28.ハッタリと間接キス

「せ、先生。冗談ですよね? や、止めて下さい……」


 ゆっくりと後ずさりしながら計子が青い顔で言う。

 夕日でオレンジ色に染まる教室。皆が帰宅して静まり返る校舎。閉ざされた空間。施錠。立場的優位に立つ銀縁眼鏡の紺野が脂汗を流しながら言う。



「私はね、もう数年で定年なんだよ……」


「せ、先生……」


 ある種何か不気味なものを感じながら計子が後退する。



「これまで大きなミスもなく、そりゃ校長とかにはなれなかったけど家族の為、身を粉にして働いて来たんだよ。そんな私の晩節を君は穢そうというのかい? 部費の収支が合わない? そんな小さなことで君はこの私を脅そうって言うのかい?」


 最後はやや大きな声となって威嚇するように計子に言う。



「だ、だからって部費を勝手に使いこんだりしたら……」


 ドン!!



「きゃあ!!」


 紺野は再び目の前にある机と椅子を蹴り上げる。音を立てて倒れる机。計子の体の震えが止まらない。



「ちょっとぐらい格好つけさせて貰ってもいいじゃないか?? 飲み屋の女にちょっと良いもの買ってやるぐらいいいじゃない? 家では臭いと言って馬鹿にされ居場所がない可哀そうな私にさあ!! ええ? 違うか!!!」


 バン!!!!



「きゃあ!!!」


 今度は手で近くにあった机を叩き狂ったような笑みを浮かべる紺野。

 計子はもう恐怖でしかなかった。じわじわと教室の隅へと追い込まれる恐怖。力では敵わない絶望と言う名の恐怖。自分の想像の範疇を越えた理解できない生き物への恐怖。すべてが怖くて体が震え、声を上げることすらできなかった。



「それともなんだ……」


 教室の隅へと追い込まれた計子に、紺野が気味の悪い笑みを浮かべながら近づく。



「それとも君がボクを慰めてくれるのかな~? ボクはねえ、そうキミみたいな若くて真面目な子も大好きなんだよ~」


 そう言って紺野が真っ白で細い計子の腕を掴む。



「やめてください!!!」


 反射的に計子がその手を払う様にもう片方の手で叩く。手を叩かれた紺野が嬉しそうに言う。



「へえ~、そんな態度するんだ。そんな態度するんだ。ダメじゃないか、先生にそんな反抗的になっちゃ!!!」


「うっ!!」


 そう言って紺野は計子の頬を掴むようにして押さえる。

 一瞬息と声が出なくなった計子。涙を流しながら心の中で叫ぶ。



(嫌だ、嫌だ、助けて、助けてぇ、優斗さん!!!!)


 涙を流す計子の顔の前に脂汗にまみれた紺野の顔が近付いた。






(お、良かった。まだ校門開いてる!!)


 スマホを忘れた優斗が慌てて戻った高校。人気はなかったが幸いまだ校門の施錠はされていなかった。


(どこだろう? やっぱ教室かな)


 上履きに履き替え、暗くなりつつある校舎を静かに駆け足で移動する優斗。誰も居ない校舎と言うのは新鮮ではあるがあまり気味の良いものではない。




 ガン!!!


「え!?」


 そんな優斗の耳に突然何かがぶつかるような音が聞こえる。

 立ち止まる優斗。そして階段の上を見て思う。



(だ、誰かいるのか……?)


 優斗の足が自然と駆け足になる。そして自分のクラスへ近づくと、誰かの声が聞こえてくることに気付いた。



(誰かいる……、一体誰だ?)


 ゆっくりと教室の傍へ行くと、中から男の低い声が響いて来た。



(これは担任の、紺野の声……、そしてその相手は……、計子!?)


 閉められたドアから聞こえて来るふたりの話し声。予想もしていなかった状況に優斗の額に汗が流れ落ちる。良く分からないが耳を立てて中の会話を聞く。



「……だからって部費を勝手に使っちゃ、……きゃあ!!」



(え、部費を勝手に使った!?)


