06_平和

 なぜか華の家は人気がある。みんなが自然にここに集まる。

(何が違うんだろうな)

 広岡はさっきからずっと家の中を見回していた。自分も何度もここに来る。親類の家に行くより抵抗が無い。かといって、華の辛辣ぶりは会社にいる時と変わらないのだ。むしろ我が家だから好き放題にやっている。

 奥の部屋から女の子たちの笑い声が聞こえてきた。

(ここは学童保育になれそうだな)

そう思うが、実際はみんな離れて住んでいる。だからこうして週末しかここには来られない。

 広岡は寝転がった。莉々は台所で買ってきたものを冷蔵庫に入れている最中だ。まるで我が家にいるのと変わらない。真理恵には持って来たものをラインで送ったから同じものは買って来ないはずだ。返事は無いけれど既読はついていた。


(静かだ……)

目を閉じるとふわふわと眠ってしまいそうになる。

「広岡さん」

 ジェイだ。

「眠くなっちゃった? あのさ、将棋教えてほしんだけど」

「お! いいね。持っといでよ」

「うん!」

 ジェイは最近覚え始めた将棋で蓮に惨敗している。だからどうしても戦略を身に付けたい。

 指していると後ろから華が来た。

「ああ、そこだめだめ!」

 ジェイが置いた駒を見て華ががっかりしたような声で言う。

「黙っててよ、華さん。俺今広岡さんに教わってんの」

「俺が教えてやるのに」

「華さんは人に教えるのに向いてないから」

 広岡がくすっと笑う。

(ジェイは華には言いたい放題だな)

こんな関係になった二人が不思議だ。多分華を上手にコントロールできるのは、真理恵以外にはジェイだけだ。


「ただいまー」

 玄関から真理恵の声。

「ただいま!」

 華月の声が響く。

「お帰り。重かったろ」

「僕、ちゃんと荷物持ったよ」

「で、華月は何を買ってもらったんだ?」

「えっと……ポテトチップとおセンベとセロリ」

 華月のおかしなところは、こうやってちょっとした捻りがあるところだ。もちろんお菓子も好きだが、セロリが大好き。極端に言うと、お菓子が無くてもセロリを齧っていればいいのだから健康的。

 ちなみに華音はレタスが好き。おかずが無くても、皿にレタスを山盛りで食べる。ゴマドレッシングで食べるのがお好みだ。だからジェイのお土産は時々セロリとレタスだったりする。家では蓮に『お前はピーマン齧らないのか?』なんてからかわれるが。

「で、華月の持ってあげた荷物は? お母さんの何を持ってあげた?」

「ポテトチップとおセンベとセロリとレタス」

 怒るより呆れるより、笑ってしまう。結局自分たち双子の分だけ持ったわけだ。

 華月を先に行かせた。

「俺が一緒なら良かったな。ごめん、持つよ」

「ううん、大丈夫だったの、途中で哲平さんに会って。どこか行くつもりだったらしいけど荷物を持ってくれたから」

「で、哲平さんは?」

「荷物置いてまた出てったよ」

 どうも哲平の行動はいつもながら読めない。

「莉々さんのライン、見たんだよね?」

「うん! お蔭で買わずに済んだのが幾つもあるよ。特に野菜は重いから助かる!」

「だからそういうのはジェイが買ってくるって。頼めばいいんだよ」

「華くん。そういうの、良くないと思う。頼まれたジェイくんが嫌な顔したことも躊躇うようなことも無いけど、華くんのそういうとこ、私はいやだな」


 広岡はなんとなく聞こえてくるその会話に(うんうん)と頷いていた。

 気がついた。

(そうか。この家ではみんな正直でいられる。取り繕わなくていいんだ。それにこの家がいい。洋間が無くて広々とした和室。2階が無いから子どもたちの様子が離れていてもすぐに分かる。そうか……真理恵か)

 真理恵がいるから華の我が侭は増すけれど、上手い具合にストップがかかる。真理恵がいつも素のままだから、訪れた者は変な気の回し方をしないで済むし、何も気にすることは無いとそんな気持ちになれる。

(莉々は最高の嫁さんだけど、真理恵さんは最高の奥さんだよな)

同じようで、その二つは違うと思う。愛しているのは莉々なのだから。


「広岡さん! これ、どっちを大事にしたらいいの?」

 将棋盤を見る。声を上げて笑った。ちょっと離れていた華もやってきた。

「ジェイ……お前、どれを大事にしたいんだ?」

 分かっていて広岡は聞いた。華も一目見ただけで大笑いし始める。

「どれって……この飛車ひしゃとこのかく。どっちを守ればいいか分からない」

「あのな、その前に王を見ろよ」

「王?」

 そう。今飛車も角も取られそうだが、それより何より王手がかかっていた。これは広岡が手を抜いてやったお蔭でどれも取られずに済んでいるだけで、状況はどんどん悪くなっていたのだ。

「だって! 広岡さん、とか桂馬けいまとか香車やりばっかり持ってったでしょ! なんでこうなんの?」

「そういうのを大切にしないと将棋って負けるんだよ。飛車と角ばっかり持ってて強くなった気になっていても、実際に強くなったわけじゃないんだ」

将棋盤にはジェイの飛車と角が一枚ずつ。そして、ジェイの手元にも飛車と角が一つずつある。

「そんなに持っているのに使いどころがないだろ?」

「……うん」

「そして今、お前の王の前には何がある?」

「広岡さんの歩」

「で、その歩をお前が王で取るしか無いよな?」

「うん」

「するとどうなる?」

「広岡さんの歩を桂馬が守ってるから王が取られる」

「じゃ、横に逃げたら?」

「右側も左側も広岡さんの香車が待ってる」

「そうだ。だからもう、ジェイには逃げ場がないってことだよ」

「つまり、俺は負けたの?」

「だって、それを見もしないで飛車と角のどっちを守るかずっと迷ってたんだろ?」

「ここまで!」

 華が裁断を下した。

「これ以上ジェイを虐めると本格的にいじけるから。だからお終い」

「了解。後でもう一回やろう。今度は細かく教えてあげるよ」

 どっちにしろちょっと膨れたジェイ。片付けもしないで立ち上がった。

「おい、どこ行くんだよ」

「華音ちゃんのとこ」

「なんで!」

「華音ちゃんは俺を慰めるの上手だから。慰めてもらってくる」

 どうやら将棋での失態で本当にジェイはいじけてしまったらしい。自分が華の地雷を踏み潰しかけているのにも気づいてもいない。

(こういう天然、こいつ一生治んないってことか?」

本当は広岡はその方がいい。そしてそれは華も同じはずだ。


 ジェイの『華音ちゃん』という言葉が聞こえたらしい。

「ジェイくん! またお父ちゃんにいじめられたの?」

「華音ちゃん……頭、撫でて」

 ジェイが華音の前に頭を突き出した。その頭にゲンコツが降る。

「痛いよっ!」

「俺の前でいい度胸だな!」

 広岡は止める気にもならない。ちょっと離れて胡坐あぐらをかく。目の前で華とジェイが『華音争奪戦』を始めている。もちろん勝つのはジェイだろう。

 ほのぼのとした気持ちになってくる。台所の方からは莉々と真理恵の声。奥の方から椿紗と和愛と、後から加わった華月の声。目の前には呆れるほど真剣に言い合いをしている二人とはらはらしている華音。

(平和だーー)


――ぴんぼーん


(このチャイムは……)

 広岡の平和が別れを告げようとしていた。とうとう<あの男>がやって来たらしい。


 チャイムの音に玄関に向かおうとした真理恵はそれどころじゃなくなった。とうとう華音が言ってはならないことを言ったからだ。

「お父さん、大っ嫌い! 私、ジェイくんのお嫁さんになるっ!」

 静寂が訪れる。誰も動かない。玄関ではピンポンダッシュとは違うのほほんとした音が鳴る。


――ぴんぽーん


(かのん……かのん、ついこの前だよ、生まれたばかりのお前をこの手で抱いたのは……)

 華父が倒れそうになっているのに気づいた広岡は慌てて華を支えた。

「しっかりしろよ!」

「広岡さん……さっきの、聞こえた? 違うよね、ジェイの嫁さんになるなんて華音は言ってないよね?」

 恐ろしく可笑しいのに、今笑ってはいけない場面だということくらい広岡には分かっている。

 ジェイはジェイで降って湧いたような『嫁さん騒動』に頭が回らない状態だ。

(俺、結婚してるんだよ、華音ちゃん)

そう言いたいけれど、やはりどこかに理性が残っているのだろう、危ういところで言葉にはなっていない。


「華音、本当にジェイくんのお嫁さんになるの?」

 真理恵の質問にしっかりと頷く華音。真理恵は真面目な顔でそれに答えた。

「よく考えたのね?」

「うん」

「じゃ、華嫁修業をしないと。それからじゃないとお嫁さんになれないから」

「『はなよめしゅぎょう』って、なに?」

「立派なお嫁さんになるためのお勉強をするの。それが終わらないとジェイくんは華音をお嫁さんに出来ないんだよ」

「お母さんもしたの!?」

「もちろんよ! だからお父さんに『結婚してあげる』って言ってもらえたんだから。今のままじゃ華音はジェイくんに『結婚していいよ』って言ってもらえないな」

 華音が不安そうに聞く。ただし、手はまだジェイの首に回ったままだ。

「何をすればいいの?」

「お洗濯。お料理。お掃除。お掃除はトイレもお風呂もお部屋の中もお庭も全部よ」

「そうなの!?」

「そうだよ。お母さんはずっとそれを完璧にやって来たの。華音も頑張らないと、ジェイくんのお嫁さんに選んでもらえないよ」

「頑張ったら……ジェイくん、頑張ったら私をお嫁さんにする?」

「華音ちゃん、俺には……」

 口走りそうになる。

――愛している人がいるんだよ

――その人と結婚してるんだから華音ちゃんとは結婚できないんだよ

「ジェイくん! そうよね?」

 真理恵が釘を刺す。ジェイは本音を言いかねない。

「……うん、華音ちゃん、ごめんね。華音ちゃんをとっても好きなんだけど……」

 好きなのは間違いないから、嘘は言っていない。


 華父は混乱している。この前(と言っても去年の初めの頃の話)華音は『お父さんのお嫁さんになる!』と言ってくれた。なのに、この心変わりはなんだろう……

 華音のことになると頭が単細胞になる華父。

「じゃ、今はだめなんだね……」

 悲しそうにジェイから離れた華音は次の瞬間、華父に抱きついた。

「お父さん、まだジェイくんのお嫁さんになれないんだって……ジェイくんを虐めない?」

「虐めないよ」

 機械的に答える華父。

「じゃ、もう少しお父さんで我慢しとく!」


「おい、いつまで客を外に待たしとくんだよ!」

 客と言いながらずかずかと勝手に登場したのは、『あの哲平』。

「なんだ? みんなで深刻な顔しちゃって」

 広岡がそっと言う。

「華音ちゃんが『ジェイのお嫁さんになる』発言をして今揉めてるとこで……」

 最後まで聞かない哲平は華音を華から取り上げて抱いた。

「そうか、ジェイのお嫁さんになるのか! 見る目あるな、華音は。なっちゃえ、なっちゃえ。ジェイなら華音のこと、大事にしてくれるぞ」

「哲平さん!」

「哲平さん!」

「哲平さん!」

 ジェイと華と真理恵が一斉に叫んだ。

「でも、華嫁さんになるのにお勉強がいるんだって」

「そんなのいいよ! 好きならそれだけでいいんだ」

「哲平さん! やっと落ち着きかけたんだよ、やめて!」

「なんだ、ジェイは華音が好きじゃないのか?」

 また静寂が訪れる。これは答え方次第では大惨事になり兼ねない。

 華父の縋るような目。華音のきらきらした期待の目。どちらかというと他人事で笑いを抑えている広岡の目。困ったという真理恵の目。

「どうしたんだよ、返事に詰まるようなことか?」

(哲平さん、酷いよぅ)

