17_ピーマン物語

 華音が好き嫌いをしている。これは真理恵にとって由々しき事態だ。

 夫の華くんには好き嫌いがある。甘みのあるものが嫌い。あまりぐにゃぐにゃしているものは食べたくない。例えばはんぺん。なぜあれが存在するのかが分からないという。

『だって主体性、無いじゃん!』


 だがしかし、華くんとは長いつき合いなので、致し方なし! という気持ちがある。だいたい『あの宗田家』で育って好き嫌い無しの子どもが育つわけが無かった。


 だがしかし、『この宗田家』では好き嫌い無しの子どもしか育たないはずだという自信が真理恵にはある。何ごとも決めてかからない真理恵の、育児に対する唯一の拘りはそこだった。

 曰く『食生活は人生を支配する』。


 華音が急に自分の器というテリトリーから徹底排除し始めたものはピーマンだった。理由は、

『だってジェイくんが食べられないんだもん。一人だけ食べられないって可哀そう!』

 だから真理恵はジェイにフライ返しを突き付けて宣言した。

『華音がピーマンを食べるために全面協力してちょうだい! じゃないと、出入り禁止よ!』

 出禁は華の専売特許だが、まさかの真理恵の出禁宣告。ジェイは本当に泡食った。


「華音ちゃん、お願い、ピーマン食べて」

「いや」

「お兄ちゃん、ここに来れなくなるよ」

「じゃ、『けっこん』して『まんしょん』で生活しましょ、あなた」


「ジェイっ! 人の娘と駆け落ちする気か!?」

「華さん、そんなわけ無いでしょ? だって俺は」

『蓮と結婚してる』という言葉は危うく呑み込んだ。


「だって、なに? ジェイくん、華音と『けっこん』したくないの? 華音を嫌いなのね?」

「泣かないで、華音ちゃん! そんなわけ無いでしょ!」

「じゃ、『けっこん』して」

「ジェイっ!」


 真理恵はこの件に関してジェイを助ける気が無い。

(だって華音が好き嫌いだなんて! ジェイくん、許さないからね!)

 華は真理恵の意外な面を見て不思議な気がした。自分に食べる物で何か強要したことなど無い。

「マリエ、どうして俺には何も言わないの?」

「だって華くんだもん。許してあげる」

「あ、そう……」

 分かるような、分からないような。

(いや、分かんない)


「哲平さん、真理恵さんを説得して!」

「お前がピーマン、食えばいいだろ? そしたら全部解決だよ。それを見れば華音だってピーマン食べるさ」

「そんなぁ……」

 味方がいない。どうしたらいいのか。

「広岡さん、俺、困ってる」

「どうした?」

 広岡はジェイに甘い。それもめっちゃ甘い。話を聞いて真理恵との仲立ちを買って出ようとした。

「哲平さんの義理の弟さん!」

「はい!」

「私よりジェイくんの味方?」

「いや、真理恵ちゃん、そういうんじゃないんだ。ただジェイも可哀そうだろ? 華とあれだけ仲がいいんだ、出禁は無いよ」

「ジェイくんの味方なら、広岡さんも出禁!」

「え?」

 池沢も失敗した。さわじゅんも撃沈。野瀬たんは大好きなサトイモの煮っころがしで真理恵側に寝返った。尾高は成功するかに見えたが、瀬戸際で真理恵が我に返ってしまった。浜田は論外で、柏木は結局は真理恵のご機嫌を取って帰った。


『真理恵さん、お願い!』

 家に入れないからジェイは電話をかけた。

「ジェイくん、あちこち泣きついてるみたいだけど往生際、悪いわよ。諦めて華音の目の前でピーマンを食べてちょうだい」

『真理』

――ガチャン!



