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遠野さんは、最初僕らに伝えてくれていた時間丁度に来てくれた。随分走ったらしく、肩で息をしている。
「お待たせしてすみませんでした」
僕が応えるより先に、ボスがにこやかに言った。
「好きなもの選べ。幸太郎の奢りだ。全部な」
そんな殺生な。遠野さんの分はともかく……しかしボスは『断るわけないよな?』という顔で、僕を横目で見る。
「か、かわいそうですよ。幸太郎さんはアルバイトでしょう? ――まさか普段から奢りを強要したりしてませんよね? 幸太郎さんは口下手だから、上手く断れないのを利用したりして……」
「トオノ、すっかり幸太郎の保護者だな。心配するな。たんまり給料をやって、たまにこうしてタカるくらいだ。――何より幸太郎は今日からうちの社員だからな」
社員? 耳慣れない言葉に思わず首を傾げた。
「祐奈は未来ある大学生、十文字は作家の卵。だから、私と幸太郎、二人の泥(どろ)舟(ぶね)だ」
秋月さんも十文字もすでに知っていたらしく、驚く様子はない。十文字が僕の背中をとんと叩き「がんばってね」と微笑んだ。他人事だと思って、こいつ。
「社員……なら、安心、です。多分。幸太郎さん、パワハラなどの目に遭ったら、然るべき機関に相談するんですよ。わからなかったら僕を頼ってくれてもいい」
秋月さんは「おまわりさんめっちゃ過保護じゃん」と苦笑している。
「トオノも、警察官が嫌になればうちに来ればいい。もちろん十文字も祐奈も。泥舟に乗ったつもりでうちで社員として働いてくれ」
大船だったら良いのになあ。
「私はずっと警察官として、あなたたちのような市民を……危なっかしい人たちも、みんなまとめて、守り続けますよ」
一方の遠野さんは大船だ。いっそ大阪に移住したくなるほどの安心感。この数ヶ月の僕の保護者。
「遠野さん。本当にありがとうございました」
「いえ、勤めを果たしたまでですから」
「――そういえば一つ疑問なんですけど」
遠野さんとの思い出を辿り、一つ浮かんだ疑問。
「下着泥棒を捕まえたいって僕が言ったとき、どうして協力してくださったんですか? どう考えても怪しかったですよね」
実際、最初は信じてもらえず突っぱねられた。僕ごときが悪さを企んでいようと、かえって出し抜けると思われたのだろうか――そうだとするとちょっと悲しいけど、可能性は高い。
「幸太郎さんが嘘をつけるタイプだとは思わなかったので。いや、あんなの誰が見ても思うでしょう。嘘をつく器用さなんて、微塵も持ち合わせていない」
十文字は笑ってコーヒーを吹き出しそうになっている。器用に言葉を繰り出す十文字には、僕の苦労は分かるまい。
「幸太郎さんがまっすぐな目をしていたから、信じるよりほかなかったんですよ」
「確かに幸太郎くんはとってもまっすぐで正直者ですよね。そういうところが、ボスと合うんでしょうね」
ボスはムスッとして「用件は伝え終わったのか」と睨んでくる。
「そうですね。みなさん、早く帰らないと。東京に着く頃にはもう夜中ですよ」
残りのコーヒーを飲み干したボスが伝票を左手に取り、それから遠野さんに右手を差し出した。
「うちの幸太郎が世話になった」
遠野さんは応えるようにゴツゴツした手を差し出し、握手した。
「こちらこそ。ありがとうございました」
地下駐車場は春だというのにかなり冷えている。ふと思いついて、僕は財布をポケットから取り出した。奥にしまい込んだ、旅の思い出。
「これ、げんきの湯の回数券です。良かったら、遠野さん、使ってください」
「いいんですか。ありがとうございます。気になってたんですよね、ここ」
「サウナが充実していて、最高ですよ」
「次の非番にでも行こうかな。――では、お気をつけて。今度こそ『ぴゅあます』のお話をしましょうね」
「はい、是非」
僕は頭を下げ、それからボスたちが待つジャガーMk2に乗り込む。
地上。今朝は気付かなかったけれど、桜の蕾が綻びはじめている。
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