第11話 第11章
梨乃は、占い師に出会う前の日のことを思い出していた。その日は、朝からイライラしていたような気がした。何にイライラしていたのかというと、会社に遅刻してしまったことを苛立っていたのだ。
梨乃が悪いわけではない。その日、遅刻したのは梨乃だけではなかった。数人が遅刻する羽目になったのだが、その原因は、鉄道事故だったのだ。
「本日は、未明に○○駅、××駅区間の間で発生いたしました人身事故の影響によりまして、ダイヤに乱れが発生しております。列車到着がしばらく遅れる見込みとなります。お客様には多大なご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません」
という、毎度おなじみのアナウンスが流れ、誰もが溜息に包まれていた。
梨乃も、
――宙で覚えられるくらい何度も聞かされたセリフだわ――
と思いながら、
「どうして、しばらくとだけしか言えないのかしらね」
と言っている他の乗客の気持ちを理解できた。
「あいつらは、自分たちが悪いなんて思っちゃいないのさ。思っていれば、もっと感情の籠ったアナウンスができるさ」
確かに、抑揚のない棒読みのアナウンスには、毎度毎度ウンザリさせられた。パニックにならないのは、何度も同じことを繰り返していて、乗客もほとんどが諦め気分だからであろう。
逆に何度も同じことを繰り返しているのであれば、どれくらいの遅れになるかくらい分かりそうなものだ。梨乃が苛立ちを覚えるのは、そこだった。
それともう一つ、今までに詰め寄った客に対して、駅員の対応に、
「人身事故ですからね。しょうがないですよ」
と、まるで他人事である。
さすがに詰め寄った客もその場で切れた。さらに、今まで黙っていた他の客も苛立ちを覚え、
「しょうがないとはどういうことだ。お前たち、自分たちに罪はないとでも思ってるんじゃないだろうな」
というと、
「人身事故ですから、気を付けても、飛び込んでこられると、どうしようもないですよ」
という応対だった。
さらに他の客も怒りをあらわにする。
「お前たちは、他の鉄道会社ではこんなことがなくて、自分たちのところばかりがいつも事故ってることに、疑問も何も感じないのか?」
まさにその通りである。梨乃も声を大にして言いたいのは、そのことだった。
――問題意識がないなら、善処できるわけないじゃないか――
言い寄られた駅員は、最後には
「善処します」
この言葉で締めくくったからだ。他の人たちがその言葉を信じたようには思えないが、その場の騒動はそれで一旦落ち着いた。潮時だと思ったのか、それよりも、何を言っても無駄だと思ったのか、どちらにしても、駅員に対しての不満は、誰もが爆発していたのだ。
梨乃は、自分が言い寄ったわけではないので、却ってストレスになってしまった。他の人のいうことは、ほとんど梨乃が思っていることだったが、本当に言ってほしいことを言ってくれたのかどうか、梨乃にも分かっていない。それだけに鬱積したものが梨乃の中に残ったことで、
――忘れてしまった方がいいのかも知れない――
と、無意識に梨乃の中で考えていたのだろう。
だから、事故の発生した日の次の日に占い師に会っているというのに、占い師に会った時から思い返して事故が発生したことを発想できなかったのではないだろうか。なるべく怒りを感じないようにしようと思うと、どうしても、頭の中をリセットしなければいけなくなるからである。
今までに梨乃が使っている鉄道会社では、他の鉄道会社に比べて事故発生率はかなり高い。他の鉄道会社では、数年に一度あるかないかなのに、この鉄道会社は、数か月に何度かあるのだ。
それも、一度続くと連鎖反応を起こすのか、二、三日続くこともある。それでも、
「人身事故だから、仕方がない」
と、駅員に言われてしまったら、乗客はどうすればいいというのだろう。
中には、遅れて本当に困る人もいるだろう。
新幹線や、飛行機に乗り換える人もいるだろうし、仕事の商談に遅れてしまう人もいる。言い訳の利かない状況にいる人もいるだろう。そういう人に対して、鉄道会社は責任を負うことは一切ない。
「それで仕方がないもないものだ」
と言いたくなる気持ちも分からなくはない。文句は一つや二つではないはずだ。
人身事故というのは、そのほとんどが自殺だと言われる。
