16_緊急事態-後編
「今度の土曜?」
「あのね、土曜の夕方からご主人が出張なんだって。木下さんは嫌がってるみいだけど、ご主人の方は一緒に来たいって言ってるんだって」
今日は木曜だ。昼食を食べながら今回の騒動のことで池沢も交えて話をした。ジェイも一緒にいる。
「仲良くしたらいいのに……1年生なのに大変だね」
「おい! パフェを器ごと持って言うな! 緊迫感が無いんだ、お前を見てると……池沢さん! 拭いてやって、そいつスーツにクリーム落とした!」
溜息をつきながら隣に座っている池沢が、左手に器を、右手に長いスプーンを持ったままのジェイの上着の裾をお絞りで拭いた。
「ばか! 動くな……広がっただろう! まったく!」
3人は同時に同じことを思っていた。
(『親父の会』にこいつを連れて来るのはやめよう。自分の子どもより始末が悪い)
「で、土曜子どもたちをどうするんだ?」
「それなんだよね。まさかウチに来るって言うとは思わなかったからさ」
「いいことだと思ってるんだ、俺は。だって自分のテリトリーを出て話そうってんだから歩み寄る姿勢があるってことだろ? 動物ってのはテリトリーから出たがらないもんだ」
(相変わらず動物的!)
こういう変わらない哲平を見るのが今は華には快感になっている。あの一時期……もうこんな会話ができるなど思えなかったから。
「俺、面倒見ててあげるよ」
「却下!」
「却下!」
「却下!」
3人から却下されて途端にジェイはしゅんとなった。
「だめだ、そんな顔しても。お前にあの3人を預けるなんてとんでもない! とくに華音がいるからだめだ!」
「華さん、俺、華音ちゃんをうんと大事にしてるけど」
「だめ!」
不貞腐れたジェイの顔に苦笑しながら池沢が提案した。
「俺のところはどうだ? 学校が始まってから穂高も会えなくて寂しがって……」
すかさず華が突っ込む。
「そこで言葉止まる? だいたい穂高が寂しそうって想像もつかないんだけど」
「親父っさんじゃないけど、穂高って大物だよな。一家の跡継ぎって言われても驚かないよ」
「やめてくれ。その話はしたくない。あいつは親父っさんの大のお気に入りなんだから」
「親が親だからねぇ」
「親は、親なんじゃないの?」
「ジェイ、お前はいいからパフェ食ってろ」
「なんならもう一つ奢ってやる」
哲平が太っ腹なところを見せる。それに真剣に悩むジェイは来年30歳なのだ。会社では今では『永遠のお子さま』などと呼ばれている。
「いいから連れて来いよ。土曜は午前中に来るんだろ? なんなら金曜に迎えに行くよ」
「いいの?」
「いいさ。双葉も喜ぶし。そう言えば穂高、和愛に何かもらったんだって? 大事にしてるって言って喜んでたぞ」
なんの話だろう? と思う。最後に会ったのは……
「え、まさかチョコの話?」
「チョコ? あれから何ヶ月経ってるんだ! 食うか捨てるかさせないと!」
哲平が吹き出した。
(あれ、チロルチョコだったよな)
懸命にもそれは口に出さない。
「じゃ、頼んじゃおうかな。哲平さん、どう?」
「有難いよ、池沢さん。感謝!」
哲平は池沢に手を合わせた。
いったんオフィスに戻ると3人の間にはしっかり職位という境界線が出来る。哲平は部長補佐だ。池沢は二つに分かれたR&Dの第二部門の統括課長。華は第一部門で課長だ。すでにR&Dだけで一つの組織として動いていて、そこには独自の総務課もある。営業部も似たようなもので、営業部長はチャラい坂崎がやっている。河野部長は『いつ会社が崩壊してもおかしくない』と危ぶんでいるらしい。ついでにジェイは華の課長補佐だ。
