第3話 第3章

 家に帰りつくと、そのまま布団に倒れこんだ。

「ご飯は?」

 という母の言葉に、

「いい、食べてきたから」

 と、それだけ言うのがやっとだった。とにかくベッドまで辿り着くと、そのままなだれ込むように襲ってくる睡魔を払いのけることもせず、甘んじて受け止めた。気が付けば服も着替えずに眠り込んでいたのだ。

 気が付いた時は、深夜の二時半になっていた。

「嫌だわ。着替えずに寝ていたのね」

 目が覚めると、すぐにシャワーを浴びた。いつもに比べて、寝起きはスッキリしていた。徐々に目が覚めるというよりも、すでに目は覚めていた。

――夢、見たのかしら?

 ハッキリ言って、自分でも分からない。

 普段であれば夢を見た時というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものなのだが、その時はまったく分からなかった。気が付けば完全に目が覚めているのだ。夢を忘れていったのか、最初から見ていなかったのかの判断は、つくはずはなかった。

 だが、常々梨乃が考えている夢に対しての考え方は、

――夢とは常に見ているものである――

 というものだった。

 目が覚める時の状況で、夢を覚えていて、次第に忘れていく時、そして、本当は見ているのに、一気に忘れてしまう環境に置かれたために、夢を見ていないと思わされる時の二種類があるという考えだ。

 その考えは自分に都合のいい考えだ。しかし、似たような考えをごく最近、感じた気がした。

――そうだ、昨日の占い師――

 彼女も、言っていたではないか。

「都合の悪いことは聞かないようにしてください」

 その言葉を素直に聞けたのは、自分の夢への考え方に共鳴するものがあったからだ。そもそも昨日の占い師との出会いは、どこか現実離れしたところがあった。梨乃の中であまりにも都合よく感じられたような気がしてならない。

 占い師の言ったことをそのまま信じていいのか分からなかったが、あの人は調子の良いことを言っていただけのようにも思う。しかし、考えてみれば吸い寄せられるように近づいていたことも、目の前に急に現れたことも、本当にただの偶然で片づけていいものなのだろうか。

「あなたは、これから占いの世界に深く関わっていくことになるかも知れませんね、占いだったり、おみくじだったりですね」

「巫女ということもありかも知れないということですか?」

「大いにあるかも知れせんね」

 梨乃は、占い師に会ったから気持ちが変わってきたのか、それとも最初からイメージとして巫女が頭の中にあったのか考えてみた。

 確かに、大学を卒業する時、巫女も考えたことがあった。

「あんた、どうして巫女とかの選択肢があるの? せっかく大学まで出たのに」

 と言われたことがあったが、

「いっぱい選択肢があるから、その中に巫女があってもおかしくないでしょう?」

 それも一つの理屈だと思っていた。選択肢があっただけで、もちろん、巫女になったわけではないので、その時の心境はすぐに忘れてしまったが、就職活動という人生でも大きな選択を迫られているという特異な精神状態の中で感じたことなので、その時の心境にもう一度なるというのは、無理なことである。

 ただ、占い師は、自分の勝手な意見だと言ったが、どうもそうではないように思えてならなかった。

――自分と同じものを感じたのかも知れない――

 と梨乃は思ったが、

――ひょっとして、自分の分身のような人なのかも知れない――

 実際にはいない人の夢でも見たような気がする。自分の分身というよりも「影」、占い師が影であるなら、逆に占い師が本物の自分で、影が梨乃の立場だったらどうだろう。違和感を感じることになるのだろうか。

 翌日、梨乃はおみくじを引いてみることにした。ちょうど会社が休みだったので、近くの神社に行き、さっそくおみくじを引いてみた。

 内容は、「小吉」、良くも悪くもないというところか。都合よくとれば、これからの進歩を伺わせる。内容を見ても、すべて条件付きではあるが、達成されるように書かれている。下手に大吉を引くよりもいいかも知れない。

 その日一日は、最初から予定もなかったので、のんびり過ごすことにした。家で本でも読もうと思っていた。

 本はいつでも読めるように、最初から買い置きをしている。三冊ほど、まだ読まれていない本があり、そのうちの一冊を読むことにした。

――今日は時間があるので、最初から最後まで順を追って読むようにしてみよう――

 最近読む本は、テレビで見たものの原作を読んでいるわけではない。相変わらずのミステリーで、読み方もくせが変わっているわけではないので、最初を読んで、すぐにラストを読みに行ってしまう。内容を知らないのに、ラストを読んでいると、まるで途中を最初から知っていたような錯覚に陥るから不思議で、しかも、想像していたような内容と、さほど変わらない途中であることは、実に不思議なことだった。

