14_緊急事態-前編

 初めての遠足を前にして、三人の子どもたちは心が弾んでいる。

 リュックサックはキャラクターものじゃない。ぶちょーさんはそういうのを選ばない。赤・オレンジ・白のチェック、グリーン・黄緑・白のチェック、青・水色・白のチェック。パステルカラーで3つ。

「ありがとうございます、3つも買っていただいちゃって」

 真理恵がコーヒーを出しながら言うお礼に、ぶちょーさんは慌てて手を振った。

「悪いね、子どものものって選ぶのが難しい! モノトーンとか選ぼうとしたらジェイに怒られたよ。これはあいつが選んだんだ」

 さり気なくそんなことを言うもんだから華の頭の中にまたあの言葉が流れ出した。

『ジェイ、早く来い!』

『ごめん、俺、何も着てなくて……』

(勘弁っ!)

 脳に深く刻み込まれた魔の言葉。一人汗が出始める。この言葉で一番質が悪いのは、天然ジェイの『何も着てない』という部分だ。どうやらジェイはあの件についてはぶちょーに何も言っていないらしい。

「へぇ! ジェイと買いに行ったんですか?」

 哲平を蹴りたくなってくる。

(そこ、掘り下げないで!)

「リュックサックを買いに行くって言ったらついてきたんだよ」

 その返事にほっとする。最近はぶちょーとジェイのプライベートの会話に過敏になってしまっている。

「部長、どんな色選んだんですか?」

「黒とグレーと白」

「良かったぁ! ジェイがいて!」

「……そうだな」

 みんなに笑われてぶちょーはバツが悪そうだ。

「あ! 確認すれば良かったよな、もう用意してあったか? ならそれ知り合いか誰かに……」

「華音、これがいい!」

 赤が基調のリュックを華音が取った。和愛は最初から緑のチェックに目が行っていて、それを横目に華月は青を取った。

「お揃いですてき!」

 華音の嬉しそうな声にぶちょーも嬉しそうな顔になる。華音が立って奥に行った。

「気に入ったらしいですよ。ジェイにも礼を言わないと」

 哲平は普通にジェイのことを会話に織り込んでくるから、華も見習おうとする。

「助かるってジェイに伝えといてください」

「明日会うんだから自分で言えよ」

「そ、そうだね。うん、明日言おう」

 不自然な自分に哲平が ん? という顔をする。

(マズった!)


 そこに華音が戻って来た。手に他のリュックを3つ持っている。それはシンプルで奇抜だ。鮮やかなエンジ一色。しゃれた濃い緑一色。落ち着いたピンク一色。

「これは?」

 部長が手に取った。あまりに大胆で目立つこと請け合いだ。

「そのピンク、まさなりお祖父ちゃんは『薄紅いろ』っていう名前だよって教えてくれたけど」

 3つ並ぶと確かにとてもきれいだ。でも子どもの持つ物としては……

「それ、まさなりさんのオリジナルなんです」

「創ったってこと!?」

 真理恵の言葉に驚いた。華が続く。

「そ! キャンパス地に色を塗って加工したんですよ。撥水処理もしてある」

「驚いたな……」

「最近は子どもたちに触発されてキッズ用品を作っているんだけど、とても一般向けには見えないんだよね。人気は出始めてるらしいです。『i(アイ)ブランド』とか言って。でもこれは……もらったはいいけどどうしようかって思ってたところです。『部長からもらったから顔を立ててそっちを使った』って言わせてください」

「いや、それは! 俺も聞きもせずに買ってきたから……」

「ぶちょーさん、僕こっちがいい!」

 華月はチェック柄を抱え込んだ。実はまさなりお祖父ちゃんのくれたリュックを華月は気に入っている。けれど和愛とお揃いというアピールポイントを考えれば断然こっちがいい。