とにかく、金曜の夜は子どもたちは池沢家に行くことになった。風華を莉々に預けることにしたので、きっと広岡も池沢家に行くと言い出すだろう。
――ここでちょっと裏情報――
会社とは違う別組織が彼らの中にある。それが『R&Dファミリーの会』だ。本体には田中家、和田家、小野寺家などたくさんの家族が所属している。行事など何かあると会報も発行されるし、たまにイベントも開催される。今年はキャンプはどうかと検討中らしい。
今は総務も併せて約70名という大所帯。様々なファミリー模様が咲き乱れている。もちろん強制参加ではない。
ああ、強制参加を強いられた者が2人いた。部長は大滝常務と共に昨年『名誉理事』として就任させられ、主に寄付金をむしり取られている。
柏木が子どもが生まれたこともあり参加申請をしているが、奥さんが美人過ぎるので検討中だそうだ。これは単なるやっかみによる嫌がらせである。
華の率いる『親父の会』は、その下部組織というわけだ。
『Father's Club』っていうのはどう? と誰だかが言ったが、ジェイが『略してファザクラだね!』と得意そうに言ったのが女性たちから大
メンバーは華、哲平、池沢、広岡の4人。尾高を特別顧問にして時々相談している。ただ時々ありさが乱入してくるのでそれには皆戦々恐々としている。
――物語へ戻る――
金曜の夕方だ。
「なんだって? 子どもたちが集まる?」
ありさが『至急米を寄越せ』という指令を出したため、洋一が支度をしていると親父っさんが聞きつけた。すぐにありさに電話だ。
「お前のところは手狭だろう」
『構わないわよ。たまにはそういうごちゃごちゃしたのも面白いし』
「子どもらが可哀そうじゃねぇか! こっちに連れて来い、いくらでも部屋はある」
ありさはちょっと考えた。確かに片付けも家事も必要なくなる。
(デメリット、ある?)
一つある。夫の隆生ちゃんがいい顔しないだろうということ。そこに親父っさんが畳みかけた。
「この暑さの中、どうするんだ? トイレも混むぞ。風呂は?」
『手を打った! 連れてくわ』
「いい、今夜迎えに行く。飯は作っとくから」
親父っさんはほくほくしている。穂高にすぐに電話した。
「穂高か? 爺じだよ。今夜爺じんとこに泊まりに来ることになったぞ」
『ホント?』
それほど口調は変わらないのだが、爺じには穂高が興奮しているのがちゃんと伝わってきている。
「今日は夕飯、何が食いたい?」
『うーん、鮪の叩き丼』
「相変わらず渋いねぇ! よし! 活きのいい鮪を仕入れといてやる」
『他の子はハンバーグがいいと思う』
「分かった! 爺じに任せておけ!」
無事に子どもたちは広岡の車で池沢家に向かった。やはり莉々がけしかけたようで、広岡も着替えを持って移動だ。どうやら一晩で終わらせる気が無いらしい。
「良かったよな、こういう仲間に恵まれてさ」
哲平は今夜は宗田家に泊まることにしている。これは華が哲平を一人にしたくないからだ。
「久しぶりに二人だけで一杯やんない?」
「お! いいね!」
真理恵はお風呂に入って早めに寝たから哲平が冷蔵庫をごそごそと漁った。
「おい! この枝豆解凍するぞ」
「俺ビール買ってくるよ。4本くらいしか無いから足んないでしょ?」
「そうだな」
哲平はつまみ担当、華は買い出しだ。やっと二人で乾杯をした時にメールが来た。
「誰?」
「あれ? 親父っさん……」
『子どもたちは預かった。そっちが落ち着いたら返す』
「これさ……警察に見せたらこのまんま逮捕だな」
「やめてよ、哲平さんの言ってること、シャレになんない」
「最近メールに嵌ってるって言ってたからな。すこし三途さんが普通の文ってもんを教えりゃいいんだ」
華の言葉に哲平が頷く。その頃……
「爺じ」
「なんだ、鮪、美味かったか?」
「美味かった。聞きたいことがあるんだ」
「何でも聞け、何でも教えてやる」
「女の子がイジメられてるって聞いたらどうすればいいかな」
和愛が苛められているという話を聞いて、穂高なりに心配している。
「なんだと? 女を泣かすヤツなんざ放っといちゃいけねぇな。きちっとナシをつけなきゃ」
「梨、つけるの?」
「そうだ」
「どうやって?」
脇から優作がしゃしゃり出た。
「そりゃ、若。もちろんタイマンですよ!」
「怠慢?」
穂高はありさの影響があって、ひどく賢い。難しい言葉をよく知っている。
「怠慢して梨つけるの? そしたら
「もちろん!」
「……爺じと優兄ぃの言ってること、イマイチ分かんない」
穂高は後で両親に聞いてみようと思った。そして爺じと優兄ぃは池沢夫婦にこっぴどく怒られることになる。
さて、翌日は晴れた土曜日。早くからチャイムが鳴った。
「あれ? マリエー! 木村さんが来るのは何時!?」
「10時半だよー」
台所から返事が来る。今は7時半だ。
「いい、俺が出るよ」
哲平が玄関に行った。
「はい!」
「おはようございます!」
「ジェイ?」
開けると確かにそこにジェイが立っている。
「お前、こんな朝早くから何しに来たの?」
「なんかお手伝いできたらいいなって思って」
そこに華が出てきた。
「なんでお前がいんだよ」
「だから、お手伝い……」
畳に座るのがジェイにはいつも新鮮だ。たまにこうやって横になるのもすごく気分がいい。
「なに、やってんだよ! 来た途端に寝転ぶな!」
「気持ち良くって」
ジェイは胡坐をかいて座った。この胡坐もいい。子どもの時には出来なかったし、その後は落ち着いたらずっと洋室暮らし。
「お前さ、成長と共にどんどん幼児化してるよな。普通、人んちに朝早く来て寝っ転がるか?」
「あ、お構いなく!」
この頃はこんな言葉を言えるようにはなっている。
「お菓子は自分で持って来たから」
(ホントに部長、このとんちんかんと結婚してるわけ? 夫婦生活、上手く行ってんの?)
そこまで考えて危険地帯に自分が突っ込んでいることに気がついた。
『ジェイ、早く……』『俺、何も着てない……』
「うわあ!」
「な、なんだよっ! 驚くだろっ」
いきなり隣で上がった悲鳴に哲平が飛び上がりそうになる。
「……要するに、今日の話し合いが心配になったんだな?」
「うん。だって華さんと哲平さん相手じゃ向こうの人、不利でしょ?」
「不利じゃいけないのか?」
「可哀そうだよ! どんな事情があるのか分からないのに二人にイジメられたら」
「お前の中で俺たちっていったいどう映ってるわけ?」
真理恵が笑ってお茶を持って来た。
「はい、ジェイくん! いいじゃない、華くん。今日は譲くんも来るって言ってたよ。大人の話に巻き込んで可哀そうだなって思ってたの」
「そのクソガキに巻き込まれたのは、お、れ、た、ち!」
「華くん!」
「ね? 子どもの気持ちってさ、複雑なんだよ。華さんや哲平さんには分かんないよ……」
「俺は繊細な子どもだった!」
「そしたら世界の男の子たちはもっと繊細だよ」
「言うなぁ、お前。で、どうしたいわけ?」
「話している間、俺がその子を子ども部屋で面倒見てるよ」
「ありがとう! 助かる、ジェイくん」
「うん! 役に立ちたかったんだ、和愛ちゃんの。3人ともいい子だし大好きだ。だから悲しい思い、してほしくないんだ」
華も哲平ももうあれこれ言うのをやめた。ジェイはいつもその心に忠実で正直で、だから結局誰もがジェイの在り方に圧倒されるのだ。
「じゃ、頼む」
哲平が言い、華はジェイの肩をぽんっと叩いた。
