第2話 閉鎖的

 その晩、由梨は久しぶりに夢を見た。目が覚めてからもしっかりと思えていた夢というのは珍しい。最近ではなかったことだ。

 その日、夢をまったく見なかったと思える日と、夢を見たような気がするんだけれど、内容はまったく覚えていないという日、さらには、夢を見たのは間違いないが、覚えているのは中途半端なところで、まったく繋がっていないという日、そして、目が覚めても、見た夢の記憶が鮮明で、少なくとも目が覚める瞬間の記憶が鮮明な時と、大きく分けるとこのパターンに集約されると由梨は思っていた。

 最近夢を見ていないと思っているのは、まったく見なかったと思っている日だけではなく、中途半端に覚えているので、それを自分では夢だと認めたくないという思いがあるからだ。要するに、

――覚えていないような夢は、いくら思い出そうとしても思い出せない。それは、覚えていないのではなく、記憶に残したくないという思いが潜在しているからだ――

 と感じているのだった。

 そして、夢を見たと自分で言えるのは、完全に意識の中で繋がっている夢だけだった。――人に説明のできない夢は見ていないのと一緒だ――

 と考えていたのだ。

 では、覚えている夢に、何か共通点でもあるのだろうか?

 由梨にはその共通点は分かっていた。その共通点とは、夢の内容というよりも、夢の種類にあった。由梨が覚えている夢というのは、そのすべてが怖い夢だったのだ。

 ただ、すべての夢は怖い夢しかなく、覚えていない夢も覚えていないだけで、怖い夢だったのかも知れない。だが、夢をどうして覚えているのかということを考えると、すべてが怖い夢だという発想は少し違うような気がした。

 これは他の人の意見を聞いたことがないので、由梨だけの意見だが、目を覚ます寸前で、最大の恐怖を感じることで、

――夢なら一刻も早く覚めてほしい――

 と感じるからだと思っている。

 夢から覚めても、その恐怖が強く意識の中に残っている。かといって、恐怖だけが残っているわけではなく、恐怖にいたるまでの過程まで覚えているのだ。つまりは、夢を見始めてからの記憶があると言ってもいいだろう。

 その日の夢は、前付き合っていて、交通事故に遭った松山の夢だった。

 松山が死んでから、

――彼と夢の中ででもいいから会ってみたい――

 と思っていたのだが、そんな時に限って夢に出てくることはなく、松山が夢に出てくる時というのは、松山のことを忘れかかっていた頃だというのは皮肉なものだ。

 それは、松山がまるで、

――俺のことを忘れないでくれよ――

 とでも言っているかのようだった。

 しかし、松山が出てくる夢の中でも今日の夢は、最後には恐怖を感じさせられる夢だった。彼の顔が豹変し、急に笑い出したかと思うと、由梨を死の世界に引きずり込もうとするのだ。それはまるでアリ地獄に落ちた由梨の足元を松山が掴んで離さないような雰囲気だ。最初は恐怖に不安がよぎるような表情の松山を見て、自分が必死になって抜け出すことが、松山の救うことになると思い、松山を助けると、また今までのように、いつもそばにいてくれるような錯覚を覚えたのだ。しかし、もがけばもがくほど吸い込まれるアリ地獄に、どうしようもないと感じた由梨は、松山の顔を見た。すると、そこには恐怖と不安に歪んだ顔をしていたはずの松山の顔があったはずなのに、今度は唇が鼻近くまで避けた口元に、まるで奇声を発するかのような恐ろしい形相に変わっていた

 その瞬間に目が覚めたのだが、最初に感じたのは、

――よかった。夢で――

 という思いだった。

 松山が出てくる夢から目が覚めた時、いつも感じていた思いだった。

 松山が出てくる夢が、いつも怖い夢だということを感じるようになってから、自分が目が覚めても覚えている夢というのが、怖い夢という共通点を持っているということに、初めて気が付いた。それまでは、何となく分かっていたのかも知れないが、意識していたわけではなかった。

――一瞬気づいて、すぐに忘れてしまったのかも知れないわーー

 と感じていた。

 一瞬気が付いて、気づいたことをすぐに忘れてしまうということは、現実社会でもあることではないだろうか?

――今、何かをしようと思ったのに、何だったか忘れてしまった――

 と感じることも何度かあった。

 それは何度かあったといっても稀なケースで、頻繁にあるものではない。

 しかし、本当はもっと頻繁にあるのではないかという考えは、分かっていたかも知れないと思いながら、意識することができなかったこともあるとすれば、もっと頻繁なことではないだろうか。何かを意識するということは、思い浮かんだことを理解できたかどうかということよりも、どれだけ印象的なことだったのかということの方が大きいのではないだろうか。

 由梨はその日目を覚ましてから、そんなことまで考えていた。

 見た夢を覚えている時は、忘れないうちに、いろいろな発想を交えて記憶させようという思いが働く、それは忘れないようにするためで、覚えていない夢が多い中で覚えているということは、それだけ自分にとって、何か意味のあることだと感じるからだった。

――もし松山さんがそばにいてくれたら、私のしていることを、どう感じてくれるだろう?

 怖い夢でも敢えて、松山が夢の中に出てきたということは、何かの暗示を示しているのかも知れない。

「やめた方がいい」

 とでも言いたいのか?

 しかし、由梨はここまで来てやめるつもりは毛頭なかった。

 由梨には由梨の考えがあったがらだ。しかし、それは危険の孕んでいるものであって、松山から言わせると、

「そんな無茶するんじゃない」

 と言ったに違いない。

 それだって百も承知の由梨だった。

 特に松山から無茶だと言われてやめるわけにはいかない。これは松山のためにやることでもあったからだ。

 ただ、この時由梨は、自分がこれからしようとしていることが、松山自身の名誉を傷つけることになることをまだ知らなかった。

「知っていたら、こんなことしなかった?」

 と言われても、その話を知ったタイミングで心境がどのように変わるか分からない。自分の中で、

――もう、後戻りはできない――

 と感じた瞬間があったとすれば、そこから以降は、いくら何があっても、決行したに違いない。それほど、いったん覚悟してしまってからの由梨の決意というのは、固かったのだ。

 由梨は、今朝の夢見の悪さも、表に出ると忘れてしまっていた。子供の頃は怖い夢を見たその日は一日中、その夢をずっと引きずっていたが、大人になるにつれて、怖い夢にも慣れてきたのか、意識しないようになっていった。

「お待たせしました」

 岡本が宿泊しているホテルに到着すると、岡本はすでに朝食を済ませ、すぐにでも出かけられる用意をしていた。

 岡本は福岡に来るのに、新幹線を使った。ルポライターと言ってもフリーなので、福岡にある支店の社用車というわけにもいかない。

 由梨も免許は持っているが、車は持っていなかった。そのため、レンタカー屋さんに寄って、あらかじめレンタカーを借りにいったのだ。

 そのためにホテルへの到着が十時前になってしまった。すでに朝食は済ませているのは分かっていたが、部屋でゆっくりしているのかと思えばすでにロビーで用意万端、待ち受けていたとは、少しビックリだった。

「レンタカー借りて来ましたので、今日はこれで取材の方、お願いいたします」

 というと、

「それはありがたい。僕もフロントからレンタカーを借りようか考えていたんですが、もし由梨さんがお車で来られたらということも考えて、待ってみました」

「それはよかったです。私も確認すればよかったんですが、昔から一人で突っ走るところがありまして……」

 それは本当だった。

 子供の頃から人に相談することなく、勝手に決めてしまって、親から怒られることが多かった。

 そこで自分が悪いことをしたんだと思えるような性格ならいいのだが、自分が悪くないことを理不尽に怒られているという意識が強いので、反発してしまう。その気持ちは大人になっても変わらないが、大人になるにつれて、自分の取っている行動に対しての理屈が分かるようになってきた。

――私は、人に親切の押し売りをして人から喜んでもらいたいといつも思っているんだわ――

 つまりは、サプライズを成功させたいだけなのだ。

 ただ、サプライズを成功させるには、相手の本当に望むことを事前にリサーチすることが絶対条件だということを子供の頃は分かっていなかった。それが子供の頃に反発した理由だったのだろう。

 しかし、大人になるとそうではなくなっていた。

 親切の押し売りには違いないが、サプライズをすることに絶対不可欠な条件として、事前のリサーチを必要とすることが、由梨には納得がいかなかった。

 由梨は、子供の頃の学芸会や運動会というものが大嫌いだった。最初はなぜ嫌いなのか分からなかったが、本番の前に行われる「予行演習」、つまりはリハーサルというものの存在がどうしても分からなかった。

 父兄の前で演技を披露するのに、リハーサルなしで行うというのは、無理があることを理解はしていた。しかし、

――見せるために、体裁だけを繕って練習することの意味がどうしても分からない――

 と感じていた。

――普段のありのままを見てもらえばいいじゃない――

 この思いは、父兄参観日にも似ている。

 わざと分かりやすい問題を出しては、生徒が正解するのを親に見せつけようとする。一種の茶番にしか見えなかった。すっかり興ざめしてしまう。

 だから、由梨には予行演習やリハーサルのような、事前の調査というのが、ずっと納得がいかなかった。

 もちろん理屈は分かるのだが、理屈が分かっても納得できるものとできないものがある。事前の調査というのは、このパターンに相当すると言ってもいいだろう。

――たった一言ですむのに――

 まわりの人はきっとそう思っているだろう。

 しかし、その一言を口にできるかできないかというのは、その人の性格を左右する大きなポイントでもあるのだ。

 ただ、事前のリサーチを納得できないと思っているのは、あくまでもサプライズの場合だけに限定される。それはサプライズをするための材料、つまりはステップとしてのことで、サプライズ自身が事前のリサーチであれば、由梨は喜んで事前のリサーチに望んでいる。

 今回だってそうだ。

 自分が投書まで出して呼び寄せた岡本のために、今回の取材のネタになりそうな人を事前にリサーチしておいたのだ。もちろん、岡本も少しはピックアップしているかも知れないが、後はその時のぶっつけ本番で誰かを探すという醍醐味もある。しかしこの場合の取材の成功率は限りなく少ない。なぜなら、町全体が閉鎖的なイメージのありそうなところだというのは、下調べでも分かっていた。いきなりやってきた面識のないルポライターに軽々しくいろいろなことを話してくれるというのも無理がある。

 だが、岡本独自が気になったのは、この街の特徴として、町長と街の人との関係が、異様なほど密着しているということだった。

 町長は時間ができれば、街に出て、農地や市場や商店街の人に挨拶に行っていた。その時の会話も町長の方で事前にリサーチしていたようで、すっかり会話に花が咲いた後の、訪問を受けた街の人は、町長が自分なんかのために、忙しいのに足を運んでくれたばかりではなく、話を合わせようとしてくれたことに感謝していた。それは選挙戦を目前に日空けているからだという理由からではない。絶えず町長は、町に出かけていたのだ。

 そのことは由梨も知っていた。知っていて、何も言わない。ただ、心の中では、

――何を企んでいるのかしら?

