表裏の真実

森本 晃次

第1話 事故多発地帯

このお話はフィクションです。登場する人物、地域、場所、歴史的背景、登場人物の意識に関しては完全に架空のものですので、違う次元のお話だと思っていただいてもいいかと思います。作者の創作としてご覧ください。


 福岡県K郡S町、ここには事故多発地帯があった。

 山から降りてくるカーブを、スピードも落とさずに走ってくると、急に視界が途切れるところがあるらしく、カーブなのに気づかずにそのまま突っ走り、ガードレールに激突したり、対向車にぶち当たったりするのだ。

 数年に一度は悲惨な状態の事故が発生しているが、なぜか世間で騒がれることはなかった。悲惨な状況で発生する事故があったその日は、いつも世間を騒がせる事件が他で起こっている。交通事故に紙面を割くよりも、よほどスクープや特ダネになるのだ。交通事故のように毎日起こっていることは、悲惨な事故であっても、話題性には乏しい。やはりマスコミは話題性や社会的な事件でなければ、なかなか取り上げてはくれないようだ。

 しかし、この町には、同じような事故多発地帯がもう一つ存在する。こちらの方は、悲惨という意味では目立たないが、死亡率からいくと、向こうよりも頻繁だった。近所の人しか意識していない事故多発地帯。ここがこの物語の始まりを示唆していた。

 この場所は、悲惨な状況を巻き起こす山から峠にかけての道のような最初から危険性を帯びている場所ではない。平坦な道で、昼間は見晴らしのいい場所だった。道の両端には田んぼが広がっていて、少し歩かなければ民家がないというほどの、危険性の欠片も感じさせない場所だった。

 事故はほとんどが夕方だった。

 いくら見晴らしのいい場所だと言っても、事故が起こった時の状況を考えてみれば、決して危険性の欠片もないなどと言える場所ではなかった。一見安全に見える場所ほど、危険性を孕んでいるのかも知れないと思わせる、絶好の例なのかも知れない。

 その道は、メイン道路から少し入った、いわゆる「脇道」だった。朝や夕方の通勤ラッシュの時間は、抜け道として利用している。メイン道路でノロノロ運転させられてきたドライバーにとっては、鬱憤を晴らすにはちょうどよかった。ゆっくり走っているつもりでも、どうしてもアクセルを無意識に踏み込んでしまう。脇道というだけにどれほど道幅が広いわけではないので、道の端を自転車や歩行者もいるのだ。

 特に下校時間に当たる時間帯は、並進走行の自転車や、歩行者も横に広がって歩いていることもある。会話に夢中であれば、まわりが見えなくなるのも仕方のないことで、車も予期せぬ飛び出しに驚いて、ハンドルを切り間違えることもあるだろう。そういう意味での接触事故は多発していた。

 さらに夕方というと、夕凪の時間があるが、この時には普段見えるはずのものが見えなくなる時間帯がある。そんな時に事故が起こっているのだ。

 もちろん、死亡事故もあったりする。道が狭いことで、車がなかなかうまく離合でき渦に正面衝突ということもある。特に西に向かっている車がまともに西日を浴びてしまうと、前がまったく見えないこともあるようだ。徐行すればいいものを、自分の運転技術を過信している人間は、勘だけで車を走らせる。実に危険極まりないことだ。

 だが、事故を起こすのはそんなドライバーばかりではない。却って無謀運転は稀な方である。

 警察に逮捕された事故を起こしたドライバーが刑事から、

「どうして、こんなスピードを出したんだ。眩しかったはずじゃないのか?」

 と聞かれて、

「ええ、私も徐行を心掛けていたんです。でも眩しさを感じてから、自分の力の入れ具合がマヒしてしまっていたようで、徐行していたはずなのに、アクセルを踏み込んでいたなんて、自分でも信じられません」

 と言い訳にしか聞こえない言葉だが、言い訳であっても、数人が同じ答えをすれば、それはすでに言い訳で片づけられないことではないだろうか。誰がどこで事故を起こすか分からない中で、事故を起こした人が口裏を合わせられるわけもないし、同じような言い訳をするはずもない。

 となると、彼らの言い分には、言い訳ではなく、そこに真実が隠されていると思わないわけにはいかないだろう。

「まったくおかしなものだ」

 刑事も、何か不思議な感覚が身体の中から湧き上がってくるのを感じていた。

 それが刑事の勘というものなのか、それとも、何かの予兆が感じられたのか、ここまで皆が同じ答えを返してくるというのは、それだけ同じ状況が繰り返されたということだろう。そこに何か不思議な力が関与しているのではないかと思うのも、無理のないことではないだろうか。

――夕凪の時間というのは、どうにも嫌なものだな――

 と感じていたが、どのように今回の事故に関わっているのかを考えていた。

 夕凪が関わっているのは、間違いないことだと思っているからだった。

 夕凪の時間というのは、どうしても明るさが制限されてしまっている。それまで見えていたはずの光景が、目が慣れてしまっているからなのか、それとも夕日に幻惑されてしまったからなのか、気づかないうちに、光が制限されてしまったせいで、モノクロに見えていることを分かっていないのだ。

 見えているつもりで走っているのだから、見えないものが見えてしまっていることもあるだろう。そんな状態でまともに走れるわけはない。事故が多いのはそんなわけなのだ。

 昔の人は、そんな夕凪の時間を「逢魔が時」と言って恐れていたらしい。話には聞いたことはあっても、意識する人などそういるわけでもあるまい。

 そういう意味では、この道は、西に向かって走っている車は、まともに西日を浴びることになる。目をくらまされても無理のないことだ。何か事故を防ぐ方法はないものかと考える人もいただろうが、自治体として動いてくれることはなかった。

 大きな事故が数年に一度は起こる場所を、逢坂峠といい、頻繁に事故が起こる場所は、七日辻と言った。

 どちらも、警察や自治体に何とかしてほしいと、街の人は団体を作って申し出たりしていたが、なかなか予算の関係もあってか、申し出が通ることはなかった。

 そんなある日、街に一人のルポライターがやってきた。彼は、フリーのライターで、スクープに飢えていた。さすがにスクープばかりを狙っていては食べていけないので、スクープを狙う傍ら、何でもやっていた。食レポから名所旧跡の取材、はたまた、風俗雑誌の取材まで行っていた。何とか食いつないでいたが、さすがに一度はスクープネタを仕入れたいと、食指だけは伸ばしているつもりだった。

 彼の名前は岡本義也。いつまでもこんな生活したくないと思いながらも、さすがに最近では、

――このまま行っても、しょせん抜けられない生活だ。あまり気張ってみても仕方がないか――

 と感じるようになって、あくせくしなくなっていた。

 そんな気持ちに余裕ができたことで、彼に対しての風が変わったのか、一人の投書が岡本のところに届いた。

 そこには、

「福岡県K郡S町には、事故多発地帯があって、住民は怯えています。警察も自治体も何もしてくれません。取材していただいて、このことを雑誌に載せていただければ、少しは自治体や、警察が動いてくれるかも知れません。どうかお願いです。この街に来て、取材していただけないでしょうか?」

 と書かれていた。

 差出人の名前は、荻野由梨と書かれていた。

――知らない名前だな――

 と思ったが、福岡県K郡S町というところ、以前にも行ったことがあった街なので、まったく知らないところではなかった。

――あの時、行ったんだよな――

 あの時というのは、二年前のことだった。

 あれは、まだ岡本がルポライターとして、スクープを貪欲に追いかけていた時のことだった。

 まわりの仲間からは、

「そんなに意地を張らずに、どこかの出版社に入社してしまえば、生活だって安定するじゃないか。そんなに肩肘張る必要なんかないんじゃないか?」

 と言われた。

 しかし、岡本からすれば、

「俺はギリギリまで粘ってみたいんだ。妥協するのはそれからでも十分で、まだまだ気持ちに余裕のある間は、自分の思ったままに粘ってみたい」

 と嘯いたものだ。

 しかし、その思いは間違っていなかったはずなのに、粘っているうちに、自分の意地はどこかに置き去りにされてしまったかのようになっていた。それまで一人で気張ってきた気持ちは、いつの間にか惰性に変わっていて、

――ひょっとしたら、俺は引き際を間違えたのかも知れない――

 と感じてしまい、

――本当の引き際は、もう過ぎてしまったのではないか?

 と感じたことで、自分に対しても疑心暗鬼が生まれてきたのだった。

 そう思うと、目の前に見えていたことすら五里霧中になり、誰に対しても、信用できなくなった。

――一人が気が楽だ――

 と思っていたはずなのに、

――一人じゃないと安心できない――

 という気持ちが芽生えるようになっていたのだ。

 そんなところに届いた由梨の手紙、どうして彼女が岡本を知っていたのか分からなかったが、とりあえず、興味があったので、行ってみることにした。新幹線に飛び乗って博多に着いた時には夕方になっていて、そこに由梨が待っていてくれているはずだった。

 博多に到着すると、思ったよりも賑やかな街なのでビックリした。前に来てから少ししか経っていないのに、どこかが違っている気がした。そういう意味で、駅前の賑やかさなどは、想像していたのと少し違った。もっとも、あの時は福岡の滞在は短いもので、K郡S町に立ち寄ったのも、市内近郊のまだ田舎の雰囲気を残した街という意味での取材だった。何か目的があったわけでもない。あの時は宿泊もせずに、取材が終わると、そのまま熊本に旅立ったものだ。

 福岡については、少しは知識があるつもりだった。

 旅行雑誌や福岡の特集などは読んだので、知識としては頭に入っていた。前に来た時はバタバタで、目的の取材が終わると、東京にとんぼ返りしたのだ。あの時は誰かに招かれたわけでもなく、一人での気ままな取材だった。

 岡本の取材は、誰かに招かれたり、人と同行することはなく、自分で勝手に計画し、勝手に取材を申し込む飛び込みのようなことも多い。人に招かれるなど、稀なことだった。

 新幹線が博多駅に雪崩れ込んでいく。駅のホームには、手紙をくれた由梨が待っているはずだ。彼女に対してもどんな女性なのか興味があった。面識もない相手で、わざわざ福岡から送ってくれた投書である。何か差し迫ったところがあるのかも知れない。

――それとも、地元ではまずい何かがあるのかな?

