30

 ようやく見慣れてきた高級ホテルとも、もうお別れだ。あと何年、いや何十年も足を踏み入れない気がする。僕も経費で高級ホテルに泊まりたかった。自腹のドヤも、悪くはなかったけれど。

「大阪出張もいよいよ終わりだねえ」

「あーあ、幸太郎が逃げ出さずに、大阪出張なんてしなければ彼氏に浮気なんてされなかったのになあ。――なんてね。浮気するやつは遅かれ早かれするもん。……最後にあいつのインスタ荒らしてやる……」

 ボスは会話には入らず、電話したりパソコンとにらめっこしたりと忙しそうにしている。

「にしても大原さん、さすがだったねー。いつもクライシス・シゲの撮影用メイクと加工で顔は見慣れてるんだけど。まさかあんな塀を軽々と飛び越えて、中から門開けちゃうんだもん」

「撮影? どういうことですか?」

「あれ、十文字と幸太郎は知らないんだっけ? 大原さん、『クライシス・シゲ』って名前でYoutuberしてるんだけど、私がメイクと動画編集担当してるの。意外とためになるから見てね」

「意外と、は余計だなあ」

 いつからいたのだろう。大原さんはいつも忍のようにいきなり現れる。ちょっと怖い。

「幸太郎、いま『大原さんはいつも忍者みたいでかっこいいなあ』って思っただろう?」

「思ってません」

「なに、嘘をつかなくたって顔を見ればわかる。傭兵時代は『ニンジャ・シゲ』と呼ばれていたものよ。人間には隙(すき)が存在する。その隙はじっくり相手を見れば必ずわかる。ニンジャ・シゲには、人の隙もその人となりも思考もなにもかも全てお見通しというわけだな」

「いや、だから、思ってませんって」

高級そうなワインを朝からラッパ飲みしてごきげんな大原さん。さっきまで褒めていた秋月さんも、既に聞いていない様子だ。僕も放っておこう。

「あの、ボス」

「なんだ」

「色々とお助けいただいて、ありがとうございました」

 ボスはソファにどっかり座って、スマホを眺めている。僕は所在なく、窓辺の簡易ベッドに浅く腰掛けた。

「大阪、楽しかったな」

「え?」

 聞き返してもボスは何も言ってくれない。ボスの斜め後ろに座る僕には表情も見えず、しばらく僕一人が気まずさを覚える空気が続く。

「はじめる。『幸運(こううん)の湯(ゆ)』」

「え?」

 今度はもう少し強めに聞き返したためか、ボスはもう一度言った。振り向いて、僕を真っ直ぐ見据えて。

「温泉を作ろう。入ったら幸せになれる温泉、『幸運の湯』」

「温泉、ですか」

「そうだ」

「石はもういいんですか?」

「重いからな。石」

 ボスはあっさり答えて、再び前を向く。

 一体どういう――いや、ボスが決めたことだ。聞いたところで理解できる答えが得られるわけでもないだろう。それに、ボスが飽きるか、成功するまで、誰にも止めることはできない。


 酔っ払いの大原さんは駅弁だビールだとか言いながら、新幹線で一人さっさと帰ってしまった。

 もはや倒れてきそうなほど聳(そび)え立つビル群の合間を、縫うように走る。「ドライブにはこれだろ」とボスが流す音楽は、洋楽ばかりでよくわからないけど、どれもアップテンポで爽快な気分になる。

――あ、この曲は知ってる。ブルーノ・マーズだ。高校の英語の授業で、先生の趣味の延長みたいな感じで教わった曲だ。歌詞を印刷したプリントが頭の中に浮かび上がる。アイムトゥーホット、ホットダム、コールド・ア・ポリス、アンド・ア・ファイアマン。

