第6話 第6章

 次の日の目覚めは結構早かった。午前五時には目を覚まし、それから二度寝をしようという気分にはなれなかった。まだ夢心地の中、しばらくベッドの中から天井を見つめていたが、本を読んでいる時のように、天井が迫ってくる感覚はなかった。

 ただ、まだ夢見心地で、完全に目が覚めているという感覚ではない。身体に痺れのようなものがあり、まるで金縛りに遭っているかのような錯覚を覚える。目が覚めていっているという意識があるのは、身体の状態が痺れから、ダルさに変わってきたからだった。

 痺れの場合は身体を動かそうとしても動かすことができないが、ダルさの場合は、動かそうとさえ思えば動かすことができる。それでも動かせないのは、動かそうという意識が働かないということであり、ある意味、精神的なものなので、却って厄介なものなのかも知れない。

 痺れは次第に収まってくるが、精神的なものは、いつ身体を動かそうと思うのか分からない。分かっているのであれば、ダルさを感じていたとしても、身体を動かそうと思うことはできるはずだ。それを感じないということは、最初から動かす意思が働いていないということである。

 その時は、身体が動かなかったのは、動かそうという意思がなかったからではなく、すでに身体を動かしているという意識があったからだ。動かしている意識があるにも関わらず、身体が動いてくれない。これも一種の金縛りのようなものではないだろうか。

 カッと見開いた目は、部屋全体を見渡していた。普段に比べて、部屋が小さく感じられる。しかし、その割りには、天井までが高い。部屋が縦長になった気分であった。

――以前にも同じような気分になったことがあった――

 あれは、この部屋のことではなかった。ベッドに寝ているのに、眠れない状態だった。ベッドは簡易ベッドで、まわりを白いカーテンで仕切られている。そこが病院の処置室であることは目が覚めてすぐに分かった。なぜなら、左腕がまくられていて、肘窩の部分、つまり、肘の反対側の窪み部分に違和感があり、二の腕が冷たくなっているのを感じた。

――点滴を打たれているんだわ――

 輸液入れの半分くらいまで液が入っている。刺してすぐなのだろうか? それとも、何本も打っていて、その何本目かの付け替えが終わってすぐなのだろうが。意識が朦朧としていることから、貧血でも起こしていたに違いない。

 すぐに看護師さんがやってきて。

「お目覚めになりましたね。もう大丈夫ですよ。どうやら、極度の緊張があったようで、学校で急に意識を失ってなかなか起きないということでしたので、救急車を呼ばれたとのことでした。今までにもこんなこと多かったんですか?」

「いえ、初めてです。貧血を起こすことも今までにはなかったからですね」

 この記憶は中学の頃の記憶である。ちょうど踏切のところでクラスメイトの女の子が車に乗せられたのを見てから、彼女がまだ学校を休んでいる頃だった。担任の先生も少し神経過敏になっているようで、何度も病院に電話を掛けてきていたということだった。

「どれくらい気を失っていたんですか?」

「四時間くらいは失っていたと思いますよ。顔色が悪かったので、かなりひどい貧血だったようですね」

 四時間というと、かなりの時間である。学校生活の半分の時間ではないか。

 その間、梨乃の頭の中で時間は完全に飛んでいた。普通四時間寝ていれば、時間的な感覚は違っても、

――時間が過ぎ去った――

 という感覚は残っているはずである。

 夢を見ていようが見ていまいが、眠りに就く前は、間違いなく

――過去――

 であった。

 しかし、気を失っていた時は違った。四時間と聞いてビックリしたのは、頭の中で時間が経過したという記憶がないのだ。

 それは時間が止まったという意識でもない。

――気を失った瞬間にすぐに目を覚ました――

 という感覚である。

 つまり、梨乃にとって、四時間はまったくなかったことになるのだ。

 時間がもったいないという感覚ではない。過ぎてしまった時間はどうすることもできないからだ。だが、そうは思っても、その時間に何かあったとしても、それをまったく知らずに通り越してしまったことが口惜しい。いいことであれ、悪いことであれ、梨乃にとっての四時間は、どこに行ってしまったというのだろう?

