第12話 第12章
梨乃は、いつの夢だったか、無性に自殺を試みたい気分になっていた。
その時は、
――私は夢を見ているんだわ――
と、最初から夢を見ているという自覚があった。自覚があったからこそ、自殺という意識を否定しなかったのかも知れない。もし、現実世界で考えていることなら、恐ろしくて、すぐに忘れようとするに違いない。
――なぜ、恐ろしいと思うかって?
それは、自殺のことを考え続けていたら、そのまま行動に移してしまうかも知れないという意識があるからだ。
もちろん、衝動的な行動以外には考えられないが、現実世界であるから、衝動的な行動に移しやすいのだ。夢の中では衝動的な行動などありえないと思っている。何しろ、潜在意識が見せるものだという前提条件が、梨乃の中にある夢という感覚には備わっているからだ。
その時の夢は、意識の中に「副作用」という気持ちがあった。
薬を飲むのは、病気を治すことを目的としている。
副作用というのは、薬の本来の持つ目的と反対のことを引き起こそうとするから副作用なのである。つまりは、病気を治す反対ということは、病気になる。あるいは、命を捨てるという意識を持つということである。
タミフルなどという薬が、衝動的に死にたくなることがあるというが、それを聞いた時、それこそ副作用の本質が一番現れた現象ではないかと思うのだった。
副作用が、薬の本来とは正反対の作用をもたらすということを考えると、梨乃が、今までにも死にたいなどと考えたことがあるのも、頷ける気がする。
今までは、死にたいという意識があっても、どこから来るものなのか、まったく想像もつかなかったので、死にたいなどと考えたことに対して、梨乃は自分が恐ろしく感じられるようになっていた。
梨乃は、自殺をしようとする人は、人からの伝染によるものだという意識を持っていたことがあるが、その発想ともまったく違った発想である。
だが、むしろ副作用という考え方の方が、理に適った考え方ではないかと思うようになった。
ただ、人から伝染するのであれば、そこには病原菌のようなものがあって、それが悪さをしているという考え方で、副作用というのは、病原菌をやっつけようとして薬を飲んだ後に襲ってくる正反対の作用。つまり、まったく関係ないように見えるが、薬という媒体を介することで、繋がっているようにも思える。
梨乃は、副作用に対して考えるようになった自分の頭の中が、堂々巡りを繰り返すことの多かった自分が、少し堂々巡りから抜けることができるのではないかと思うようになったのだ。
梨乃は、今までに見てきた幻影や、怖い思い、そして、怖い夢の類には。この副作用というものが、多少なりとも影響しているように思う。
風邪を引いて熱を出すということは、身体に入った菌に対して、身体が抵抗していることで起こる身体の症状である。熱が出たからと言って、それが悪いことだとは一概には言えないのだ。
幻影や、怖い夢なども、副作用に対して、梨乃の中の精神が、抵抗を示しているのかも知れないと思うようになっていた。
元々、怖がりで、不安に思うことが多く、一度不安に感じると、どんどん深みに嵌ってしまう梨乃にとって、意識しなければいけなかったのは、副作用だったのかも知れないが、そのことに気付かずにいたために、不安が募り始めると、どこまでも堕ちていくような底なしの不安が広がっていることを、やっと理解することができた。
これも副作用という言葉を思いついたからである。一つのことが分かってくると、そこからいろいろな発想が生まれ、頭の中で繋がっていくのだった。
――半分、死を試みようと思うから、死ぬことはないんだ――
まったく死というものを意識していなければ、いつ死にたいと思うかも知れないという思いがあることで、衝動的に死んでしまうかも知れない。それが副作用だとするならば、梨乃は、
――半分だけ、死を試みる――
という思いを絶えず持っていることにした。
一見、矛盾したような考え方だが、死を試みようという思いを持っていることで、本当に死ぬことがないと思うのは、日ごろから死を意識しないようにしていることが、不安や恐怖から来ているという当たり前のことを最初から意識しているからだと思っている。
