第9話 妖の病

 出て行った翌日に戻ってきた様子に家の者は皆驚いていた。

 それもそうだろう。義母が病気になる前は一度も戻っていなかったのに、一日で戻るなど誰が予想するだろうか。

 そして、次に発せられた玉水の言葉に再び驚愕させられた。


「お母さま。御病気は必ず治ります。」


 以前に原因不明と医者もさじを投げた病気を言い切った。唖然とし、馬鹿な事だと思ってしまうが、それを言わせぬだけの気迫が玉水にはあった。

 唖然としている皆を見ることなく、玉水はその中心に横たわっている義母の元へ行った。


「ただいま戻りました。御病気は治しますから。」

「お帰りなさい。」


 義母の返事は短いものであったが、そこに込められた気持ちは大きな喜びであった。

 その日から再び玉水が看病するようになった。義母は戻るように言うことはなく、おとなしく看病され過ごしていた。

 帰ってから数日は気分が高揚しているためと家族は疑ってはいたが、日に日に顔色が良くなっていく様子を見て実際に治りかけていると確信するようになった。落ち込んでいた空気も明るいものとなり、活力であふれるようになった。

 そして七夜を過ぎる頃には義母は立って歩けるまでに回復した。



「どうして治ると思ったんだ。」


 義母の病が治ったのは喜ばしいが、何故玉水が治ると言い切れたのか皆不思議に思っていた。だが、いくら聞いてもはぐらかされてばかりであった。それでも、義母だけは妙に納得していた。




 玉水が家に帰ってきた際、付近で揺れる醜きものを見た。その醜きものは誘うかのようにゆらゆらと揺れていた。ふと、目で追うもすぐに物陰に消えたためその時はそれ以上詮索はしなかった。

 再び義母を看病することになった一つ目の夜。醜きものが姿を現わした。垣根の隙間より現われた醜きものは、まるで玉水を誘うかのように招いた。義母の額に浮かぶ汗を拭い、そっと玉水は誘われていった。

 垣根をくぐり抜けると5間ほど離れたところからこちらを振り返っていた。そして、付かず離れず玉水が歩く速度に合わせて先導していった。いつしか、屋敷から遠ざかり日が沈むと人が寄りつかないような場所まで来ていた。


「思いがけない場所で会ったものだ。一体何故あの様なところにいたのだ。」


 立ち止まった醜きものは暗くしわがれた声で話しかけてきた。


「私は私の思惑とささいな縁によってあの家に家族として迎えいられました。」


 常人であれば怯むような場であるが、玉水は怯むことなく淡々と話した。


「私は大変お世話になり、今楽しい日々を送っていられるのはあの方のおかげなのです。どうか、あの家にいる方を呪い苦しめるのを止めて下さい。」


 玉水の懇願を静かにだが怨念を秘めて聞いていた。


「かの者の父親は儂をこのような姿へ変えただけではなく、我が大切なる子を、何の罪無き子を理由無く殺したのだ。その者は死んだが罪は残っている、故に思い知らされるのは当然のことである。それ故に儂も奴の大切な子を奪い同じ苦しみを味合わせ、残りの人生における悲願を達成するつもりだ。」


 醜きものが紡いだ言葉はひどく怨嗟に満ちたものだった。その言葉の裏には悲哀の感情があり、強くは言い返すことができなかった。

 しかし、玉水には守る者が、守るべき理由があった。


「確かにおっしゃることは最もです。けれども、法華経の教えに反することはあってはなりません。怨嗟の炎を纏い、業に引かれて六道ろくどうに迷い、三悪趣さんまくしゅへ戻るなど、煩悩の焔、瞋恚しんにそのものです。畜生である私達は未だ人で在らざるため、多くの業因ごういんが残っているのです。ですから、善行を積み続け、欲を戒める必要があるのです。」


 玉水は尊き仏の教えを必死に訴え続けた。

 生前に命を粗末にした報いを現世で畜生として受けている。そのため、解脱するには善行を積み、悪行をせず、それらの行為を続けることで、観音菩薩に救っていただく必要がある。しかし、怨嗟の感情に身を任せ復讐を、それも対象の娘に行うなど反する行為である。


「人は仏の骸であるため、次の世でも人になるでしょう。畜生であるこの仮初めの世において一時の迷いに唆され人を呪い殺したら、さらなる報いを受けることは当然です。されば、猟師などの手によって命を散らすか、そうでなくとも来世は三悪趣になるでしょう。そのようにならないために、どうか呪いを解きここより立ち去り、あの方をお助け願います。」