 としか思っていなかった。

 冷静に見れるのは、最初から疑って見ているという、ぶれない気持ちの表れなのであろう。

 運転は、岡本が行い、ナビを由梨が行った。逢坂峠までは、車についているナビで十分だったので、車を走らせた。通勤時間からは外れていたし、都心部へ向かう道とは逆方向なので、スイスイ車は進んだ。そのうちに店舗も会社を見ることもなくなり、すれ違う車すら、まばらになってきた。いよいよ田舎道に足を踏み入れることになる。

 岡本は自分の田舎町を思い出していた。

――あの閉鎖的な街、二度と戻りたくない――

 という思いがあるからなのか、車を走らせながら、見たくないものに出会いたくないと念じていた。

 田舎町にいた頃は子供の頃で、しかも家に車はあったが、農作業に使う軽トラックがあるだけだった。閉鎖的な街だけに、街の人間だけで自給自足を行っていたので、他の土地にいく必要もなかったのだ。だから、いつもは徒歩か、せめて自転車で道を走るだけだった。

 育った街は盆地になっていて、山に囲まれた中は平地だった。山に向かって一直線に続いている道を自転車で走っていると、どんなに走っても山に近づくことができないという錯覚にいつも襲われていた。

 だから、今回の取材で田舎道を車で走りながら、山に向かって走っていて、いつの間にか目の前に山が近づいてきたのを見ると、

――まるで山の方から近づいてきたような気分になる――

 と、感じさせられた。

――このあたりから、俺はすでにこの街の何かにとりつかれているのかも知れないな――

 と感じていた。

 それが何なのか想像も付かなかったが、どちらかというと霊感のようなものが働く岡本には、異様な雰囲気が漂っているのが分かる気がした。それを別に怖いとは思わない。それだけは田舎町育ちの強みなのだと感じていた。

 平地が終わり、いよいよ山道に突入すると、今まで直線だった道が蛇行し始めた。山道なのだから当然のことだが、山道に入ると急に天気が悪くなってきたのか、雨も降っていないのに、道路が濡れていた。

「雨も降ってないのに」

 と岡本がいうと、

「確かにそうですね。山道に入ると、こんな感じになるのかしら?」

 と由梨が語った。

「由梨さんは、実際にこの道を通るのは初めてなんですか?」

「そんなに頻繁に通ることはないですが、初めてというわけではありません。最近は久しぶりな気はしていますが、今まで雨が降っていない時に道路が濡れているのを意識したことはなかった気がします」

 と言って、走る車から道を観察していた。

「何だ。そういうことだったのか」

 先に気が付いたのは岡本だった。

「どういうことなんですか?」

「簡単なことですよ。道の横に溝が流れているでしょう? 溝の水が道まで溢れ出しているから、その水が道全体に広がって、まるで雨が降ったかのように見えるんです。特に坂道で、しかも、蛇行しながらだと、溝から水が溢れているのを気にしてしまうと、運転がおろそかにまりますからね」

「そういうことだったんですね」

「ここは、山の中で森林が立て込んでいることもあり、木が水分も出すので、表に出ると結構湿気がすごいかも知れませんね。それに水が溢れる音も、ゴーって感じで聞こえてくるんじゃないでしょうか?」

「そうかも知れません。一度降りてみたいものですね」

「分かりました。途中適当なところで車を止めてみましょう」

 そう言って少し車を走らせると、途中、コンクリートの建物があり、その隣に、車の引込み線のようなものがあったので、そこに止めることにした。

 表に出た二人は、二人とも第一声は、

「寒い」

 というものだった。

 下界はまだまだ暑さの残った季節で、半袖で歩いていても、なんら不思議のない時期だったが、山に入った途端、一気に秋を通り越していた。さらに、

「確かにすごい湿気ですね」

「想像以上の湿気に僕もビックリしているんだ。肌にこの湿気が忍び込んできそうな気がするくらいだよ」

「同感です。こんなに湿気が多いから、余計に寒気を感じるんでしょうね」

「晴れているのに湿気を感じると、なぜか寒く感じることが僕にはあった。田舎の街でのことだけどね。それを思い出せば、今のこの状況は不思議のないものに思えるんだ」

 二人は寒気にも慣れて、今度は耳を澄ませてみた。

「カッコーの泣き声が聞こえてきますね」

「そうだね。同じジャーナリストの仲間の中に、バードウォッチングが趣味のやつがいて、そいつから山の声だって言われて聞かされた音声を思い出したよ。まさにこんな感じだったな。あの時は、その音を現地で聞いてみたいと思ったけど、思い出してみたら、その現地がここだと言われても、疑うことはないだろうね」

 彼の中で現地がどこであろうと関係なかった。

――音声に似合った景観が目の前に広がっているだけで、それでいいんだ。何の理屈もいらない――

 と感じていた。

「事故が多発する場所というのも、こんな感じのところなんですか?」

「少し違います。こんなに狭い範囲ではなく、もう少し開けたところなんです。近くにはダムがあって、ダム湖の周囲を走っているところなんですが、大きなカーブになっていて、スピードを出しすぎて曲がり切れなかったりする場合は、万が一目の前から車が来ていれば、確実に巻き込まれます」

「なるほどですね。では、その場所に行ってみましょう」

 再び、岡本はハンドルを握り、車を走らせた。

 しばらく上り坂を進んでいくと、まわりの森が開けていき、そこからは、平地の道が広がっていた。道は蛇行することもなく、普通に直線の道が続いている。

 標識には直進すればダムがあり、そこまで三キロと表示されていた。

「ダムまで、すぐそこなんですね」

「ええ、もうすぐ、ダムの腹が見えてくるはずですよ」

 どういう言い方が一番適切なのか分からなかったので、とりあえず「ダムの腹」という表現を使った。少し笑みを浮かべた岡本は、言葉のニュアンスを察してくれたのだろう。ダムを想像しているようだった。

「私は取材で全国に行くので、大きなダムは結構見慣れているんですよ」

 と言った岡本の言葉に、

――羨ましいわ――

 と由梨は感じた。

 なぜなら、由梨は今までこの街を離れたことはない。家族で旅行に出かけることもないので、他の県に出かけたことがあるとすれば、修学旅行くらいだった。

 もっとも、それは由梨が自分で望んだことであり、

――別にどこに行っても、何も変わりはしないわ――

 という思いが強かったからだ。

 短大時代に旅行に誘われたこともあったが、その友達の目的は、完全に男だった。そんなみえみえの旅行についていく気など、さらさらなかった。どうせ行ったとしても、自分は彼女たちの引き立て役に利用されるだけで、ただの人数合わせにしかすぎないのもわかっていた。

 最初に合コンに誘われた時がそうだったからで、人数あわせで呼ばれた人は、決して目立ってはいけない。抜け駆けなど、当然許されることではなかった。

 しかし、そんな時に限って、他の女の子が狙っている相手が由梨に近づいてきたりするものだった。相手の男性は完全にナンパ気分で気楽に言い寄ってくる。こちらは、ただの人数あわせなので困っていると、男性はそんな姿に萌えるようだ。こちらは溜まったものではない。針の筵に座らされ、どっちに逃げても、グラグラ煮えついた血の海が待ち受けているのだ。落ちたらひとたまりもなく、一気に死が訪れる。想像するだけで、ゾッとするものがあった。

 そんな時に夢を見るもので、アリ地獄といい、沸騰した血の池地獄といい、自分のどこにそんな潜在意識があるのか、想像もつかなかった。

 由梨は、自ら友達から離れていった。このまま、一生利用されて生きるような気がしてしまったからだ。もし、学校を卒業して、そこで以前の自分のことをまったく知らない人たちの中に入っても、そこでできる輪の中に入ったら、結局は利用されるに決まっているとしか思えなかった。

――自分の性格というものは、自分ではどうすることもできないーー

 という思いをずっと抱いていて、利用されやすい性格であるならば、一生、そういう性格でしかない。

 だから、一度自分のまわりをリセットする必要があった。

 まわりから人の気配を消すことで、由梨は自分を一度リセットした。まるで自分を「路傍の石」のように、そこにあっても、誰も不思議に思わない状態にすることは得意だった。これも自分の性格の一つである。

 まわりから気配を消し、自分からは見えているのに、向こうからは見えないという路傍の石状態に、少し興奮していた由梨だった。

――まわりから一切気にされていないというのがこんなに快感だったなんて――

 と由梨は感じていた。

 人に気を遣うこともない。そして、自分が何をやっても、誰も気づかない。実際にはそんな世界などありえるはずはないが、想像するだけならただだと思っていたこともあり、この状況を現実と想像の世界の狭間で楽しんでいた。

 それは、あくまでも由梨の気持ちの中のことなので、誰にも見えるはずのないというのが真相で、由梨もおぼろげに分かっているので、自分の密かな楽しみを人に看過されることだけは避けたかった。

 しかし、それを看過する人が現れた。しかも、知り合ってしばらくしてからというわけではない。知り合ってすぐのことだった。

 もっとも、最初に少しでも気づいておかなければ、知り合っていくうちに、どんどんイメージが固まっていく中で、狭いイメージから、気持ちの中のことが分かるわけもなかった。

 要するに、理解できる機会を失ってしまったのだ。

 そういう意味では、最初に看過したこの人、いったい何者なのだろう?

 由梨は、次第に今度は自分の方が知らず知らずに引き寄せられていくのに気づいた。その人こそ、何を隠そう、交通事故で亡くなった由梨の恋人だった松山明人だったのだ。

 松山は、由梨のことが分かると言って、決して自分から由梨に近づいてこようとしなかった。それなのに、どうして由梨に、彼が自分のことが分かるということを悟らせたのかというと、ある程度まで近づくと、彼との間に静電気のようなものが走るのを感じたからだ。

 彼の方では静電気に関しては感じていないようだが、静電気を感じてギクッとなった由梨に対して、彼なりの反応をしていたようだ。それなのに、どうして話しかけてこないのか、由梨には松山の考え方が分からなかった。

 それなのに、どちらが先に好きになったのかというと、それは松山の方だった。付き合い始めてから由梨が松山に聞いた時も、彼の口から、

「そうだね。最初に好きになったのは僕の方だったからね」

 と言っていたのを思い出すと、他の人には見えない由梨を自分が見えたことで、一目惚れに値する何かを感じていたに違いない。

――松山さん……

 由梨は、いまさらながらに松山のことを思い出していた。

 実際の事故多発の場所を見た岡本は、

「なるほどね。ここまでカーブが激しくて、それ以外は走りやすい道だというのを見ると、血の気の多い連中は、ここで度胸試しなんてことをしてみたくなるわけだ」

「確かに、若い人の被害者も多いですね。でも、家族連れなどの人も多かったりして、やっぱり危険な場所であることは間違いないんです」

「若い連中を被害者だという気はしないけど、家族連れやカップルが事故に遭うのは、あまり関心しませんね。でも、気をつけてさえいれば、何とか事故を防ぐことはできると思うんですよ。つまりは、事故だって自己責任じゃないかってね」

 洒落ている場合ではないと由梨は思ったが、岡本の表情を見ていると、そんな気持ちはサラサラなさそうだ。

「そこまで厳しく言うのはどうなんでしょう? 実際の事故の場面を見ていないから、何とでも言えるのかも知れないわ」

「そうなんですよ。実際に見ていないから、何とでも言えるんですよ。事故多発地帯だから、行政が何とかしないといけないという考えは、最初に考えることではないと思うんですよね。ドライバーのモラルの問題だってあるんですよ」

「結構、冷静な目でご覧になっているんですね」

 少し、鼻にかかったような様子で、由梨は答えた。きっとこのままなら、売り言葉に買い言葉、収拾が付かなくなるかも知れない。

 だが、この会話は避けては通れないことだった。由梨としても、投書までして呼び寄せた相手、相手としても、わざわざ福岡くんだりまでやってきたのだから、それなりの結論を自分の中で見つけたいと思っているに違いない。

 ただ、このまま行けば平行線になるのは分かっていた。しかし、それも自分の意見をハッキリというからであって、相手が真剣に話しているのに、こちらが勝手に妥協するということは許されない。相手には必ずわかるはずだし、分かってしまうと、今後相手から、まともに話を聞いてもらえなくなってしまう可能性もあった。

「僕は厳しいことを言っているのかも知れませんが、甘っちょろいヒューマニズムだけで解決できることであれば、元々、事故多発地帯なんて発生しないんですよ。こんな場所なので、若い連中は、どうせ人の迷惑なんか関係なく、無謀な運転をしているんでしょうね。被害者の中には、そんな連中に巻き込まれた人もいるかも知れない。それを思うと、僕は許せなくなるんですよ」

 そう言って、口を真一文字に結んで、口の中で歯茎から血を出しているのではないかと思えるほどの歯軋りと、敵意をむき出しにした鬼の形相が、虚空を見つめているのを感じた。

――どうしてここまで憎めるのかしら?

 何かを憎んでいるのは分かったのだが、それが人間に対してのものなのか、それ以外の見えない力に対してのものなのかが分からなかった。

「何に対して、そんなに怒りをあらわにできるんですか?」

「人間に対してに決まっているじゃないですか。僕は人間を信じていません。すぐに裏切るし、自分のことしか考えていない。もちろん、それは自分もそうだから、他の人もそうなんだろうと思うんですよ。でも、それ以上に何が憎いかというと、そんな他人を信じようという気持ちが憎いんです。すべてを疑うのはどうかと思いますが、信じることから始めるので、悲劇は起こるんですよ。皆、人間なんて信じられないと思って、もっと慎重になれば、悲劇は減るかも知れません。疑ってかかれということですよ」

 岡本の話を冷静に聞いていると、確かにその通りだ。ルールがあっても、それを一人でも守らない人がいれば、それが伝染し、あっという間に守らない人が増えてくる。それが人間というものだ。何となくだが分かっているくせに、

「人は信じあわないと生きていけない」

 などという道徳的な考えが蔓延してしまったことで、信じてはいけない相手を簡単に信じて、裏切られる。

「あの人かわいそうだわ」

 と人は言うだろう。

 しかし、裏切られて初めて、人は人の冷徹さに気づくのだ。

 誰も助けてはくれない。むしろ、相手にしないようにしようと、中立を決め込む。頼られたら、自分だって同じことをしているだろう。誰も助けてなどくれるわけはないのだ。

 つまりは、相手を信じてしまったために自分の身に降りかかったことは、すべて自己責任なのだ。もちろん、騙した方が悪いに決まっているが、その人が警察に捕まって処罰されても、被害者を全面救済など、どこの誰もしてはくれない。やはり、その理由を、

――自己責任――

 とされてしまうからだ。

 取材の最初から意見が合わないというのも気になるところだったが、それはお互いに目線が違うからだと思っていた。由梨の場合は、ここではないが、自分の付き合っている人を交通事故で亡くしている。しかも轢き逃げで、犯人も見つかっていない。被害者にとっては、やりきれないものだ。

 彼の家族もほとんど諦め状態で、少しでも苦しみから逃れたいのだとすれば、それも仕方のないこと、その本意までは由梨には分からないからだった。

――交通事故は、起こす方が悪い――

 これは分かっていることで、どちらも加害者である場合。つまりは、逢坂峠のように、無謀運転の無法地帯では、死んだ人間が被害者であるという意識がどうしても由梨の中から離れなかった。

 岡本は、由梨のそんな事情は知らない。しかし、由梨の様子を見ていると、ここまで被害者側に思い入れるのは、自分が一度は被害者側に立ったことがない限り、できることではないと思った。

 ただ、もしそうだとしても、岡本には由梨の抱えているものをじれったく感じられた。一つのことにずっとこだわっていて、今の様子を見ている限り、そんな最近の出来事ではないことも分かっている。それなのに、今のような状態だと、このままズルズルと、一生十字架を背負って生きていくことになる。岡本には、由梨の足首に「足枷」すら見えていた。

――なるほど、投書まで送ってきたというのには、何かわけがあると思っていたが、この女性にはやはり何かあるんだな――

 と、感じたのだった。

 由梨とすれば、松山のことを忘れることはできないが、自分の中では吹っ切れたつもりでいた。だが、どこか煮え切らないところがあったので、その思いをぶつけようと、投書を出したのだ。

 今回の取材を受けることで、何がどう変わるのか分からない。もちろん、死んだ人が帰ってくるわけはないし、事故が爆発的に減るなどとも考えられない。せめて、マスコミが動いたことで、行政が何かをしなければいけないと思ってくれれば、それだけでも十分だと思っていた。

 それなのに、肝心の取材を行ってくれる岡本が、

「事故を起こすのは、自己責任」

 という感覚でいられるのは、少し困ったことだとも思えた。

 だが、

「逆も真なりで、同情的な記事を書かれるよりも、冷静に事実だけを連ねる方が、読んでいる人に先入観を与えないかも知れない。下手に被害者側への意見を書くと、人によっては、『またいつものような書き方だわ』と思われるだけで、しらじらしさしか残らないのであれば、その方が困ってしまう」

 という考えを自分に問いただしてみた。

 由梨も、元々冷静に考えることができる女性だった。最初は、岡本が最初に冷静になってしまったので、反抗心から無理にでも熱く考えてしまっていたが、よく考えると、こちらにも都合のいいように考えることができたのだ。

「そういえば、どうしてここを逢坂峠っていうんですかね? 峠には見えないんですが……」

 という意見が岡本から生まれたが、それは当然の意見だった。

 由梨もずっと、そのことに疑問を感じることはなかった。

――ただの地名なんだ――

 と思っていたので、別に不思議はなかったのだが、松山が生前に教えてくれたことがあった。

 デートの時に、ダムの向こうにある公園に出かけた時のことだった。松山の方が話してくれた。

「どうして、ここを逢坂峠っていうか知っているかい?」

「いいえ。普通に地名だとしか思っていなかったわ」

「確かにその通りなんだけど、ここはダムができる前は、峠だったんだよ。そして、峠には茶店があって、登山をする人も結構いたようなんだ。山の向こう側から坂を登ってくる人たち、そして、こちらの側から登っていく人たち、それぞれが、この茶屋で出会っては、健闘をたたえあっていたというんだ。そういう意味で、『坂を登ってきた人たちが逢う峠』ということで、逢坂峠という名前がついたんだ」

 と聞かされた。

 その話を岡本にすると、

「なるほど、ダムができる前の話だったんだね。つまりは、人と人が出逢う場所、ここにはそういう含みがあったんだ。だから、車で無謀なことをすると、静かな山で唯一人の楽しそうな声が響いていたはずの場所を、今ではエンジンの轟音だけが響いている。山に神様がいるのか、それとも、ダムの底に沈んだ村に住んでいた人が立ち退いた後も、魂だけがここに残っていて、静寂の中での安住の地を見つけたと思っていたのに、あの轟音ではたまらないわけだな」

 岡本は自分なりに分析し、纏めた意見を話した。

 由梨は岡本のようなものの考え方ができる方ではなかった。

「岡本さんって、思ったよりも幻想的な考え方をされるんですね」

 少し皮肉を込めたつもりだった。

「幻想的といえば幻想的だけど、冷静に考えて話したつもりなんだよ」

「じゃあ、岡本さんは、何か見えない力というのを信じているんですか?」

「ああ、信じているよ。考えてもごらんよ。見えない力っていう表現だって、何だか微妙なんじゃないかい? 力なんてもの、大体は見えないものなんじゃないのかな?」

 確かに言われるとおりだ。

 逆に、見える力というものを見せてほしいものだ。

 それは「言葉のあや」とでもいうべきか、

――力が生み出すもの――

 が見えるか、見えないかという意味で、力そのものが見えるわけではない。そういう意味では、

――言葉足らず――

 という表現が一番しっくりくるような気がする。

 力というものが見えないので、その力が作用して生まれたものが見えるか見えないかという発想なのだろう。生まれたものまで力として含むかどうかという意見はあるだろうが、岡本は、実際に目の前に現れたことよりも、その過程の方を重視しているのかも知れないと思えた。

 人はとかく結論から物事を判断するものなのだろうが、原因から導かれる結論として、あまりにもかけ離れたことに対して、その過程を顧みる。そして、顧みた過程が自分の中の想定を逸脱している時、

――見えない力――

 を信じるのであろう。

 そう思うと、岡本と自分、どちらが果たして冷静にものを見ているというのか、分からなくなってきた由梨だった。

 事故多発地帯である逢坂峠から、しばらくダムの方を診ていたが、岡本は、今度はダムの奥の方まで車を走らせると、そこに点在する民家があった。そこに岡本は目をつけ、

「ここで少し、民家の人に話を聞いてみることにしましょう」

 と言って車を止めた。

 実際にこのあたりにくるのは久しぶりで、民家が点在していたのは知っていたが、このあたりで表に出るのはおろか、車を止めることもなかった。何も見るところのないこのあたりで車を止める人など、普通はいないだろう。

 道から民家までは少し歩かなければいけない。なぜなら、家までは段々畑になっていて、畑を道なりに上っていかなければならなかったからだ。

 車を降りるとさっきまであれだけ湿気を感じていたはずなのに、少し離れているとはいえ、一キロも離れてはいない。それなのに、湿気を感じることもなく、日の光も十分に降り注いでいた。

