27.愚者の反撃
水泳大会を明後日に控えたその日、生徒会会計の山下計子が廊下を歩いていると、担任の紺野から声を掛けられた。
「山下」
ひとりで歩いていた計子が振り返る。
「あ、先生」
揺れるおさげ。紺野は計子の赤い眼鏡を見つめながら言う。
「この間のサッカー部の収支についてだけど、ちょっと確認したいことがあるから夕方教室に来てくれないか?」
「夕方ですか? 何時ぐらいでしょうか……」
少し計子の声のトーンが下がる。
「そうだな、今日は会議があるから午後六時半頃でも大丈夫か?」
(六時半……)
随分遅い時間だと思った。
ただ水泳大会の準備のため生徒会の仕事も多いから、どちらにしろ夕方までは学校にいる。それよりも早くあの意味不明な収支のことを知りたい。
「分かりました。よろしくお願いします」
計子は軽く頭を下げて教室へと小走りで向かう。紺野は銀縁眼鏡を光らせながらその左右に揺れるおさげを見つめた。
放課後、生徒会室に集まったメンバーを前に優愛が腰に手を当てて大声で言う。
「さあ、いよいよ水泳大会も明後日に迫ったわよ! みんな準備は大丈夫?」
「はーい」
そんな彼女の熱気に比例しないみんなの軽い返事。優愛が尋ねる。
「備品はどうなってる?」
琴音が答える。
「あ、あの、笛に救急セット、えっとそれから机やイスにイベントテントも準備して……」
「いいわ。その調子でお願い」
優愛が満足そうにうなずく。
「それから当日の段取りは?」
「は~い、これで行くよ~ん!!」
今度は副会長のルリが手にしたプリントを皆に配る。
それは当日の進行スケジュールが記載された主催者用のものと、参加する生徒達に配られるパンフレットの二種類。事前にも目を通していたが優愛が再度確認して頷く。
「いいわ。敵である宮北も条件は同じでね。後で難癖つけられるのは不愉快だから」
「了解~!!」
ルリが敬礼のポーズでそれに答える。
「それじゃあ一番重要な200Mリレーについての説明をするわ」
今度は優愛が背後にあるホワイトボードにペンを持って出場する選手の名前を書き始める。一番手の水泳部平田、二番手の生徒会の計子、三番手の優愛、そしてアンカーの優斗。書き終えた優愛が皆に向かって言う。
「200Mで四名だからひとり50Mが基本だわ。だけど行けると思った人はどんどん泳いでもらって結構。この点は水泳部のキャプテンにもしっかり伝えておいてあるから」
つまりひとりで75Mでも100Mでも泳げればどんどん行って良しとの指示。それまで黙って聞いていた優斗が言う。
「俺にたくさん残して置いてくれていいぞ。100Mぐらいまでなら全力で泳げるから!」
「……」
一同の冷たい視線が優斗に突き刺さる。先日の『海パン脱げそう事件』より未だ名誉を回復していない。あれから水泳の授業も数回あったのだが、運悪く野球の試合と重なり全く学校で泳げていない。優愛がそんな優斗を無視して言う。
「相手の一番手は宮北の生徒会長。彼女がどのくらい泳げるのか知らないけど、うちのエースの平田君がここでどれだけ差をつけられるかが勝負を分けると思うわ!」
優愛としてはなるだけ水泳部の平田にたくさんリードをして貰って次へとつないで欲しいと思っている。アンカーは向こうが水泳部なのでリードしていても優斗が追い越されてしまう可能性があるからだ。優愛が優斗に言う。
「あなた、当日はお腹が痛くなる予定とかないのかしら?」
「はあ!?」
それを聞いた優斗がさすがにむっとした顔になる。それ以上に隣に座っていた計子が立ち上がって言う。
「神崎さん!! なんてこと言うの!! 言っていいことと悪いことがあるでしょ!!」
酷い剣幕で言葉を発する計子。ルリが体をくねらせて優愛に言う。
「優愛ぁ、それはちょっと優斗君、可哀そうだよ~!!」
さすがに言い過ぎたと思ったのか優愛が軽く頭を下げて言う。
「わ、悪かったわ。ほんの冗談よ、冗談。体調管理には気を付けて。腐った牛乳とかは飲まないでね」
どこまで本気で、どこまで冗談なのか分からない。優愛が両手で机をバンと叩いて言う。
「とにかくまずはきちんと水泳大会を実施すること! その上で完膚なきまでに宮北を叩きのめす!! いいわね、みんな!!!」
「「はい!!!」」
よく分からないがいつもの優愛の強気の言葉に皆が手を上げて応えた。
(五時半……)
そんな中、計子が時計を見て不安そうな表情を浮かべる。約束の時間まであと約一時間。何か嫌な予感が彼女を襲う。
「計子、どうした? 不安か?」
(え?)
そんな心の声を察したかのように隣に座っている優斗が声を掛ける。計子が慌てて苦笑いして答える。
「え、ええ、少しは……」
優斗がテーブルの上に置かれた計子の手を軽く握って言う。
「大丈夫。リードされて帰ってこい。俺が全部ひっくり返してやるから!」
「う、うん。ありがと」
計子はそれに笑顔で答える。水泳大会は優斗が居ればきっと何とかなる、そう思えた。
午後六時半の少し前、生徒会の打ち合わせを終えた計子は、担任でサッカー部顧問の紺野に指定された教室へやって来た。
誰も居ない教室。夏至の時期を迎え窓の外はまだ明るいが、オレンジがかった夕日は間もなくやって来る夜を感じさせる。
(静かだな……)
とっくに下校時間を過ぎており校舎はもとよりグラウンドにも生徒の姿は見えない。少しだけ計子が不安を感じる。それでも鞄に入れた今年度のサッカー部の収支書類を確認し、それに協力してくれた担任に感謝する。
ガラガラガラ……
そしてその扉は少しだけ時間より遅く開かれた。
「先生……」
それは計子達の担任でサッカー部顧問の紺野。きっちりと分けられた七三の髪に銀縁の眼鏡が夕日を受けて鈍く光っている。紺野が笑顔で言う。
「いや、待たせたね。山下」
「あ、いえ、そんなことは……」
そう答える計子を見ながら紺野は閉めた扉を施錠し、ゆっくりと計子の前へと歩み寄る。計子は準備していた資料を鞄から取り出し、机の上に置きながら尋ねる。
「この多めの支出はどうでしたか? 先生、何か分かりましたでしょうか」
計子の前で立ち止まった紺野が机の上に並べられた書類を一瞥する。
「……」
しばらくの沈黙。計子の不安が大きくなる。
「……忘れなさい」
「え?」
ようやく開かれた紺野の口からは思いがけない言葉が発せられた。計子が尋ねる。
「え、先生。今、何て……」
「忘れろ、と言ったんだ」
「忘れ、ろ……」
計子が小さくその言葉を繰り返す。
それはつまり今件を『見て見ぬふり』をしろと言う意味である。座ったままの計子が紺野を見上げて言う。
「でも、先生。それじゃあ……」
グシャ!
「!!」
紺野は計子の机に置かれた資料を片手で握り潰した。驚く計子に紺野が小声で言う。
「お前は黙って言うことを聞けばいい。こんな物はなかった、見なかった、知らなかったと」
(なに? なにを言ってるの? これって、こんなことって……)
真面目な計子だが、ようやく相手の言っている意味が理解でき始めていた。紺野が尋ねる。
「この話は他には誰かにしているのか?」
「い、いいえ。まだ……」
とてもセンシティブな話。もし間違っていたら大問題になると思い、生徒会長の優愛はもちろん優斗にも話していない。紺野は気味の悪い笑みを浮かべて言う。
「それならちょうどいい。この話を知っているのは私と山下だけ。ここでこの話を終わりにすれば何の問題もない」
「で、でも先生……」
真面目な性格の計子。すぐに不満そうな顔をして声を出そうとしたがすぐに紺野が言う。
「ちゃんと卒業したいだろ? 高校を」
脅しであった。
担任と言う立場である以上、計子のことは幾らでも何とでも書ける。学年主任でもある彼にとって生徒ひとりを嵌めることなどさほど難しくない。
計子は立ち上がりながら握り潰された書類を見て答える。
「でも、先生。そんな悪いこと私には……」
「黙れっ!!」
ガン!!!
「きゃっ!!」
紺野は目の前にあった机を足蹴りにした。
倒れる机と椅子。計子は今更ながらすべての窓やドアがしっかり締まっていることに気付いた。紺野は少しずれてしまった銀縁眼鏡を手で直しながら計子に静かに言う。
「私もこれ以上何もしたくないんだ。分かるだろ? 綺麗なままでいたいだろ?」
(やだ、やだ……)
計子は真っ青な顔をして後ずさりする。
何を言っているのか、何をされるのか分からない。ただ今は誰も居ない薄暗くなった校舎。人が来るとは思えないし、紺野の迫力に押されて恐怖で声も出ない。計子が震えながら思う。
(怖い、助けて、助けて……、優斗さん……)
脂汗を流しながらゆっくりと近付いて来る紺野をじっと見ならが、計子は心の中で助けを呼んだ。
「あ、いけね。スマホ忘れた!!」
帰宅途中、駅の改札をくぐろうとした優斗が、不意にスマホを学校に置き忘れてきたことに気付く。駅の時計を見ると午後六時半少し前。
(急いで戻らなきゃ!!)
優斗はくるりと回転すると一路学校へ向かってひとり走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます