15_緊急事態-中編

 先生に配りものを頼まれていた和愛は、後ろの席までの人数を数えながらお知らせを一番前の席に置いていった。それを前の人が後ろに回していく。よくある普通の光景。

 先生は人数分、ぴったりあると言っていたが、配り終わると後ろの席から「足りない」という声が上がった。木下譲だ。

「どこか1枚余ってないですか?」

 呼びかけたが余っている様子がない。華月も声をかけた。

「誰か間違って2枚持ってない? 重なってるかもしれない」

 みんなすぐに見てくれたけれどやはり無い。

「無いね、どうしたんだろう」

 他の子も心配してくれる。

 和愛は自分の分を譲に渡すことにした。後で先生に1枚もらえばいいし、なんなら華月の手紙を父ちゃんに一緒に見てもらってもいい。

「はい、これ」

 譲に手紙を差し出した。

「なんだよ」

「私の手紙。華月がもらってるから私は困んないし。だからこれ」

 途端に譲は癇癪を起した。和愛の手から手紙を払い落す。

「何すんの!?」

「お前の手紙なんかいらない! お前は仕返しで手紙隠したんだ、弁当食えなかったから」

「仕返しって、そんなこと考えてないよ!」

 その時には華月は立っていた。すぐに和愛のそばに寄る。それを見て譲はいきなり和愛を華月の方に押した。

「わっ」

 和愛の手が何かに摑まろうと空中に上がった。


――ガターン!


 椅子が倒れた。

「うわっ!」

「きゃ!」

「宗田くんっ!」

「和愛ちゃん!」

 女子たちの悲鳴が上がった。


 後ろ向きに倒れた和愛は床にぶつからなかった。華月というクッションがあったからだ。でも華月のクッションになったのは椅子だった。

 自分の下から呻き声が上がって、和愛は慌ててどいた。

「やだ! 華月! 華月!」

 後はもう大騒ぎだ。譲に「やめろよ!」という男の子たち。ひっきりなしに声を上げる女の子たち。すぐに2組から今野先生が来た。華月はまだ倒れているし、和愛は「華月!」と叫んでいる。

 今野先生は倒れたままの華月のそばに膝をついた。鼻を押さえて横向きに呻いている華月の手をそっとどかすと結構な鼻血が垂れていた。

「どうしたの?」

 周りの子たちがてんでに説明を始めて収拾がつかない。

「静かに! 大野くん、3組の吉田先生を呼んで来て」

 頼まれた大野くんが廊下を走って行く。

 和愛の目から涙がこぼれていた。先生がいろいろ華月に聞いている。

「頭を打った? どこが痛い?」

「だい、じょぶ。鼻だけ。起きる」

「動かないで。誰か保健の先生も呼んで来てちょうだい」

 今野先生は起き上がろうとする華月の体を押さえた。様子が分からないから動かしたくない。

 3組の吉田先生はすぐに来て状況を確認すると職員室に知らせに行った。騒ぎは3組にも伝わって華音が教室に飛込んできた。

「華月、ケガしたの!?」

「だいじょぶだって。華音、和愛のこと、お願い」

 ひくっ、ひくっとする和愛の体を華音が抱きしめた。

「和愛ちゃん、心配無いから。華月は強いんだから」


 知らせを受けて杉原先生と校長先生がすぐにやって来た。その後ろから真理恵と木下さん。ちょっと遅れて保健の先生が来て華月の具合を確かめる。

「真理、おばちゃん! ……えっ、えっ、おばちゃん……」

 顔を見た途端に和愛は年齢相応の子どもになった。真理恵に飛びついて和愛は大声で泣き始めた。

 今野先生が再度経緯を説明し、木下さんは青ざめていった。この時とばかりに他の子どもたちが、日頃どんなに譲が『酷いこと』をしているかを口々に言い始める。木下さんは真理恵に囁いた。