……大事なことを忘れていた。

「ボス、すみません。ちょっと降ろしてください。やっぱ僕、あとから夜行バスで帰ります」

「何の用だ」

 ルームミラー越しにボスに睨まれる。逃亡の前科がある僕は簡単に信用してもらえないらしい。なんとなく気恥ずかしいが、正直に答える他ない。

「遠野さんに、ご挨拶をしてなくて。あの、まだお仕事中かもしれませんし、時間がかかるかもしれないので、ボスたちには先に帰っててもらおうかと……」

「なんだ、そんなことか。だったら私達も一緒に行こう」

 意外な反応だ。けれども確かに遠野さんのことを仲間と連呼していたボスだ。一緒に挨拶をしてくれるのだろう。

「ポリスと仲良くしておけば、後々都合がいいかもしれないからな」

 あぁ、これでこそボスだ。


 ラインを送ると、一時間ほどで返信が来た。身体が空くまであと二時間ほどかかるとのこと。

 なんばパークスの駐車場に車を停めてもらった。甘いものが食べたいと言う秋月さんのリクエストに応えて、美味しいケーキのお店を紹介する。

「ケーキはもちろんなんですけど、ここの生クリーム、めちゃくちゃ美味しいんですよ」

 目の前に運ばれるチーズケーキ。ぺったりつややかな薄黄色と、添えられたふわふわの白が綺麗だ。

「あれ? 幸太郎、生クリーム苦手じゃなかった? っていうか、甘いもの自体そんな好きじゃないって言ってたじゃん」

「目覚めたんです」

「ふぅん? んー、めっちゃ美味しいね、これ」

 チーズケーキにフォークを入れる。下のクッキー生地に一瞬阻まれるが、少し押し込むとさっくり切れた。口に運ぶと濃いチーズの香りが鼻を抜ける。柔らかいながらもねっとりした食感に、ホロホロのクッキーが混ざり合う。添えられた生クリームもあっさりしていて美味しい。

 そういえば、こうやってケーキを食べることも今までの人生で滅多になかったかもしれない。子どもの頃に誕生日やクリスマスにショートケーキを買ってもらって食べていた時期もあるが、両親は「大人になると、甘いものはいらなくなるの」と言って、僕の分しか用意しなかった。

 大人の仲間入りを早くしたかったのか、両親への遠慮からか、今となってはもうわからないけど、僕はいつしか甘いものを避けるようになっていた。

 家族には、美味しいケーキをお土産に買って帰ろう。

「――美味しいね。何だか懐かしい感じがするよ……たまには実家に帰ろうかな。好き放題させてもらっていることに、改めて感謝しないと」

「実家の話なんて珍しいですね。いきなりどうしたんですか?」

「警察署で〝あの人〟のこと聞いて……ちょっとね」

 十文字は滅多に見せないような辛気臭い顔をしている。

「二歳上のお兄さんと比べると出来があまりよくなくて、ことあるごとにお父さんやお母さんから暴力を受けていたみたいなんだ。彼が中学生になって柔道部に入部して……それからの彼の成功体験が強烈だったらしい。劣等感の対象のお兄さんよりも体が大きくなり、両親からの暴力も止まった」

――それから慎さんは、柔道にのめりこむようになった。

 結果を出せば、兄ほどでないにしろ褒められた。自分を強くするための柔道が、評価を得るための柔道になった。

 高校卒業後は柔道整復師の専門学校に進学し、医師とは異なるアプローチで人体に関わる技術に傾倒した。そこから、人間の体への並々ならぬ興味と執着が芽生えた。

 勉強や施術だけではその好奇心が満たしきれなくなったのか、はたまた医師である兄に人体に関する知識で上回りたい欲望からか、『実際に人間を壊して観察する』ようになったのだとか。

「そこで、あいりん地区の労働者に目をつけたらしいんだよね」

「そういえば言ってたね。何でそこの人たちなんだろう?」

 秋月さんはショートケーキをつつく手を止めて首を傾げる。

「あいりん地区は、日雇い労働の募集が盛んな地域なんです。普通の職場では働けなかったり、雇ってもらえないような人たちが、日雇いの仕事を求めて集まるんです」

 視界で見た、姫路さん似の頭部がふと頭をよぎる。

「身寄りがなかったり、事情があって身元を隠したり、偽ったり……そんな人たちが、多くいる街なんです。そこで一人、二人といなくなってもわからない……。それで今まで足がつかなかったんだと思います」

 姫路さんと交換したライン。彼は『三河(みかわ)』という苗字を、ラインの表示名に設定していた。

 住所不定だろうが、本名を伏せていようが、あの街に辿り着き、働き、今日も生きている人たち。僕と同じだ。

 心に、どすん、と重たいものが沈みこむ。

 ボスが「ケーキ食べないならもらうぞ」と言うので、僕は慌てて平らげた。相変わらず、甘くて美味しい。

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