07_バレンタインデー

『華、そっちに椿紗、行ってるか?』

「来てるけど」

『やっぱりな。留守だからそうだろうと思ったんだ』

(俺んちってそんな感じ?)

「なに、広岡さんじゃなくって椿紗に用があんの?」

『ま、ぁ、そういうことだ』

「なんか歯切れ悪いね、池沢さん」


 これは蓮の作った決まりだ。プライベートではあくまでも『さん付け』。


『明日、そっちに行きたいんだけどな』

「構わないですよ。哲平さんもジェイも来てるし」

『賑やかそうだな。 ぉぃ。ぁりさ!』

(途中から小声になってないし)

思わず耳から受話器を放した。

『いるって。哲平とジェイも』

『ええ、哲平がいるの? うるさそう』

(それ聞いたら哲平さん、傷つくよ……つかないか)

『じゃ、午前中から行くよ。昼に差し入れ持って行く。じゃな』


「華くん、どうしたの?」

 受話器を持ったまま佇んでいる華を見て真理恵が近寄って来た。

「俺んちってさ、みんなの溜まり場になってると思わないか?」

「そうね。私楽しいけど、華くんはいやなの?」

「出かけずに済むのはいいかな。誰かの家に行くって面倒くさいし」

「華くんらしい!」

「ウチの家計、追いついてる?」

「それは大丈夫! みんな必ず食材や差し入れ持ってくるし。飲み物もほとんどウチでは買ってないよ。それに結構みんな気にしてくれてて何かあると割り勘でお金出してくれてる」

「マジ!? 俺、知らなかった!」

「嘘だぁ、華くんにちゃんと言ったよ」

「そうだった?」

 何にしろホッとした。真理恵に負担をかけたくない。家計的にも精神的にも肉体的にも。双子を産んでからの真理恵はちょこちょこ体調を崩す。たいしたことはないからいいけれど、夫としては見過ごせない。でもみんな、ここに来ると奥方連中が動くし、動く必要があれば男性陣が積極的に動いてくれる。

(結果的には良かったか)

 人の家に行くのは結構ストレスになるだろう。自分のことも子どもたちのことも気遣うから。

(特に哲平さんがマリエのこと、気にしてくれるからな……)

哲平は真理恵の様子に異常に敏感だ。

『横になって来い!』

 そんな言葉がよく飛び出す。真理恵も素直に『はい』と言うことを聞く。


「華音! 穂高が明日来るって!」

「ええ、困る!」

「なんで?」

 これは華音にしては珍しい発言だ。奥の部屋を覗きに行く。この八畳間はこういう日は子ども部屋になっている。

 大家さんがここに手を入れて洋間にしようと言った時に、ずい分説得しに行ったものだ。

『和室がいいんです。今の状態で充分気に入ってます』

 本当なら新築を買うかマンションを買うか、そういうものだろうけれど、真理恵が気に入っているからと和室に住んでみて、この上なく幸せを感じた。幼いころから洋室だけで育った華は、ドアと言うものがどんなに閉塞感をもたらすのか身に沁みて感じたのだ。


「華音、ちょっとおいで」

 父の様子を見て、華音は隣りの部屋までついて行った。

「どうした? 穂高とケンカしてるのか?」

「違うよ」

「じゃどうして困るんだ?」

「……なんでもない」

「華音、お父さんに隠し事?」

「男の子には言えないことなの!」

 それだけ言うとまた子ども部屋に戻ってしまった。途方に暮れる華。

(男の子には言えない……どういう意味だろう)


 華音は父が哲平たちのところに戻ったのを確認して母のところに行った。

「お母さん」

 小さな声に、真理恵はすぐに振り向いた。手にはこんにゃくを持っていて、それがぷらんぷらんと動くのがまるで母のように見える。

 華音の中でこんにゃくやもずくは母に見えてしまう。掴みどころが無い。

「どうしたの?」

「明日、穂高くんが来るって、お母さん聞いた?」

「聞いたよ。電話のそばにいたから」

「どうしよう……」

「なぁに?」

「義理チョコが足りないの」

「ああ」

 真理恵は笑った。もうそんなことを気にする年になったのだと、華とは違う目で娘を見る。

「義理なの?」

「うん。好きって言うんじゃないし」

「そっか。じゃ、他の男の人には用意してあるの?」

「ジェイくんとぶちょーさん!」

「ジェイくんは分かるけどぶちょーさんにチョコなの?」

「あんまり来ないけどいつもジェイくんにお土産渡してくれるから。そういうの、ただの義理じゃだめだって、お姉さんの親父っさんが言ってた。えっと『義理を欠いちゃなんねぇ』って」

