20_変化

-華月-

 和愛を見てるとドキドキしてくる。なんだか変! 前はこんなじゃなかったのに。顔が熱くなるから急いで下を見るけど、見られた気がして汗が出ちゃう! 

 木下が急に和愛に優しくなってすごく頭に来る。和愛を見るなよ!

 男女で並ぶと和愛は前から3番目。その隣は大木ってヤツ。大木っていつも大人しいのに、なんで和愛にはあんなに喋るんだろう。


-和愛-

 また見てる…… ここんとこ華月がおかしいからどうしていいか分かんなくなる。あ、また下を向いちゃった。時々睨んでるような顔するし。でも急に振り向いて来たりにこっと笑われたりすると、私も赤くなってるみたいな気がしてくる。

 昨日も友だちが華月のこと話してた。きれい過ぎるんだ、華月って。みんなが華月の話をするから、私の華月じゃないみたい……


-華音-

 クラスの男の子で優しい子が何人かいるけど、やたらと笑って喋るから気持ち悪い。

 それより昨日のジェイくん、可愛かった! トマト齧ってたらピュッてトマトの汁が跳んであのカッコいい鼻が濡れたの。目をぎゅっと瞑って、でもまたトマト齧ってもう一回汁が跳んで。見てて面白いからタオル取りに行けなかったら、ぶちょーさんが急いで顔を拭いてあげてた。華音がやってあげたかったのに。


-椿紗-

 土曜日に華おにいちゃんとこに遊びに行った。華月くんが和愛ちゃんのことばっかり見てるから、和愛ちゃんがちょっと嫌い。でも和愛ちゃんは優しいから困る。華月くんのそばに行くとすぐにお父さんが呼ぶから、お父さんもちょっと嫌い。


-穂高-

 椿紗にもらったチョコを捨てろってパパが言うから捨てたふりしてズボンのポケットに入れてたら溶けちゃった。手を突っ込んだ時指がチョコだらけで舐めてたらママに頬っぺた抓られてズボンを脱がされた。ママみたいなのを『おーぼー(横暴)』って言うんだ。まだ全部舐めてなかったのに。


 恋はまだ蕾。大輪になる日は遠い。蕾のまま枯れる華もある。蕾を中心に咲いていく小さな華もある。その華たちに蕾は咲き誇るまで悩まされることになる。



「これ」

 いきなり突き出された真新しい消しゴム。

「なに?」

 受け取るわけにも行かず和愛は譲の顔を見上げた。華月がいない休み時間。急にそばに来た譲にどうしても身構えてしまう。

「やる」

「いらないよ」

 早口で答えてしまう。

「やる!」

 机に譲の手が音を立てて、置かれた消しゴムに体がビクリとした。その反応に譲の体もビクリとする。何か言いたそうにしたけれどそのまま教室を出て行ってしまった。

「大丈夫?」

「何されたの? 華月くんが帰ってきたら言ってあげる」

 この頃はそんな余計なことを友だちはしてくれる。和愛のことなら目を見て聞いてくれる華月だから、クラスの女の子たちは和愛に親切だ。

「いいの、なんでもないから」

 消しゴムを置いていかれただけだ。ただその意味は分からないけど。哲平は譲の隠れた思いを和愛に言っていない。それは当事者たちの問題だから。


 哲平が千枝との愛で学んだこと。あるがままを受け入れ、流れに身を任せること。だから娘の恋愛模様には口を出したくない。ましてまだ6歳だ。微笑ましくはあっても本気で捉えることじゃない。この辺は華と大きく違う。

 哲平には華も微笑ましく見える。あれはあれでいいのだと。

(あの華が小さな女の子であそこまで一喜一憂するとはなぁ。いいことだ)