 それだけに、こういった「中落ち読書」が止められなくなっていた。「中落ち読書」というのは、梨乃が付けた読み方で、他に言い方があるのかどうか分からない。もっともこんな変な読み方をする人などいないであろうし、正規な読み方ではない読書法に、名前がついているとも思えない。梨乃はいつの間にか自分のこの読み方が正規の読み方だと勘違いしてしまっていたが、この日のように、一日ゆっくりと時間のある時は、

――普通の読み方というのをしてみてもいいかも知れないわ――

 と、たまに感じることもあった。

 しかし、結局やってみても、うまく行かないことが多かった。それでも今日もやってみようと思うのは、昨日からの占いやおみくじを気にすることで、心境に変化が生まれたのではないかと思ったからだ。

 今回読もうと思った本は、ミステリーの中でも少し変わっていた。

 変わっていたというよりも、梨乃が今まで読もうと思ったことのなかったジャンルで、ミステリーの中に恋愛物語が含まれている小説だった。

 作家もまだ二十代くらいの女流作家で、最近注目を浴び始めた。

 ミステリーと言っても、その中にもジャンルがある。ストーリー重視のものや、トリックを重視するもの、また、作家の特徴として、その作家独自のジャンルというものもある。

 たとえば、トラベルミステリーや、一人の弁護士や検事などを主人公にしたシリーズものなどというジャンルには、必ず第一人者がいて、それに続く作家がいたとしても、どうしても礎を築いた人の後追いにしか見えないと思っているのは、梨乃だけであろうか。

 梨乃は、神社から帰ってくると、シャワーを浴びて、部屋着に着替えた。そのままベッドに横になり、ステレオから音楽を掛けて、仰向けになって本を開いた。これがいつもの梨乃の読書だった。

 シャワーを浴びるかどうかは別にして、椅子に座ってみたりはせず、ベッドで仰向けになるのと、ステレオから音楽を流すのは同じであった。

 音楽はポップス調が多く、他の人なら、

「そんなの聴いてると、集中して本が読めないんじゃないの?」

 と言われるかも知れないが、

「私はこっちの方が集中するの、読書にも人それぞれあっていいんじゃないの」

 と答えるに違いない。

 確かに最初は集中できないと思った。しかし、静かな部屋でじっと本を読んでいると、却って気が散ってしまう。途中から耳鳴りが聞こえてくるのだが、耳鳴りも最初は同じ高さの音で響いているだけだったものが、途中から抑揚を持つように感じてくると、その強弱が、次第に自分の胸の鼓動とシンクロしているように感じる。そうなると、散ってくる気が、自分の胸の鼓動の方に集中しているのか、耳鳴りに集中しているのか分からなくなる。もう本を読める状況ではなくなってしまうのだった。

 ベッドで横になって、仰向けになると、天井を見つめることから始める。いきなり読書を始めようとしないのは、最初の頃からで、元々本を読むのは好きではなかった頃の名残が今も続いているのだ。

 本が好きではなかったからこそ、最初だけ読んですぐにラストの解決編を読もうとしてしまうのだということは自分でも分かっていた。逆にそうでもなければ、ラストから読もうなどと考えるはずもない。まわりの人に言えないのも、

「邪道だ」

 と言われることよりも、

「あなた、本当は読書が嫌いなんでしょう? 苦手だってハッキリ言いなさいよ」

 と、自分の性格を看破され、さらに詰め寄られることを嫌ったからだ。もしそんなことにでもなれば、二度と文庫本を開くこともないとさえ思っている。今では本というもの自体が好きで、読書も好きにはなってきたが、その次に来るものだったのだ。

 いつものように、横になって天井を見ていた。天井の模様は独特で、見れば見るほど天井が迫ってくるように思えてくる。錯覚から身体が急にビックリしたかのようにビクンとなることがあるが、それまではまるで金縛りに遭ったかのように、微動だにしない自分に焦りを感じたりした。

 それでも、今ではそんな時間も貴重に感じられるようになった。日ごろの生活が次第に変化のない毎日に感じられ、一日一日がどんなに長く感じられようとも、一週間、一か月と長期で考えるとあっという間に流れてしまうそんな時間に、何か合点のいかない思いを感じていたが、それを口に出して説明することができなかった。

 その日も天井の落下してくる錯覚にビクンと身体を反応させることで、身体がやっと眠りから覚めた気がした。その日の朝は神社まで行き、さっきシャワーを浴びたにも関わらずである。

――まるで朝の出来事が、すべて夢の中でのことでもあったかのようにしてしまいたいと自分で感じているからかしら?

