19
ドヤの薄っぺらい敷布団。いつもなら未練なく起き上がることができるのに、今日は布団に包まれる安心感から逃れ難い。
今日はバイトのシフトが入っていないので、目が開いてもしばらくは布団にくるまっていた。
このドヤの朝にはトーストやコーヒーの香りはない。あるのは、先月ここの宿泊客に仲間入りした人物の下手な鼻歌。何を歌っているかがさっぱり分からないのだ。他の宿泊客に「うっさいねん!」と怒鳴られたときは素直に「すんまへんな」と謝るが、その五分後にはまた歌い始めている。
一度だけ、鼻歌の主の姿を見たことがある。眉から上の毛が一切なくてコワモテで、大柄で、どことなく姫路さんに似ていた。――この街には、姫路さんのような風貌の人がたくさんいるのだろう。だとしたらやはりあの壁の頭は、姫路さんではないのでは? 姫路さんは、本人が言っていた通り、まだ西成にいるのではないか?
とはいえ、この西成で過ごしはじめて三ヶ月。飯場を出て以降は姫路さんの姿を見たこともなければ、連絡もつかない。
狭い部屋、寝心地が良いとは言えない布団、日当たりの悪い窓。すべてが僕の気持ちを鬱々とさせた。
ところどころ剥げた壁紙を見ていると、人の顔に見えてきて、そしてまたあの視界を思い出してしまう。
布団の中に潜り込んでぎゅっと体を小さくする。布団は薄くて頼りなく、自分の体温だけが、僕を包む。
ボスたちには頼れない。頼りたくない。今回に関して言えばそれはルール違反みたいなものだ。
とはいえこの布団も、ドヤも、僕を守ってはくれない。
シャンプー中の背後の気配のように、考えないようにすればするほど、むしろそちらに気を取られるのが人間の性(さが)らしい。
切っ先の鋭い刃物。皮膚を剥がす作業が進むごとにまるでその切れ味は増すように見えたが、あれは作業者の手さばきによるものだろう。
するすると、皮膚を肉から剥がす冷たい刃が足裏を滑るような錯覚。僕は思わず足を手で覆う。
――枕元に置いてあるスマホが鳴った気がした。
振動が薄いドヤの壁を伝わり隣人に怒鳴られた経験から、何重にも折りたたんだタオルの上がこの部屋でのスマホの定位置になっていた。――僕は祈るような気持ちで布団から手だけを伸ばし、スマホを掴む。
[おはようございます。先日はお疲れ様でした。あの後、お変わりありませんか]
クシャクシャになったストローの外袋に水をかけたときのような動きで、僕は小さく折り畳んだ体を少しずつ伸ばす。
遠野さんだ。遠野さんから、ラインが届いていた。
僕は両手でスマホを握り締め、画面を食い入るように見つめた。
[ぴゅあますの話がまだ途中でしたね。ぜひ飯でも行きましょう]
二通目。
優しい兄に縋る、弱くて惨めな弟のような気持ちで、僕はすぐに返信した。
[いきましょう きょうはいかがですか]
既読がすぐにつく。こんな気持ちで人からのラインを待つのは、人生で何度あることだろうか。
[いいですよ。肉でいいですか? 十八時に御堂筋(みどうすじ)線なんば駅南南改札口でどうでしょう]
夜までこの孤独と不安に耐えられる気がしない。
[今からはどうですか。二時に難波で。甘い物食べましょう]
優しい甘党の兄からはすぐに返事が来た。
[いいですね。ケーキでも食いましょう]
僕はぐしゃぐしゃの布団から這い出て、しばし検討したのち、紺のパーカーとチノパンを身に着けた。
共用部分の洗面台で歯を磨きながら、調子の外れた鼻歌が何の曲なのかを知りたくて耳を澄ましたが、結局分からなかった。
ダウンを羽織りスニーカーを履いて、冬なのにジメジメするドヤを後にした。
なんば駅は、動物園前駅から二駅。動物園前駅まではこのドヤから歩いて大体十分ほど。
僕はフードを被って俯きながら、できるだけ大股で歩いた。
なんば駅で南南改札とやらを探す。それっぽい矢印に従ってエスカレーターに乗った。地下鉄特有の閉鎖的な雰囲気が、まるであの視界の『あれ』に似ている。自然に眉間に力が入り、目を瞑る。瞑った目の裏側に慎さんが血に塗れた手で僕の足を触る幻覚が浮かび、間違って再生ボタンを押してしまった動画を画面から消し去るように、目を開けた。