 となると、当然和愛も華月とお揃いがいいに決まっている。それに和愛はグリーンやオレンジ色が好きだ。

 華音はジェイくんが選んだと聞けばそれで充分だ。

「じゃ、決まり! 良かった、ホントに。どうしようかと思ってたから」

 哲平が華の言葉に苦笑しているということは、やはり同じ気持ちなんだろうとぶちょーは感じた。

「超愛さんや夢さんとあまりケンカするなよ」

 最近になってこの親子関係について知り始めた。ああいう両親は特異だと思う。華も苦労しただろうと。それでも魅力的な両親だが。

「ケンカにはならないんです、ぶちょーさん。だって二人とも泣いちゃうから」

 真理恵が面白そうに言う。想像がつくからつい笑ってしまった。

「済まん! 笑っちゃいけなかった」

「いいんですよ、ホントのことだから」


 遠足は来週の金曜だ。ジェイは天気予報を調べて雨じゃないことを確かめている。

「で、和田んとこの子には何をやったんですか?」

「今回は『剣客商売けんかくしょうばい』にした。持って帰るのが大変だからって、ずっと5冊ずつにしてるんだ」

「ずい分渋い物を! まだ小学生だったと思うけど」

(もはや嫌がらせの域を越えてんじゃないの?)

 哲平は心の中で笑っている。

「面白いって言ってたぞ。和田が」

(そうか、あいつが読んでんのか)

 それなら納得できる。

 いつからか部長は毎年子どもの日が過ぎた頃にオフィスメンバーの子どもたちに何かをプレゼントしてくれるようになった。クリスマスとかじゃないのがぶちょーらしい。

 ジェイはそれを密かに自分のせいだと思っているのだが、それは誰も知らない。哲平が周りにいる子どもたちを自分の子どものように感じているのと同じように、蓮は生涯持つことの無い子どもに愛情を注いでいるのだと。



 遠足当日は晴れた。7月頭だ、歩き回ればかなり汗をかくだろう。クラスが違うから仕方ないが、華音は二人から離れたところを歩いている。やっと馴染んできた同じクラスの子と話が弾んでいた。園山そのやまりんくん。どうやら事情のある家庭に育ったらしく、その分大人びていて話をしていて華音は気持ちがいい。

 華月と和愛は相変わらず周囲を取り巻く大人たちのことを喋っては溜息をついている。

「どうして父ちゃんってあんなに子どもっぽいんだろう! 会社ではちゃんとお仕事出来てるのかなって心配になるよ」

「それはウチも同じ。おっそろしいくらいに冷たい目になる時あるだろ? あれで人と上手くやっていけてんのかな」


 お弁当を広げてから騒動が起きた。

「木下君! 走っちゃだめ!」

 先生の制止も聞かず、譲はみんながお弁当を食べている中を駆け抜けた。その時にシートに置いてある和愛の弁当を蹴り飛ばして行った。

「あ!」

 ほとんど手をつけていなかったから引っ繰り返ったお弁当箱を見て和愛が固まった。途端に華月は自分の弁当を和愛に押しつけると立ち上がって譲を追いかけた。弁当の中身は同じだ。

「木下君! 宗田くん!」

 先生が叫んだ時には華月は後ろから譲の背中に飛びかかっていた。華月はクラスで一番走るのが早い。

 譲が前につんのめって顔から地面に倒れた。その背中に華月は馬乗りになっている。

「和愛に謝れ!」

 やっと追いついた担任が華月の体を引っ張り上げた。別の教師が譲を抱き起こす。顔に擦り傷が出来たらしくて、教師はそれを心配した。

「宗田君! ケガをさせたことを謝りなさい!」

 これは担任の判断ミスだ。その前に順序があったはずなのに、譲の顔に出来た傷を見てうろたえてしまった。譲の母親はPTA役員もやっていてかなり強引で苦手なのだ。その意識が出てしまった。

 とたんに華月の顔色が変わった。

「先生、見てなかったの? 和愛の弁当、蹴飛ばされたとこ」

「あれはわざとじゃないよ!」

「わざとだろう! いつだって和愛を虐めるじゃないか!」

 華月は普段のこういういさかいを両親に言っていない。自分で守りたいから過激な華父に出てきてほしくないし、和愛も父ちゃんが心配するから言わない。華音にも『言わないで』と頼んである。でも遠目で見ていた華音は(もう誰かに言わないと!)と思い始めていた。


