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食事の調達で毎日通っている『スーパー玉出(たまで)』からの帰り道、僕は一枚のチラシを拾った。
「岩盤浴……半額……」
秋月さんがよく彼氏と岩盤浴デートをすると言っていたのを思い出す。漫画も読めて、ご飯を食べるところもあって、とにかく快適な空間で一日中過ごせるらしい。
五日間の疲れに加えて体を貫くような冷たい風に、僕は普段なら絶対に思いもつかないような考えが脳裏をよぎる。だって、たかがお風呂に千円も二千円もかけるなんて馬鹿げてる。
これまでの人生で、ゆっくり湯に浸かるなんてほとんど経験したことがない。一度に何リットルも使いながら、目的は体を温めるだけなんて正気じゃない。どうかしてる。それにお湯は時間が経てば冷めてしまうし、冷めたらまたおいだきってのをするのにガス代がかかる。
勿論、銭湯や温泉なんかも行ったことがない。一度体を洗うだけのためにお金を使うだなんて到底耐えられないような贅沢行為だ。けれども。
「天然温泉げんきの湯……行ってみるか……」
翌朝、僕は寝泊まりするドヤ街から歩いて二十分のところの『天然温泉 げんきの湯』に足を運んだ。
建物に近づくと、石鹸とも洗剤ともつかない香りが漂ってくる。しばらく人の汗と土の臭いばかり嗅いでいた鼻が、清潔な匂いに満たされる。
「いらっしゃいませ。げんきの湯へようこそ。当館をご利用になられたことはございますか?」
僕と同い年くらいの女の子の溌剌とした声が、耳に心地良い。たった五日間とはいえかなりの濃度で、姫路さんはじめとするおじさんたちと生活をともにした今の僕には、その笑顔は少々眩しすぎる。
「あ……りません」
「かしこまりました。この度はご来館ありがとうございます。当館のご利用システムを説明させていただきますね」
精算は後払いであること、館内では靴箱の鍵についているバーコードが財布代わりとなり、精算時にバーコードを提示すれば館内の買い物分の支払いを済ませられることを説明してくれた。
なるほど、貴重品を持ち歩かなくて良いのはとても気が楽だ。
「では、ごゆっくりどうぞ」
僕は店員さんの笑顔に心臓が痛くなるほど心を掴まれながら、茶色の甚兵衛みたいな岩盤浴着とタオルを受け取った。
南国っぽい開放的なイメージの館内。手前には五種類の岩盤浴の部屋と軽食を取り扱う売店、奥にはたくさんの本棚が並ぶ漫画コーナー、そしていたるところにいろんな形のソファやハンモックが配置してある。
しばらくは慣れない雰囲気にドギマギもしたが、五日過ごした飯場の部屋よりも広々としたソファに寝転ぶと、瞼は呆気なく落ちた。
目覚めると三十分ほど経っていた。人前で大の字になって寝るなんてことも人生で初めての経験。僕は束の間、東京に置いてきたあれこれの存在をすっかり忘れていた。仕事を忘れ、金勘定を忘れることなど、僕の人生の中でトータル何時間あったことだろうか。
僕はそのあと漫画を読んだり、また眠ったりして過ごした。
暑い部屋にただ寝転んで汗をかくだけの岩盤浴だけは、僕の肌に合わなかった。
現実を頭から追い出して、僕はこの快適な空間で、ただただ時間を過ごした。
お風呂でもまた、僕は無上の幸福を味わった。低温に保たれている炭酸(たんさん)泉(せん)はいつまでも入っていられる気がする。実家の浴槽の何倍も深い壺(つぼ)湯(ゆ)は、人との距離感を忘れてくつろぐことができた。そして、水道水を温めただけのお風呂とは全く違う肌当たりの、源泉かけ流しの湯。
頭と体がすっきりした頃には、夕方の六時になろうとしていた。新宿とも現場仕事とも異なる時間が、この空間には流れている。
精算を済ませ、靴箱から履き古したスニーカーを取り出した瞬間、僕は一気に現実に引き戻された。
明日から僕はどうしようか。五日間で得たのは三万五千円。快適空間は決してプライスレスではない。お会計二千三百円也。お昼ご飯代を奮発してしまった。
稼いだお金がなくなればまた稼げば良いだけ、という姫路さんのような豪胆な考え方は持てない。
ドヤに寝泊まりするだけでも千七百円。食事を最低限にしたところで、西成で調達した軍資金は保ってあと十日間、といったところか。
またあの五日間を過ごすのか、いつまで僕はそうしていればいいのか。そもそも、貯金が目減りするのは耐えられないが、その次に耐えられないのは預金残高が増えないこと。日雇いの仕事で貯金をするには――。
考え始めると、どうにもならない現実に直面した。さっきまで至福を味わっていただけに、落差が大きすぎる。
――しかし今度は一枚のチラシが絶望の淵にある僕を拾った。
「履歴書不要、経験不問、時給千百円受付アルバイト……」
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