49_カウントダウン

 時は何かに追い立てられるように過ぎて行く。

(いい15年だった)

 蓮は自分のデスクを拭いていた。このデスクには3年座った。忙しいのは最初だけだろう、そう思っていた3年前を思い出して苦笑いする。

(慣れたからって楽になるもんじゃないんだな)

 部長になったとはいえ、自分では課長職の延長線上に過ぎないはずだった。けれどどんどん現場から離れ、会議、ミーティング、経営戦略や事業計画に関わっていき、ほとんどを統括課長の田中と池沢に任せることになった。

(本当に潮時だった。俺はこれ止まりだったな、きっと潰れていた)

 現場主義の蓮にとって、本意ではない在り方を維持することはただ苦痛でしか無かった。大滝とは違う。大滝は会社運営そのものを楽しんでいる。蓮がR&Dを育んだように、大滝は会社を育てている。だが、蓮にはそれから先の自分が見えなかった。

(いいんだ、これで。後はあいつらがやっていく)


 誰もいないオフィスの自動ドアが開く。同じように残ってデスクの掃除をしているジェイ。絞って来た新しい雑巾を蓮に投げた。それを見事にキャッチして汚れた方をジェイに投げる。

「また? 俺ばっかり雑巾洗いに行ってる」

「だってバケツを使うの嫌がるじゃないか」

「そしたらモップ使うことになるでしょ? 掃除のスタッフさん、ちゃんとモップも洗っていくから使うの申し訳ないよ」

 ジェイらしい答えに微笑みが浮かぶ。明日が過ぎたらしばらくの間二人でのんびりして、そして次のスタートを切るのだ。

「野瀬課長に明日嫌がらせするんでしょ?」

「嫌がらせ?」

「蓮は吊るし上げって言ってたよね。最後の日にそんなことするの?」

「最後だからするんだ。ここの連中で遊ぶのは明日で終わりなんだから」

 ふふっとジェイが笑う。最後に来て蓮は自分の楽しみを追及することにしたらしい。

「フェアウェルパーティー、楽しかったね」

「平日にしてもらって悪かったけどな」

「うん…… でもそのお蔭で中山課長の有くんのことが分かったし。良かったんだと思う。蓮に退職前に報告したかったって言ってた」

 有難い話だと思う。自分が辞めることをきっかけにしてくれた。ずっと悩んで迷って、決断した結果を受け入れて。それでも話すに話せなかった中山。

『みんなに言えたのは部長のお蔭だと思ってます。もう時間が無い、そう思ったんですよ。部長ならきっと、ただ受け入れて祝ってくれる。部長に言えないなら誰にも言えないだろうって思ってました』

 有のことを聞いた夜、哲平との散歩から帰ると中山が待っていた。部長と二人で飲みたいんだ、と言うと哲平が駅のそばの居酒屋を教えてくれた。華は合鍵を渡してくれた。

『戻ったらちゃんと閉めといて。待たないで寝ちゃうから』

 華の父の言葉で中山は有に対する父親としての自信を持つことが出来た。だからと言って、簡単にはオフィスで言うことは出来なかった。中山は週明けにはみんなに子どものことを報告するのだと、スッキリした顔で嬉しそうにしていた。

「最後までいろいろあった…… 明日は野瀬に楽しませてもらおう。ジェイ、邪魔するなよ」

「しないよ。俺もちょっと楽しみなんだ、野瀬さんの口からの報告」

 二人とも寂しさを覆い隠すような何かを欲しくもあった。


 華は眠れなかった。それは哲平も同じだったらしい。キッチンで一人静かに酒を飲んでいるところに哲平が来た。もう1時だ。

「起きてたの?」

「おい、俺にもくれ」

 珍しく日本酒を飲んでいた。ピッチは上げずに時折口に運ぶ程度。

「いいけど。酔っぱらうような飲み方しないでよ」

「分かってる。明日酒の匂いをさせるわけにはいかないから」

 15分ほど、二人ともただ黙々と舐めるように酒を飲んでいた。

「哲平さん」

「華」

 ほぼ同時だった。互いに小さく笑う。本当に兄弟だ。

「思い出してたんだ、河野さんとのあれこれ。ジェイとのあれこれをさ」

「分かるよ。俺もそうだ。今あるのは二人のお蔭なんだから」

 華は頷いた。

 全てを変えられた、あの二人に。もちろん目の前の男もそうだが。真理恵、哲平、河野課長、ジェイ。その存在が自分の中の両親との垣根も取り払ってくれた。本当に人生が変わった。

「俺さ、『河野部長』っていうより『河野課長』って言う方がしっくり来るんだ」

「……そうだな、12年『河野課長』って呼んできたから」

「明日……泣くのかな、俺」

「華」

 伝えたいと思った。そんなに嘆かなくていいのだと。二人のこれからのことを言いたかった。だが違うことを言った。

「週末は二人をここに引っ張り込もうぜ」

「うん、そのつもり。縁を切られて堪るかっつーの」

「俺たち、4月から大変なことになるな」

「もう充分大変になってるけどね」

「覚悟しないと。補佐、大丈夫なんだろうな?」

「補佐は頑張るけど別に子守りをするわけじゃないからね。そこ、間違えないでよ」

「子守りか……」

 不意に千枝を思い出す。自分の子守りをしてくれるとしたら千枝しかいなかっただろう。厳しくともきっと頭を撫でたり抱き締めたり手を握って話を聞いてくれたり肩を揉んでくれたり……

 泣きたくないから大きく息を吸った。

(今からこんなでどうするんだ? 俺には河野蓮司という立派な手本がいるんだ。あの姿を見てきたのにみっともない男になるわけにはいかない)

「もう寝るよ。お前もそうしろ」

「うん。もう少しだけ。そしたらちゃんと寝る」


 春休みだと言うのに華音は真理恵がキッチンで動き始めた時間に起きてきた。

「あら、起きちゃったの?」

「ジェイくん、今日で会社辞めちゃうんだよね。もう華音のところに来てくれないのかな……」

 真理恵は手を止めて華音の前にしゃがんだ。

「会社は辞めちゃうけどね、きっとここには来てくれるよ。お父さんも哲平おじちゃんも華音や華月や和愛ちゃんもいるもの」

「私、今日お父さんと一緒に会社に行きたい!」

「それはだめ。あそこはみんなが違う自分になるところなの。華音にはまだこんな話早いかな」

「……学校に行った時みたいに?」

「そうそう。そんな感じ。そこにジェイくんや他の人が来たら勉強にならないし、他の人もきっと困っちゃうよね? それとおんなじ」

 涙を零しながらも華音は頷いた。不意に真理恵の首に手を回してわんわん泣き始めた。

「華音」

 抱きしめて背中を撫でる。

「大丈夫。ジェイくんはここが大好きだから。いつも笑顔でいよう! ジェイくんは笑顔が好きでしょ?」

「うん……華音の笑うの、好きだって言ってくれた」

「ジェイくんはね、小さい時からずっと寂しい思いをして大きくなったんだよ。だから笑顔を見るとほっとするの。華音はジェイくんにいっぱい笑顔をあげて。そしたらジェイくんは寂しくなくなるから」

「泣かないようにする。ジェイくんの前じゃ泣かない」

「いい子ね。そんな華音が大好きよ」


 みんながいろんな思いを抱いて、今日という日を迎える。ただの昨日の次の日。なんでもない、普通の日。けれどみんなには特別の日。

 出社したくない、別れることになってしまう……そんな変な気持ちも生まれる。それでも誰も休むなど欠片も思わない。しっかりとこの日を胸に収めるために。

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