「お待たせしました。突然すみません」
「いえいえ、今日は暇だったので。ところで生クリーム食べれます? 行きたいケーキの店あって」
「ケーキ、食べますよ。行きましょう」
複合施設『なんばパークス』はびっくりするくらい大きい。新宿しか知らない僕にはかなり衝撃的だ。
遠野さんは「東京に比べたらこんなの全然でしょう」と言うけど、僕が知っている東京は、めちゃくちゃ狭い。
「遠野さんはずっと大阪なんですか?」
「生まれと学生時代の大半は大阪なんですけど、父が転勤族だったもので、他にもちょこちょこと。一年半だけ、東京にいたこともありますよ」
転校生。違う学校の教室に足を踏み入れれば、こんな僕でも人気者になれるのだと、よく妄想したものだ。
実際は、転勤なんて関係ないような家庭だったし、僕はただの根暗ぼっちだったわけだけど。
「幸太郎さんは、ずっと東京ですか?」
「はい。生まれてから三ヶ月前まで、ずっと」
「なんでまたわざわざ東京から大阪くんだりまで?」
――さて、どうしたものか。相手は警察官。あんな詐欺まがいの元バイト先の話をして、ボスたちが捕まったりしないか。軽蔑されたり、敬遠されたりしないか。
言い淀んでいると丁度ケーキが目の前に運ばれ、遠野さんが「俺どちらかというと生クリームよりカスタードのほうが好きなんですけど、ここの生クリーム絶品なんですよね」と歌うように言った。
「あ、はい。おいしいですね」
「俺、昔から引っ越しで転々としていた上に、今はこの仕事で休みが不規則で。ただでさえ少ない友人ともなかなか都合がつかず、だからこうして一緒に飯を食える友人ができて、嬉しいんです」
――大阪に来てからずっとガチガチに固めていた心の防波堤が、途端にガラリと音を立てて崩れ落ちた。
僕は堰を切ったように、生い立ち以外の今までの話をした。
能力を活かして占いの仕事をしていたこと。幸運の石なるものを高額で売りつけるビジネスをはじめるというので逃げるようにして辞めたこと。新宿を去るたび僕の能力目当てに何度も連れ戻され、今も追手が大阪に来ていること。
下着泥棒を捕まえたのがボスからの指示だったという話はしなかった。あれは僕が捕まえたかった、僕の意志だから。
――そして最後に、慎さんの話もした。
遠野さんは終始静かに僕の目を見て、厳つい顔をさらに険しくして聞いていた。けれども怖いとかじゃなくて、真摯に聞いてくれている感じがして、安心感があった。
「仕事なんてこの世にはいくらでもあるからどうにでもなりますよ――というのは、公務員の俺が簡単に言っちゃダメですね。しかし……店長さんの話はちょっと、聞き捨てならないな」
遠野さんは目をつむり、天を仰いだ。
「とんでもないことを話してくれますね」
自分でも頭のおかしな妄言みたいだと思う話を、一秒も疑わずにそのまま受け止めてくれている。
「話を聞くに少なくとも一名はこの二週間以内に殺害されている。管内での行方不明者を洗い出してみます」
ドヤの布団の中で感じていた不安の氷が溶けていく心地がする。
「あの……僕になにかできることがあったら言ってください」
「ひとまず店長のフルネームと、わかるだけの情報を共有してください。そして幸太郎さんは……職場に一緒にいる以上は狙わない方が、安パイなはずだ。ですが幸太郎さんがすぐにでも離れたいというのなら、安全な方法を俺が……」
「僕は大丈夫です。しばらくは今の仕事を続けます」
何も知らない権田さんが狙われたりして、ニュースになったりでもしたら僕は――身が引き締まる思いがした。恐れてばかりではいられない。
「今のところ、僕と遠野さん以外の人からしたら、噂話、いや都市伝説みたいな話ですよ。それに、警察官とはいえ、遠野さんお一人で調べるのは限界がありませんか? 立場としては一般市民ですが、僕は普通の人間じゃないんです。僕にはこの、『けったいな』能力があるんです。協力させてください」
しかし遠野さんは怖い顔をして答えた。
「だめです。一般市民の方を危険な目に遭わせはしません」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます