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 お風呂上がりには肌艶もよく元気そうにしていたボスと秋月さんが、個人経営のカフェで朝食を済ませた頃には眠たそうにしていた。

「すみません、みなさんほとんど寝ていらっしゃらないですもんね」

「帰って寝る。幸太郎も来るか」

「いえ。バイト先に挨拶をして……明日、寝泊まりしてる宿から、荷物を引き上げます」

 ボスはそれ以上特に何も言わず、背を向けて「じゃ」と手を上げ、駅へ向かった。


 げんきの湯は、慎さんの件で随分重苦しい雰囲気が漂っていた。

 まだニュースで大々的にはなっていないものの、営業自体は今日から当面休止。今はまだ何も知らない常連さんたちが入口付近で『臨時休業』の文字を見て肩を落として帰っていくのを何度も見た。

 事務所でパソコンを叩く社員さんに恐る恐る声をかけ、アルバイトを辞めて東京に帰る旨を話した。

 大変なときに申し訳ないと思ったが、社員さんは快くオッケーしてくれ、むしろ何度も「こんなことになってごめんなあ」と謝られた。

 心苦しい。こんなこと、は、僕が起こしたことだ。

「あの、ご、権田さん、いらっしゃいますか」

 僕の口は何を言っているんだ。人の目がなければ自分の頬を叩いているところだ。いや、人の目がなければ全然問題なかったのに。

 社員さんはにやにやしながら、僕の顔を覗き込んでいる。いや、そういう意味じゃないんです。じゃあどういう意味なんだ。

「ゴンちゃんやったらあと十分くらいで来ると思うで。なんか、荷物取りに来るって言うてたわ」

 どしたん? 何の用なん? そんな声が聞こえてきそうな顔。

「あ、いえ、ちょっとお返ししようと思ってたものがあって……」

 どきまぎしなくていいはずなのに、口元が勝手にまごまごしてしまう。

「お、丁度ええとこに」

 社員さんの視線が僕の後ろの入り口に放たれた。

「あ、佐藤くん。おつかれー」

 どことなくいつもより声の小さい権田さんが、扉にもたれかかるような開け方で入ってくる。

「聞いた? なんか……お互い、びっくりやんね。言葉出えへん、なあ」

 社員さんが、換気のためか窓を開けた。二人の間に風が走り抜ける。

「そうや二人とも、せっかく来てくれたことやし、もしよかったらちょっと掃除手伝ってくれへん? 一時間だけ。時給も出すで」

 そう言って任されたのは、僕が初めてげんきの湯に来たときに寝転がったソファがあるコーナーで、雑巾で汚れた箇所を拭き取るように言われた。しかし掃除は行き渡っており、ホコリ一つ落ちていない。