「あの、さっきの話はもういいです。無かったことにしてください」

「いえ、きちんとお話ししましょう」

 真理恵は強気に出ているわけではない。このままにしておけばまた同じことが起きるだろう。感情がエスカレートしていく子どもは怖い。華の時もそうだった。

 木下さんは帰りたそうな顔になったが、校長までいる以上そうも行かない。仕方なくそばに立っている。そのそばに来てあーだこーだと普段の様子を事細かに伝える子どもたち。


「華音、ちょっと風華をお願い」

 華音が風華を抱えると真理恵は華月のそばに膝をついた。頭をそっと撫でた。

「華月、大丈夫?」

「お母さん、どうしているの?」

 酷い鼻づまりでもしているような声で向こう側を向いている華月が聞く。

「ちょうどね、用があって来てたの」

「保健室のベッドに行きましょうか。しばらく休んだ方がいいです。頭は打ってないって本人は言ってますが」

「いや、病院で診てもらった方がいい。車を出しますからそうしてください」

 校長先生としては、保護者も来ているのにこのまま帰すわけには行かない。真理恵にしても華月の様子が心配だから校長の判断に任せることにした。


「華月、痛い? ごめんね、ごめんね」

 和愛も華月のそばに座り込んだ。もう声は上げていないが、泣くのを堪えているのが分かる。

「謝るなよ、和愛、なにもしてないよ」

(どうしてだろ。同じクラスにいるのに和愛の泣きそうな顔ばっかり見る

……)

 こうして鼻を押さえて寝転がっている自分がみっともなくて腹が立つ。安心させようと声を出したのに、なんて酷い声だろう! 頼り無げなその顔を見ているうちに(僕が守んなきゃ)という気持ちが強くなっていく。

「和愛ちゃんは何も悪くないのよ。謝らなくていいの。父ちゃんにも来てもらおうね。おばちゃんは華月と一緒に病院に行かなくちゃならないし」

こんな状況で和愛を一人で帰らせるなんて出来ない。

「父ちゃんに心配かけたくないよ……」

「でもね、知らなかったらきっと父ちゃん、悲しいと思うよ。こういう時は来てもらうの。ね、そうしようね」

 男の先生が病院まで連れて行ってくれることになった。授業は後1時間で終わる。杉原先生と話して、真理恵は和愛と華音も連れて行くことにした。学校に置いていきたくないし、何より和愛のそばにいてやりたい。

 木下さんは譲と一緒に校長先生と出て行った。出る間際に真理恵を見て頭を下げた。



 病院で呼ばれるのを待っている間に華から電話がかかってきた。

『2人は!?』

「和愛ちゃんはすごくショックを受けてる。哲平さんも一緒?」

『ここにいるよ。和愛はケガしてないのか?』

「大丈夫。華月も鼻血は止まったし、たいしたこと無さそうに見えるの。でも学校としてはちゃんと診てもらってほしいって」

『そうしとけよ、何かあっちゃ困る!』

 哲平はかなり怒っている。

「いろいろあったの…… 後で3人で話をしたい」

『了解! 電話あってすぐに出たからもう30分くらいで着くよ』

「ありがとう! 待ってるね」

 やっぱり華の声を聞くとほっとする。

(でもケンカになっちゃいそうだな……)

それが心配でもあった。


 風華のおむつを替えてから華月の寝ている診察用のベッドに戻った。和愛も華音も静かに脇に座っている。

「和愛ちゃん、もう少ししたら父ちゃんが来るよ。一緒に待ってようね」

「うん……華月どうなるの?」

「すぐにお医者さんが来るって。華月、頭痛くない?」

「痛くないって。みんな頭ばっかり気にするけどそれより鼻が痛いよ」

「そうか。もう少し待ってね」

 華音が風華を抱っこして和愛の気を引いた。

「風華ちゃん、和愛ちゃんだよ」

 小っちゃな手の平に指を潜り込ませる。和愛の小さな指をさらに小さな手がにぎにぎする。

 いつも和愛は頑張るけれど、決して強いわけじゃない。やっぱり小さな女の子だ。華月は横になったまま和愛の沈みがちな顔をじっと見た。

「和愛、僕は大丈夫だから。だって男だし」

 和愛は笑った方がいいような気がして失敗した。口元はただ歪んで終わった。


「和愛!」

 哲平が飛込んできた。

「父ちゃん! ……父ちゃん……」

「遅くなってごめんな。もう大丈夫だぞ」

 哲平は真理恵にちょっと頭を下げて和愛を抱き上げてロビーに出て行った。

「やっぱりお父さんだよねぇ。あんなに安心した顔しちゃって」

「華月、お前は大丈夫か?」

「大丈夫だよ。もう帰りたいよ。和愛に心配かけたくないんだ」

「そうか。いろいろあったんだって?」

「……うん」

「家に帰ったら話そうな」

 

