4日目
「海って…………あの青い、あれ?」
「そう。この病院の最寄りの駅…………といっても、駅までバスで二時間、そこからまた電車で四時間。そこに連れてって。それが二つ目の『願い事』」
死神を見ながらそう言うと、そいつは小さく唸り声をあげる。
それに肩を揺らした私を見て、死神はため息をついた。
「駄目?」
「いや、これは叶えることができる『願い事』だ。ちょっと準備に手間取るだけ」
一応死神らしい力は与えられてるから、と手をぐーぱーしながら死神は言う。
けれどしばらくそうした後、そいつは不意に私の車いすをぐいと押した。
「まあ、よい子は早く寝て。君は元気にならないといけないんだから」
「別に海ぐらい今の体でも行けるわよ。…………多分」
「…………早く寝てね」
「わかったわよ。…………でも一つ、聞きたいことがあって」
「ん?」
これ、前の『願い事』にしてくれたら嬉しいんだけど、と前置きをしてから、唾を飲み込む。
夜になるたびに思い出してしまう優しい声は、一体何を思っていたのだろうと、ずっと考えていた。
(あれを聞いてからずっと、考えてる)
「死神になって、魂を百個回収し終えて、『願い事』すら叶えた死神は…………どうなるの?」
微かに、自分の心臓の鼓動が伝わる。
「————『願い事』を叶えた魂は、普通の人と同じように天界に行くだけだよ。ただ、普通の人間は『生』の管轄にいるから死神が回収するけど、僕たちは『死』の管轄にいるから、自分自身で天界へ向かう。ただ、それだけの違い」
強いて言うなら、案内役がいないから、少しだけ『死』の世界をさまようかもしれないね。
その言葉に目を見開くと、静かに病室の外まで車いすをひかれ、そのまま自身の病室へ戻される。
されるがままにベッドに横たわった私を見てふっと唇を緩めると、その死神は「おやすみ」と言葉を落とした。
そしてその日をつつがなく過ごし、翌日、午前五時。
目が冴えた体を無理やり休ませ、外に出る服で用意して待機する。
すると、いつも通り突然死神が姿を現した。
「おはよう」
「…………おはよう」
大分、この奇怪な現象にも慣れてきた気がする。
一人そう考えていると、「今日は悲鳴を上げないんだね」と死神は笑った。
「毎回上げないわよ。貴方が唐突に出てくるから」
「ごめんって。準備はできた?」
ぐいっと手を引っ張られ、私は頷きながら微かによろめきつつもその場に立つ。
…………その場に、立つ?
「私…………なんで。車いすは」
「準備があるって言ったでしょ? その体で海に行くには不便だから、少し魂と体を離させてもらったよ」
自由に動けるだろ? と死神が問う。
私はいつもなら少し立つこともできない体が何不自由なく動くのを確認して、その場でくるくると回った。
「…………動ける。もしかして、歩くことも」
「できるよ。さあ、今度こそ行こうか」
引っ張られる腕のまま動き出す。
後ろを振り向くと寝ている状態の私がいて、それを不思議に思いながら長年過ごしてきた病室を後にした。
「病院の、外だ」
「海に行くんだろ? でも君は、これからもっと遠いところに行くことができるんだよ」
そのままずっと歩いて、駅について、電車に乗って。
これから乗り換えることなく海に一番近い駅に着くんだ、と私が言うと、「じゃあそれまでゆっくりできるね」と返事が返ってきた。
電車の揺れる感覚に身を任せていると、だんだん眠気が襲ってくる。
二日ほどあまり眠れていない代償が今ごろ来たのか、気づけば目を閉じていて。
次に目を覚ました時には、ちょうどどこかのトンネルを抜けたらしいところにいた。
「まだ寝ててもいいよ。着いたら起こすから」
「…………ううん。日記を書く」
「日記?」
「そう」
バッグから私が一冊のノートを取り出すと、死神が目を瞬く。
『一週間ノート』と表紙に書かれたそのノートは、きっちり三日分―—――死神と会ってからの日々が記されていた。
「日記は前から書いてたの?」
「いや。貴方と出会ってから。読んでほしい人がいるの」
「…………へえ」
少しの沈黙の後に、小さな返事が返ってくる。
けれど私がシャーペンをまっさらな紙に走らせると、死神は意外にも喋らなかった。
静かで、けれどどこか心地いい沈黙が訪れ、そして。
「書けた」
「ちょうどいいタイミングだ。―—――着いたよ」
冷房が効いた涼しい車内から降りると、じりじりと照り付ける太陽の日差しを強く感じる。
魂だけなのに暑い、と思わずつぶやくと、声を出して死神が笑った。
「できるだけリアルにしてあるからね。魂と体を完全に切り離すと戻しにくくなるし。海に入っても冷たさは感じるよ」
「でも、朝ご飯食べてないのに、お腹空かない。もう十一時過ぎなのに」
「そこはまあ魂だから」
「魂、緩すぎない?」
そんな風に言い合いながら駅を離れ、少し離れた砂浜へと向かう。
平日、そして昼間の海には人気がなく、ただ私たち二人だけが浜辺の真ん中にいた。
「わ、冷た」
「着替えはあるの?」
「ない。でも濡れちゃえ。貴方もよ」
「僕は遠慮しとくよ」
私がゆっくりと水に足を浸らせると、冷たい水の感触がする。
一歩歩くごとに少しずつ沈んでいく砂にはしゃぐ私を、死神は少し離れたところから見ていた。
「貴方も来なさいよ」
「行ったら水をかけるだろ?」
「別にいいでしょ」
「僕の一張羅を汚されるのは嫌だからね」
「ローブが一張羅なの?」
私がそう言って声を上げて笑うと、死神もどこかいつもと違うような笑みを浮かべる。
しかし途中で何回か誘ってみるも頑なに一張羅という名のローブが濡れるのは嫌なようで、死神はやっぱり離れたところで私をじっと見ていた。
けれど――――不意に、砂浜に丸い跡ができ始める。
「嘘、雨?」
「さっきまで晴れてたけど」
「雨宿りできるところを探そうか」と提案され、それに小さく頷き浜辺から離れる。
最初は小雨だったそれがどんどん大粒になっていくのがわかり、私たちは走り出した。
「と言っても僕、ここの土地勘ないんだけど。雨宿りできる場所、どこか知ってるかい?」
「…………まあ」
着いてきて、と死神に言うと、深くローブを被りなおしたそいつは大人しくついてくる。
そして私が木造の古びた建物に入っていくと、不思議そうな声で死神が言った。
「勝手に入っていいの?」
「ここ、近所の子が時々雨宿りに使う程度で、持ち主はいないらしいの。もともと駄菓子屋かなんかだったらしいけど」
「へえ」
海の水なのか雨なのか、濡れたサンダルを脱ぎ、近くにあったベンチに座る。
ギシ、と僅かに音を立てたそれをじっと見ながら、「ねえ」と目の前に立っている死神に声をかけた。
「貴方、なんで私がここら辺に詳しいかとか気にならないの?」
「…………僕の死神としての仕事は、君の『願い事』を叶えて、魂を回収するだけだから」
「…………そう。じゃあ、私の話に付き合ってくれない?」
どうせこの雨じゃどこにも行けないでしょ、と軽くおどけた様に言ってみるも、いつもは曲線を描いているその口元は、固く結ばれたままで。
それを無視して、私は雨が叩きつけられる窓へ視線を移しながら、小さく口を開いた。
「私、本当はここに一度だけ来たことがあるの」
小さく息を呑んだ音が、正面から聞こえた気がした。
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