木下夫妻は菓子折りを持ってやってきた。真理恵が中に通すと親子3人で華たちに正座して手を突いた。明らかに譲は嫌々だ。
「この度は譲が宇野さん、宗田さんのお子さんに迷惑をかけまして申し訳ありません。……譲っ! ちゃんと謝んなさい!」
お父さんの言葉に譲が頭をチョンと下げて「ごめんなさい。もうしません」と棒読みのように答えた。
「良かったらこれ、皆さんで……」
お母さんがお菓子を出した。華や哲平が口を開いた時にはジェイの声が響いた。
「木下さん! 今のは良くないです!」
「え? あの、あなたは」
「譲くん、何を謝っているのか分かってないまま『ごめんなさい』を言いました。それじゃダメなんです。そんなことしちゃいけない」
哲平が説明した。
「こいつ、俺たちの職場の後輩です。話に割って入ったようですみません。でもこいつの言うこと、間違ってないです。こういうの、謝罪って言いません」
木下さんのお父さんが口を閉じた。
「真理恵さん、俺……」
「うん、お願いね」
ジェイは立ち上がって譲に手を差し出した。にっこり笑って言う。
「譲くん、一緒に向こうに行こう! お父さんたち、これからお話をするんだ。だから俺とおいで」
譲は素直にジェイの手を掴んだ。
「さっきの話ですが」
華が話しに戻った。
「あれで帰るおつもりでしたか?」
「お詫びに来ましたので。3人で頭を下げようと……私も今日しか時間が取れませんでしたし」
「それで手っ取り早く形だけ謝っとこうって?」
「そんな!」
お母さんが抗議の声を上げた。
「だってそうでしょ。華月も悪かったと思います。俺は今日の話を基に華月と向かい合って話をするつもりでした。けど、これじゃ話にならない」
「どうしたら気が済むとおっしゃるんですか?」
「そこ! そこが間違ってると思うんですが。俺には分かんないです、和愛が何か譲くんにしたのなら和愛も謝るべきだ。けど、こういう形で終わったら何が何だか分からない。俺としては謝罪を聞きたかったわけじゃない、話をしたかったんです、木下さんと」
双方が黙ってしまった。しばらくしてお母さんの方が話し始めた。
「あの子は……そんな子じゃないんです。だから私も驚いてます」
「話しましょうよ! もちろんプライバシーに立ち入るつもりはありません。ただ、俺たち大人がこんな社交辞令やってる場合じゃないですよ。このままじゃ教室で何が起きるか分からないっていう気持ちが俺にも生まれるし、譲くんだってあれじゃ可哀そうだ」
「譲が、ですか?」
お父さんが哲平の言葉に驚いた顔になる。今度は華が口を開いた。
「俺は小さいころからひねくれて育ちました。だから学生時代の友だちなんか一人しかいません。それが妻の真理恵です。いい思い出なんかない。でも今思えば自分が心を開かなかったのが一番の原因です。もう遅いけど」
華の言葉をお父さんも噛みしめているようだ。上がった顔はさっきまでと違っていた。
「実は私たち、この2年別居しています。離婚も踏まえて協議しているところです。譲の親権についてもこれから話し合うんです」
「2年……譲くんはどうしていたんですか? あ、聞いて良ければ」
哲平は思ったより根深そうな話だと感じた。
「互いに仕事をしていますので……都合のつく方が面倒を見る形で。だいたい週末を主人と過ごして、私は週末中心の仕事なので、平日の面倒は私が見て……」
「それを2年間、ですか?」
真理恵の声が震えている。
「そんな……だから譲くんは反抗しているんですね?」
「いえ。あの子は大人しくていい子なんです。こんなことは初めてで……私にも父親にも素直だし優しいし」
華は遠い過去を思い出す。