意識していないと思っていることほど、実は頭の中で恒久的に意識している場合が多いのではないかと思う。恒久的に意識することで感覚がマヒして、意識していないと自分で思い込むことが、恐怖や不安に打ち勝つことではないかと、認識しているのだろう。
まるでその意識は本能のようなものではないかと思う。
持って生まれた性格的なものに近いとすれば、それは論理立てて考えているものではないだろう。
論理立てて考えようとするならば、必ず意識はするはずだ。だからこそ、梨乃は絶えず自分の意識の中に、
――半分だけ――
という感覚を持っていた。
知らない人に言えば、
「それは、逃げ道を作っているようなものだね」
という答えが返ってくるかも知れない。
だが、梨乃はそれでもいいと思っている。むしろ、逃げ道だと思っている方が、自分で安心できるからだ。
人によっては、
「逃げ道を作って生きる人生なんて」
という人もいるかも知れない。
ドラマや小説では、いつもラストでは、逃げ道を作っている人が犯罪者だったりする。梨乃は、その思いを理不尽に思っていた。
梨乃が、小説をラストから読むのは、確かに最初は自分の性格からのもので、あまりいい性格ではないと思っていたが、逃げ道を悪いことだとすることに対しての、自分の中での抵抗から生まれた行動もあったのだろう。
そのことにすぐに気付いたわけではない。特に子供の頃にはそんな意識があったわけではない。
――いや、却って子供の時の方が、露骨に考えていたのかも知れないわ――
逃げ道という明確な考えを持っていたわけではなく、自分の中にあるものが、他の人から見れば、悪いことに見えるということを、分かっていたのかも知れない。
ただ、その中で、
――半分――
という意識だけはあった。それがどのように自分に影響してくるのか分からなかったが、いずれは分かるものだという思いを持ったまま、中学を卒業した。
そのまま高校に入学したつもりだったのに、そこに自分の中で世代の違いを感じるようになるなど、その頃に分かるはずもない。まだその頃は予知という意識を持つ前だったような気がするからだ。
梨乃が、蔵人に小説のラストを話したのも、今から思えば、蔵人の中にも逃げ道という考えが見えたからだった。
蔵人は、それを必死に隠そうとしていた。隠そうと思えば思うほど、人から見れば分かるもので、他の人なら、
――一体、何を隠そうとしているのだろう?
という思いに駆られているのだろうが、同じように逃げ道ということが、無意識にでも頭のなかにある梨乃にとっては、蔵人の気持ちが分かるようになっていたのだ。
きっと、蔵人も、梨乃のように小説をラストから読むことで、自分の中に逃げ道という意識があったことに気付いたのかも知れない。
ただ、それがいつのことだったのか分からないが、少なくとも高校時代まではそんなことはなかっただろう。
梨乃がクラスメイトを車に押し込める時に一緒にいた男に蔵人を感じた時、蔵人にとって逃げ道という意識があったなら、蔵人がいたことなど、梨乃には分からなかったと感じている。
クラスメイトを連れ込もうとした現場を見たのは、今では妄想だったような気がする。クラスメイトに対して、あまりいいイメージを持っていなかった梨乃が勝手に描いた妄想、梨乃はよく、自分の気に喰わない相手に、そんな妄想を抱くことがある。それは人間に対してだけではなく、会社に対してもそうだ。
鉄道会社に対しての気に喰わないイメージが、踏切だったり、自殺者だったりに集中する。自分が自殺を考えるのは、鉄道会社への腹いせに近いものがあるのも事実だ。
鉄道会社への憤りは、そもそも事故に対しての対応のマズさから来ている。そして事故のほとんどが、自殺ではないか。自殺する人が、まさか鉄道会社に恨みを持っていたというわけではないのだろうが、梨乃の中では微妙に絡み合って、交わるはずのない平行線が交わってみたり、一本の太いパイプに、いくつもの蔦が絡み合ってみたりしている状況が見えている。時には、
――ジャックと豆の木――
の話のように、一本の大きな蔦が、まるでアサガオの蔦のように巻き付いて生えているのを感じるくらいだ。
アサガオの蔦には、どこか悲しさを感じていた。