――ジェイサイド

「蓮、助けて! 真理恵さんを説得して!」

「いい機会じゃないか、ピーマン克服してしまえ!」

――ジェイサイド終了



 会社でのランチの時間。

「食えよ、我慢して」

「じゃ、華さん! 俺の目の前でパフェ2つ食べてよ! そしたら頑張る!」

「う!」

「無理でしょ? どうして俺だけ怒られるの?」

「わ、泣くな! あっちの女の人が見てる! ……哲平さん、どこ行くの?」

「同じテーブルにいられん。俺まで同類に見られる」


 4階での休憩。

「華さん、お願い!」

「おい……頼む、休憩中は休憩させてくれ……」


 とうとう中山に相談した。

「……というわけなんです」

「それ、手詰まりだね」

「中山さんも望みなしって思うの?」

「無いね」

「……中山さん、最後に真理恵さんと話したの、いつ?」

「夕べ。釘刺されたよ。『ジェイくんが何言っても無駄ですから』ってね。お前が俺に相談するの分かってたみたいだよ」



 とうとうジェイは腹を括った。あれから2週間。華の家に入れないのは拷問と同じだ。

「明日の土曜、行きます!」

 ジェイは真理恵に再度電話した。

『じゃ、いいのね?』

「覚悟しました」

『じゃ、待ってる』


 ――再び、ジェイサイド――

 ジェイは最後の審判を迎えるような気持で、一晩悶々として過ごした。蓮の伸ばしてきた手も叩いて振り払った。

「裏切者! 嫌いだ、バカ蓮!」

「ジェイ、明日のことを考えて眠れないんだろ? 来いよ、眠らせてやるから」

「ドスケベ蓮! 蓮の頭にはそれしか無いんだ! 俺は明日ピーマン食べて死ぬんだ!」

 翌日、夕食をご馳走になるということになりジェイはスーツを着込んだ。一番お気に入りのスーツだ。

「ずい分張り切ってるな!」

 蓮が思わず口笛を吹いた。

「蓮……」

 蓮の体にしがみつく。

「死に装束、なんだ…… もう会えないね」

 しっかりと唇を合わせようとして目を閉じた。途端に両脇に蓮の手が潜り込んだ。

「な、なに、す、やめ……やだ、ひひ、はふ、ふあはは、や、め、」

 蓮は散々くすぐってジェイを解放した。

「どうだ、緊張解けたか?」

「解けたけど! 蓮なんか大っ嫌いだ!」

「はいはい」

――ジェイサイド終了――



「お邪魔します!」

 玄関を開けた途端にジェイは大声を上げた。

「おい、挨拶というより殴り込みだな!」

「こんばんは、華さん。本日はお招きに預かりまして」

「ジェイ、なんの真似だ?」

「俺、……華さ、ん、体、動かない」

「まったく! ストレス性の緊張か? 大丈夫だから入れ。お前さ、電車で来たんだな」

「そ、うだけ、ど」

「足元、見ろよ」

「あれ? え、蓮来てるの!?」

 華の眉間にしわが寄った。

「やめろ。子どもたちもいるし、哲平さんも来てるんだ」

「あ」

 口を閉じて上がった。今度は体がすんなり動く。

(部長効果って抜群だな…… そう言えばどっちが夫だ? ……部長に決まってんじゃん! うあっ、余計なこと考えた!)

「ちょうど良かったな。さっき河野さんが来たんだ。久しぶりに子どもたちに会いたいってさ……ってか、なんで涙目なんだ?」

 哲平の不思議そうな声に、急いで袖で目を擦った。

「わ、ばか! そのスーツ!」

 つい叫んだぶちょーは慌てて口を閉じる。

(一番のお気に入りなのに)

要するにぶちょーはとことんジェイに甘い。

「どうしたの? ジェイのスーツ、なんかあるの?」

 哲平がぶちょーを振り返った。

「い、いや、高そうだから勿体ないって思って」

「ああ、確かに高そう。いいから座れよ。お前、死刑囚みたいな顔してんな」

 ピーマン事件を知っているくせに哲平はジェイで遊んでいる。


「ジェイくん!」

「華音ちゃん!」

「わ、素敵! けっこんしき、するの? 華音も着替えてくる! テレビでやってた、『ふつかですが』ってジェイくんに言うの」(ふつつか)