(『俺が間違ってた?』 そう思ったんだ、あの時。もっと俺が素直なら、いい子なら、親に優しかったらダディもマムも別れなかっただろうって……)
「木下さん。お二人とも本当の譲くんを知らないんですね」
「本当の譲? 私たちは親です、知らないわけないじゃないですか!」
「でも譲くんはいつもご両親にいい子の自分を見せようとしている。捨てられたくないから……分かんないんですか? 譲くんがあんな行動を取るのは家庭に捌け口がないからですよ! 譲くんは怖いんだ、親が別れてどっちかが自分を捨てるんだって分かってるから! お二人が別れるのは勝手だと思いますよ! でもそこにあるのは互いの事情だけで、譲くんをどっかに置きっ放しなんだよっ!」
木下さん夫婦はなぜ華が泣いているのか分からない。
「華、落ち着け。木下さん。ご家庭の事情に俺たちが首突っ込むことじゃないです。だからこの話はここまでにしましょう。華、お前もそうしろ。家族ってのは手本も無い。マニュアルも無い。どれが正解か分からないんだ。ただね、木村さん。子どもが育ってしまってから『あそこで間違えた』なんて言わないでください。俺たち親は『人』を預かってるんだ。それ、親のもんじゃないです」
「あの、いいですか?」
ジェイが声をかけた。その手を譲がしっかりと握っている。目からは涙が溢れていた。
「どうした?」
華は譲の顔を見た。そこには子どもらしい素直な顔がある。
「譲っ、何されたんだ!」
「落ち着きましょう、木下さん。座ってください。彼は譲くんに何もしてません」
凛とした真理恵の声に圧されてお父さんもお母さんも座った。
「ごめんなさい、ある意味、俺が泣かせちゃったかも。向こうでお喋りしてたんです。それでいろんなこと譲くんが話してくれて。ね、さっきの話、お父さんとお母さんに聞かせてあげて」
「……やだ」
そういうと譲はジェイの足にしがみついて泣き始めた。
「じゃ、俺が話してもいい?」
泣きながら譲が頷いた。
「よし。俺の膝に座っていいからね。落ち着いたら話すんだよ、いいね?」
それにも頷いた。ジェイの胡坐の上でお父さんの顔もお母さんの顔も見ずにジェイの胸に顔を埋めた。
「譲くん、和愛ちゃんを好きなんだそうです」
「は?」
「え?」
「なんだって?」
「好きだけど、和愛ちゃんのそばにはいつも華月くんがいるからどうしていいか分からなかったって。だから自分を見てほしかったんです。そしたら……ね? なんだかややこしいことになっちゃったんだよね?」
「うん」
「ケガする人が出ると思わなかったんだよね?」
「うん」
「お友だちともどうやって仲良くなっていいか分からなかったんだよね?」
「うん」
「あのね、木下さん。譲くん、いい子です。お父さんとお母さんに仲良くしてほしかったんだって。幼稚園で先生が言ったんだそうです。『みんながいい子にしてるとお父さんもお母さんも嬉しくなるんだよ。家族を大事にしたら仲のいい家族になれるんだよ』って。譲くん、小さかったけどそれをずっと覚えてたんだって。でも、お父さんとお母さんのことばかり考えてたから、学校に入ってどうしていいか気持ちが迷子になっちゃったんですよ」
全部の答えがそこにあった。木下さんは二人とも泣いていた。華も譲の気持ちが痛いほど分かった。哲平は静かな気持ちになった。真理恵は幼い華を譲くんの中に見た。
「譲くん。俺は哲平っていうんだ。だから哲平おじちゃんでいいからな。で、哲平おじちゃんの顔を見てくんないかな」
おずおずと譲は哲平の顔を見た。
「あのな、譲くんはちょっと間違ったな。ほら、立ってごらん」
譲はジェイの顔を見た。ジェイはにっこりと譲に笑う。譲は哲平に向かい合って立った。
