50_以上だ
「明日から新年度だ。新人も入ってくる。各自気を引き締めてやってくれ。新人については、甘やかすことと認めることを混同するな。彼らを潰すも生かすもお前たち自身の在り方にかかっている。それを忘れるな。業務としては、3月から持ち越すものもあればこれから受注する物もある。そういう意味では普段と何も変わらん。引き続き精度の高さを重視してやってくれ。それがR&Dの指針だ」
誰もが最後のこの日、河野部長がどんなことを語ってくれるのかと固唾を飲んで耳を傾けている。ジェイが前に出て何を言うのか。また泣くのではないか。
「各チーフは年度末としての報告物に漏れがないかどうかもう一度確認するように。経理に突っつかれないように、総務は再度確認をしてくれ。〆の時間は今日23時59分だ。井上、抜かりはないな?」
「はい」
「では、以上だ」
さっさと自席に戻ろうとする姿に、『え?』という顔がみんなに現れる。思わず哲平も田中も池沢も咳払いをした。
「どうした? 風邪か? この時期は体調を崩しやすい。新人はゴールデンウィーク辺りに気をつけてやれ。哲平みたいに引きずってサボるヤツもいるかもしれん」
笑いも起きず、座ってしまった部長にどうしていいか分からず、みんなは座り損ねている。
すでにパソコンを打ち始めている部長がふと顔を上げて眉をひそめた。
「何かあるのか?」
そう言って立って来た。しかめっ面が『あ』という顔でにこやかになるのを見て、今度こそ! とみんなが気負った。
「野瀬! 出て来い」
「え、俺?」
なんで呼ばれたのか分からないという顔で野瀬が前に出た。
「お前の話をじっくり聞かせてもらおうじゃないか。R&Dの品位を落とすような真似をしてくれたんだ、その義務はあるぞ」
「は、話って」
「お前の『出来ちゃった婚』の説明を聞きたい。別れたという話だったそうだが、何がどうなっているのか、我々は非常に興味がある。もちろんプライバシーの侵害はしたくない。だが、お前が喜んで自ら語るというのを妨げる理由はない。時間はある。語れ」
(なんで矛先が俺に来るんだ?)
「お前は俺の休日の安眠を浸食したんだ。結構俺は根に持っている」
何人かがくすくす笑った。古い連中には分かった。部長は今、遊んでいる。野瀬もその一員のはずだが、なにしろ当事者だ。それが分かるわけもない。
「去年、ホントに別れたんです、嘘じゃないです!」
「そんなこと聞いてるんじゃない」
まるで怒っているような口調に、野瀬は混乱していた。どうして怒られているんだろう? それより大事な話が部長にはあるはずだ。
「経過が知りたい。お前たちのことを祝いそこなった。こんなに後味の悪い結婚話は初めてだ。なんで谷岡は辞めたんだ? お前は遊びで付き合ってたのか?」
ここで、華なら逆にキレている。
『俺の勝手でしょ! なんで言わなきゃなんないのさ!』
だがその点、野瀬は素直だった。
「そんなこと無いです、辞めるって話だから別れることになっちゃって」
「退職即別れか? 冷たいもんだ、理由も聞かなかったのか?」
「体を壊したから仕事続けられないって……しばらく一人になりたいって言うから」
「彼女辞めたのって、9月だろ?」
澤田だ。
「9月末。で、その日に別れたんだ。俺は引き止めたよ、別れるんじゃなくて一時的に距離を置くか? って。でも言うこと聞かなくて……」
「体を壊したって言ったのに放ったらかしにしたんだ」
華も怒ったような声だ。
「見損なったよ。悪いのは声だけだと思ってた。人間性の問題ってこと?」
「華! それは言い過ぎだ! 俺は結婚してもいいってその時言ったんだ、指輪だって8月のうちに買ったんだぞ。でもちっとも話聞いてくれなくて。別れたって言ったって、その翌日から俺はずっと電話し続けたよ。でもガチャ切りされて」
そこで口を出したのが浜田だ。
「俺、去年7月に聞いたよ。野瀬さんが企画部の吉平さんとデートしたって」
「お前! 何言い出すんだ!」
「だってディズニーに行ったんでしょ?」