自殺が連鎖反応を起こすというのは、何となく分かる気がする。
「自殺する人って、誰であってもおかしくないんだよね。前の日に、楽しそうにしていて自殺などする雰囲気などまったくない人が、自殺することだってあるんだ。自殺は伝染するという話を聞いたことがあるけど、何か菌のようなものが繁殖して蔓延してしまうのかも知れないね」
という話を聞いたことがあった。梨乃は、半信半疑だったが、今では信じられる方が気持ちは強い。それでも、梨乃には「半分」という意識が強い。全部でなければ、梨乃には「半分」なのだ。
鉄道会社に対しての怒りは、それだけにとどまらない。
特急電車を優先させることも苛立ちの一つだった。
「あいつらは、列車が二時間遅れると、払い戻ししないといけないから、特急列車を優先するのさ」
普通電車では、いつ誰がどの電車に乗ったかを特定できないので、二時間遅れたという証明にはならないが、特急列車、しかも指定席を持っている人に対しては、間違いなく払い戻しが発生する。鉄道会社からすれば、特急列車を優先させるのは当然であろう。
しかし、時間帯によっては、普通列車の方が、利用客は断然多い。多数を切り捨てても、損のないようにしようという考え方に、腹が立つのだ。
鉄道会社への怒りをここまですっかり忘れてしまっているということは、それだけ怒りが強かったという証拠なのか、それとも、今までにも何度もあった怒りなので、諦めに近いものがあったからなのか、そのどちらも梨乃の中にはあったように思う。
怒りが強ければ強いほど、梨乃の中での性格は、
――熱しやすく冷めやすい――
ものとなる。
それは後者の、
――諦めに近い感覚――
というものが、後になって襲ってくるからであって、諦めを感じる前に、一旦頭を沸騰させてしまえば、最終的に怒りを収める時に、ちょうどいい塩梅になることを、梨乃は本能的に知っていたのかも知れない。
占い師への意識は確かにあったはずなのだが、あの時の感覚が本当に夢だったのかどうか、今では分からない。あれほど占い師と正対し、真剣に話を聞いたつもりだったのだが、それを夢だったと思うのは、あまりにも生々しさが残る気がする。
梨乃は、もう一度占い師がいたはずの場所までやってきた。今度は静かすぎる空間を感じるだけだった。
――ここに来ることは、もう二度とないような気がするわ――
と、感じた。
それは、前に一度自分から訪れたからだと思った。もし、この間、この場所にやってこようと思わなければ、ここに来ることはなかっただろう。
梨乃が、この場所を訪れたのは、占い師と出会ったと思った次の日から数えて、二週間ほど経っていただろうか?
「これって潜伏期間なのよ」
「えっ? 何の潜伏期間?」
「それはいずれ嫌でも知ることになるんでしょうけど、今も少し考えれば、思い浮かぶはずよ」
そう言って、口元を怪しく歪ませて話をしているのは、夢の中での、主人公である梨乃だった。
――また、変な夢を見ているんだわ。最近は、ただでさえ、夢と現実が交錯しているような気がしているのに、どうしたのかしら?
と、夢と現実の狭間で、今にも目を覚まそうとしている梨乃に、夢の中の自分が語り掛けている。
――夢から覚めさせない気かしら?
しばらく付き合ってみようと思い、少し夢にとどまってみる気になった。
目が覚めようとしているという意識は、今までに何度か感じたことがあるが、覚めようとしている状態に逆らってみたことなどなかった。そんなことはありえないことだという思いを、逆らって初めて感じたが、感じることもないほど、夢から覚める時が、ひょっとすると、一番素直な自分が出ているのかも知れない。
梨乃は、鉄道会社への怒りを思い出した時、一緒に感じたのは、自殺した人に対しての憤りだった。どんな理由があるにせよ、列車の遅延に結びつけたそもそもの原因は、自殺者がいたからだった。
いつもであれば、鉄道会社への怒りと一緒に、自殺者に対しての怒りも同時に感じるはずなのだが、今回は、なぜか鉄道会社への怒りだけで、自殺者に対して、何も感じることがなかった。それなのに、後になって、まるで時間差のように沸々と自殺者に対しての怒りがこみ上げてきたのだった。
いつもの怒りとは少し違う。
――どうして、こんな時に自殺なんかしたのよ?
と、感じていた。
自殺したことに対してよりも、時期に対しての憤りを感じるのだ。別に他の時であればよかったというわけではない。梨乃にとって今回のように、自殺という行為そのものに対してではない怒りがこみ上げてきたことなど初めてのことで、自分が一番驚いていたのだった。
占い師の顔を思い出そうとしても思い出せない。ただ、あの時、梨乃は確かに自分が占いに興味があり、占いに関わることが将来起こると言われて、少し喜びがあったことを思い出していた。
――別に占いに対して造詣が深いわけでもなく、ましてや、占いに関わるようなことに対して喜びの感情など浮かんでくるなど、ないはずだわ――
と感じていた。
むしろ占いは、梨乃にとってあまりいい思い出はない。子供の頃に占ってもらって、素直に信じてしまったことで、素直さゆえに、余計なことをしてしまったことがあったのを思い出してしまった。
蔵人に悪戯してしまったのも、その思いがあったのかも知れない。
「あなたは、素直な女の子なので、そのまま自分の思った通りのことをしなさい」
と言われたような気がしていた。
自分の性癖と素直さは紙一重だ。蹂躙することが自分にとって素直な行動だったのか分からないが、蔵人に対しての蹂躙も、梨乃にとって、精神的な「事故」のようなものだったのかも知れない。
一過性のものだと思っていたが、蔵人にとっては、一生消えないトラウマとして残っていて、一緒にいなくても、絶えず梨乃を意識することで、
――いずれ出会うまで、梨乃の気持ちから離れないようにするんだ――
という気持ちを強く持っていたのだろう。
――彼の中には、私にはない、特殊な能力が備わっているのかも知れない――
そう思うと、
――自分にも何か特殊な能力が備わっているとするなら、それは私だけのものだと思うのは、自分の思い上がりであって、他の人には、他の人なりの特殊能力を、誰もが持っているのかも知れない――
という考えに至っても不思議ではない。
特殊能力は、個性という形で普段は、表に出ることもなければ、本人はもとより、誰にもその存在を信じている人はいないであろう。もし信じている人がいるとすれば、それは占い師などの、特別な人たちだけではないかと思うのだ。
占い師は、その人を見ると、その人にどのような特殊能力が備わっているのか分かるという特殊能力を備えている。その上で、あまり相手を刺激しないようにうまく引き出させるのが仕事なのではないだろうか。特殊能力がどれほどの力を発揮できるかまでは占い師にも分からない。それだけにデリケートな側面を持っているだけに、説明の仕方も、微妙なのであろう。
梨乃は性格的に、素直ではあるが、素直というよりも、一直線で融通が利かないところもたくさんある。一度、苛立ちを覚えると、なかなか元には戻らないもので、苛立ちに至った経緯の数倍引き戻すには力が必要だった。下手をすると、一気に怒りの頂点まで行き、切れた状態にならなければ、リセットされることはないということも、今までには少なくなかった。
――私って、不器用な性格なんだわ――
と、いつも感じていた。
――しかし、どうなるものでもない。性格とはそういうものではないだろうか?
と自分に言い聞かせていたが、言い聞かせる性格も元々が一直線なもの。向こうも一直線、こちらも一直線。お互いにどちらかから歩み寄らない限り、決して交わることのない平行線を描いてしまうであろう。
鉄道会社への憤りなど、その最たるものだと言えるのではないだろうか。
いい加減、他の人であれば、諦めをつけていることだろう。
――妥協も一つの解決方法なのかも知れないけど、私にはできないわ――
それは自分が自分に屈服するような気がするからだ。要するに、
――自分にウソはつけない――
というのが、梨乃の中にある性格以前の大前提だったからだ。
自分にウソをついてしまっては、何が真実なのか分からなくなる。
真実が分からないと、自分がどっちに進んでいいのか分からない。真実があってこそ、意識することなく、前を進むことができると思っているからである。
――自分にとっての真実は、意識することもなく、前を向いていけるもの――
として絶対的なものでなければいけない。
その真実を曲げるような出来事が目の前に現れたのであれば、梨乃はその真実を守るために、自分を表に出して、抵抗するに違いない。今までにそこまで大層なことがあったのかどうなのかまで自分でも分からない。
ただ、夢の中では、いつもそのことを確認しているのではないかと思うことがあった。
――だから、覚えていない夢が存在するんだわ――
と梨乃は考えていた。
忘れたくない夢もあれば、忘れてしまいたい夢もある。その根本には、
――梨乃にとっての真実――
というものが確実に存在し、見えていないつもりでも、目の前にいつもあるのだ。
それは路傍の石のようである。
普段から目の前にあるにも関わらず、存在感すら意識することはない。
――灯台下暗し――
という言葉があるが、その言葉の本当の意味は、自分にとっての真実を見ることだと梨乃は勝手に思いこんでいた。
憤りに関しては、鉄道会社だけに限らず、まわりの人たちでも、モラルのない人間に対しては大きく向けられた。
たとえば、路上での喫煙など、怒りがこみ上げてくることがあった。そのほとんどの人が「ポイ捨て」であることは明らかで、それが当たり前のようになっていることに憤慨していた。
――どうして、誰も何も言わないのかしら?