 と、これも勝手な妄想に近い発想が頭を過ぎると、梨乃はベッドの横に置いてあった文庫本を手探りで手繰り寄せると、一ページ目から開き始めた。

――本を読むと眠くなるので、眠くならないための刺激だったのかも知れないわ――

 と、天井落下の錯覚を思い返して、ほくそ笑んだ。気持ちを変えようとしたのに、気持ちが一つ前に戻っていたのだ。こういうことは今までにはなかったことだ。そういう意味でも、今日は小説を頭から順序立てて読むことができるのではないかと感じたのだ。

 小説の序盤は、まだ恋愛の雰囲気を感じさせるものではなかった。ミステリーの様相は呈していたが、恋愛を感じさせないことで、思わずラストを読みたくなったほどだが、小説に恋愛モードがあるというのであれば、ラストを読みに行ってしまっては、本を読んでいる意味がないと思い、何とか堪えた。

 承の部分に差し掛かると、それらしい雰囲気が見えてきた。恋愛というと、最初ほのぼのとしたものを感じたが、恋愛小説にありがちな、ドロドロとしたもののようで、読み進むにつれて、少し嫌な気分になりかけていたが、ここまで読んでくると、途中で止めるのも嫌だった。

 元々、恋愛小説を読む気がしなかったのは、ドロドロとした部分を見たくないという思いがあったからだ。自分が経験したことのない世界を覗きたいと思っている人たちとは違って、自分が経験したものでなければ、ドロドロとしたものは受け付けられないと思っていた。ミステリーを読む時に、ラストから逆読みしてしまうのは、そういう思いがあるからなのかも知れない。トリックや解決編を見ておくことで、途中の雰囲気を先に感じることができると思ったからではないか、そう思うと、自分が先に解決編を読みたくなる理由も分からなくもない。

 ミステリーでも恋愛モノを読んでみようと思ったのは、

――今なら、普通の読み方ができるようになるかも知れない――

 と思ったからだ。

 最近では端折って読む癖もついてしまい、せっかく本を読んでいても、本当の醍醐味を味わえていないのではないかと思えてならなかった。今日は何とか、端折らずに本を読んでいくと、次第にストーリーに嵌りこんでいくのが分かる。自分はあくまでも第三者として表から見ていたはずなのに、いつの間にか主人公になったかのような錯覚を覚えたりする。

 それは主人公が男性であっても女性であっても同じだ。不思議なことに主人公が男性である方が、主人公の気持ちが分かる気がした。

――きっと、第三者として見ている自分と、主人公として入り込んだ自分に、気持ちの上での接点がないことで、スムーズに物語に入っていけるのかも知れない――

「本を読んでいると、眠くなってしまうのよね」

 と言っている友達がいた。

 梨乃は、今まで本を読んでいて眠くなったという経験はあまりない。受験勉強をしていて眠くなることはあったが、それはきっと、好きでもないことをしているから眠くなるのではないだろうか。

 そう思っていると、自分が本当は読書好きなのだろうということを再認識した。

 本当は、読書など好きではなかった。ラストから読んでしまうのはそのせいだと思っていたくらいだ。サスペンス劇場を見ることで原作も読んでみたいと思っただけで、テレビで見た内容との違いを感じるだけでよかったのだ。そう考えると、読書が好きだったという根拠はどこにもなかった。

 だが、今から思えば、読書をしている時間を結構楽しんでいたような気がする。

 友達といる時間は、どうしても人と共有している時間ということで、あまり自分で満足できる時間ではなかったはずだ。しかし、一人の時間というのは自分だけのもの。誰に邪魔されることがないという反面、時間に対しての責任も自分にある。

 もちろん一人でいる間にそこまで考えることはないが、一人でいて一番最初に感じてしまうことは、

――寂しい――

 という感情である。

 明らかにネガティブな考え方だ。だが、逆に考えれば、これ以上嫌なものはない。やりようによってはいくらでも変えることができるのだ。すべては、考え方だった。

――モノは考えよう――

 というではないか。

 梨乃は、自分が感じていた寂しさを、忘れようとは思わなかった。確かに、寂しさを正面から生真面目に受け止めてしまっては、落ち込んでしまうだろう。それを少しでも考え方を変えることで、