「ディズニー!?」
華と哲平と、そして田中が同時に叫んだ。
「それは……そういうんじゃないよ、どうしても一緒に行ってほしいって頼まれちゃって」
野瀬の声が小さくなる。
「へえ! 頼まれたらディズニー行くんだ。ジェイ、連れてってもらえ」
「いいの?」
華の言葉にすぐに乗っかるのはお子さまだからか、純真だからか。去年からの新人が吹き出す。『
「だからそれだけだって。なんでみんなあれこれ言うんだか。ひろ子もうるさかったし」
「当たり前! 野瀬さん、酷い!」
井上や橋田が糾弾する。
「そしたらいきなり辞めるって言うし、なんか……ややこしいことになっちゃうし」
「それで?」
柏木が面白そうに言う。他人のなんとかは蜜の味だ。
「そしたら一昨日の日曜にいきなり電話かかってきて、俺、嬉しかったんだ。いつもガチャ切りされてたのにかけてきてくれたから。そしたら開口一番『子ども生まれたの。出来れば結婚したいんだけど』って」
すでに話は蓮の手を離れている。誰も気づかない内に蓮は自席に戻ってパソコンを叩いている。もちろん、耳は野瀬の話を聞いているが。
「それで?」
今度は尾高。真面目だから少々お冠だ。声が冷たい。
「嬉しかった! ひろ子とは元に戻ったし、進、あ、俺の息子の名前だけど、進は俺に似てるって言われたし。これ、進の写真! 後で見せてやるな!」
携帯の画面を高く上げるが、見えるわけが無い。誰かが呟く。『和田二世誕生』。
「けどご両親が俺に怒ってるって聞いて、取り敢えず結婚届を先に出した。式とか披露宴はもちろんやる。ファミリーの会にも参加したい。順序が滅茶苦茶で悪いと思ってるが、俺だってまだ混乱してる最中なんだ。ゴールデンウィークに引っ越して親子三人で暮らすことにした。ひろ子はそれまで実家に戻ってるって」
そこまで聞いて哲平が拍手し始めた。次にジェイが。釣られるようにみんなも拍手し始める。哲平が野瀬の手を握った。
「おめでとう! 結婚と出産、いっぺんに聞けて俺は嬉しい! みんな、祝ってやれよ。華も機嫌直せ。いいじゃないか、幸せになるのに順番なんて関係無いって」
哲平の晴れやかな顔に野瀬もほっとしたらしい。
「ありがとう、哲平! お前にそう言ってもらって改めて嬉しいってのを実感したよ!」
「これ、俺から」
華が怒った顔のまま、包装紙に包まれた封筒のようなものを渡す。
「これ?」
「商品券。子どもって物入りだから。お返ししたら本気で怒る」
「あり……華……ありがとう、ありがとう……」
ジェイは大きな包みを出してきた。
「野瀬さん、車でしょ? これ、紙おむつ6パック。サイズ分かってるから」
風華の世話だって手伝った。だからよく知っている。
「はい!」
井上は夏用の赤ちゃん服。何人かが野瀬のデスクの上にあれこれ置いた。
「野瀬!」
蓮はパソコンを打ちながら大声で声をかけた。
「俺は結婚式で祝いを渡す。呼べよ」
「はい……はい!」
ところで、この大騒ぎで誰もが部長の最後の言葉を忘れた。それは蓮にとって思惑通り。今日という一日を朝っぱらから辛気臭く過ごすのはお断りだった。
「ただいま!」
華の声が弾んでいる。
「こんばんはー、お邪魔します!」
何人もの声がする。
「はい、いらっしゃい! 華くん、用意できてるよ」
時間は夜の9時。蓮もジェイも結局最後の引継ぎ確認で遅くまで残った。月曜、突発的な野瀬の休みのお蔭で出来なかった分だ。その後、飲みに行こう! といういくつもの誘いを蹴ったがみんなの気が治まらない。
「俺の家! そしたら河野さんもジェイも泊まれるから」
華の言葉でやっと収拾がついて、家にみんなを連れて行くという電話を真理恵にした。
「急にごめん」
『いいわよぉ。任せといて』
広岡はすぐに莉々に電話をした。真理恵にだけ押しつけるわけには行かない。
来たのは蓮とジェイと哲平と広岡は当然のこと。野瀬は新家族のこともあるから改めて、と言って帰った。池沢は遠慮した。実は抗がん剤でありさの具合が良くないのだが、それは秘密だ。