ジェイは泣きそうだ。哲平を恨みがましい目で見る。

 その頃になって哲平はやっとみんなの目の意味が分かった。特に瀕死状態の華。

(そうか、やっちまったか)

「華音。ただな、日本には厳しい法律がある」

「ほうりつ?」

「そう! 国で決めたルールだ。それでは結婚は18歳になるまで出来ないことになってるんだ」

「華音、まだ6つだよ!」

「そうだな。華音が小学校と中学校と高校を卒業して、やっと結婚が出来るんだ。それまで我慢できるかどうかが問題だ」

 華音が泣きそうな顔になる。

「お父さんを見てごらん?」

 口がへの字になった華音は父を見た。

「見た?」

「見た」

「じゃ、今度はここにいるみんなの顔を見てごらん」

 華音がみんなの顔を見回す。

「見たよ」

「みんなの中で一番一生懸命華音の顔を見ていたのは誰だった?」

「……お父さん」

「ってことはさ、残念だけどジェイは華音のお父さんより一生懸命になれていないってことだ。だからジェイも頑張ってお父さんより華音を一生懸命見る勉強をしないといけないんだ。華音はジェイが一番なんだよな?」

 華音が真剣に頷いた。

「そのジェイよりお父さんは華音を見てるんだからすごいって思わないか?」

 今度は華音は父の顔をじっと見た。華父の目は涙で揺れている。

「お父さんってすごいだろ? お父さんには華音しか見えてないんだよ」

 哲平が華音を下ろすと華父に真っ直ぐ飛び込んで行った。

「お父さん! 抱っこして!」

 抱き上げて華音に顔を埋める華。

「華音、華音……お父さんを好きだよね? 嫌いじゃないよね?」

「うん、好き! さっきはごめんね」

「いいんだよ……華音が好きって言ってくれて嬉しい……お父さんは華音が一番好きだよ」


 いつの間にかそこにいた華月。

「僕はやっぱり拾われた子なんだ……」

 哲平は今度は華月を抱き上げた。小さい声で言う。

「あのな、華月。女の子は『一番』って言葉に弱いんだよ。男はぐっと耐えている姿が一番カッコいいんだ。俺には華月の方がカッコよく見えるけどな」

「でも、僕は拾われたんだってこの前哲平おじちゃんが言ったよ?」

「あれは『かづき』の話じゃないよ。『かずき』っていう猫がにゃあにゃあ鳴いて、その声で『はな』……この顔の真ん中にある『鼻』だぞ? その鼻に拾われてくんくん匂いを嗅がれましたっていうお話。面白かったろ?」

 今度混乱しているのは華月の頭だ。哲平の言う『お話』が呑み込めない。

「僕のことじゃない?」

「まさか! お前はお父さんとお母さんの可愛い長男坊だ。長男って偉いんだぞ。お前のお父さんも長男だし、哲平おじちゃんも長男だ。ジェイもそうだしぶちょーさんもそうだよ。真おじちゃんは次男……2番目だからあんまり偉くない。華月の『長男仲間』って、最高のメンバーだろ?」

