26
権田さんはいいなあ。いつも元気で。
しかも、こんな僕に対しても優しく接してくれるんだ。
きっとモテるに違いない。
「佐藤くん、お疲れ様ー! お? なんか元気ないやん。慎さんにいじめられたん?」
いじめられていたほうがむしろよっぽどいい。僕に見せる顔はあんなにも優しいのだから。
僕の能力がバグってるんじゃないかと思って、秋月さんや十文字で動作確認してみたけれど、悲しくなるほど不具合はなさそうなのだ。
「いえ、慎さんは良い人ですよ……」
慎さんはとても良い人だ。と、あんな話を秋月さんや大原さんから聞いた後でも、感じる。
僕の視界に間違いがなかったとして、彼が猟奇殺人犯だったとして、慎さんが殺人鬼としてメディアに取り上げられたとき、僕はそれをどんな気持ちで見れば良いのだろう。
「そんなあなたにプレゼントー! 系列店『ちからの湯』の回数券! 五枚あるから、自分一人で五回行くもヨシ、お友達にお裾分けするもヨシ! お好きにどーぞ!」
友達なんていないですよ。僕はその一言を飲み込んで、「ありがとうございます」と、うっかり触れてしまわないよう慎重に受け取った。
そんな大事な回数券。
ボスにうっかり見つかり「みんなで行くか」ほとんどカツアゲだ。
娯楽は色々あるにしても、こんなに五感に訴えかけてくるアミューズメントはそうそうない。
滑らかな肌触りの湯、開放的な露天風呂、絶え間なく湧き流れ続ける水の音、クセになる硫黄の香り。そしてお風呂上がりのご飯の美味しさ。
最も簡単に俗世を忘れる方法があるとしたら、温泉だろう。
体を洗うためだけにお金を使うのはもったいない? いやいや、僕の若い価値観は、日ごとにアップデートされる。
ボス、秋月さん、十文字、それと僕の四人は、三時間たっぷりスーパー銭湯を楽しんだ。
残り一枚の回数券は、財布の奥に大切にしまい込んでおく。
「幸太郎、仕事終わりいつも温泉入ってんの?」
「そうですね。遅番のときは大抵入らせてもらってます」
「えー! めっちゃうらやましいー! お肌ツルツルになりそう!」
「そうだね。とても良さそうだ。僕も東京に帰ったら、スーパーのアルバイトを辞めて、スーパー銭湯で働こうかな。湯上がりの無防備な人間の顔。それだけでストーリーがいくつも浮かびそうだよ」
火照った顔のボスが静かに、そして随分名残惜しそうに銭湯を後にする様子が妙に印象的だった。
事件が起こったのは、みんなで銭湯に行った次の日の出勤日だった。
「あ、権田さんおはようございます。ちからの湯、行ってきました」
「早速行ってくれたん? うれしい! 岩盤浴ない代わりに、ウチよりサウナ充実してるから結構行くんよ。露天のリクライニングチェアで星見ながら外気浴。めっちゃ開放的で気持ちいいねんなあー」
この僕には、ワード一つ一つの、刺激が強い。考えないように、考えないようにするほど、思考は深まる。いや、僕の人間性の浅はかさが悪い。
「ん? どしたん佐藤くん? なんか赤ない? 熱ある?」
額に当てられる、権田さんの手。
目は口ほどに物を言うというが、その物を言うそのものである目が見た視界は口なんかよりもよっぽど如実にその人を表す。
つまり僕が何を言いたいかというと、権田さんの視界が表す権田さんの気持ち、恋愛初心者の僕でも、痛いほど分かった。その視界の中心にいつも映る、慎さんの姿。
何かにつけて慎さんを追う権田さんの目を想像する。
――きっと僕の視界を覗いたら、同じように権田さんが映っているはずだ。
その晩僕はドヤへは帰らず夜通しカラオケで歌い明かした。
春のはじまり。三月。僕は失恋とともに迎える。
季節を表す言葉を恋愛のモチーフにするの、本当にやめてほしい。僕の淡い恋は終わったのに春が始まるなんて冗談でもつまらない。秋月さんなら笑い飛ばしてくれそうだ。
バイトが休みの日はボスのいるホテルに向かうのが何となく日課になってしまった。大阪環状線の各駅のメロディーも覚えてしまえそうだ。
「あれ? 幸太郎、なんか元気なくない? 失恋した?」
そうですよ。存分に笑いものにして消費してくれたらいい。
「えっもしかしてガチ?」
「祐奈ちゃん、やめとこうよ」
十文字の優しさが辛い。
「ほーう? さてはバイト先でなんかあったな」
そういえば権田さんにも元気ないねって声かけられたなあ。あのときは随分舞い上がっていた。人って一瞬で、こんなにも落ち込めるんだなあ。
「異性はいくらでもいるって言ったって、その人は一人しかいない。辛いよねえ」
秋月さんは遠い目をしている。いつも通り馬鹿にされると思っていたので、少し、いやかなり拍子抜けした。
「わたしもさ、傷付く度に『もう死んでやる〜!』ってなるし、そういうのを態度に出したら『メンヘラ』とか『病んでる』とか言われてさあ」
「メンヘラ、ですか……」
最近よく聞く言葉だ。でも人間って、何かしら、どこかしらにメンヘラな要素って持ってるんじゃないか。真剣に走るからこそ、すっ転んだときには受け身を取り切れずにボロボロになる。
「でもさ、傷付いたときに落ち込んで何が悪いの? 傷付けた側をクズって詰るのはわかるよ? 何でこっちがメンヘラとか、めんどくさい女とか、そんなこと言われないといけないの?」
秋月さんは大きな目に涙を溜めている。小鼻のあたりがほんのり赤い。
「メンヘラってなに? わたしの好きに応えられなくても、せめて終わりまで、わたしのことを大事にすることはできるんじゃないの? どうしてわたしを粗末に扱うの?」
主旨が大幅に変わってきている。困って十文字の方に目をやると『まあまあ』みたいなジェスチャーをしている。黙ってそのまま聞け、と。
僕は秋月さんにポケットティッシュを渡した。
とうとう涙が一筋こぼれたかと思った次の瞬間には顔を伏せてわんわん泣き出してしまった。
「祐奈ちゃん、彼氏に浮気されちゃったんだって」
十文字が僕に耳打ちする。
「浮気なんてバレんの! 好きだからわかるの! わからないわけないじゃん、全部わかるよ」
びゃあびゃあと泣く秋月さんが両手で大切そうに握るスマホのロック画面が彼氏とのツーショットで、僕は妙に切なくなった。
十文字を肘で小突いて囁く。
「いつもみたいに、何か気の利いたこと言ってあげてくださいよ」
十文字は強く頭を振った。
「上辺だけの言葉をかけるのは失礼だよ。それに、僕の中には傷ついた女の子を慰められる語彙はない。目の前で女の子が泣いているような状況に、今まで出くわしたことがないからね」
十文字も恋愛初心者か。どうしたことだろう。僕は何となく他人事に思えなくて、秋月さんの隣りに座って言葉を探した。
「あ、あの、秋月さん……異性はいくらでもいる、けど、その人は一人しかいない……そ、その通り、だと、僕も思います」
部屋中に轟くような泣き声が少し小さくなった。僕の声は届いていそうだ。
「しばらくは僕と仲間です。失恋仲間です。……って、不名誉な称号で、すみません」
十文字が何やらメモを取っている。この期に及んで小説のネタ集めをするな。僕は十文字を睨(ね)め付ける。
「あの、秋月さんって僕、ほんとすごいなーって思うんです。SNSのアカウントとか探して見つけ出しちゃうくらい、つまりそれって、他人に興味があるからできることだと思うんですよ。きっと、その人の口調とか、好きなものとか、普段の生活を頭に入れてなきゃ、できないんじゃないかなって思うんですよ」
秋月さんは、十文字が淹れた紅茶を一口含んだ。同じタイミングで差し出した僕のポケットに入っていたのど飴は、突き返された。
「そういう、の、も、キモい、って言われた」
しゃくり上げながら呟く姿が痛々しい。
「こんなに素敵で優秀な秋月さんをキモいだなんて、ひっどいやつです」
秋月さんは泣き腫らした顔を上げて、それから涙声で訥々(とつとつ)と話した。
「そう、ひっどいやつなの……わたしの誕生日に競馬行って、お金なくなっちゃったからって、プレゼントはコンビニで買ったチョコ一つとか。やばくない? ……でも、プレゼントしてくれようとする気持ちが、嬉しかったなあ……」
僕と十文字は顔を見合わせた。何だか結構アレな男みたいだ。きちんと表現する語彙が、僕にはない。
口を噤んでいた十文字が、恐る恐る秋月さんに訊ねる。
「祐奈ちゃん? もしかして、その人の生活費とか出してあげてた?」
「まあ、食費と光熱費、たまに家賃くらいは……」
――どうかこの先、秋月さんにかかった悪い魔法が解けて、前に進めますように。
「秋月さん、しばらくは一緒に、バリバリ仕事しましょう。気晴らしだと思って」
「へ? 幸太郎、占いキングダム辞めるんじゃなかったの?」
「あ、そうだった、えっと、仕事っていうのは言葉の綾で……」
「当面は、猟奇殺人犯を捕まえられるよう頑張ろう、だね」
補足してくれる十文字の言葉に、秋月さんはグスグス言いながらも頷いてくれた。
「お力をお借りします。どうぞよろしくお願いします」
「うん、頑張る……」
「そうだね。みんなで、頑張ろう」
秋月さん、十文字、僕の三人は、手を合わせてえいえいおーとした。ちょうどそこにボスと大原さんが部屋に入ってくる。
「いいねえ、いいねえ、若者がやる気なのは良いことだねえ。結構結構」
大原さんは少し酔っ払っているらしく、首から耳あたりが少し赤らんでいる。
「用意できたぞ。明日、作戦決行する」
ボスはニヤリと笑った。
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