「そうね、木下君は宇野さんに謝りなさい。宗田くんは木下君に」

 先生はそれで公平になると思ったようだ。

 華月の顔が華父と瓜二つになる。冷ややかな目。そして口を閉じた。言っても無駄だと思った。

 譲は素直に和愛に「ごめんなさい」を言った。別に悪いなどと思ってもいないが。

 反対に華月は断固として謝らなかった。

「僕、悪いことしてません」

 その一言だけを言って、後は返事しなかった。

「華月、ごめんね」

 泣きそうな顔の和愛には笑顔を向けた。

「いいから弁当食えって。後で腹減るよ」

「でも華月も食べてない……」

「華月、これ食べて」

 華音が弁当箱を持って来た。

「あ! またピーマンの入ってるとこ残してる!」

 これは、ジェイが悪い。ピーマンが嫌いだと言っていたのを聞いて、華音はピーマンを嫌いになることに決めたのだから。そのせいで後日ジェイはえらい目に遭うが。

 本当に食べずに残すことが分かっているから、華月は刻んだピーマンの入った野菜炒めを全部食べた。

「それだけじゃ足りないよ! ……そうだ、半分こしよう!」

 和愛はどれも半分だけ食べて華月に返した。これには華月も納得して残りを平らげた。

 その後は無事に遠足が終わり、家に帰った。誰も昼にあったことを家では話さなかった。



 月曜の午前中、宗田家の電話が鳴った。

「はい、宗田です」

『南野小学校の杉村です。華月君のお母さんですね?』

 1組の担任の先生だ。持っていた掃除機を脇に置いた。

「いつも華月がお世話になっています」

『お忙しいのにすみません。遠足であったことを華月君はお家で話していますか?』

「楽しかったと言っていました。結構歩き回って疲れたとか……そういうことじゃないんですね?」

『ええ、ちょっとありまして。学校の方においでいただくこと、出来ますか?』

「何をやったんでしょう?」

『ちょっと他のお子さんにケガをさせてしまって。あ、ケガはたいしたことないのでご心配要りません。理由もあって一方的に華月君が悪いわけじゃないんですが……』

 真理恵は普通のケンカではなく何かあるのだと思った。

「分かりました。これから支度して伺います。子ども連れでも構いませんか?」

『はい、申し訳ないですが助かります! お待ちしています』

 理由もなくそんなことをする華月じゃない。だが状況を聞く前に、ケガをさせたのは華月が悪いと真理恵は判断した。そこに理由は要らない。掃除機をしまって出かける支度を始めた。



 職員室に行くと、驚いたことに教頭先生に校長室へと案内された。入ると別の女性が座っている。恰幅かっぷくのいい校長がすぐに立ち上がった。

「宗田さんですね、おいでいただいてありがとうございます。どうぞお座りください」

「はい、失礼します」

風華を抱き直して勧められた席に座った。やたら睨んでくる女性は、華月のケンカの相手の親なのだろう。

「こちらは木下譲君のお母さんです。早速ですが、今回来ていただいたのは先週の遠足で起きたケンカのことで木下さんから抗議がありまして」

「お宅の息子さんが譲をケガさせたんです。顔ですよ!? 酷い傷が残っているんです!」

(顔?)

「あの、叩いたとかですか?」

「いえ、後ろから飛びかかって来たって。卑怯じゃないですか! いきなり飛びかかるなんて! それで前に倒れたんですよ!」

 それはおかしいと思う。親バカのつもりはないが、華月は後ろから不意を突くようなことはしない。

 冷静な顔で向かい側に座っている担任を見た。

「すみませんが、まず状況から教えていただけませんか?」

「先に謝ったらどうなんです!」

 真理恵は木下さんに笑いかけた。

「落ち着きましょう、木下さん。ケガさせたのは確かに良くないことです。でも経過を聞きもしない相手にただ謝られても納得なんかできないですよね。大人が冷静にならないと」

