務に集中していたと思われるカル・セドニー店長がこちらの入室に気が付いた、まずアゲット課長の方に目をやって目礼し、続いてこちらに目をやって少し時間を置いたのちに何かに納得したのか会釈をした、私もそれに応じる、アゲット課長が応接間を少しばかり借りる旨をセドニー店長に伝え、彼女もまたそれを了承したのちにアゲット課長は入ってきた扉とは別に更に二つある扉の内の一方を開けて事務所から奥へと歩みを進めた、そこまで至ると内装は一般住宅と変わらない様子を示していて暗い廊下を壁に取り付けられた壁掛け照明のステンドグラス調シェードを透過した光が照らし、板を綺麗に敷き詰めたフロアリングの床とアザミの葉を参考にしたアカンサス模様の壁紙や腰壁の羽目板の上に、散らした色とりどりの花弁のような光の模様を描き出している、その廊下の我々から向かって左側にある上階へと続く階段とその手すりを横目に一階を歩き続けて、木製で面に抽象的なモチーフの彫られた扉をアゲット課長は開けた、室内に入室するや否や彼は電灯の明かりをつける点滅器を入れたので私が部屋の中に入る前にその内装をアゲット課長の肩越しに伺うことができた、そして課長が内に進むのに私もついていき部屋の中央に設けられた足の短いテーブルを囲むように設置されたソファに腰を下ろすように私は課長に促された、この冷寒期の無彩色地味た町並みと相反するような新緑を思い起こさせる若葉色のカーペットの上の鳥の肝臓や干した鮭の身のように赤い紅色のソファに我々は相対するように腰を下ろした、そしてアゲット課長は一旦立ち上がると部屋の壁際に設置された食器棚の硝子製の引き違い戸を開けて、中から陶磁器だと思われる泥炭色の急須と二つの汲み出し茶碗や茶托を取り出した、それを部屋の中心部にある机の上に置き急須の蓋を開けて茶こしの中に茶葉を入れた、そして卓上に置かれた電源接続済みの電気湯沸かし器から温めたお湯を急須内部に向けて注ぎ室内には温められた茶葉の香り成分が空気中に揮発した結果、まるで雪が溶け空気が湿り気を取り戻した頃に咲いた枝の間から覗く小さい蝋梅の花たちのような乾きつつも少し甘い香気が漂いだしていた、そしてアゲット課長は急須の蓋を閉めて茶葉の成分が湯水に浸透していくのを見守っており、成分の浸出が十分行われたと判断したのか急須の手を持ち胴に片手を触れるか触れないかぐらいの距離に添えた、彼は急須を傾けてその器の口から川辺で採れた翡翠のような濃く不透明で緑色の湯を一方の杯に注ぎ、その六分目ぐらいまでを茶で満たしたのちにもう一方の器にもまたそれを注いだ、そして片方の組み出し湯呑の乗った茶托をこちらへ水面に波紋が立たないぐらいの手際でよこし残ったもう片方を自分の手元へと引き寄せた、私はアゲット課長が先にそれを口に含むのを待とうとも思ったが、先方が合図を出してそう気遣わなくても良いことをこちらに示したので私はそれに対して謝辞の言葉を述べるとともに軽く会釈をし、片手に持った杯を傾けて茶を口に入れた、舌の上に清涼感を持った苦味と甘味が広がりその芳しい香りが鼻腔にも抜けていった、私はそれを器の底が少し浸る程度になるまで飲んだ後に汲み出し茶碗を接触音が立たない程度の慎重さを成立させるために腕力を調節しながら茶托に戻した、そしてそれを目で認めたアゲット課長は、上体を少しばかり前に倒して膝に載せた肘から先にある両手を組ませた後に口を開いた。


 さて、早速だが本題に入ろうと思う、気分は落ち着いたかなパーソン君、はい、お陰様で、お話とはなんでございますか、君は今回市内で起こっている襲撃事件とその実行犯についてどう思っているかな、つまり、彼らはどんな人物で何を目的にこのような行動を起こし続けているのかについて君なりの意見をまず聞かせてほしい、ええっと、そうですね、まず人物像に関してですが、まず彼らが狙っているのは治安維持省の構成員であり、そうではないその他の一般市民を無差別に対象としているわけではないということをふまえると、私達のような構成員あるいは当局に対して怨恨や反抗的な思想を持った人々だと捉えています、なるほど、続けてくれ、はい、また彼らのうちで我々に身柄を拘束されたりもしくは鎮圧の結果死亡した襲撃者たちが皆一様に個人番号収録体内埋込み型電磁タグを体内から何らかの形で摘出していることを踏まえると、おそらくこの機械あるいはその埋め込みを義務化する制度に対して強い不満を彼らが抱いていると思わまれます、あるいはそれはあくまできっかけの一部であって、当局が人民たち全てにその履行を貸している義務たちそのものを改めようとしているのかも知れません、そしてその義務の撤廃及び改正を主眼に武力を用いて圧力をかけることで政治的目標達成を目指す、それこそが今回の襲撃犯たちが行っているテロリズム活動の目的であると私は考えます、いかがでしょうかアゲット殿、そうだね、なかなかに妥当な考察だと私も思うよ、実際いま君が述べてくれたような見解はいま私達が想定しているものとそうずれたところにはない、ところで君はこの事件の始まりはいつ頃からだったと認識しているのかな、そうですね、職員への襲撃自体は今までも散発的に程度の大小はあるものの発生しておりましたが、今回の事件のように共通した目的を持った集団が反抗に及び始めたのは二日前からだと想定しています、それは先程きみが言っていたように個人番号収録体内埋込み型電磁タグの埋め込み義務化や他の制度指定義務に対する実働的な犯行が開始されたのが一昨日ぐらいからだと君は考えていると解釈していいかね、そうですね、いえ、連続的襲撃が始まったのはつい最近からですが、タグ自体への反抗的態度が見られるようになったのはもっと以前からでしたね、つまり、いわゆる闇医者たちが当局の許可無く非合法的に個人番号収録体内埋込み型電磁タグの摘出手術を行っていることを我々が認識し始めたのは、近日よりもより以前からですね、そうだねパーソン君、今から君に話すのはまだ正式には下層職員たちには伝達していないことだ、もちろん中には薄々と察している者たちも居るだろうか、自説を証明する確たる証拠を見つけていないがゆえにその証明を出来ていないだろうな、さて、いま私が君にこういう話をしていることから君も勘付いているとは思うが、この二日間に起きた連続事件とそれ以前から行われていたタグの体外摘出手術およびナチュラリストたちの存在は強い関連性を持っている、襲撃犯と闇医者は水面下である共通目的のもとに手を結んでおり、その勢力はいままでのようには無視できないほどに増大し膨らんでいる、またそれに連接する事項として、きみがこの二日間に彼らから二度も狙われ続けていることにも強く想定される理由がある、え、私には確かな心当たりはございませんが、今から話すのそのことについてなんだよパーソン君、今日きみにお願いしてこうした話し合いの機会を持ってもらったのもそれについてきみに教えておきたかったからだ、そしてそれを聞いた上できみに頼みたいことがあるんだが、まずは先に君が彼らの標的となっている訳を話そう、それはだね、君がジャス・パーソンの兄に他ならないからだよ、えっと、それはつもりどういうことですか、ジャスと彼らとの間には何らかの因縁があって、その火の子が私の方まで飛んできた結果としてこうした延焼が起こっているというわけですか、そういうことだね、ではジャスと彼らはどのようにして関わりを持っていたのですか、ジャス君が牛飼部諜報課に所属する職員だったことはパーソン君、いや、混在するといけないから、カウ君も知っているね、はい、リサーチャーとして職務にあたり活動していたことは存じております、諜報課の任務は自国市民や他国を対象とした情報収集と工作活動なのだが、彼もまた国内の反体制勢力や国外の内陣の様子を探って本国に報告する任についていた、少なくとも始めのうちはね、それはやがてそうではなくなっていったということですか、そうだ、カウ君、ジャス君は二重スパイだったんだ、他国から抜き出した情報をソサイエタスに報告すると同時に、我が国の機密情報を何らかの方法で探り出しては外国に密輸していたんだ、そして近年に入ってから目につくようになった闇医者などを含む不穏分子の出現や結束にもまた、その裏で彼と他国の思惑が関与していたんだ、しかしアゲット内部調査課長、ジャスは個人番号収録体内埋込み型電磁タグを憎悪するナチュラリストたちの活動に巻き込まれる形で、以前に送付されてきたジャスのタグを除いて現在も行方不明になっているのではないですか、だとしたら反政府勢力の設立に携わって育苗していたにもかかわらず、まさにその苗木に絞め殺されてしまったことになるのではありませんか、そうだね、実際そのとおりなのだが、順を追って内実を説明していこう、我が国を支える諜報員の一人としてその職務を遂行していたジャス君はある時、偽装した身分で潜入していた外国政府に身柄を拘束された、その理由はもちろん記者に扮しつつ密偵としても密かに活動していたことを当国政府が認知し、我が国と内通している立場でありながら未公開や機密である国政の内情や研究開発成果を収集していたからだな、そしてある時に、情報を本国へ送信するタスクをその国の政府が雇った内偵に嗅ぎつけられて現場にて拘束された、それ以前からもジャス君の足運びに疑問を呈する声は上がっていたみたいなのだが、確たる証拠が見つからなかったのでそれが判明できるまでは泳がされていたというわけだな、そして拘束された後から、彼は再教育の結果我が国へのエージェントとしても活動する二重スパイへとその役割を変化させたのだ、あるいは本國の体勢を内側から攻撃するための工作に暗躍する地下扇動家としてもね、ここまでは