「教室で和愛を押した時みたいにしてみて」
途端に怯えた顔になる。
「いいんだよ、やってみるだけ。どうやったかな」
そっと手を上げて哲平の肩を押した。
「今さ、手のどこを使った?」
「ここ」
手の平を指す。
「じゃ、相手を叩く時は?」
ちょっと哲平を叩いてやはり手の平を指した。
「殴ったことあるかどうか知らないけど、殴るとしたらどうやって殴ると思う?」
拳を作って哲平の方に当てた。
「そうだ、上手だな。じゃ、お母さんの頬っぺた触ってきてごらん」
お母さんの傍に立った。木下さん夫婦は何をしているのかと真剣に見ている。
譲はそっとお母さんの頬っぺたに触った。
「手のどこ、使った?」
「指」
「おいで」
哲平のそばに大人しく座った。哲平は真っすぐに譲の目を見た。
「いいか。仲良くしたかったら手の一ヶ所だけを使っちゃだめだ。一ヶ所にだけ力を入れちゃだめだ。なぜ叩いたり突き飛ばす時に指を使わないか分かるか?」
「分からない」
「考えて。指を使って相手を押したらどうなる?」
「……痛くなる」
「そうだな。譲くんの指は知ってるんだよ、どれくらい力を入れたら痛くなるか。それは自分だけじゃない、相手もだ」
哲平はチョンと譲を突っついた。
「痛いか?」
「痛くない」
「じゃ、これはどうだ!」
いきなり拳を上に振り上げて譲の顔の前に突き出した。
「わっ!」
叫んだ譲をジェイが後ろから抱きしめた。譲の目は開いたままだ。
「ごめん、驚いたよな。でも譲くんのやったことはこういうことなんだ。相手は驚く。しばらくしたら腹が立つ。なんで急にこんなことされたんだって」
哲平は手を差し出した。おずおずと譲がその手を握る。
「仲直りしよう。ごめんな、殴る真似して。許してくれるかな」
「……うん」
「今さ、手のどこ使ってる?」
「……全部」
「そうだよな。ちゃんと哲平おじちゃんと仲直りしてるんだ。これ、頭下げると変だろ?」
「うん、変だ。手、握ってるから」
「だから最初のは謝ったんじゃないんだよ。ああいうのを謝ったって言わないんだ」
木下さん夫婦は何度も振り返って頭を下げて帰って行った。譲くんはその真ん中で、しっかりとお父さんとお母さんの手を握っていた。手の全部を使って。
「ジェイくん、ありがとう! 来てくれてホントに良かった!」
「おい、どうやってあの子に話を聞いたんだよ」
「どうって……どうして和愛ちゃんを押したくなったのかな? って聞いただけだよ」
「そしたら?」
「押しても後ろに華月くんがいるから和愛ちゃんはケガしないだろうって思ったんだって。だから、和愛ちゃんにはケガさせたくなかったんだねって言ったらあの子が言ったんだ。『好きだから』って」
木下さんは家族でよく話し合ってみると言った。お父さんは出張を断るそうだ。それほど重要な仕事じゃなかった。だから今は譲と話したいと。
「今日の、あれで良かったのかな。どっか中途半端になったような気もするんだけど」
「いいと思うよ、華くん。だってお互いにまだまだじゃない? 子どももだけど、私たちだって親としてまだまだだよ」
「そうかぁ、あの子も和愛を好きなのか……あいつ、千枝と同じでモテモテだな、きっと」
「なんだよー、そこでノロケなの?」
華が混ぜっ返す。ジェイが提案した。
「今から親父っさんのとこ行ってみようよ!」
「そうだ! 変なこと教わる前に取り戻しに行かないと!」
哲平が慌てたからみんな急いで行くことになった。
なんだか中途半端。正解は無い。そんなものかもしれない。人を育てるということは。
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