何かにしがみつかないと、生きることができない様子が見て取れて、密着するように絡みついてしまっているのに、絡みつかれた相手は暖かさを持っていない。それでもしがみついている姿は、どんなに前を向いて急いでいても、その場所から動くことのできない様子を表しているようだ。
――そう、まるでハツカネズミが、飼われている籠の中にある丸く回る玩具の中で、永遠に走っている姿を見ているようだわ――
と感じた。
子供の頃に、ペットショップでその姿を見て、そのまますぐに立ち去ることができなかったのを覚えている。
――一時間は、ずっと見ていたのかも知れないわ――
あっという間だったような気がしているのに、時間が相当経っていたという記憶の原点は、ひょっとすると、この時だったのかも知れないと思うくらいだった。
その時、理不尽というイメージを最初に感じたのかも知れない。
――一生懸命に何かをしても、決して報われることがないことだってあるんだわ――
まだ、小学校低学年、そんなことを考えられる年齢ではなかったはずなのに、自分でも不思議だった。その時に梨乃は、
――大人と子供の違いって何なのかしら?
と感じたような気がする。
しかし、感じただけで、すぐに忘れてしまった。その頃は、感じたことをすぐに忘れてしまう頃だったのだろう。
――物心がついていない――
と思ったとしても、本当は意識の中に一瞬だけでもあったのかも知れない。梨乃はそのことを今感じているのであって、感じることで、物心がついていなかった時期であっても思い出すことができるのではないかと思うのだった。
物忘れが激しいというのは、年を取ってからのことだと思っていたが、どうやらそうではないようだ。物忘れというよりも、覚えていたいと思っていることを忘れてしまうという意味で、子供の頃が物心がついていないわけではなく、本当は洗練された頭脳を持っていて、覚えていないことで、物心がついていないと思っているだけなのかも知れない。
まだ生まれ落ちる前の母親の胎内にいる時の記憶など、あるわけはないと思っているが、これも本当は見たという意識はあっても、すぐに忘れてしまうことで、記憶にないだけなのかも知れない。そう思うと、思い込みというのがどれほど記憶に影響を与えるかということを感じないわけにはいかない。
――子供だから、意識がなくて当然だ――
という思い込み、それが意識を思い出させることを邪魔しているのだ。
たとえば、文明ということに対してもそうではないだろうか。
今を生きている人間が一番文明の最先端であって、過去の人たちは、その礎を築いただけだという考え方。誰にでもあるのではないだろうか。
過去の遺跡が発掘されて、
「数千年前の文明は、今よりの発達していたかも知れない」
などという発表を聞いても、どこまで信憑性を感じることができるのだろう。
「宇宙人が介入していた」
などという説が生まれてくるのは、それだけ人類だけでは、過去に今の自分たちよりも発達した文明があるはずはないという思い込みがあるからではないだろうか。
思い込みが半分、そして、思い出したくないという思いが半分。それが、子供の頃の記憶を意識させない理由になっているのかも知れないと、梨乃は感じていた。
特に最近、子供の頃のことを思い出すことが多い。
ただ、それは現実世界で思い出すことではなく、夢に見るから意識するのだ。
――夢の中では時系列が曖昧なのかも知れない――
と思うようになったのは、それからだった。
卒業しているのに、まだ学校に通っている夢などを見ると、目が覚めてからしばらくそのことを考えてしまって、すぐに起き上がることができなくなってしまう。それも梨乃が自分の中にある意識が、記憶を呼び起こそうとしていることを感じている証拠なのではないだろうか。
梨乃は、蔵人とベッドを共にしてから、蔵人の様子が変わってきたのを感じた。
彼が急によそよそしく感じているのではないかと思うようになっていた。その理由についていろいろ考えてみたが、今、ある結論に到達しようとしていた。俄かに信じていいものかどうか分からなかったが、ここまでいろいろ感じてくると、考えが一つくらい増えてもあまり関係のないほど、感覚がマヒしているのではないかと思うのだった。
――あの人は、本当に私の知っている蔵人さんなのかしら?