そんな思いで見ている。それも止めることじゃない。からかう対象ではあっても。


 廊下から走り込んできた華月を見て(あーぁ)と思った。やはり友だちは華月にさっきのことを言ったらしい。

「なにされた、和愛!」

 もうクラスの子たちも公認だ。和愛のことになると華月は本気になる。本気になっている華月を相手にトラブルを起こしたくない。

 華月は奥手で可愛い性格からすでに脱却している。そこに見えるのは華父の片鱗だ。

「なんでもないよ、急に消しゴムをもらったから驚いただけ」

「消しゴム?」

「うん、これ」

 さっき置かれたままそこにある消しゴムを指差した。

「なんでもらったの?」

 ちょっと華月の怒りが鎮まり始めている。

「分かんない。何も言わないで置いてっちゃったから」

 その時チャイムが鳴って譲が教室に入って来た。和愛の止める間もなく、華月はその消しゴムを掴むと席に着いた譲の前に立った。消しゴムを置く。

「なんでこれ、和愛に渡したの?」

 譲の顔がしかめっ面になった。答えないまま国語の教科書を出す。

「返事しろよ」

「この前の消しゴムの代わり」

 この前の消しゴム。華月にはピンと来た。だいぶ前に譲が和愛の顔に投げつけた消しゴムのことだ。

「いらない。和愛、持ってるし無かったら僕のを貸すから」

「お前には関係無いよ、俺が和愛にやったんだから」

 その一言が華月の治まりかけていた怒りに火をつけた。

「お前が『和愛』って呼ぶな!」

 ちょうど入って来た杉原先生は、(まただ……)と思った。正直言ってもうこの二人、いや三人にあまり関わりたくない。バックについている親を考えてしまう。

「席につきなさい、宗田くん」

 譲を睨んだまま華月は席についた。和愛の斜め左後ろ。席に行く途中で和愛の困った顔を見た。

 頭に来ているのと、和愛に心配かけたことで華月の心の中は乱れている。それでも手を上げて発表もするし、聞かれたことには淀みなく答えていく。華月は音楽以外は優秀な子だ。華の遺伝子はしっかりと双子に受け継がれていて、形は違うけれど二人に大きく影響を与えていた。真理恵の遺伝子が活躍するのはもっとずっと後だ。


 一日の授業が終わるまで華月は譲に近づけなかった。休み時間に立とうとすると和愛が振り向いて小さな声で「やめてね」と言うからだ。

「分かったよ」

 二人の会話は短い。三つ子のように育った彼らには、多くの言葉が要らない。

 けれど放課後にはそれが一転した。譲がまた和愛の机に消しゴムを置いたからだ。ランドセルを背負って教室を出ようとした譲の前に華月が立ちはだかった。

「これ持って帰れよ」

 華月の手に消しゴムが載っている。

「どけよ」

「持って帰れ」

 睨み合いが続く。和愛が慌てて華月の手の平の消しゴムを取る。

「いいよ、悪いことされたんじゃないから」

 和愛にしても本当は受け取るのはイヤだ。けど華月がケンカするのはもっとイヤだ。

「もらうね、ありがとう」

 その言葉に譲の目が和らいだ。もごもごと何か言ったが、それはよく聞こえない。譲は「ありがとう、ごめんね」と言ったのだが。

 素直に感情を顔に出せない譲だから、華月は悪口を言ったのだと取り違えた。いきなり譲の胸を両手で突いた。

「やめて!」

 和愛がその手を掴む。華月は和愛を下がらせて譲のそばから離した。

「王子さまは大変だな」

 そのまま背中を向けた譲のランドセルを掴んだ。

「華月、お願い、やめて」

 もう周りの子たちは、どうなるのかとハラハラじゃなくて興味津々で帰りもせず立っていた。


 誰かが掃除ができないと訴えに行ったのだろう、杉原先生が内心うんざりといった様子でやってきた。

「なにやってるの?」

 三人とも答えない。先生もあまり細かく聞きたくない。今日の掃除当番の子の困った顔を見てすぐに結論を出した。

「木下くん、宗田くん、今日の掃除はあなたたちがやりなさい」

 今度は華月の返事は早かった。

「僕一人でやります」

「いけません、二人でやりなさい。ケンカをしたからよ」

 先生は喧嘩両成敗という、教師としては穏便な形を取った。

「俺、ケンカしてないし。宗田が勝手にケンカ吹っかけてきたし」

「木下くん、」

「先生、僕、こんなヤツと掃除したくないです。一人でやります」

 膠着状態が続く。

(もういい加減にしてよ)