 その日の目覚めは、貧血を起こした時とは違い、時間が過ぎ去った感覚は残っていた。眠っていた時間も自分の意識と、さほど変わっていない。しかし、目覚めは明らかにおかしい。いつものように、目が覚めるまでには少し時間が掛かっていることは普段と変わらないが、夢を見たという記憶もないのに、その部屋が自分の部屋だということを分かっているにも関わらず、違和感があった。

――何かが違う――

 そう感じた時、縦長の部屋を感じ、まわりがカーテンに包まれた病院の処置室を思い出したことを自覚した。

 普段は、ここまで目覚めの時だと感じることができるほど、意識がしっかりしていない。意識がしっかりしているというわりに身体を動かすことは相変わらずできない。

――ダルさに変わってきているのだから、気の持ちようでは身体を動かすことはできるはずなのに――

 と思ったのだが、どうしても力が入らないのだった。

――やはり、金縛りに遭っているのかしら?

 痺れは感じない。動かそうと思えば、手足は動きそうだ。だが、動かそうとした瞬間、外部からの力が働いて、動かすことができないのだ。

――誰かに押さえられている?

 と感じた時、相手が一人ではないのを感じた。しかも、その力強さは女性ではない男性のものだ。

 ぼやけたシルエットの中で一人の顔が浮かんできた。その男は、知っている顔だった。クラスメイトの女の子を車の中に招き入れた助手席に乗っていた男の子ではないか。その締まりのない顔には、理性などとっくに飛び去ってしまっていて、欲望のみで行動している様子が伺えた。

――私にそこまで人の感情が分かるほどの眼力があったなんて――

 と感じたが、それは本当は知りたくない、見たくないと思っている人間の汚い部分だった。

――目を見てはいけない――

 と思ったが、もう遅かった。目が合ってしまうと相手はさらに増長し、すでに人間ではなくなり、獲物を目の前にした肉食動物そのものだった。

――ダメだわ。もうこのままされるがままになっている方が、ケガをしないで済む――

 梨乃は、すぐに諦めの境地に陥った。

 一旦諦めてしまうと、気は楽になる。いかに自分の気持ちを一番傷つかないように持っていくかということを考えればいいのだ。ここでは何の理屈も通用しない、すべてが、

――きれいごと――

 として一括りにされるのだ。

――私が黙っていれば、誰にも分からないことなんだ――

 梨乃は、隠し事は得意ではない。自分の感情を隠し通せるほどの自信はなかった。

――私は正直者なのよ――

 ということを自分に言い聞かせて、人に対して隠し事ができないことが、人の信頼を得られる一番のことだと思っていた。

 少なくとも、その時まで。

――これって本当に夢なのよね――

 まわりの男たちから蹂躙されている。しかも、一人は見覚えのある男である。

 その男がクラスメイトを車に連れ込んだ。その次の日から彼女は数日間休んで、戻ってきた時には完全に別人のように無口になっていた。

 梨乃は、ショックだった。一番ショックだったのは、クラスメイトが車に乗せられるのを見てしまったことだ。

――あの時、どうして止めることができなかったのかしら?

 自責の念に駆られる。

 しかし、自責というのは、彼女に対して自分が助けてあげられなかったことに対して、自分が苦しんでいることに対しての自責の念である。その証拠が貧血を起こして病院に運ばれたことに繋がっているのだろう。

――もし、他の人なら、自分と同じような立場になったら、どんな感情を抱くのかしら?

