第13話 雪 最後の夢

 十年前の夏を、覚えている。


 アキトは父に連れられ、病院に行った。母が体調を崩し、入院していたのだ。弘明はアキトをロビーに待たせ、母の主治医と話していた。その後アキトは父と母の見舞いに行き、アキトは言った。


「おかあさん、病気、はやく良くなるといいね」


「そうね」


 母は柔らかく微笑んだ。弘明は鼻をすすりながら涙を浮かべていた。


「どうしたの? お父さん?」


「いや、なんでもねえ。アキトがいい子にしてたら、母さんは良くなる。なぁ? 妙子」


「そうね。あなたもアキトも、体に気を付けてね」


 どこまでも柔らかかった母の微笑み。


 十年前の冬を、覚えている。


 競馬サークルでは評価が高かったものの、G1はまだ弘明は取っていなかった。そんな弘明に一頭の代理騎乗の依頼が来た。神野五郎が騎乗停止で、その馬のデビュー戦に乗れなくなったのだという。その黒鹿毛の名はカイゼルガイスト。岡田はその馬体を見るなり即答で乗ると決めた。


 一方で、妻の妙子は今週が山だと医師に言われた。白血病の末期だった。


 十年前の冬の、雪の日を忘れない。


 ずっと眠っていた母さんが、久しぶりに起きていた。僕はリンゴを剥いて食べさせてあげて、学校の話を一杯した。雪がちらついていた。母さんはこう言ったんだ。


「アキト、雪を見せて?」


 僕はおばさんの方を見た。おばさんからお母さんの具合が良くないと聞かされていたからだ。


「アキトちゃん、妙子に雪を見せてげあげて」


「うん」


 僕はカーテンの所まで行き、雪をお母さんに見せてあげた。深々と降り積もる雪で、街はどこも一面銀世界だった。


「ありがとう、アキト。綺麗な雪ね」


「取ってきあげようか?」


「いいの?」


「うん!」


 僕は病室を出て、雪を取りに行った。小さい雪だるまを作って、お母さんにわたそうと思った。病室に戻ると、お医者さんと看護士さんが寝ているお母さんを診ていた。さっきまで起きてたのに、そう思って僕は言った。


「お母さん、雪だるま!」


「アキトちゃん、お母さんはね、お母さんはね……」


 僕は雪を憎んでいる。あの日の天気が雪だから、僕は余計なことをして、大事なことを訊き忘れたのだ。


「お母さんの夢は何?」


 お母さんの病気が治らず、死んでしまうのだということが心のどこかにいつもあった。お母さんの夢を叶えてあげたかった。


 俺は雪を探している。俺はそれとなく妙子に訊いた。


「妙子、俺にできることならなんでもやる。言ってくれ。最後の夢を」


「ありがとう、あなた。わたしの一番目の願いをあなたはもう叶えてくれた。それがアキト。二番目の夢はあなた一人じゃ叶えられないわ。私の夢はね、雪の降る有馬記念。あなたとアキトが、同じ競馬場で全力で戦う事。あの子はきっとあなたを恨む。だからあの子に、あなたが見ている夢を見せてあげて。日本一のジョッキーになって、アキトにその背中を見せて上げて?」


「そんな……ことでいいのか?」


「泣き虫なのはアキトと同じね。私はあなたとアキトと過ごせて、幸せだった」


 その日から、俺はずっと雪が降るのを待っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る