19_まさなりさんがくれたもの

 哲平の話の後、しばらく時間だけが過ぎた。

「いい話だね」

 まさなりさんだ。

「男だとか女だとか。人種、国、職業。人を分けるものは実にたくさんある。それは驚くほどだ。なぜ分かれてしまうのだろう」

 なんとなくまさなりさんの呟くような言葉を聞いてしまう。


「生まれた時に、その子の未来は豊かに広がっている。しっかり握った手の中には何も無い。けれど少しずつ手の平が見え始める。開いて、握って、開いて。触れることによって少しずつ人は学んでいく。最初にその手の平が触れるものはなんだろう」

 まさなりさんが自分の手の平を見ながら開いたり閉じたりする。

「できれば温かい人の温もりであってほしいよ。ぼんやりとした目が形を捉えていく時、目にするものはなんだろう。何かと何かを隔てるような視線でないことを祈る。濁りの無いその目で美しいものを見て欲しい。可愛らしい形をした耳に届く音は澄んだ音や柔らかな声であってほしい」

 夢の中に漂うような空間が生まれている。

「そして透明な心で選んでほしい、自分がなにを大切にしたいか。自然でもいい、生でもいい、人でもいい。……美しい心は美しい心と出会う。魂が呼び合うんだ。そこにはなんの隔たりも無いんだよ。あるのはお互いの思いだけだ」

 まさなりさんはみんなを優しい目で見回した。


「それだけでいいと思わないか?」


 ジェイの目から涙が落ちた。華が手の平で頬を拭う。哲平は千枝を心の中で抱きしめていた。蓮は目を閉じてジェイが自分を記憶から消した時を思い出す。愛しい、ただ愛しい。今は自分はジェイの心の中にいる。真理恵の心の中には華への思いが叶った時の思いが蘇っていた。


「まさなりさん」

「なんだい? ゆめさん」

「私はあなたと出会えて良かったわ。あなたのお蔭で私の人生は美しく澄んでいます。そしてあなたは私に華をくれた。愚かな過ちも犯したけれど、そんな私たちを許してくれるような、美しい華を。ありがとう」

「私たちの魂は一つだからね。ゆめさんの目の中に私が映る限り、私はその目に醜い自分を映したくない。いつかゆめさんの目が閉じた時には、私も目を閉じようと思っているよ」



 それぞれの部屋に別れた。哲平と華、真理恵は子どもたちのいる部屋を覗く。

「幸せそうな顔をして寝ているな……」

 哲平が呟く。

「そうだね」

「うん、ホントね」

「俺な。病院に入っていた間、ただ苦しかった。息がまともに吸えないんだ。寝ても起きても胸が痛い。自分の心を捨てたいと思ったよ。それができたらどんなに幸せだろうってね。千枝のことを……忘れたかった。耳に残る千枝の笑い声を聞きたくなかった」

 華も真理恵も泣くのを必死に堪えた。

「耳を突いて、目を潰したいと思ったよ。出来ない自分が愚かに思えた。出来ない自分が情けなかった。心なんて要らないって思った」

 入院した頃の哲平は誰の声にも反応しなかった。天井を見てぴくりともせず、食べもせず飲みもせず、生きていないのと同じだった。

「どうやって自分がそこから抜け出したのか、俺さ、はっきり分かってないんだよ。いまだに分からない、何が俺を呼び戻したのか。きっかけはあったけど。けど……今日まさなりさんの話を聞いてて思ったよ。千枝の魂は消えてなかったんだろうってな。きっと俺が和愛のところに戻るまで見守ってくれたんだ。自分が遺した者を大切にしてくれって……多分、そうなんだ。千枝が俺の心を開いてくれたんだ。さっきそう思ってさ、千枝を愛して良かったって正直に思えた。和愛を産んでくれてありがとうって、そう思えた。俺は……生きていくよ、俺らしく」


 華と真理恵は自分たちの寝室に入った。

「もう哲平さんは寂しくなんかないんだね」

 そう言う華の頬に真理恵は触れた。自分の頬と同じように濡れているのを指に感じる。

「俺さ、初めてあの父さんの息子で良かったって思ってるよ。父さんと母さんが俺のところに帰ってきてくれて良かった。今日の言葉を聞けて良かった。マリエ」

「はい」

「俺も父さんみたいに見事にマリエを愛していきたい。同じようにはなれないけど、俺なりにマリエを愛していく。もう一度マリエに誓う。俺の中に正しい愛を持ち続けるって」

「はい」

 真理恵の言葉は必要なかった。華は真理恵を腕の中に抱き寄せた。


「蓮。俺、今日ここに来て良かった」

 蓮が微笑んだ。

「俺はもう下を見ないよ。蓮を真っ直ぐ見る。蓮はずっとそうしてくれてたんだ。その蓮に応えきれてなかったって分かった。でももう、誰かに『河野部長を愛しているのか?』って聞かれたら『俺の大切な人なんだ』ってちゃんと相手の目を見て言えるよ」