 何をされているのか、何が起こっているのか全く分からない。紺野の低い声は優斗の耳にはあまり良く聞き取れない。そっとドアに手をかけた優斗が気付く。



(くそっ! 鍵が掛かっている!!)


 異常事態に中に入ろうとした優斗だが、あいにく中から施錠されている。



(落ち着け。落ち着くんだ、俺。計子がピンチなのは間違いない。多分会計関連だろう。落ち着け、落ち着くんだ!!)


 優斗は大きく深呼吸をして冷静に周りを見回した。





「離して、離してください……」


 頬を掴まれた計子が涙目で訴える。その姿を見た紺野は酷く興奮し、ポケットにあったスマホを取り出して顔を赤くして言う。



「キミだけそんな弱みを握ってずるいなあ~。ボクもキミの弱みを握らなきゃね。とりあえず人様に見せられないような恥ずかしい写真、撮っちゃおうか~」


(嫌、嫌嫌嫌っ……)


 震える計子に紺野が言う。



「誰も来ないよ。今日は職員会議はなくて先生方もみんな帰ったし、当直が来るのが午後八時。つまり今は何をしても誰にも気づかれないんだよ~、さ、楽しもうか……」


 そう言いながら計子の頬を掴んでいた手が彼女の制服に掛けられる。計子はボロボロと涙を流しながら心の中で叫ぶ。



(嫌だ、嫌だ、嫌だ、助けて、助けて、優斗さああああああん!!!!!)



 ドオオオン!!!!



「え!?」


 その時突然大きな音が教室の後ろで響いた。

 驚き振り返る紺野。計子はその蹴破られたドアに立つ銀髪の男を見て、全身の力が抜けた。



「ゆ、優斗さん……」


 優斗は施錠してあったドアを思いきり蹴破り、教室の中へ入って来る。驚いた紺野が言う。



「お、お前は上杉!! 何をやってるんだ、ドアを壊して……」


 ポケットに手を入れたまま歩み寄る優斗が紺野を睨みつけて言う。



「そりゃこっちのセリフでしょ、先生。何をやってるんだい?」



 それを聞いた紺野が怒りの表情を浮かべて言い返す。


「お前、上杉!! それが担任に向かって言う言葉か!! 私は山下とサッカー部の収支についてだな……」



「ああ、あった。これこれ」


「え?」


 優斗は彼らから少し離れた自分の席に入れてあったスマホを取り出して紺野に見せつける。



「全部させて貰った。計子、ご苦労さん!」



(え? な、何のこと!?)