という思いは、蔵人の名前を一番最初に聞いて感じたことだった。
だが、途中から次第に、彼のことを知っている相手だと信じて疑わなくなったことが、思い込みであるという意識はまったくなかったのだ。
彼は逆に、最初に梨乃を知っている相手だと認識してから、次第にその思いが薄れて行ったのではないだろうか。梨乃が加算法であれば、蔵人は減算法である。
途中のどこかで交わるところがあり、それを頂点として、二人が一つになった。しかし、線の向きが違うのだから、交わったのなら、後は離れて行く一方である。蔵人は、そのことを自分の中で理解したのかも知れない。
梨乃は逆に彼への加算が続いていたために、今度は感覚がマヒしてしまう。思い込みが、感覚のマヒに繋がったのだ。
今、梨乃は蔵人の考えていることが手に取るように分かってくると、今度は、自分の考えがウソだったのではないかと思うようになっていた。
今まで知っている相手だと思っていたのが信じられない。
確かに子供の頃に小説のラストを語った相手がいたが、それが彼だという証拠はない。名前だけが記憶の中にあっただけで、それも思い込みだったのかも知れない。
ただ、彼とのことは、無意味だったとは思わない。もし、彼が自分の知っている相手でなかったとしても、彼から今回受けた影響は少なからずのものがあったはずだ。
梨乃にとって、蔵人は、自分の中にあった逃げ道という考え方を表に出させるために貢献してくれたのは間違いないことだった。
貢献という言葉はあまりにも他人行儀だが、蔵人の中にはそれくらいのものしかないのかも知れない。
ただ、それであれば、悲しすぎるような気がする。
蔵人も、梨乃と一緒にいて、梨乃の中から何かを感じ取り、それが自分の忘れていた、あるいは意識していないと思っていたことを意識させるに至る何かを感じてくれているとすれば、梨乃は彼にとっても、自分と知り合えたことはまったくの無意味ではなかったことの証明ではないだろうか。
逃げ道という言葉を悪く解釈してしまうと、果てしないような気がする。しかし、逃げ道を、
――不安からの脱出――
と考えれば、それほど悪いことではないだろう。
逃げ道という言葉も思い込みであって、伏線だと思えば、何も悪いイメージはないはずだ。
不安を感じれば、こちらも果てしない。同じ果てしないのであれば、片方を悪くない方に解釈すると、それが伏線として効いてくることだろう。副作用に対しても、同じように逃げ道があれば、そこから対応できる方法もあるかも知れない、蔵人はそのことを梨乃から教わったのではないかと、梨乃自身は感じていた。
蔵人は、紹介者を通して、別れを告げてきた。
「本当なら、直接言えばいいのにね」
と、紹介者からは言われたが、梨乃には何となく蔵人の気持ちも分かったので、何も言い返せなかった。苦笑いを浮かべてはいたが、愛想笑いとまではいかない。蔵人はきっと自分の抱いていた梨乃のイメージとあまりにも違ったことで、
「別れるなら、早い方がいい」
と感じたに違いない。
別れを先延ばしにすると、別れづらくなるというわけではない。物事にちょうどいいタイミングがあるのだろうが、彼は今がちょうどいい時期、早すぎはするが、潮時だと感じたに違いない。
梨乃は、自分が今、まだ副作用の中にいるのを分かっている。蔵人が別れを申し出てきたのも、その副作用の影響ではないかと思っている。
――彼にも副作用があるのかしら?