了解できたかなカウ・パーソン君、はいアゲット殿、それではジャスは今も身元を隠しつつも他国のスパイとして我が国で活動しており、その成果が近頃の治安維持省職員への連続襲撃事件として表出しているのでしょうか、いや、表向きではジャス君は行方不明者扱いとされているが、実際のところは上層部だけに周知範囲を抑えている機密情報で、どういうことかというと、ジャス・パーソン諜報課職員は既に死亡している、君の希望を打ち砕くような物言いになってしまい極めて申し訳ないのだがね、な、なるほど、いえ、薄々とその可能性は承知していたものですから私は大丈夫です、それで弟はいかなる理由でどの様な最後を迎えたのかをお伺いしてもよろしいでしょうか、ああ、説明しよう、ジャス君が他国のスパイ、いや、もう君も分かりかけていることかも知れないし国名を伏せる必要など最早ないだろうね、つまり、ジャス君がインディヴィ国とソサイエタス国の二重スパイとして活動するようになってから、おそらく始めの頃はインディヴィに首輪をつけられて傀儡となったものの屈服しきっているわけではなく、我が国に対する忠誠も心の粘土板にはたしかに刻まれているようであった、ただし彼に関する情報については当局とインディビの間で認識度合いに差があったのもまた確実であり、我々は彼が我が国に尽くし他国に潜入する一人のスパイという認識にとどまっていたが、インディビにとって見ればそうではなくて、ジャス・パーソンに対して自国を脅かそうとした不埒な侵入者として捉えて自分たちのために働くように改造し送り出した二重スパイだという事実に基づいた正しい認識を持っていたんだ、そして我々がジャス君についての真相を知ることになったのは、あるときに我が国で活動していた反体制勢力の鎮圧及び無力化の任務を限られた職員たちで実行していたときだった、我がソサイエタス国民すべてに年に数回は開催され必ず受けるように義務付けられている健康診断において、その過程で個人番号収録体内埋込み型電磁タグが確かに内蔵されているかどうかや正常に機能しているかどうかを検査していることはカウ君も知っているね、はいアゲット殿、この調査を終えれば当然、各国民の身体情報とともにその行方も当局は把握することができるわけだ、そしてその際にタグを体内に入れていることは必須の条件であり、逆に言えば健康診断の義務を履行しなかった国民は何らかの行かれない理由があると考えられる、そしてもし仮に何らかの正当な理由があった場合は遠慮なく申し出てくるだろうから、この義務を守らなかった者たちの中には政府に顔向けできない何か臆するような状況に身をおいていると推測できる、そして我々は実際に国家主催の健康診断に参加しなかった者たちをリストアップし、その中から、以前より職員たちを介して収集している国民情報を参照しつつ反政府的な思想や活動に身をおいていると思われるものたちに焦点を絞って、諜報課の構成員にその実態を探らせた、そして国内のある地区の建物がその勢力の一部に根城や集会場として使われているということを、周辺住民からの密告や職員がつきっきりで行っていた見張りから突き止めることが出来たので、我々は彼らに気取られないようにしつつも入念に準備し体制を整えて、そして決行日である或日にその建築物の内部に火器や防護服などで武装した選抜職員たちが突入した、そして反体制的勢力の潜伏しているアジトの内部に乗り込みその場の制圧を試みた突入部隊は、主だった反撃を受けることもなく無事に被疑者たちの身柄を拘束することに成功した、そして君が察している通り、ジャス・パーソン諜報課職員もそこに混じっていたというわけだ、そして突入職員たちを除くジャスも含めてその場にいた全ての人間を不穏分子と仮定した上で逮捕し、支部所の留置施設に連行した、取り調べで分かったことを述べるとすると、まずその秘密組織に集っていた面々にはソサイエタス国民だけではなくインディヴィ国から入ってきた者たちもいた、あるものは我が国の正式な入国手続を通して許可を得たものも居たし、あるいはそうではない不法入国者たちも一部には混じっていた、インディヴィからやってきたもののうちでその勢力に属していた者たちが役割として担っていたのは、我が国民への教化や武器の提供と医療や食料供給を踏まえたバックアップだった、そして彼らの入国や活動を円滑に行えるように導いたり手助けしていたのが、まさにジャス・パーソン職員だったわけだね、さて、少し休憩しようか、申し訳ないがまだもう少し話は続くのだが、時間に関しては大丈夫かね、はい、はい、問題ありません、そうか。