梨乃自身も憤慨はするが、実際に文句を言うことはさほどないので、人のことは言えないが、それだけに、我がもの顔で、咥えタバコを吸っている連中に対して、苛立ちを覚えなければいけない自分に腹も立つのだった。
「他の喫煙者は、ちゃんとルールを守って喫煙しているのに、不心得者がいることで、ルールを守っている人まで白い目で見られるのが理不尽だ」
と、話をしていた喫煙者がいたが、まさにその通り、それぞれの人の立場から見ても、一部の不心得者に対しての憤りのエネルギーは相当なものである。梨乃は、そのエネルギーを他の人よりも分かっているような気がしているのだが、それが、自分の中での特殊能力に影響しているのではないかと思うことがあった。
誰もが持っているかも知れない特殊能力。自分の能力すら分かっていないのに、他の人のことが分かるはずなどない。
「人のことはよく分かるのに、自分のことはなかなか分からないものだよ」
という話も聞いたことがあるが、梨乃にはそれが当て嵌まらないような気がしていた。
ほとんどの人は、確かに自分のことよりもまわりのことの方がよく分かっているのかも知れない。だからこそ、特殊能力というのが他の人にはないと思っているので、
「まさか自分に特殊能力などあるはずはない」
と思っているに違いない。
梨乃のように、まわりのことよりも、自分のことをよく分かって当然だと思っているからこそ、どこかで自分の特殊能力に気付くのだ。
自分の特殊能力に気付けば、まわりの人も持っているのではないかという発想になるのも無理もないことで、
――自分が分かれば、まわりも分かる――
という発想に行きつくのだった。
自分の特殊能力に気付くためには、大きなエネルギーを必要とする。梨乃は、そのエネルギーを、理不尽な憤りの中から得ることができた。
怪我の功名というべきか、自分では、
――ただでは起きない性格――
だと思っているが、それもエネルギーを感じているからなのかも知れない。
ただの偶然も、エネルギーを持つことによって、その人にとって大きな力となり、偶然だと思わせることでも、大事な発見に結びつくことがあるというものだ。
梨乃の中では、不安も大きなエネルギーの一つだった。
不安に感じるということは、まわりが見えていないことが原因で不安に思うのだ。
まわりとは、目の前のことから、自分の身体を中心にグルリと廻ったものになるのであろうが、それだけではない。過去から続いている現在、そしてこれから続いていくであろう未来に対しての不安があるのだ。
まず、現在を不安に感じるのは、
――今まで信じてきたことの延長が現在であるならば、その線は本当に自分にとって間違っていない線だと言えるのだろうか?
そうやって考えてみると、五里霧中に入り込んでしまう。可能性は無限にあると思っていることの中で、進んできた自分の今を否定してしまうことになりかねないからだ。
不安というのは、誰にでも、いつでも付きまとっているものだと思いと、少し気が楽になる。ただ、その境地に行きつくまでに、いろいろ考えたりするのだ。そのほとんどは堂々巡りを繰り返し、結論など出るはずもない。簡単に結論が出るくらいなら、不安による悩みなど、誰も持つことはないからだ。
堂々巡りを繰り返している時、それを抜けるためにエネルギーがいる。そのエネルギーが憤りのエネルギーだというのも、皮肉な気がしている梨乃だった。
交通事故や、踏切の警笛や遮断機がいつも頭の中にあるのも、憤りから生まれるエネルギーが意識の中で形となって残っているからなのだろう。
梨乃は自分の中の記憶の中で、交通事故も踏切も、いつも同じイメージだということを信じていなかった。時と場合によって、それぞれのシチュエーションは変化する。柔軟性があるというべきなのか、エネルギーという形のあるものではないものなので、変化しても、それは当然のことだとして理解できることなのか分からない。ただ、一つ言えることは、その二つが紛れもなく梨乃のエネルギーとなって、不安という袋小路を抜けさせることのできるものだということだった。
梨乃が中学時代を思い出す時、一世代前を思い出したように感じるのは、そのワンクッションに、エネルギーが存在しているからなのかも知れない。
――子供の頃の記憶は、中学時代の自分に戻ってからでないと、思い出すことができないような気がする――
梨乃は、そう思っていた。
中学時代の自分に戻るということは、記憶の中にある意識を表に出すことだが、それは夢の中でないとできないことだと思っていた。
――同じエネルギーでも、夢の中と現実世界の中と、二種類あるのかも知れないわ――
と思うようになったのは、自分の人生に、世代という節目が存在していることに気付いてからだった。
現実世界でのエネルギーは、堂々巡りを抜けるためであったり、不安の中に蓄積するものであったりするのだが、夢の中でのエネルギーは、
――過去に戻る――
という力を借りるためのものだった。
現実世界では、不安が付きまとっている限り、前の世代を思い出そうとすると、どうしてもオブラートに包んでしまって、実際の真実の記憶なのかどうか、信憑性に欠けると思っている。それを補ってくれるのが夢の世界であり、ただ、目が覚めるにしたがって、忘れたくない記憶として頭の中に残っているのが、過去の記憶であることは、このことでも証明できるのではないだろうか。
梨乃にとって、夢のエネルギーを、
――本当のエネルギー――
だと思うような感覚がある。それは、現実世界でのエネルギーが無意識で展開されていることを分かっているからだ。エネルギーの存在をなかなか見極めることができなかったのは、無意識な力が働いていたからであろう。
夢の中で力を発揮するエネルギーは、それだけ夢を神秘的なもの、そして潜在意識を感じさせるものとして存在しているのかも知れない。夢から覚める時に、どうしても記憶の中に残らないのは、世界が違っているからで、そこにエネルギーが存在しているということを思うと、余計にその理屈を理解できるような気がするのだ。
――夢にはオブラートなんて存在しないんだ――
一番夢がオブラートに包まれていると思っていた感覚が、まったく正反対になった気がするのだった。
オブラートに包まれている夢を想像した時、オブラートに包まれた粉薬を思い出していた。
子供の頃に嫌いだった粉薬も、オブラートに包めば何とか飲めた。飴のようなお菓子もオブラートに包まれているとおいしく感じたもので、それを思い出すと、またしても、子供の頃の記憶がよみがえってきたのだ。
今もそうなのだが、今よりも子供の頃の方が、薬を飲むと、すぐに睡魔が襲ってくる。今でこそ、
「薬を飲むと眠くなる」
という話を聞いているので、眠くなるのも当然だと思っていたが、子供の頃はそんな話は知らない。
今は、どちらかというと、話を聞いたせいで、眠くなっているような気がする。それだけ暗示にかかりやすいのだ。
だが、子供の頃はそんなことは知らないので、本当に薬が効いていたのかも知れない。
子供の頃は、気が付けば眠くなっていたという感じだったが、大人になってからというもの、
――眠ってはいけない――
という意識があるせいか、何とか睡魔と闘っていると、指先に痺れを感じて来て、そのまま起きていることが不可能になるのを感じている。
暗示にかかりやすいという意識は子供の頃からあった。
だが、大人になってからの方がその意識が強いのは、占いに対して意識があるからなのかも知れない。
占い師に出会う前の日、鉄道事故があったあの日も、梨乃は体調を崩していて、頭痛薬を飲んでいた。
