第9話 荷物と彗星

 全員で港で佇んでいた。鮎川はずっと泣き続けていた。春野は今までの苦痛は無かったが、鮎川がずっとそれを本気で、確実に持ち続けていたこと、そして今それがさらに大きくなっていることがわかった。

 春野の手持ちにはこう言ったときの言葉などあるはずもなかった。きっと誰にもないだろう。

 だが、何も言わずにいるのもおかしいので精一杯考え、言葉を捻り出した。

 「それでも、好きだ」

 春野は鮎川の手をとった。自分がそうして欲しかったように。鮎川はまたさらに泣き出した。

 「私、人を、殺して、あなたを、裏切ったわ」

 「わかってる。でも、好きだよ」

 「私も好き…祐介…騙してごめんなさい…もう信じれないかもだけど、一緒に夕焼けをあの場所で見てたとき、私が世界で一番幸せだと思った。昔に一緒に帰ってたことを思い出しちゃった」

 「一緒に帰ってた頃は僕の方が泣き虫だった」

 「そうだったね…あの頃に戻りたい…私…酷いことをしたのに…怖いよ」

 覚悟は、あるかい、あのとき僕は罪を償うことを受け入れろ、程度の意味にしか考えていなかった。

 だが違った。僕は今彼女の苦しみを知りながら、どうすることも出来ず、しかし心と脳には刻まれ、もっと助けれたのだろうかという後悔に包まれ、おろせない荷物として背負っって行かなきゃいけないんだ。その覚悟のことだったんだ。

 僕は助かったはずなのに、大好きな人はいなくなってしまう。僕はどうすれば良かったんだろう。

 

 湊の前には八百屋と飯島が下唇を噛んで立っていた。我慢できなくなった八百屋が湊に掴み掛かろうとしたのを、飯島が止める。

 「お前、あんなに頑張ってた子より、ぽっと出の奴が可愛いのか」八百屋はドスのきいた小声を出した。

 「感情ではなく、本当のことを示しただけです」

 「あの子は頑張ってただろうが…俺は家に行っていたから知ってる。あの婆さんは最後の方ひどかったよ、見てられなかった」

 八百屋の目から涙が溢れる。

 「なあ…正しいのがそんなに偉いのか?」

 その瞬間、湊の脳裏には祖父の言葉が蘇った。

 正しいことは正しいだけだ、いつも正しいことが正解とは限らない。

 しかし、湊は毅然と答えた。

 「私も知っていますとも、彼女の溌剌とした笑顔も、皆さんそれが大好きだったことも、苦労していたことも、ですがそれでも人が人を殺めるのは正しい権利を飛び越えています。」

 湊は息を吸って続けた。

 「それでも気が収まらなければ、私を思い切り殴ってください。これを暴き、正しさを振りかざすに当たってそのくらいの覚悟はしてきましたから」

 八百屋は泣き崩れた。飯島も啜り泣いている。覚悟はしているつもりだったが、殴られずとも湊も数滴涙をこぼした。

 

 移送船を見送り、八百屋は湊の肩をポンと叩いて帰っていった。

 「当たって悪かった。あんた、意外と芯のある男だったんだな」

 その後ろ姿には、納得したいが心が許さぬ、と書いてある様だった。飯島も同じ様な背中で帰っていった。

 春野は湊に連れられ、暗くなっている喫茶店の前にきた。ノックすると、中の明かりが少しついて、ドアの鍵が空いた。中に入る。

 春野はいつもと同じカウンターに腰掛けた。湊はコートをかけ、手袋を外し、トランクケースと一緒にカウンターに置いた。店主はそれをゆっくりとしまい、日本酒の瓶とグラスが置かれ、小さな声でお疲れ様です、と添えた。そして春野の前にもアイスコーヒーが置かれた。