 教師三年目の杉原先生。こんな厄介な生徒たちは初めてだ。譲の心は掴めないし、華月は妙に大人で決断が早くて頑固だ。

「先生、今日は木下くんは何もしてないです。だから華月がやればいいと思います」

 先生は理由を聞くより和愛の言葉に飛びついた。

「そうだったの? じゃ木下くんは帰っていいです。宗田くん、一人でやることになるわよ」

「いいです」

 トラブルの元に違いない和愛が言うのだからそれでいいと杉原先生は逃げた。

「じゃ、お願いね。他の人は帰りなさい。お当番の子も今日はやらなくていいです」


 和愛と二人になった教室で華月は黙々と机を拭いていく。「私もやる」と言った和愛にはやらせない。なんとなく華月が怒っているのを感じた。

「私が先生に言ったの、怒ってるの?」

「別に。一人でやりたかったし」

 正直、怒っている……というより、和愛が譲の味方をしたように感じていた。それに終始『なにもしてないよ』と譲を庇っていた。

「じゃなんでそんなに怒ってるの?」

「怒ってないって! 先に帰れよ!」

 和愛の口がへの字に曲がった。これは泣き出す兆候だから口調を和らげた。

「遅くなっちゃうから和愛は帰っていいって」

「華月と一緒に帰る」

 それ以上華月は逆らわなかった。和愛の悲しい顔は見たくない。

「じゃ急いで終わらせるから」

 それを聞いて和愛もほっとする。

「私、ドリルやってるね」

 算数のドリルを開いた和愛の横顔が少し微笑んでいるから華月も穏やかになっていく。


 帰りはアニメの話をしながら帰った。

「遅かったね!」

 華音には余計なことを二人とも言わない。教室が違えばこういうものだ。

「掃除してたから」

「ふうん。あのね、華音も掃除当番だったんだよ。でもひろせ(廣瀬)くんも小西くんもやらせてくんないの。それでニコニコしてるんだよ。バッカみたい」

 華父の遺伝子は華音にはどうやら悪さをしているようだ。大器晩成の華音は、何度か辛い目を見て真理恵の血が目覚めていく。

「なんだよ、自慢してんの?」

「違うよ、ホントにバカみたいだから。華音がそういうの出来ないって思ってるのかな。小さい男の子って、めんどくさい」


 8時過ぎ、哲平が和愛を迎えに来た。

「ごめん、真理恵! いつも悪いな」

「大丈夫だよ。ね、和愛ちゃん」

「うん! ちゃんと宿題は華月とやったし」

「そうか。華月、ありがとうな」

 華月がにこりと笑う。なにせ哲平に和愛のことを頼まれている。だから大手を振って和愛を守れるのだ。華月が見せるその気持ちの重さは、徐々に和愛を疲れさせてもいるのだが。


「夕飯、食べていくでしょ?」

 真理恵は返事も待たずにテーブルに食事を並べ始めた。それを見て、悪いとは思いつつも哲平は座った。

「いただきます! 真理恵、明日から俺の夕飯用意しなくていいよ。帰り何時になるか分からないし」

「でも華くんもまだだし。今日は何時ごろ帰って来るのかな」

「多分9時は過ぎると思う。真理恵」

「なに?」

 風華を抱いて座っている真理恵にこれは言っておこうと思った。

「これからしばらく華は忙しくなると思う」

「そうなの?」

「あいつはまだ知らないけど10月からポストが変わるんだ。河野さん、今度の3月で会社辞めることにしたらしい」

「もっと先かと思ってた!」

「俺も来年になるとは思ってもいなかったよ」

「……待ってたもんね、哲平さんが帰って来るの」

「悪かったと思ってるんだ。部長の予定を俺のせいで大きく狂わせたからな」

「でもそう思ってないと思うよ」

「うん。河野さんはそういう人じゃない。俺、入社したときからあの人の下で働けて良かったって思ってるんだ。いろんなことを教わった。あの頃はまさかあの人の跡を継ぐようになるとは思ってもいなかったけど」

「ホッとしたんじゃないかな。仕事を辞めようと思ったのはきっと前からだったと思うの。でも辞めるに辞められなかったって、言ったことあったよ。笑ってたけどね」

「あの後をやるのは大変だよ! 普通じゃない業務量をあの状態で一人でこなしてたんだからな。部長補佐もいなかったわけだし。俺には補佐がつくんだ、泣き言なんか言ってられない。それに和愛のことも考えられるように体制を作ってくれた。こんなこと、他の会社じゃ許されないよ」

 蓮は帰って来る哲平の場所を守るために、あえて部長補佐を置かなかったのだ。補佐を通り越して休職していた者が部長になるわけには行かない。

 部長になる哲平には来年の4月からの会社組織の構成が伝えられていて、その準備にも追われている。

 哲平が部長。部長補佐は華。統括課長は、第一部門が池沢。第二部門は田中。課長、チーフも大きく変わり、井上はR&D配下の総務課長になる。


「ジェイだけど」

「ジェイくん?」

「3月で会社辞めるってさ」

「え!?」

「華……ショック受けるだろうなぁ。でもジェイの気持ちは揺らがないと思うよ。俺、二人のことを聞いてて良かった。そうじゃなきゃ引き止めている。あいつの存在はデカいから。R&Dの安定剤みたいなもんだからな。それと華の」

「大丈夫かな、華くん……」

「会えなくなるわけじゃないし。そう言ってたよ、河野さんが。『意外なところで会うことになりそうだ』ってね。茶目っ気たっぷりで言ってた。俺はそれが楽しみなんだ」

 まだ二人のこれからのことを誰も知らない。常務でさえ知らないようだった。常務はまだ蓮の退職を納得しておらず、儚い抵抗を試みている。どうしても自分のそばから離したくないのだ。

