23
夜十一時過ぎ。ドヤは全体的に電気が消えてお休みモードに入っている。ここに寝泊まりする人の多くが従事する現場仕事の朝は、とても早いのだ。
僕はできるだけ音を立てないように歩いた。四階の部屋まで、階段を慎重に上る。最後の一段を踏み外してバランスを失った際に咄嗟に掴んだ手すりが小さくギィっと音を立てた。
左右に部屋のドアが並ぶ幅の狭い廊下。一歩進むごとに床が軋む。
一番奥にある僕の部屋の、斜向かいの部屋のドアが、ほんのわずかに開いているのが見えた。僕は視力が良い。
「……――ずいぶん遅うに……お帰り、やなあ」
僕よりもずっと前からこのドヤに住んでいる、キョウコさんという女性。このドヤではちょっとした有名人だ。
バサバサに伸び散らかした白髪交じりの長い髪。黄色く濁った眼。冬なのに、白い半袖のワンピースを毎日着ている。
「若いと……いくらでも、遊べるんやろう……ええなあ……こんなところ、住まんでも……もっと、ええとこ、いーくらでも、住めるやろうに……ええなあ……ええなあ……――人生、楽しそう、やなあ」
歯抜けの口から零れ落ちる言葉はまるで呪詛だ。見た目で判断してはいけないと頭ではわかっていても、こんなの怖くないと思える人がいたら、そのおめでたい頭の方が恐ろしい。
「遅くにうるさくして、大変……申し訳ございませんでした……」
「いんやあ、ええんやでえ、おばちゃん、そんなこと、言うてへんでえ」
閉まりゆく部屋のドアの隙間から、ホコリと生臭い匂いが混じった悪臭が漂ってきた。
眠れない。
全然眠れない。
寝返りを打つ音すら薄い壁を伝わりキョウコさんに聞こえそうで怖い。
なあ、ええなあ、おばちゃんも焼肉食べたいなあ、マッサージしてもらいたいなあ。本人から言われたわけではないはずの言葉が、勝手にあのしゃがれた声で再現されて脳内を巡る。
朝を迎えたのは、すりガラスの小さな窓の色が黒から白に変わったことでわかる。朝日なんてものはこの部屋には入らない。
今日は朝からバイトだ。ほとんど一睡もできないまま、僕は出勤する。またか。
「あれ、今日もまたずいぶんお疲れみたいだね」
「一睡もしてなくて……ご近所さんトラブルで、ちょっと」
慎さんは施術台をぽんぽんと叩く。これも、またか。僕は腹を括って施術台に座る。
首の後ろのツボ、風(ふう)池(ち)。
視界。新鮮なはぎたての皮膚。壁に飾られた頭部が増えている。いかつい、眉のないアノ頭は、前見たときより黒ずんで――いや、もうこれ以上は語るまい。
――これは。病院? 相変わらず人間以外の視界はぼやけている。ふんわりと、クリーム色の空間が広がっている。
対して相変わらず嫌になるくらい鮮明な人間の像。受付の女性は病院というより美容院にいそうな雰囲気の、明るい髪の女性。つやつやした手の甲。笑うと頬の肉がマスクからはみ出す。診察室に招き入れる看護師の胸元の名札には『漆原(うるしばら)』。笑顔の目元に皺を刻んだ、手首のシミが目立つ女性だ。首に聴診器をかけた恰幅の良い白髪交じりの男性医師は、首にさげた名札に『漆原』。腕組みをする癖があるらしい。看護師と医師は家族だろうか。
前よりは冷静な頭で、従業員用トイレにコンビニの唐揚げを吐き出しながら考えた。『漆原』という医師がいる病院の近くに、慎さんの家がある。
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