――いかに寂しくないようにすればいいか――

 だけを見つめればいい。何をしても、今よりも悪くなることはないと思えば気も楽になるというものだ。

 その一つが読書だった。

 あまり楽しくないと思っていた読書だったが、後から思い返すと、そうでもないことに気付かされる。

 たとえば、今日のようにベッドに横になって本を読んでいると、天井が落ちてくる感覚を感じることで、その感覚を持ったまま小説を読むと、それまでと違った感覚が芽生えてくる。

 それはテレビで見た内容とは似ても似つかない感覚。小説というものが、自分の感覚で読むことで、いくらでも発想できることが分かった。

――発想は、いくらしたってかまやしない。誰に迷惑を掛けるわけではない。自分の中でいろいろな想像をするのが、こんなに楽しいことだったなんて、今まで知らなかった――

 と思った。

 知らなかったことを知らされることは新しい発見であり、発見は、今までになかったものを

――新しく作り上げること――

 と似ているように思えた。

 梨乃は、その時に自分が、

――何もないところから新しいモノを作るのが好きだ――

 という性格であることに気付かされた。

 占いやおみくじに凝りたくなったのも分からないわけではないような気がした。

――ゲンを担ぐというが、そういう意味なのかも知れないわね――

 と思った。

 ゲンを担ぐというと、スポーツ選手などのような勝負師の人たちがよく口にすることであるが、何か新しい目標を持っている人すべてに言えるものではないかと、梨乃は考えるのだった。

 梨乃は、いろいろなことを考えながら本を読んでいると、不思議と、本の内容が自分の考えている方向にどんどん向かっているのを感じた。

――まるで私が考えて小説を書いているような気がしてくるくらいだわ――

 勢い込んで読み込んでいた。ただ、それは今までのように、端折って読んでいたり、ラストを読みたくなってしまったりという気持ちではない。順序立てて読んでいくことに満足していたのだ。

 ストーリーを思い浮かべるなど、読んでいて今までになかったことだ。何しろ小説を読み始めるきっかけになったのは、最初にテレビを見て、その原作を読みたいと思って読み始めたものだからである。

 読み始めると、ラストをある程度知っているだけに、端折ってしまうのも仕方がないというものだが、それだけではない。

 ゆっくり読むことに苛立ちを覚えていたのは、自分の性格によるものが大きいと思っていたが、

――小説を自分で書いていると思いながら読むこと――

 をイメージできなかったからだ。

――私はやっぱり、他の人とは違うのかも知れないわ――

 他の人は、小説を淡々と読んでいって、自分が小説の中に入り込んでいる気分になることが醍醐味だと話していた。

「私には分からないわ」

 と梨乃がいうと、

「それじゃあ、小説を読んでいても、面白くはないわね。ラストを読みたくなる気持ちも分からなくはないわ」

 本を読む時、ラストから読んでしまうことを友達に話すと、そう言って友達は答えてくれた。

――やはり、私は他の人とは違うんだ――

 とその時にハッキリと感じた。

 それは小説を読むことだけではない。他のことに対しても他の人との違いを大きく感じることが多い。しかし、それは願ってもないことで、梨乃自身の考え方が、

――他の人と同じでは嫌なんだ――

 と思うことであった。

 梨乃は、自分が小説を書いているつもりで読んでいると、小説の内容が似てくるのを感じたのか、それとも、小説の内容と似ていることを考えているのを分かったことで、小説を書いているようなイメージに達したのか分からない。それでも、この時間が今まで一番手に入れたかった、

――楽しい時間の理由――

 だということに気が付いて、ホッとした気分に陥り、久しぶりに大きな満足感と充実感に包まれていることを知ったのだ。

 急に梨乃に睡魔が訪れた。

――あら? 今まで本を読んでいる時に眠くなるなんてことなかったはずなのに――

 しかも、眠くなるのは、楽しくないことをしている時だとばかり思っていたがどうやら違うようだ。

――そうか、受験勉強でも同じなんだわ――

 梨乃が気がついたのは、目の前のことだけしか考えていなかったということだ。受験勉強も辛いというイメージしかなかったが、考えてみれば、勉強をしたあとに、満足感や充実感を味わうことができたはずではなかったか。それが睡魔に繋がったのではないかと思うと、梨乃は、やっと今まで何か心の中で閊えていたこと、つまり、合点のいかなかったことの一つが瓦解したように思い、少し気が晴れた気がしていたのだ。

――やっぱり、このまま眠ってしまいそうな気がするわ――

 と思うと、本を放り出して、天井を再度見つめている自分がいることを、まるで他人事のように感じていた。

――私、どうしたのかしら?