 と感じたことで、一瞬、危険な匂いも感じたが、興味の方が深かった。

 相手が女性だというのも気になるところだ。しかも、一度来たことがあって、その時は何も感じることもなく、すぐにその土地を離れたところから、今度は向こうから誘いがあるというのも、運命のようなものを感じた。

――どんな女性なんだろう?

 以前に来た街の雰囲気を思い出していたが、あまりにも短い滞在だったので、ハッキリとは覚えていない。写真もそんなに撮ったわけでもなく、丘の上から見える福岡市内の光景くらいがイメージとして残っていた。

――そうだ、福岡って、都心部に近いところに空港があるんだー―

 と、感じさせた。

 丘の上から見ていて、飛行機の離着陸のイメージが強かったのは覚えている。

 K郡S町というところは、市内と隣接していた。電車で行くには単線らしく、離合を必要とするので、どちらかが遅延すると、すべてが遅れてしまうという不便なところでもあった。

 前に来た時、タクシーに乗ったのだが、運転手の話では、

「ここの路線も、二十年くらい前まではディーゼルだったんですけどね」

 と言っていた。

「電化もされていなかったんですか?」

「ええ、人口はそれなりにいたんですから、さっさと電化すればよかったと私は思っていますよ」

「そうですよね」

「でも、地元の人は意外と気にしていない人が多かったんじゃないですか? 福岡市内と張り合ってもしょうがないという意識があったようですからね」

「そうなんですね。他の大都市にも同じような都心へのベッドタウンがありますが、似たところもあれば、違った意識もあるようですね。今回は、時間がないので、取材まではできませんが、今度来た時は、取材してみたいものですね」

 と話したのを思い出していた。

 その機会が、今回訪れた。ひょっとすると、前に来た時に、荻野由梨という女性とどこかで会っていて、名刺くらいは渡していたのかも知れない。

 今までにも駆け抜けのような短い取材を行った土地では、自分のあしあとを残そうとする意識から、名刺を渡すことは結構あった。それは形式的な意識が強く、名刺を渡した相手はおろか、渡したこと自体、忘れてしまっていることも多いくらいだった。

 それならそれでよかったのだが、それまでなかなか思うような取材ができていなかった岡本に、

――これは風が吹いてきたと思ってもいいのかな?

 と久しぶりにやる気にさせるものであったのは、間違いのないことだった。

 新幹線を降りて、ホームできょろきょろしていると、目の前に飛び跳ねるように踊り出てきた一人の女性に、一瞬ビックリした。

 岡本は身長が百八十センチはある長身なのだが、目の前に現れた女の子は、岡本と正反対に背が低かった。まるで中学生と間違えてしまいそうな雰囲気は、背の低さを最初に感じたことからイメージされたものだったのかも知れない。

 しかし、飛び跳ねるように現れたその雰囲気と、あどけなさの残る表情に、最初はまさか彼女が投書をくれた本人だとは想像もできなかった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で佇んでいると、

「岡本さんですよね? 私、お手紙を差し上げた荻野由梨と申します」

 そう言って、最初の雰囲気が消え去る前に、丁寧に会釈をして挨拶をしてくれたのだから、岡本としても、戸惑ってしまっても当然だった。

「はい、岡本です。お手紙ありがとうございました。早速飛んできました」

 と言って、岡本も挨拶をした。

「まあ、嬉しい。私のために来てくださったんですね?」

 と言って、今にも飛びついてきそうな雰囲気にたじろぎながら、心の中では、

――手紙の内容にも興味があったからね――

 と言っていた。

 口から出てしまいそうになっているのを必死に抑えながら笑顔を見せたが、自分でも顔が引きつっているのを感じていた。そんな岡本を見ながらの由梨の顔は苦笑いではない、普通のあどけない笑顔を向けていた。

 彼女の特徴は、絶えず相手の顔を正面から見ることのようだ。このことは、最初に感じたが、それ以降もこの気持ちが揺らいだことはない。そういう意味では、由梨という女性は、分かりやすい性格のようだった。

「立ち話もなんですので、まずは行きましょうか?」

「ええ」

 岡本は博多駅前のビジネスホテルを予約していた。まずはチェックインして身軽になりたかった。

 必要なもの以外を部屋に置いて、身軽になってロビーまで下りてくると、由梨がどこかに電話をしているようだった。その表情は先ほどのあどけない表情とは打って変わって、険しい表情になっていた。

――彼女もあんな表情するんだ――

 雰囲気から見て、二十代後半か、三十代前半くらいに見える。

 そのくらいの女性なのだから、彼氏の一人や二人、いても不思議ではないだろう。ただ、雰囲気から察すると、相手は付き合っている男性との会話には思えなかった。表情はずっと同じく険しいまま、感情が一つに固まっていることを感じさせるものだった。

――相手が少しでも心を通わせたことのある相手との会話とは思えない――

 あまり人の観察が得意ではない岡本だったが、彼女の表情を見ている限りでは、間違いないような気がしてならなかった。

 岡本はしばらく彼女の様子を見ていることにした。

 口調と表情は相変わらず、何かで揉めているのは分かったのだが、どうやら、会話は進展しているようではないようだ。相手も同じことを繰り返し言っているのかも知れないが、由梨の方も繰り返しているように思えてならない。

 そのうちに我に返ったのか、由梨は時計を見た。その時、表情が焦りに変わり、まわりを見渡す余裕が生まれた。

 余裕と言っても、一点を見つめていたのが、視野が広がったというだけで、実際には表情に現れている焦りが完全に余裕を取り戻したわけではないことを物語っていた。その表情には、

――ヤバい――

 という焦りが浮かんでいて、由梨を待たせているという現実を思い出したのだろう。

 少しでも元の顔に戻そうと表情を和らげようとしているのを見ると、少し滑稽に感じられた。

――大丈夫なのかな?

 と感じたが、すぐに元のあどけない表情に戻ってくるのを見ると、少し安心した。

 しかし、その安心は完全なものではなく、簡単に表情を戻すことのできる彼女の二面性が垣間見えたようで、少し由梨に対してのイメージを変えた方がいいのではないかと思ったのだ。

 由梨の表情が完全に最初の顔に戻ったと思ったその瞬間、由梨と目が合った。

――彼女は、最初に感じたあどけない表情にならなければ、まわりが見えないところのある女性になってしまうのかも知れない。そして、普段の彼女は、それとは逆に、まわりへの気配りができていて、完璧に近い女性なのかも知れない。どちらが本当の彼女なのか分からなかったが、ひょっとすると、どちらも本当の彼女であり、まわりが決めることではないのだろう――

 と岡本は感じた。

 携帯電話をしまって、由梨はこちらに近づいてきた。その視線は真っすぐに岡本を見つめている。

――この表情だ――

 この表情を見てしまうと、さっきの由梨はまるで別人のように思えてしまう。

 いや、別人だと思いたいという感情が芽生えていた。それだけ今のあどけない表情は、自分にとっても宝物のようなものに思えてきたのだ。

「今日はもう遅いので、取材には明日行きましょう」

 と由梨は言った。

 時間的には、西日の時間に差し掛かり、後少しで日没時間だった。夜に行っても意味がないことは、何となく分かったが、確かに今から初対面の男女二人きりで出かけるところではなかっただろう。

「そうですね。明日にしましょう」

 と二人の意見は一致し、

「夕食でも行きましょうか?」

 と、由梨が誘ってくれた。

「ええ、どこかいいところありますか?」

「じゃあ、私がたまに行くところに参りましょう」

 と言って、由梨が連れて行ってくれたところは、小さなバーだった。

 名前をバー「サンクチュアリ」と言った。

 雑居ビルの一角にあるその店は、隠れ家というイメージがピッタリだった。

「ここは、食事も結構いけるんですよ。マスターの創作料理なんですけどね」

 岡本も、東京に帰れば、自分にも行きつけの店はあった。

 そこは、同じような小さなバーで、雰囲気も似ていることから、違和感なく入ることができた。まさに、隠れ家にふさわしいところだった。

「いらっしゃい」

 マスターが一人、カウンターの前で仕込みをしていた。

「いいかしら?」

「ええ、どうぞどうぞ」

 と言って、マスターが招き入れてくれた。

 時間的には、まだ六時前くらい、本当なら開店までには一時間近くあったはずだ。それなのに、気軽に招き入れてくれたということは、よほどの常連なのか、マスターと気心が知れている証拠だった。

「開店前なんだけど、マスター優しいから、入れてくれるのよ」

 というと、マスターは苦笑いをしながら、

「由梨ちゃんには世話になっているからね。由梨ちゃんがいてくれるので、留守番を頼むこともあるくらいですよ」

 と言っていた。

「僕も、東京で似たような店を馴染みにしているので、自分の隠れ家に帰ってきたような感じですよ」

 と岡本がいうと、

「どうぞ、ゆっくりしてください。自分の家のように思ってくれてもいいですよ」

 と言って、マスターはニコニコしている。

 そして、返す目で由梨を見つめたが、目が合った由梨は軽く頭を下げると、アイコンタクトが成立したのか、ニッコリと笑った。

 二人は、ビールを注文すると、乾杯して会えたことを喜んだ。

「実は再会なんですよ。岡本さんは覚えていないのかも知れませんけどね」

「お手紙をもらったことで、名刺を渡した相手だとは分かりましたが、何しろ前に来た時はバタバタで移動したので、誰に何を渡したのかというのも分かっていない次第で、申し訳ありません」

 というと、由梨は納得しているような表情で、

「分かっていますよ。だから私もお手紙を岡本さんに送ったんです。下手に事情を知らない人の方がいいような気がしたんですよ。それに前に会ったと言っても少しだけだったんですが、岡本さんには、やる気のようなものを感じたんです。だから、お手紙を差し上げました」