 それは岡本にも分かっているようで、彼は車を降りると、すぐに深呼吸を始め、気持ちよさそうに顔に手を翳して、光を遮りながら、太陽を見つめていた。

 一番近い民家の近くまで近づいてくると、さっきまでは見えなかったはずの人が、目の前にいた。どうやら農作業をするのに、腰を直角くらいに曲げていたので、下からでは見えなかったのだろう。自分たちが近づいてきたことで気配を感じ、重い腰を持ち上げたところを、見つけたのだった。

「おはようございます」

 最初に声をかけたのは、由梨だった。

 農作業をしている人は頭から手ぬぐいを冠っていて、それを取るとそこにいたのは、三十歳代くらいに見える女性だった。もんぺ姿に手ぬぐいを冠った姿を見れば、まず想像するのは老人ではないだろうか。

「おはようございます。どうかしましたか?」

「あ、いえ、私はこういうもので、この道を下ったところにある逢坂峠というところを取材に来た者です」

 と言って、岡本は自分の名刺を差し出した。

「それはそれは、ご苦労様です。わざわざ、東京から来られたんですね?」

「ええ、事故多発地帯については、私も気になっているので、いろいろ取材させていただこうと思っているんですよ」

 その女性は、頭に巻いている手ぬぐいを取ると、その下からは、綺麗な黒髪が現れた。もんぺ姿でもなければ、十分に綺麗な女性だった。農作業で掻いた汗が輝いて見え、その目も明るい性格を感じさせた。

「このあたりは、心無い若い人たちの溜まり場になっていたこともあって、事故のほとんどは彼らの無謀運転から生まれたものだったんですよ。だから、警察や行政では問題にしたりはしても、私たち住民は、自分たちに被害が及ばなければ、別に関係ないというくらいにしか考えていませんでした」

 確かに、田舎というところは、見た目は素朴で優しそうだが、実際には閉鎖的な性格で、自分たちに関係のないことにはまったくの無関心だ。

 逆に、自分たちに危険が及びそうな場合には、一致団結して、その排除に尽力する。それが当たり前のように思われていた。

――まるで群れをなす動物のようではないか――

 その動物が起こす行動が本能からのものなのか、意識を持ってやっているものなのか分からない。自分たちの種族が受け継がれていくうちに染み込んだ本能だと考えるのが一番自然なのではないかと思う。

 だが、田舎の人たちを動物の本能のようなものだとして考えてしまうと、それは危険である。

 閉鎖的な田舎のことに関しては誰よりも岡本が分かっている。

 ただ、それは子供の目から見てきたものであって、絶えず見上げてきたものだった。自分が閉鎖的な田舎町の中心に入ったことがないので、本当に分かっているかどうか、少し不安だった。

 それでも、他の誰よりも分かっているというのは間違いない。大人になった今の自分の目がどこまで子供の頃の意識を呼び起こすことができるかというのが、閉鎖的なこの人からいかに信用されるかにかかっていた。

「あなたは、そんな若い連中が、自爆で事故ってしまった場合は仕方がないと思っているわけですね」

「ええ、もちろんですよ。あなたも私の立場になれば、同じことを考えるはずです」

 彼女のいうとおりだった。

 ただ、彼女の言い回しとして、

「でも、あなたたちには、私と同じ立場になんかなれっこないのよ」

 と言いたげだったようにも思えた。

 そう感じたのは由梨の方で、由梨は田舎の生活も、そこで育まれた閉鎖的な性格も分からない。

 しかし、孤立していて、信じられる人がおらず、唯一いたその人も、交通事故で亡くしていたのだ。立場も経緯も違っているが、行き着くところは同じではないかと思うと、彼女の言いたいことも分からなくもなかった。

 しかし、行き着くところがどこなのかがハッキリと分かっていないと、彼女の発想の先と交差するところまできて、本当は立ち止まらなければいけないところで立ち止まれず、そのまま、行き違ってしまっては、今度は永遠に交わることがなくなってしまうだろう。

 もちろん、地球を一周すれば、また交わることになるのだろうが、そんな気が遠くなるような天文学的な発想は、ナンセンスというものだ。

 由梨は岡本の反応を窺っていた。岡本が閉鎖的な田舎町出身であるということまでは知る由もないが、何か岡本なら自分にないものを持っていることで、彼女に近づけるのではないかという一縷の望みのようなものがあったのだ。

「このあたりは、昔は集落はなかったんですよ。皆もっと下の方に住んでいた。そこはまわりを山に囲まれていて、村から出るのも、都会から入ってくるのもままならなかった。でも、そのおかげで自由な文化が生まれ、自給自足の中で形成された文化は、いずれ、集落から筑紫地方全体に広がった。今でもその名残を残した街もたくさんあり、ただ、どことして同じ文化を受け継いだところはなかった。それだけそれぞれに意地とプライドのようなものがあったということなんでしょうね」

 まくしたてるように話すその女性は、そこまで話すと少し落ち着こうと、自ら話をやめた。

 その話をじっと黙って聞いていた岡本が、何か話したそうにしていたのは分かっていたが、彼女のまくし立てるような話し方にたじろいでしまったのか、何も言わずに考えているようだった。

 それならばと、

「私も同じS町に住んでいながら、こんなところがあるなんて、まったく考えたこともありませんでした。子供の頃にダムの向こうからにある遊園地に何度かつれてきてもらった程度で、このあたりに入り込むことはほとんどなかったからですね」

 と由梨は話したが、実は半分ウソだった。

 民家のあるところまで来ることはなかったが、松山が死んでからというもの、しばらくはショックで仕事を休んでいたが、その時は、ほとんど毎日、逢坂峠へやってきていた。

 もちろん、そんなことをしても、彼に会えるわけでも、彼が生き返るわけでもないのだが、じっとしていられなかったというのが本音である。

 それでも、黙って一人で逢坂峠の近くにある公園のベンチに座って、一人考え込んでいると、風が吹いてきただけで、まるで松山が話しかけてくれているような錯覚に陥るのだった。

「松山さん」

 風に語りかけるという行動も、ためらうことがない。むしろ、風が何かを答えてくれているように思えて、ひょっとすると、答えてくれているのは松山ではなく、この場所で事故で死んだ他の人の悲痛な叫びではないかとも思ったが、その時はそんなことはどうでもよかったのだ。

 ただ、一人でいるだけで、喧騒とした街に戻るよりもましだった。聞こえてくる声は、時として断末魔の叫びのようにも聞こえ、彼らが何を言いたいのか、その時には分かっていたような気がした。

 しかし、冷静になって松山の死を受け入れられる精神状態に戻ってくると、二度とこの逢坂峠には足を踏み入れたくないとまで思うようになっていた。それが自分にとっての松山との別れであり、一つのけじめのように感じたからだ。

 ただ、その思いは二年ともたなかった。

 松山の事故の真相を明らかにしなければ、自分は松山の死を乗り越えることができないと感じたのだ。

 それは、松山への想いというだけではない他にも理由があるのだが、だからこそ、わざわざフリーのジャーナリストを東京から呼んだのだ。もし、そうでないのであれば、地元の人でもいい。他の土地の人の目から見た何かの中にこそ、真実が隠されていると感じたのは、今でも大げさなことではないと感じている。

「そういえば、二年ほど前でしたでしょうか? あそこで亡くなった方がいたんですが、その時、私はその人の遺品を拾ったんですよ。本当は警察の方に渡さなければいけないと思っていたんですが、現場検証が行われている最中は、お忙しいと思って、終わってから渡そうと思ったんです。でも、あっという間に撤収されていて、渡す相手がいなかったんですよ」

「それは今、どこにあるんですか?」

「亡くなられた方のものですので、めったなことはできません。だから、うちにある仏壇に供えているんですよ」

「そうだったんですか」

 その話に今度は岡本が反応した。

「見せていただくわけにはいきませんか?」

「いいですよ」

 と、彼女の許しを得たところで、二人は遺品というものが見たい一心で、彼女の家にお邪魔することにした。

 家は完全な昔ながらの農家の家で、奥の大広間に仏壇が設けられていた。部屋全体が大きいせいか、仏壇が小さく感じられたが、実際に仏壇の前に座ると、普通の大きさであることが分かり、あらためて、部屋の広さを感じることになった。

 彼女が正面に座り、うしろに来訪者二人が座る形で、まずは仏壇にお参りをする。線香の香りが部屋全体を包んでいた。大きな日本間では、襖も全開にしているので、風通しがよかった。それでも線香の香りが充満しているということは、普段からの線香の匂いがこの部屋に染み付いているという証拠であろう。

 手を合わせて念仏を小さい声で唱えている彼女の姿も実にさまになったものだ。完全に農家の女性だということである。

 一分ほどの読経が終わると、いよいよ、事故に遭った人の遺品との対面だった。仏壇の前にはたくさんのお供え物があり、その中心に、その遺品は供えられていた。いや、飾られていると言ってもいいかも知れない。そこに置かれていたのは、腕時計だった。

 銀色のベルトの最近ではあまり見かけないようなフォルムに岡本と由梨は目を合わせ、その遺品をまず、岡本が手に取った。

 最近のように、携帯、スマホが主流になっていると、腕時計をする必要がない人が増えてきた。しかも、その時計はデジタルではなく、三本の長短の針がしっかりとある結構、高価に見える時計だった。

 岡本はその時計を見て、他人事のように、

「なかなか最近では珍しいですよね。でも、これだけのものは結構高価なのかも知れませんね」

 と、由梨の方を向くと、由梨はその時計から目が離せないほどに凝視していた。

「穴が開くほどに見つめている」

 という表現がぴったりではないだろうか。

「どうしたんですか?」

 最初に、由梨の異常に気づいたのは、彼女だった。

「あ、いえ」

 由梨も戸惑いながら、空返事をした。

「ひょっとして、あなたがプレゼントしたものだったりして?」

 とオドけたように言った彼女の一言に、由梨は身体が固まっていくのを感じていた。

 その様子を見ていた岡本が、

「まさか、そんなことはないですよね?」

 由梨の唇は次第に色を失い、紫色に変わっていった。まるで冬の海に飛び込んで、寒さで震えている時の唇の色のようだ。

 その様子を、他人事のように見ている農家の彼女は、

「私には難しいことは分かりません」

 と言いたげに見えるが、それだけに、いきなり看過されてしまったことで、一気に恐怖へと変わった由梨にとって、その表情は虚偽以外の何者にも見えなかった。

「そういえば、ここのお宅には、今はあなたしかおられないように見受けられるんですが、他の方はどうされたんですか?」

 と、岡本が訊ねた。話を聞いているうちに、由梨の血の気も戻ってくるのではないかという思いが働いたのだろう。

「皆、今、出払っています」

「そうなんですね。ところで、あなたは、ここの奥さんなんですか?」

 本当であれば、ここまで突っ込んだ質問は失礼に当たるのだろうが、岡本には気にならなかった。自分も閉鎖的な街の出身ということで、それくらいのことを聞いたくらいで、相手がいちいち気に触ることはないと思ったのだ。