 蓮の大きな温かい手がジェイの顎を押し上げた。ジェイは少し開いた唇を蓮に捧げた。



「おはよう、お父さん!」

 同時に叫ぶ双子が胸に飛び込んで来て、新しい一日が始まったのだと華に教えた。

 今朝は台所で蓮、華、真理恵、哲平が朝食を作っている。ジェイは監督だ。ちゃんとみんなの動きを見るという、大切な役目を自分で自分に課している。

「和愛は?」

 哲平の足にじゃれついた華月に聞いた。

「今ベッドをきれいにしてる」

「そうなの! 和愛ちゃんってすごいよね!」

「和愛はね、お母さんに似てるんだよ。和愛のお母さんも哲平ちゃんがだらしなく起きると布団をきれいに片付けてくれたんだ」

「哲平ちゃんの面倒を見た和愛のお母さんってすごいね!」

 華月のおでこに小さなデコピンをする哲平は、昨日までの哲平より大きく見えた。


「あのさ!」

 みんなが哲平を見た。

「そんなに急にいい人間にはなれない。少なくとも俺は。けど何かが変わったような気がするんだ。それだけ今、みんなに言いたくなった」

「ゆっくり変わって行けばいいって思う。俺もちょっと違うんだ、昨日哲平さんに叩かれる前の俺と。だから哲平さん、ありがとう」

 華は真理恵と顔を見合わせて微笑んだ。

(俺も……マリエの瞳の中に醜い俺を映したくないよ。だから正しく生きる。何が正しいか、迷うかもしれないけど自分で決めていく)


 蓮はまな板にわかめを伸ばしながら口元に笑みが浮かべていた。

(そろそろいいかもしれない。R&Dでの俺を全部哲平に渡そう。もう新しい世界に出る頃合いだ。哲平を育てて華を育てて、あそこでの俺の役目は終わる)


 朝食は楽しかった。ジェイは肘でオレンジジュースの入ったコップを倒してしまった。走ったのは華音だ。

(急いで拭いてあげなくちゃジェイくんがお父さんに怒られちゃう!)

 慌てたジェイはTシャツの裾を広げてテーブルから垂れてくるオレンジジュースを受け止めた。

 勢いよく立ち上がった蓮は椅子を倒してしまい、「すみません!」と叫びながら転がり落ちるところだったコップを起こし、それ以上の惨事を防ぐためにナプキンを一掴みオレンジジュースの上に投入した。

 華は呆れた顔をしながらきれいな箸使いで構わずご飯を食べている。華音がバスタオルを持ってきてよく見もせずテーブルを拭いたからわかめの味噌汁が零れかけた。思わず椀を掴んだ華月。

「やるな、華月!」

「華月、カッコいい!」

 哲平と和愛の声が重なり、華月の頬が赤く染まる。


 朝から大騒ぎの食卓。それを見ているまさなりさんも夢さんも楽しそうだ。結局きれいに片付けたのは蓮と真理恵。

 蓮はオレンジ色に染まった真っ白だったテーブルクロスを横目に、何度も夢さんに頭を下げた。遅れて蓮に頭を押さえつけられながら謝るジェイのTシャツもオレンジに染まっている。

 まさなりさんは「きれいで元気な色だ」と、夢さんがテーブルクロスを洗濯機に持って行くのを嫌がった。


 罰として後片付けはジェイの役目になった。

「作る時は監督してただけだしな。『片付け大臣』に任命してやるよ」

「そんなのになりたくないよ! ……ありがとう、哲平さん」

 ジェイが洗って哲平が拭いている。

 哲平が勢いよく振り向いて後ろにいる蓮に話しかけた。

「俺、ジェイの兄貴なんですよ!」

「知ってるよ」

「だから宣言しときます。河野さんも俺の弟だってこと!」

 わけが分からないという顔をする蓮。

「だから内輪の時は呼び方を変えるよ、蓮ちゃん」

 すかさず蓮の蹴りが哲平の尻に跳んだ。

「10年早い! まだやんちゃ坊主のクセに」

「じゃあ、俺も蓮ちゃんの兄貴ってこと?」

「華、調子に乗るなよ」

「いいじゃん、団子4兄弟ってことで」

「うん! いい。それ! ……ね、お団子食べたくなった」

 蓮と哲平と華からため息が漏れた。

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