「ありがとうございます」

「そうじゃないと、わざわざ福岡まで来てくれませんからね。やっぱり私の思っていた通りの人だったわ」

 というと、

「いえいえ、買いかぶりすぎですよ」

 と謙遜して見せた岡本の表情は、すでに無防備状態だった。

「それにしても、私のような正体不明のルポライターに来てほしいと思ったのは、よほどのことなのかって思いましたよ。しかも、東京から九州ですから、距離もありますよね。地元の人ではダメだったんですか?」

「地元の人だと、どうしても、この辺りの事情を知っている人になるでしょう? 当然贔屓目に見たり、個人的な気持ちが入り込んでしまうので、公平な目で見てくれないと判断したんです」

「なるほど、それは賢明かも知れませんね。私があなたの立場でも、そうしたかも知れませんね」

 事情も分からず、勝手なことを言ってしまったと思ったが、それも見越しての招待だったのかも知れないと思った。探求心がないとせっかくのネタも、尻切れトンボで終わってしまうだろう。そう思うと、呼ぶ方も来る方も、辛い結果にしかならない。

「東京にも事故多発地帯というのは当然あるんでしょうね」

「ありますよ。でも、こちらとは視点が違っていて、事故が頻発するのは、それだけ車の量も人の量も多いからだと単純に言い切る人もいます。それでは何の解決にもならないのにですよ。評論家がそんなことを言いだしたら終わりなんですけどね」

 そう言って、岡本は苦笑いした。

 さらに岡本は続けた。

「都会での事故多発地帯というのは、ある程度パターンが決まっていると思うんです。ある程度区画整理されていることもあって、都会の道は、建築上の一種の法則のようなものがあるような気がするんです。だから、事故が起こりやすい場所というのは、ある程度予測もつく。その対処法も分かってきてはいるんでしょうが、どれだけ真剣に自治体が動くかということですよね。そこに政治家や企業との癒着が絡んでくるとややこしくなる。スクープとしては狙い目なんでしょうけど、その分、危険性も大いにある。手を出してはいけない『パンドラの匣』と言えるのではないでしょうか」

 それを聞いていた由梨は、

「なるほど、確かにそうですね。都会の場合には、支出の問題が段階を追うので難しいんでしょうね」

「田舎でも、実際に自治体ごとに調べると、結構、汲々としているところも多く、なかなか支出もままならないところが多いでしょうね。特に労働力を都会に取られて、田舎の企業に就職する人なんてなかなかいないでしょうからね」

 と岡本は言った。

「都会でも田舎でも、抱えている問題は一緒だということなんでしょうね。それぞれに事情と立場が違っているだけの違いなのかも知れません」

 ざっくりとした発想ではあったが、その言葉には重みがあった。由梨にも、それくらいのことは分かっているのだろう。

「ところで、田舎の事故多発というのは、何か記事になりやすいことなんですか?」

 と、岡本は聞いてきた。

「ええ、その場所は昔から悲惨な事故が起こる場所ではあったんですが、なぜか話題になりにくかったんです。何年かに一度大きな事故があるんですが、そんな時に限って、他で大事件が起こって、マスコミは皆そっちに行ってしまって、こちらの事故は新聞の端の方に小さく載っているだけなんです」

「それは、面白い現象だね。あ、いや、面白いなんて不謹慎かな?」

「いえ、いいんです。不謹慎なくらいに興味を持ってくれないから、せっかくの話題が萎んでしまう。本当は大きな記事になって話題になれば、警察や自治体も、放置しておくわけにはいかなくなるなずですよね。私の狙いはそこなんです」

「そうなんですね」

「ええ、いくら、街の人たちがそれぞれで訴えても、自治体も警察も真剣になって動いてはくれません。事故の重要性に気づいていないわけはないと思うんですが、どうしてなのか気になるところです」

「なぜなんでしょうね?」

「実は、その場所で悲惨な事故は起こっているんですが、不思議と死人は出ていないんですよ。車が大破したり、田んぼに突っ込んで、ひっくり返っていたりと、悲惨な状況ではありながら、車から放り出されて運転手は助かったり、意識不明に重体に陥ったりはしても、実際には死んでいなかったりと、死亡事故に関しては、ほとんどないんですよ。それもなかなか警察や自治体が動いてくれない理由の一つですね」

「警察は、何か事件が起こらなければ、何もしませんからね。ストーカー被害にしたって、本人が殺されなければ、何もしないんだ。本当にあの連中こそ、正義の皮をかぶった悪党なんじゃないかって思いますよ」

 言い過ぎかも知れないと思ったが、誰もが似たり寄ったりの考えを持っているのではないかと思った。かくゆう、由梨もその一人で、大人しそうにしていると顔には出ないが、酔っぱらったりすると、出てくるかも知れないと危惧したことがあった。しかし、それも最近我慢することを覚えて、

――今の私なら、大丈夫だわ――

 と感じるようになった。

 ただ、それは大人になった証拠などではなく、由梨が自分に課した課題であった。それを成就できなければ、自分の未来はないとまで思っていたほどで、その思いはすぐ現実のものとなって現れるのだ。

「それにしても、本当に不思議なんですよ。あれだけの惨状を見ると、結構スピードを出して走っていたはずなのに、どうして死亡事故に繋がらないのか」

「どこかに祠でもあって、その祠の神様に守られていたりするんじゃないのかい?」

「そうかも知れませんね」

 由梨から見ると、現実的なところがありそうな第一印象だった岡本の口から、神様の祠などという言葉が出てくるというのは、実に意外な感じがした。しかし、それだけ自由な発想も浮かべることのできる頭の持ち主だと思えば、そこが普通のジャーナリストと違って、フリーのルポライターとしての強みなのではないかと思えてきた。

「岡本さん、そんなところって、全国にはいっぱいあるんでしょうね?」

「ハッキリは分からないけど、オカルト的な発想の場所は、いくらでもあるんじゃないかな? 少なくとも昔から街に伝わる伝説のようなものは、どこにでも存在しているような気がする。ただそれが今の時代に合致しているかどうか分からないことで、なかなか表に出てきているものは限られるんじゃないかって思っているよ」

 確かにその通りだ。

 福岡の、一部の地域しか知らない由梨には、フリーということで厳しいのだろうが、それでも全国を飛び回っている岡本を羨ましく思えてきた。岡本を見ていると、一度、旅行というだけではなく、何かの探求に他の地域を訪れてみたくなってくるのだった。

「マスターは、福岡のことはよくご存じなんですか?」

 と、由梨が会話をマスターに振った。

 いきなり話題を振られたマスターだったが、慌てることもなく、

「まあ、僕もこの土地が長いので、それなりにいろいろな話を聞いたりもしますね。ただ、最近の話題というわけではなく、話題があったとしても、それは昔にも聞いた話だったりするので、目新しいものではないですね」

「例えばどんな話?」

「これは、福岡だけの話ではないと思うんですが、よくある話として、ダムの近くを走る道では、幽霊が出るなどの話は結構有名だったりしますよ」

「私も少しだけ聞いたことがある気がします。途中のトイレに幽霊が出るとか、カーブのあたりが事故が起こりやすいとか、そんなたぐいですよね?」

「ええ、そうですね。ダムというのは、水が溜まっているところの下には、元々村があって、そこに住んでいた人が確かに存在した。当然、立ち退きの問題などが浮上してきて、そこに市町村と建築会社の間の談合や密約などの汚職が絡んでくると、ややこしい話になりますよね。中には住み慣れた村を離れるくらいなら死んだ方がマシだと言って、抗議の自殺を企てる人もいたり、あまりにも買収に応じない人には嫌がらせや露骨な立ち退き要求があったりして、死活問題にまで発展して、残っている住民の気が触れたなんて話も聞いたことがありました。実に悲惨な話ですよね」

 その話を聞きながら、岡本は腕組みをし、黙って頷いていた。

「僕もルポライターをしながら、そんな話を聞くこともあったりすると、溜まらない気持ちになったこともあります。ダム建設は確かに、都会の人の大事な水源であり、何百万人の死活問題にもなりますからね一人や二人の意見だけを聞いているわけにもいかないのも事実なんでしょうね」

 岡本は、きっと今までに似たような取材を試みたことがあったのだろう。その時に感じたことを思い出して、自分が感じていたことを反復しているようだった。

「でもね、ダムの話もそうなんだけど、元からダム建設を計画するような場所だからこそ、昔からの言い伝えが残っているところなんだという見方もあるような気がするんですよね」

 と、マスターは語った。

「どういうことですか?」

「ダムというのは、当然山の中腹から、山頂に向かっての村にしか作れないですよね。川として流すわけですから、高い位置にないといけないんです。高い位置にある村というのは、村から下界に降りてくることはあっても、平地の人間が、わざわざ山奥の村に、進出してくることもないでしょう。だから閉鎖的になったり、その村独特の物語が受け継がれたりする。それを思うと、今はなき山奥の村に思いを馳せるというのは、時代を遡っているという意味で興味深いことですよ」

「昭和の時代を思わせるエピソードですね」

「ええ、そうですね。私などは平成生まれなので、なかなか昭和といわれてもピンと来ませんけどね」

 とマスターが言うと、

「私もですよ」

 と、岡本が言った。

 どうやら、二人ともまだ三十歳には達していないようだ。

 見ている限りでは、マスターの方が貫禄があった。岡本はジャーナリストとしてフットワークが軽いせいか、落ち着きがないように見える。先走って危険な道に入り込んだりする危険性もあるのだろう。あまり近寄り過ぎないようにしないといけないと、由梨は感じていた。

 逆にマスターは実に落ち着いて見える。カウンター越しにいつも正対しているが、なぜか真正面から見つめあったことはない。相手が誰であってもそうなのだろう。マスターのような人はどんな女性が好みなのか、あるいは、こんなマスターを好きになるような女性がいるとすれば、どんな人なのか想像ができなかった。少なくとも由梨には、マスターを好きになりそうな予感は、まったくなかったのである。