「華音! ジェイ、どうしてくれるんだ! やっぱり華音狙いか!?」

「華、そんなわけ無いだろ? いきり立つなよ」

「ええ! どうせ俺なんか心狭いですからね、ぶちょー! ちっぽけなんですよ、人間が!」

 ちっぽけな華父が不貞腐れたところで真理恵が食事を並べ始めた。


「えええええ!!!!」

 これはしょうがないと、全員が思う。ジェイが叫ぶのも無理はないと。


<本日のメニュー>

〇ピーマンの肉詰め

〇青椒肉絲チンジャオロース

〇青々としたピーマンと赤や黄色のパプリカが見え隠れするレタスサラダ

〇ピーマンのおかか醤油

 ※ピーマンのおかか醤油のレシピ※

  1.ピーマンを1センチくらいの幅に切る。

  2.ごま油をひいたフライパンでピーマンをさっと軽く炒める。

  3.しょうゆを入れて絡めたら火を止める。

  4.盛り付けて、かつお節を乗せる。


「はい! 栄養満点! 召し上がれ」

 ジェイにはにっこりと笑う真理恵が、初めて死刑執行人に見えた。ロボットのようにジェイが言葉を紡ぐ。練習してきた。

「わぁ、美味しそー。華音ちゃん、ピーマンって意外と美味しいって分かったんだ、一緒に食べよー。いただきます」


華 :(許せ、ジェイ!)

哲平:(あ、ジェイ、人間でいることを放棄したな)

蓮 :(愛してる…… 最後まで見届けてやるからな)


「ジェイくん、ピーマン好きになったの?」

「そーだよ、華音ちゃん。ジェイくんはピーマンが大好きになったんだ。わぁ、美味しいね、わぁ」

 次々と笑顔が貼りついたままジェイは皿も見ずにご飯も口に入れずにピーマン料理を口に突っ込んで行った。

 けれど、サラダを口に入れたところで、完全崩壊した。フリーズだ。

 華月が立ち上がって静かにジェイの手から箸を取り上げ、水の入ったコップを口にあてがってやった。こくこくと素直に飲んでいくジェイの目から涙が流れ始める。

 華月がキツい顔で華音を睨んだ。

「華音! 我がまま言うな、ピーマン食べなさい! お母さん! これ以上ジェイくんにピーマン出したら僕、許さないからね!」


 アイス、プリン、ゼリーが並び、カリントウ、キャラメル味のポップコーンが大皿に載ってジェイの前に置かれた。ぶちょーが買ってきたのだ。

「頑張ったな、ジェイ」

「ホントだよ! お前はたいした男だ、兄ちゃんは嬉しいぞ」

「ごめん…… ジェイ、ホントにごめんな。マリエにも後でキツく言っておくよ、やり過ぎだって」

 次々と目の前のものを平らげていくジェイは、口一杯お徳用のカリントウを頬張ってやはり涙目で頷いた。

「ぼう、びーばん、たべだくで、いい?」

(もう、ピーマン、たべなくて、いい?)

「わっ! 汚ねぇ! カリントウ満タンの口で喋るな!」

 華は飛び下がるし、哲平は眉をひそめて汚いものを見るようにジェイを見た。

(口の周りがカリントウだらけだよ。テーブルにも飛び散ってる……触りたくねぇ!)

「いいよ、俺が片付けてやる」

 ぶちょーは浴室の方に行き、タオルを出してきた。それを濡らしてきてジェイの顔をよく拭いてやる。台所から布巾とビニール袋を取ってきてテーブルの上をきれいに拭き、タオルも布巾も袋に入れた。

「これは持って行く。ジェイは俺が送るよ」

「お願いします。ジェイをまともにしてやってください」

 ジェイはぶちょーに促されるままに帰って行った。


「ぶちょーってさ、ジェイに甘いよな。広岡や野瀬さんも甘いけど上を行ってるよ」

「保護者だからね」

 華も機械的に答える。

(……夫婦だなぁ……)

ちょっと華は感動している。


 その後、宗田家では誰もピーマンの好き嫌いをせず、ピーマンという単語はジェイの前ではタブーになった。

 華月に散々説教された真理恵はいたく反省し、ジェイに謝罪した。

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