 意味が分からない計子。ただただ優斗の言葉に頷く。予想外の展開に今度は紺野が顔を青くして言う。



「ろ、録音だって!? なに言ってる、そんなの嘘だろ? わ、私を騙すハッタリだろ??」


 優斗は壁際で震えている計子の元へ行き軽く頭を撫でて言う。


「よく頑張ったな。さあ、作戦は成功だ。帰ろう」


「え、あ、はい……」


 意味が分からぬまま手を引かれ歩き出す計子。そのまま立ち去ろうとするふたりに紺野が言う。



「ちょ、ちょっと待ってくれ。上杉!! 私が悪かった。だからそのスマホのことは誰にも言わないでくれないか? な? お前にも悪くないようにするから……」


 先程までの威勢はすっかり失せ、紺野は半分泣きそうな顔で優斗に懇願し始める。優斗が計子の手を握りながら答える。



「とりあえずこのドア、直しといてくださいね。先生。それから考えますんで。じゃあ」


 そう言って優斗は計子と一緒にその壊したドアから廊下へと出て立ち去って行く。


「あっ、ちょっと待って……」


 そう情けない声で言った紺野の言葉が誰もいない教室に虚しく響く。



「あ、ああ、私の教師人生が……」


 ひとり残された紺野ががっくりと膝をつきながらうな垂れた。






「大丈夫か、計子?」


 校舎を出て少し落ち着きを取り戻した計子に優斗が言う。それでも計子は何かに怯えたように優斗に身を寄せ震えている。


「うん、ちょっとは……」


 しばらくの沈黙。日はすっかり落ち、西の空が少しオレンジ色以外はもう夜の帳が下りている。優斗が尋ねる。



「サッカー部の収支が合わなかったのか?」


 断片的に聞こえた会話の内容をぶつけてみる。


「うん……」


 同時に再び流れ落ちる計子の涙。一瞬慌てた優斗だが計子はしっかりとこれまでのことを説明した。最後まで話を聞いた優斗が計子に言う。



「そんなことがあったのか。どうして話してくれなかったんだよ」


「だって、まだ確信が持てなかったし。先生が調べると言ってたし……」


 この点についてこれ以上の問答は無用だと思った。計子が悪い点はひとつもない。

 ふたりはそのまま下校途中にある小さな公園に行き、ベンチに腰を下ろした。優斗は近くにある自動販売機でコーヒーとオレンジジュースを買って、計子にジュースを手渡す。

 缶コーヒーを開けひと口飲んだ優斗に計子が言った。



「ありがとう、優斗さん。来てくれて本当に助かりました……」


 ようやくお礼が言えたと計子が思った。

 酷い錯乱状態で一体何が起こったのか理解できなかった教室。本当に優斗が来てくれなかったら一体今頃どうなっていたのか想像もしたくない。



「いいってことよ。でも本当に良かった、忘れ物して」


「そう言えば、そのスマホ。どうしますか? 学校に提出しますか……?」


 計子は録音された会話のことを思って言った。優斗が首を振って答える。



「あー、これね。実は何にも録音してない」



「え?」


 驚く計子。



「ハッタリだよ、ハッタリ。偶然教室にスマホ忘れて来ちゃってさ。そしたら計子が大変なことになっていたんで思わず」


「じゃ、じゃあ先生を脅したのも……」


「ああ、一か八かの賭け。と言ってもほぼほぼ通じるとは思ったけどね」



 そう言って苦笑いしながらコーヒーを飲む優斗を見て計子は思った。



(なんて大胆な人……)


 紺野にハッタリがバレれば逆に立場が悪くなる可能性だってある。自分の危険を顧みず救ってくれた。そう思った計子の目に再び涙が溢れる。



「優斗さん、ありがとうございます……、ううっ……」


「お、おい!? 計子!?」


 計子は隣に座る優斗の腕に顔を埋め涙を流す。優斗はそんな彼女の頭を優しく撫でながら言う。



「本当にひとりでよく頑張った。頑張ったけど、次からは俺達にも教えてくれな」


「……はい。ごめんなさい」


 そう答え、再び涙を流す計子。そして優斗が手にしている缶コーヒーを見て小さな声で言う。



「優斗さん、私、コーヒーが飲みたいです……」


「え? じゃあ、俺、買って……」



「いいえ、これで結構です」


 そう言って計子は優斗が持っていた缶コーヒーにそっと触れる。驚く優斗が言う。



「え、だってこれ俺の飲みかけで……」


「これでいいんです! 頂きます!!」


「あ!」


 計子は躊躇う優斗から缶コーヒーを半ば無理やり奪うと、躊躇わずにコーヒーを一気飲みする。



「おいおい……」


 驚く優斗に計子が笑顔になって言う。



「私、コーヒー好きなんです!」


「そ、そうか。それは知らなかった……」


 そう言って苦笑する優斗を見ながら計子が思う。



(本当にありがとうございました、優斗さん。そして……)


 手にした缶コーヒーを見てはにかんで思う。



(優斗さんとの、頂きましたぁ!!)


 日も落ちた暗い公園。

 計子は彼とふたりっきりでいられることが、この上なく幸せに思えた。苦手なコーヒーですら甘く感じるほどに。

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