 梨乃は、自分と人とを知らず知らずに比べていた。今までの梨乃であれば、そんなことをするはずはない。人と比べることなど、しても意味がないと思っていたからだ。

 だが、今回、無意識に人と比べていることに気付いた梨乃は、今までにも無意識に人と比べていた自分がいたことに気が付いた。自分のまわりに覆いかぶさってくる男たちから受ける恥辱にまみれた空間で、梨乃は次第に自分の感覚がマヒしていく。それは理性であり本能であり、そんなものはすべて蹂躙されてしまえば、一切無力なのだということを思い知らされた。蹂躙されるということがどういうことなのか、梨乃はこの時思い知ったのだ。

 クラスメイトの女の子を思い出していた。彼女は大声で泣き叫んだのだろうか? 声も出なかったのかも知れない。本当の恐怖は、その人から声を奪うと聞いたことがあるが、まさしくそんな状況だったのだろう。

 彼女の中にあった理性や本能がどのようなものだったのか分からないが、今の梨乃には分かるような気がする。いや、蹂躙されている気持ちになって感覚がマヒしている時であるなら、何でも分かるのではないかと思うのだ。それが予知能力であったり、人の考えていることであったりする。

 あの時、皆最初は彼女のことを可愛そうだと思っていたのだろうが、途中から離れていった。それは彼女の中にあった特殊能力が潜在的に引き出されたことで、恐怖を感じたのだろう。

 彼女は今さら自分が一人になることを怖いとは思っていないはずだ。一度は感覚がマヒしてしまって、何事もどうでもいいとまで思った気持ちを元に戻すことなどできっこないからである。

 もし、戻せるとするならば、たった一人だけである。今の梨乃にはそれが分かっている。そう、それは変わってしまう前の自分だけなのだ。元に戻すことができる最低条件は、自分が相手であり、しかも、それをできる自分は、元の自分でしかない。ということは、時間を戻す以外にできることではない。しかも、戻してしまった同じ時間に、二人の自分が存在することなど許されることではない。そこまで考えてくると、どうあがいても、元に戻ることはできない。

――戻ったように見えたとしても、それは限りなく前の自分に近い自分というだけで、元に戻ったわけではない――

 と、梨乃は感じた。

 こうやって考えていると、あの時の彼女の気持ちに限りなく近づいているような気がしている。

 しかし、それは錯覚だった。

 近づいていると言っても、近づけば近づくほど、距離の壁は厚いのだ。

――今でちょうど半分――

 彼女の世界に近づこうとしても、元の自分の世界までと、彼女の行きついた世界までの距離とがちょうど同じだ。どちらに行くかは、目の前に広がった分岐点に委ねる必要がある。

 梨乃は、今の不思議な感覚、寝ているのか起きているのか中途半端な感覚にいる自分が、あの時のクラスメイトの彼女との距離に、ちょうど「半分」を感じることで、今の自分の感覚も、目覚めと夢の世界のちょうど半分にいるのではないかと思うようになった。

 時間が過ぎ去った感覚もないのに、時間だけが過ぎていたというのも、夢の世界と現実のちょうど中間に位置していることで感じたことではないかと思うようになっていた。

 予知能力のような特殊能力も、この目覚めと夢の間の狭間に埋もれていることで分かるのではないだろうか。

 普段なら何も意識することもなく通りすぎて行く時間なのかも知れない。本当は普段夢から覚めてくる間に通り過ぎているはずの場所を、なぜ意識できるのか、それはきっと過去に置き忘れた思いを、取り戻そうとする意志が生まれたからなのかも知れない。

 占い師が言っていた言葉を思い出していた。

「占いに関わることになる」

 占いとはどういうことなのか。梨乃にはよく分からないが、今ここで夢と目覚めの中間を彷徨う時間を自由にできたとすれば、梨乃にとって自分の運命を大きく変える出来事のターニングポイントが今まさにこの時だと言えるだろう。