 そう言ってアゲット内部調査課長は一旦話を中断して、茶壺の中に残っている既に冷めてぬるくなったお茶を茶盤代わりの硝子茶碗に注ぎ捨てた、そして再び卓上給湯器からお湯を急須に落とし入れてしばらくしたのちに私達それぞれの汲み出し茶碗にお茶を注いだ、その色合いは一杯目に注がれたものと比べても遜色ない濃さと香りを保っていて、茶托に乗った器を手に持って口縁部に唇をつけたのちに口を潤すと舌に広がるその味わいと鼻腔に抜けた香りもまた先程私が経験したものと変わりはなかった、汲出茶碗を茶皿の上に戻したのちに、私は先ほど確認した左腕の手首に巻き付けた腕時計の長針と短針や秒針の示している時刻を再度確認する、体感上感じていた体内時間とは打って変わって、私の予測を裏切るようにここに訪れてからまだ四半刻強しか時は流れていなかった、この調子で話し合いが進むと仮定するならばおそらく明日に約束されているバルトやその父との対面にも支障なく出席できるだろう、この応接間の天井中央から吊るされているシャンデリアの各腕木の先端に着いている電気灯芯はおそらく合成樹脂製の球体型シェードに包まれていて、その半透明の覆いを透過してきたペンダントランプの放つ光が室内を構成する芝生色の敷物や紅を反射するソファと低彩度でシックな色合いの食器棚や私達を拡散気味に照らしている、そしてアゲット課長は口を開いた。


 さて、話を続けるとしよう、先程は君の弟君であるジャス・パーソンを含む反体制勢力を我々が捕らえて、その身柄を拘束したのちに彼らに対して取り調べを行っていたところまでを話し終えたところだったね、はいそうですアゲット殿、ではその後の成り行きを話そう、その組織に所属していたすべての構成員に共通していた信念が存在していることを我々は彼らの供述から確認することができた、それは我が国の政府やその運営と法制度に対する抜本的かつ急進的な改革を目標とした強い志だった、その矛先は例えば個人番号収録体内埋込み型電磁タグであったりあるいは人間学習であったり多様な目標を狙っていた、そしてソサイエタス政府とその行政機関への憎悪で燃やした炎は今もなお消火されることなくこの国のあちこちでくすぶり続けていて、昨今に目立ってきた治安維持省職員に対する襲撃事案に関してもまたその灯火が地表に現れたということなのだ、先程私が話したようにカウ君が彼らに具体的な標的として選択されている理由の一つはジャス諜報員が君の弟だからだ、さらになぜ彼らが自らの組織に味方していた人物の近親者に対して銃口を向けているのかというと、彼らはある思い違いをしているからだ、つまり、ジャス・パーソン諜報員が二重スパイという立場でありながらその身の上の保身を図り、反政府勢力の拠点や構成員の情報を我がソサイエタス政府に内通させた、だからあのとき我々反政府組織の一部の居場所が当局に割れて逮捕及び収監されるに至ったのだとね、しかしアゲット殿、今までは彼らとともに弟はその目標を同じくして活動をともに行ってきていたわけでしょう、それなのにそんな浅慮な判断をするものでしょうか、まあカウ君がそう考える気持ちも私にはわかる、だが事実としてジャス君が逮捕されそして死亡したそれ以降に身柄を拘束された反体制派組織構成員からの供述に寄ると、彼らは君の弟が組織ひいてはインディヴィを裏切った背信者として位置づけられている、そして組織が被った被害に対する彼らなりの報復として襲撃目標の選択に君に白羽の矢が立ったというわけだ、ここまでは納得できたかねカウ職員、はいアゲット殿、それでジャスに関しましてはそれ以降どのように扱われたのでしょうか、この件に関してはジャス・パーソンが治安維持省職員であったがゆえに、牛飼部そのものとしてもその扱いには熟慮する必要があった、そしてその上層部や内部調査課を交えた長い議論の結論として、ジャス・パーソン牛飼部諜報課職員を内々で秘密裏に処理する運びに決定された、その後のことに関しては一部を運転課のジカ君の口から君も聞いているんじゃないかね、ということは、やはりジャスは当局によって秘密裏に処刑され、その手法はピカイアを用いた喰殺刑だったということですね、それは一部正しい、正確に言えば銃殺ののちに流出した彼の血液を少量採取してからピカイアにそのオブジェクトを処理させたのだ、今の所ピカイアたちは生体を摂食対象に選ばないように遺伝的制御を施されてるからね、ジャスの死体が見つからない理由は把握できました、骨すら食すピカイアの去った食卓には唯一彼らの消化できない個人番号収録体内埋込み型電磁タグとそれを包むガラスコーティングだけが食べ残されたというわけですね、そうだ、そしてそれに先程取っておいた本人の血液に潜らせて纏わせたものを合成樹脂製の袋に封入して、当局の自作自演としてそれを反体制派勢力から我々へと郵便を介して送り届けられたものだと偽装したのだ、君からしてみるとこの行いは、人死を弄んだことへの怒りを抑えられないぐらい非情かつ冷酷な所業だと見なされるかも知れないが、確かにそれは倫理的観点から見ても十分理解できる情動反応なのだが、しかしながらこの事態への苦肉の対応策として考案された中では、この選択肢が一番我が国の行政や支持基盤に悪影響を呼ぼす恐れの少ないものだったのだ、考えても見給え、もし仮に体制を支え国家とその人民を守るためにに働く使命を持ったジャス君が、しかし却って他国に味方し我が国を貶めようとした事実が市民に露見したときのことを、あるいは、行政と国家運営に直接的であれ間接的にであれ携わる職員同士が互いに争い同士討ちをする、それを見て我が国の政治形態に疑問を持つ芽が生まれ、更にはインディヴィを始めとする外国への理想を膨らませてそのあり方を我が国に適用しようとする思想が生まれてしまうことを、これらの懸念をどうにか拭い去り、あくまでこれは取るに足らない小規模の事象だと職員や市民たちの通念にしてもらうためにも、このようなシナリオを描き周知させねばならなかったのだよ、ここまでは納得してもらえたかなカウ君、はい、承知いたしましたアゲット殿、では最後の話に移っていこう、これからの話しだ、先程この話し合いが始まってすぐの頃に、君に対して話を聞いた上で頼みたいことがあると伝えていたね、覚えているかな、はい、覚えていますアゲット殿、それについて今から君に語ろうと思う、今はまだ計画の構想と立案や検証段階に留まっているものの、近々今話題にも上がっていた反体制的勢力の一掃作戦を開始すると当局は決定した、そしてその浄化作戦に君も一員として参加してほしいのだ、それはつまり、先にアゲット課長が述べられたような諜報課職員たちで構成された敵対勢力鎮圧部隊に私も混じるということでしょうか、そうだ、正確に言うと今回の場合は広範囲かつ大人数に職員を配置させなければならない都合上、諜報課の一部だけではその人数を十分に満たすことが出来ないので、それを補う形で他課の職員からも選抜する形で部隊を作り上げる必要があった、だから今君にもこうして召集を呼びかけて参加を請うている、しかし君に勧誘を申し出ている理由はそれだけではない、実のところ先に述べた君の弟であるジャス・パーソンが反政府思想に染まりソサイエタスに反旗を翻したことを鑑みて、上層部の一部役員の中には君に対する心象というか警戒度合いをそれに引きずられる形で悪化させている者たちも居る、あるいはもしジャス諜報員が起こしてあの事件の顛末と真相が何らかの形で職員の間に漏れ出した場合、なおのこと君の立場が悪化することは想像に難くない、今回私が君に本作戦への参加を勧めているその訳とは、君の近親者であり身内でもある弟君が扇動したこの騒動の終結に君も協力したという周囲の納得できる論理が立てば、君の立場を良くしないことが予想される両方の懸念を払拭することができるからだ、どうかな、願わくばジャス君、君にも手伝っていただきたい、この国とそして何よりも君自身を救うためにも、お心遣い感謝いたしますアゲット内部調査課長殿、是非その作戦に私も参加させてください、よろしくお願いいたします、そうか、協力してくれるか、こちらこそありがたい、君の活躍を期待しているよ、話は以上になる、長々と引きとどめてしまって悪かったね、明日の予定には支障はなさそうかな、はい、問題ございませんアゲット殿、それはよかった、では、正式な召集伝令については後日君たちが所属する牛飼課のほうから下されるだろう、それについてまたなにか疑問点などがあったら遠慮なく私にも相談の声をかけてくれても構わない、これが連絡先だ、それでは話し合いを終えようか、今日は付き合ってくれたありがとう、有意義に言葉をかわすことが出来てよかったよ、こちらこそ内部事情に至るまでご教示頂き光栄でありました、それでは失礼いたします、それはよかった、店の外まで送ってくよ。


 そう言ってアゲット課長は座っていたソファから腰を上げて応接間の出入り口まで歩き出したので、私もそれに応ずるように部屋の中心には小された脚の低いテーブルと血のように赤い色のソファの土台の隙間を通り抜けた、そしてアゲット課長の案内に従って応接間に来るまでに辿った道のりを逆方向になぞっていった、ステンドグラスにも似た色付きの破片で構成されたシェードを付けたブラケットライトに彩られた光が投射されている廊下を通り、据え置き型ネット端末の前で業務を行っているカル・セドニー店長に別れの挨拶をしつつ倉庫兼事務所を抜けて、そろそろ閉店間際なのか先程私がいたときよりも客の数が少なくなっているラーゲリー・グローサリーの店内を歩き切り、そしてアゲット課長が開けてくださった雑貨店の押し戸から店外へと繰り出した、送迎なさってくれたアゲット課長に再び別れの挨拶をしたのちに、私は食料品や香辛料と缶入りチョコレートの入った未晒クラフト紙製の手提げ袋とともに夜の市街へと一歩を踏み出した、歩道と車道を照らす街灯の連なりが通行者に歩むべき方位を示す道標となっているので私は暗がりに迷い込むことなく窪んだ地面の穴ぼこにつまずくこともなくこの道を歩んでいけている、空には明度を下げた大理石のように雲と宇宙が模様を描いてておりその灰色の綿の底面は街の明かりに照らされて明るい、その夜光雲の手前と奥にはそれぞれ光球が輝いていて、前者は街灯と建物より漏れいづる所の明かりであり後者は月であった、私は彼らがその光で浮かび上がらせるセメントや砂と小石でできたインターロッキングブロックを敷き詰めた街路を進む、歩道の傍では色とりどりに光るヘッドライトやテールランプを点けた自動車たちが前方から後方へと向かったりもしくはその逆を走ったりしており、彼らが発するそのエンジン音やタイヤと路面がこすれあう摩擦音が私に近づくにつれてその音量を大きくする、そしてついにすれ違って山の頂点に達した後は徐々に鼓膜を震わせる振動はその力を弱くしていき、しかし視界から走行車の影が消えた後も未だしばらくは街の外壁に反射したこだまが都市に残響していた、信号が青色ランプを灯していたので私は横断歩道を渡りしばらく脳内地図と記憶や勘を頼りに帰り道を進んだ、そして我が住処をその内部に含んでいる官舎団地に足を踏み入れてすっかり葉の落ちきった落葉樹たちが却って冬期らしい景観を作り上げているその植栽に開かれた道を辿る、数ある棟の中から自宅の入っている家屋を見つけ出したのちに私は入り口の自動開閉扉をくぐってその棟内に足を踏み入れた、自分宛ての郵便物が入っていないかどうかをエントランスホールに設けられた郵便受けの中を探って確かめてみたが昨日と同じように変わりなくその蓋を開けた箱の中身は空洞だった、私はその小扉を閉めて鍵をかけて施錠したのちにゴムノキが壁際に並んでいるエントランスホールを通り抜けてエレベーターに向かいそこに乗り込んだ、自宅のある階数と同じ数字が記してある合成樹脂製のボタンを操作盤の上から探し出した後にそれを押した、ロープがかごを巻き上げてくれるおかげで鉄道を使う近代の旅人のように私は体を動かすことなく上方へと移動できる、そして無事に目的の階にたどり着いた私はその真ん中から開いたドアをまたいで昇降機から外廊下に降り立った、天井の安全灯が夜間の外出者に足元を視認できるように保証しており私もまたその恩恵に預かる幸運に恵まれた一人だった、今回は廊下の脇に設けられた側溝に迷い込んだ落ち葉を一つも見つけることは出来なかった、手すり壁から向こう側に見える別棟と樹木たちは階下に見える照明灯たちに照らされてその影を官舎の外壁に投影していたものの、しかし木に見いだせるものは幹と樹肌や枝ばかりであり未だに葉柄脱離せぬものは最早存在しなかった、彼らによって生み出された栄養や資源は今や幹と根に蓄えられるところとなっており、その貯蓄と生産に貢献した者たちはお役御免とばかりに切り捨てられていった、試練の時節となればタダ飯ぐらいを養っておく余力は残っておらずしかして彼らは大地を床にして伏していったのだ、しかし彼らの遺骸は風雨にさらされ続けるにとどまっておりその硬い地面に分解者たちが不在であるゆえにただ色ばかりが抜けていく、そしてほつれてボロボロになった衣が風に乗りもはや残るのは骨ばかりとなっていた、その残骸である葉脈たちが塵のように積もった階下から目を話した私は自宅へと通じる道の境界を塞ぐ扉の前まで来てその施錠を解錠した後に、玄関に敷かれた石畳に脚を踏み込んで帰宅した、私は土間で靴を脱いで上り框をまたいで廊下へと至り、リビングルームの椅子の上に通勤バッグを載せたのちに先程の夕方から夜にかけて購入していたオートミールや香辛料などをキッチンの戸棚の中へと仕舞っていった、贈答品用の包装を施されたチョコレート缶に関しては明日に予定されているバルトの父とのお目見得に持参するのを忘れないようにリビングの壁際に設置してあるキャビネットの天板の上に視認しやすいように置いた、私は天板の上に置いてある置き時計の針たちに目をやり時間帯を確認しつつもまだ食べてないない夕食を摂るべきかどうかを考えた、そして入眠時の寝付きが悪くならない程度に少ない量だけを腹に入れておこうと考えて、リビングに配置されたテーブルの卓上に置かれている電気湯沸かし器を手に持ってキッチンのシンクへと向かい、その蓋を開けたポッドにハンドルを押して吐水口から出てきた水道水を器の内部壁面に線で引かれた規定量まで注いだ、その水で満たされているポッドを手に持った私はリビングへと戻りテーブルの卓上に置かれた電源プレートの上に電気ポッドの本体を接続した、内蔵された電熱線で中の未だに冷たい水道水を温めていき、湧き上がったお湯を私はクイックミールを盛った白く滑らかに蛍光灯の光を反射する陶磁器の器に注いだ、そのお湯に温められた加工済みのオート麦から香り成分がリビングルームの空間に揮発していき私の鼻腔内にも入ってきたその香気は麦独特の香りを私の脳に知覚させた、優れた者たちはみな逝ってしまってあとに残されたのは私ただ一人となってしまった緑豊かな郊外のようなその香りを嗅いだものは、たとえ私ほどには感傷深くなりはせぬもののそこに落ち着きとやすらぎを見いだせるのではないかと思った、しかして私はそのふやかされた麦粥にチューブから絞った豚脂を竹匙で混ぜ込んだののちに、指と指で挟み込むようにして持ったスプーンのつぼに適量の粥をすくい取ったのちに肘と肩を曲げてそれを口元まで運んだ、それが口内や消化管をやけどさせるほどの温度を持っていないことを唇に触れさせて検証し、それからそれを口腔に投入した、もっちりとしてまとまりのある舌触りの中にかすかな筋っぽさと粒立ちが混ざっておりそれが刺激にコントラストを付けることで単調かつ飽きやすい食べ心地になるのを防いでいる、調味料や香辛料は加えていないのででんぷん質特有のかろうじて感じられるぐらいの甘みを味覚として感じるものの、加え入れたラードの油分が食べごたえがあり満足感を得られる味わいに仕立て上げており、またそのホットミルクにも似た香りが摂食者の心に平穏をもたらすことに貢献した、見込み全体が見えるほどまでに脂粥を食べ終えたのちに今度はその器にティーパックを入れて再びそこに向かって卓上の湯沸かし器の出湯口から温水をつぎ込んだ、茶葉が熱せられたことで香り成分の空気中への揮発が促進されリビングルーム内に伸びやかな香りが広がっていく、今私の目の前にある卓上に乗っているこの器は口が広いのでよそわれた食品が比較的冷めやすい、食べ物と大気の接触面の表面積が口の狭い器に盛ったときよりも大きくなるからその分水分が気化する際に周囲から奪い取っていく吸収熱が時間当たりで多くなるのだ、だからこうして茶碗に注いでから一分も立てばお茶は消化管と舌にやけどを負わせない程度の温かさまで水温を下げる、そうして私は体内温度よりも少し高い程度にまで冷えたお茶を口に含んだ、舌体には透き通るようなまろやかさを感じさせ、また飲み下せば舌根に少しの渋みと深みを味合わせる複雑な後味が私の味覚に入力された、私は味見用に買ったチョコレート缶を開けて二粒ほどつまんで口に入れてその味を確かめてみた、うん、美味しいから大丈夫そうだ、缶の蓋を締めて茶を飲み終わった私は食器の後片付けをして入浴や歯磨きと排泄や着替えを済ませてから部屋の照明を消灯して寝室に向かった、そしてシーツを被せられるようにして包まれたマットレスの上に横になり枕を後頭部のちょうどよい位置に来るように調整して、睡眠を妨げる体の冷えを予防するために掛け布団を肩まで引き寄せて覆う、寝台の横に設置されているキャビネットからアイマスクとタオルを取り出し、それぞれ頭頂部から通して額に付けたり入眠を促進させるために口元に触れさせたりした、そしてキャビネットの天板に置かれたベッドサイドランプの橙色した明かりも消して私は睡眠体制に入った、寝室の壁に開けられた窓の手前に取り付けられたカーテンレールから降ろされた二枚の帳の間にはかすかに隙間が空いていて、夜空の青い光がガラスとレースを透過して拡散した光線が室内を仄かに明るくおぼろげに照らす、天井のシーリングライトのその滑らかな稜線が境界線となって、遮られた光がその横にソフトシャドウを形成しているのが見て取れる、そのにじむような影のように私の思考も徐々に曖昧となっていき、しかして私はおでこに取り付けていたアイマスクを目元までずり下げて視界を覆い、まぶたすら黒く見えるほどの視界の闇を眺めながら意識を頭蓋と脳の中心部に吸い込ませていった、夢に至るときにはいつもまず体が動かなくなる金縛りに苛まれるが、恐れをなしているその間にもその道程は続いているのでやがて意識の消失と無意識の台頭する段階まで至ればその恐怖を感じることすらなくなることを経験的に知っていた私は今回もその睡眠麻痺に対して諦観とともにやり過ごす姿勢をとったのだった。


 そして灰色の岩の庭に置かれている一つの石を加工したスツールの上に私は腰掛けていた、上空から見ると周囲は何処までも曇り空のよう白く影は薄れ絶え間なく続く石畳の平野とそこに林立する壁、さらにその上に載せられた屋根に至るまで石と岩でできている、それはさながら牛頭の怪物の住む迷宮のようでありしかしそこにあるはずの暴虐の嵐は既に過ぎ去っていた、あとに残されたのがこの周囲を拒む広大な島とその上の構造物であったというわけだ、壁と壁の間を吹き抜けるそよ風が肌に心地よく、巾木のない壁と床の境界に居ると落ち着くのか歩き周っているとちょくちょくその辺りにピカイアたちが這いつくばってじっとしている、この滅びた迷宮の地図を作るために私はそこを彷徨いながら距離と角度を暗算して計測する、この辺りにちょっとして空き地が会ったことを思い出した私はそこに至るために数本の通路を渡り数個の角を曲がった、最後の角を曲がると眼前には歩行時間にして数分ほどでたどり着ける辺りからそのさらに置くまで広場が設けられていることが見て取れたので、私は自分の頭の中の脳内地図に誤りがなかったことを密かに誇らしげに思いつつその道を真っ直ぐに進んでいった、視覚の左右に圧迫感を与えていた両側の壁がそこで直角に曲がることで途絶えており、そこから先はただだだっ広い石組みの床が林の中の空き地のように敷かれている、私の記憶が確かならこの迷宮の中には他にも似たようなギャップが妖精輪環のように点在している、そこにあるのは大抵の場合利用方法の分からない人工物が打ち捨てられていたり、さもなくばここに足を踏み入れた私が視認しているようにかつては生きていたであろう生物たちが残していった内外問わない骨格が丘のように積まれていたりするのだ、皆が自然に死んでいったとしたらこうして一箇所に集められて積み上げたような有様にはならないだろうから、何者かが何らかの目的でこの広場に何処かに打ち捨てられていた骨という骨をかき集めたのだろう、あるいは生前の牛頭がその生涯のうちに喰らい尽くした食材の残滓かもしれない、だとしたら大した健啖家だと認められるがそもそも人間だって生涯のうちにこれくらいの量の動植物を食らってその糧とし最後には排便しているのかも知れない、そう考えてみると目の前の肋骨や大腿骨にも親近感が湧いてくるような気がした、ふと気がつくとそこに一匹のピカイアがやってきた、そういえば彼らは骨を食べることができることに気がついて、今回もまたこの山のように積まれたリン酸カルシウムを体内に取り込むためにやって来たに違いないと私は思った、しかし彼は私の思惑に反して白い色をした板や棒を体に取り込む素振りを見せず、ただただ浜辺に流れ着いた流木のように白く積み重なった骨の前でずっとうずくまるばかりであった、やがていつものように彼の身体が溶け出して石畳の上には大きな水たまりができると共にその中心には一本の背骨だけが残されていた、ふと気がつくと広場の辺りには先ほどの彼らと同じようにピカイヤたちが集まってきていて決まりきった儀式の作法のように皆々同じようにその場でドロドロに崩れていった、やがて灰色の空はさらに暗くなり始め土や岩の湿った匂いが鼻に吸入された空気に混じってきたかと思うと、雲は何の感情に反応したのか雨粒を落とし始めその生ぬるい涙が私の体に打ち付けていった、降りしきる雨粒たちは既にあった水たまりと合流して小さな池となって、さらにその間が川と言う線で結ばれていって終には広場全域に大きな湖が出来上がった、その湖の底に足をつけながら私は湖面に写る白い山とそこに浮かぶ白い丸太船たちを眺めていた、最初のうちは水が広場につながる通路に流れ込んでいたので湖の深さがこれ以上大きくなることはなかった、しかし時間が経過し雨が降り続けるにつれてこの迷宮全体に雨が降っているがゆえに湖と川を結んだ総体としての水量は増していき水かさは今にも肩の上に達しそうな勢いだった、私は溺れないように既に死した骸の山の上に登ろうとしてそこに足をかけると、中には風化して脆くなっている骸があったり骨同士がうまく組み合わさっていなかったりあるいは遺骸の間に隙間があったりして総評するととても歩きにくかった、しかしなんとか溺れる前に山の上に登り切って死んでいった者たちが山のように積み重なった丘の上から辺りを見回した、今や壁や天井の上面が湖の上に橋のように伸びて渡されておりそれはさながら壁のない迷路のようであった、次第に雲は雨を降らせるのを止めて再び以前よりも少し明るい曇り空が空にまた戻ってきた、湖面に鏡のように反射する空の陰りはさざ波によって刻まれてその鏡の像がちらつくように揺らいでいる、そのランダムなようで周期的な水面のパターンに見とれていた私は、やがて周囲に光が見えてきたことに夢の終わりを知れる、あるいはそれよりも前にそもそもここが現実ではなかったことには気が付いていた、この浮遊感と寂静に別れを告げることが残念で仕方なく名残惜しい、しかしいつかは誰しもが夢から覚醒し再び脳みその内側ではなくその外側に広がっている実世界で生存を試みなければならない、この連綿と続いてきた生存の糸の最先端が私であり、その後方にある死者たちが擦り合ってぶつかり合うカタカタという乾いた音がこの空の下にも聞こえるような気がした、しかし或いはそれは幻聴かもしれない、なぜなら今や彼らは目に見えない水面下に積もり積もっているのだから、そして幻は元来た箱の中にしまわれ、それと共に私の意識もまたそこに吸い込まれていった。

〈続〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る