 完全な静寂が場をほぼ制圧していた。氷がグラスとぶつかる音、遠くに聞こえる波の音だけがする。

 「私の祖父は僧でした。悪ガキを捕まえては山奥で修行をさせていたそうです」

 春野は相槌を打たずに、聞くことに集中した。

 「うちは代々天狗の守り手の家系です。でも想像するような天狗ではなく、翼の生えた狗、狛犬みたいなものです。悪ガキたちに、悪いことをすると天の狛犬様に怒られる。正しく生きなさいと教えを解いたそうです」

 「天狗を馬鹿にしてすいませんでした」春野は湊の方を向き、頭を下げた。

 「いえ、いいんです。信じる訳ありません。祖父も晩年には信じない人たちに頭がおかしいと揶揄され、石を投げられたそうですから」

 湊はグラスを煽って空にし、瓶に手を伸ばしたが、そのまま瓶を持って立ち上がった。

 「少し散歩に付き合ってください」

 店を出て、湊と春野は沈みかけの夕焼けを横目に歩いて行った。その夕焼けを見て春野の頭には鮎川と歩いた日々が思い出された。

 「僕があのまま罪を被っていたら良かったのかと考えちゃいます」

 「そうしたら、今あなたが背負っているものを彼女が背負ったでしょうね」

 「これが正解だったってことですか」

 「私はこれが正しいと思って、代償も覚悟しましたから」

 歩いてるうちに祠へと着いた。湊は祠のお猪口へと手を伸ばし、ポケットから出した布で丁寧に拭いた。そして、持っていた酒をそこへ注いだ。

 「祖父は迫害を受け、自殺の道を取りました。ですが祖父もきっとそれを覚悟していたと思います」

 「難しい、です。僕がもっと話をしっかりしていれば葵はこうならなかったのかな、とか」

 湊から返事がなかったので顔を見ると、空を見ていた。空には流れ星、というには少し大きい彗星の様な筋が見えた。その姿は願いを乗せたくなるほど堂々としていた。

 「天狗はもともと、彗星の流れる音に怯えた人たちに、天でいぬが鳴いてる鳴き声だよと言って安心させた、みたいな話があります。いや、この島は星が綺麗に見えますね」

 「綺麗すぎる、感動した…」

 「私には光を背負ってるのに光から逃げ続けてる様にも見えるんです」

 「逃げ続けてる?」

 「まあ、だからあの壮大な彗星さえ逃げるんですから、背負いすぎずに逃げたり気負わなくていいんじゃないですか?」そう言って湊は笑った。

 湊さんはその後、家まで送ってくれた。疲れていてすぐに眠ってしまった。

 

 次の日、ドアのノックで起こされた。目を擦りながらドアを開けると、そこには八百屋がいた。

 「色々悪かったな、これ、食ってくれ」

 手の持つダンボールには野菜がたくさん入っていた。

 「お前に渡すのが、あの子も喜ぶだろ、ここ置くからな」

 八百屋は玄関口に段ボールを置くと、去っていった。それで昨日までのことは決して夢ではないことを思い知らされると共に、何か決意の様なものが込み上げた。野菜を部屋へと運び、家を出た。

 喫茶店に行くと、湊さんだけがいた。ゆっくりと歩き横へ座った。

 自分がが心機一転としただけだが、初めてここへきたことを思い出した。だが初めてきた時とは違うことがある。それは何も言わずとも僕の前にはアイスコーヒーが置かれていることだ。

 「おはよう、春野くん」

 「おはようございます、朝からお酒ですか」

 「これが本業だからね、副業はしばらく休みたいよ」

 「僕も仕事を探さなきゃ」

 「あー、そうだったね、んー、私の副業のお手伝いしないかい?」

 「え、いいんですか?」

 「色々なことがあるよ、少しはわかると思うけど」

 それを聞いて春野は少し返事に躊躇った。だが、顔をあげ、アイスコーヒーを煽った。

 「覚悟は出来てます」

 湊はそれを聞いて微笑んだ。湊と春野は乾杯をした。

 この日本一平和な島には、氷の音が響く。そしてここには美しい砂浜と夕焼け、そして天狗がいる。

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彗星の港 水川杏 @MizkawaAnz

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