 仕方なく、きれいな床や壁を、半ば惰性で二人で拭きながら話す。

「そうなんやぁ、東京に帰るんやねえ、佐藤くんも、東京の男になるんやなあ」

「なんですかそれ。僕元々東京の男ですよ」

「へへ、そうやね」

 明るい声で話してくれているが、やはり普段の覇気はない。

「あの……」

 言いかけて、僕は一度ぐっと言葉を飲み込んだ

「ん? どしたん?」

僕の口からこの話を切り出しても、良いのだろうか。もうずっと考えているが、答えが出ない。口だけが見切り発車してしまった。

「慎さん、のこと、ですけど……」

 この話をしたところで何になるんだろう。慎さんという名前を出すだけでもかなり莫大なエネルギーを使う。

「ん、びっくりやんねえ。慎さんみたいな好青年が犯人やったりして、ってからかったん、あながち間違いじゃなかったやんね」

 この期に及んで和ませようとしてくれる冗談が辛い。

「えっと……僕、最近『日にち薬』って言葉を覚えたんです。お客さんが使ってるの聞いて、いい言葉だなって」

「良い言葉……なんかなあ?」

 自分から切り出した会話をどう進めたら良いのかわからず、曖昧にうなずく。

 しばらくの沈黙。権田さんがそれを破った。

「確かに、今を乗り越えてへっちゃらになってる自分を想像したら元気に……」

 権田さんは雑巾を持ってただ無意味に動かしていた手を止める。

「今は、なられへんなあ」

「すみません」

「謝らんとってやぁ」

 ポロポロと涙を流しはじめる権田さん。無難にやり過ごしてしまえばよかったのに。権田さんの心の傷をいたずらにえぐってしまった。

 いてもたってもいられなくなって、「あぁ」とか「えー」とか意味のない言葉を発しながら、反射的にポケットに入っていたのど飴を差し出した。権田さんは泣きじゃくりながら、クシャクシャの個包装を受け取った。

「ありがと。佐藤くんみたいな人を好きになれば良かったのになあ」

「え」

 予想だにしていなかった言葉に慌てふためき、首の後ろにかいた汗を危うく手に持った雑巾で拭くところだった。

「私さあ、慎さんと付き合っててん。でもな、家に一度も行ったことないし、最悪既婚者か、そうやないにしても、本命の彼女くらいおるんかなーって、思っててん」

 相次ぐ新情報に、僕はとっくにキャパオーバーだ。

「はぁ、こんなんなるくらいやったら、いっそ不倫相手でしたってオチの方がまだ笑えるわ。現実キツ。……ごめんね、こんな話して」

 吹き出してしまった炭酸ジュースの蓋をしめるように、僕はとっくに手遅れなグチャグチャの感情を抑えるために深呼吸した。

「笑えないですよ。どっちも笑えない。笑っちゃ駄目です。今すぐ元気にならなくても良いですけど、自分のことは常に大事にしてください。あ、あいや、あぁ、偉そうにごめんなさい」

「ふふ、焦りすぎておもろい。……日にち薬、確かにええ言葉やね」

 瞬く間に一時間は過ぎ、社員さんが僕らの掃除するソファに来た。うさぎみたいに真っ赤な権田さんの目については特に触れずに、千円の入った封筒をくれた後はそそくさと事務所に帰ってしまった。

「そういえば私のこと待ってくれてたみたいやけど」

「あ、はい。回数券、大阪にいる間に使い切れなくて一枚余ってしまったんです。もったいないし、お返ししようと思って」

 権田さんは白い歯をむきだしにしてケラケラと笑った。

「律儀か! ……しばらく私は行かへんと思うし、佐藤くんが持っとって。大阪戻りたくなったらいつでもそれ使いに帰っといでよ」

 無理に明るく話す口調に僕は何も返せなくて、財布の奥から引き出した回数券を再び大事にしまった。


 リュックに荷物を詰める。半年近くお世話になった部屋は、荷物をまとめても相変わらず狭い。

「あんたぁ、ここ、出て行かはんの」

 扉から半分体を出したキョウコさんが、部屋に鍵をかける僕に話しかけた。明るいうちに見るキョウコさんの顔は、目尻の皺が笑いジワにも見えて、いつものおどろおどろしさは鳴りを潜めていた。

「どうも……はい、そうなんです」

「長い観光やったんやねぇ。あんたみたいな若い子、こんなとこ滅多に来はらへんし、来てもあんたみたいに挨拶してくれる子ばかりやあらへん。寂しなるわぁ」

 キョウコさんの顔は、いつもの少し怒ったような顔とは違っていて、僕はびっくりした。「ほな手土産にこれ、持って帰らはったらええわ」

 ビニール袋にいっぱいの、パチンコ屋のチラシが入ったポケットティッシュ。

 部屋の掃除の際に連発したくしゃみが聞こえていたのだろう。僕はありがたく受け取った。

「次大阪来はるときは、もっとエエ宿泊まり。な? 絶対その方がエエわ。エエなぁ、おばちゃんも、旅行、したいなぁ」

 そう言い残し、風変わりなご近所さんは部屋のドアを閉めた。

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