「ぶちょーさんもそうなの!?」

「そうだよ」

「ぶちょーさん、カッコいいよね、僕大好き!」

「安心したか? だから華月は心の大きい最高の長男にならないと。女の子が大切にされるのは当たり前なんだ。広い心で認めてやれ」

「うん! 僕も最高のちょーなんになる!」

 哲平が下ろすと華月は華音のそばに行って大きな声で言った。

「華音! お父さんは華音が一番好きだって! 良かったね!」


「お前ってさ、ホントに丸め込むのは天才的だな」

 広岡が呆れた声で言う。

「巧みな話術と言ってくれ」

「はいはい、お兄ちゃん。俺があんまり偉くないって? 悪かったですね、課長」

「いじけるなって。俺さ、腹減ってんだけど」

 真理恵がやっと現実に戻った。さっきまでまるでドラマの中にいるような気持ちで華の涙を見ていたのだ。

(華くん、きれい……)と。

「ごめんなさい! 哲平さん来てるのに気づかなかった!」

「そりゃ、無いよー。今一番活躍したのは俺だよ!」

「じゃ、哲平さんの好きなもの先に出すね。ビールのおつまみ、何がいい?」

「たくあん! それから当たりめと真理恵のひじき。作り置き、あるんだろ?」

「あるよ、ウチの常備菜だもん。今日はサトイモの煮物もあるけど」

「それ、もらう! 台所に行くよ」

 ジェイには目が回るような20分だった。突然の降って湧いた『嫁騒動』。

(蓮に言ったら『浮気する気か!?』って怒られるかな……)

そんな心配が生まれている。この手の話じゃジェイの頭も華音並みだ。


 やっと子どもたちが本来の遊びに戻って行った。それを覗きに行った哲平は、上気した顔で華月の隣に座っている和愛を見て微笑んだ。

(いい顔だ…… 千枝、和愛の初恋の相手は華の息子だぞ。これはこれで大騒ぎになるかもな)

 広岡の娘、椿紗も華月を好きなのを知っている。池沢家の穂高は椿紗が好きだ。双葉はまだ小さくてそんな心配は要らない。

(池沢さん、知らないんだよな、穂高の初恋)

先々を考えるとあちこちに恋の蕾が膨らんでいる。

(千枝、お前も見てて楽しいだろ?)

 そんな語りかけにもう涙は落ちない。哲平はいつも千枝とお喋りしているのだ。


 男同士のうたげが始まる。

「華、落ち着いたか?」

「なんか釈然としないけど。哲平さんにいいとこ取りされた気分」

「お前さ、もう耐性つけろよ。多感な女の子は『あれが好き、これが好き』って言い続けるぞ。俺の姉妹も忙しかったからよく分かる」

 一知華は高飛車な恋多き女。二知華は陰から見るタイプ。莉々は遠慮なく突っ走るタイプで茉莉は男性にちやほやされている。

「そんなの本気で取ってたら父の威厳なんて保てないぞ」

「哲平さんには分からないよっ! 和愛はまだそんなこと言わないんだろ!?」

「明日のバレンタイン。和愛はもうチョコ用意してるよ」

 華の箸が止まった。ついでにジェイも(バレンタインってなんだっけ?)

 広岡はあまり感じていない。椿紗が恋? そんなまさか。

「哲平さん、よく平気だね! 相手の男に腹が立たないの!?」

「わっ!」

 哲平が吹き出したビールはほとんどジェイが被ってしまった。

「ひどいよっ! 飲み込んでから笑ってよ!」

「相手の男って……華、子どもたちの年、分かって言ってんのか?」

「そ。華はいちいち大袈裟なんだよ。まあ、可愛い一人娘が誰かを好きだって分かったらそうなるのかもしれないけど」

(広岡、お前もその内のたうち回るぞ、きっと。楽しみだな)

哲平は腹の中で笑っている。


「話がある」

 哲平の正座に、一同も正座になった。もう哲平の正座の意味をみんな知っている。何かの決意表明だ。両手は膝の上。ジェイは真剣な顔で哲平の顔を見ている。

「今夜、俺はここに泊まる」

「………………で?」

 華の声から温度が消える。

「一つ目はそれ」

「……2つ目は?」

「俺は職場復帰する」

「それが一番目でしょ! なに、すっとぼけたこと言ってんだよ!」

 喜ぶより先に思わず怒鳴った華。

「本当か? 一昨日来た時には何も言わなかったじゃないか」

「言おうと思ってたんだけどな、今日みんなが来るって聞いたからさ。どうせならと思ったんだ」

「哲平さん!!」

「おい! 重いって!」

 哲平に抱きついたジェイは早くも泣き出している。

「帰ってきてくれるの? 本当に? 待ってたんだ、そう言ってくれるの……」

 震えるジェイの背中を叩く。

「ああ、帰ることにしたよ、第二の我が家に。席、あるんだろうな?」

「もちろんだよ!」

「埃、被ってないか?」

「俺、毎日磨いてた」

「そうか」

 ジェイがそう言うのだから本当に毎日磨いているのだろう。

「待たせたな」

「うん……うん、待ってたよ」

 華も涙が出そうになるのをぐっと堪えている。

「いつ? いつから?」

「急かすなよ、華。まだ実家にも言ってないんだ。和愛は承知してくれた。千枝のご両親にも挨拶をして来たい。だからそういうのが落ち着いてからだ。それくらい待てるだろ?」

「戻ったらすぐに忙しくなるよ」

「望むところだ」

「哲平、この話、まだ会社で言わない方がいいんだよな?」

「先に常務と部長に挨拶に行くよ。それからだ」

「分かった。俺からは……華もジェイもだぞ、言わないでおく。お前に任せるよ」

「ありがとうな。最初は下働きするよ。様子が掴めないから」

「……何年になる?」

 華の言葉に考える。

「最後は確か……部長が泣きながら俺にしばらく休めって言ってくれたのを覚えてるよ。俺、『ふざけるな!』って言ったんだ。でも部長は怒らなかった。有難かったと思う」

「哲平さんのいなかったの、2年と4ヶ月だよ……長かった。本当に長かった。入院してる時にお見舞いに行って……その時『ああ、もう哲平さんは戻らないんだろうな』って思ったの、覚えてるよ」

「悪かったな、ジェイ。自分でもあんな俺は初めてだったよ」

「あの後哲平、しばらくいなくなったよな、和愛を実家に置いたまま。聞いてもいいか? どこにいたのか」

 広岡はいつもその話を避けてきた。哲平が口にしないから。そのことも知っている。

「寺に行ってた」

「寺?」

「昔行ったことがあってさ、自分を探すってヤツ。寺の修行って辛いんだぜ。特に俺の行ったとこ。でもな、自分が見えてくるんだ、だんだんと。戻ってやっと分かったんだよ、和愛が大きくなってるって」

 華はずっと辛かった。何度も和愛を自分の家に連れて来たし、あの頃は普通に哲平と話が出来る状態じゃなかった。


「今夜、俺も泊まろうかな」

 広岡が言い出す。ちょうど莉々がひじきを持って来たから哲平の話をした。

「ホント!? そうか、復帰かぁ。父ちゃんも母ちゃんも喜ぶよ!」

「言わないでおいてくれないか? 俺がちゃんと話したいからさ」

「分かった。何も言わない。和愛はどうするの?」

「おばあちゃんたちのところで帰るのを待つって。でも何か考えなくちゃいけないだろうな。残業もあるから遠いのは困るし」

「哲平さん! この近くに家、探さない?」

「ここ?」

「考えてたんだよ、近くに引っ越してこないかなって。真理恵もいるしさ、華月たちと同じ学校っていうのも安心でしょ?」

「和愛が喜びそうだ(華月と近くなるしな)。考えてみるよ」

「俺、物件探しておくからさ! そうしなよ」

 ジェイも嬉しくて堪らない。華兄はなあに哲兄てつあにを助けている姿が。

(蓮に内緒にしておくってこと? うわぁ、言いたい! 今日言いたい! 今夜言いたい!)

 けれど……哲平が会社で落ち着くということは、蓮が会社を辞めるということだ。

(そろそろ俺も決めないと。自分がどうしたいのか)

蓮はそこは『自分で決めろ』と言った。

「それでさ、今日泊まろうと思って。莉々は大丈夫?」

「いいわよ。椿紗も喜ぶだろうし」

(そりゃ喜ぶさ! 華月のそばにいられるんだからな)

今のところ、全員の恋の方向を網羅しているのは哲平だけだ。

(楽しみだな、千枝。親父どもの慌てふためく顔が見れそうだ)

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