 ここまで睡魔が襲ってくると、いつ意識がなくなっても不思議のない状態だった。気がつけば眠ってしまっていたなどということも今までに何度もある。部屋の窓から薄日が差し込んでいて、

――朝なのかしら? 夕方なのかしら?

 と何度感じたことだろう。

 一旦眠り込んでしまうと、目が覚めてからどれだけ熟睡して、どれほどの時間が経ったのかなど、まったく意識できない。他の人に聞いてみると、

「そこまで熟睡できるなんて羨ましいわ」

 と言われることがあった。

 それだけ睡魔が襲ってくると、梨乃は意識が完全に飛んでしまうのだった。

 夢を見るのは、半々くらいであろうか? 目が覚めてから、

――これは夢だったんだわ――

 と感じることも何度もあり、夢というのが覚えているか、忘れてしまうかのどちらかだということを思い知らされた気がした。

 もちろん、忘れてしまったと思っていることも、記憶のどこかに残っているかも知れない。時々、

――あれは夢で見たような気がする――

 と、それまでまったく夢として意識していなかったことを、現実の世界で見たことから思い起すことがあるくらいだったからだ。夢の世界を垣間見ることなどできないだろうという気持ちは持っているが、夢を忘れずに覚えていたという時、

――見た夢に何か意味があるのかも知れないわ――

 と感じるのだ。

――ひょっとして、意味のない夢などまったくないのかも知れないわ――

 それは現実の世界よりも強い感覚である。その思いを支えているのは、

――夢とは、潜在意識が見せるものだ――

 という感覚があるからで、これは学生時代に友達から教えられた感覚だった。たまには友達の話を真面目に聞いてみるのもいいもので、人と話をする時も、自分にとっていいところだけを受け入れればいいと思うようになっていた。

 ただ、梨乃には、潜在意識という言葉の意味がいまいち分からない。そこまで自分をいつも考えているわけではないと思っているからだった。

 その日は今までにない睡眠だった。

 完全な熟睡をしていたはずである。それなのに、その日の夢を覚えているのだ。梨乃は熟睡していても、夢を覚えていることがあるが、完全な熟睡では夢を覚えているということはない。

――完全に熟睡していた――

 というわけではなく、

――完全な熟睡をしていた――

 のである。

 言葉は少し違った言い回しをするだけで、まったく違ったニュアンスを与える。

 完全な熟睡とは、途中で目が覚める素振りはまったくなく、目が覚めても、自分が寝ていたことすら、しばらく思い出せないほどの時のことを言う。実際には身体は目が覚めているのに、気持ちや意識がそこについていっていないのだ。

 完全に熟睡していたというのは、完全ではない熟睡ではあるが、熟睡していたことで、途中で目が覚めることはないが、目が覚めた時、眠っていたという意識はある。身体と意識がある程度一致している睡眠なのである。

 完全に熟睡している時は、身体と意識が一致していることで、夢を覚えているのだろう。潜在意識の存在を、夢から覚めた意識も認識できるからである。

 熟睡していて目が覚めた時、意識は忘れようとしている夢を何とか忘れるまでの延命努力をする。覚えている夢には意味があり、強く心に残っていることが、それからの自分の生活の中の近い将来、必ず影響してくることを感じさせるからだ。

 今日の目覚めは、

――完全な熟睡――

 であった。それなのに、夢を覚えているということは、それだけ夢の中と潜在意識の一致した部分が大きかったのか、それとも、これからの自分の生活に本当に影響してくるものなのかのどちらかではないだろうか。

 そう言えば、昨日は占い師に占ってもらった時、

「あなたは、占いに携わる」

 などと言われたではないか、将来に起こることを事前に予感したとしても、それは昨日の占いを裏付ける何かになるのではないかと思えたのだ。

 ただ、その日に見た夢は、未来のことではなかった。過去に起こったことを思い出させるもので、場面は中学時代だった。

 そう、あれは家族全員で、毎週夜の九時から、サスペンス劇場を見ていたちょうどあの頃のことだったのだ……。

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