 その発想に間違いはないようで、彼女は表情一つ変えることなく、

「ええ、ここの嫁で、塩崎文香といいます。よろしくお願いします」

 と挨拶していた。

 その様子はまるで、舞妓さんのような立ち振る舞いを思わせ、文香も旧家の出ではないかと思わせた。

「失礼ですが、こんな田舎に嫁いで来られて、かなりご不自由されたのではないんですか? 私も田舎が閉鎖的なところだったので、何となく分かる気がするんですよ」

 その言葉に、今まで感情を表に出さなかった、いや、出そうとしなかった文香が反応した。

「どちらの方なんですか?」

「私は、東北の方ですね。九州とはだいぶ趣が違っているかも知れませんが、閉鎖的なところというのは、限られた世界での発想になるので、案外似通っているのかも知れませんよ」

「そうかも知れません。私も実は出身は九州ではないんですよ」

「どちらなんですか?」

「山陰の方ですね。しかも中国山地の裏日本側になるので、まわりも結構過疎化していました」

「それで、嫁入りが九州のこの街だったわけですね」

「ええ、私の育った街より、よほど都会に感じられます。でも、この集落だけは孤立しているようで、私だからよかったのでしょうが、中途半端な田舎出身の人では、とてもやっていけるところではないでしょうね」

「それは、風俗、文化が違うという意味ですか?」

「風俗、文化が違うということは、そこに住んでいる住民の考え方も違うということです。一筋縄ではいきませんが、明らかに違う部分がありますね」

「私も田舎にいる頃、嫌というほど味わった気がします。特に男と女とでは、考え方も違えば、まわりから見る目も違いますからね」

「どうしても、昔ながらの田舎では、いまだに封建的なところが残っている。女性蔑視のところもあるくせに、子孫繁栄には女性が主役ですからね。ここだけは、男性禁制の世界になりますね」

 岡本の田舎でも、女性に対して特別な思いが誰にでもあったが、それがどこから来るのか分からなかった。今の話を聞いて、子孫繁栄のためにあがめられていたという理屈で、もう一度思い出してみると、今まで結びつかなかった思いが一気に結びついたような気がしてならなかった。

「私の生まれた山陰地方は、出雲にも近いところだったので、いろいろな伝説が残っていたりするんですよ。でも、それは神様に対する伝説だけではなく、怨霊に満ちた伝説だったりもあって、子供の頃には混乱したりしましたね」

「なるほど、確かに私も山陰地方に密かに興味を持っていたりしたんですが、出雲に纏わる話だったり、邪馬台国の伝説も山陰地方には残っていたりしますからね。邪馬台国伝説には、純血思想もあり、他の土地の人間と契ることを許さないという発想もありました。そのためには略奪愛も存在したり、今では許されないことも、純血主義のためなら許されることもあったようですね」

「私の生まれたところにも、その話はありました。だから許嫁というのは絶対のもので、生まれた時から自分の運命が決まっていたと言っても過言ではないんですよ」

「でも、奥さんはよくその土地から離れられましたね?」

「私は五人兄弟の三番目だったので、比較的厳しくはなかったんです。長男長女はそれこそ雁字搦めに決まっていましたけど、二番目以降は、ほとんど純血主義に対して眼中にはないんです。ただ、他の人と結婚するなら、村を出なければいけないというしきたりにはなっていました。私はこれ幸いということで、逃げるようにこの街に嫁いできたんですよ」

 それがよかったのか悪かったのか、二人には分からなかったが、同じ女の立場として、由梨の方が彼女の気持ちを分かる気がした。

「でも、生まれた時から運命が決まっているというのも、寂しいものですよね」

 岡本がそう言った。

「そうかも知れません。自由という言葉だけを考えると、きっとそうなんでしょう。でも、この世には、目には見えない何か強い力が存在しているというのは、本当だと思うんです。だから、決まった運命には逆らえないようになっていて、ただ、それを人間が決めていいものかどうかということですよね。私の生まれたところでは、遠い昔に神様が決めたのであって、決して人間が決めたことではないと言われてきました。そうじゃないと、自分の運命を同じ人間に決められるということに少なからずの抵抗がありますからね」

「あなたの育った村では、神様に対しての崇拝神話のようなものがあるんですか?」

「神様に対しての神話的なものはありましたが、それが直接、人への支配に結びつくようなことはありませんでした」

「山陰地方に取材に出掛けた時、ほとんどの土地では、神様を祀るためにいろいろな嗜好がありました。でも、皆同じだったというわけではないんです。その土地土地で、微妙に違っていたんです。最初は同じだと漠然と思っていましたので、そのことに気づくまでにかなりの時間が掛かりましたけどね」

「よく気づかれましたね」

「ええ、その時に私は感じました。最初に固定観念を持ってしまうと、見誤ってしまうことを利用しているのではないかとですね。だから、どの村も大げさに崇拝のための祭場を作り、まわりからの目をごまかしているんじゃないかってね」

「でも、それだけではないんです。確かに最初はそうだったようなんですが、元々は、大きな村があったそうなんです」

「まるで邪馬台国のようですね」

「そこまではないと思うんですが、確かに一人の絶対的なカリスマ人物がいて、その人が統治することで、村は繁栄し、安定していたんです。その人が亡くなると、村は次第に分裂傾向が強まってきて、長い年月をかける間に、本当に独立する村ができてきた」

「どうして、長い年月がかかったんですか?」

「村は強大な力を持っていたんですが、それはすべてが集結しているからですね。ただ、そのまわりにも、その村に敵いこそしまいまでも、そこそこの力を持った村が乱立していた。独立するということは、それらの村と直接対峙することにもなるし、元々いた村からは、独立した村ということで、それなりの敵視は覚悟しなければいけないからなんですよ」

「なるほど、一歩間違うと、どちらかの村に吸収されてしまう可能性を含んでいたんですね」

「そうですね。さらに独立した村をきっかけにして、強大なムラ同士の全面戦争になりかねない。そうなると最悪で、自分たちなど戦争に巻き込まれ、跡形もなく消えてしまう運命になってしまう。まだどちらかに吸収された方がマシなのかも知れないと思うでしょうね」

「それなら、独立など考えない方がいいに決まってますからね。でも、それでも独立の機運が高まってきた?」

「ええ、一つの村だけなら、小さな抵抗なんでしょうが、村全体の半分近くが独立を望んでいるとすれば、今度は話が別になってしまう。村の運営にかかわる問題ですからね。分裂して、小規模になってでも村を存続させるか、それとも現状にこだわって、内部分裂しないように、内部の引き締めに掛かるかのどちらかの選択を迫られることになるんですよね」

「そういう意味では、前者を選ぶことの方が得策な気がします」

「ええ、そうなってやっと村々の独立の機運が再度高まってきたというわけです。ただ、実際に昔にも一度独立の発想があったということを知っている人は、村の中でも限られていると思いますよ」

「あなたのように村を出てきた人が知っているのにですか?」

「そうです。私は村を出たから知ることができたんですが、村を出ることのできない、いわゆる最初から人生の決まっている人には、このことは知らされていないんですよ」

「本当に閉鎖的な村だったんですね」

「ええ」

 岡本は自分の育った街はもちろんのこと、全国でもいろいろと取材を続けてきたので、閉鎖的なところがどういうところかということは、ある程度まで知っているつもりだった。しかし、ここまで閉鎖的なところがあるとはちょっとビックリで、

――さすが出雲をお膝元に抱える山陰地方だけのことはある――

 と感じていた。

 二人の話を聞いていて、由梨も最初は他人事のように思っていたが、次第にその話に巻き込まれて行ったのに気づいていた。

 というのも、松山が以前役所の仕事で街の歴史を研究する部署にいたことがあった時、

「俺、この街の研究をしているんだけど、今面白いところに差し掛かっているんだよ」

 というと、

「どんなところなの?」

 興味としては半分だったが、面白そうな話であることに違いはなさそうだったので、少し大げさに聞き返した。

 聞き返し方が大げさになってしまったことで、半分だった興味が話を聞いているうちに引き寄せられていった。きっと大げさなリアクションを取った瞬間に、正面から話しを聞くという姿勢になったのかも知れない。

「この街には、閉鎖的なところと開放的なところが両立しているというのは、由梨は知っていたかい?」

 実際に田舎の方に来たことはなかったので、正直まったく知らなかった。

「いいえ、そうなの?」

 というと、意外そうな表情もせず、逆にしたり顔で松山は話し始めた。

「ああ、そうなんだ。この街はダムの方に向かっていくにつれて、だんだんと閉鎖的な街に変わっていくんだ。ダムを越えてから向こう側は、まったく別の街が存在しているような気がするくらいなんだよ」

「どうして、そんなことになったの?」

「ダムを抱えているところは、ここに限らず大なり小なり、そんなところがあるのかも知れない。少なくともダムができる時、一つの村がダム湖の底に沈んだという事実は隠しきれるものではないからね」

「ええ、昔の映画などで、そんな話を見たことがあるわ」

「そこに住んでいた人たちは、一定のお金を貰って、都会の方に移住した人もいれば、ダム湖の向こう側にある集落に流れ込んだ人もいる。もっとも、元々からダム湖の向こう側にいた人たちというのも閉鎖的な人たちが多いので、少なからずの問題はあっただろうと思うよ」

「でも、よくダム湖に沈んだ村からの人たちが入り込めるだけの土地があったわね」

「ちょうど、その頃は、田舎の人たちが都会に憧れている頃で、村を捨てて都会に流れたことで、土地が空いたんだ。そこにお金を貰った人が家を建て直して、新たに住むようになった。ある意味、今まで一つだった村に、よそ者が入り込むことで、村が物理的なところで分断された形になったんだ」

「そうだったんだ」

「それでね、それだけで終わらなかったんだけど、その話をどこかで聞きつけてきたのか、それでも余っている土地に、他から流れてきた少数の人たちもいた。だから、村は二つに分裂したわけではなく、三つに分裂したような感じだね」

「へえ、それは面白い。形としては一つの村なのに、内部的には、三つの勢力が存在しているということなの?」

「そういうことなんだ。でも、そのおかげなのか、村としては、その時大きな繁栄をしたんだ。財政は潤い、特産物も独特なものが生まれたりね。確かに勢力は三つあったかも知れないんだけど、文化は一つ、協力し合って、新しいものを開発するという発想は根強かったようだ」