「頭痛薬は、眠くなる成分はあまり入っていない」
と、聞いていたが、どうしても薬を飲むと、胃薬や整腸剤以外は、眠くなるように思えてならなかった。
それでも、手足に痺れを感じている状態で薬を飲んだのだから、睡魔が感じられても仕方がないだろう。
事故に対しての苛立ちと、薬による睡魔とで、梨乃の頭の中は正常ではなかったのかも知れない。その日一日は、まるで夢を見ているかのようだった。
会社に出社すると、溜まっていると思っていた仕事は、すでにさばかれていた。誰も梨乃の仕事をさばいてくれるはずもないし、梨乃以外の誰かが、梨乃が出社する前にこなしてしまわなければ間に合わないほど、切羽詰ったような仕事でもない。
――いつの間にか、自分でやっていたんだわ――
そういえば、今朝は夢の中で仕事をしていたような気がする。前の日に捗った意識がまだ梨乃の中に残っていて、それを夢に見させたのかも知れない。
薬を飲んだ時は、自分の意識の中にないことを、いつの間にかこなしていることが多かった。
――要するに、こなしたことを忘れているだけなんだわ――
そう思うと、別に大したことではない。
やったつもりで、実はまったく手をつけていなかったなどというと洒落にならないが、ちゃんとこなしているのだから、問題にすることもない。
むしろ、無意識のうちにでも、やらなければいけないことは、きちんとこなしている自分を、梨乃は誇らしげに思うくらいであった。
――まるで自己催眠のようだ――
薬を飲んだから、前の日のことを忘れてしまっているのか。薬を飲まなくても、すでに体調が悪い時点で、忘れてしまっているのか、考えたこともなかった。だが、今回は、
――薬を飲んだから、忘れてしまったんだわ――
と感じていた。
忘れてしまうことで、そこに空いた穴の中に、新しい記憶を埋め込むことができるのではないかという考えが梨乃にあったのだ。
物忘れが激しいと感じることがよくあるが、考えてみれば、薬を飲んだ時の前後によく感じていたと思う。薬を飲まなければいけないほど、意識が朦朧としている時か、薬を飲んだために意識が朦朧としてしまった時かのどちらかであろう。その両方ということはまずない。ただ、どちらかというと、薬を飲んだ時の方が多かったように思えてならなかった。
そういえば、最近、薬を飲むことが多くなっていた。
「あまり、薬を飲むのは身体によくないわよ」
と、人から言われる。
「どうしてなの?」
「どうしてって、あんまり飲むと、副作用に襲われるわよ」
確かに副作用の話はよく聞くが、それも以前の薬の話で、最近の薬には、そこまで副作用に対して神経質になる必要もないのではないだろうか。
「そうなの? 気を付けないといけないわね」
と、まるで初めて聞いたような素振りを見せた。その方が、相手にとっては、
――教えてあげた――
という満足感に浸らせることができるからだ。別に義理立てる必要もないが、せっかく話しかけてくれる相手をむした必要以上に怒らせるような刺激を与えることもないだろう。
副作用という言葉は、今までに何度も聞いたことがある。ただ、副作用というよりも、ダイエットでのリバウンドのようなイメージが梨乃の中にはあった。
――我慢しようと思えばできること――
リバウンドに対してそういうイメージを持っているので、副作用のように、薬から影響を受けるものとして、意識ではどうにもならないことを、イメージしているわけではなかったのだ。
薬を飲んで、今までに気分が悪くなったことはあった。注射を打った時にもあったことが、それが副作用だという認識はなかった。
――どうして、こんな気分が悪くなったりするんだろう?
と、単純に思っていたが、それからしばらくして体調を崩し、病院に行った時のことである。問診票を書かされたが、その中に、
「薬で気分が悪くなったことはありますか?」
と書かれていた。
さっそく受付で、
「これはどういうことですか?」
「稀に、薬を飲んで気持ち悪くなったり、注射を打って気持ち悪くなる人がいるようなんで、それをお聞きしているんですよ」
「私だけではなかったんですね?」
「ええ、薬には合う人と合わない人がいますからね。それに副作用というものもありますので、そのあたりをお聞きしているんですよ」
と言われた。
それまであまり意識したことのなかった副作用。あまりひどいと、後遺症になったりもするというので、
「副作用というのは怖いものなんですね?」
「ええ、そうですね。だから、私たちも患者さん一人一人の身体を違うものだということを当たり前のこととして再認識していかなければいけないと思っているんですよ」
と話してくれた。
睡魔に襲われるのも、一種の副作用のものだということを、再度考えながら、占い師に出会う前の日は、ゆっくりと眠りに就いたのだった……。
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