 しかし、マスターの話には説得力があった。いつも正論だけを語っているので、普通に聞いていると、スルーしてしまいそうになるが、それは彼の話に説得力があるからであって、他の客がどう感じているのか分からないが、由梨にとってマスターの話は聞いていて飽きることはなかった。

 由梨が店に来る時は一人の時が多い。他の客がいることもあるが、その人と直接話をすることは少なかった。それでも案スターを介して話すことはあった。当然話の中心はマスターだった。

 常連同士ではありながら、面識のほとんどない二人を相手にしなければならない時というのは、結構精神的にもきついだろうと思っていたが、さすがにマスターは話題が豊富で、そんな時の話題もしっかりと用意していた。

「これでも、ネットでいろいろ検索したりしていますからね」

 と言っていたが、それ以外に話題の元になることがあるのを、最近になって知った。

 この店の客は常連ばかりと言ってもいい。バーともなると、一見さんが一人では入りにくいというイメージがあるが、まさにその通り、それこそネットや口コミでもなければ、一人でフラリと入るのも難しいだろう。

 しかし、由梨の場合は、一人でフラッと入った店だった。後にも先にもフラッと一人で入った店はここだけだった。

 ちょうど、その時由梨は憔悴状態にあった。

 あれは二年前のことだった。彼女は一人の男性と付き合っていたが、その彼が交通事故で亡くなったのである。その場所は、事故多発地帯の中の七日辻であったが、それだけに、どうして交通事故などが起こったのか、究明したくて仕方がない。犯人はそのまま逃走し、ひき逃げ事件として、捜査が開始された。あの場所は車同士の死亡事故は起きていないが、車が人を跳ねるということは、普通に怒っていた。

 しかし、数ヶ月もしないうちに、捜査はまったく進展を見せることもなく、打ち切られることになった。

「どうしてなんですか? もっとしっかりと調べてください」

 と、由梨は警察に詰め寄った。

 彼の家族はというと、すでに諦めの境地に達していた。

「どうせ、警察なんて通り一遍の捜査をするだけで、適当に捜査して、一段落付けば、そこで捜査を打ち切るものなのよ。しょせんは綺麗ごとを言っても他人事、公務員だってことなのよ」

 と言って、下を向くばかりだった。

 ひょっとすると、警察から余計なことは言わないように圧力が掛かっているのかも知れない。

 由梨に対しては家族ではないので、圧力のかけようがないようなのだが、

「そのうちに黙るだろう」

 という程度にしか考えていなかった。

 まさか、事故多発地帯の情報を、マスコミにリークしているなど、想像もしていなかっただろう。

 死んだ彼の名前を松山明人と言った。

 松山は、その日の夕方、七日辻を歩いていて、車に轢かれた。

 元々、彼がどうしてあんなところを歩いていたのかというのも、由梨には分からなかった。あそこを通ってどこかに行くなど、由梨が知っている限りでは考えられないことだった。

 その話も警察には言った。

「あの人がどうしてあそこを歩いていたのかも、捜査をしてください。あの人があそこを歩く理由などないんです」

 と食って掛かっても、最初は、

「そうですか、貴重な情報をありがとうございます。こちらもそれを考慮に入れて、捜査してみます」

 と言っていたのに、捜査が進展しないのは、そのあたりの事情を警察が調べてくれていないことが原因だと分かると、警察がだんだん信用できなくなった。

 しかも、とどめに、

「そう思っているのはあなただけなのかも知れませんよ。彼も男ですからね。人に知られたくないような場所に向かったのかも知れませんね」

 と、口調は滑らかだったが、明らかに挑戦的な口調だったのを聞いて、由梨はムカッときた。

「それはどういう意味ですか?」

 完全に逆上した口調になった。

 まるで相手もそれを見越して、わざと逆上するように仕向けたのかも知れない。

「あなたの知らない女がいるかも知れないということですよ。最後まで言わせないでください」

 見下したものの言い方に、由梨はイライラを通り越した。

「もういいですよ。警察なんて当てにならないんですからね」

 と捨て台詞を残して、その場を立ち去った。

 逆上していたので分からなかったが、警察の方とすれば、いい加減鼻についてきた相手を追い返すために、わざと怒らせるような言い方をしたのだろう。市民警察としては、いっていいことと悪いことのギリギリの線だったのかも知れない。

――いい加減にしてほしいわ――

 逆上した頭も、ある一定の時間を過ぎると、急に冷めてくるものだった。

 そんなことがあってから、由梨は警察を信用しなくなり、何かあった時はマスコミの力を借りて、警察の国家権力に立ち向かうという気持ちになっていた。

 そんな時、由梨の頭の中は警察に対しての怒りと、これからどうすればいいのかという途方に暮れた気持ちの中で、完全に二分されたような気持ちになっていた。歩いている時もいつもの道を歩いているつもりで、気が付けば知らないところを歩いていた次第で、

――いったい、どこを歩いているんだ?

 と思ったとき、目の前にあったのが、このお店だった。

 店の名前は、バー「メタモルフォーゼ」、日本語に直せば「変身」という意味だそうだ。言葉も意味も知っていたが、それを店の名前にするなんて、少し変わっている。バーのような店は、一人佇みたい時に、隠れ家のような気持ちで利用するものだと考えていたので、そういう意味では、「メタモルフォーゼ」という言葉は、的を得ているのかも知れない。

 店の中に入ってみれば、そこには一人マスターがいるだけだった。

――これはありがたいわ――

 もし、他に客がいれば、踵を返して出てこようと思って入った店だった。

「いらっしゃい」

 マスターはにこりともせず、こちらを振り向くこともなく、声だけをかけた。

 それは、まるで社交辞令のようにも聞こえ、一瞬ムカッときたが、普段なら怒りを感じ、店を後にしたかも知れないが、その時はなぜか、店の中に吸い込まれるように入ってくると、気が付けば椅子に腰かけていた。

「初めてですよね」

 椅子に座ると、正面にやってきて、マスターは由梨の顔を見ながら、そう言った。最初の態度と雲泥の差だった。

「ええ、このあたりを歩いていたら、急にお店の看板が目に入ってきたんです」

 半分はウソだが、残りの半分は本当のことだった。

 このあたりを歩いていたのは無意識だったが、店の看板が見えてから、この店に入るまでは、自分の意思が働いていた。確かに吸い寄せられる感覚はあったが、やめようと思えばやめることもできたからだ。

 やめようと思ってやめなかったということは、そこに自分の意思が働いているのは明白だった。

 マスターは、カウンター越しに由梨を少しの間見つめていたが、すぐに視線を切らして、それ以降、目を合わすことはなかった。

――どうして視線を切ったんだろう?

 由梨は自分が悪いのだと思った。

 由梨は自分の心が折れかかっていたり、折れてしまったりした時、すべてを自分のせいにしてしまうところがあった。自分がかかわっていないことでも、自分が悪いから、落ち込むようなことになるという思いを子供の頃から抱いていた。

「何か災いが起こると、すべては自分の行いから来ているのよ」

 と、死んだおばあちゃんから何度か聞かされたことがあった。

 おばあちゃんがどういう意図でそんなことを口にしたのか、今でも分からないが、その言葉は子供の由梨には衝撃で、トラウマのようにもなっていた。

 その言葉をずっと半信半疑ではありながら、信じているという意識を持って感じていた。今までにも半信半疑でありながら、信じてきたこともいくつかあったが、そのほとんどは、おばあちゃんの口から出てきたのだった。

 特に妖怪が出てくるような怖い話だったり、地獄絵図のような雰囲気をイメージさせる話はよくしてくれたので、今でも、

「そんなバカなこと、信じられないわ」

 と口で言っていることでも、心の中では、

「信じられないと言っている自分の口が信じられない」

 と思っていたのだ。

 由梨は、マスターを見ながら、

――どこか、おばあちゃんに似ている――

 と感じた。

 おばあちゃんは優しい人で、誰にでもその優しさは変わらない。しかし、由梨に対しては、その優しさが、時として冷たく感じられることがある。もしそれが他の人に対してのことであれば、冷たく感じることなどないはずなのに、冷たく感じてしまうということは、それだけ、

――おばあちゃんは暖かくなければいけない――

 という意識を植え付けられているからなのかも知れない。

 由梨は、おばあちゃんが無口な時を思い出していた。

 基本的には無口なので、普段を思い浮かべれば分かることなのだが、由梨に対してだけは、饒舌な時も無口な時も、同じ顔をしているのだった。

 だから、次にどんな言葉が出てくるのか想像がつかなかった。

 同じ表情なので、おばあちゃんが怒っているのか、それとも楽しんでいるのかすら分からない。

 しかも、おばあちゃんはめったなことでは怒らないが、

――急にどうして怒る必要があるのか?

 と思うような時に怒り出すことがある。

 おばあちゃんが理不尽な怒り方をしたことは一度もないと母親から言われたことを思い出すと、悪いのは自分の方だと思ってしまっても仕方のないことだろう。

 だから、相手が自分の想像を逸脱した行動や言動に走ると、その原因は自分にあるのだと思えて仕方がないのだった。

 これは、決して喜ばしい性格ではない。下手をすると被害妄想になりかねない。自暴自棄に陥ったり、自虐的な気持ちになったりしかねない。しかし、由梨の場合はそんな時、自分が悲劇のヒロインになりかかっていることにいち早く気づき、何とか、そこまでには至らないようにしていた。

 マスターが由梨に話しかける時、他の人を相手にしているのとでは違うという感覚が持てたのは、おばあちゃんの印象とダブるところがあったからに違いない。

「由梨さんは、このバーのどこが気に入っているんですか?」

 と、岡本に聞かれた。

 急に聞かれても、果たしてどこがいいのか、考えたことはあるが、結局、堂々巡りを繰り返した結果、また同じところに戻ってくるという感覚に陥ったことで、考えるのをやめてしまった。

「さあ、どこなんでしょうね?」

 と、はぐらかしながら、マスターをチラ見すると、マスターは苦笑いを浮かべてはいたが、こちらを振り向くことはなかった。

「皆さん、そういいますよ」

 と、ボソッとマスターが言った。

――えっ? 今、それを言う?

 と、由梨はビックリして、固まってしまい、まるでハトが豆鉄砲を食らったかのような表情になっていたことだろう。

 あっけに取られたはずなのに、なぜか由梨の表情は笑っていた。どこか呆れて笑っているかのように感じられたが、そうではない。何か見えない力に笑いを作られたような気持ちだった。

――笑いなんて、こんなに簡単にできるんだ――

 と、呆然としてしまっていた。

 おばあちゃんと一緒にいる時、急におばあちゃんがお母さんに見える時があった。

 存在感はお母さんよりもおばあちゃんの方が強かったのだが、現実的なことになると、どうしても母親が先に思い浮かんでくる。

 逆にお母さんではどうにもならないようなことでも、おばあちゃんなら解決してくれそうだった。

「そんな簡単なこと」

 とニコニコしながら、解決してくれそうに思えたのだ。

 だから、最初に相談するのは、母親でなければいけないはずだった。

 それなのに、最初におばあちゃんに相談してしまって、

「おばあちゃんは、そんな難しいことは分からないわよ」

 と言って、ごまかされる。

 お母さんに気を遣っているのか、そんなおばあちゃんの姿は見たくなかった。おばあちゃんはいつも毅然としていなければいけないと思うのは、由梨のわがままだろうか。

 だが、孫とおばあちゃんとの関係というのは、そういうものではないだろうか。

 そう思っていると、おばあちゃんの顔が少し思い出されてきた。それでも、まだシルエットに浮かんでいるだけで、それはきっと子供の頃に見たおばあちゃんの印象が目に焼きついていて、そこから年を取ることもなく、永遠に自分も子供の頃から成長していないイメージでしか、顔が浮かんでこないからだ。

――成長した私を見てほしかったな――

 という思いが胸の中に去来する。

 過去のことを思い出すというのは、昔のことを単純に思い出すだけではなく、それがどれほど自分の中のウエイトを占めているかということも一緒に考えなければいけない。その前後関係で、、

――どちらの話が先だったんだろう?

 と、細かい時系列が曖昧になってしまっては、せっかくの記憶が誤ったものになってしまいかねないからだ。

 由梨は、二年前のことを思い出していた。

 二年前といえば、つい最近のことである。

――付き合っていた松山との記憶は、決して色褪せることもなく、永遠に光り輝いているものだ――

 などと、今から考えれば夢物語のようなことを言っているが、実際には記憶しておこうとすればするほど、忘れていくもののようで、それが口惜しいと思っている由梨だった。

――あの人のことを忘れていくなんて――

 由梨は、自分の中であれだけ大きな存在になっていた人が消えていくのを悲しく感じていた。

 元々、彼への思いは一目惚れというわけでもなかった。

 好きになったのは相手の方。由梨とすれば、好きになられたので好きになったのだが、いつのまにか、なくてはならない存在になっていた。

――本当は、最初から好きだったんじゃないのかしら?

 と思わせるほどで、自分の気持ちを人に気づかされるということが、意外と心地よいと思うようになったのも、この時が初めてだった。

 彼の死は、あまりにも突然で、あっという間の出来事で通り過ぎていった。世間でもそれほど騒がれることもなく、一応、七日辻の電柱のところに張り紙がしてあって、事故の日時に、轢き逃げの情報提供を呼びかけるものだったが、あまりにも情報が少なすぎて、誰も名乗り出る人もいなかった。

 彼は、町役場に勤めていたのだが、この交通事故に対しての役場の反応は冷たいものだった。

 葬儀にも数名しか参加せず、花を贈る程度で許されると思っているのかと思うほど、冷たいものだった。

 元々彼は、役所の中でもどこか浮いている存在だったという。

 目立つわけではなかったのだが、彼のことを目障りのように思っている人も少なくなかった。

「出るくいは打たれる」

 というが、彼は事務所の改革を進めていた。

 仕事も効率化や財政を抑える試みをいろいろ考えていたようだが、相手はしょせんお役所、自分さえよければいいと思っている人も多かったようだ。

 彼は、最後まで役所勤めをしていたわけではない。

 最後には、役所から、地元の鉄道会社へ出向のような形で行かされてることが決まっていた。もちろん、何年かだけの約束だということだが、

「そんなの、当てになんかなるものか」

 と、最後は自虐的にもなっていた。

 それまでの役所仕事からいきなりの鉄道会社への出向では、戸惑ってしまうのは無理もないことだった。

 その鉄道会社というのもひどい会社で、元々はJRだったのだが、赤字路線ということで、廃線寸前まで行ったのだが、地元の出資があって、第三セクターとして生き残ったのだ。

 そのくせ会社は、いまだにJR気分でいるから始末が悪い。お金もないので、なかなか老朽化した部分の補強もままならず、しょっちゅう、故障を起こしては、列車遅延の憂き目にあっていた。

 それなのに、駅員は乗客に対して口では、

「申し訳ありません」

 と言っているが、到底本心から言っているようには思えない。

 もっともそれは、JRの国鉄時代からの体質で、国鉄時代は公務員だったので、対応も役所対応として、乗客の反感を買っていたが、JRになってからは、もっとひどくなった。

 ここから先は、人に聞いた話なのだが……。

 何しろ、JRは民間で、営利企業なので、利益を追求するようになった。それなりにサービスも充実させてきたつもりなのだろうが、最近ではそのサービスもままならず、どんどん廃止になっている。

 しかし、いざ事故が起こると、その対応は旧態依然とした「お役所対応」となんら変わりない。

 人身事故が起こった時など、駅員が、

「人身事故だからしょうがないですよね」

 と言って、へらへら笑っているのを見たことがあった。

 そんな光景を見せられると、駅員は完全に他人事であり、乗客はその場に置き去りにされたも同然だった。

 さらにひどいのは、最近では、喫煙できる場所は大きな駅に作られた密閉されたブースなのに、朝のラッシュ時間になると、ブースに人が入りきらず、表で吸っている。

 それを駅員に注意すると、

「見回りを増やしているんですけどね」

 と言って、平気な顔をしている。

 その人は、思わず、

「はっ?」

 と聞き返したという。

「それだけ?」

 と聞くと、

「この人何言ってるんだ?」

 という程度にしか考えていないように見えたらしい。

 今の言い方を聞いていると、その次にこちらとすれば、

「だから?」

 と聞きたくなってくる。

 見回りを増やしているからどうだというのだ。見回りを増やして、表で吸う人がいなくなったとでもいうのであろうか? ただ、自己満足しているだけではないのかといいたいだけだった。

 確かに見回りを増やせば、吸わなくなる人もいるかも知れないが、見回っても何も言わないのであれば、却って、

「なんだ、駅員がいる前で堂々と吸っていても、何も言われないじゃないか」

 と思われるだけで、相手に、

「吸っていい」

 という免罪符を渡すようなものだ。

 こんな単純なことにも気づかないとすれば、職員がよほどバカの集まりなのか、それとも、

「君子危うきに近寄らず」

 で、相手にしない方が懸命だと思っているかのどちらかなのだろう。

 要するに自分たちのことしか考えていないという証拠である。

 列車が遅延した時もそうだ。簡単に列車を運休させたり、本来なら後に出るはずの特急を先に行かせたりして、各駅停車に乗っている人はさらに遅れてしまう。

 これも、特急に大きな遅延が生じれば、自分たちが払い戻しをしなければいけないから、払い戻しをしないでいいように、特急列車を先に行かせるという露骨なやり方で、乗客を愚弄しているのだ。

 言いたいことはまだまだあるが、これ以上は話の腰を折るだけなのでやめておくことにするが、要するに公務員関係の連中は似たり寄ったりで、自分たち組織を守ることを優先するあまり、それが露骨に移ることもあるということである。

 そんな話を聞いていたので、由梨は今度の交通事故に対しても、ただの事故だとは思っていない。

 元々公務員になるくらいの人なので、それだけ細かいところのある人であるのは間違いないことだった。

 しかし、それだけに一生懸命に目標に向かう姿は、まわりから見ていても眩しいくらいに新鮮に見えた。それが理論に基づいたものであるため、人によっては堅物のように見られたり、融通が利かないと言われたりするものだった。

 しかも彼の部署は、財務に関係のある部署だったので、余計に細かいことを気にしないとやっていけない部署でもあった。

「まわりに優しく、自分に厳しくだね」

 というのは、彼の口癖だったが、

「そんなに気を張ることはないわ。だから私がそばにいるんじゃない。何かあったら私がいるから、いつでも私のところに帰ってきてくれればいいわ」

 というと、

「ありがとう」

 と心からのお礼を言ってくれたのが嬉しかった。

――彼の癒しになりたい――

 この思いは本音であった。

 由梨自身も人の癒しになれれば嬉しいと思っていた。それは自分が子供の頃におばあちゃんに感じた思いだった。

――その思いを好きになったこの人にしてもらいたい――

 というのは、自分でもなんとも健気な思いなのかと感じていた。

「由梨」

 と彼に呼ばれて、

「うん?」

 と答えた時、最初彼は、

「なんでもない」

 と言ったが、普段なら聞き逃したかも知れないのに、その時は何か気になって、

「どうかしたの? あなたらしくもないわね」

 と言って、元気付けたつもりだった。

 それだけ彼の元気は日に日になくなっていって、何かに思いつめたようなところがあると思っていた頃のことだった。

「俺、今度出向になるかも知れない」

「えっ?」

 その時だった。初めて彼の口から鉄道会社への出向の話があると聞いたのは。

 その会社は、あまり評判はよくなかった。

 従業員の態度は今に始まったことではなかったが、経営状態も逼迫しているような話だった。

「要するに、俺を危ない企業に追いやって、社会的地位を抹殺しようと思っているやつらがいるということだ」

 なかなか彼の口から本音が聞けなかったが、いろいろ話しているうちに、そこまで彼の口から聞こえてきた。

 まさかここまで言うとは思っていなかった由梨も、急に怖くなって、

「出向、やめるわけにはいかないの?」

「そうだな。役所と手を切って、俺は俺の人生をやり直すという選択肢もあるんだよな」

 と言ったので、

「ええ、そうよ。何も無理して嫌なところにいる必要もないわ。あなたらしくもない。別に義理立てる相手でもないんでしょう?」

「それはそうなんだが」

 どうにも煮え切らないところがあるようだ。

「だったら、気にすることなんかないわ」

「そうだな」

 と、彼も溜飲を下げていた。

 きっと彼は由梨のことを考えて、仕事は辞められないと思ったのだろうが、由梨の方では、

――気を遣う必要なんかない――

 と思っていたのだ。

 松山は、会社を辞める気になっていた。出向になるくらいなら、辞めた方がいいというのは当然の選択だったが、どうしても由梨のことが気になっていた。しかし、由梨が背中を押してくれたことで、自分のプライドが保てたのだ。ここでプライドを捨てるというのは、今度は由梨に対して失礼だ。せっかくの由梨の気遣い。甘えるのではなく、由梨に対しての義理を通すという意味でも、プライドを失ってはならないと思った。

 もう一つ考えたのは、

――逃げることになるんじゃないか?

 という思いだった。

 自分が一人なら、逃げることへの抵抗感もあっただろうが、今は守らなければいけない相手がいるのだ。まわりから逃げたと思われても、自分はプライドを守ったのだから、それはそれで潔いことのはずだ。まわりからの誹謗中傷など、時が来れば忘れられる。それよりもプライドを失ってしまうと、それを取り戻すのには、さらに時間が掛かることだろう。

 選択肢はほぼ決まった。

 心を決めてからの松山の表情は晴れやかだった。由梨にも彼の晴れやかな表情が誇らしく思えたのだが、松山のその表情に余裕が感じられたことで、

――ヤバい――

 と思った連中がいたのだろう。

 交通事故はそんな時に起こった。

 目撃者もほとんどおらず、公然と轢き逃げが行われた。警察も捜査を続けてくれてはいたが、どうにも信用できない。

 彼の勤めていた会社も冷たいものだった。

 形式的な手続きや表向きのお悔やみは施してくれたが、まったく温かさを感じない。由梨自身も、生前の彼が会社からどのような仕打ちを受けていたのか分かっていただけに、余計にこのタイミングでの事故は納得がいかなかった。

 会社側だけではなく、街の人も彼の死を騒ぎ立てることはなかった。

――一人の男が轢き逃げで死んだ――

 ただそれだけのことだった。

 由梨はそんなことを思い出していると、少し涙が出てきたようだった。

 それに気づいた岡本は、

「どうしたんですか?」

「あっ、いえ、昔のことを思い出していたものですから」

 マスターはそんな由梨の様子を冷静に見ていたが、その目には温かさがあった。

 マスターは由梨から彼の話を聞かされていた。理不尽な気持ちになっていて、やりきれなくなることがあることを、打ち明けていたのだ。

 まわりの人は皆知っていても、その話題には敢えて触れないようにしている。それは由梨のことを気遣ってというよりも、その話自体が、すでにタブーの域に入っていることを示していた。

「僕からは、何も言ってあげられないけど、ここは、由梨ちゃんのように心に傷を持っている人が癒されに来てくれるのを待っている場所でもあるんだ。だから、何か僕で役に立てることがあれば、言ってくれればいいからね」

 と話してくれた。

「優しいんですね?」

 と言って、涙が止まらなくなった由梨に対して、

「いいんだよ。いくらでも泣けばいいからね」

 とマスターは由梨の行動を否定することはなかった。

「誰にだって、一つや二つはそんな思いはあるものだよ」

 人によっては、その言葉が相手を孤独に追い込む場合もあるが、由梨にはそんな感覚はなかった。そのこともマスターには分かっていて、言葉にしたのだろう。そう思うと、マスターという人の人間性もこの店の雰囲気に合っていて、暖かさが感じられるのであった。

 今までにこの店に他の人を連れてきたことのなかった由梨が、誰かを連れてきた。しかもそれが男性であるということに、少し違和感があったマスターだが、そんな気持ちを顔に出すこともなく話を聞いていると、

――何か、曰くがありそうだな――

 というのは分かった。

――もう少し、様子を見てみるか――

 と思いながら、マスターは忙しく立ち回りながら、二人を見守っていた。

 岡本は、彼女が自分をここにどうして投書までして、呼び寄せたのか気にはなっていた。しかし、いきなり聞いてみようとは思わない。

 むしろ、黙っていた方が、彼女の方から話したくなるのが分かっているからだった。投書までするのだから、何かを訴えたいという気持ちは誰よりもあるはず、その気持ちを必要以上に煽ることもないだろう。

 この店に連れてきたのも、何かを思ってのことに違いない。

「この街には交通事故の多発地帯が二つあるんです。一つはいかにも事故の起こりそうな場所と、もう一つは見晴らしがいいんだけど、なぜか惨状と思えるような事故が発生する。でも、そこではこれも不思議なんですが、死亡事故というのはなかったんです」

「それもおかしな現象だね」

「ええ、私はそのうちに、どうして誰もその不思議な現象について何も言わないのか疑問に思うようになったんです」

「それで?」

「私は、この街に来たのは高校生になってからだったので、交通事故の話は人づてで聞いたのですが、最初はなかなか理解できませんでした」

「ほう」

「どうやら、皆、それぞれに中途半端にしか知らないようだったんです。それも中途半端に抜け落ちている部分が違っていたので、最初は同じことの話をしているのか疑問に思ったくらいでした」

「それはそうでしょうね」

「でも、よく聞いてみると、一つの話だったんです。次第に埋まらなかった部分が埋まってくるようになると、どうやら、この街には何か触れてはならないものが存在しているようで、それを親から子に、まともに伝えてはいけないことのようになっていたようなんですよね。子供の好奇心で、いろいろ冒険してみたりして、秘密に近づこうとすると、親たちが一喝してそれ以上探らせないようにする。だから、皆の認識が少しずつ違っていたんです」

「なるほど、それで、由梨さんの頭の中では繋がりましたか?」

「ある程度は繋がったつもりなんですが、どうしても埋まらない部分がある。つまり、微妙に違っている認識であっても、皆が共通して知らない部分がある。それこそがこの町では開けてはいけない『パンドラの匣』だというわけなんでしょうね」

「なかなか鋭い観察力だと思いますね。僕があなたの立場でも同じことを考えたでしょうね。ただ、それには一度自分が冷静になって客観的にまわりから見つめ直す必要がある。そういう意味では難しいことだったはずですよ」

 岡本は、由梨の話を聞きながら、自分のことも思い出していた。

 自分がルポライターになった理由は、子供の頃にあった。

 東北の田舎町で育った岡本は、完全に閉鎖的な街の出身だった。

 街によそ者が来ることもほとんどなく、街は完全にまわりから孤立していた。

 まわりの街は、「町おこし」などと称して、都会で行われるイベントに参加したり、宣伝のビデオを作ったり、ポスターを貼ったりして、アピール合戦を繰り返していた。

 しかし、彼の育った街は、まったくそんなものには興味を示さず、市町村合併が流行った時期でも、この街は蚊帳の外だった。

 自分たちからアピールすることはもちろんなく、まわりの街からの合併話もなかった。

 市町村合併には合併しようと考える方も、合併される方も、当然自分たちの立場が弱くなることを嫌うだろう。自分たちだけで街を盛り上げていけるのであれば、合併などありえない。合併することで達成できることを考えるから、合併を視野に入れるのだ。

 岡本の育った街は、自然には恵まれていた。自給自足だけでもやっていける街だったのだ。

 そんな街が他の街と合併しても、別に利点はない。せっかく閉鎖的な街として今までやってきたのだから、これからもできるはずだ。

 しかし、街の人全員がそう思っていたわけではない。

 中には、

――今はそれでもいいかも知れないけど、時代が進むにつれて、まわりの街がどんどん強大になっていくのに、このままだと呑み込まれてしまう――

 と考えていた。

 呑み込まれるというのは、物理的なものだけではなく、

――時代に呑み込まれる――

 という発想もあったのだ。

 時代に取り残されると言ってもいいだろう。

 元々過疎になりかかっているこの街の存続は、自分たちだけではどうにもならないということを、本当に分かっているのかと考える人もいた。

 ただ、そう思う人は、街を出て行くものだ。

 家族と大喧嘩してでも出て行く人も結構いた。

「こんな腐ったようなところにいられるか」

 と言って出て行くのだ。

 大喧嘩はしてみたものの、出ていくというものを引き留めることはできない。もし、引き留めてこの街に残ったとしても、それ以降、その人は街に禍根を残すことになるだけで、街のためになることはないだろう。

――いずれは、心を入れ替えることになるんじゃないか――

 と思っている街の大人たちは、ほとんどいない。

 そういう意味で、街から出て行く連中を止めることはできなかった。

「他の過疎街とどう違うんだ?」

 と言われるかも知れないが、当事者である街の人間たちにとっては、まったく違っている。

「俺たちはこの街を出て行かなかった。それは若い頃には、いずれ都会に出てみたいという思いはあったが、すぐに考えを改めた。この街の人間は、やっぱりこの街を離れられないんだって思うからね」

 という意見が多かった。

 もう一つ、この街を出て、都会に行った人間も、挫折することはあるだろう。しかし、誰一人、街に出戻ってくる人はいなかった。

 街から出ることに対しては、さほどの抵抗はないが、街に戻ることに関しては、かなりの抵抗があるようだ。

 岡本も、高校を卒業すると、その街を出た一人なのだが、

「あの街には戻ろうとは思わない」

 と言って、さらに、

「まるで結界のようなものがあるんだよ。この街に戻ってくるとするにはな」

 とまで感じていたようだ。

 一度表に出てしまうと、生まれ育った街とはいえ、自分の中ではまるで夢幻の類にしか思えない。まるで、砂漠の中に浮かぶ「蜃気楼の街」と呼ばれる伝説のようではないか。

 砂漠のような超自然的な場所では、究極の状況に陥ると幻を見るという。そんなところには伝説がたくさん生まれるのも当然のことであり、岡本もいくつか聞いたり、本で読んだりもしていた。

 それはやはり生まれ育った街に対しての思い入れがあるからで、戻ることのできない場所だと思えば思うほど、意識してしまうものなのだろう。

 岡本にとって、子供の頃の思い出が風化してしまうことはなかったが、それが今も存在しているような意識がないのだ。あくまでも思い出の中だけに存在しているオアシスは、まさしく「蜃気楼の街」だった。

 岡本がルポライターになったのは、自由に取材で全国を回っていると、そのうちに生まれ育った街にひょっこりと戻ることができるのではないかと思ったからだ。

――そんなバカなことありえないよな――

 と思いながらも、考えてしまうのは、

――自分が著す言葉には、無限の力がある――

 と感じているからなのかも知れない。

 実際にいろいろな街に行ってみて、自分の生まれ育った街よりも、もっと興味深いような街もいくつかあったりした。

――世の中って広いものだ――

 と感じたのも真実で、

――ルポライターをしていると、一つの考えに凝り固まってしまわないようにしないといけないな――

 と感じていた。

 考え方が一つだと、どうしても第一印象がすべてになってしまう。最初に感じたことが間違っていれば、途中から

――何かがおかしい――

 と思っても、何がおかしいのか分からない。

 なぜなら、一つの意見に凝り固まってしまうと、時系列でしかものを考えることができなくなって、途中まで考えたことを遡って、考え直すことはできないのだ。

 そんな時、

――もう一つの世界を通ってきたんじゃないのかな?

 と思うことがあった。

 進んできた道を、回れ右して真後ろを向いたはずなのに、確認ができないのだ。一度後ろを振り返ると、納得のいくところまで後ろに進まないと、前を向くことができない自分に驚かされる。

――一体、どうしたことなんだ?

 そこに呪縛が存在していることに気づくまでに少し時間が掛かり、呪縛の存在を知った時点で、すでに手遅れだということに気づかされる。

 その時に、考え方が一つだと、苦しむのはしょせん自分であるということを思い知らされるのだ。

 岡本はこの話を誰にもしたことがなかった。言っても信じてもらえないのは分かっているからだ。だが、似たような経験のある人は、意外とそばにいるのかも知れないと、思うようになっていた。

 今までにそんな感覚の人が目の前に現れたことはなかった。だが、実は今目の前に同じような感覚を持っている人がいることに、岡本は気づいていなかった。

 その人というのはマスターである。

 マスターは岡本を見て、

――ひょっとして――

 と感じたが、それが確信に変わったのが、岡本が一人で何かを考えているのが分かり、目線が定まっていない時、マスターと目が合ったはずなのに、視線は自分を通り越して、さらに向こうを見ていたのだ。

 マスターは、自分にもそういう経験があることを分かっていた。ただ、それを自覚している人は少なく、あくまでも無意識だと思ったからだ。

 だが、岡本はマスターと目が合ったことを意識していた。

 マスターの方は、岡本が無意識だと思っていたのだが、その理由は、

――もし、少しでも意識していたら、目が合った時、瞳孔が微妙に開いていくのを感じるはずなのに、その感覚がなかった――

 と思ったからだ。

 マスターは学生時代、心理学の勉強をしていた。

 元々、人が嫌いで、子供の頃から友達も少なかった。

 人に気を遣うということが嫌いで、

――どうして、人に気を遣いなさいって皆大人はいうんだろう?

 と思っていた。

 子供だからと言って、大人に守られているという感覚を持ちたくなかった。確かに子供だけでは何もできないのだろうが、大人からの押し付けが子供にはプレッシャーになったりしている。

「最近の子供は」

 と、よく大人は言っていたが、自分にだって子供の時代があったはずだ。

 確かに今と時代は違っているのだろうが、自分が子供の頃も大人に対して、同じことを考えていたのではないだろうか。立場が変わればあの時の大人の気持ちが分かるのかも知れないが、子供だった頃の自分を置き去りにして、急に大人の立場からしかモノを言わないというのは、片手落ちのような気がする。

 大人というのは、子供がそのまま成長したものではないのだろうか? どこで子供の気持ちを置き忘れてしまったのか、それとも子供の気持ちを分かっているつもりでも、叱らなければいけないという義務感からだけで、子供を叱っているのだろうか。

 マスターは後者だと思っている。子供の頃に感じた、

――あんな大人になんかなりたくない――

 という思いを、ほとんど皆が感じたことだろう。そんな中で、

――なりたくないと思っていても、なってしまったものは仕方がない――

 という諦めの境地のようなものを感じているとすれば、それは自分の中の矛盾に気づいた時だった。

 最初は子供を叱る時、感情から叱っていたはずだ。

――せっかく躾けをしようと思っているのに、ちっとも言うことを聞いてくれない――

 その思いは、親になって初めて感じた思いだと気づかないからだ。

 子供を甘やかしても、叱りすぎてもいけない。子育ては難しいものだという思いは誰にでもある。特に初めての子育ては、手探り状態だ。どうしても、育児書に頼ったり、カウンセリングを受けてみたりしたくなるものだ。ママ同士での友達がいればいいのだろうが、いない人にとっては、孤独を感じながらの子育てになる。ノイローゼと背中合わせの状態であろう。

 マスターは、自分は独身だが、姉がいた。

 姉は自分のことを子供の頃から面倒を見てくれて、さぞやいいお母さんになるのだろうと思っていたが、結婚して実際に子育てに入ると、孤独からノイローゼにかかってしまった。

 旦那は、仕事が忙しいらしく、子育てや奥さんのことにはあまり関心がなかった。

「お前のいいように子育てすればいいからな」

 と言って、投げやりだったようだ。

 姉もそんな旦那に対して、

「いいのよ、ありがとう。私頑張るね」

 と言って、健気に一人で頑張っていた。

 だが、姉は一つのことに集中するとまわりが見えなくなる性格で、さらに思い込んでしまうと、そこから抜けられなくなってしまう。

 育児にとって、その性格は

――百害あって一利なし――

 というものであった。

 まわりからは、姉が痩せ我慢していたことで、姉が抱えている苦しみを誰も分からなかった。姉の性格は、そんなところにも災いするようで、姉の様子がおかしいと思い始めた時には、姉がいつ自殺してもおかしくない状態まで来ていたのだ。

 まわりが気になり始めた頃、姉のストレスは極限に達し、悪魔の囁き一つで、姉は命を落とす。

 しかも、その悪魔の囁きは、まわりが姉を見ている前で起こすように仕組まれていた。姉は、通勤ラッシュの時間を狙ったかのように、電車に飛び込んで見せたのだ。

――あの目立つことを一番嫌っていた姉が、最後の最後に舞台に上がったんだ――

 と、マスターは思った。

 それは姉がまだ二十三歳という若さで、マスターが大学三年生の頃だった。

 姉の死は、まわりに対して、最初こそショッキングな事件としてセンセーショナルな話題をもたらしたが、時間が経てば風化してしまった。

――どうせあいつら、姉のことなんかどうでもいいんだ――

 とマスターは感じていた。

 マスターにとって、まわりが姉のことを忘れていくのと反対に、自分のところに戻ってきてくれたようで、嬉しかった。そういう意味ではまわりの連中が姉のことを忘れていくのは寂しいという思いよりも、自分に返してくれたという意味で、まわりに対しての薄情な思いはなくなっていた。

 マスターは、心理学の勉強をしながら、大学に残ることを目指していた。

 しょせん、社会に出ても、自分のような人間は適用できないことくらい、自分なりに分かっていたつもりだ。それなら大学院に進んで、このまま心理学の勉強を続け、いずれは助教授から教授へと進んでいく道を模索するのが一番自分らしいと思ったのだ。

 姉の自殺はショッキングだったが、その理由が分からないことで、少し自分の勉強してきたことがまだ未熟だということに気づき、

――もっともっと勉強しなければ――

 と、さらに将来、大学に残るという道が自分の中で定まったかのように思えていた。

 しかし、ちょうどその頃、姉の旦那によからぬ噂が持ち上がっていることをどこからか聞いた。

 姉の一周忌の時だったかも知れない。

「旦那さん、すでにお付き合いしている人がいるらしいわよ」

 通路の奥で、誰も聞いていないと思ってなのか、誰かに聞かれてもかまわないという重いからなのか、声を落とすこともなく、そんな話が聞こえてきた。

 声の主は中年の女性のようだ。そして聞いている相手も同じ中年の女性。そんな噂には敏感な年齢なのかも知れない。

「別に、奥さんが亡くなって一年も経つんだからいいじゃない。子供だってまだ小さいんだから、子供の面倒を見てくれる人なら、それが一番いいことだと思うわよ」

 そう言って微笑んでいた。

 しかし、それを聞いたもう一人は、さらに声を潜めて喋りだした。

「そうじゃないわよ。そんなに生易しい話じゃないのよ。実は旦那さん、奥さんの自殺前から、その女性とお付き合いがあったんですってよ」

 このような際どい話であれば、声を潜めるのも当然というものだ。しかし、それだけに話の信憑性は増したようで、ただの噂かも知れないとしても、信じないわけにはいかなかった。

「何ですって? じゃあ、あの旦那さんは奥さんを裏切り続けていたということ?」

「事情は分からないけど、状況に間違いがなければ、そういわれても仕方がないわね」

「それじゃあ、奥さん、死に損ということじゃない」

「そうなるわね。本当にお気の毒だわ」

 他の人がどう思おうとも、マスターはその話を信じないわけにはいかなかった。

――なるほど、旦那の態度を思い出してみると、分かってくるところもある――

 やたら、言葉は優しかった。自分の仕事が忙しいのは、家族のためと言って姉を安心させておいて、言葉だけの優しさを向けることで、安心させてしまう。

 まさか、子供ができて奥さんが大変な時に、浮気なんかするなど、姉の想像できることではなかった。

 姉の悪いところは、人をすぐに信じるところだった。もちろん、長所でもあるが、姉のようなまわりに溶け込むことのできない人にとっては、悪いところでしかない。

 旦那の言葉は、姉にとっては「神の声」のようなものだったのかも知れない。疑う余地もないほど信じきっていたことだろう。マスターは、最初、そんな姉を不憫に思い、すべては、旦那だけの罪だと思っていた。

 しかし、冷静になって考えてみると、さっきの話を聞いたうえで、姉の自殺した事実を考えてみると、

――まさか、姉は知っていたのかも知れない――

 という思いが浮かんできた。

 確かに育児は大変で、男の自分には想像もできないほどのストレスを抱えることになるのだろうが、自殺するほど追い詰められていたのだろうか?