 目を剥いている木下さんから視線を外して担任の目を真っ直ぐに見た。

「先生、状況を教えてください」


 担任は二人の親を前に、言葉を慎重に選びながらその時の様子を話した。

「それで華月が木村君を押し倒したんですね?」

「はい」

「それで先生はどう対応されたんですか?」

「木下君には宇野さんに謝ってもらいました。宗田君には木下君に謝るように言ったんですが……」

「じゃ、まだ木下君には謝っていないんですね?」

「そうです」

 どうだ! と言わんばかりの木下さんの顔。

「普段、どうなんでしょう。木下君と華月は仲が悪いんでしょうか?」

「あまりいいとは言えないですね。宇野さんが何かされると冷静じゃなくなるようで」

「小さい内から『彼女に何かされたら仕返しをする』って、末恐ろしいですね」

 木下さんの言葉に真理恵は声を上げて笑った。

「何が可笑しいんですか!」

「そうなんですね、やっぱり! 和愛ちゃんはずっと何かされてたっていうことですか。それじゃ華月も怒ります。理由に関係なくケガをさせたのは華月が悪いです。それを謝っていないのも良くありません。だから問題を切り離しませんか?」

「切り離すとは?」

 どうやら校長先生は木下さんより真理恵の話を聞く気になったようだ。

「一つ目は普段から木下君が和愛ちゃんに何かをしているということ。二つ目は、それに対して華月が木下君に何かをするということ。そして三つ目が今回のケンカの中で華月が木下君にケガをさせたという部分。3つってことです」


 木下さんはその言葉に引っかかったらしい。

「『ケガをさせたという部分』って、どういうことですか!」

「だって、和愛ちゃんがお弁当を蹴り飛ばされたのは一つ目に入るし、それを華月が怒ったのは二つ目にはいりますよね。浮いているのは華月が木下君に現実的にケガをさせたということです」

「そうですね。それなら話が分かりやすい!」

「校長先生! どっちの味方なんですか!」

「木下さん、味方とか敵とかそういうことではないんですよ。私も宗田さんの仰ったことが問題解決に一番早いと思います。ちゃんと整理して話しましょう」

 木下さんは立ち上がった。

「そうやってウチの子だけ悪者にするつもりですか! 保護者会を開いてください! 陰でひっそりとやられたんじゃ堪りません!」

 真理恵の声はどこまでも冷静だ。

「木下さん。お子さんをとても大事に思ってらっしゃるの、すごく分かります。意味も分からずケガさせられたら私も同じように頭に来るのかもしれません。でも、それじゃ解決にならないです」

 真理恵は別にバカにしたわけじゃない。思った通りに言っているだけだ。

「バカにして……先生! こんな片手落ちは納得いきません! ウチの子だけ謝っているのに、ケガまでさせておいて謝りもせずにさバカにするなんて!」

「木村さん、落ち着いてください。ちゃんと話をすれば分かり合えることです。さっきの3点を一緒に考えてみましょう」

 それも木下さんは気に入らない。

「教育委員会に行きます!」

 先生たちは困り果てた。

「木下さん。華月が謝って私が謝ったら本当にそれでいいんですか?」

「そうするのが当然でしょう!」

「校長先生、これ以上お騒がせするのは本意じゃないです。良かったら関係する子どもたちと保護者たちとで話し合いをさせていただけませんか? 私がここで判断して決めることじゃないと思っています。親として主人と一緒に考えたいと思いますし、和愛ちゃんのお父さんにもこの状態を知る権利があります。そう思いませんか? 木下さん」

「なんで関係無い人と話す必要が」

「関係無くないです。一番被害に遭ってるのは和愛ちゃんじゃないですか」

「被害って、譲からですか!?」

「さっき仰ったじゃないですか。『彼女に何かされたら仕返しをするって、末恐ろしい』って。その時点で無関係じゃないですよね?」


 こうして話し合いに華と哲平が乗り込んでくることになる。そして、校長室で母親同士が話をしている最中、教室では新たなトラブルが進行していた。

――ガターンっ!!

「うわっ!」

「きゃ!」

「宗田くんっ!」

 そんな悲鳴が起きていた。

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