3


 目を開くと、出迎えたのは白い天井だった。

 先ほどまでいた空間のように無機質さはない。その証拠に、天井は真っ白ではなく、虫食いのような黒い模様が施されている。

 天井から視線をずらすと、点滴スタンドが目に映った。その管は自身の右腕と繋がっている。

 

「病院、か」

 発した声はガサガサに掠れていた。だがそれよりもその声の高さに眉をひそめる。

 寝たままの姿勢で顎を引き、体を見下ろせばいつものスーツは着ておらず、薄っぺらい病衣に、これまた薄っぺらい白いシーツがかけられていた。

 

 頭はまだぼんやりしているが、わかる。これは夢ではない。

 そして、今のは自分の体ではないと。

 私は、ほっそりとした子どもの腕に刺さる点滴の管をじっと見つめた。

 

『申し訳ございません。現在、別の方の体に入られております』

 突如、頭の中に声が聞こえた。あの空間にいた影の声だ。白か黒かは判別できない。

 

 影がかかわっているということは、なるほど――、とここに至った経緯を思い返す。

 生き返るはずだった少女の扉から私は落ちた。つまり私が今入っているのは、あのセーラー服を着ていた少女の体ということなのだろう。

 

『その通りです』影は答える。

『このままその体で修行を続けることもできますが、いかが致しましょう』

 

「いや、私は――」

 生きるつもりはない。

 そのことに気づいたのは、ついさっきだった。

 

 私はいつも流されるがままに生きてきた。

 自分や他人などどうでもいい、ただ流れてきた状況を受け流すだけ。そういう人生を歩んできた。

 あの日もそうだ。

 私はたまたま飲酒運転のタクシーに乗り、たまたま事故に遭っただけ――、違う。そんな偶然、あるわけがない。

 事故は容易に避けられた。酒の匂いに気づいていたのだから、乗らないという選択肢は最初からあったのだ。

 しかし私は開いたドアに導かれるがまま、タクシーの後部座席に腰を下ろした。

 つまり選んだのだ。あえて、死に近いほうを。

 

 私は黒い扉の扉を前にして、初めて自分の生きる目的を知る。

 「死ぬために生きていた」のだと。

 

 だが、「死」が人生の目的であったのなら、それを成し遂げた今、私の中には後悔がまったくない、ということになる。

 それを告げれば影たちに生かされてしまうのではないか。

 

『ええ、その通りです』影が頭の中で声を響かせる。

『あなたは最初から、生者の扉行きでした』

「選択肢はなかったのか」

 脱力する私に、影は続ける。

 

『ですが、体についてはイレギュラーです。この件に関しましては、こちらからまた連絡をいたしますので、今しばらくお待ちください』

 その言葉を最後に、声は聞こえなくなった。

 

 ひとり残された私は、他人の体に入っているという罪悪感や奇妙な感情を押し殺し、ため息に変えた。

 このまま戻らなかったら、と不安がよぎる。

 

 だが、すぐに「どうでもいいか」と力を抜いた。

 誰かに期待をすることは大いに疲れる。「いつか」や「もしも」は来ない。そう思えば、現状が随分と楽になるのだ。

 それに、映像で見た女の子の未来は幸せそうだった。たとえ戻れずとも、難なく人生は過ぎていくだろう。

 私は、重さを感じはじめた瞼にあらがうことなく眠りについた。

 


 しばらくしても、影からの声は聞こえず、寝ていた病室から出る日が来た。

 この子に親はいなかった。聞こえてくる噂話によると、無理心中ののち娘だけ生き残ったそうだ。中学生の娘は引き取り手もなく、私は少女の体に入ったまま施設で暮らすこととなった。



 

 施設での生活は困難だった。

 私自身なかみは成人して十数年たつ大人。それが他の子どもたちと同じ扱いをされるのだ。

 居心地の悪さに、人を避ける他なかった。

 

「人と関わるのはつらいかもしれない。最初は演技でいいのよ。無理して『なろう』としなくていい」

 そう言ったのは、施設の「おばあちゃん先生」と呼ばれている初老の女だった。

 彼女は話す時に、必ず私の手を握りこむ。一般的な中学生より幾分小さな体をしたこの子どもの手は、シミのある大きな手に覆われてすっかり見えなくなった。

 

 老いた手にポツポツと浮かぶシミを数えながら考える。

 確かに会社員だった私も、周りに溶け込むのが苦手だった。自分だけ異物で、周囲から弾き出されているように感じていた。

 

 だが、――そうか。

 溶け込まずとも、演技でいいのだ。鱗がぽろりと落ちそうなほど目が開いていく。

演技フリで生きていいんだ」

 私は周囲に興味がないから近寄らないのではなく、無意識に間違った選択をしそうで周囲を避けていたのかもしれない。間違った選択をすれば、自分が「間違った人間」になるような気がして。だがそれは、自身をあまりにもむき出しに生きすぎた結果だったのか――。

 私は、心がじわじわと波打つような感覚を覚えた。

 

 それからは適当にお姉さんのフリをして、小さい子の世話をするようになった。子どものフリをして、自分より若い「大人」に甘えたり、面倒なときは体調の悪いフリをしてすべてを避けたりもした。

 なんと生きやすいことか。周りから見れば、小狡くあざとい女に見えるかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。これは自分ではない、生きやすいように擬態した姿なのだから。

 

「最近少し楽しそうね」

 おばあちゃん先生が手を優しく握り、にこやかに話しかけてくる。

「おかげさまで」

 ほほ笑むフリで返すと、おばあちゃん先生は、鼻にシワを寄せてしかめ面をした。

「残念だけど、私にはお見通し」

 ふふっと声を漏らしておばちゃん先生が笑うのをぽかんと見つめた。

「私の前では、そのままでいいわよ」

「そのまま……?」言葉の意味がわからず聞き返す。

「そう、その感じよ」

 楽しそうに笑う彼女の顔を直視できず、目を落とす。

 シミもシワも増えたその手の中から、私の指先が少しはみ出していた。


 

 

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