 華音が喉が渇いたと言い、ついでに華もコーヒーを頼んだ。華月は診察が終わってからになる。二人きりになって華月は父の上着を引っ張った。

「なんだ?」

「お父さん。僕、強くなりたい」

 華父が初めて見た男としての息子の顔だった。

「僕、和愛が好きなんだ」

「お前たち仲がいいもんな。和愛もお前と華音のこと、大好きだと思うよ」

「違うよ! そういうんじゃなくて! 好きってこと!」

「だから…… え? デートするような好きってことか?」

「うん!」

 華音は女の子だからませている。だからジェイのことを好きになったりするのだ、気に入らないが。けれど華月は普段の様子からとてもそんな『恋心』などという複雑で繊細な心を持ち合わせているようには見えなかった、と華父はやや失礼なことを思った。

 だが、さっきの顔は確かに男の顔だった。

「本気で強くなりたいか?」

「強くなって絶対に和愛をお嫁さんにする!」

(驚いたな! お嫁さんかぁ。華月と和愛? 哲平さんと今度は親類になっちゃうわけ?)

その想像に笑ってしまう。しかし、哲平と華は将来一緒に何人もの孫を抱くことになる。それは遠いお話だけど。


『帰っていい』

 そう病院で言われて賑やかに家に帰った。沈みがちな和愛を寂しくしたくないから哲平はずっと膝に抱いている。和愛も普段よりうんと哲平に甘えた。

「和愛、ゲームやろ!」

 帰宅早々、華月が子ども部屋に誘う。

「寝てなくていいの?」

「もう大丈夫だって。和愛が重いから倒れただけだよ」

「私、重くないっ!」

「重いよ、すごかった、重過ぎて死ぬかと思った!」

 3人で子ども部屋に向かう頃には、和愛はいつもの声で文句を言っていた。



「やっぱりこういう時は堪えるな……俺だけじゃ……」

「らしくないよ! 哲平さんは笑ってりゃいいと思うよ」

「なんだよ、人をバカみたいに言って」

「みたいなもんじゃん。和愛に深刻な顔、見せるなって。……学校に行くようになって和愛、少し変わったよね」

「俺もそう思ってたんだ。もっと強い子だったのになんだか勢いが落ちたような気がする」

 入学式の日、和愛は実感したのだ。たくさんの1年生。たくさんの保護者。たくさんの……お母さん……


「それでね、話があるの」

 真理恵は今日のことを全部話した。華の顔が険しくなっていく。哲平の顔が苦しそうだ。

「じゃ、なに? そいつ、和愛を目の敵にしてるってこと?」

「多分和愛ちゃんにだけじゃないと思うけど。同じ教室の子たちがたくさん木下さんに文句言ってたもん」

「具体的にどうしたらいいと思ってるわけ? 何か案があるんだろ?」

 学校にいる間の和愛に何もしてやれることが無い。哲平は初めて父として無力感を感じていた。

「木下さんご夫婦と私たちで話し合ったらどうかと思うの」

「そのおばさん、文句言ってきたんだろ? 無駄じゃね?」

「ううん、最後は申し訳ないって顔してたよ。だから話し合いたいと思う。だってまだ学校始まったばかりなのに繰り返したらどうするの?」

 哲平はやれることは全部やりたいと思っている。

「分かった! 話そう、木下さんと。できればその譲って子とも話したい」

 華もOKした。

「じゃ、日程は私と木下さんで決めるね。週末にするから」

 華父は本格的に華月を鍛えることに決めた。

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