第19話 最上ひかり

 俺はタタルカンでサウジアラビアカップを勝ち、タタルカンは一気に世代最強のマイラーとなった。しかし斎藤先生が倒れたことがショックで、ヒーローインタビューで泣いたのは覚えているが、何を言ったのかの記憶はない。


 岡田は岸と直談判したが、岸はキングオブキングスを譲らず、結局トウエイライトニンで出ることになった。俺は何としても天皇賞に出るべく、松平成克さんに電話をした。サンダーレーシングで天皇賞秋に出す馬がいるかどうかだ。


「もしもし、吉沢明人です」


「ああ、アキトくんか。斎藤先生のことは聞いてるよ」


「それでですけど、サンダーレーシングで天皇賞に出してもいい馬いますか?」


「出せる馬はいるけど、勝てるのかい?」


「勝ちます!」


 俺は言い切った。


「なら、今からそっちに顔を出すから美浦で待ってなよ」


「ありがとうございます!」


「いいって。この埋め合わせをいつかしてくれるなら」


 三時間後、成克さんは美穂トレセンの斎藤厩舎に顔を出した。


「待たせたね。じゃあ行こうか」


 俺は成克さんの後をついて美穂トレセンを歩く。


「ダービーは祭り、天皇賞こそ真のレース」


「なんです? それ」


「斎藤先生の座右の銘だよ」


「そんなこと言ってたんですか?」


 俺は訊き直した。


「そうだよ。だからステイヤー血統にこだわったんだよ。斎藤先生は。心肺能力は筋力とは違い、鍛えにくいからね」


「そうですね」


「ここだよ」


 俺は下妻厩舎の前まで来ていた。サンダーレーシングの馬が9割を超える厩舎だ。


「下妻先生はいるかな? 電話した件で」


 成克さんは厩務員に声をかける。


「少々お待ちください」


 厩務員は事務所に入ってしばらくすると白髪頭の下妻先生が顔を出した。


「これは成克さん。ようこそ。それとアキト君、斎藤先生から話は聞いてる。わたしはね、百勝超えたあたりで君に馬を回そうと思ってたんだ。成克さんにも頼まれてたからね」


「ありがとうございます」


 俺はもう半泣きだった。


「馬はこっちだよ。名前はジュダースクライ。サンダーレーシングの馬ということになってるけど、実際の馬主は最上ひかりさん。馬主にはなれなくてね、彼女。もちろんそっちにも話は通してある」


 下妻調教師と俺の前に一頭の青鹿毛が引かれてくる。記憶が確かなら牝馬ながら前年度皐月賞5着、NHKマイルを勝ち、菊花賞2着の有馬記念馬だ。


「こいつでいいかい?」


「もちろん。こんないい馬を回してもらえるなんて」


「そう、その感謝が大事だ。成克さんを失望させるようなジョッキーになってはいけないよ?」


「はい、ありがとうございます!」


 俺はもう泣きだしていた。俺のようなクズのために、奔走してくれる人が居る。それは得難いことだった。

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