 人は人生の中にいくつものターニングポイントを持っているというが、今の梨乃は、そのターニングポイントは単独でも存在しうるが、実は一つの線で結ぶことができるもののように思えてならない。延長線上に存在しているもので、トラウマのようなショッキングなことも、その背中合わせとして繋がっているのではないかと思うのだった。クラスメイトの彼女も、トラウマを持ったことによって得た、いや、自分の中から引き出した特殊能力が、本人の意志如何に関わらず、表に出てきたのであろう。それは孤独との引き換えであるが、孤独を悪いことだと思わなければ、それでいい。梨乃は今自分が同じ心境に入り込み、孤独について考えている。

「人と同じでは嫌だ」

 と言っていた自分ではあるが、孤独は嫌だった。矛盾した考えだと思っていたが、それは誰でもが思っていることであり、自分だけではないことに、梨乃は安心感さえ抱いていた。

――だから、孤独は嫌だと思っていたんだわ――

 だが、今は孤独でもいいと思っている。

――自分のことを信じられるのは、自分だけなのよ――

 という思いは頑なな気持ちによるもので、暖かい気持ちに触れれば雪解けになると思っていた。しかし、頑なな気持ちを下手に雪解けすれば、雪崩となって襲い掛かるかも知れないとも思う。それは梨乃にとって、

――頑なな自分を正当化する――

 というだけのものではないように思えたのだ。

 梨乃は、あの時見た交通事故で事故に遭った人がどうなったかを知らない。今までに大きな事故を目撃したことはあったが、被害者を直接見たことはなかった。

 また、クラスメイトの女の子に対しても、蹂躙されたのかも知れないとは思っても、あくまで想像だけで、実際と想像とはまったく違うものではないだろうか。

 それは梨乃も分かっているつもりである。すべてが想像の中だけのことで、それは自分が見えない何かに守られているという感覚を無意識であっても感じていたことなのかも知れない。

――占いに携わるとすれば、見えない何かに守られているという感覚も必要なのかも知れないわ――

 と梨乃は感じていた。

 梨乃は、そう感じながら、その日、眠りに就いた。

 朝起きて、梨乃は一人の男と知り合うことになるという夢を見た。それは今までに感じたことのある正夢に近かった。正夢は予知能力と違って、根拠らしいものはない。ただ、そういう予感を感じたことに、胸躍らせている自分がいることで、それを正夢だと感じるだけだった。

 その男性は、人からの紹介だった。その人は会社での先輩女性社員で、その人に対してそういえば以前、

「誰かいい人がいたら、紹介してくださいね」

 と言ったことがあったのを思い出した。

「いいわよ、今は格好の人がいないんだけど、適当に見繕ってみるわ」

 と言っていた。

 彼女は、会社でも後輩の面倒見のいいことで有名だったので、梨乃も安心して頼むことができたのだが、しばらくの間、そのことについて何も話題に上がらなかったので、

――きっと忘れているんだわ――

 と感じた。

 いい人がいないというわけではないと思ったのは、

――彼女のことだから、他の人にも同じようにいい人がいたら紹介しているのだろう。私に回ってくるまでには相当時間が掛かるのかも知れないわ――

 と、最初は思ったものだったが、さすがに半年も経ってしまうと、忘れられていると思う方が自然だった。

 だが、不思議なもので、梨乃が忘れられていると思ってから、梨乃の方で、話を持って行ったことを忘れてしまった。忘れてしまってから、少しして、

「紹介したい人がいるんだけど」

 と、言って先輩社員が梨乃に耳打ちした。

――わざわざ耳打ちなどしなくてもいいのに――

 と思ったが、その時に何か変だということに気が付くべきだったのかも知れない。

 だが、梨乃自身が忘れていたことに対しての、相手に対しての済まない気分が、変だという気持ちにさせなかった。自分が頼んでおきながら、相手はしっかりと覚えてくれていたのである。