 真理恵が声を上げて笑う。

「そう! それ、いいお勉強したね。でもそしたら哲平おじちゃんや真おじちゃんは?」

「だって、時々華音のこと意地悪するもん!」

 くすっと笑う。確かにそうだ。

「ね、お父さんには?」

「お父さん?」

 ちょっと真面目な顔になった。これは、マズい。

「華音。お父さんには特別なチョコを用意しなくちゃ」

「お父さんなのに?」

「お父さんだから。いい? せめてジェイくんと同じくらいのものにしなさい。これは約束。いいわね?」

「……はい」

 母の真面目な顔に逆らっちゃいけない。それは正しいことを言っている時だから。

「で、どうしたいの?」

「チョコ、買ってきたい。お父さんの分も買うから」

「他のチョコはどうやって買ったの?」

「お小遣い貯めてた!」

 華月と華音のお小遣いは一ヶ月500円だ。

『もっと渡せばいいのに』という華に真っ向から反対して小遣いの額を決める権限は真理恵のものとなった。それ以来、小遣いについて華が口を出すことは無い。

 その中でチョコを買うために貯めていた。これは真理恵には嬉しいことだ。

「頑張ったんだね! 偉いね、華音!」

 努力を認められるのは、どの子だって嬉しい。

「じゃ、後でお母さんと一緒に散歩しよう! その時に買おうね」

「うん!」

 子ども部屋に走る華音に声をかける。

「走っちゃだめ!」

「はぁい」


 男たちの宴は夜11時頃まで続いた。華の家では、酒はゆっくり飲むと決まっている。悪酔いをしたり喧嘩が起きると華に叩き出される。雨だろうが雪だろうが、蚊の集団が待っていようがお構いなしだ。

 今のところ、出禁できんになった者はいない。けれどやり過ぎれば華は宣言しかねない。だから酒を飲むのはゆったりだ。


「明日、心配だろ、華」

「明日?」

 ジェイも反応する。

「明日何かあるの? 広岡さん」

「なんだ、分かってないのか。明日はさ」

 哲平の大きな咳払いが入る。

「広岡、飲め」

 有無を言わさず哲平が酒を注いだ。

「その様子じゃ哲平さんも分かってるんだね」

 華の口調が鋭い。

(出た! こういうのは先読みするんだ、こいつ。……そうか、華はあんまりチョコもらってなかったな。用意する女性陣は華が怖くって、オフィスの入り口で帰ってったっけ)

 ジェイがバレンタインを意識するなんて論外だ。もらえば喜んで食べるけど、いつも『バレンタイン』というものを根底から分かっていない。


 哲平に止められて、広岡も頭の中で(あ! ヤバイ!)と思った。けれどすでに遅し。華の目が『喋れ』と言っている。

「ほら、子どもたちのお遊びさ。明日はバレンタインだろ? チョコもらえるかな? って……」

「バレンタイン? ……華音は大丈夫だ、月に500円しか小遣い渡してないし」

「500円!? よくあの二人、グレないな!」

「哲平さんはいくら渡してんのさ」

「1,500円」

「はぁ?」

「あいつ、我慢するんだよ。欲しいものも必要な物も」

 すぐに華は納得した。和愛にはそういうところがある。それに母親がいない分、緊急の出費もあるだろう。

「俺のところは1ヶ月に800円だ。1週間200円ってとこ」

 それにも納得。

(いいのか、マリエ? ウチは極端に少ないぞ)

 真理恵はあれだけお菓子をもらうし必要な物は家で用意してあるから、1週間に100円あれば充分だと思っている。

「いいんじゃないか? お金に対する価値観なんて、その家によってずい分違うよ」

 さすがに哲平は5人兄弟で小遣い戦争に揉まれただけのことはある。


「椿紗と和愛は? バレンタインを気にしてるの?」

「言ったろ? 和愛はもう用意してるって」

「それ、容認できるって、よく分かんないけど」

「椿紗はそんなもの無縁だよ。まだ好きとか嫌いとか、そんなことにも疎いんだから」

 哲平は笑いたいのを堪える。

(明日、椿紗がチョコを用意してないといいな、広岡)

もしかしたら免疫がない分、華より先に卒倒するかもしれない。

(その時は義兄としてお前を受け止めてやるよ)

それが楽しみでもある。

 男どもはここで布団を広げて雑魚寝だ。布団はいつの間にか増えていたが、華も真理恵も物を溜め込まないから収納には困っていない。女性陣は居間に寝る。子どもたちは子ども部屋。

 真理恵には個室がある。大家さんが6畳間を建て増ししてくれたのだ。大家さんの61歳の奥さんと真理恵は本当に仲がいい。

(明日……大丈夫だろう、まだ6歳なんだし)

華の記憶の6歳児は、ただの6歳児にしか過ぎなかった。


「お邪魔します!」

「お姉ちゃんだ!」

 どどっと玄関に子どもたちが集まった。いるなら玄関に揃ってお客様を出迎えること。お姉ちゃんの仕込みで、少なくともお姉ちゃんの声がするとこの仕来りは厳守されている。

「みんな元気ね! こんにちは!」

「こんにちは!」

 みんなが一斉に挨拶をする。

「お父さんたちは?」

「いつものお部屋にいるよ」

 華月がいつもの通り返事をする。お姉さんのお蔭で、子どもたちの統率はその家の主の長男、または長女がすることになっている。

 池沢がお土産を渡すと口々に「ありがとう!」を言って、わぁっと子ども部屋に引っ込んで行った。

「穂高、お前は?」

「行くよ」

 慌てることなく体格のいい穂高が奥に行くのを見送った。

「後姿、隆生ちゃんにそっくりよね」

「そうか?」

 父はまんざらでもない顔で顎を撫でた。これでも照れている。


「急だったね、珍しく」

 華の出した座布団に座りながら池沢は米を渡した。

「やるよ。親父っさんからだ」

「わ、助かる! 米の減るの、早いんだ」

「今度から毎月親父っさんが送るってさ。お前にはずい分助けてもらってるからな」

「悪いな」

「あんた、『悪い』って顔してないわよ」

 この夫婦が揃うと裏町のバーの得体の知れないマスターとママさんに見えるから広岡は密かに笑っている。

「穂高が急にお前んとこに来たいっていうからさ。珍しいと思って連れて来たんだ」

 哲平にはぴんと来た。

(穂高、バレンタイン狙いか? そりゃ、残念!)

結末が見えている。穂高に来るチョコに本命は無いだろう。

 その内、男の子が追い出されて大人の部屋に来た。

「どうした、華月、穂高」

「追い出されちゃった」

 華月が不服そうに言う。穂高は老けている感があって落ち着いて見える。

(それにしても穂高はお父さん似だよな。可哀そうに、一生苦労しそうだ)