珍しい顔ぶれ。田中、尾高、井上、和田、石尾、翔。井上はすぐにキッチンに行った。真理恵と莉々の応援部隊として自分から来た。
「華音ちゃん、寝てるの?」
「だって9時だよ。なに? 起こして欲しい?」
真理恵が、くすっと笑っている。すぐに華が叫ぶだろうと。
「だめだ! ジェイ、最後の日まで華音に未練たらたらか!?」
「相変わらず華はアホだなー」
「和田ちんには分かんないの! 男の子ばっかりだから」
「はいはい。よく真理恵ちゃん平気だね、こういうのと一緒になって」
「和田さん!」
真理恵が和田の前に正座した。
「はい!」
慌てて和田も正座する。
「華くんを愛してるから一緒にいます。夫婦のことに口出しするなら、私が和田さんを投げますから」
「はい! ごめんなさい!」
石尾も翔もびっくりしている。ここに来たのは初めて。ジェイにくっついて離れないから連れて来られたようのものだ。
「愛してる、って」
「投げるって」
二人で小声で言うのを田中が聞きつける。
「お前ら、気をつけろよ。華より奥さんの方が強いんだからな」
真理恵の顔がちょうどこっちを向いたから二人とも正座になった。
「二人、初めての顔ね」
にっこりと真理恵が挨拶する。
「華くんがいつもお世話になっています。妻の真理恵です。よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ! 石尾健です!」
「浅川翔太です! すみません、くっついて来ちゃって」
「いいのよ、これからも遊びに来て。華くんって会社で大変でしょ? ジェイくんがいなくなったらよろしくお願いね」
そうだった。華のお守り役は誰がするのか。避けてきた話題。けれど明日からは自分たちの身に降りかかってくる災難だ。改めて恨めしそうにジェイを見る。華を抑える自信などあるわけがない。
「頑張ってね、石尾くんも翔くんも」
いつもの温かい笑顔が、今日はえらく軽く見える。
11時半まで。華が宣言していたにも関わらず、和田と翔が飲み過ぎた。みんなが時計を見て支度を始めたのに、
「もう一杯だけ! いいじゃないか、もう二人と飲めないかもしれないんだから」
「そうだよー 今日は固いこと言わなくたって」
その途端に華が二人を玄関に引き摺って行く。心得たように田中と広岡が二人のバッグを持った。
「お休み!」
華が二人を叩き出して、他の連中は何も無かったかのように外に出た。
「真理恵さん、莉々さん、今日はご馳走さまでした」
そして蓮とジェイに頭を下げた。
「これで最後って思ってません。また飲みましょう。相手してくれなかったら押しかけますからね!」
「田中……」
「俺も。辞めちゃったんだから遠慮しないぞ、河野。なにせ、同期なんだからな」
尾高が目を潤ませながら笑って言う。
「ああ、対等だ。みんなもな。俺たちの間には何の垣根も無い。これからもよろしくな!」
それぞれが帰途に着く。明日からあの二人はいない。どんなにオフィスが寂しくなるだろう……
最後まで『最後の挨拶』をしなかった河野部長。
『もうフェアウェルパーティーで挨拶はした。あれ以上はくどい』
壮行会を『フェアウェルパーティー』なんて洒落た名前にしたのは澤田。やはり寂しさを感じたくなかったからだ。澤田を初め、何人かにはなんとなく部長の気持ちが伝わっていた。
「最後にさ、『みんな、聞いてくれ!』っての、聞きたかったな……」
和田がぽつんと言う。
「俺はジェイ先輩の天然の言葉をもっと聞きたかったです!」
石尾は時間が空いたらテトリスをしに行く気、満々だ。
「……さび、しいよ……」
酔っている翔が泣きながら歩いている。
「明日から忙しいんだ。頼むぞ、部長とジェイがいない穴はデカすぎる。頑張ろう!」
田中は管理職らしい言葉を口にした。その言葉の前に、こっそり頬を拭っている。
新生R&D。船出は、明日だ。
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