――やはり先輩は面倒見がいいんだわ――

 と感じた。

「ごめんなさいね。なかなかいい人が見つからなくて」

 その表情は、申し訳なさそうな顔ではあったが、それ以上に暗さが感じられた。

「いえ、いいんですよ。それより覚えてくれていて嬉しいです」

 これは本心だった。

 先輩の気持ちを素直に受け入れた梨乃は、相手がどんな人なのかを想像してみた。

――気に入らない人だったら、断ればいいんだわ――

 確かに紹介してくれるというのはありがたい。しばらく男性と付き合ったことのなかった梨乃にとって、誰か男性を紹介してもらえるというだけで、嬉しいものだったからである。

「さっそく、今日連絡が取れるんだけど、いかがかしら?」

「えっ、今日ですか?」

 さすがにビックリした。ただ、そのビックリはすぐに紹介してもらえるということへの嬉しさもあった。胸のときめきを感じ、自分が女として男性と付き合いたいという本音を持っていたことを今さらながらに思い出すことができたからだ。

「何か今日用事でもあるの?」

「いえ、大丈夫です」

 毅然とした梨乃の態度に一瞬、彼女は戸惑ったような表情を見せた。その時点で、梨乃はすでに相手に会う気持ちを固めていたのだし、そうなると先輩に対して全幅の信頼を置くことを考えた。一種の開き直りのようなものである。

「じゃあ、仕事が終わってから」

 ホッとした表情になった先輩は、踵を返して、その場から立ち去った。どうやら、相手に連絡を入れていたようだ。

 梨乃は今まで、紹介された男性と付き合うのは初めてだった。

 紹介されてみたいという気持ちは以前からあったが、学生時代に聞いた話の中で、

「紹介で付き合うと、別れた時に、紹介してくれた相手と気まずくなることになるから、それが嫌なところよね」

 というのがあったのを思い出した。確かにその通りである。

――特に会社の先輩社員なので、そこが気になるところだわ――

 と思ったが、彼女自身、今までに何人もの相手を紹介しているらしいことで、別れたとしても、そこは仕方がないということで割り切ることもできそうな気がしていた。割り切れないと、なかなか紹介というのもできないはずだからである。

 待ち合わせ場所は、会社の近くの喫茶店だった。相手の男性はスーツにネクタイ。パリッとしていて、いかにも営業社員の雰囲気が漂っていた。

「彼は、私の姉の勤めている会社で営業をされているのよ。姉から、いい人がいたらってこの間言われて、それであなたを思い出したのよね」

 お姉さんからの話であれば、妹として聞いても不思議ではない。しかし、先輩社員は今年二十八歳だということだが、それより上の姉というと、三十歳近くであろうか。男性の雰囲気も三十歳前後っぽいので、ちょうど向こうの会社でも話しやすかったのだろう。それぞれの立場で利害が一致したというところなのかも知れない。だが、実際に年齢を聞いてみると、偶然なのだろうか、梨乃と同い年であった。急に彼に対して親近感が湧いてきた気がした。

 紹介を受けた男性は、あまり自分から口を開こうとはせず、付き添い同士が話をしていることが多かった。お互いに姉妹なので、会話が弾むのは当然かも知れないが、忘れられても困る。最初に気が付いたのは、先輩社員だった。

「そろそろ二人にしてあげませんか?」

 と、誰にいうこともなく口にすると、お姉さんも、

「そうね。その通りね」

 と、納得して、

「それじゃあ、後はお二人でいろいろお話することもあるでしょうから」

 といって、紹介者二人は席を立った。

 取り残された感覚が強かったのは、相手の男性の方だった。何を話していいのか分からない様子だったが、次第にグラスに口を付ける回数が増えていくと、少し彼もほろ酔い気分になったようだ。

