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 寝ている家族を起こさないよう足音に気をつけながら、三階の寝室へ向かう。

 新宿パイナップルビルヂングは、年季は入っているがなかなか広くて立派なつくりをしている。

 そんな元職場と、古い三階建という以外は何もかも違う、僕の実家。

 抜き足差し足、忍びきれず、母親が両親の寝室から顔を出す。

「遅くまでお仕事お疲れ様。ご飯は? お腹空いてない?」

 今年四十二歳になる母。ボスとは十歳ほどしか離れていないが、やつれきった顔はもう更に十歳上に見える。人間一人を育てるのがそれだけ気苦労の多い営みであることは然ることながら、契約社員の仕事をはじめ、いくつかのパートを掛け持ちし、さらに家では内職というオーバーワークぶり。

 母と同い年のタクシー運転手をしている父も同じく、年がら年中働き詰めである。

「起こしてごめん。お腹、空いてない」

「大丈夫よ。お父さんが帰ってくるまで内職しようと思って起きていたから。幸太郎も、遅くまで大変ねえ」

 僕の仕事もとい前職は、これっぽっちも大変じゃない。大変なのは、むしろこの珍妙な能力の方である。

 触れた人間の数だけ、七日間の視界を問答無用で見なくてはいけない。

 自分の記憶とは脳の保存領域が異なるのか、他人の視界を自分のものと取り違えることはない。だが沢山の人に触れ続けていると、自分というものがよくわからなくなる。

 他人の人生はこうも〇〇なのに、自分はこんな☓☓で良いのか? この人が持っている△△は、僕にはない。ああ、毎日◇◇をしなくてもこの人は僕と違って●●だなあ。

 日々、ないものねだり。羨望。自分と他人の境界線が入り交じる不快感。

 布団に潜り込んで、インスタグラムを開く。見たくないものはブロックなり非表示なりすれば良いのだから、この世界は相当快適だ。僕の脳にもこの機能があれば良いのに。

 アカウントのフォローとフォロワーはともに十二人。一人は中学生の時の同級生で、僕の貴重な友人。その他はみんな、ネット上で知り合った、写真が趣味だという人たち。こんなに素敵な写真を撮る人たちの視界は、一体どんなものだろう。

 同級生以外の十一人は、不定期に空の写真や町並みの写真をインスタグラムにアップしている。構図や色合いが抜群に美しい。僕の心が浄化されていく。 

 僕も、割と頻繁に写真をアップしている。投稿だったり、ストーリーだったり、思いついたタイミングで。

 僕の輪郭を保つためのささやかな抵抗。


 中学生のときに初めて見たボスの視界は、それはそれは凄惨なものだった。二十代のとびきりきれいな女性が、えげつない日々を送っていた。もう思い出したくもない。

 良家の生まれにも関わらず馬車馬のように働く彼女には、たくさんの資産があった。十人のサラリーマンが必死になって一生働き続けても稼げないほどの。

 若かりしボス。今とは雰囲気が少し違って、清楚な美人。彼女が落としたハンカチは石鹸の香りがした。

 ハンカチを手渡す際に触れた指先は意外なほど傷だらけだった。でも視界を見れば納得するしかなかった。

 空腹と疲労で倒れそうだった当時の僕は、藁にも縋る思いで頭を下げた。

「なんでもします。お金持ちになる方法を教えてください。お願いします」

 不気味な子どもと向かい合い、ボスは心底楽しそうに笑った。

「何が出来る」

 僕は、ボスがその週読んだ本のうちの一冊を、タイトルから「もういい」と止められるまで読み上げた。難しい本だった。ところどころ読めない漢字があったので飛ばした。あまりにも必死だった。

「一緒に稼ごう」

 その翌月、ボスは親戚から譲り受けたという新宿パイナップルビルヂングを改装して新規事業を立ち上げ、僕は晴れて『占い師見習い』デビューを果たす。

 

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