70.愛慕

「優斗さんが好きなのは、よ」



 優斗が渡米する日の朝。

 優愛の病室にやって来た計子がそう告げた。優愛が言う。



「そんな訳ないでしょ! あなたは優斗に告白してそれを優斗も受け止めて……」


 その言葉を聞いた計子の表情が一瞬曇る。



「どうして私が優斗さんに告白したことを知っているのですか? まさか優斗さんが話したとか??」


 優愛が首を振って否定する。



「違うわ。偶然、そう偶然私があの部屋の前を通りかかって聞いちゃったの」


 誰も来ない夕方の音楽室。偶然優愛が通りかかるはずがない。きっと後をつけて来たのだろうと察した計子が自嘲気味に笑って言う。



「そう、神崎さん。あなた本当におめでたい人ですね」


「な、なにを!!」


 むっとする優愛に計子が言う。



「振られたのよ、私」



「え?」


 優愛が計子の顔をまじまじと見つめる。


「だって、だってあなた達付き合って、ふたりで……」


「付き合っていたら神崎さんのおっしゃる通りこんな所に来てはいないでしょ?」


「そ、それは……」


 優愛の頭が混乱する。

 優斗と計子は付き合っている。ここ数週間、ずっとそう思い込んで優斗に冷たく当たって来た。もし万が一それが間違いだったとしたら、自分は彼が旅立つまでの貴重な時間を自ら棒に振ったことになる。



「ほ、本当に付き合ってないの……?」


「なんでこんな悲しい嘘なんて言うと思うの? どう計算しても割に合わないわ」


「そんな……」


 優愛は自分がして来た優斗への拒絶行為を思い出し、泣きたくなってくる。計子が尋ねる。



「ねえ、神崎さん」


「なに? まだ何かあるの……?」


 放心状態の優愛。もう既にどうしていいの分からない。



「神崎さん、優斗さんに貰わなかった? 紫の」


「お守り……、あ、貰ったよ。確か……」


 優愛は優斗と初詣に行って、神社で買って貰った『病気平癒』のお守りを思い出す。計子が言う。



「ちょっとそれ、見せてくれるかしら?」


「お守りを? いいけど……」


 優愛は鞄に入れて置いた優斗からのお守りを取り出し計子に渡す。



「これが……、うん、やっぱり」


 ひとりお守りを見て頷く計子。意味が分からない優愛が尋ねる。



「ねえ、それがどうかしたの?」


 計子が逆に尋ねる。


「神崎さん。このお守りが何か知っているの?」


 計子の手には紫のお守り。優愛が答える。



「何ってお守りでしょ? 初詣に行って優斗が買ってくれたもの。病気が治ることを祈って……」


 そう言った優愛の目にお守りの裏面にある神社の名前が映る。



(あれ? あんな名前だっけ……??)


 優斗と行った神社。小さくてあまり有名ではない地元の神社だが、どうもそこに刻まれた名前が違う気がする。優愛が手を差し出して言う。



「ちょっとそれ見せてくれる?」


 計子がゆっくりそれを優愛に返す。



「三百神社? あれ、こんな名前じゃなかったはず……」


 混乱する優愛。一体どうなっているのか。計子が静かに告げた。



「それはね、三百みぜ神社じんじゃって読むの」


三百みぜ神社……」


 聞いたことのない名前。どうしてそんなところのお守りが。計子が言う。



「その神社はうちの近くにある、まあ地元では少し有名な神社で色々な願いを叶えてくれるの」


 黙って聞く優愛。



「でも願いを叶えるのは凄く大変なの。何せその為に、毎日神社に行ってお祈りしなければならないの」



(え?)


 優愛の目が点になる。計子が続ける。



「雨の日も、雪の日も、寒い日も暑い日も。台風が来ようが一日も欠かさずお参りをした者だけが、そのお守りを貰えるの」



「え、えっ、それって……」


 優愛の目に涙が溜まり始める。



「優斗さんはね、去年の二月からずっとに毎日欠かさず三百みぜ参りを続けていたのよ」



「そんな、うそ、うそでしょ……」


 計子が立ち上がって言う。



「嘘じゃないわ。私の家の傍だもん。ずっと、ずっと見てたんだから……」


 そう話す計子の目にも涙が溜まる。告白して振られた大好きな優斗。その優斗が好きなった女が訳の分からない理由で彼を拒否している。



「そんな、そんな、私……」


 目から涙を流す優愛の頭にこれまでの優斗の言動が蘇る。



『ごめん、俺用事あるから帰らなきゃ』

『どうしても行かなきゃいけない所があって……』


 いつもどこかへ行かなければならないと言っていた。夏の生徒会合宿でも、花火をし忘れて連泊しようとした提案を優斗は断った。



(あれが、あれが全部私の為だったって言うの……)