「まるで理想郷のようね」

「そうなんだけど、その体制も長くは続かなかった」

「どうして?」

「急速な繁栄があれば、実業家というのは黙って見ていたりしないでしょう? 村の繁栄に目を付けた外部の実業家が、村の実力者に近づいて、裏からいろいろ操作しようとしたんだ。それも、相手は実力者というだけで、長ではない」

「どうして長ではないの?」

「実業家も、この村の事情をしっかり調査した上で動いているんだ。三つの勢力があることは了承済みなので、長に近づくということは、それか一つを支援することになり、せっかくトロイカ体制でうまくいっているバランスを崩すことになるだろう? それを嫌ったのさ」

「確かにそうね」

「でも、この村に目を付けた実業家は一つではなかった。他の実業家は、今度は別の実力者に近づいてくる」

「うわっ、まるで代理戦争のようじゃない」

「そうなんだ。せっかくそれぞれで平穏に村を裏から操って、自分たちの儲けにしようと計画していたんだが、別のところからの力で、思ったようにはいかない」

「しかも、それが同じ発想の元に集まってきた人たちだけに、厄介なんじゃないかしら?」

「同じ考えなんだから、相手の考えていることをこちらは分かることができるんだが、逆に相手もこちらのことを分かっていると思うと、なかなか手を出せない。次第に膠着状態になっていって、それが緊張に繋がってくると、一触即発の様相を呈してしまうだろう?」

「それでどうなったの?」

「村は二つに分裂したんだ」

「どう分裂したの?」

「元々からそこにいた原住民と、ダム湖から転籍してきた人たちの団体が一つ。そして、他の村から移ってきた連中の村が一つ」

「それって、力関係は絶対じゃないの?」

「そうだね。他からきた勢力の村というのは、勢力だけを考えると一割にも満たないくらいだからね。正直村としての力はまったくなかったんだ」

「それで、存続できたの?」

「何とか存続しようとして考えたのが、血縁関係だったんだ。大きな方の村の人と血縁を結ぶことで生き残りをかけたんだが、彼らが狙った相手は、ダム湖から移った人たちだったんだ。だけど、彼らだって元々の原住民から見ればよそ者でしかない。それを思うと、また分裂の危機に向かっていったんだな」

「やっぱり争いはどうしても絶えないのね」

「その通りだ。長い間掛かってやっと独立できても、一つの独立がせっかく残った団結の弁列を招きかねないということになると、これは大きな問題だった。その頃になると、まわりからこの村の利権を求めて進出してきた実業家も、すでに撤退していて、後ろ盾はなくなっていた。結局は分裂することになったんだけどね」

「分裂だったら、大変だったでしょう?」

「独立に比べれば、準備をしているわけではないので、自分たちの体制を固めるまで大変だったようだ。それだけに村で蓄えていた資産も、かなり消費してしまっていたようだ。だからこそ、彼らは気づいたんだ。やっぱり自分たちが元々続けてきた排他的で閉鎖的な考え方は間違っていなかったってね。それ以降、市町村合併でS町に吸収合併されるまでは、本当に閉鎖的な街だったんだ」

「でも、市町村合併しなければいけなくなるまでに、街は衰退していたということなの?」

「何しろ、バブルが弾けたり、不況が起こったりで、消費が落ち込むと、大きな痛手を被るのは、まずは生産者だからね。農か中心の街は、どうしてもその被害をまともに食らってしまうんだろうね」

「何か、悲しいわね」

 と言った由梨の顔を見て、さらに悲しそうな顔をした松山の顔が、今更のように思い出された。

 実は、今回の取材をお願いするまで、この時の松山の表情はおろか、この話まで記憶から飛んでいた。

――どうして覚えていなかったのだろう?

 今回の取材を思い立ったことで松山との話を思い出したのか、それとも、この話を思い出したことで、今回の取材をお願いしようと決心したのか、それすら覚えていなかった。

――私は、どうやら肝心なこととなると忘れてしまっているようだ――

 と由梨は感じた。

 それだけに、思い出した瞬間、それを初めて感じたことだと思うのだが、何か違和感を覚え、それが、以前にも感じたことだということを意識するのだった。

 そのことを文香さんに訊ねてみた。

「この街は、何度か分裂と合併を繰り返した経緯があるんですが、そのたびに、いろいろよからぬウワサが流れたりしました。何か恐ろしいことが起こるというようなホラーのような話だったり、合併した時に、合併された側の上層部が冷遇されてしまったことで、いろいろな揉め事が起こったりですね。中には汚職のウワサもあったくらいなんですよ」

「ダムができて、村から立ち退きを余儀なくされた人の一部が、このあたりで村を作ったという話を聞いたことがあったんですが」

「村と言っても、自治体としての力はなかったんですよ。何しろ村を作るまでの絶対人数もいませんでしたし、村長や村の権力者は、都会に出て行っていましたからね。彼らはこの向こうの土地に自分たちの難民キャンプを作ったと言った方が正解なのかも知れませんね」

「私は聞いた話は、村だという話だったのですが、正確には村ではなかったんですね?」

「ええ、本人たちは村のつもりでいたかも知れません。実は県でもこのことが問題となり、彼らの住んでいる地域を、県公認の自治区にしたんです。だから、村というわけではないんですが、郡に含まれているわけではなく、県の直轄地とでもいえばいいのか、そういう意味では、このあたりの小さな村から比べれば、彼らに対しての力はなかったんです」

「つまりは、保護区のようなものですか?」

「そうですね。いくら街の水瓶を潤すためだとはいえ、一つの村をダムの底に沈めて、彼らの居住区を奪ったんですから、それくらいのことがあっても罰は当たりませんよね」

「そのとおりです。でも、元々の現住村民にとっては、目の上のタンコブですよね。彼らにとって農地となるべく土地が削られたんですからね。死活問題だと思ったかも知れません」

「でも、元々何もないところだったから、移住民もそこに住み着いたわけでしょう?」

「確かに、実際には何もないところではあったんですが、ちょうどその頃、その土地を開拓しようという話が持ち上がっていたんです。もちろん、村の人だけではできないので、都会の有力者が手伝うという話にもなっていたんですよ。話を持ってきたのも彼らだったので、その構想を聞いた時、村の人も自分たちが確実に潤うことができるということだったので、安心して任せるつもりだった。でも、そこに別の人たちが入り込んできたので、一気に情勢は変わっていきました」

「どうなったんですか?」

「最初は、有力者が先頭に立って交渉していたんですが、そのうちに水面下で話が進められていて、現住村民の人たちには情報が回ってこなくなった。そのうちに、急遽、有力者の側から一方的に手を引くという話になり、それ以上の話はそこで断ち切れになったんです」

「つまりは、現住村民は見捨てられたというわけですか?」

「そうですね。でも見捨てられたと言っても、彼らは何ら損をしたわけではないんですよ。確かにこれからもっと村を発展させるという計画は頓挫してしまいましたが、だからといって、今までの収穫量や収入が減るわけではない。逆に土地が減った分、収める税金が少なくて済むくらいです。だから、有力者側も、別に問題ないと思ったのではないかと言われていました」

「なるほど、確かにその通りですね」

「実質的にはその通りでも、現住村民のそれぞれの気持ちに収まりは尽きません。何と言っても、勝手に入って来られて、勝手に土地を占有されてしまい、県の保護区になったり、有力者との間で水面下で交渉が行われたりと、自分たちの意思はそこにまったく反映されていませんから、現住村民としては、ストレスもたまるでしょうし、時が経っても、その思いは消えることはないのかも知れませんね」

「そうなんですね。その状況が自分の家の土地だと思って考えてみれば、自分が現住村民の立場なら、許せることではありませんからね」

「その土地が元々、何も利用していないところだったから、さらに状況を複雑にしたのかも知れません。もし少しでも何かに利用していたのであれば、彼らも無理に入り込んだりはしないからですね。何も使われていない土地だと思ったので、専有した。誰も占有していない放置された土地を後から来た人が占有した場合って、あとから占有した人が優先するんでしたっけ?」

「どうだったか分かりませんが、そうでないと、法律が成り立たないように思うのは私だけなのかな?」

「もちろん、柵を張っていたり、進入禁止の立て札があったりすれば、専有に値するんでしょうが、何しろ田舎の村のこと、そんな必要はないと思ったんでしょうね。それがそもそもの間違いだったのかも知れません」

「そんなことがあって、現住村民とダム湖難民の間で抗争が起こった。それを見かねた県が仲裁に入ったというわけですね?」

「ええ、でも、またそこで複雑なことがあったんですが、県が保護区の決定を下す時に、これもまた水面下で例の有力者が動いていたというウワサがあったらしいんです」

「ほう、それは興味深い。難民に保護区を与えるように手を回したというわけかな?」

「そういうことになります。有力者はどうしても、あの土地に難民たちを押さえつけておきたいと思っていたんでしょうね」

「ということは、難民に何かあるというわけではなく、あの時に何かがあると思った方がいいのかな?」

「なかなか鋭いですね。そうなんです。あの土地の奥には豊富な森林があり、マツタケなどを生産するには適していた。さらに、その奥には、石炭が出るようで、それを実力者たちが狙ったようなんです」

「それにしては、あの地域にはそんな形跡はありませんが?」

「当時はまだ石炭も重要なエネルギー源だったんですが、すぐに石油にとって代わられて、全国的に石炭の炭鉱は閉鎖の憂き目に立っていた。石炭が見つかったのは、その少し前だったので、最初は有力者の側も石炭を狙っていたのだが、石油にとって代わられると、その価値はなくなってしまった。どうしても、秘密主義にしたかったのは、村との提携の狙いを石炭だと思われたくないようにしたかったからではないでしょうか?」

「どうしてそう思うんですか?」

「もし、石炭を狙っていると分かってしまうと、石炭を狙うという思惑が外れた時、彼らの面目が丸つぶれになる。彼らのような連中は、自分たちの狙い目に狂いのないことを世間に知らしめていなければ成り立たないですよね。自分たちの事業を世間の人が評価して、投資してもらう、さらに政界にも食指を伸ばしているので、それこそ信用問題が彼らの命綱。つまりは、信用を失うような行動は何とか避けなければいけない。水面下で動くのもそのためなんでしょうね」

「で、実力者たちは、この保護区から手を引いたんですか?」

「表向きは引いたようになっていましたが、実際には村民の後継者のような形でかかわっていました」

「後継者ですか、他にも何か目論見があるような気がしてならないんですが」

「きっとあったと思いますよ。でも、何年も水面下で行動しているうちに、誰も意識することはなくなってしまいました。現住村民も、ダム湖難民も、表向きは平穏に暮らしていましたからね」