もし、蔵人にも副作用があるのだとすれば、彼が持って生まれた性格の中に副作用を生むものが備わっていたということなのか、それとも、梨乃が身体を重ねたことで、彼に伝染してしまったものなのかのどちらなのだろう?
彼が、小学生の頃の知っている蔵人だとすれば、持って生まれた性格というよりも、梨乃から伝染したのではないかと思える。
しかし、知らない男だったとすれば、元から彼に備わっていたものを、梨乃は感じたのだと思ったのだ。
今では、今回彼に初めて出会ったのだという思いが強い、それは彼が別れを告げてきたことでも分かるのだが、今梨乃が思っているのと同じことを感じているのだろう。
――お互いに反発し合うところが、彼にはある――
と感じた。
子供の頃、知っている蔵人は、他の人に対しては分からないが、梨乃に対してだけは従順だった。まるで、梨乃の身体の一部であるかのような違和感のなさがあり、そばにいることを何ら疑問に感じさせなかった。
その時、少年は何を考えていたのだろう?
きっと何も考えていなかったように思う。それは梨乃の副作用が伝染したかのようだった。
ただ、彼には梨乃の中にあった溝をスッポリと埋めてくれる大きな塊のようなものを持っていた。まわりから見て歪に見える関係も、溝がスッポリと埋まってしまうことで、感覚がマヒしてしまい、お互いに快感を貪っていたのだろう。
二人とも、理性が快感を打ち消してしまった。梨乃の中では記憶だけが残っていて、彼に対しての感情はもとより、顔すら思い出せないほどだった。それは、蔵人も同じだったかも知れない。一緒にいる時も違和感がなかったが、離れる時も一切違和感がなかった。そばにいたはずの人がいなくなれば、多少なりとも寂しさが募るものだが、彼に対してだけは、寂しさはまったくなかった。
――それ自体が、副作用だったのかも知れない――
今回、目の前に現れた蔵人がその時の少年だったかどうか、今でもハッキリとはしない。彼ももし、同じことを感じていたとしても、梨乃のことを思い出すことはできないだろう。
――忘れることが副作用?
梨乃は、今ハッキリと副作用の一つを感じたような気がした。
それは、自分の中で、自分のことを忘れるわけではなく、自分に関わった人を忘れてしまうという副作用である。
――今まで、そばに誰かがいたような気がする――
と、ふと感じることがあったが、それがまさか副作用によるものだったというのは、まったく考えたこともなかった。
そもそも副作用という考え方は、漠然としているものだ。
「何でもかんでも副作用という言葉で片づければいいというものではない」
と、誰かの声が聞こえてきそうだが、それが、もう一人の自分であることは、分かっている。もう一人の自分は夢の中だけにしか存在しえない。
――ということは、副作用の根源は、夢の中にあるのかも知れない――
というのは、乱暴な考え方だろうか。
副作用を起させるのは薬である。夢を見るのに見えない薬が存在しているとすれば、夢を覚えている時と覚えていない時があるのも、薬や副作用の効果によるものなのかも知れない。夢の世界自体が、現実世界から見れば漠然としているからである。
梨乃が自殺を試みようとしたことがあるように、蔵人にもあったのかも知れない。
蔵人と身体を重ねている時、目を瞑ると見えてきたのは、蔵人が今までに自分の目で見てきた光景だった。その中に見えていたのは、高いビルから下を眺めている目だった。
視線は小刻みに震えていた。あれだけ高いところから見るのだから、高所恐怖症の人でなくとも、震えは来るだろう。梨乃は高所恐怖症なので、とても見ていられなかったが、瞬きを許さないその視線は、目の前に蜘蛛の巣のような無数の赤く細い線が、放射状に張り巡らされているのを感じた。
見たのは、梨乃が彼に抱かれていた時だったはずなのに、なぜか、その後になって、まるで今見ているかのように、またしても、目の前に広がっていた。