 溢れ出る涙。どこか女の所にでも行くのかと疑ったこともある。人に言えない用事なのだと貶したこともある。しかも二月と言えば出会って直ぐのこと。備品だと馬鹿にしていたあの頃から彼は自分の為にこんなに必死になっていた。



「ごめん、ごめんなさい……」


 優愛が両手で顔を押さえて嗚咽する。計子が少し笑って言う。



「優斗さんは神崎さんのことが好きなんだって。ずっとそうだったんだよ。だから、最後の最後であなたが全然話をしてくれなくて、すごく落ち込んでいたわ」



「優斗君……」


 泣いていた優愛が顔を上げ、小さくその名前を口にする。そしてベッドから起き上がり、部屋にかけてあった外出用のコートを手にしてから言う。



「ありがとう、計子!! 本当にありがとう!!」


 そう言い残すと優愛が走りながら病室を出て行く。




「はぁ、なんてお人好しなの、私……」


 誰もいなくなった病室。

 計子が窓の外の空を見上げて小さく息を吐いた。






(ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい!!!!)


 優愛は駅までの道を全力で駆けた。目からは涙が止めどなく流れる。だがそんなことはどうでもいい。自分が犯した罪、つまらないプライドや勘違いで取り返しのつかないことをしてしまった。



「会いたい、会いたい、優斗君、会いたいよおおおおお!!!!」


 もう躊躇いはなかった。優愛が初めて自分に対して本当に素直になって叫ぶ。



(私の『叶えたいリスト』の為に、こんなに頑張ってくれて……)



『病気を治す』、それも優斗のお陰で叶えられた。完治なんて不可能だと思っていた病気を、優斗が奇跡を起こして治してくれた。

 どれだけ自分は彼に守られていたのだろう。もうその出会いから守られていた。彼がいなかったら自分は何もできなかった。それなのに、



「それなのに、本当にごめんなさい!!!!」


 優愛が駆け足で空港行きの電車に乗る。何時発のフライトかは知らない。だけど行かなきゃいけない。今行かなきゃ、一生後悔する。




(優斗君、優斗君!!!!)


 空港に着いた優愛が港内を全力で駆ける。

 目指すは出発ロビー。多くの人で賑わう港内を優愛は小さなメモを手に走る。



(いない、いない、いないよ!? どこにいるの!? まだいるの??)


 出発のフライトは知らない。優愛が出発便が表示された巨大な電光掲示板を見つめる。アメリカ行きは幾つもあるが一体どれが優斗の便は知らない。



「どれなの? 一体どれなのよ!!!」


 フライト名は知らない。だがアメリカ行きの多くの便が既に搭乗を済ませており、離陸の時を待っている。



「間に合わなかった。間に合わなかったよ……」


 掲示板を見た優愛がぐったりうな垂れて涙を流す。



「優斗君……」


 顔をあげた優愛が再び走り出す。



(優斗君、優斗君、優斗君ーーーーっ!!!)


 優愛が手にしたメモを握り締め心の中で何度も優斗の名を叫ぶ。大勢の人が行き交う空港。その喧噪がまるで優愛の心の泣き声のように響く。



(一緒に、一緒にって言ったじゃない……)


 優愛は流れる涙を拭きもせず、滑走路に並ぶ飛行機が見えるガラスまでやって来て足を止めた。ガラスの向こうにはゆっくりと動き出す飛行機。それはまるで彼女の心を削るかのように今まさに飛び立とうとする。



「あなたが居ないこの街で、私はどう笑えばいいのよ……」


 優愛は涙を流しながら崩れるように膝をつき、ひとり声を殺して嗚咽する。会いたい、会いたい。もう一度会ってぎゅっと抱きしめて欲しい。もはや叶わぬその願いを胸に思い、優愛が大粒の涙を流す。



(最後の願い、まだ叶えてくれないじゃない……、私のお願い、まだ残ってんだよ……)


 ガラスに手をつきゆっくりと起き上がる優愛。じっと見つめる飛行機。離陸体勢に入った機材を見て再び涙が溢れる。優愛が小声で言う。



「優斗君、優斗君……、会いたいよぉ……」




「優愛っ!!!」



(えっ)


 幻聴か。夢か。

 優愛の耳にその懐かしい声が響く。



(うそ……)


 そしてガラスに越しに見ていた飛行機から、視線がそのガラスに映った長身の人物のシルエットへと映る。



「うそ、うそでしょ……」


 優愛が片手を口に当てゆっくりと振り返る。



「優愛」


 そこには長髪で銀髪の男。会いたかった上杉優斗。優愛が両手で口を抑え震えながら言う。



「優斗君、優斗君……」


 そして駆けた。優斗に向かって走り、思いきり抱き締めた。



「優斗くーーーーーんっ!! 会いたかったよおおおお、うわーーーーん!!!」


 優愛は強く、そして強く優斗を抱きしめる。



「俺も、会いたかった」


 優斗もそれに負けないぐらい優愛をしっかりと抱きしめた。

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