失礼なことを考えているのは、またもや広岡だ。


 女性陣がコーヒーを持って入って来た。

「真理恵さんたちもこっちでお喋りすればいいのに」

 ジェイが心配そうに言うのを哲平が手を振った。

「止めとけ、ジェイ。井戸端会議をここでされたんじゃ敵わない。俺たちの居場所が無くなる」

「そういうもんなの?」

「そういうもんなの」

 哲平の言い切りにはジェイは黙って従った。


「はい、これ。私たちから」

 箱に入ったチョコレートがテーブルの真ん中に置かれた。

「これだもんな。色気もへったくれもない。全員ひとまとめで義理チョコだし、中身は同じものが並んでるし、ふたまで開けて来るし」

 広岡がぼそぼそっと言ったのが可笑しくてみんなで笑った。

「広岡、お前本音を言うようになったな! いいことだ、安心するよ」

 本当に池沢が嬉しそうな顔をする。

「私からはこれ。ヤローにじゃないわよ、日頃苦労している奥様方に」

 ありさが手前にいる莉々に渡した。

「わぁ、ゴディバ! ありがとう、お姉さん!」

「どういたしまして。あ、真理恵ちゃん。あなたにはこれも」

 車から持って来た大きな箱を見せる。

「なに? ありさちゃん」

(その呼び方、真理恵さんじゃなきゃ出来ないね)とは、広岡。

「座椅子。背の高いの、欲しがってたでしょ? どこに運べばいい?」

 すかさず哲平が立ちあがった。

「この程度、私が運べるわよ」

「そうでした。さすが姐さん」

 哲平は座り直した。


 わいわい出て行く女性陣にほっとする男性陣。不思議そうな顔をしているのはジェイだ。

「みんな仲いいのにどうしてこうなるの?」

「プライベートで女の相手すんのは疲れるんだよ」

 他でもない、哲平がそう言ったから池沢も広岡も素直に頷けた。

「そういうもんなの?」

「そういうもんなの。お前と話してるとこの返事がすごく多いような気がする」

 哲平の言葉が終わらない内に飛込んできたのは華音だ。


「ジェイくん! これ、もらってくれる?」

 期待を込めた目を持つ少女が手にしているのは真っ赤な包み紙に真っ赤なリボンが付いた小さな箱。

「華音ちゃん、これ何? 俺の誕生日ならもっと先だよ?」

「それ、いつ!?」

「3月14日」

(あああああ…… こいつ、やっちまった……)

哲平は心の中で大きなため息をつく。もう今の日付は華音のハートに深く刻まれたことだろう。

「ね、開けて」

 華音の催促にリボンを外す。男どもは怖くて華父の顔が見られない。それでも哲平はチラッと見た。

(お前、今死ぬのか?)

「ありがとう、華音ちゃん! チョコ、大好きだよ!」

 きっとジェイの足元に広がる畳には『華』とデカい文字がある地雷が敷き詰められているに違いない。

「俺だけもらっていいの?」

「ジェイくん、特別だから」

「特別? ホント? 嬉しいな!」


 ジェイに嬉しいと言われ、華音はちょっと困った。母には、『ジェイくんと同じようにお父さんにもしなさいね』と言い含められている。けれどあまりにジェイくんが喜ぶから『俺だけ』という言葉にうなずき、『特別』という言葉を使ってしまった。父を見ると今にも泣き出しそうで、華音は母の言った意味がよく分かった。

 華音はありったけの知恵を絞った。

「お父さん、お膝に座っていい?」

「い、いよ」

(なんて声出してんだよ、華!)

哲平は気が気じゃない。

「あのね、華音は大好きな人に用意したんだよ。お父さん、いつも華音を大事にしてくれてありがとう!」

 頬にキスしてジェイよりちょっと小さな箱を渡す。潤んだ目で華音を抱きしめた華父には、箱の大きさの違いなどもう目に入っていない。

「華音! ありがとう! お父さん、大事にするよ!」

「お父さん、これ、チョコだから。大事にするんじゃなくて、食べてね」

 堪らず、広岡はとうとう吹き出した。


「お父さん!」

 駆けてきたのは椿紗だ。広岡に抱きついて泣いている。

「どうしたんだ、椿紗!」

「あの、ね、華月、くんにチョコ、渡そうとしたら、ね、先に和愛ちゃんが、渡し、ちゃったの。一番最初に、上げたかったのに」

「え?」

 広岡が目をパチパチとしている。

(やったな、椿紗! お前の父ちゃん、これからうろたえるぞ!)

そして本当にうろたえ始めた。

「椿紗、どうしてチョコなんか!」

「だって、華月くんが好きなんだもん!」

「だめだ!」

「お父さん?」

「男はみんな狼なんだぞ! 何されるか分かんないんだ、これからは近づくんじゃない、華月に!」

「ちょっと、広岡さん! それ、どーいう意味?」

 立ち直ったらしい華が広岡に食ってかかる。

「華! もうちょっと華月を管理しとけ! 人の娘を何だと思ってるんだ!」

(初めてのバレンタインでこれかぁ。千枝、笑えるよな)

和愛の強行突破にも拍手だ。


 池沢が呆気に取られているところに、穂高が意気揚々と戻って来た。手にはしっかりと何かが握られている。

(お前もチョコもらえたのか?)

さすがに驚いて声が出ない。

 確かに穂高も大好きな椿紗からチョコをもらっていた。だが肝心の椿紗は泣いている、華月に渡せなかったと。だから不思議に思っているのは哲平だけ。

「これ。椿紗にもらった」

 にっこり手を開いて見せたのは、チロルチョコだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る