今回の方が、蔵人の腕の中にいる時よりも、クッキリと見えている気がする。
――彼の腕の中にいる時は、身体の感覚がマヒしていたので、漠然としてしか感じなかったのかも知れないわ――
と思ったのだ。
今、実際に見えている光景で、目の前の無数に見える赤い線は、彼の腕に抱かれている時に感じることはなかった。その分、リアルに感じたのだ。
――そこまで彼のことを分かっているのに――
「あまり相手を分かりすぎていると、却ってうまく行かないということもあるのかも知れない」
という話を聞いたことがあるが、梨乃はそのことを今さらながらに感じているように思えてならなかった。
お互いが分かりすぎるくらいに分かっているなら、それだけ相手のことを好きにならない限りはうまく行かないだろう。
逆にお互いに性格が合わなかったり、進む道が違っていて、それなのに、相手のことが好きで好きでたまらない付き合いをしている人がいるとしよう。
梨乃は、きっとその二人は、相思相愛のまま結婚し、幸せな結婚生活をずっと続けていけると思うだろう。
だが、それは今までの梨乃だったら言えることなのかも知れない。
相思相愛でうまくいくのは、結婚をゴールと考えるからだ。
もし、結婚をスタートとして考えたらどうだろう?
確かに最初はうまくいくかも知れない。お互いに気を遣いながら、暮らしていくからである。しかし。お互いに平行線であればあるほど、いつかはぶつかることになるだろう。その時に、必ず二人は、二者選択を迫られることになる。
一つは、自分の意志を貫いて、別れることになるか、あるいは、相手に嫌われたくないという意識の元、自分の性格に蓋をして、我慢してしまうか、さらには、自分を曲げてしまうかのどちらかになるだろう。
後者の場合、その時はよくとも、それがトラウマになりかねない。ストレスが溜まってしまい、正常な精神状態ではいられなくなると、たとえば、不倫をしたとしても、それでも、
――離婚するよりもマシじゃないか――
という考えを持つようなことになるかも知れない。精神のバランスが崩れてしまうのではないだろうか。
――そんな状態になってしまって、二人のことを夫婦と呼ぶことが果たしてできるのだろうか?
結婚しているわけではない梨乃ではあるが、そこまで考えてしまうと、相思相愛が果たしていいものなのかどうか疑いたくなっていた。
それなら、性格や考え方が同じ方が、はるかにマシに思えてきた。
――相思相愛というのは、結婚するまでの過程であり、果たして結婚相手としてふさわしいかどうか疑問だわ――
と思えてきた。
「恋愛相手と、結婚相手では違う。本当に相手を思いやることができるかどうかで決まる」
と言っていた人もいたが、相手を思いやるということも、どこまで必要なのかということが大切なのだろう。
――じゃあ、どうして、私たちはダメなのかしら?
梨乃は、結婚相手として蔵人を評価するのは、まだ早すぎると思っていた。それなのに、蔵人の方ではさっさと見切りをつけたかのように、梨乃から離れていった。
確かに、第一印象で、相手との相性を見抜く力のある人はいる。蔵人がそうであれば、いいのだが、そうでないのであれば、別れを切り出した理由が見当たらない。
お見合いであれば、女性の方から断ることがあっても、男性からはあまりないというのは古い考えであろうか?
梨乃は、今、自分の考えが古い考えすぎるのではないかと思うようになっていた。何を持って古いというのかは、すぐには言えないが、考えすぎること自体、ずれがあるのではないかと思うのだった。
それから、しばらくして、梨乃の頭の中から、蔵人の過去が消えてしまった。
それは小学生時代の蔵人の記憶も、この間出会った蔵人の記憶も一緒にである。梨乃の中に、蔵人という男性は、記憶の中からも消えてしまったのだ……。
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