38_お正月あれこれ[池沢家]

 池沢家の正月は体力勝負で始まる。

 初日の出は家族だけで味わう。これは最初から譲らない。自分たちは堅気だ。三途川一家に家庭を巻き込まれたくないのは、隆生もありさも一致している。そしてこの夫婦が同じ結論を出せば、覆せる者はそういない。


 初日の出を迎える場所は天気にもよるが、富士山だ。毎年29日に出発してホテルでゆっくり過ごす。31日、車でホテルを出て5合目へ。そこからはのんびりと歩けるだけ上を目指す。池沢家はスパルタだ。双葉にも出来るだけ自力で歩かせる。

「今年はどこまで歩けるかしらね」

「お前が歩けるところまでだ」

「ならずっと歩かなきゃね」

「ありさ」

 隆生は双葉の手を引きながら歩く。

「無理はするんじゃない。この冬は特に痛むんだろ? 先生も言ってたじゃないか、痛みが出る時は安静にって」

「『安静』って意味、私分かんないのよね。こんなの登山にも入らないのよ。単なるハイキングだわ」

「いいんだよ、それで。登るなとは言わん。ただし、いつも家族とだ。いいな?」

 分かっている。もう自分には『あの登山』が無理なことを。けれど認めたら自分の中の何かが終わる、そう思う。

 足の動きが突然悪くなる時があるから車の運転もしなくなった。

(そうやっていろんなものが遠くなるんだわ)

歩きながら足の中に突き抜けていく痛みを否定したくて堪らない。


 喋ることも無く自分に鞭打ってさらに30分ほどは歩いたがとうとう立ち止まる。

「ママ」

「なに?」

「僕、座りたい」

「男でしょ! 弱音吐くんじゃないの」

「男だけど痛いの我慢するなら男じゃなくてもいいや」

 穂高はさっさと冷たい道にリュックを下ろし、その上に座り込んでしまう。

「足、楽ー」

「どれ、パパも休憩だ。双葉、パパのお膝においで」


『子どもたちをお膝に』

 今年の秋。夜中にひっそり泣いたのはこれが原因だった。

(もうだめ。膝に乗せることが出来ない……)

本当にひっそりと泣いていたのだ、バスルームのシャワーの中で。それが後ろの空気が動いて隆生が中に入って来た。背中からありさを包み込んだ。

「ありさ…… お前の分まで子どもたちを膝の上に乗せるよ。お前にはなんの慰めにもならないだろうけど。でもお前の代わりにやりたいことはやってやる。どういう形になっても俺たちは家族だ」

 自分を頑固に語らないありさを隆生は包む。

(隆生ちゃんがいるから……生きていける。生きていくから)


 ありさは自分も荷物を下ろして座った。みんなの愛情を素直に受け入れる。頑固さは時に罪なのをよく分かっている。まあ、罪を言えば今までのありさの頑固はたいがいその部類に入るのだが。

「穂高、ありがとう」

「なに? 疲れちゃっただけだよ。寒いしもう帰ろうよ」

「もうすぐ朝日が出る。それまでここにいよう。大した時間じゃないしな」

 隆生の懐はホカホカしているらしい。双葉がぺたんとくっついて離れない。

 もう夜と朝の境界線は解け合い始めている。古い夜を新しい朝が包んでいく。同時に一つの区切りが夜とともに過去になっていく。

 日が、始まる。真新しい光が届く。


「穂高。お前は今年どうなりたいんだ?」

「たくさん勉強して強くなる」

「そうか。頑張れよ」

「うん!」

「双葉、お前にはまだ早いな。ママが好きか?」

「うん」

「パパも好きか?」

「うん」

「じゃ、たくさん笑って楽しくやろうな。今年はお前にそういうのが分かるといいなってパパは思っているよ」

 意味がよく分からなかったのだろう、双葉はただ隆生を見上げてにこっと笑う。

「ママ、大好き!」

「ママも双葉が大好きよ。みんなで仲良くやろうね」

 隆生は穂高の頭を撫でて双葉を同じように撫でた。そしてありさの頭を撫でる。これは儀式だ。

「お前たちを俺は守る。どんなものからも守りたい。穂高。パパがお前を認めた時にその役目をバトンタッチする。いいな?」

「うん!」

「じゃ、最後にママだ」

「私は……」

 言い淀むありさの頭をまた隆生が撫でた。

「隆生ちゃん。私、あなたに話があるの」

「分かった。ちゃんと聞くよ」

「ありがとう。私、今年はいい子でいるわ。うんと家族に甘える。だから……助けてね」

 穂高はぎゅっとありさの手を握った。

「ママ、僕もパパと一緒にママを守るね」

「ありがとう」

 隆生が立ち上がった。

「さ、下りるぞ。今年もみんなで助け合おうな」

 毎年そうだ。歩けなくなった場所で朝日を待つ。隆生がみんなの新しい言葉を聞く。そして山から下りる。


 元旦の夜、8時前。子どもたちは夕食を食べてすぐ眠ってしまった。

「ありさ、話聞くよ」

「はい」

 ありさをベッドに座らせて、自分は椅子を持ってその前に座る。急かさない。夜はたっぷり時間がある。ありさが話し出すのを隆生は待った。

「去年、11月の終わり、検査に行ったの。その結果が12月に分かった」

 ありさの手を隆生が包む。目が、『それから?』と聞く。

「わたし……」

 しばらく生まれる沈黙。勇気の出ないありさを察して隆生が問いかけた。

「決心ついたんだろ? 10日だったよな? 病院の予約」

 ありさが驚いた顔をする。

「知って……」

 隆生の目が優しい。

「あの山でもそうだった。お前の一大事は俺が支えないとな。知ってるよ。お前、うろたえてたから検査結果の紙を落としたまま台所に行ったろ? ちょうど入って来た俺に気づかないで。だから読んだ。お前が言うのを待ってた。でも今日言わなけりゃお前を担いで病院に連れてくつもりだった」

 ぼろぼろと涙が落ちるのを止められない。

「うん……行く。もう大丈夫」

「じゃ、10日、一緒に行こう」

「はい。……ごめんね」

「なにが? 乳癌になったからか? 初期じゃないか。俺もずい分調べたよ。甘えとけ、俺のことは心配しないで」

「うん。それからこのこと、誰にも言わないでほしいの」

「それは状態次第だよ、ありさ」


 1月10日。ありさは再検査のために入院する。そしてしこりが一つではないことが判明する。すぐに手術。片方の乳房切除。整形手術は拒む。

事情を知ることになるのは、部長、真理恵のみ。そして、3月になって哲平と花はそれを部長から知らされる。

『お前たちが池沢を支えてやれ。三途もだ。頼むな』

 ありさはその後再発することなく無事に5年経過を迎え、やっと重いものから解放されることになる。

 その時まで、ありさは自分の中の不安と戦い続ける。愛しい夫、隆生としっかり成長していく穂高に支えられて。

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