「一度、分裂したと聞いたんですが」

 由梨が、岡本と文香の話に割って入った。

「分裂? ああ、確かに分裂のようなこともありましたね。でも、表立ってのことはありませんでしたよ」

「そうなんですか」

 由梨が煮え切らないような返事をしたのを、岡本は見逃さなかった。

――松山さんの話していたことと、かなり違っているんだけどな――

 由梨の記憶違いなのかも知れない。

 由梨はそう思ったが、考えてみれば、文香という女性も、元々はここの土地の人間ではない。

――生まれ育った街でもない過去のことを、よくここまで知っているよな――

 と感じたのも事実だった。

 由梨は、文香の話を聞いていると、その話に信憑性は十分に感じられると思った。即興で作ったようには思えないほど、話の内容が理路整然としている。

 由梨は、松山の話を思い出していた。

 あの時の松山の表情は真剣そのものだったというわけではなく、あくまでも普通の会話の展開から出てきた話だった。由梨としても、それほど真剣に聞いていたわけではないし、実際にあの時の由梨にとっては、興味のある話でもないし、もっと言えば、どうでもいい話だったのだ。

 元々この街は閉鎖的な村と、普通の街が合併したものだった。ここは福岡県で最後の村であり、

「これで、閉鎖的なところはなくなるだろう」

 という思惑が県にあったのも事実だろう。

 市町村合併で村がなくなったのは、今から二十年ほど前のことだった。

 確かに合併してすぐには、閉鎖的なところがなくなることはないことくらい、誰にでも分かっていたことだろう。ゆっくりと時間を掛ければいいと思っていた。

 実際にダムができた頃の抗争は、一般には知られていないが、福岡県としては大きな問題だった。

 全国でダム建設ラッシュだった時代なだけに、福岡県から抗争が広がったり、抗争によって死人が出たりすると、事件以上の社会問題に発展しかねない。それを思うと、この時の抗争は、デリケートな問題を孕んでいた。

 だからこそ、一見複雑に感じられた実力者の存在は大きかった。それは県に対して大きな問題で、

「少々のことをしてでも、穏便にことを済ませてもらわなければ、社会問題になってしまうんだ」

 ということを、実力者側にお願いし、その要望に応える形で、水面下での交渉を買って出たのだ。

 しかし、水面下で交渉をしていると言いながら、どうやらその行動はバレバレだったようだ。

 実力者側がそんなへまをするわけもない。最初からバレるように仕向けていたのだ。そうすることで何かから目を逸らそうとしていたのだろうが、それが何なのか、誰にも分からなかった。

 実力者というのは、ち密な計算の元に行動していた。彼らにはバックボーンがあり、公法の憂いは問題なかった。いかに自分たちが正当に振舞うかというのが、一番の問題だったのだ。

――松山さんと文香さんの話が食い違っているのはいいとして、文香さんはもっといろいろなことを知っているような気がする――

 由梨はそう感じていた。

 そして、彼女がもっといろいろ知っているのではないかということを岡本も知っているようだった。知っていて、いろいろと質問をしている。しかも、少しずつ微妙に話題を変えながら、自分の知りたい方にミスリードしているように思えたのだ。

――さすが、フリーとはいえ、ジャーナリストの端くれだわ――

 そう思うと、彼もまた、情報網を他にもたくさん持っているような気がしてならなかった。

「この街が一本になってからは、何ら問題はないんですか?」

「そんなことはないですよ。ほら、今回お二人が取材に来られた逢坂峠ですけどね。あそこは最初から事故多発地帯だったというわけではないんですよ」

「どういうことなんですか?」

「あそこが事故多発地帯と言われるようになったのは、この街が一本化されてからのことなんです。だから、ここ二十年くらい前からだと言ってもいいでしょうね」

「そうだったんですか?」

 意外な顔をして驚いている由梨を横目に見ながら、岡本も不思議に感じていた。

――自分に取材を申し込んでくるくらいなので、それくらいの情報は分かっているつもりなんじゃないか――

 と思っていたようだ。

 岡本は、そのことは知っていた。取材に出掛ける場所の予備知識くらいは最初から調べておくのはジャーナリストの基本だと思っていたからだ。それなのに、依頼主である由梨が知らないということは、どういうことなのかと驚いていたのだ。

「私は、ずっと昔からここは事故多発地帯だと思っていたんですよ。実際にそう言って育てられましたからね」

「あなたは今おいくつなんですか?」

「今年、二十八歳になったところです」

「なるほどですね。それくらいの年齢の方なら、昔からここが事故多発地帯だったと思っていても不思議ではないですね。実際に事故多発というのは、昭和の時代の方がよく言われていたことのように思いますからね。あなたがそう思われたのも無理もないことですね」

 と文香は言ったが、岡本は納得できなかった。

――それでも、調査すれば分かること。ひょっとして調査しても、彼女の情報はそこまで行きつかなったということなのだろうか?

 インターネット最盛期のこの時代に、調べられないことの方が少ないと思っていたが、実際にはあれだけの意外な表情だったということで、頭から信じていたことは、少々の情報が入ったとしても、その思いが揺らぐことはないという証拠なのかも知れない。

 この時点で岡本はまだ松山の存在を知らない。ただ、由梨の中に、心に残っている誰かがいることは分かっていた。それが男性なのか女性なのかも分からない。大きな影響を与えているということだけは感じていた。

 その相手がまさか死んでいようとは……。そして、今回の取材の目的の中に、その人物の影が潜んでいようとは、その時の岡本は知る由もなかった。

 文香は続けた。

「おちろん、以前から事故多発であったことには違いないんですが、他にも事故が多発するところが多くて、ここが目立たないほどだったんです。でも、他のところは時代が進むにつれて道も整備されていき、着実に事故もなくなっていきました。でも、ここだけは道を整備しても事故はなくならなかったんです」

「どうしてなんですか?」

「一つは、この道の構造上の問題なんじゃないかと思うんです。直角近く曲がっている道路など、そうなかなかありませんからね。普通なら皆徐行して走るんでしょうが、中には徐行しない人もいる」

「それは、この道の特性を知らない、つまり、この土地の人間ではない人が、徐行もせずに走り切ろうとして事故に遭うということでしょうか?」

「そういうケースもないとは言えませんが、こんな奥地まで来る人は、たいてい地元の人間しかいませんからね。特性を知らないということはないと思いますよ」

「じゃあ、どうしてなんでしょう?」

「一つには幽霊説があるんですよ。この土地はダム湖に近いですからね。ダムの奥に沈んだ村の鎮守様が、お怒りになったという説ですね。ここで事故に遭われた方で比較的軽傷だった人に話を聞くと、普通に徐行していたつもりだったんだけど、何か白いものが見えて、そこに吸い寄せられるように急に感覚がマヒしたというんです。危ないと思った瞬間には、すでに遅かったというんですね」

「なるほど、その人は徐行していたので、軽傷で済んだんでしょうね。スピードを出していれば、ガードレールを突き破って、池に転落していたでしょうからね」

「以前、こんなこともありました。事故が起こる瞬間を対向車として向こうから見ていた人がいて、車がガードレールを突き破って、池に落ちたらしいので、急いで警察と消防に連絡したんです。それから、警察と消防で、池を攫ったらしいんですが、落ちたはずの車がどこを探しても見つからなかったらしいんですよ」

「見間違いか何かではなかったんですか?」

「それはないと思います。実際に前の日までは綺麗だったガードレールが突き破られていたからですね」

「何かがあったことには違いないんだけど、その証拠が見つからないというわけですね?」

「そういうことになります。それ以来、交通事故多発地帯として有名になり、警察もこのあたりの警備には目を光らせているという次第です。でも、実際に事故は減らないし、その後も『白いものを見た』という証言が何件か出てきて、いよいよ街の七不思議のひとつになってしまったんです」

 由梨はその話を聞きながら、何かゾクゾクしたものを感じていた。霊感が特別強いわけでもないが、怖い話は苦手な由梨だったが、このゾクゾク感は、怖い話に対してのものではなかった。

――何にこんなに不気味に感じるのだろう?

 先ほど事故に遭われた方の遺品として見せてもらったものが気になっていた。

 そもそも、なぜこの人が事故に遭った人の遺品を持っているのかというのも不思議な気がした。遺品というのは、事故に遭った人の家族に返すのが当たり前のことで、もし、親類がいなかったり、身元不明の死体だったりすれば、荼毘に伏された被害者と一緒に葬られるのが当たり前のことのように思えたからだ。

「文香さん」

 由梨は、岡本との話が途切れるのを待って、文香に声を掛けた。

「はい、何でしょう?」

 文香も急に由梨の方から名前を呼ばれて、思わず身構えてしまった。

 相手が男か女かで対応を変えるのか、それとも、由梨に対して、最初から何かしら警戒心を持っていたのか、すぐには分からなかった。

「文香さんは、先ほど事故に遭われた方の遺品を持っておられましたけど、どうして文香さんのところにそれがあるんですか? 事故に遭われた方の親類か誰かに渡されるものではないんですか?」

「実は、先ほど話したように、ガードレールを突き破って事故を起こした車がどこにも見つからなかったと言いましたでしょう? 同じことが、二年前にも起こったんです。その時、私も事故を目撃していたんですよ。事故が起こる一時間ほど前に、ちょうどガードレールが突き破られた近くに、この時計が落ちていたんですよね。警察がいくら探しても車は見つからない。警察も諦めて、一旦撤収したんですが、数日後、湖底を攫った時には見えなかったはずの車が、急に浮かんできたんです。しかも、その中の人は白骨化していて、とても、ここ数日で死んだ人には見えなかった。そこで、警察が調べると、十年以上前にも同じことがあって、車が見つからなかったのが分かったんです。そして、白骨化した死体を復元してみると、やはり十年以上前に捜索願いが出ていた人だったんですよ」

「本当に怖くなってきました」

 と由梨がいうと、文香は、

「ここまで話したのだから、最後まで聞いていただけますか?」

 というので、由梨も、

「分かりました」

 と答える他はなかった。

 文香は続ける。

「その時の状況は、まるで十年前の事故を探ってみると、まるでタイムスリップしたかのように、ピタリと状況が嵌ったんです。それを聞いて、私も腕時計を見に行くと、発見した時には新品だったはずの時計が、かなり錆びついていて、針も動いていませんでしたまるで水に濡れてかなり経っているかのような感じだったんですよ」

「でも、先ほど見せていただいた時計は、そこまで酷いものには見えませんでしたけど?」

「ええ、それからしばらくして、今回の事故の捜査は打ち切られたんですが、これまた事故が起こってから半年くらいして、急に池に車が浮かび上がってきた。車の中の人はまだ白骨化しておらず、腐敗はひどかったんですが、身元も何とか復元するまでもなく分かったようです。ただ、その人がこの街の有力者の息子だったことで、警察にもかん口令が敷かれました。とはいっても、マスコミの目はさすがに騙せず、すぐに話題にはなりましたが、問題は発見されたのが誰なのかということよりも、どうして半年近くも池の中にあったものが発見されなかったのかということでした」