 必死の懇願を醜きものは終わるまでじっと聞いていた。怒って反論することもなければ、耳を閉じることもなく、考え込むかのように聞いていた。

 沈黙が辺りを包み込む刹那、醜きものが目を剥き、牙を光らせ吼えた。


「仏の教えを守ることにより人間道へと生まれたのならば、報いによりこの世のほとけに命を奪われることもあるだろう。だが、儂の起こした罪ではなく仇が自ら招いた罪であれば、我が身には微塵も咎など無い。」


 その言葉には表面の復讐心よりも、我が身、我が子への恨みを晴らしたい、しかし完全には晴らせないという無念を何とか晴らそうという気持ちがこもっていた。

 だが、分かってはいるのだろうが、認められず、それを晴らす方法も見つからないのだろう。先ほどまでの気焔が萎み、悩みを吐露し始めた。


「……この思いを如何にせんと、一日中座禅し思いを巡り心の内をのぞいてみたが、手立ては無かった。我が心には仏の本性が無かった。これでは仏性の理を推し測り、雑念を除いて功徳とすることは不可能である。仇を憎む心を無くし、仏に祈っても無意味だったのだ。…………かの醍醐天皇陛下さえただ一つの間違いしょうたいのへんによって地獄へと落とされ罰を受けられておる。御落胤である空也上人くうやしょうにんも悟りを開くのは地獄の業火に炙られるがごときものと称されている。そのような尊き身分の方であったとしても前世の宿業から逃れることは難しいのだ。確かに、法華経の声を聞き、後に尊き身分の御后になられた方も居られる。しかしながら、儂やお前のような業を抱えた畜生が仏道に入るにはどうすれば良いと言うんだ。」

「何の世迷い言を抜かしておられるのですか。仏の理を理解しておられるのですから、その力の代わりに謀を企み巡らせているのは一時の心の迷いです。法然上人ほうねんしょうにんが説いた教えを知っているにも関わらず、反する行為をするのは、善悪の区別が付いていないのではありませんか。善悪は行いよって決められます。この仇を討つのは悪です。その仇を許すのは善です。その仇を助けることはさらなる善です。思い浮かべのは致し方ないこともありますが、その思いを打ち払うことができないのが悪です。」


 他に道はないとばかりに開き直ったが、間髪入れずに反論をかました。


「憎しみを捨て悟りを開き生き仏となるのが上人達が説かれた望ましい姿です。御釈迦様が俗世あくを捨てることにより釈迦牟尼如来となられたのです。悪行を尽くし、阿弥陀仏の導き無下にするものがいるなど、我ら全員にとって恥ずべきことになります。導きによって悟りを開くことによって仏の効験が現れるのです。」


 懸命に説得を試み、もはや息も絶え絶えになった。反応を伺うもその顔からは如何ほどの感情を読み取ることはできなかった。

 気づけば、もう一刻もすれば夜が明ける頃合いとなっていた。戻らなければならないが、呪いを解くかどうかまだ分からない。動くにも動かないにも不安で相手の動きを待ち続けた。


「あの家に戻るか。」


 何の反応もしなかった醜きものが、一言こぼし、家の方向へ歩み始めた。

 さらなる害をもたらすかもしれないが、その歩みを泊めようとは思わなかった。


 垣根の前で立ち止まりこちらに振り向いた。

 その身体から立ち上っていた禍々しき妖気は掻き消えた。


「しばし、考えたがお前の言うとおりである。間違いを犯す前にありがたき話を聞くことができたのは、恐らく良い宿業があったのだろうな。…………儂は入道に入る。そして山奥で念仏を唱えて暮らそうと思う。」


 そう言うと、背を向け山へと進み始めた。

 去り際、我が子の後生を弔うように頼まれた。承諾の返事を聞くと、鉄面が歪み満足げな顔となった。白く成りゆく山際からの弱々しい光に浮かぶ姿は、毛の無い古狐であった。


 こうして、一夜の弁論により義母に掛けられた呪いは解かれた。だが、その事の裏側を知るものは玉水のみである。




 けれども、垣根の会話は寝ている義母の耳へと届いていた。

 届いたと言っても明瞭に聞こえたわけでは無い。ただ、愛らしい玉水と誰かの話声が聞こえただけである。

 内容は分からないが、良いようおうせに解釈をしていた。

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