『俺の構想をまさかお前が壊すなんてな』

 昨日の打ち合わせの帰りに三人で寄った料亭でも大滝常務は恨みがましく言っていた。

 料亭なんか縁の無かった哲平。こういうつき合いも必要になって行くのだと、常務に連れ回されている。今は哲平が8時くらいまでには帰れるようにしてくれているが、それから先は分からない。蓮は独り者だったから融通がいくらでも利いた。いろんなことが未知数のままだ。

「家を買えよって言われたよ、部長に。けど何から何まで変わったら俺じゃなくなるような気がしてさ。だから当分あそこから離れる気、無いんだ」

「哲平さんらしいね」

 そんな崩さない一面を持っているからいいのだろう。こんな状態と言いながらも、哲平の精神状態は安定しているように見えた。あれだけの地獄を抜け出した後だ、ちょっとやそっとで立ち止まる哲平ではないだろう。


「それよりさ、学校で変わった様子は無いのかな。あの譲って子とかさ」

「華月がしょっちゅうケンカしてるみたいで。どうしちゃったんだろ、あんなに穏やかな子だったのに」

「いや、多分ホントの華月が見え始めてるんじゃないかな」

「ホントの華月って?」

「華に似てきたよ、あいつ。親だから分かんないことってあるさ」

 自分をずっと大人しい息子だと思ってきた母勝子のことを考えると可笑しくなる。

『あんたがこんなに立派になるなんてねぇ』

 部長になるんだと広岡に聞いたらしく、哲平に感嘆の声を上げた母。

『お前ならやれるって、そう思っていたよ。俺にそっくりだからな』と、誰もそう思っていなかったこと……本人でさえそう思っていないことを当たり前のように口にした父彦助。


「これからのあの子たちが楽しみだよ」

「そう? 哲平さんは大人だからね。私も華くんも毎日びっくりしたり焦ったりって、忙しいよ」

「お前たち親子は見てて楽しい。だからずっとびっくりしてていいよ」

「人のことだと思って」

「実際そうだからな」

「今度ひじきに唐辛子入れとくね!」

「わ、華じゃないんだから。真理恵、あまり辛い物を食べさせるな。あいつ血圧正常なの?」

「大丈夫だけど」

「気をつけとけよ。あいつは健康を過信してるし。周りが管理しないとあのバカ、どこまでも突っ走るぞ」

「はい。気をつけます。今度の週末はどうするの?」

「堂本の家に行ってくるよ。多分泊まりだ。屋根の調子も見ておかないと。雨漏りが心配なんだよ。雨戸も新しくしたいな」

 哲平にとっては堂本家も実家のようなものだ。千枝と結婚する前と変わらず堂本家と行き来している。

「俺が忙しくなるのを見て、近くに引っ越してこようかって言ってくれたんだけどさ、俺としては千枝が生まれ育った家を失くしたくないんだ。だからそれは断った。今度華月と華音も連れてっていいかな」

「もちろんだよ! あの二人にはいろんなことを見て聞いて育って欲しいの。まさなりさんやゆめさんは特別だけど、いろんなことに触れることは大切だよね」

「よくあの二人から華みたいなのが育ったよな」

 それは真理恵にしか分からないことだ。

「いろいろあったから。華くんの二人を見る目が変わってほっとしてるの。まさなりさんもゆめさんもそれを感じたらしくてね、今度あちこちブラッとしてくるって。イタリアとかロシアとかドイツとか」

「あの二人の生き方は真似できないなぁ! お祖父さんやお祖母さんも独特だけど、あんなぶっ飛び方してないだろ?」

「そうだね……そう言えば私、まさなりさんたちの子どもの頃って知らないんだ!」

「聞くのも怖そうだけどね」


 華がしんどい顔をして帰って来るまで哲平はいた。もう10時を過ぎている。

「お疲れさん」

「疲れたぁ! ね、なんかあんの? この頃の仕事の回ってくる感じ、半端じゃない。前とだいぶ違うんだけど」

「さあね、そこまで細かいことにタッチしてないからね。知ってたら教えてるよ」

 脇で聞いていた真理恵は思う。

(巧みな話術? 哲平さん、立派な嘘つきだよ!)


 眠っている和愛を抱っこして帰って行く哲平を見送って、華のところに戻った。箸を持ったままそこにごろっと寝入っている華。

「お疲れ様。でもこれからなんだね、本当に大変になるのは」

 箸をそっとその手から抜き取った。

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