 他にも要因があって、育児とのジレンマに悩まされていることがあったのだとすれば、旦那の浮気というのは、自殺に追い込まれるには十分な理由だった。

 そういえば、姉の遺書には、自殺の理由に対して何も述べられていなかった。

 弟のマスターに対しては謝罪の文章があったが、夫に大しては確か書かれていなかったように思う。

 警察も少し気にはなったかも知れないが、状況証拠もすべてが自殺を示していて、事件性はない。事件ではないので、おかしいと思っても、自殺の動機にまで踏み込むことはできない。

 マスターは、もし姉の自殺の原因が旦那にあったのだとすれば、旦那を許せないのはもちろんのこと、姉にも恨みごとを言いたかった。

――どうして、相談してくれなかったんだ?

 だが、さらに冷静に考えると、自分に相談されても、どうなるものでもない。もし、その時に相談されていたとして、自分は何と答えたのだろう?

「姉さん、あんな旦那と別れた方がいいよ」

 と言ったに違いない。

 しかし、その後のことを一緒に考えてあげられるのだろうか?

 別れたとしても、子供の父親は旦那である。自分が子供たちの父親になれるわけではない。

 確かに今の時代、離婚は日常茶飯事で起こっていて、似たような思いをしている人は山ほどいるだろう。本当であれば、似たような悩みを持っていて、それを克服下人に話を聞くのが一番いいのかも知れない。

 しかし、それも人それぞれ、環境も違えば性格も違う。一概にその人のやり方が自分に合うとも限らないだろう。

 そして、もっとも大切なことは、今その人がよかったと思っていても、将来考え方がどう変わるか分からない。

「離婚しない方がよかった」

 と思うかも知れないし、自分のことだけではなく、子供のことを考えると、もっと難しい問題になってくる。

――姉さんも、かなりいろいろ悩んだんだろうな――

 姉の性格とマスターは似たところがあり、姉が何を考えていたのか、分かると思える部分もあった。

 最後には、誰のことも考えられなくなって、気が付けば死を選んでいたのかも知れない。死を選んでしまうと、気持ちが揺らぐ前に一気に死んでしまおうと思ったに違いない。だからまわりも、

「まさか、あの人が死を選ぶなんて」

 と思ったことだろう。

 普段から一人でいることの多かった姉だけに、悩みを表に見せたとしても、それがどの程度のものなのか、見当も付かないだろう。

 それにしても、あの旦那も、姉の死について何も感じていないのか、ほとぼりが冷めたと思って、交際を公然のものとしようとしていた。

「まるで確信犯じゃないか」

 旦那としては、自分へのあてつけに自殺をしたと思っているのかも知れない。

――やっぱり、旦那も姉が自分の浮気を知っていたと思っていたのだろうか?

 疑い始めるときりがない。

――こんな時、心理学なんて、しょせん何の役にも立たないんだ――

 と、マスターは感じた。

 それから紆余曲折を経て、今では場末のバーのマスター。寂しさよりも、一人で自由を選んだ自分の選択は、今のところ間違っていないと思っていた。

 マスターにとって、姉が旦那の浮気を知っていたのかどうか分からない。知らない方がよかったといえることもあるだろう。

――どうせ死ぬのなら、嫌なことは知らない方がいい――

 姉が死を選んだことを責める気はない。旦那を姉のことを恨む気もないが、後になって知ってしまった自分のこのやりきれない気持ちをどこにぶつけていいのか分からない。

 家では、姉の話題はタブーになっている。このあたりは昔の人の発想だろうか。

「親より先に死ぬなんて」

「他に何かなかったのかしら? 死を選ぶ前に」

 と、姉が死んだ時、家族は皆口を揃えて、そう言っていた。

 マスターは、敢えて姉が死んだ時、何も言わなかった。心の中はなぜかあっさりしていた。そのためか、まわりの言葉に心の中では反応していて、

――いまさら何を言っても同じさ。死んだ人が帰ってくるわけではない。他に何かなかったかって? あったら自殺なんかしないさ。死ぬしかなかったから死んだんだって、どうして受け止められないのか、口から出てくる言葉は、まるでドラマのセリフと同じじゃないか――

 と言いたかった。

 そんなまわりを見ていると、心理学を勉強していた自分には、その人の言葉の裏が見えてくる。見たくもないのに見えてくるのだ。

――心理学こそ、ありきたりのことしか教えてくれないんじゃないか?

 という思いを抱いた。

 自分の知りたいのは、表面上の人の心ではない。その奥に潜んでいる裏の気持ちである。ひょっとすると、裏の気持ちを教えてくれているのかも知れないが、自分にはどこまでが表で、どこからが裏なのか分からない。

――そもそも、裏と表って、隣り合わせなのか?

 と思えた。

 見えないだけでどこかに境界線があり、そこを超えると裏に突入するというイメージを持っていたが、そんな単純なものではないのかも知れない。

 昼から夜に突入する時は夕方が存在し、夜から昼に突入する時は朝が存在する。ハッキリとした定義がないだけで、裏と表の間には、何かが存在しているのかも知れないと思うようになった。

 それは心理学を勉強するようになってからのことで、心理学の勉強で得たもので一番大きいのは、この裏と表の間に何かが存在しているかも知れないという感情だった。

 マスターは、店の客を見ていると、裏と表を探るくせが出ていることに気が付いて、ハッとすることもあった。

 しかし、最近では裏と表を考えていてもハッとすることはなくなった。おぼろげながら、裏と表の間にあるものが分かりかけてきたからなのかも知れない。

 ただ、それがどんな形をしているものなのか分からない。

「世の中には、形のないものもたくさん存在する」

 という人もいるが、マスターはそうは思わない。

 心理学を専攻している友達と話しになった時、相手が形のないものもあるということを口にすると、

「世の中にあるものにはすべて形があるんだよ」

 とマスターは反論した。

「どういうことだい?」

「だって、この世にあるものは、必ず朽ちて無くなってしまうだろう? それは形がある証拠だよ」

「そんなことはない。人の記憶の中には、消すことのできない記憶だって存在するじゃないか」

 と言うので、

「おいおい、何言ってるんだ。その『人』というのだって、永遠の命があるわけじゃないんだ。いずれは命が尽きてしまう。その時に記憶だって、無くなってしまうじゃないか」

「そっちこそ、本当にそう思うのか? 肉体は無くなっても、魂は残るじゃないか。だから永遠に残っているんじゃないかって俺は思う」

「でも、死んでしまったら、魂は本当にこの世にいるのかい? いわゆる『あの世』に行くんじゃないのか? もし、この世にいたとしても、俺は死んだ瞬間、この世の記憶も消えてしまうと思うんだ。まったく違った存在になってしまうんじゃないかと思うがどうだい?」

「その発想は、確かにそうだ。もし、お前のその理論が正しいと考えると、死んですぐに、今度は生まれてきた人の中に魂が乗り移っていると考えるのは突飛かな?」

「それは俺も同じ意見だ。死んだ同じ瞬間にも人はたくさん生まれているんだ。だから、記憶のない魂が乗り移るとも考えられる。そう思うとデジャブも説明がつくよな。だけど、最初の話題になった『形のないものは存在しない』ということに矛盾しているようにも思えてきた」

「いやいや、矛盾こそが心理学なんじゃないかな? 人間に矛盾がある限り、いろいろ研究ができる。俺はそう思っているよ」

 そんな会話をしている時が、心理学を勉強していて、一番楽しく有意義な時間だと思っていた。それなのに、人間くさい話が飛び込んでくると一気に冷めてしまう。それは嫌だった。

 マスターがバーをしてみようと考えたのは、心理学を勉強し続けて、実際の社会で何の役に立つのかと考えたからだ。

 大学院に進み、大学に残るというのも選択肢としては大いにありえることだが、大学院に残ったところで、論文を書いて生きることを思えば、人の観察をしながら生きる方が、自分には似合っているような気がしてきた。

 姉が死ぬまでは、大学に残って研究を続けることが、まわりに影響されることなくコツコツできるのでいいと思った。

 しかし、姉が死んだそのすぐ後に学部長選挙があったのだが、その時に選挙の舞台裏が見えてしまったことで、大学内では、どこかの派閥に入らないと、生き残っていけないというリアルな部分を見てしまった。それにより、大学に残ることの無意味さを痛感したのだ。

――姉が教えてくれたのかな?

 姉が生きていれば、どんなアドバイスをくれただろうか? きっと、何も言わず、今の自分の選択を黙って見てくれたに違いない。

 マスターは、目の前で事故多発地帯の話をしている二人を見ながら、平静なふりをしていたが、何となく落ち着かない気分になっていた。由梨に対してその思いが強く、逢坂峠を事故の多発地帯として取材させたことが気になっていた。その思いがどこから来るのか分からないが、敢えて由梨が逢坂峠をターゲットしたのには、何か他に含みがあるのではないかと思えたのだ。

 由梨と岡本は、バーでは詳しい話まではしなかった。この街にある二箇所の事故多発地帯があるということと、岡本には逢坂坂について取材をしてもらうように頼んだのだ。

 バーを出た二人は、翌朝由梨が岡本の泊まっているホテルを訪ねるということでその日の話は終わった。あまり詳しいところまで話をしていないのは、由梨としては、下手に大げさな先入観を持たせてしまっては、正直な、いや、公正な目で事故多発地帯を見ることができなくなるからだろうという思いがあったのも事実だが、マスターが危惧したように、実際にはそれだけではなかったのだ……。

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