第3話 奉公
その日の朝は雨が降っていた。そのおかげで屋敷に訪れる昼時には垂木から水が滴っていた。
家からは義母と義叔母が連れ添い、屋敷内からは奉公している義叔母のみ連れ添う。
「そんなに緊張なさらなくてもよろしいですよ。」
緊張をほぐそうと声を掛けてくるが、ほぐれることはない。憧れの姫にお近づきになれるのであるから当然である。けれども御見苦しい姿を見せることはできないし、よその屋敷の者に見られたら姫様が侮られる原因となってしまう。
大きく息を吸って出してを繰り返し、息を整える。
「……はい。大丈夫です。」
緊張ほぐして言ったつもりだったが言葉がすぐには出ず、もつれた。
「まあ、初めてですから仕方ありません。でも、姫君はとてもお優しい方なので安心しておいてください。」
そういうと御簾に手をかけた。
「さあ、御対面しますよ。」
そういうと同時に御簾があげられ、中に入るように促された。
恐る恐る中に入るとそこは光に満ちあふれていた。いや、実際に光っているわけではない。そう感じられたのだ。
幼い頃とは面影が多少変化しているが、その気品に触れればあの姫様だということは間違いない。
「お初にお目にかかります。この度、奉公することになりました白川の娘でございます。」
入室前に言われたとおりに挨拶を行う。緊張か、興奮か、それとも別の感情かよく分からないが、ぎこちない動きになってしまった。
「名はどうするの?」
姫様に言われて気がついた。女房名をまだ与えられていなかった。だが、それも当然である。お見えするまでは仕えられるかは分からないのだから。
「名はまだ決まっておりませぬ。父の冠位が――」
「名は玉水。」
どうするか説明しようとすれば与えられてしまった。女房頭がいろいろ小言をいっているが、喜びに胸が震えよく聞こえない。
「玉水が来る前、垂木から垂れていた雨水がきれいだったの。玉水もきれいだし。それに名がなかったし、私が与えたらいけないってこともないでしょ。」
「はい、姫様。今から私は玉水でございます。」
生まれて初めて得た名『玉水』なんと姫様から与えられるとは驚いたが、これ以上に良い名はないだろう。
我が名は玉水。姫様のためであればどのような困難であろうと乗り越えよう。
お仕えし始めて幾日か。私玉水は姫様のそばに侍ることとなった。少々お転婆の過ぎる姫様のためか、自然の中で育った自分は遊び相手として大変満足するものらしい。新人にも関わらず姫様のそばに侍っているために嫉妬を受けるが、屋根のない状況での風雨に比べるとかわいいものである。
姫様はいつも乳母子の月さえと共に行動している。月さえがいないときは乳母であり女房頭である少納言の横にちょこんといる。その光景は非常に微笑ましいものである。
朝には共に起床し、手水で顔を洗う。対面で楽しげに話しながら食事を取り、その後教養を学ぶ。一段落済むと遊びにうつるが姫様はかるたや貝合、扇投げといった屋内遊戯にはあまり興味が無い。庭を駆け回ったり、蝶を追いかけたり、羽根や球をついたりしている。時間があれば私と出会った都の外、鳥羽へと繰り出すこともある。夕暮れになると朝と同様に食事を取り床につく。まれに眠くなるまで遊ぶこともあるがそれほどない。床は月さえと一緒である。仲の良さを示すように同じ単衣を使って寝ている。その寝顔を見届けるとその日の仕事は終わりである。
ある日庭に犬が入ってきた。毛並みは多少汚れてはいたが、肉付きがよく飼われている犬だと推測された。姫様はすぐさま駆け寄り抱きしめその毛並みを堪能していた。月さえも姫様に追随し頭や背をなでていた。だが、私は近寄れなかった。犬が恐ろしいのだ。
元々犬は好きではなかった。そして良い思い出もない。やっとの思いで手に入れた食料を奪われ、取り替えそうとするも多勢に無勢とボロボロにされてしまった。その後も、姫様の姿を見ようとすると追い払おうとするなど邪魔された回数は数知れない。そして、苦手なものとなった。
犬がすぐそこの庭にいると知ってからはご飯が喉を通らない。厠に行っても出るものが出ない。夜になっても眠ることができない。眠っている状態は無防備である。寝た瞬間、気を抜いた瞬間犬が喉笛をかみ切ろうと駆けてくる、そんなことばかり考えてしまう。来る日も来る日もそのことばかりで、逆に姫様や月さえに心配されてしまう。また、犬が吠える度に背筋が凍り付き頭を抱えて丸くなってしまう。
そのような姿を見かねたのだろうか。ある日から私を脅かした犬の姿は消えていた。姫様が追い出すように命じたらしい。
犬がいなくなっても私はしばらく姿無き犬に怯えていた。
「玉水。犬が来たら私が守ってあげます。だから安心して出てきなさい。」
部屋に閉じこもって布団をかぶっていた私はその言葉に姫様に吸い寄せられるように出てきた。決して速くはなく、亀の歩みのごとき遅さである。しかし、姫様は何も言わずに待ってくれ、そのまま私を抱きしめた。
「大丈夫ですよ、玉水。もうあなたを脅かすものはいませんよ。」
私が泣き止むまで姫様は抱きしめてくださった。
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