「じゃあ、過去の事故も話題に?」

「ええ、一時期、反響もあったようなんですが、しょせんは交通事故、しかも、事故多発地帯ということもあって、全国にはよくある七不思議のひとつのように言われるようになって、急に世間の目は冷めてきました。話題性から、オカルトに変わってしまったことで、ウワサも萎んでいきました。今ではオカルトやホラーを研究している人しか、興味を持っている人はいませんよ」

「逢坂峠の事故というのは、結構いろいろと曰く付きの話が多いんですね?」

「本当はそこまで大げさでもない事故も多いんですよ。事故を面白がって過大に宣伝するようなやつがいるから、誰もがオカルトとしてしか、あの場所を見ようとしないんですよ」

「じゃあ、いくら気を付けて運転しても、事故が起こる時は起こってしまうとお考えですか?」

「そこまでは言いませんが、事故が起こるのは事実で、車が見つからないということがあるもの事実なんです。湖底の地形上、車が入り込んでしまうとそこから出られないようなところがあり、その場所は人が近づけないようになっているので、発見できないだけなのかも知れないと考えるのは、唐突なんでしょうか?」

「いえ、そんなことはないと思います。むしろ、その方がよほど説得力がある。車も水の中で錆びてくるので、時間を掛けて錆びた部分が欠け落ちて、引っ掛かりが亡くなったことで、車が浮いてきたと考えると、自然なのかも知れませんね」

「でも、誰もそんな説を唱える人はいません。皆、オカルトな話にしか、頭が回っていないのでしょうね」

「幽霊や、妖怪なんているはずないのに……」

「いや、それは一概に言えません。田舎に住んでいると、時々、幽霊や妖怪と切っても切り離せない関係にあるのではないかと思うこともあるくらいですよ」

「何か、感じることはあるんですか?」

「ええ、田舎の家に住んでいると、襖や障子、それに畳など、日本特有の文化が感じられますよね。特に日本間などだったら、床の間に誰かがいるような気がしてくることが時々あるんです。まるで『座敷童』なんじゃないかなって気がしてきます」

 今度は、そこに岡本が割って入った。

「僕は東北の田舎出身なので、今のお話には共感できます。さっきまでは、ジャーナリストとしての意識で、まるで他人事のように聞いていましたけど、日本間や床の間の『座敷童』の話が出てくると、僕も意識せざるおえなくなりましたよ」

 岡本の目が輝いているような気がした。

 民話の故郷である東北地方、神話の故郷である山陰地方、それぞれの意見を聞いていると、由梨は、まるで仲間外れになってしまったかのように思える自分が少し寂しかった。

 岡本は、一つ疑問に感じていたことがあった。

「すみません、一ついいですか?」

 それに対して、

「どうぞ」

 と答えたのは、文香と由梨の同時だった。

「実は、事故現場を見た時から不思議だったんですが、あの場所は逢坂峠というんでしょう? どう見ても平地なのに、どうして峠と呼ばれているんですか?」

 その話に対して答えたのは、由梨だった。

「あの場所は、ダムができる前は峠だったんですよ。道が整備され、池の横を這うようにしてできたんです」

「だったら、どうして道を整備する時、こんなに危ない場所を作ったんですかね? どうせ道を整備するんだったら、こんな中途半端なことをせずに、キチンと最後まで事故が起きないような配慮の元に道を作ればいいのに」

 岡本の言うことが正論だった。

「そうなんですよね。私も実はそう思っていたんですけど、自治体のやることなので、それもしょうがないかと思い込んでいました。でも、そんなに見晴らしも悪いわけではないし、実際に起こっている事故から考えると、そんなに危ない場所ではないはずなんですけどね」

 と由梨がいうと、

「だからこそ、オカルトのようなウワサが生まれるわけです。車が見つからなかったことも、十年近く経ってから浮かび上がってきたというのも、その時、同じように車が突っ込んで沈んできたことで、何もなければ永遠に水の底にあったはずの車が十年経って浮かび上がってきたと考えると、不思議なことではないですよね」

「じゃあ、ウワサがウワサを煽っているというような意味でしょうか?」

「そういうことになるんじゃないかって私は思っています」

 二人の話を聞いた文香は、

「世の中には理屈だけでは解明できないものもあるんだって私は思っています。だから、オカルトと言われようと、実際に起こっている現象は、事実なんですよ。私はオカルトであっても、それを信じますね」

 なるほど、文香が遺品を警察に渡さずに持っている理由はそのあたりにあるのではないかと思えた。遺品を丁重に供養することで、実際に現場に住んでいる自分たちに危害が及ばないようにしようという思いが嫌というほど伝わってくるような気がした。彼女にとっては、切実な問題なのであろう。

 逢坂峠での取材をもう一軒くらいしてみようと思っていたが、文香の話を聞いているだけで、ほぼ一日が経ってしまった。ここまで来たのだからダムを見て行かないわけにはいかないだろうと、由梨は岡本をダムに案内した。

「ここのダムは相当大きいんですね。他のダムも結構見てきましたけど、ここの規模は結構なものだ」

 と、岡本は言ったが、

「私は、他を知らないので何とも言えませんが、確かに大きいですよね」

「それに、このダム湖の大きさは、かなりのものだ。この下に眠っている村って、本当に一つだったのかい?」

 と岡本は言ったが、そういえば、由梨はそこまで考えたことはなかった。

「ええ、私は一つだと聞いていますが」

「そうなんですね。これだけ大きな湖なので、二つ、三つ村が沈んでいても不思議がない気がしたんでですね」

「それだけ、このあたりが田舎だったと言えるんじゃないですか? 逢坂峠も、峠と言われる部分を削ってあんな道を作ったんでしょう? それを思うと、かなり大規模な工事だったんじゃないでしょうか?」

「う~ん」

 岡本は考え込んでいた。

「どうしたんですか?」

「いえね、これだけの大規模な工事を、一自治体だけでできるはずもなく、県が補助したとしても、どこまでできるか、これだけ大きなものを作ったということは、そこに誰か得をする人の存在が浮かんでくるような気がするんですよね」

「有力者の力が働いていると?」

「そう考えても無理はない気がしませんか? 確かにダムは必要だったのかも知れませんが、その裏には何か談合の中で、きな臭いものを感じたのは僕だけなんだろうか?」

 最初は、

――そんなバカな――

 と思った由梨だったが、話を聞いているうちに、信憑性が感じられるようになり、先ほどのオカルトチックな話から一転して、今度は談合の話、何やら今まで考えもつかなかったことが一気に襲ってきた気がした。

――でも、本当に考えもつかなかったのかな?

 由梨は、自問自答を繰り返した。

 考えていることが、まるで他人事のように思えるのは、本当に久しぶりだった。学生時代には時々あったことだが、それだけ就職してから、本当の意味で疑うということが少なくなってきたからのように思えていた。

――社会人になると、どうしても、常識の範疇でしかモノを考えないようになってしまう――

 と思えたからだ。

 これで一応の取材は終わった。翌日も近くの民家に取材に行ったが、文香さんほどの情報が得られるわけでもなかった。

「とりあえず、これだけの情報で十分に記事にできますよ」

「そうですか、お役に立てましたでしょうか?」

「ええ、いろいろ尽くしてくれてありがとうございます。ここから先は僕のジャーナリストとしての腕の見せ所ですね。と言っても、ただのフリーのルポライターでしかないんですけどね」

 と言って笑った。

 彼はできた記事を週刊雑誌の出版社に売り込みに行くのだという。世の中にはたくさんの週刊雑誌が出回っているので、そのうちの一つくらいには引っかかるだろうというのが由梨の思いだった。文香から聞けた話は、どこまでが本当のことなのか分からない。それだけに、興味を持つ人は少なくないように思えた。それこそ、岡本のいうとおり、彼の腕の見せ所なのである。

 その待ちわびた雑誌が出来上がったのが、ちょうど三か月後。その一週間前に、岡本から電話を貰った。

「いよいよ僕の記事が雑誌に載ります。週刊『ライフ』という雑誌なのですが、ご存じですか?」

 週刊「ライフ」というと、社会的な記事というよりも、暮らしに密着した記事の多い雑誌だった。ただ、特筆すべきはその雑誌は、オカルト特集をよく組んでいるということである。岡本の口から週刊「ライフ」という言葉を口にした時、由梨の脳裏にオカルトの記事が浮かんできた。もちろん情報源は、あの時の文香の話であろう。

――すべてをオカルトの世界に持っていかれると、せっかく取材を申し込んだ意味がなくなってしまう――

 という危惧を抱いていた由梨だった。

 それから一週間が経って、取材の内容が明らかになる日がやってきた。由梨も岡本に聞いた日に週刊「ライフ」を買い、中身を読んだ。

――少し大げさすぎはしないかしら?

 と思うほどに記事が紙面には踊っていた。

――これくらいでいいんだわ――

 と由梨は感じたが、その内容は、文香さんからの情報が基礎になり、かなり暈かした内容になっていた。

 それだけに、読む人の想像が豊かになり、あることないこと、記事には書かれていないが、読む人によってまったく違った解釈が生まれてくるのではないかと思えるほどであった。

 それでも、由梨はいいと思った。これくらいのことを書いた方が、せっかく取材に来てくれたのだから、由梨としても、たくさんの人の目に触れることで、事故が少しでもなくなるようになればいいと思っていた。

 中には、岡本独自の意見も入っていた。

 文香の家を出てきてから、ダムに向かった時に感じたという岡本の発想。これほど大きなダムができるまで、大変だったのではないかということを書いた後に、ダム湖の大きさと、ダム湖の底に沈んだ村が難民となって、もう一つの村を形成した話をそのまま描くのではなく、実際にはもう一つ、表に出てきていない村が存在するのではないかという疑惑を感じさせるような話の構造になっていた。

 だから実際には事故多発地帯の取材だったにも関わらず、それだけをテーマにしていない。ダム建設に絡む話を織り交ぜながらの記事になっているので、読む人も、興味を持つのではないだろうか。

――さすがジャーナリストだわ――

 一つの話題に対し、取材をしながら、他の観点からも記事にしている手法は、さすがと思わせるに十分だった。

 当時全国的にも交通事故に対しての記事には敏感になっていた時期だった。

 有名人が交通事故に遭ったり、自分で起こしたり、あるいは、飲酒運転が横行し、多重事故を引き起こすことで、事故現場は惨状と化していたり、社会問題として、国会でも審議されるほどだった。

「罰則を厳しくしたり、新しい法律を作ったりしても、この状況を止めることはもはやできない」

 という意見が主流になっていた。

 そんな時に、交通事故だけではなく、それに纏わる奇怪な話が絡んでくると、読者は敏感になっているだけに、いろいろな反響を呼んだ。S町では、違った意味で敏感になっていて、思いもよらぬ展開になることを、最初に記事を見た時、由梨は想像もしていなかった……。

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