 ほろ酔い気分になると、徐々に彼から話しかけてくれる。仕事のことや、趣味のこと、差し障りのないところで聞いてくる。

 梨乃の趣味と言えば、読書くらいだが、さすがに小説をラストを先に読んでしまうなどと言えるわけもなく、

「好きなジャンルはミステリーですね」

 と答えた。

「ミステリーは僕も結構好きで読んだりしますよ。トリックを重視した話などを読む時は、ついついラストを先に読んでしまうくせがあるくらいですね」

 梨乃は思わず驚いた。ラストを先に読んでしまうなど、自分だけだと思っていたからである。それでも少し興奮しかかっているのを抑えるように聞いていると、

「今までにまわりから何度も、お前の読み方は、ミステリーの読み方ではないと結構言われたりしましたけど、でも、それも個性ですよね」

 と、照れ笑いを浮かべた。

 梨乃は、本当はここで自分も同じようなくせがあるということを言おうかどうか迷ってしまったが、迷ってしまった分、言えなくなってしまった。自分から言うのであればタイミングさえ見計らえばいつでもいいのだろうが、先に相手に言われてしまうと、自分も同じだということを言うには、すぐに言わないといけないものだと、梨乃は考えていたのだ。

 それにしても、同じような趣味を持った人で、さらにくせまで似ているというのは、親近感が湧いてもくるのだが、どこか身構えてしまうところがあり、すぐに自分も同意できないところがあった。

 元々梨乃は、人に同調するところがある性格ではない。もっと社交的で人と合わせることができる性格であれば、今までの男性との付き合いも変わったかも知れない。

 彼の表情が、次第に崩れていく。打ち解けてくれているのだと思うと嬉しくなってきたが、打ち解けてくれていると思うと、少し違って感じられた。

 彼の表情には、絶えず戸惑いがあった。照れ臭さにも見えるが、梨乃には戸惑いに見える。一緒にいるだけで、優越感に浸れる相手ではないかと思ってくると、少し彼が頼りない気がした。

 だが、頼りないと思ってしまうと、今度は、彼を頼もしく思える自分がいるのに気付く。梨乃は自分の中にもう一人、自分がいると思っているが、一人の人を相手に、複数のイメージを抱くことはなかった。なぜなら一人の自分が表に出ている時、決してもう一人が表に出てくることはない。出てくるということは、タブーなのだと思っていた。

 その表情を見ていると、

――おや? 以前にも同じような表情を見たことがある――

 と思うと、自分の中にある、サディスティックな部分が顔を出した。それはずっと昔に封印したはずの気持ちだった。

 封印した原因を作った元々は自分であるが、ちょうど、その時にマゾの相手がいたことを、恨めしく思ったことを思い出していた。

 自分のことを棚に上げてそんなことを考えるのだから、まだまだ子供だった頃、そう、あれは、少年と呼ばれた男の子に対しての気持ちだった。

 そう思って見ていると、目の前にいる男性の面影に、その時の少年が思い浮かんだ。顔が浮かんできて、重なり合うのを感じた。それはまるでサスペンス劇場で見た、指紋照合などのスライド写真映像が思い出された。

――今、サスペンス劇場の映像を思い出すというのも、皮肉なものだわね――

 と、思っていると、こちらの思いを察したのか、目の前の男性が、ニヤリと笑みを浮かべたのを感じた。それは笑顔というよりも、含み笑いであり、不気味さを感じると同時に、やはり彼があの時の少年ではないかという意識がさらに強くなってきたのだった。

 少年が、子供の頃に梨乃に対して含み笑いを浮かべたことはなかった。絶えず彼は梨乃よりも下にいて、梨乃を見上げていたのだ。今の目の前にいる男性は、梨乃を見下ろしているようにさえ思う。完全に立場が違っているのだ。

 そのせいか、逆に立場が違っているにも関わらず、遠い記憶である少年を思い出したのだから、彼が少年だということを余計に感じさせるに十分な状況を今、作り上げているように思えてならなかった。

「君は、僕から逃れられないんだよ」

 と、まるで梨乃はヘビに睨まれたカエルのごとくであった。

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